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2018年8月5日 日本バプテスト厚木教会 「平和を覚える日」礼拝

 

マタイによる福音書 第5章9節

 

平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

 

 

 

「平和を実現する人々は、幸いである」

 

 8月に入りました。今週も、主イエスが復活された主の日の朝に、共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝致しております。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めす。コリントの信徒への手紙 一 第16章23節の言葉です。「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」。

 年配の方々には申し上げるまでもないことですが、若い方もいらっしゃいますので、申し上げます。明日8月6日は、73年前、広島に原子爆弾が投下された日です。そして、今週木曜日9日は、こちらも73年前、長崎に原子爆弾が投下された日です。さらに、来週水曜日15日は、73年前、大東亜戦争と呼ばれていた、日中戦争・太平洋戦争に、日本が敗戦した日です。日本において、8月は戦争の悲惨さを、愚かさを、語り継ぎ、平和の貴さを覚える時となっています。私どもの教会が属する日本バプテスト同盟も、それに合わせ、8月第一主日を「平和を覚える日」としています。ご一緒に平和の貴さを覚え、平和を作り出し、平和を守っていきたいと思います。

本日与えられました聖書の言葉は、「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」です。これは、山上の説教と呼ばれる主イエスの説教、マタイによる福音書の第5章から第7章に渡る説教の1節です。

ある神学者は言います。ここで主イエスが、せめて、「争いを好まない人は幸いである」と言ってくれたら、どれほど気が楽だったろうか。誰でも、争いは好きではないでしょう。出来ることなら、人と争うことなく、穏(おだ)やかに過ごせればいいなと、誰もが思っていることでしょう。ですから、「争いを好まない人は幸いである」と主イエスがおっしゃってくだされば、誰もが主イエスのおっしゃる「幸い」を手に入れることが出来ることになります。しかし、主イエスはそうはおっしゃらなかったのです。「平和を実現する人々は、幸いである」とおっしゃったのです。そこで、私も思いました。せめて、「平和を願っている人々は、幸いである」と主イエスがおっしゃってくださったのなら、どれほど、主イエスの言葉を聴き易(やす)かっただろうなということです。平和を願うことも、争いを好まないことと同様、多くの人が願っていることでしょう。私どももそうです。平和を願うことだったら、自分でも出来そうです。既にそうしています。ですから、そう主イエスがおっしゃってくださったのなら、主イエスの約束してくださる「幸い」を、私ども皆でいただくことが出来るでしょう。しかし、主イエスはそうはおっしゃらなかったのです。

「平和を実現する人々は、幸いである」。口語訳では、「平和を作りだす人たちは、幸いである」と言われていました。平和を作り出す、平和を実現するということは、容易なことではありません。成果を出すということです。結果を出すということです。しかも、ここで平和を作りだす、平和を実現するということは、争いがある所を逃げ出し、遠くへ行って、平和の理想郷を造ることではないと言われます。争いのある所に留まって、そこで、平和を作り出すこと、平和を実現することだと言われます。そう言われると益々、難しいことと思えます。不可能に近いのではないかとさえ思ってしまいます。

ところで、新約聖書の元の言葉、ギリシア語で「平和を実現する人々」とは、一つの単語です。そして、この言葉は、聖書においては、キリストの御業について語っている言葉ですが、その他では、世の権力者、支配者、例えばローマの皇帝のような大権力者を呼ぶのに用いられる言葉だそうです。一般に、「平和を実現する人」とは、権力者、ローマ皇帝のような大権力者に用いられる言葉だそうです。そのような人でなければ、平和を実現することは出来ないと思われていたのでしょう。

また、後半の「その人たちは神の子と呼ばれる」との言葉にある「神の子」とは、通常は主イエスご自身を呼ぶのに使われる言葉です。そして、聖書以外では、やはりこちらも大権力者、皇帝を呼ぶ時に使われた言葉です。さらに申せば、ローマ皇帝は、自分のことを、ここで使っている「神の子」と呼ぶように要求したのです。

