2018年7月8日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第14章1~23節

 

 1 まことに、主はヤコブを憐(あわれ)れみ/再びイスラエルを選び/彼らの土地に置いてくださる。寄留の民は彼らに加わり/ヤコブの家に結び付く。2 もろもろの民は、彼らをその土地に連れて来るが、イスラエルの家は、主の土地で、もろもろの民を男女の奴隷にして自分のものとする。かつて、彼らを捕囚とした者が、かえって彼らの捕囚となり、かつて、彼らを虐(しいた)げた者が彼らに支配される。

 

 3 主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る。4 そのとき、あなたはバビロンの王に対して、この嘲(あざけ)りの歌をうたう。

ああ、虐(しいた)げる者は滅び/その抑圧は終わった。5 主は、逆らう者の杖(つえ)と/支配者の鞭(むち)を折られた。6 かつて、彼らは激怒して諸民族を撃ち/撃って、とどまることを知らなかった。また、怒って諸国民を支配し/仮借(かしゃく)なく踏みにじった。7 しかし今、全世界は安らかに憩(いこ)い/喜びの声を放つ。8 糸杉もレバノン杉も/お前のことで喜ぶ。「ついに、お前が倒れたから/もはや、切り倒す者が/我々に向かって来ることはない。」

 9 地下では、陰府(よみ)が騒ぎを起こす/お前が来るのを迎えて。そして、亡霊たちを呼び覚ます/地上では、すべてつわものであった者らを。また、その王座から立ち上がらせる/諸国の王であった者らを皆。10 彼らはこぞってお前を迎え、そして言う。「お前も我々のように無力にされた。お前も我々と同じようになった。」 11 お前の高ぶりは、琴の響きと共に/陰府(よみ)に落ちた。蛆(うじ)がお前の下に寝床となり/虫がお前を覆(おお)う。

 12 ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙(あけぼの)の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。13 かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し 14 雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」と。15 しかし、お前は陰府(よみ)に落とされた/墓穴の底に。

16 お前を見る者は、まじまじと見つめ/お前であることを知って、言う。「これがかつて、地を騒がせ/国々を揺るがせ 17 世界を荒れ野とし/その町々を破壊し/捕らわれ人を解き放たず/故郷に帰らせなかった者か。」

 18 国々の王は皆、それぞれの墓に/礼を尽くして葬られる。19 しかし、お前は墓の外に投げ捨てられる/忌(い)むべきものとされた水子のように。剣で刺された者、殺された者に囲まれ/陰府(よみ)の底まで下って行く/踏みつけられた死体のように。20 お前は、自分の国を滅ぼし/自分の民を殺したので/彼らと共には葬られない。悪を行う者たちの末は/永遠に、その名を呼ばれることはない。21 彼らの先祖の咎(とが)のゆえに/その子孫のために、屠り場を備えよ。再び、彼らが立ち上がって、世界を奪い/地の表を町々で満たすことがないように。22 「わたしは、彼らに立ち向かう」と/万軍の主は言われる。「バビロンから、その名も、名残も/子孫も末裔(まつえい)も、すべて断ち滅ぼす」と/主は言われる。23 また、「都を山あらしの住みか、沼地とし/滅びの箒(ほうき)で、掃き清める」と/万軍の主は言われる。

 

マタイによる福音書 第5章4節

 

   悲しむ人々は、幸(さいわ)いである、その人たちは慰(なぐさ)められる。

 

 

「主なる神は神の民イスラエルを憐(あわれ)れまれる」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ヨハネの黙示録 第22章21節の言葉です。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」

ご一緒にイザヤ書の言葉を聞いています。第14章に入りました。本日の箇所、1節、2節には「イスラエルの回復」という小見出しが付けられています。そして、3節以下には、「バビロンの滅亡」という小見出しがついています。イザヤ書は預言書ですから、本日の箇所も、既に起きた事が述べられているのではなく、預言が述べられているのです。主なる神が御心に従って、これからこのようにされるということです。ですから、「イスラエルの回復」という部分は、正確に言うと「イスラエルの回復の預言」、「バビロンの滅亡」という部分は、「バビロンの滅亡の預言」となるでしょう。

そもそも、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、共に神に背き続けた結果として、北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされます。そして、バビロン捕囚という呼び名で知られているように、滅ぼされた南ユダ王国の若い人たちや働き手が捕虜としてバビロンに連れて行かれてしまったのです。北イスラエル王国も、アッシリアに捕囚されます。戦いに敗れ、国が滅ぼされ、捕虜まで取られる。とても辛い歴史です。

 私は1959年生まれです。ですから、大東亜戦争と呼ばれた戦争が終わった1945年から、14年後に生まれました。前の東京オリンピックが1964年、私が5歳の時です。戦後の大変な時期は過ぎ、高度経済成長に入った頃です。私の生まれた当時の写真を見ますと、その頃は決して豊かであったようには思えません。しかし、穏やかで平和であったことが分かります。ですから、私は戦中戦後の大変は時期を全く知りません。しかし、私の親の世代やその少しあとの方々までは、大東亜戦争中、そして戦後の大変な時期をご存じでしょう。たぶん、その当時の大変なことは二度と経験したくないことでしょう。そこから、南ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、厳しい捕囚の時代を過ごしたイスラエルの民の痛みを想像するのは難しくないでしょう。 

 しかも、現代においても、内戦が続いている地域があります。難民となっている方が多くいます。テロがあとを絶ちません。時代は違っても、多くの人々が苦しみ、悲しみを負いつつ懸命に生き続けているのです。

 そのようなイスラエルの民に回復の預言がなされるのです。何と嬉しいことでしょう。本日のイザヤ書の箇所の最初ではこう言われています。「まことに、主はヤコブを憐(あわれ)れみ/再びイスラエルを選び/彼らの土地に置いてくださる。」ここでは、ヤコブとは、イスラエルの民のことを言っています。「再び選び」と言われています。そもそも、イスラエルは神の民として選ばれ、神の寵愛(ちょうあい)を受けたのです。しかし、傲慢(ごうまん)にも、そのようにして下さった神に背(そむ)いたのです。そのため、神の民でありながら、義なる神の厳しい審(さば)きを受けたのです。その結果、国が滅び、捕囚に遭わされるのです。しかし、憐(あわれ)み深い神は、イスラエルを神の民として再び選んでくださるのです。そして、「彼らの土地に置いてくださる」のです。バビロンの占領が終わり、捕囚の民も戻って来るのです。民も国土も回復すのです。

