日本バプテスト厚木教会
Iglesia Bautista Japonesa de Atsugi
JAPAN BAPTIST ATSUGI CHURCH
2018年9月2日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
ルカによる福音書 第1章49~55節
46 そこで、マリアは言った。47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。/ 48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、/ 49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、/ 50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、/ 52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、/ 53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。/ 54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、/ 55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
ルカによる福音書 第11章1~4節
1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇(あが)められますように。御国が来ますように。/ 3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。/ 4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
「み名の崇(あが)められることを~主の祈り②」
今週も、主イエスが復活された主の日の朝に、共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝致しております。
今、この時、共に主の前に跪(ひざまず)き、過ぎた一週間の間に、主なる神に、そして隣人に犯した罪を告白し、赦していただきましょう。ローマの信徒への手紙 第8章1節、2節の言葉です。「1 今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」
今、罪の赦しの宣言を受けられ、罪と死から解放された皆さんに、聖書の祝福の言葉をお贈りします。ガラテヤの信徒への手紙 第1章3節の言葉です。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
本日の週報でお知らせしていますように、私どもの信仰の兄弟姉妹である、森野さんと井一さんご家族が今深い悲しみの中におられます。大切なご家族を失い、言葉では言い表せない深い悲しみを抱かれています。どうぞ、皆さんもお祈り下さい。森野さんご家族と井一さんご家族に、主の憐みとお慰めがありますよう、お祈り下さい。
先日から、「主の祈り」の説教を始めました。本日は二回目です。先ほどその「主の祈り」をご一緒に致しました。こう祈りました。
天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ、ねがわくはみ名(な)をあがめさせたまえ。
み国(くに)を来(き)たらせたまえ。
みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ。
我(われ)らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与(あた)えたまえ。
我(われ)らに罪(つみ)をおかす者(もの)を我(われ)らがゆるすごとく、我(われ)らの罪(つみ)をもゆるしたまえ。
我(われ)らをこころみにあわせず、悪(あく)より救(すく)い出(いだ)したまえ。
国(くに)とちからと栄(さか)えとは、限(かぎ)りなくなんじのものなればなり。アーメン。
本日は、この「主の祈り」の「ねがわくはみ名(な)をあがめさせたまえ。」との言葉に焦点を合わせたいと思います。
この「ねがわくはみ名(な)をあがめさせたまえ。」との「主の祈り」の最初の祈りは、旧約聖書、出エジプト記と申命記に記されています十戒(じっかい)、十(とお)の戒めの最初の戒め「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」と対応すると指摘する人がいます。主なる神のお名前が崇(あが)められるということは、主なる神だけが唯一の神として崇(あが)められるということ、すなわち、他に神はないということです。そう考えると確かに、「ねがわくはみ名(な)をあがめさせたまえ。」との祈りと「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」との戒めは対応していると言えるでしょう。
今申しました、「十戒(じっかい)」、「主の祈り」、そして、「使徒信条」は、キリスト教会の「三要文」、三つの要の文と言われ、キリスト信仰における大切な三つの文書とされています。その中の二つである十戒と「主の祈り」の初めの戒めと初めの祈りが対応しているのです。それは偶然でしょうか。いいえ、そうではないでしょう。キリスト信仰において、他に神があってはならないこと、唯一の神のお名前だけが崇(あが)められるようにと祈ること、それらは、神第一ということでしょう。すなわち、キリスト信仰において、何よりも最初に掲げられることは、神第一であること、神のみが崇(あが)められることだということです。