では、主イエスは、「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」との言葉を、誰に向かっておっしゃったのでしょうか。今申しましたように、当時のこれらの言葉の用いられ方からすると、世の権力者たちです。ローマの皇帝とまではいかなくても、皇帝の承認を受けて、大きな権力を握っていた人たちでしょう。そのような人たちだけが、平和を実現できると、一般には思われていました。しかし、主イエスがここでお話しされている相手は、そうではありませんでした。主イエスがこの言葉をおっしゃった山上の説教の冒頭、マタイによる福音書 第5章1節2節では、こう言われています。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」。そうです。主イエスの言葉を聴いていたのは、世の権力者たちではなく、弟子たちをはじめとする群衆です。私どもと同じ普通の人々です。私どもと同じ庶民です。ですから、この主イエスの言葉を聴いた人たちはさぞかし驚いたことでしょう。そして、福音書の最初の読者たちも、驚いたことでしょう。皇帝などの権力者に向かって言われるべき言葉を、主イエスがこの私たちに向かっておっしゃっている。何の力もない私たちに向かっておっしゃっている。それは、大変な驚きであったことと思います。

 ある神学者は言います。主イエスはこの言葉に、ご自身の十字架の重みをかけられたのだ、と。主イエスは、敵を愛しなさいと同じ山上の説教の中でおっしゃっています。ただし、それは言い放しであったわけではありません。ご自身で、敵を愛され、お手本を見せてくださっています。主イエスは、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカによる福音書 第23章34節)。」と祈ってくださいました。自分を殺している者に対して、最高の愛を示されました。敵を愛されたのです。その意味で、主イエスは有言実行です。それと同様、「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」との言葉においても、主イエスはご自身で、お手本を示されたと、その神学者は言うのです。それがまさに十字架だと言うのです。

 主イエスの十字架は、私ども皆の罪を償ってくださいました。それは、神と私どもを和解させていくださったとも言えます。神に逆らい続けていた私ども人間は、神に背き、自ら神と不仲になってしまいました。その状態を解消するために、主イエスが神と私どもの間をとりもってくださり、ご自身の十字架によって、和解を実現してくださったのです。そうして、神と私どもとの間に、平和を、平安を、取り戻してくださったのです。その意味で、主イエスは「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」とおっしゃった言葉においても、有言実行だったのです。

 このように、私どもが平和を考える時、まず考えなければならないのが、神との平和です。その平和を主イエスが実現してくださったこと、主イエスが神と私どもとの間に和解をもたらしてくださったことを押さえておかなければなりません。まず、私どもそれぞれが、主イエスによって、神と和解させていただき、神との間に平和を実現していただくのです。それに基づいて、人と人との平和を作りだして行くのです。平和を実現するのです。

 先ほど、平和を作りだすこと、平和を実現することは、私どものような力のない者には不可能に近いと思われると申しました。しかし、神との平和を実現してくださった主イエスが、私どもと共にいてくださることを考えると、これは決して不可能でないことが分かります。確かに平和を実現することは容易(たやす)くありません。しかし、主イエスが共にいてくださるのです。それに、そもそも、主イエスは私どもに無理難題をふっかけて、私どもが困らせるような方ではありません。確かに主イエスが求められることは、容易なことではありません。時には厳しく思えることもあります。しかし、そこで私どもが困惑することを主イエスが望んでおられるはずがありません。主イエスの言葉は、どれも、私どもが、しっかり主イエスについて行けるようにと、私どもを導いてくださる言葉なのです。

 先ほど、「日本バプテスト同盟『戦争責任』に関する悔い改め」をご一緒に読みました。これは、私ども日本バプテスト同盟の歴史認識でもあり、現代に生きる私どもが忘れてはならない指針でもあります。ただ、このような歴史認識を自虐的であると主張する人がいます。先の大戦で日本は悪くなかったと主張する未だに多くいます。そして、この「日本バプテスト同盟『戦争責任』に関する悔い改め」は、靖国神社にあります「遊就館」の展示にありますような歴史認識とは全く逆です。

 聖書の読み方には、いくつもの読み方があります。一つは、根本主義、ファンダメンタルな読み方です。聖書の言葉、一字一句をその通りに読もうとする読み方です。私自身は、その読み方をしませんが、その読み方は尊重されるべきだと思います。創世記 第1章の天地創造の記事をその通りに、一日一日ごとの出来事をその通り信じる読み方です。私自身は、創世記 第1章で大切なのは、神が世界を造られたということ、そこが何よりも大切な事として読んでいます。

さて、根本主義的な読み方をする中に、困ったことに、原理主義的な読み方をする人たちもいます。たとえば、旧約聖書で、神がアブラハムや、モーセに、ユダヤの地を与えると約束したことから、その土地はユダヤ人のものであるとする読み方です。それは、現在のイスラエル建国の聖書的根拠となってしまいました。