 そのイスラエルの回復は、そのあとに語られている、バビロンの衰退、そして滅亡によってもたらされるのです。

 バビロンがなぜ、衰退し、完全に滅ぼされるのか。そもそも、バビロンは神によってイスラエルを審(さば)くための道具として用いられたのです。しかし、バビロンは傲慢(ごうまん)になってしまったのです。バビロンの傲慢(ごうまん)さは、16節、17節で語られています。「16 お前を見る者は、まじまじと見つめ/お前であることを知って、言う。「これがかつて、地を騒がせ/国々を揺るがせ 17 世界を荒れ野とし/その町々を破壊し/捕らわれ人を解き放たず/故郷に帰らせなかった者か。」

 バビロンは神の道具であったにもかかわらず、神の民であったイスラエルに、さらには、主なる神に対しても傲慢(ごうまん)になってしまったのです。それゆえ、4節以下で、嘲(あざけ)りの歌として、バビロンの衰退と滅亡が預言されたのです。

 物事が順調に行くと、いい気になってしまって、驕(おご)り高ぶって、大きな失敗をしてしまうということがあります。ですから、物事が順調にいっている時も、注意を怠ってはならないのです。むしろ、そのような時こそ、厳しく自分を戒める必要があるようです。その辺りのことを、神に滅ぼされることになるバビロンから学んでおきたいと思います。

 さて、本日、もう一つ与えられました聖書の言葉は、山上の説教の冒頭の言葉、マタイによる福音書 第5章4節の言葉です。「悲しむ人々は、幸(さいわ)いである、その人たちは慰(なぐさ)められる。」この言葉は実に大胆です。「悲しんでいる人々は、幸いである。」もし、私どもが悲しみに暮れている人を捕まえて、この言葉を言ったら、どうなるでしょう。悲しんでいる人に張り倒されるかもしれません。消え失せろ!と言われるかも知れません。この言葉は、主イエスだからこそ言える言葉ではないでしょうか。

 本日のイザヤ書の冒頭の言葉は、「まことに、主はヤコブを憐(あわれ)れみ・・・」です。主なる神は、ヤコブ、すなわち、神の民イスラエルを憐(あわれ)れんでくださると言うのです。イスラエルは自分の罪の報いを受けて国を滅ぼされたのです。捕囚に遭ったのです。その意味では自業自得です。しかし、そのような者をも、主なる神は憐(あわれ)み、慰(なぐさ)めてくださるのです。そして、さらに、主なる神は、捕囚の民であったイスラエルを回復させてくださるのです。約束の地に戻してくださるのです。何という恵みでしょう。悲しんでいたイスラエルに幸いを告げ、慰(なぐさ)めてくださり、さらに、捕囚前の元いた土地、約束の地に戻して下さるのです。この預言は実現するのです。何という憐(あわれ)み、何という恵みでしょう。

さて、悲しんでいる人はなぜ悲しんでいるのでしょう。大切な方や大切なものを失ったのかもしれません。辛いこと、残念なこと、悔しいことがあったのかもしれません。多くの場合、失ったものを完全に取り戻すことは不可能かと思われます。では、主なる神と主イエスはどうしてくださるのでしょうか。主は悲しみに暮れる私どもを決して見捨てることがないのです。主は、悲しみに暮れる私どもに寄り添ってくださるのです。そして、一緒に泣いて下さるのです。ラザロが死んだ時、姉妹であるマルタとマリアの涙を主イエスは軽んじられませんでした。主イエスも涙を流してくださったのです。主は悲しむ私どもに寄り添い、一緒に涙を流して下さるのです。それにまさる慰(なぐさ)めはないのではないでしょうか。

主イエスは放蕩息子の譬の中で、ボロボロになって帰って来た息子に、一言も小言を言う事なく、大いに喜んで迎え、宴会を開いてくれる父親の姿を描いて下さいました。その父親は父なる神のお姿そのものだと言われます。放蕩息子も自業自得と言えば自業自得です。しかも、父親から受けた財産を使い果たし、父親に一杯心配をかけたのです。誰も責められないでしょう。それゆえ、不甲斐ない自分である悲しみをどこにもぶつけることが出来ないままで父親のもとに帰って来たのです。そんなダメダメ息子を、父親は最高のもてなしで迎えたのです。これにまさる慰(なぐさ)めがあるでしょうか。父なる神はそういう方であると、主イエスは譬話の中で、さりげなく描いてくださったのだと私には思えるのです。

私どもの悲しみ、それは、私どもがどうしようもない罪人であること、赦しを請う事も心苦しいほどに罪にまみれている故ではないでしょうか。そのような私どもに向けて歌われているのが、このあと歌う新聖歌251番1節だと私は思います。こういう歌詞です。

  主イエスの御側に 隠れ家あり

  罪も誘(いざな)いも 知ることなし

  贖(あがな)い主よ われをそこに

  かくまい給え 御恵(みめぐ)みもて

私どもは自分自身が罪深いことを深く悲しんでいます。それは信仰者であれば当然のことです。神の前に正しく歩みたい。しかし、罪に、誘(いざな)いに引き寄せられ、なかなか足を洗えない。真剣に信仰に生きようすればするほど、自分の罪、至らなさが露(あら)わになり、辛く悲しい限りです。しかし、そのような私どもを主イエスが、私どもの救い主、贖い主である主イエスが、かくまってくださる。罪に責めさいなまれることから、守ってくださるのです。私どもはそこで、悔い改めるのです。何という慰(なぐさ)めに満ちた救い主でしょう。このように慰(なぐさ)めに満ちた主イエスのお陰で、私どもは立ち直ることが出来るのです。再び歩き出すことが出来るのです。堂々と主イエスに従って行けるのです。憐(あわれ)れみと慰(なぐさ)めに満ちた父なる神と御子主イエスに、これからも従ってまいりましょう。

お祈りを致します。

 

 憐(あわれ)みと慰(なぐさ)めに満ちた、私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、神の民イスラエルを憐(あわれ)み、再び選び、貴い回復を与えてくださいました。そして今、あなたと御子は、悲しみ多い人生を歩んでいる私どもを憐(あわれ)み慰(なぐさ)めてくださっています。感謝致します。人が出来ることには限界があります。しかし、あなたは全能なる神で、あなたに造られた私どもをいつも忘れることなく、深く深く憐(あわれ)み、愛してくださっています。感謝するばかりです。どうぞ、あなたの憐(あわれ)みにすがりながら、与えられた命を精一杯生きる者とさせてください。私一人では何も出来ません。しかし、憐(あわれ)みに満ちたあなたと御子がいてくだされば、勇気をもって進むことが出来ます。どうか、これからも私ども一人一人を憐(あわれ)み、お恵みください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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2018年7月15日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第14章24~32節

 

 24 万軍の主は誓って言われる。「わたしが計ることは必ず成り/わたしが定めることは必ず実現する。25 わたしの領土で、アッシリアを滅ぼし/わたしの山々で彼らを踏みにじる。その軛(くびき)は、わが民から取り去られ/その重荷は、肩からはずされる。」