しかも、十戒を前半と後半と分けますと、前半は神に対する私どもの姿勢が教えられ、後半では、一緒に生きていく人間の中に対する私どもの態度が教えられています。同様に、「主の祈り」も、前半の「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ、ねがわくはみ名(な)をあがめさせたまえ。み国(くに)を来(き)たらせたまえ。みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ。」との祈りは、神についての祈りと呼んでよいでしょう。そして、後半の祈りは私どもの生活に深くかかわる祈りとなっています。このように、十戒と主の祈りは、類似点を持っています。
さらに、先ほどは、ルカによる福音書で主イエスが教えておられる「主の祈り」の箇所を朗読致しました。もう一つ、「主の祈り」が登場するのが、前回朗読しましたように、マタイによる福音書です。マタイによる福音書の第5章から始まります「山上の説教」と呼ばれる主イエスの説教の中に出てきます。
しばしば、山上の説教は、主イエスによる十戒の語り直しであり、真実の律法の成就を願う説教と言われます。主イエスが伝えた福音と御業は、律法を否定するものではなく、むしろ、律法を完成なさるためのものだったのです。主イエスは山上の説教の中でこうおっしゃっています。マタイによる福音書 第5章17節以下です。
17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
そして、その視点から申せば、そもそも、神の御子主イエス・キリストがこの地上に来てくださったのは、十戒が教えてくれるようには神の前に正しく歩めない私どもを、救い出すためでした。そして、十戒成就、律法成就のために、主の祈りを祈るよう教えてくださったのです。
さて、み名、お名前とは、神ご自身のことです。ですから、「ねがわくはみ名(な)をあがめさせたまえ。」とは、神ご自身が崇(あが)められますようにとの祈りです。その意味で、先ほど申しましたように、十戒の「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」との戒めに対応しています。ただし、新約聖書の原文であるギリシア語のニュアンスは「み名を崇(あが)めさせたまえ」と言うよりは、「み名が聖(せい)なるものとなりますように」と訳した方が近いのだそうです。
では、み名が崇(あが)められると、み名が聖なるもとなる、聖(きよ)められるとはどう違うのでしょうか。相違点をはっきり申せば、み名が崇(あが)められる場合、み名を崇(あが)めるのは私どもでしょう。しかし、み名が聖(きよ)められる場合は、私どもは関係しなくてよいのです。私どもがどうであろうが神ご自身のお名前が、神ご自身にふさわしい聖(きよ)さを保ってくださいますように、そういう祈りなのです。神ご自身の聖(きよ)さを保つことは私どもがすることではなく、神ご自身がなさることなのです。
しかも、神が神として、聖なる方であることが何者にも脅(おびや)かされることなく、何者にも妨げられませんようにと祈ることの中に、「私どもによって」との言葉が入らないのは、もしかしたら、私どもがかかわることが邪魔になってしまう場合があるということでしょう。私ども罪に汚れた者がかかわることは、むしろ、神のみ名が聖なるものとなりますようにとの祈りを脅(おびや)かすことになってしまうとうことです。言い換えれば、「み名が聖(せい)なるものとなりますように」と祈る時、罪に汚れた私どもは審かれることになりかねないのです。厳しいようですが、その覚悟をもってでなければ、「み名が聖(せい)なるものとなりますように」との祈りは、「み名を崇(あが)めさせたまえ」との祈りは、祈れないということです。
では、なぜ、主イエスはそのような祈りを私どもに祈るように教えられたのでしょうか。聖なる神の独り子、主イエス・キリストであれば、「み名が聖(せい)なるものとなりますように」との祈り願う事は、当然のことでしょう。しかし、私どもは主イエスとは違います。罪の弱さの中に落ち込んでしまいがちな人間です。そのような私どもが「み名が聖(せい)なるものとなりますように」との祈り願う事は、その資格がないばかりか、自分の滅ぶべき姿をさらけ出してしまうような祈りなのです。なぜ、主イエスはそのような祈りを私どもがするように教えられたのでしょうか。
そのことを考えていくために、新約聖書にありますもう一つの祈り、むしろ歌と言うべきかもしれません。そのような歌としての祈りを聴いてみましょう。先ほどの聖書朗読で、初めにお読みしました「マリアの賛歌」です。主イエスの母マリアの賛歌です。
47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。/ 48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、/ 49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、/ 50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
この歌、この祈りには、「主の祈り」とそっくり同じ言葉は出てきません。しかし、主を崇(あが)め、そのみ名が尊ばれることを願っています。主をほめたたえています。この「マリアの賛歌」には、「主の祈り」と同じ祈りの心が歌い出されています。この時代は、今とは違って、男尊女卑の時代です。しかも、この歌を歌った時、マリアはおそらく十代のおとめです。しかし、この祈りは堂々たる祈りです。
マリアは、「わたしの魂は主をあがめ、・・・」と歌い出します。ここから、主イエスを別にしまして、「み名を崇(あが)めさせたまえ」との祈りを私どもに先立って祈り歌ってくれ、私どもの手本となるように祈り歌ってくれたのは、主イエスの母マリアだったのです。
