2018年10月7日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

マルコによる福音書 第14章32~42節

 

 32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心(みこころ)に適うことが行われますように。」37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 

「御心(みこころ)の成ることを~主の祈り④」

 

今週も、主イエスが復活された主の日の朝に、共に礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。

今、この時、共に主の前に跪(ひざまず)き、過ぎた一週間の間に、主なる神にそして隣人に犯した罪を告白し、赦しを乞いましょう。ローマの信徒への手紙 第8章1節、2節の言葉を皆さんにお告げします。「1 今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

今、罪の赦しの宣言を受けられ、罪と死から解放された皆さんに、聖書の祝福の言葉をお贈りします。エフェソの信徒への手紙 第6章24節の言葉です。「恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。」

 主の祈りの言葉を少しずつ区切って、そこに込められた深い意味を、ご一緒に探っています。本日は四回目です。先ほどその「主の祈り」をご一緒祈りました。こう祈りました。

   天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ、ねがわくはみ名(な)をあがめさせたまえ。

み国(くに)を来(き)たらせたまえ。

みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ。

我(われ)らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与(あた)えたまえ。

我(われ)らに罪(つみ)をおかす者(もの)を我(われ)らがゆるすごとく、我(われ)らの罪(つみ)をもゆるしたまえ。

我(われ)らをこころみにあわせず、悪(あく)より救(すく)い出(いだ)したまえ。

国(くに)とちからと栄(さか)えとは、限(かぎ)りなくなんじのものなればなり。アーメン。

本日は、この「主の祈り」の第三の祈り、「みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ」との言葉に焦点を当ててまいります。

 今、私は「みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ」と申しました。皆さんもそのようにお祈りなさったことと思います。週報の裏面にもそう印刷してあります。しかし、「地にもならせたまえ」と覚えておられる方もあるかもしれません。どうも、日本の教会ではその両方があって、いささか混乱があるようです。ただ「天に成る」との言葉から言えば、「ならせたまえ」と言うべきだと考える方もあるようです。確かにそうとも言えるでしょう。では、今私どもが使っています新共同訳聖書では、どう言っているでしょうか。私どもが祈っています「主の祈り」の元になっていますマタイによる福音書の第6章10節のこの部分は、こう訳されています。

   御心(みこころ)が行われますように、

    天におけるように地の上にも。

 この「行われますように」と訳されているギリシア語の原文からは、「ならせたまえ」と言う方が近いようです。そして、いろいろな国で、どのように「主の祈り」が祈られているか、ある方が調べましたところでも、その部分を日本語に翻訳しますと「ならせたまえ」となる場合が多かったそうです。

 「ならせたまえ」の「成る」とは、言い換えれば、「成就する」ということです。御心(みこころ)が天において成就するように、地上でも御心(みこころ)が成就しますようにとの祈りです。この成就するという言葉をもっと普段使っている言葉にしますと、「実現する」ということです。そして、元のギリシア語を直訳すると、「出来事となるように」ということだそうです。ですから、神が欲しておられることが、その通りに「起こりますように」との祈りなのです。神の御心(みこころ)の内にあるものが、そこに留まったままになるのではなく、外に出て来て実を結ぶ、実現する、具体的になるということです。神よ、御心(みこころ)の中にあることをきちんと実行してください、ということです。

 今申しましたのは、「なさせたまえ」か「ならせたまえ」か、そのどちらかという問題ではなく、その言葉に込められた意味、遡(さかのぼ)って元のギリシア語に込められた意味を知っておきたいと思い、申し上げました。

ところで、この三番目の祈り、「みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ」との祈りは、その前の二つの祈り、「ねがわくはみ名(な)をあがめさせたまえ」や「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」と比べまして少々長い言葉になっています。そこで、「御心(みこころ)をなさせたまえ」でも、よさそうにも思えてしまいます。