 26 これこそ、全世界に対して定められた計画/すべての国に伸ばされた御手の業である。27 万軍の主が定められれば/誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば/誰が引き戻しえよう。

 

 28 アハズ王の死んだ年のことである。この託宣(たくせん)が臨んだ。29 「ペリシテの民よ、だれも喜んではならない/お前を打った鞭(むち)が折られたからといって。蛇(へび)の根から蝮(まむし)が出る。その子は炎のように飛び回る。」

  30 乏しい者も、糧(かて)を得/貧しい者も、安らかに伏す。

「わたしは、飢えによってお前の根を断ち/お前の残りの者を殺す。31 門よ、泣き叫べ、町よ、助けを求めよ/ペリシテの民は、皆、おののけ/北から、砂煙を上げて来る者があるからだ。その隊列から落伍する者はひとりもない。」

 32 異国の使者たちに、何と答えるべきか。「シオンの基を据えられたのは主である。苦しむ民は、そこに身を寄せる」と答えよ。

 

マタイによる福音書 第11章28~30節

 

 28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 

「主なる神は重荷を負う者を休ませてくださる。」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ローマの信徒への手紙 第1章7節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

皆さんとご一緒にイザヤ書の言葉を聞き続けています。先ほど朗読いたしました箇所、前半の24節から27節までには、「アッシリアの軛(くびき)」と言う小見出しが付けられています。そして、28節から32節までには、「ペリシテに対する警告」と言う小見出しが付けられています。

前半に出て来るアッシリアは、北イスラエル王国を滅ぼし、働き盛りの人たちを捕虜として自国に連れていった国です。しかし、そこから解放されるのです。ですから、小見出しの「アッシリアの軛(くびき)」とは、「アッシリアがイスラエルに掛けた軛(くびき)が取り去られる」という事です。軛(くびき)とは、家畜の首にはめる木です。農作業などで、二頭の牛を並べてつなぐ際に用いる棒状の器具です。家畜を拘束(こうそく)、束縛(そくばく)することから、ここでの「アッシリアの軛(くびき)」という用例のように、あるものの支配によって自由や国の独立が奪われる喩(たと)えとして、軛(くびき)という言葉は使われます。

では24節の言葉から、もう一度聞いてまいりましょう。24節「万軍の主は誓って言われる。『わたしが計ることは必ず成り/わたしが定めることは必ず実現する。』」万軍の主なる神ご自身がおっしゃるのです。御心で計画なさったこと、定められたことは、必ず実現する。確かにそうでしょう。主なる神は、天地万物の創造主であるだけでなく、今なお世界の支配者でいらっしゃるからです。

 続く25節です。「わたしの領土で、アッシリアを滅ぼし/わたしの山々で彼らを踏みにじる。その軛(くびき)は、わが民から取り去られ/その重荷は、肩からはずされる。」北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされます。それだけでなく、多くの人が捕虜として連れて行かれます。捕囚です。惨(みじ)めです。皆、生きていくのが辛かったでしょう。アッシリアの軛(くびき)は、重く、イスラエルの民にのしかかってきたのです。同じような苦しみを、現在も難民と呼ばれる人たちが負っていると思うと、心が痛みます。

しかし、主なる神はイスラエルを苦しめるアッシリアを滅ぼしてくださるのです。そのようにして、イスラエルが負った軛(くびき)を取り除いてくださるのです。肩に食い込んでいた重荷もはずしてくださるのです。解放です。惨(みじ)めで辛い中から、自由と独立へイスラエルを導き出してくださるのです。

 26節「これこそ、全世界に対して定められた計画/すべての国に伸ばされた御手の業である。」このアッシリアからの解放は、ほかならぬ、神の御手の業、神のご計画に基づくものなのです。そのことを決して忘れはならないのです。

 そして、28節以下は、「ペリシテに対する警告」です。しばしば、イスラエルを苦しめたペリシテです。しかし、アッシリアに、バビロンにペリシテもイスラエルと同様に苦しみを受けるのです。ですから、アッシリア、そしてバビロンが滅ぶことは、ペリシテにとっても喜ばしいことです。しかし、そこでいい気になって図に乗ってはならないのです。ペリシテに神の警告の言葉が告げられるのです。

 29節です。「ペリシテの民よ、だれも喜んではならない/お前を打った鞭(むち)が折られたからといって。蛇(へび)の根から蝮(まむし)が出る。その子は炎のように飛び回る。」そして、30節、31節、「 30 わたしは、飢えによってお前の根を断ち/お前の残りの者を殺す。31 門よ、泣き叫べ、町よ、助けを求めよ/ペリシテの民は、皆、おののけ/北から、砂煙を上げて来る者があるからだ。その隊列から落伍する者はひとりもない。」主なる神に対して、畏(おそ)れ慄(おのの)かない者には警告の言葉が告げられ、それさえも聞かない者には、審判が下さるのです。25節で言われるように、「わたしの領土で、アッシリアを滅ぼし/わたしの山々で彼らを踏みにじる。その軛(くびき)は、わが民から取り去られ/その重荷は、肩からはずされる。」と主なる神に言って頂きたければ、主なる神の前に、ただただ謙遜にならなければならないのです。

 さて、本日もう一か所、マタイによる福音書 第11章からみ言葉を頂いています。もう一度お読みします。これは主イエスの言葉です。「28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29 わたしは柔和で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30 わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 ここで初めに主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃっています。以前私どもも使っていました口語訳では、「すべて重荷を負うて苦労している者は、・・・」と言われていました。しかし、ギリシア語の原文では、今私どもが使っています新共同訳同様、そして、口語訳の前の文語体の翻訳のように「すべて労する者、重荷を負う者、・・・」という順に言われているのです。しかも、ギリシア語原文では、「わたしがあなたがたを休めせてあげよう」と「わたしが」という代名詞が強調されているのです。そこで、ある方はこう訳しています。「労苦して疲れ果て、しかもなお重荷を負わせられている者はすべて、わたしのところ来なさい。わたしが、あなたがたを休ませてあげよう。」

 しかも、「休ませてあげよう」と訳している言葉は良い翻訳であると言われますが、外国語訳では、「新しい、新鮮ないのちを与える」という翻訳があり、原文では、その方が正しいそうです。こういう場面だそうです。砂漠を進んでいる。水筒の水は飲み干してしまった。喉(のど)は渇(かわ)き、お腹もすいてしまった。まさにその時、オアシスに辿(たど)り着く。新鮮な水がほとばしり出る泉を見つけ、一杯の水で喉を潤す。そして、泉の畔(あぜ)に腰をおろし、一休みする。「ああこれで生き返った。」そういう休息のことだそうです。単に休むのでなく、新鮮な水をもらって、生き返る。新しいいのちを与えられたような休息を頂くことなのです。ですから、そこから「さあ、またやるぞ。」ともう一回喜んで腰を上げることが出来るのです。そういう休息です。