ただし、マリアの「わたしの魂は主をあがめ、・・・」との祈りの「あがめる」は、ギリシア語原文では、主の祈りの「み名を崇(あが)めさせたまえ」、「み名が聖(きよ)められますように」とは違う言葉が使われています。マリアの「わたしの魂は主をあがめ、・・・」との祈りは、「わたしの魂は主を大きくする」と言う意味の言葉なのです。主を大きなものとする、主を大きな方と呼び賛美するということです。この「マリアの賛歌」は、のちに教会でとても大切にされ、よく歌われるようになります。自分たちの祈りとして歌われるようになったのです。多くの作曲家たちが曲をつけ、歌われてきたのです、「主を大きくする」ことから、「マグニフィカート」という題が付いています。この「マグニフィカート」と地震の大きさを表す「マグニチュード」は同じ語源、大きさを表す「マグヌス」という言葉から出た言葉だそうです。
神を大きくする。もちろん、神の大きさを私どもが自由に変えるのではありません。神は元々偉大な方です。その神の偉大さを、大きさを認めるのです。マリアの賛歌における主を崇(あが)めるとは、神の大きさをほめたたえることなのです。
そこで、忘れてならいことがあります。神を大きくするということは、同時に、私を小さくするということです。神を大きくするのとは反対に私どもは小さくなるのです。私どもが存在を小さくすればするほど神のお姿は大きくなるのです。そのような遜(へりくだ)りの祈りを母マリアはここでしているのです。
そこから、こういうことが言えるのではないでしょうか。「主の祈り」において、私どもが、「み名を崇(あが)めさせたまえ」との祈る時、私どもの姿勢は低くなり、跪(ひざまず)き、ひれ伏すのです。そのようにしながら、神の大きさが尊ばれるようにと祈るのです。
先程、こう申しました。「み名が聖(せい)なるものとなりますように」と祈る時、罪に汚れた私どもは審かれることになりかねないのです。厳しいようですが、その覚悟をもってでなければ、「み名が聖(せい)なるものとなりますように」との祈りは、「み名を崇(あが)めさせたまえ」との祈りは、祈れないということです。そう申しました。そして、こうも申しました。私どもは主イエスとは違います。罪の弱さの中に落ち込んでしまいがちな人間です。そのような私どもが「み名が聖(せい)なるものとなりますように」との祈り願う事は、その資格がないばかりか、自分の滅ぶべき姿をさらけ出してしまうような祈りなのです。なぜ、主イエスはそのような祈りを私どもがするように教えられたのでしょうか。
「マリアの賛歌」から、「み名を崇(あが)めさせたまえ」、「み名が聖(せい)なるものとなりますように」との祈りは、神を大きくし、私どもが小さくなることであると申しました。そうなのです。どう理解しても、み名を崇(あが)めるということは、私どもが益々小さくなり、自分の滅ぶべき姿をさらけ出してしまうような祈りなのです。そのようにして、「み名を崇(あが)めさせたまえ」、「み名が聖(せい)なるものとなりますように」との祈ることが、私どもが自分を弁(わきま)え、礼拝者としての相応(ふさわ)しい祈りなのです。自分を小さくし、遜(へりくだ)ることなくしては、しかも、自分の滅ぶべき姿をさらけ出すことなくしては、「み名を崇(あが)めさせたまえ」、「み名が聖(せい)なるものとなりますように」との祈れないのです。「主の祈り」を捧げることは出来ないのです。それこそが礼拝者として、祈りを捧げる者として、求められる基本姿勢なのです。
ただし、マリアの賛歌は、祈りを捧げる者に別のことも教えてくれます。51節以下です。
「51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、/ 52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、/ 53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」ある人はこれを「マリアの革命の歌」と呼んでいます。下剋上(げこくじょう)を、政権(せいけん)転覆(てんぷく)を歌っているのです。当時の権力者、王がこれを聞いたら、腹を立て、マリアを逮捕したかもしれません。ただし、人ではなく、神がなさる革命を賛美しているのです。この部分で、跪(ひざまず)いていたマリアは、世の権力を恐れることなく、しっかりと立ち上がっているようにも見えます。
この革命の歌の前、48節以下では、神のなさる革命が、まずはマリア自身に起こっていることが分かります。「48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、/ 49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、/ 50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。」
マリアは歌うのです。自分は小さい、身分の低い女だ。しかし、神は恵みの目を留めてくださった。神の恵みの中で、神は私をしっかり捕まえてくださっているから、後(のち)の世の人たちは私を忘れないだろう。私を幸いな者と呼び続けるであろう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その神のみ名を尊び、その憐みの豊かさをたたえる。そして、この私と同じように、「幸い」に生かされる者が必ず続く。そのように歴史は続いていく。マリアは預言者のように語り歌うのです。ここで、神はマリアを強く大きくしてくださっているのです。
マリアはこの後(のち)、主イエスを産むのです。そして、主イエスは十字架につけられ死ぬのです。その悲しみは言葉では言い表せなかったでありましょう。そして、主イエスは復活されるのです。そのことがどんなに大きな神の御業の証しになったことでしょう。
この「マリアの賛歌」は歌い継がれます。マリアの歌ではなく、自分たちの歌として、歌い継がれます。そして、主の祈りも、主イエスが与えてくださった私どもの祈りの言葉として、祈り継がれていくのです。キリストに召され、キリストの愛をいただいて、キリストを救い主と信じた人たちは、「み名をあがめさせたまえ」と祈り続けていったのです。