そこで、なぜ、「御心(みこころ)の天になるごとく」との言葉が入っているのでしょうか。その一つの答えのヒントとなる言葉が、ハイデルベルク信仰問答の中にあります。ハイデルベルク信仰問答は、改革派の信仰問答です。教会改革者カルヴァンの影響を最も受けている教派である改革派の信仰を分かり易く示したものです。ただし、他の教派でも読まれ、愛されている信仰問答です。その第124番目の問いでは、「主の祈りの第三の求めは何ですか」と問うています。答えはこうです。「みこころの天になるごとく地にもならせたまえ、です。それは、われわれおよびすべての人間が、自分の意志を捨てて、ただひとり善なるあなたの意志に、いかなる抵抗をもなすことなく、聞き従う者となり、かくて、すべての者が、自らの持場(もちば)と職を、天にいるみ使いのごとく、喜んでまた忠実に、つとめる者とならせて下さい、ということであります。」そのように答えるのです。ですから、「天になるごとく地にも」とは、ここでは、み使いすなわち天使が、天において喜んで忠実に主なる神にお仕えしているように、私どもも喜んで忠実に、自分の役割をつとめる者とならせて下さいということなのです。かつて、このハイデルベルク信仰問答の言葉を初めて聞いて、自分もみ使い、天使のようになれると思い、愉快な気持ちになったとおっしゃる方もいます。私どもも、主なる神のみもとにいるみ使いのように、神のご命令に従順に聞き従うものとなるということなのです。私どもの教会員の中に、み使いガブリエルから名前を頂いたガブリエルさんがおられます。キリスト者の中には、他に、ミカエルから名前をもらったミヒャエルさん、マイケルさんもおられます。そのような名前の方は勿論、そうでない人も、ハイデルベルク信仰問答の言葉に従えば、み使い、天使のようになれるのです。素晴らしいことです。

そのように、ハイデルベルク信仰問答によれば、「みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ」とは、神にお任せしてしまうだけ、という少々消極的な意味ではないことを教えられます。自分の意志を捨てて、ただひとり善なるあなたの意志に、いかなる抵抗をもなすことなく、聞き従う者となるのです。自ら積極的に神に聞き従うということなのです。しかも、自分の意志を捨てるのです。抵抗することなく、聞き従うのです。天使が自分の務めを忠実に果たすように、自分の意志、計画を捨て、主イエスの十二弟子のように、主イエスにつき従うのです。

その意味で、主イエスご自身がお手本を示してくださいました。先ほど朗読しましたルカによる福音書 第14章のゲツセマネの祈りと言われる祈りの中にありました。36節です。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心(みこころ)に適うことが行われますように。」ここで言われている「杯」とは、苦難、苦しみです。具体的には十字架に架けられることです。主イエスも出来るなら、十字架に架けられたくなかったのです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心(みこころ)に適うことが行われますように」と主イエスは祈られたのです。まさに、主の祈りで、私どもにこのように祈りなさいと教えてくださった通りに、主イエスは御自分でも祈り、父なる神に、御心に従われたのです。

このように、主の祈りとは、主イエスが弟子たち、私どもに、このように祈りなさいとお教え下さった祈りである以前に、主イエスご自身が祈り、その祈りの言葉に忠実に生きられた主イエスご自身の祈りなのです。そのようにして、主イエスが私どもに先駆けて、祈り、その祈りを生きるお手本を示してくださった祈りなのです。しかも、私どもにもそのように祈り、そのように生きよ、と勧めてくださっているのです。

キリスト者の生き方として、キリストに倣って生きる、キリストの歩まれた道をキリストのあとをついて行くように生きる生き方があります。とても大切なことです。多くのキリスト者がキリストに倣い従う生き方を心がけています。その生き方を短くまとめたものが主の祈りだとも言えるでしょう。主の祈りを繰り返し祈り、そのように生きようと努めることが、まさにキリストに倣って、キリストの歩まれた道に従って、道であるキリストに従って歩むことなのです。ですから、キリスト教会の使徒たちに続く指導者であった教父、教える父と書く教父がキリスト者たちに日に何度も主の祈りを祈るように勧めたのも、キリストに倣って生きるためだったのでしょう。

それは、ハイデルベルク信仰問答が、「すべての者が、自らの持場(もちば)と職を、天にいるみ使いのごとく、喜んでまた忠実に、つとめる者とならせて下さい、ということであります」と言うように、自らの持場と職をつとめるのです。しかも、喜んで忠実にです。それは、日々の自分のつとめを、日常のはたらきを、主のみ使いのように、御心の実現のためとして、喜んで忠実に行うことなのです。このごく当たり前のことをしっかりと行うことが「主の祈り」を生きることなのです。しかも喜んで。主なる神に用いられている、自分も、神の御業の一翼を担わされていることを光栄に思いつつ、行うことが、「みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ」と祈りつつ生きていくことなのです。