 そして、先ほども申しましたように、ここでは、単に休ませてあげようではなく、「わたしが」が強調されていて、「わたしがあなたがたを休めせてあげよう」なのです。わたしとは主イエスです。主イエスご自身が休ませてあげようとおっしゃっているのです。なぜそう出来るのか。それは、30節後半で言われています。「わたしの荷は軽いからである」。主イエスの荷物は軽いからだと主イエスはおっしゃるのです。それは言い換えれば、主イエスだけが重荷を軽く出来る。軽くして下さるという事です。

 そこから、主イエスだけが軽く出来る重荷とは何でしょうか。私どもは重荷と聞いて、自分の重荷は何かと考える時、思い浮かぶのはどんな重荷でしょうか。仕事の責任。社会的責任。家族に対する責任。また、仕事の苦労。社会生活のおける苦労。家族の世話をする苦労。そのように、責任、苦労などを重荷と思っているのではないでしょうか。確かに、それらはとても重く、時には、私どもを疲れ果てさせます。主イエスがおっしゃる疲れ、重荷にそれらは確かに含まれているのでしょう。私どもは生きていて、生活していて、楽しいこともありますが、どちらかというと苦労の方が多いと思っています。主イエスはそのような重荷を軽くしてくださるのです。

 しかし、それだけでなく、私どもはついつい目を瞑(つむ)ってしまう大きな大きな重荷があります。既に私どもには負い切れないし、しかも、どうしても目を反らしていたい重荷です。それは、私どもの罪です。傲慢にも神の背き、人を深く傷つけている罪です。そうです。これこそは主イエスだけが私どもに代わって、全部担ってくださった私どもの重荷です。他の重荷は私どもが不当にも負わされてしまったものが多いでしょう。それらの責任は私どもにないでしょう。しかし、罪の重荷は、私ども自身から出た重荷です。その意味では、自業自得です。そして、今も申しましたように、私どもはほとんどの時、この罪という重荷から目を反らしています。そして、さらに罪を重ねています。しかし、神の前に誠実に、真剣に立つ時、この罪の重荷は無視できません。しかも、その重さに耐えられる人は一人もいません。そして、この重荷をどうにか出来るのは、主イエスお一人なのです。この重荷を軽く出来るのは主イエスお一人、すなわち主イエスの十字架しかないのです。そして、そこでも主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃってくださっているのです。真に有難いばかりです。涙が出るほど有難いばかりです。

 さらに主イエスはここで、「主イエスの軛(くびき)は負いやすい」と言われています。ここで「負いやすい」と訳されている元の言葉は、「良く体に合った」「体にぴったりしている」という意味の言葉だそうです。主イエスのおられたパレスチナでは、農作業のために牛を購入すると、その牛の体型に合った軛(くびき)が作られたそうです。軛(くびき)は大体出来ると実際に牛に付け、微調整されたそうです。そのようにして、軛(くびき)を付けた牛の首の皮が擦(す)りむけないようにしたということです。ですから、軛(くびき)は牛の体に合わせた特注品だったのです。ところで、主イエスは、公生涯に入られる前、母マリアの夫ヨセフの仕事を継いで、大工としてはたらき、母マリアはじめ、弟たち、妹たちを養っていました。大工と言っても、家を建てるのではなく、家具などを作っていたと言われます。そして、ある伝説によると、主イエスはガリラヤ地方で一番の軛(くびき)作り名人であったそうです。そのため、「わたしの軛(くびき)は負いやすい」「わたしの軛(くびき)はぴったり合う」との言葉は、そもそも軛(くびき)作り名人の主イエスから来ているのだと言われるのです。

そして、私は思います。牛などの家畜に付ける軛(くびき)は、農作業などのために、二頭の牛を横にぴったり並ばせるために用います。そこから、私どもの軛(くびき)の片方は主イエスに掛けられているのではないでしょうか。そのようにして、主イエスは一緒に軛(くびき)を負って、一緒に重荷を負って下さる方です。主イエスが私どもと共にいてくださるとの意味の一つはそういう事でもあるのだと思います。どんな時も、苦しい時も、一緒にいて、一緒に軛(くびき)を、重荷を負ってくださるのが、私どもの救い主、主イエス・キリストなのです。

本日も最後に、このあと賛美する新聖歌の歌詞のことを述べさせて頂きます。新聖歌248番の歌詞は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃった主イエスの深い憐みと愛をイメージ豊かに表していると私には思えるのです。1節はこう賛美します。

  人生の海の嵐に もまれ来しこの身も

  不思議なる神の手により 命拾いしぬ

  いと静けき港に着き われは今 安ろう

  救い主イエスの手にある 身はいとも安し

人生の嵐にもまれ、傷つき、深い悲しみを負った私、そのような苦しみの中にあっても、主なる神の不思議なお守りとお導きによって、今このようにあることを感謝せずにいられない。ひどく傷ついた船がようやく港に辿(たど)り着くように、今、私は主イエスという港に停泊している。主イエスはここで休息と慰めと癒しを与えてくださる。主イエスの御手の中にあって、今、私は平安に満たされている。まさに、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃった主イエスのお姿が目に浮かぶような歌詞です。思う存分、主イエスの御手の中で憩(いこ)い、休ませていただき、新しいいのちを頂きましょう。

お祈りを致します。

 

私どもの救い主であり、慰め主であり、癒し主である主イエス・キリストの父なる神よ。私どもは、この世の軛(くびき)と重荷によって、疲れ果てています。生きるのが辛くなることあります。しかし、あなたと御子は、その私どもの苦しみを、悲しみを、そして疲れを、誰よりもご存知です。どうぞ、私どもを憐み、お慰め下さい。どうぞ、私どもに休息と新しいのちと希望を与えてください。そして、どんな時も私どもを見捨てることなく、私どもの傍近くにいて下さい。あなたが共にいてくださる事こそ、私どもの慰めであり、希望であり、力です。どんな時にもあなたと御子が私どもと共にいてくださることを決して忘れる事がありませんよう、私どもをいつも励まし、導いて下さい。

 インマヌエル、神我らと共にいますとのお名前も持っていらっしゃる、神の御子主イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン。

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2018年7月22日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第15章1~9節

 