主イエスは主の祈りの中で、私どもにこう求めておられるのです。私どもも神を崇(あが)めることを、神のみ名を大きくすることを、神の前に遜ることを、求めておられるのです。そして、そのように祈る者を神は、マリアのように強く、大きくしてくださるのです。私どもも、共に、「み名を崇(あが)めさせたまえ」、「み名が聖(せい)なるものとなりますように」との祈ってまいりましょう。
祈りを捧げます。
私どもに主の祈りを与え、「み名を崇(あが)めさせたまえ」、「み名が聖(せい)なるものとなりますように」との祈ることを教えてくださった主イエス・キリストの父なる神よ。私どもを大きく生かしてください。マリアの受けた慈しみを私どもも受けていることを覚え、あなたによって、マリアのように素晴らしいものとされていることを覚えさせてください。日々、感謝と賛美の中で、あなたのみ名が聖なるものであることを喜び続けることができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン。
2018年9月16日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
マルコによる福音書 第1章14、15節
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣(の)べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
コリントの信徒への手紙 一 第4章16~21節
16 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。17 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。18 わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。19 しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。20 神の国は言葉ではなく力にあるのですから。21 あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。
「み国の来ることを~主の祈り③」
今週も、主イエスが復活された主の日の朝に、共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝致しております。
今、この時、共に主の前に跪(ひざまず)き、過ぎた一週間の間に、主なる神に、そして隣人に犯した罪を告白し、赦していただきましょう。ローマの信徒への手紙 第8章1節、2節の言葉です。「1 今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」
今、罪の赦しの宣言を受けられ、罪と死から解放された皆さんに、聖書の祝福の言葉をお贈りします。ガラテヤの信徒への手紙 第6章18の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」
週報でお知らせしていますように、伊藤栄一兄のお母様が先週9日にお亡くなりになりました。言葉では言い表せない深い悲しみを抱かれているご家族皆さんに、主の憐みとお慰めがありますよう、お祈りします。どうぞ、皆さんもお祈り下さい。
「主の祈り」の説教を続けています。本日は三回目です。先ほどその「主の祈り」をご一緒に致しました。こう祈りました。
天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ、ねがわくはみ名(な)をあがめさせたまえ。
み国(くに)を来(き)たらせたまえ。
みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ。
我(われ)らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与(あた)えたまえ。
我(われ)らに罪(つみ)をおかす者(もの)を我(われ)らがゆるすごとく、我(われ)らの罪(つみ)をもゆるしたまえ。
我(われ)らをこころみにあわせず、悪(あく)より救(すく)い出(いだ)したまえ。
国(くに)とちからと栄(さか)えとは、限(かぎ)りなくなんじのものなればなり。アーメン。
本日は、この「主の祈り」の「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」との言葉に焦点を当ててまいります。
主イエスはしばしば「み国」、「神の国」についてお話になられました。ですから、主イエスが教えてくださった祈りを、弟子たちが、そして弟子たちと同じように主イエスの従う私どもが「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」と祈ることは、主に従う者にとって、ふさわしいことだと思います。
そもそも、先程、朗読しましたように、主イエスが神の福音を宣(の)べ伝えて始められた時の第一声が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。この言葉は、第一声だけではなく、その後、繰り返し主イエスがおっしゃった言葉だと言われています。「神の国は近づいた」。これは「神の国が来た」という意味でもあります。そのようにも訳せるのです。神の御子、主イエス・キリストご自身が私どものいる地上に来られることで、神の国がもう来ているとも言えるのです。
しばしば言われることですが、「神の国」と言うと、私どもの周りにある国を連想し、国と国の境である国境などを思い浮かべ、どこからどこまでが神の国で、どこからは神の国ではないなどと考えてしまいます。その連想は主イエスがおっしゃる「み国」、「神の国」を考える上で不適切です。そのために、「神の国」と訳されている言葉は、「神の支配」とも訳せる言葉なので、そちらの方で考えた方が良いなどと言われます。その意味で申せば、「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」とは、「神の支配が行われますように」との祈りだということです。