さて、今紹介しましたハイデルベルク信仰問答の答えの前半ではこう言われていました。「それは、われわれおよびすべての人間が、自分の意志を捨てて、ただひとり善なるあなたの意志に、いかなる抵抗をもなすことなく、聞き従う者となり、・・・」。まさしく、主イエスはそのようにして、十字架に向かわれたのです。ご自分の死を受け入れられたのです。そう思うと、「みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ」と祈りの厳しさを感じずにはいられません。自分の意志を捨てること、志を捨てること、それは辛いことです。世の中では、高い志を持って、それを実現した人たちが賞賛されます。苦しくても、志を貫くことが貴いことだとされていいます。では、ここでは、それが否定されているのでしょうか。いいえ、そうではありません。信仰に生きる、主なる神を、キリストを信頼して生きるとは、御心に沿わない自分の意志は捨てるということなのです。神を信頼し、従って生きるということは、それを第一の意志とすることです。第一の志とすることです。それに反する思いは、置いておき、神を信頼して生きるという意志を貫く、志を貫くことなのです。それが、ハイデルベルク信仰問答が言うように、「神のご意志に、いかなる抵抗をもなすことなく、聞き従う者となる」ことです。思うに、信仰に生きると決めた者にとって、神への絶対的な信頼を置いて生きると心に決めた者にとって、そのように志を貫けられることは、何と幸いなこことでしょう。その喜びを味わいつつ、「みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ」と祈り、日々の務めに励みたいものです。

そのようにして、父なる神に、御子主イエスに従って生きることは、マタイによる福音書 第16章24節の主イエスの言葉に従って生きることでもあります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」主イエスは私どものために、私どもの救いのために、十字架を背負って、ゴルゴタに向かわれました。私どもも、主イエスに従いたい、主イエスの弟子として生きたいと願うならば、自分の十字架、主なる神のため、誰か他の人のための苦しみを背負って主イエスに従わなければならないのです。これも厳しい言葉です。信仰に生きることは、最終的に、神のくださる救いに、祝福に至るのですが、その途中の道は、決して楽ではないのです。望まない苦しみ、悲しみを背負わなければならないのです。それでも、ゴールにある何にも代えがたい救いの祝福をしっかりと見つめながら、そこから目を反らすことなく、しっかり進んでいくなら、この上ない栄光を神は用意してくださっているのです。

そのようにして、栄光の冠を受ける者は、詩編 第103篇20節、21節の賛美の言葉をもって、迎え入れられることでしょう。「20 御使いたちよ、主をたたえよ/主の語られる声を聞き/御言葉を成し遂げるものよ/力ある勇士たちよ。/ 21 主の万軍よ、主をたたえよ/御もとに仕え、御旨を果たすものよ。」そのように、私どもは「御言葉を成し遂げるもの」「御旨を果たすもの」と呼ばれるのです。何と光栄なことでしょう。

本日、聖餐式の終わりに、讃美歌338番を賛美します。1節はこうです。「主よ、おわりまで 仕えまつらん、/みそばはなれず おらせたまえ/世のたたかいは はげしくとも、/御旗(みはた)のもとに おらせたまえ。」確かに、生きていくこと自体が戦いです。時には倒れてしまうこともあるでしょう。しかし、最後まで、主よ、あなたに仕え従っていきたい。ですから、あなたのおそばにおらせてください。信仰の御旗(みはた)のもとにおらせてください、と歌うのです。「みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ」と祈りつつ、日々の務めに励み生きている信仰者の姿がそこにあります。そして、最後の4節では、こう歌うのです。「主よ、今ここに ちかいをたて/しもべとなりて つかえまつる/よにあるかぎり このこころを/つねにかわらず もたせたまえ。」私どもも、主イエスの僕となる誓いをたて、弟子となる誓いを立てて、主に従っています。その志を、終わりまで、貫けますようにと祈りたいものです。

「みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ」と祈りつつ、そして、讃美歌338番のように賛美を捧げつつ、私どもも日々の務めに励み、主イエスに従ってまいりましょう。

お祈りを致します。

 

 私どもに主の祈りを教えてくださり、その祈りに生きるお手本を示してくださいました主イエス・キリスト、その主イエス・キリストを私どものところにお送りくださいました父なる神よ。どんな時も、「みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ」と祈り続ける者とさせてください。どんな時もあなたを信頼して歩めますように。御心のなることこそ、私どもの幸いであるとの確信を、いつも強く持って歩めますように、どうか私どもをお恵みお導きください。主イエスに倣って、主の祈りを生きる信仰者としてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

2018年10月14日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第18章1~7節

 

 1 災いだ、遠くクシュの川のかなたで/羽の音を立てている国は。/ 2 彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ/海を渡って使節を遣わす。行け、足の速い使者たちよ。背高く、肌の滑らかな国/遠くの地でも恐れられている民へ。強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国へ。/ 3 世界の住民、地上に住むすべての人よ/山に合図の旗が立てられたら、見るがよい/角笛が吹き鳴らされたら、聞くがよい。/ 4 主はわたしにこう言われた。「わたしは黙して/わたしの住む所から、目を注ごう。太陽よりも烈しく輝く熱のように/暑い刈り入れ時を脅かす雨雲のように。」/ 5 刈り入れ時の前に、花が終わり/花の房が実となり、熟し始めると/主は枝を刃物で切り落とし/つるを折り、取り去られる。/ 6 それはすべて、山の猛禽(もうきん)と野の獣に与えられる。猛禽(もうきん)は、それを餌(えさ)として夏を過ごし/野獣もすべて、それを餌(えさ)として冬を過ごす。/ 7 そのとき、貢ぎ物が万軍の主にもたらされる。背高く、肌の滑らかな民から/遠くの地でも恐れられている民から/強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国から/万軍の主の名が置かれた場所/シオンの山へもたらされる。

 

ルカによる福音書 第2章1~12節

 

 1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

 

「主なる神は黙し、目を注ぎ、御業を行われる。」

 

今週も、主イエスが復活された主の日の朝に、共に礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。

今、この時、共に主の前に跪(ひざまず)き、過ぎた一週間に、主なる神にそして隣人に犯した罪を告白し、赦しを乞いましょう。ローマの信徒への手紙 第8章1節、2節の言葉を皆さんにお告げします。「1 今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

今、罪の赦しの宣言を受けられ、罪と死から解放された皆さんに、聖書の祝福の言葉をお贈りします。フィリピの信徒への手紙 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 ご一緒にイザヤ書の言葉を聴き続けています。本日は第18章を与えられました。まずは、この箇所についての説明をさせて頂きます。

本日の箇所には、「クシュとの陰謀(いんぼう)」という小見出しがついています。「クシュ」とは、エチオピアです。時代は紀元前714年です。エチオピアの王シャコバはエジプトを征服して、エジプトの第25王朝の王、ファラオの位に即位します。一方、その年か、前年か、曖昧(あいまい)ですが、南北に分裂したイスラエルの南ユダ王国の王位にヒゼキヤが即位します。そして、エジプトのファラオとなったエチオピアのシャコバは、当時アッシリアの台頭に脅威をもっていたパレスチナの諸国を誘って、反アッシリア同盟を結成しようと動き始めていました。シャコバは使い者を、南ユダ王国の王ヒゼキヤに派遣し、一緒にアッシリアに抵抗しようと呼びかけます。本日の小見出しの「クシュとの陰謀」とは、このことを指しています。クシュ、すなわちエチオピア、その王で、今はエジプトのファラオでもあるシャコバが、南ユダ王国のヒゼキヤに、アッシアに対抗するために手を組もうと提案してきたのです。ですから、「クシュとの陰謀」とは、クシュの王から誘われた反アッシリアの陰謀」ということです。