 1 モアブについての託宣。一夜のうちに、アルは略奪され、モアブは滅びた。一夜のうちに、キルは略奪され、モアブは滅びた。2 ディボンの娘は、嘆くために聖なる高台に上った。ネボの上で、またメデバの上で/モアブは泣き叫ぶ。皆、髪をそり上げ、ひげをそり落とす。3 巷(ちまた)で、人々は粗(あら)布(ぬの)をまとい/屋上でも広場でも皆、泣き叫び、嘆きくずおれる。4 ヘシュボンとエルアレは助けを求めて叫び/その声はヤハツにまで聞こえる。それゆえ、モアブの武装した勇士も悲鳴をあげ/その心はおののく。5 わが心は、モアブのために叫ぶ。逃れて行く者がツォアルへ/エグラト・シェリシヤへと向かう。彼らは、ルヒトの坂を泣きながら上り/ホロナイムへの道で、絶望の叫びをあげる。6 ニムリムの水は干上がり/草は枯れ、青草は尽き/緑はなくなった。7 それゆえ、彼らは蓄えた富と家財を携え/アラビムの川床を渡る。8 叫び声は、モアブの全域に響き渡り/泣く声は、エグライムまで/またベエル・エリムにまで達する。9 ディモンの水は血に染まる。わたしが、ディモンに災いを加え/モアブの難民とアダマの生き残りの者に/獅子を送るからだ。

 

イザヤ書 第16章1~14節

 

 1 使者を立て、貢ぎ物の羊を送れ/その地を治める者よ/荒れ野の町セラから、娘シオンの山へ。2 「アルノンの渡し場に集うモアブの娘らは/巣を追われ、さまよう鳥のようです。3 助言し、指示を与えてください。真昼にも夜のような陰となって/追われた者を隠し/さまよう者を覆ってください。4 モアブの追われている者を/あなたのもとに宿らせ/破壊する者から隠してください。」まことに、地上から虐げる者はうせ/破壊する者は滅び、踏みにじる者は絶える。5 そのとき、ダビデの幕屋に/王座が慈しみをもって立てられ/その上に、治める者が、まことをもって座す。彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす。6 我々はモアブが傲慢(ごうまん)に語るのを聞いた。甚(はなは)だしく高ぶり、誇り/傲慢(ごうまん)で驕(おご)っていた。その自慢話はでたらめであった。7 それゆえ、モアブは泣き叫べ。モアブのすべての者は泣き叫べ。キル・ハレセトで供えたぶどう菓子のゆえに/お前たちは打ちのめされて呻(うめ)け。8 ヘシュボンの畑、シブマのぶどうは枯れた。かつて、その若枝は諸国の支配者たちを押さえ/ヤゼルに達し、荒れ野にはびこり/つるは広がって、海を越えたのに。9 それゆえ、わたしはヤゼルのために/また、シブマのぶどうのために泣く。ヘシュボンよ、エルアレよ/わたしは涙でお前を浸す。お前の果物の取り入れと麦の刈り入れに/鬨(とき)の声が襲いかかったからだ。10 わたしは果樹園から喜びも楽しみも奪う。ぶどう園で喜びの叫びをあげる者も/酒ぶねでぶどうを踏む者もいなくなり/わたしは喜びの声を終わらせる。11 それゆえ、わがはらわたはモアブのために/わが胸はキル・ヘレスのために/竪琴のように嘆く。12 モアブが幾たび聖なる高台にもうで/その神殿を訪れて、祈っても/何の役にも立たない。13 これは昔、主がモアブについて語られた言葉である。14 更に今、主は言われる。「雇い人の年期のように三年たてば、多くの民を持つモアブの栄光は必ず終わり、わずかな者だけが残され、力はうせる。」

 

ルカによる福音書 第18章9~14節

 

 9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ローマの信徒への手紙 第16章24節の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。」

皆さんとご一緒にイザヤ書の言葉を聞き続けています。本日の箇所はこう始まっています。「モアブについての託宣。一夜のうちに、アルは略奪され、モアブは滅びた。一夜のうちに、キルは略奪され、モアブは滅びた。」モアブに災いが下るとの預言です。アルもキルもモアブの町です。一夜のうちに略奪され、滅ぼされると言われています。瞬(またた)く間に審(さば)きが下るのです。ある人は本日の箇所を「モアブの断末魔」という題を付けています。

2節では、こう言われます。「 ディボンの娘は、嘆くために聖なる高台に上った。ネボの上で、またメデバの上で/モアブは泣き叫ぶ。皆、髪をそり上げ、ひげをそり落とす。」ここにもモアブの町の名がいくつも出てきます。そして、モアブ全土で、嘆きが泣き叫びが響くのです。「髪をそり上げ、ひげをそり落とす」ことは喪に服していることを表しています。多くの命が犠牲となり、モアブ中が喪に服しているのでしょう。

このように、読んでいるだけで、辛くなります。ここには全く希望がないとも言えるでしょう。では、なぜ、そうなってしまったのでしょうか。それが、第16章6節で言われています。「我々はモアブが傲慢(ごうまん)に語るのを聞いた。甚(はなは)だしく高ぶり、誇り/傲慢(ごうまん)で驕(おご)っていた。その自慢話はでたらめであった。」モアブの傲慢(ごうまん)、高ぶりがここで告げられている滅びの預言の原因だったのです。傲慢(ごうまん)、高ぶりが、モアブに、そして私どもにどのような結果をもたらすか、心にしっかり刻んでおきたいと思います。

本日は、今聞きましたイザヤ書 第15章6節の言葉、「我々はモアブが傲慢(ごうまん)に語るのを聞いた。甚(はなは)だしく高ぶり、誇り(ほこり)/傲慢(ごうまん)で驕(おご)っていた。その自慢話はでたらめであった。」との言葉を受けて、ルカによる福音書 第18章の言葉を与えられました。本日与えられましたルカによる福音書の言葉は、こう始まっています。9節です。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」イザヤ書で言われている「傲慢(ごうまん)、高ぶり、誇り、驕っている」の部分が、ルカによる福音書の「自分は正しい人だとうぬぼれて」とか、「他人を見下している」と言われている部分と対応しています。

もう一度、ルカによる福音書の記事をお読みします。「9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」 13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』」

ここに出てくるファリサイ派の人は、律法を厳格に守っている人です。そして、徴税人とは、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の手先になって、ローマ帝国に納める税金を集めていた人たちです。ユダヤ人は自分たちが神の民であるという自負があるにもかかわらず、異教徒であるローマ人の支配の下にあることをとても屈辱的(くつじょくてき)に思っていました。そのために、ローマ帝国の手先になって、ローマ帝国に納める税金をユダヤ人の仲間から取っていた徴税人は、人々から嫌われ、軽蔑され、裏切り者、罪人として見られていたのです。

ある人は、この箇所についてこんなことを言っています。「私どもが、自分には主イエスに見出していただける信仰があるかと問う時、何よりも、私ども自身の中に、この譬えのファリサイ派の人の影が宿っていないかどうかを問わなければならない。」普段意識しなくても、私どもはこのファリサイ派の人と同じ思いを私どもの中に持っていないかと問われているということです。そのことを吟味するために、ファリサイ派の人がどんな祈りをしていたか、よく見てみましょう。ファリサイ派の人はこう祈っていました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ここで、神様に、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でないことを感謝しています。自分が正しい道を歩んでいることを感謝しています。祈りの中で大切な感謝が、ここで捧げられています。それも、神の戒めに従って、人から奪い取ることも、不正をはたらくことも、