確かに、主イエスは「神の支配が行われますように」と祈られたに違いありません。そして、主イエスはご自分でそのように祈るだけでなく、私どもにも「神の支配が行われますように」と祈るようにおっしゃったのです。主イエスはわたしと一緒に祈ってくれとおっしゃって、「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」と祈るよう、私どもにその祈りを託されたのです。そう思うと、私どもも主イエスと同じように「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」と祈れることは、とても光栄なことと言えるでしょう。それゆえ、常にそのことを忘れず、心から祈っていかななければならいとも思います。
言うまでもなく、「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」とは、私どもが行うことが成し遂げられますようにとか、私どもが行うことが成功しますようにという祈りではありません。神の支配が、神の御業が行われるようにとの祈りです。神のご支配、神の御業とは、その一つを申せば、神の赦しと神の愛が世界を包むこと、覆うことです。その意味で、「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」とは、神の愛が、神の慰めが、今ここで新しく与えられますようにとの祈りでもあります。決して、私どもの業が成し遂げられることを祈るのではないのです。
さらに、「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」とは、私どもの救いが完成しますようにとの祈りでもあります。なぜなら、父なる神は、子なる神キリストは、そして聖霊は、最終的に私どもを救うために、その御業を、支配を、行われているからです。その私どもの救いが完成するのは、終わりの時、主イエスが再臨、再び地上に来られる時です。ですから、「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」との祈りは、救いの完成を求め、主イエスよ再び来て下さいとの祈りにも通じるのです。
さて、本日は、聖書朗読で、もう一箇所朗読致しました。コリントの信徒への手紙 一 第4章16節から21節です。終わりの方に、本日、聖書から聴いています「神の国」という言葉が出ています。20節です。「神の国は言葉ではなく力にあるのですから」と言われています。このコリントの信徒への手紙を書いたパウロは、ここで神の国、神の支配について何を言っているのでしょうか。詳しく知るためには、当時のコリントの教会であった問題について詳しく知らなければならないでしょう。しかし、今はそこまでできませんので、16節以下の言葉を追ってまいりましょう。16節です。「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」。パウロはここで深い確信に基づいて、こう言っていると思われます。「私の生活を見て、まねをして御覧なさい」と言っているのです。私の真似をすれば間違いないと言っているのです。それは、パウロが道徳的な生活をしているからではないでしょう。私は主イエスによって生かされている。本日聴いている言葉で言えば、私は「神の国」に生きている。「神の支配」に従っている。「神の支配」に生かされている。その私に倣いなさい。私のように、あなたがたも神の支配、神の恵みに生きなさいということです。
続けて、パウロは言います。17節です。「17 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」。テモテをそちらに遣わしましたので、そのテモテを見て、「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こし」なさい、と言うのです。そうして、「わたしに倣う者になりなさい」とパウロは言うのです。テモテをコリントに送ったのは、テモテが「主において忠実な者」であるからで、そのテモテを見て、わたしを思い起こしなさい。そして、「わたしに倣う者になりなさい」とパウロはここで言っているのです。
続く18節です。「18 わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。19 しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう」。そうパウロは言うのです。パウロ先生はコリントに来ると言っていながら、なかなか来ない。それをよいことに、コリントの教会の人たちは、パウロ先生の真似をしなくても、自分なりのやり方で、信仰に生き得ると思い込んでいたのかもしれません。主が行けとおっしゃれば、すぐにでも行くとパウロは言うのです。そして、高ぶりに生きている人たちの言葉でなく、力に生きているかを見せてもらいたい。彼らの生活を見たい。生活の力を見せてもらいたいと言うのです。その理由を20節でパウロはこう言います。「神の国は言葉ではなく力にあるのですから」。
神の国、神の支配とは、キリストの体なる教会の中に生きてはたらく力なのです。一人一人を生かし、一人一人を造り上げる力なのです。パウロ自身が「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」との祈りつつ、その祈りによって、生かされ、造り上げられてきたのです。そして、誰もがそのように生きて欲しいと願っていたのです。ですから、パウロは言うのです。私の言葉を聞こうとはせず、高ぶっているコリントの教会の人たちが、人を生かす真の力である神の国の力に生かされているか、見せて欲しい。そして、どうか、人を生かす真の力である神の国の力に生かされている「私に倣いなさい」と願っているのです。