ただ、このような動きは、アッシリアの王サルゴン二世の耳に入ってしまいます。もちろん、サルゴン二世は怒り、軍隊を遣わし、ペリシテの町アシュトドを襲って、反アッシリアの動きを封じ込み、反アッシリア同盟を消滅させます。そして、サルゴン二世は鎮圧した国々に、強硬手段をもって臨みます。しかし、南ユダ王国だけは処分保留とされます。それは、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、反アッシリア同盟に深入りしなかったためです。たぶん、この頃、ヒゼキヤの側(そば)にイザヤがいて、彼の言葉を聴き、それに従って、反アシリア同盟に距離を置いていたのだと思われます。

イザヤ書 第18章の言葉を、少しずつ聴いてまいりましょう。1節「災いだ、遠くクシュの川のかなたで/羽の音を立てている国は。」「災いだ」と訳されている言葉は、元のヘブライ語では、「ホーイ」という言葉で、「呪い」の言葉です。良くないことが起こることを預言しています。そして、先ほども述べましたように、「クシュ」は、エチオピアです。「羽の音」とは、昆虫の羽の音のことで、エチオピアは昆虫が多かったからだとも、「羽の音をたてている」とは、これから行われる国際的な陰謀が始まっていることを言っているとも言われます。

2節、「彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ/海を渡って使節を遣わす。行け、足の速い使者たちよ。背高く、肌の滑らかな国/遠くの地でも恐れられている民へ。強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国へ。」2節前半、「彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ/海を渡って使節を遣わす。」エチオピアはパピルスで造った舟で、のちにアッシリアに襲われるアシュトドをはじめとする諸国に、反アッシリア同盟への加入を求め、使節を送ることを言っています。続く「行け」は逆の「帰れ」の意味だそうです。そして、呼びかけている「背高く、肌の滑らかな国/遠くの地でも恐れられている民へ」は、エチオピア人のことを言っています。「背が高い」「肌が滑らか」「恐れられている民」です。他の資料でもエチオピア人はそのように言われていたようです。

続く3節ではこう言われます。「世界の住民、地上に住むすべての人よ/山に合図の旗が立てられたら、見るがよい/角笛が吹き鳴らされたら、聞くがよい。」「合図の旗」「角笛」は、闘う戦士を集めることや、戦争の開始を意味する言葉です。兵士が呼び集められ、戦争が始まるのです。

そして、4節から6節です。「主はわたしにこう言われた。『4 わたしは黙して/わたしの住む所から、目を注ごう。太陽よりも烈しく輝く熱のように/暑い刈り入れ時を脅かす雨雲のように。』 / 5 刈り入れ時の前に、花が終わり/花の房が実となり、熟し始めると/主は枝を刃物で切り落とし/つるを折り、取り去られる。/ 6 それはすべて、山の猛禽(もうきん)と野の獣に与えられる。猛禽(もうきん)は、それを餌(えさ)として夏を過ごし/野獣もすべて、それを餌(えさ)として冬を過ごす。』

4節で、主なる神はおっしゃいます。「わたしは黙して/わたしの住む所から、目を注ごう。」本日の説教題の前半はここから取りました。そして、5節の後半の「主は枝を刃物で切り落とし/つるを折り、取り去られる」を、説教題では、「御業を行われる」としました。「主は枝を刃物で切り落とし/つるを折り、取り去られる」とは、果実の収穫に際し、余計なものを「切り落とし」「折り」「取り去る」ことから、主なる神の審(さば)きの比喩(ひゆ)となっています。審(さば)かれる者は、「切り落とされ」「折られ」「取り去られる」のです。神は黙って、この世の起こっていることを見られ、審(さば)きを行われるのです。それは、アッシリアによって、アシュトドなどが滅ぼされることで、成就するのです。でも、先程も申しましたように、この預言を聞き入れたヒゼキヤと南ユダ王国は審(さば)きを免れるのです。

最後の7節は、「そのとき」と始まります。これは終わりの時、終末のことだと言われます。こうです。「そのとき、貢ぎ物が万軍の主にもたらされる。背高く、肌の滑らかな民から/遠くの地でも恐れられている民から/強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国から/万軍の主の名が置かれた場所/シオンの山へもたらされる。」終わりの時、この時とは状況が一変して、万軍の主なる神が、その力を表されて、エチオピア、エジプト、その他の国々から、万軍の主なる神に捧げ物を持って来るようになるのだ、と言っています。この7節は、終わりの時の主の栄光を望み見て、どんな時も主なる神に従って行くようにとのメッセージと思われます。