姦淫(かんいん)の罪を犯すこともなく歩めていることを感謝しています。ここだけ見れば、信仰者として、模範的な歩みをしているようで、そのことを感謝しているのですら、正しい祈りを捧げていると言えるでしょう。さらに、12節で言われていますように、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈っています。ファリサイ派の人は厳格に律法を守りっていました。それは私どもが真似できない程、普段の生活の中で、厳格に守っていたのです。その一つがここで言われている断食です。当時、週に二回するように勧められていて、このファリサイ派の人はそれを実行していたのです。そして、今も、キリスト者の皆さんが大切にしている十一献金を捧げていたのです。収入の十分の一を献金としてお捧げすることです。この点だけを見れば、このファリサイ派の人は模範的な信仰者であったと言えるでしょう。

しかし、問題となるのは、「わたしはほかの人たちのように、・・・犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」と言っている点です。自分だけを義人、正しい人として、他の人を見下げている点です。それゆえ、このファリサイ派の人の祈りは、祈りになっていないとまで言われます。確かに自己アピールです。人が生きていく上で、自信をもって生きることは大切なことです。しかし、このファリサイ派の人は他人を軽んじることで、人と比較することで、自信を得ているのです。このように、人と比較すること、誰々よりましだ、という所を根拠にして、自分に自信を持つということでしか成り立たないということは、どう見てもおかしいことです。

ところで、デンマークのキリスト者思想家であったキルケゴールは、すぐれた聖書講話を残しています。その中に本日の箇所について述べた所があります。こう言っています。「『神よ、私はこのファリサイ派のような人間でないことをあなたに感謝します』と祈る偽善者がいるものだ。キリスト教会は謙虚を世に説いたが、すべての人がキリスト教会から謙虚を学んだわけではなかった。偽善は変装することを学んだが、それほど変わりばえはしないばかりか、むしろ、悪くなったという方がよい。・・・・誇りと虚栄と高慢ちきが食卓の末席についた。」そのように言っているのです。最後に、末席についたとあるのは、上座(かみざ)につくな、下座(しもざ)につきなさいと主イエスがおっしゃったことに従っているのです。このように、キルケゴールは、多くの人が自分はここに登場する模範的な徴税人であると思っていることを指摘しています。キルケゴールらしい鋭い指摘で、耳に痛い言葉です。それを「徴税人ファリサイ主義」とも言うようです。私どもは一歩間違えるとそのようなファリサイ派を見下げる徴税人となってしまうのです。

では、徴税人はどうしていたでしょう。こう言われています。「13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」徴税人も祈るために、ここに来ています。しかし、彼の言葉は祈りになっていないと言う人もります。嘆きの言葉です。憐みをこい願う叫びです。そして、彼は神のみを見上げています。自分と誰かを比較することはしていません。その余裕もないのでしょう。そして、主イエスはおっしゃるのです。14節です。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

ファリサイ派の人が重んじていた信仰の行為は大切なことです。主の言葉、一つ一つを大切にして、従い、それを実行することはとても大切なことです。そして、それと同じ位、いやそれ以上に、神の前に人の前にへりくだること、人と自分を比較して一喜一憂しないこと、人を見下さないことが、人と比較するのでなく神のみを見上げること、それらがとても大切であると主イエスはここで教えて下さっているのです。

 「へりくだる者は高められる」その最たる方が主イエスです。フィリピの信徒への手紙 第2章6節以下でこう言われています。「6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」主イエスはへりくだるお手本を示してくださいました。そして、父なる神は「へりくだる者は高められる」ことを主イエスによって、見せてくださったのです。

 私どもも、へりくだることを学びましょう。主イエスに倣って、神の前にも人の前にも、へりくだって歩んでまいりましょう。人と比較して、そこで喜んだり悲しんだりする愚かなことをやめましょう。人と比較するのでなく、父なる神を、御子主イエスだけを見上げてまいりましょう。

 本日も、最後に、このあと賛美する新聖歌のことをお話しします。改めて問います。なぜ、私どもは、自分と人を比べ、高ぶるのでしょうか。傲慢(ごうまん)になるのでしょうか。その一つは、何とかして安心したいからです。心の平安を持ちたいからです。そこで、手っ取り早く自分は優れているという自己満足をしたいのです。心を何かで満たしたい。その際に、高ぶり、驕りは手っ取り早く、心を満たしてくれるのです。しかし、手っ取り早いのと同様に、それは長続きしないのです。ですから、常に、高ぶり、驕っていたくなるのです。しかし、そこに本当の平安、満足はありません。いつまでも心が満たされないのです。それは、新聖歌358番の1節の歌詞の最初に歌われている通りです。

   神なく望みなく さ迷いしわれも

 神を見いだせず、迷っているのです。そこで、手っ取り早く手に入れられるもので心を満たそうとするのです。

 しかし、新聖歌の賛美者は、そこで、本物をつかむのです。福音を受け入れ救われるのです。それが続く歌詞です。

    救われて主をほむる 身とはせられたり

    われ知るかつては 目見えざりしが

    目を開かれ 神をほむ 今はかくも

 真の信仰を頂くことで、迷いはなくなるのです。虚しいもので、心を満たす必要もなくなるのです。他の人を見下して、一時(いっとき)の満足を得ようとする愚かなこと止めるのです。そうです。主イエスの十字架の救いを知って、主イエスを救い主と受け入れることで、私どもは心の目を信仰の目を開かれるのです。そうなったら、ただただ神をほめたたえる者とされるのです。救いの恵みの大きさに気付いた時、私どもは、それまでの高ぶりや傲慢(ごうまん)に頼ることから脱却し、人と比較して一喜一憂する迷いから、抜け出すことが出来るのです。私どもも、救いの恵みを頂き、信仰の目を開いて頂き、最も貴い、福音に生きてまいりましょう。

 お祈りを致します。

 

私どもの救い主である主イエス・キリストの父なる神よ。私どもは、いつのまにか、驕(おご)り、高ぶることを覚えてしまいました。そして、愚かにも、自分と人を比較し、自慢してしまいます。どうぞ、そのような私どもの罪を、愚かさを砕いてください。そして、主イエスに倣って、へりくだって歩む者とさせてください。神の御子主イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン。

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2018年7月29日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

マルコによる福音書 第12章30節

 

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

 

テモテへの手紙 二 第4章7節

 

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。

 

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、信仰を守り抜きました。」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。コリントの信徒への手紙 一 第1章3節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