パウロは、人を生かす真の力である神の国の力に生かされました。キリストの体なる教会に連なる者たちは、同じ力に生かされてきたのです。教会改革をしたルターもそうでしょう。私どもの信仰の先輩たちは、人を生かす真の力である神の国の力に生かされ、教会を建てあげ、福音を宣べ伝えてきたのです。
そして、「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」との祈りは、主イエス・キリストの救いの御業がなされますようにとの祈りでもあります。神の支配神の救いを実際に行われるのは、御子主イエスなのですから。「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」との祈りは、主イエス・キリストの救いの御業がなされますように、主イエスの支配がなされますようにとの祈りなのです。私どもにとって、それは最高の、最上のことです。
主イエスは、私ども一人一人の救い主です。どんな時でも、私どもの味方です。決して、私どもを見捨てられる方ではありません。そして、その主イエスにしっかり従っていけば、私どもの救いは完成し、聖書の言う「永遠の命」に与れるのです。
前にも申しましたように、幼子にとって、信頼できる大人が一緒にいてくれることが一番の安心です。どんなに周りの状況が厳しくとも、幼子は、信頼できる大人が一緒にいてくれることが一番の安心です。逆に、周りの状況がどんなに安全で整っていても、幼子は、信頼できる大人が一緒にいてくれなければ、不安のどん底にいます。それは、信仰において、私どもと主イエスとの関係に似ています。どんなに私どもの状況が悪くても、主イエスが一緒にいてくださることが、私どもにとって最善なのです。それは、詩編 第23篇で歌われている羊飼いが主イエスその人でもあるからです。詩編 第23篇です。文語訳でお読みします。
ダビデのうた
1 主はわが牧者なり、われ乏(とも)しきことあらじ
2 主はわれをみどりの野にふさせ、
いこいの汀(みぎわ)にともないたもう。
3 主はわが魂を活(い)かし、
御名(みな)のゆえをもて、我を正しい道にみちびきたもう。
4 たといわれ死のかげの谷を歩むとも、
わざわいをおそれじ。
汝(なんじ)我と共にいませばなり、
なんじの笞(しもと)、なんじの杖、われをなぐさむ。
5 汝(なんじ)、わが仇(あだ)のまえに
わがために宴をもうけ、
わが頭(こうべ)に油をそそぎたもう、
わが酒杯(さかずき)はあふるるなり。
6 わが世にあらんかぎりは、かならず恵みと憐みと我にそいきたらん、われはとこしえに主の宮に住まん。
そうです。幼子が信頼できる大人に一緒にいてもらうことが一番であるように、私どもとって、羊飼いである主イエスが共にいてくださることが一番なのです。先ほども申しましたように、「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」との祈りは、主イエス・キリストの救いの御業がなされますようにとの祈りでもあります。主イエスが共にいて、御業を、ご支配を行ってくださいますよう、祈ってまいりましょう。日々の生活の中で、繰り返し、主の祈りを祈ってまいりましょう。
祈ります。
私どもに主の祈りを教えてくださいました主イエス・キリストの、父なる神よ。「み国(くに)を来(き)たらせたまえ」、「神の支配が行われますように」、そして、「主イエス・キリストの救いの御業がなされますように」と、これからも祈って行きます。どうぞ、私どもの祈りをお聞き下さい。そして、私どもを守り、導き、御業を行ってください。主の御名によって祈ります。アーメン。
2018年9月23日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
イザヤ書 第17章1~14節
1 ダマスコについての託宣(たくせん)。「見よ、ダマスコは都の面影を失い/瓦礫の山となる。/2 アロエルの町々は見捨てられ/家畜の群れが伏し、脅かすものもない。/3 エフライムからは砦が/ダマスコからは王権が絶える。アラムに残るものは/イスラエルの人々の栄光のようになる」と/万軍の主は言われる。4 「その日が来れば、ヤコブの力は弱まり/その肥えた肉はやせ衰える。5 刈り入れる者の集めた立ち枯れの穂/その腕に集めた落ち穂/レファイムの谷で拾った落ち穂のようになる。/6 摘み残りしかないのに/オリーブの木を打つようなものだ。梢(こずえ)の方に二つ三つの実/豊かに実っている枝でも、四つ五つ」と/イスラエルの神、主は言われる。/7 その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。/8 もはや、自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐことなく、アシェラの柱や香炉台を見ようとはしない。/9 その日には、彼らの砦の町々は、イスラエルの人々によって見捨てられた木の枝や梢(こずえ)のように、捨てられて廃虚となる。/10 お前は救い主である神を忘れ去り/砦と頼む岩を心に留めていない。それなら、お前の好む神々にささげる園を造り/異教の神にささげるぶどうの枝を根付かせてみよ。/11 ある日、園を造り、成長させ/ある朝、種を蒔き、芽生えさせてみても/ある日、病といやし難い痛みが臨み/収穫は消えうせる。
12 災いだ、多くの民がどよめく/どよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ/騒ぎ立つ大水の騒ぎのように。/13 国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる/山の上で、もみ殻が大風に/枯れ葉がつむじ風に追われるように。/14 夕べには、見よ、破滅が襲い/夜の明ける前に消えうせる。これが我々を略奪する者の受ける分/我々を強奪する者の運命だ。