ここでは、直接的には言われていませんが、イザヤの預言は、クシュとの陰謀に乗って、アッシリアに対抗することを踏み留まらせるものでした。策略を持って、うまく生き抜こうとするのではなく、主なる神の御心がどこにあるかを探り、従って行くことを、ここから教えられます。

 本日は、ルカによる福音書 第2章も朗読して頂きました。ここには二人の王が登場します。一人は、当時、絶大な勢力を持っていた皇帝アウグストゥスです。そして、もう一人は、生まれたばかりの赤ちゃんの主イエスです。この時の二人の王の力の差は歴然としています。当時、ローマ世界では、アウグストゥスの誕生日をお祝いしたそうです。しかし、今日(こんにち)そうしている人はいません。一方の主イエスの誕生日はクリスマスとして、多くの人がお祝いしています。人の力の限界と神のなさることの偉大さがここにも現れています。私どもは、この時、小さな赤ちゃんだった主イエスを救い主、世界の王として、従っているのです。

 では、私どもは、主イエス・キリストのお父様で、偉大な神の御心に従って歩むにはどうしたらよいのでしょうか。

今、教会学校では、詩編の言葉を聴いています。その最初のところ、詩編 第1篇の冒頭が神の御心に従って歩む人の姿を教えてくれています。

   1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず

   2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。

 ここでは、イザヤ書 第18章の「災いだ」の反対で、「いかに幸いなことか」と始まっています。神に従っていて、幸いな人は、「神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず」なのです。悪の仲間に入らないのです。イザヤ書で言えば、クシュとの陰謀に入らないことです。

 人とうまく付き合うことは、人とうまくやっていくことは、大切なことでしょう。周りの空気を読むことが大切な時もあるでしょう。しかし、悪の仲間になってはならないのです。傲慢な者の仲間になってはならないのです。時には、一緒にやってくれる人がいなくても、「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」となるべきなのです。どんな時も、主なる神に従うことを第一とするのが、キリスト者の生き方なのではないでしょうか。

 本日の説教題は、「主なる神は黙し、目を注ぎ、御業を行われる」です。これは、主なる神が行われることですが、私どもも、主に倣って、黙り、物事をじっと見ることで、神の御心がどこにあるか知ることが出来るのはないと、私は思います。

 使徒言行録 第5章27節以下にこういう記事があります。少々長いですがお読みします。

27 彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。28 「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」29 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。31 神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。32 わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」33 これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。34 ところが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、35 それから、議員たちにこう言った。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。36 以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数四百人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。37 その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。38 そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、39 神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、40 使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。

 ここにパウロの先生であるガマリエルが登場します。彼は、使徒たちがどうなるか見ていようと言うのです。他の人たちは使徒たちをどうにかしようと躍起になっていたのに、ガマリエルは冷静になって、これからどうなるか見ていこうと提案し、皆はそれを受け入れるのです。

 私どもは、何か心配になると、じっとしていられず、どうにかしようとします。イザヤ書のクシュもそうでした。アッシリアに滅ぼされるアシュトドもそうでした。黙って、様子をじっと見ることが出来ませんでした。しかし、一方のユダ王国のヒゼキヤは、預言者イザヤの言葉を聴き、主なる神の言葉を聴き、黙って、これから起こることをじっと見たのです。

 私どもは生きていれば、日々、いろいろな問題とぶつかります。しばしば、その時、慌ててしまいます。しかし、信仰に生きようとするなら、心を静め、祈り、主の御心がどこにあるか求めてまいりましょう。その時、黙し、出来事を静かに見る目を主に与えていだきましょう。

 皆さんの信仰の歩みが主なる神にいつも導かれますように。

お祈りを致します。

 

 私どもを日々お守りくださいます主なる神よ。私どもの生きている世界にはいろいろな出来事があります。そして、しばしば、心を騒がせてしまいます。そのような弱い私どもです。どうか私どもを恵み、お導きください。どうぞ、主の御心がどこにあるか常に祈り求め、主に倣って従う信仰者としてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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