昨日、私は、雨が降る中、多磨霊園で、永井俊子姉(しまい)の納骨式の司式をさせて頂きました。ご家族、御親戚、20名ほどの方が参列されました。行きはお孫さんの自動車に同乗させて頂き、そして、教会までの帰り道はご長男の自動車に同乗せて頂きました。そのお陰で、ご家族の方々とお話しする時間を与えられました。ご長男のお嫁さんがこうおっしゃっていました。「お母さんは、私に向かって、『嫁のあなたも、娘と同じよと』言って、二人の娘と出かける時は、いつも私も連れて行ってくれました。」そうおっしゃっていました。また、お孫さんからは、おばあちゃんの俊子姉は、箸(はし)の持ち方などの躾(しつけ)には煩(うるさ)かったとお聞きしました。また、お孫さんが、俊子姉になぜ神さまを信じるようになったのと尋ねたことがあったそうです。こんな答えが返ってきたそうです。戦争で、家族二人を失った。そして、人間はとても弱い存在であることを知った。そこで、神様に頼っていこうと決めた。そのようなお答えだったそうです。俊子姉はご自分の無力さを痛感され、真剣に神様を求められたのです。そう思うと、私はそのように真剣に神を求める思いを持ったことがあったかと思わされました。信仰の先輩である永井俊子姉の生き方から、私はいくつも大切なことを教えて頂いたように思っています。

 さて、本日は、その永井俊子姉が召されてからちょうど2週間後の6月26日火曜日に、同じく主の下(もと)に召されました柴田信子姉を偲びつつ、説教をさせて頂きます。先ほど賛美しました讃美歌312番、そして、332番、そして、説教のあとに賛美します500番は、いずれも柴田信子姉の愛唱(あいしょう)讃美歌です。そして、先ほど朗読しました聖書箇所も柴田信子姉の愛誦(あいしょう)聖句です。

 その柴田信子姉は、ご自分人生を振り返ると共に、厚木教会との係わりを、短くこう書き残されています。

   1924年5月3日、メソジスト教会の牧師の長女として生まれる。第二次世界大戦のために、戦前、戦中、戦後と全く異なった三つの人生を送った。

   1981年12月25日に57年住み慣れた東京を初めて離れ、家族で厚木に移転。孫の怜奈(れいな)が厚木幼稚園にお世話になった事がきっかけで厚木教会との出会い、それからが、充実した本当の人生だったと思います。神さまの大きな御力(みちから)によって、厚木教会に導かれた事を感謝致します。

 そのように、書いておられます。

 今ご紹介しました中に、「メソジスト教会の牧師の長女として生まれる」とありました。メソジスト教会とは、18世紀、英国でジョン・ウエスレーによって興(おこ)された信仰覚醒(かくせい)運動から発展した教派のキリスト教会です。メソジストとは規則正しい生活方法「メソッド」を重んじることから、「几帳面屋(きちょうめんや)」という意味の「メソジスト」とあだ名されたことに始まるそうです。規則正しい生活が出来ているか、どうか、互いに報告し合う少人数の「組会」や信仰のレベル別のバンド・ミーティングを重視したそうです。また、貧民救済などの社会活動にも熱心な教派です。日本では、かつて、禁酒運動も行っていたと聞いています。メソジスト派のミッションスクールとして有名なところは、青山学院大学や関西学院大学があります。

 柴田信子姉は、そのメソジスト教会の牧師の長女として生まれたとのことです。戦争中、キリスト教会は敵国の信仰ということで蔑視(べっし)されることもありました。また、国体(こくたい)護持(ごじ)に反する思想を取り締まる特高(とっこう)、特別高等警察が日曜日の礼拝を監視することもありました。柴田姉や牧師であるお父様がどのようなご苦労をされたかは分かりませんが、とても辛い時期であったことは確かでしょう。そして、戦時下、慢性的(まんせいてき)な食糧不足の中で生活されことと思います。また、多くの戦死者が出しましたから、たぶん身近な方も亡くなられたことでしょう。

 では、戦後はどうでしたでしょうか。柴田姉はアメリカ軍人の方とご家婚されます。しかし、幸せは束(つか)の間(ま)、ご主人は朝鮮戦争で戦死されます。その後、女手一つで息子さんを育てられました。戦後もご苦労が多かったことと思います。

 ところで、この日本バプテスト厚木教会は、今から18年前、ちょうど2000年に、創立100周年を迎えました。それを記念して刊行された100周年記念誌「神をたたえて」が作られました。柴田信子姉は、その中で、こう書いておられます。題は、「厚木教会とわたし」です。お読みします。

   1981年12月25日、57年住み慣れた東京を泣きの涙で離れ、厚木へと家族と共に越して参りました。初めは、知り合いもなく友だちも遠くなってしまい、寂しく悲しい毎日でした。でも、怜奈(れいな)(孫)が厚木幼稚園にお世話になることになり、キリスト教の幼稚園なので、お話会とか、その他の行事はすべて私が出ることになりました。私は何か不思議な感じがしました。

   3月の幼稚園のご用がすんで帰ろうとしたとき、阿部名誉牧師夫人の義枝姉(しまい)(その頃は幼稚園の先生でした)が、「今度の日曜日はイースターだから、教会へいらっしゃいませんか。」と、おっしゃってくださったので思い切って日曜日に教会へ行きました。受付で、高橋ミヤ姉(しまい)が優しくそろえてくださったスリッパを履(は)いて会堂の中へ入ると、「お早うございます。」というきれいな声と、素晴らしい笑顔に迎えられました。今はもうみもとに召された小林みつを姉(しまい)でした。「車椅子にかけていらっしゃるのにこの明るい笑顔、どうしてなのか。」とその時は思いました。

   礼拝が始まり、式が進んで阿部牧師のお説教が始まった途端に、涙が出てきて止まりませんでした。牧師の家に生まれ、敬虔(けいけん)なクリスチャンの中で育てられたのに、戦中、戦後とあまりにも悲しくつらい寂しい思いをしたために神様を信じないのみか、恨みさえしたこともありました。そんな私さえ神様は許してくださり、もうそろそろ戻っておいで、と厚木へ、そして、厚木幼稚園・厚木教会へと導いてくださったのです。それからの毎日は、信じられないほどすべてのことが楽しく思えるようになりました。教会のご用で何かご奉仕できることはないかと思い、先輩の姉妹方のお仲間に入れていただいて、まずかいどうのお掃除をやらせていただきました。それから婦人会のいろいろな行事のお手伝い、食事会の準備、バザー出品用の作品作り、また、七沢の老人ホームでのボランティア等々(などなど)。日曜日には、兄弟姉妹方と礼拝を守り、その他の日は時間の許す限りご奉仕させていただきました。