ルカによる福音書 第12章4~7節
4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。6 五羽の雀(すずめ)が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。7 それどころか、あなたがたの髪(かみ)の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀(すずめ)よりもはるかにまさっている。」
「救い主である神を常に覚えよう」
今週も、主イエスが復活された主の日の朝に、共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝致しております。
今、この時、共に主の前に跪(ひざまず)き、過ぎた一週間の間に、主なる神に、そして隣人に犯した罪を告白し、赦していただきましょう。ローマの信徒への手紙 第8章1節、2節の言葉です。「1 今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」
今、罪の赦しの宣言を受けられ、罪と死から解放された皆さんに、聖書の祝福の言葉をお贈りします。エフェソの信徒への手紙 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
イザヤ書の言葉を聞き続けています。本日の箇所で、言われているのは、シリア・エフライム戦争の結果、ダマスコが滅ぶことです。イスラエルが北と南に分裂してからの事です。南ユダ王国の王がアハズの時代、紀元前730年頃です。ダマスカスと北イスラエル王国との同盟に南ユダ王国も加わるように、誘われます。しかし、アハズ王はそれを拒否したために、両国から攻められます。すると、とんでもないことに、アハズ王はアッシリアに助けを求めるのです。それを、預言者イザヤは神への不信として、厳しく批判します。結果、ダマスコは滅び、北イスラエルはアッシリアに降伏し、わずかに、マナセとエフライムの地域だけが残されるのです。本日の箇所は1節の初めに、言われていますように、ダマスコについての託宣(たくせん)です。審判の言葉です。
「見よ、ダマスコは都の面影を失い/瓦礫(がれき)の山となる」と厳しい審(さば)きの言葉で始まります。町々は見捨てられ、王権も絶えると続きます。そして、3節後半では、こう言われます。「『アラムに残るものは/イスラエルの人々の栄光のようになる』と/万軍の主は言われる。」ここでは、アラムに残るものは、イスラエルに残された栄光のように屈辱的なものになると言われているのです。このように、本日の箇所も厳しい審(さば)きの言葉が続きます。
本日注目したいのは、10節、11節の言葉です。「10 お前は救い主である神を忘れ去り/砦と頼む岩を心に留めていない。それなら、お前の好む神々にささげる園を造り/異教の神にささげるぶどうの枝を根付かせてみよ。/11 ある日、園を造り、成長させ/ある朝、種を蒔き、芽生えさせてみても/ある日、病といやし難い痛みが臨み/収穫は消えうせる。」ここでは、審(さば)きをなぜ受けているのかが、告げられています。10節冒頭の言葉です。「お前は救い主である神を忘れ去り/砦と頼む岩を心に留めていない。」神を、救い主である神を忘れ去ってしまったから、心に留めていなかったから、お前は神の審(さば)きを受けたのだと告げています。それでも、お前が反論するなら、試してみなさい。お前が好む神々に捧げ物をして、試してみなさい。しかし、何の祝福も与えられないと言うのです。それが10節後半から、11節にかけて言われていることです。こうです。「それなら、お前の好む神々にささげる園を造り/異教の神にささげるぶどうの枝を根付かせてみよ。/11 ある日、園を造り、成長させ/ある朝、種を蒔き、芽生えさせてみても/ある日、病といやし難い痛みが臨み/収穫は消えうせる。」
今、見ました10節前半の言葉、「お前は救い主である神を忘れ去り/砦と頼む岩を心に留めていない。」これは、神の信仰、信頼から離れてしまっている実態をずばり指摘した言葉です。
信仰の基礎は、まず、神を覚えることです。旧約聖書 箴言 第1章7節では、こう言われています。「主を畏(おそ)れることは知恵の初め。/ 無知な者は知恵をも諭(さと)しをも侮(あな)る」このように、箴言では、神を覚えること、神は畏(おそ)れ多い方であることを覚えることが知恵の初めだと言います。
知識と知恵との違いが言われます。現代、コンピューターが発達しています。コンピューターは膨大な知識を持っています。将棋やチェスで、人間と対戦して勝利するほどになりました。しかし、知恵は知識とは別物だと言われます。高い知恵を持つには、それ相当の知識の蓄積が必要でしょう。しかし、知恵、人がより良い人生を生きていくための知恵は、知識をいくら積み重ねても得られません。ですから、現在のコンピューターには知恵はありません。知恵、人がより良い人生を生きていくための知恵は人間固有のものです。
その知恵の初めが神を畏(おそ)れることだと箴言は言うのです。この知恵の初めは、信仰の初め、信仰の基礎でもあります。イザヤ書の言う「お前は救い主である神を忘れ去り」は、その初めの一歩が出来ていないと言っているのです。
そもそも、イザヤ書の初めも、そのことをはっきりと指摘する言葉で始まっています。イザヤ書 第1章2節、3節の言葉です。南ユダ王国に対する審(さば)きの言葉です。「2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背(そむ)いた。3 牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。」家畜たちは、自分たちの飼い主、主人を知っている。それなのに神の民であるイスラエルは今まで、養い導いてくださった主なる神を知らない。知ろうともしない。そして、背(そむ)いている。そのよう言われているのです。