   あれから17年、不平不満の多かった以前に比べて、喜びと感謝を全く新しく与えられたような気がしております。神様は多くの友を与えてくださいました。教会のご用で他の教会にうかがった時に、大先輩の方が、「命ぜられたら断るな。」という言葉を教えてくださいました。私は、この言葉の重さを感じるとともに、大好きな言葉になりました。これからは、常にこの言葉を胸において礼拝を守り、み言葉の勉強をして、与えられた命の終わりまで神様の大きなご愛を信じて、強い信仰を貫きたいと思います。

   大好きな厚木教会の100周年記念おめでとうございます。

   感謝

 柴田信子姉は、日本バプテスト厚木教会に導かれたことを感謝し、日本バプテスト厚木教会を、とても愛してくださっていた事が伝わってくる文章だと思います。

 柴田信子姉は、お元気な時はいろいろとご奉仕くださいました。その一つがオルガンのカバーです。今は、礼拝中なので外(はず)していますが、礼拝堂正面右手にありますオルガンに架けるえんじ色のカバー、素敵な金の帯がついていますが、これは柴田信子姉が作ってくださったものです。

さて、先程お読みしました柴田信子姉の愛誦(あいしょう)聖句、その一つがマルコによる福音書 第12章30節の言葉です。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』この言葉はどういう状況で言われた言葉か、見てまいりましょう。マルコによる福音書 第12章28節以下です。「28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』29 イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」31 第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない。』32 律法学者はイエスに言った。『先生、おっしゃるとおりです。「神は唯一である。ほかに神はない」とおっしゃったのは、本当です。33 そして、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優(すぐ)れています。』」34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」そういう記事の中にある言葉です。掟の中で第一の掟とされるもの、すなわち、人として心がけるべき第一のことは何かという問いの答えです。それが柴田信子姉の愛誦(あいしょう)聖句の一つ、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」なのです。第二の掟、「隣人を自分のように愛しなさい。」も大切な掟で、こちらを愛誦(あいしょう)聖句にされている方(かた)もいます。確かにそれも私どもにとって、大切な掟、戒めです。それでも、柴田信子姉はそれ以前のまず神を愛することが大切だとされているところに、柴田姉らしさが現われているのではないかと私は思います。隣人を愛することはとても大事なこと、しかし、その前に私どもの造り主である神、さらには、私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神を、持てるものすべてをもって愛さなければと思われたこと、たぶん、そこに柴田姉の信仰の原点があったのだと思われます。そういうことで、この聖句を愛誦(あいしょう)聖句にされたのではないでしょうか。

先程、交読文で詩編 第23篇をご一緒に読みました。こちらも、多くの方が愛誦(あいしょう)聖句とされています。確かに何度読んでも、何度聴いても、癒(いや)される詩編です。たぶん、柴田信子姉もこの詩編を愛されていたに違いありません。しかし、こちらを愛誦(あいしょう)聖句とはなさらずに、第一の掟を愛書聖句とされているところに、柴田姉の信条が現われているように私には思えます。神の恵みを感じる聖句よりも、自分を戒める聖句を掲げられるのは、自分の生活を律していくことを大切にするメソジストの信仰なのではないでしょうか。そこに柴田姉の信仰の核心があるように私には思えるのです。全身全霊をもって、神を愛し、神に従っていくことを旨とし、日々過ごされていた一人の信仰の先輩の姿を、私はそこに見ることが出来ます。これぞ、私どもが受け継ぐべき大切な信仰の遺産ではないでしょうか。

 さて、もう一つの愛誦(あいしょう)聖句は、テモテへの手紙 二 第4章7節です。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」です。では、この言葉はどのような文脈の中で語られて言葉なのでしょうか。テモテへの手紙 二 第4章1節以下です。「1 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳(おごそ)かに命じます。2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。3 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、4 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。5 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。6 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。7 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」

 「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」この言葉は、使徒パウロが良く面倒をみていた後輩の伝道者テモテに送った手紙の中に書いた言葉です。いつも全力で神に仕え、伝道してきたパウロらしい言葉だと思います。柴田姉は、自分もそうなれるようにと、この言葉を愛誦(あいしょう)聖句にされたのではないでしょうか。そして、私は、柴田姉ご自身も「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」と神に申し上げて、神のもとに召されていかれたと信じています。

その言葉のように、柴田姉は、体力が衰える中にあっても、ぎりぎりまで礼拝に来られました。そのため、転んでしまうこともしばしばだったようです。そんな柴田姉を礼拝の帰りに駅まで自動車でお送りくださったり、皆さんで、柴田姉を支えておられた様子もとても麗(うるわ)しい姿だったと思っています。

 そして、歩けなくなり、礼拝にいらっしゃれなくなり、ご家族の介護の負担も大きくなられたために、柴田姉は介護施設に入られました。わたくしも、時々、施設にお見舞いに行かせていただきました。教会の皆さんも柴田姉をお訪ねくださいました。その頃、次のクリスマス礼拝にはぜひ行きたいと繰り返しおっしゃっていました。しかし、残念ながら、実現しませんでした。そのように、柴田姉は、日本バプテスト厚木教会を愛し、皆と一緒に礼拝を捧げることをひたすら求めておたれました。 

 本日も最後に、このあと賛美する讃美歌のことをお話しします。讃美歌500番です。先程も申しましたように、この讃美歌も柴田信子姉の愛唱讃美歌です。1節はこういう歌詞です。

   み霊なる聖(きよ)き神/わが弱き魂を/主の下(もと)に導きて/隠れしめたまえかし

   み霊よ、み霊よ、わが霊(たま)ぞ憧(あこが)るる。

縋(すが)りまつる手をばとりて/主に導き給(たま)えかし

 柴田信子姉が、ひたすら主なる神を求めておられたお姿と、この歌詞が私にはダブって感じられます。「み霊よ、み霊よ、わが霊(たま)ぞ憧(あこが)るる。/縋(すが)りまつる手をばとりて/主に導き給(たま)えかし」。柴田姉も、み霊なる神にあこがれ、主に縋(すが)りつくようにして、私の手を取って導いてくださいと祈っておられたのでしょう。ご一緒に賛美し、私どもも柴田信子姉のように、ひたすら主なる神を求め、主なる神を愛し、仕えてまいりましょう。

お祈りをいたします。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。柴田信子姉をあなたのもとにお送りした私どもを憐れみ、お慰めください。どうぞ、あなたが、柴田信子姉と共にいてくださいましたように、ご家族と、そして信仰の兄弟姉妹である私どもといつまでも共にいてください。どうぞ、私どもも、あなたを心から信頼する信仰をいただき、柴田信子姉のように、あなたに感謝と賛美を捧げ、従っていけますように。あなたが柴田姉にしてくださったように、私どもの信仰の歩みも、お守りお導きください。私どもの救い主、イエス・キリストのお名前によって、祈り願います。アーメン。

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