私どもの罪、神に対する罪、隣人に対する罪、それはどこから来ているのでしょうか。その問いに、聖書は、お前たちの神に対する背(そむ)きから来ている、そもそも神を忘れていることから、神を知らないことから来ていると指摘するのです。今引用しましたイザヤ書の言葉のように、神ご自身は「わたしは子らを育てて大きくした」とおっしゃっているのです。神が神の民に、そして、私ども皆に、愛を注いで育ててくださったのに、とおっしゃるのです。親が子に愛を注いで、養い、育てるように、主なる神は私どもにしてくださったのに、と言うのです。それなのに、私どもは、神に背(そむ)き、挙句(あげく)の果(は)てに、神を忘れているのです。忘れ去っているのです。
誰でも、自分の欠点を指摘されると、嫌(いや)な気持ちになります。聞きたくないと思います。預言書の言葉の多くもそうです。厳しい言葉が続くと、いつの間にか拒否反応が表れます。本日の「お前は救い主である神を忘れ去り・・」との言葉も、気持ちよく聞ける言葉ではありません。しかし、自分自身の中で、この言葉に真摯(しんし)に向き合い、このことをおっしゃっている主なる神と正直に向き合う事が、信仰に生きようとする私どもには求められていると思います。
さて、先程、ルカによる福音書 第12章4節以下を朗読しました。これはすべて主イエスの言葉です。注目したいのは、6節、7節です。もう一度お読みします。
「6 五羽の雀(すずめ)が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。7 それどころか、あなたがたの髪(かみ)の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀(すずめ)よりもはるかにまさっている。」ここに出て来る「アサリオン」は古代ローマの貨幣(かへい)単位(たんい)です。アサリオンは銅貨です。1アサリオンは、一日の賃金(ちんぎん)の16分の1に当たります。ですから、2アサリオンとは、一日の賃金(ちんぎん)の8分の1に当たります。それで、五羽の雀(すずめ)が売られていると言うのです。一羽は決して高価ではありません。そのために、五羽まとめて売られているのでしょう。そのように、私ども人間の間で、それほど大切にされていると言えない「その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」と主イエスはおっしゃるのです。そして、こう続けられるのです。7節です。「それどころか、あなたがたの髪(かみ)の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀(すずめ)よりもはるかにまさっている。」「恐れるな」との言葉は、迫害を恐れるな、迫害者を恐れるなということでしょう。一羽の雀(すずめ)さえ、神はお忘れにならない。それだから、神はあなたのことは決してお忘れにならない。それどころか、神によって「あなたがたの髪(かみ)の毛までも一本残らず数えられている」のだ。神はあなたのことを誰よりもよく知っていてくださる。神はあなたのことを決してお忘れにならない。あなたは神に覚えられ、守られている。そう主イエスはおっしゃるのです。
神は、私どものことをそこまで覚えてくださっているのです。しかし、私どもときたら、イザヤ書が指摘するように、神を知らないのです。神を知ろうともしないのです。もし、主イエスがおっしゃるほどに神が私どものことを覚えていてくださり、決して忘れることはないことを私どもが心に留めたなら、決して神を忘れるようなことは出来ないでしょう。
イザヤ書の中でも「育てる」という言葉で、譬えとして言われていた、親と子の関係を見てみましょう。子は物心付く前から、親や近くの大人に愛を注がれ、世話になって、育ちます。毎日毎日、世話になって、成長します。しかし、そのことを子は覚えていません。そして、ともすると、自分一人で大きくなったような錯覚を持ってしまいます。しかし、ある程度成長した時、周りの幼児たちが何から何まで世話になって、育てられているのを見て、そこから自分もそのようにして育てられたことを知ります。それが知恵だと思います。その知恵から、親や周りの大人の有難さを悟り、感謝の気持ちも生まれます。
信仰もそうでしょう。なかなか目には見えませんが、主なる神がどれほど私どもを愛し、私どもの世話をしてくださったかを知ったなら、神の有難さを悟り、感謝しても感謝しきれないことを悟るでしょう。しかも、神は造り主、養い主だけでなく、本日のイザヤ書でも言われていいますように、救い主でもいらっしゃるのです。それは、神が御子主イエスを救い主として、私どもにくださったこと、そして、御子主イエスが、私どもを救うために十字架にお架かり下さったことで、さらにはっきりしました。
信仰に生きようと思ったなら、まず、造り主であり、養い主であり、救い主である神を、主イエスをしっかり見ることが大切です。主イエスがおっしゃるように、その主なる神は、私どものことを決して忘れるような方ではないのです。それを知ったなら、私どもも、決して神を忘れることは出来ないでしょう。
ご一緒に自分たちがどれほど神に愛されているかを考えてみましょう。そして、神の愛の深さ、広さ、高さを心に刻んで、神に従ってまいりましょう。
お祈りを致します。
私どもの造り主であり、養い主であり、救い主である主なる神よ。私どもはあなたから多くの恵みを頂いていながら、あなたのことを忘れ、あなたに背(そむ)いて、自分勝手な歩みをしてしまいます。しかも、その過(あやま)ちに気付かなかったり、開き直っています。どうぞ、愚(おろ)かな私どもをお赦しください。どうぞ、自分の愚(おろ)かさに気付かせてください。正しい知恵を頂いて、あなたに立ち帰らせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。