 それらとは別の聖書の読み方に、こういう読み方があります。旧約聖書は、ほとんど、イスラエルの歴史です。しかも、イスラエルの民が、繰り返し神に背いた歴史です。それでも神は、イスラエルの民を見捨てることなく、守り導いてくださいました。そして、神の御子であり、救い主である主イエスをお送りくださったのです。そこから、聖書の歴史は、人間の罪の歴史であり、神の救いの歴史なのです。そして、イスラエルの歴史でありながら、私どもに人間すべてに共通する歴史なのです。それは、使徒信条、讃美歌566番にあります使徒信条に、基づいた聖書の読み方であり、歴史観、歴史認識でもあります。

 ここから、私どもキリスト者が歴史を振り返って見る時、人間の歴史は罪の歴史ですから、悔い改めなしでは、歴史を振り返ることは出来ないのです。それに対して、そのような悔い改めの歴史観、反省の歴史観は、自虐的な歴史観だと非難されます。確かにそう見える人もいるでしょう。神を信じていない人にとって、自分を否定してしまったら、自分の存在根拠がなくなってしまうとして、悔い改めや、反省は、自虐的に見えてしまうようです。しかし、神を信じている者にとって、今申しましたように、人間の歴史は、罪の歴史であると共に、神の救いの歴史でもあるのです。神は、悔い改めを喜んで受け止めてくださるのです。悔い改めは、神に立ち帰ることだからです。神に逆らい、背いていた状態から、180度転換して、神に立ち帰るからです。神を信じる者にとって、悔い改めても、たとえ、自己否定しても、生きる根拠となる神の存在を信じていますから、私どもの存在の根拠は失われないのです。私どもがどうなっても、憐れみ、慈しんでくださる神の存在を信じていますから、私どもは、神に寄りすがって生きていけるのです。

 そのような歴史観、歴史認識が、「日本バプテスト同盟『戦争責任』に関する悔い改め」の基礎にあるのです。そして、この悔い改めこそが、私どもが、この日本において、世界において、平和を実現して行くための基礎であると信じるのです。

 本日は、「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」とのみ言葉を聴いています。ここで「幸いである」と訳されている新約聖書の元の言葉であるギリシア語は、そもそも「最高度の幸福と幸福感」を表す言葉だそうです。ですから、ここでの「幸いである」とは、人生に一度あるか、ないかの最高の幸福ということです。それほどまでの幸福を主イエスは、そして父なる神は、「平和を実現する人々」に与えてくださると、ここで約束しているのです。そして、この「幸いである」と訳され、「最高度の幸福と幸福感」という意味を持っているギリシア語にあたる旧約聖書のへブル語では、「神の祝福」、  「救いの喜び」を表す「幸いである」言葉だそうです。ということは、ここで言われている「幸いである」とは、地上での最高の幸福を表すだけでなく、神からの祝福、神の救いを受けることを表す言葉なのです。

ところで、「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」と主イエスに言われても、自分に何が出来るだろうかと思われる方もあるでしょう。私ども一人の業は小さく、自分一人が頑張っても、しょうがないと思われる方もあるかもしれません。

先程も申しましたように、主イエスはこの言葉を、ローマ帝国の皇帝や、諸国を支配している王におっしゃったのではありません。弟子たちと集まってきた人々におっしゃったのです。私どもと全く変わらない庶民におっしゃった言葉です。私どものような者が皇帝や王のように、世界平和や、国中の平和を実現できるはずがありません。私どもにはそのよう力はありません。主イエスはそのことをご承知の上でおっしゃったのです。人それぞれの力に応じて平和を生み出していく努力をすることを求められているのです。そのようにして、神の御業に参与することを求めておられるのです。家庭に、職場に、教会に、自分の所属する小さな所で平和を実現するように求めておられるのです。

こう理解できるのではないでしょうか。ヨハネによる福音書 第6章には、少年がお捧げした五つのパンと二匹の魚を主イエスが用いてくださって、五千人の人を満腹させたという記事があります。少年が昼の弁当として持たせてもらって来た物です。少年にとって、昼食はそれで充分であったでしょう。しかし、五千人のお腹を満たすには、それは雀の涙にもならない量であったでしょう。しかし、主イエスはそんな少しの捧げ物を、少年が差し出した精一杯の捧げ物を、主なる神に祝福して頂いて、五千人のお腹を満たしてくださったのです。ここから、どんなに小さな物、少ない物でも、神にお捧げして、用いていただくことによって、私どもの想像を超えた神の業が行われることが分かります。私ども一人一人の力は小さく、弱いでしょう。しかし、一人一人が真剣に平和を求め、祈り、主張すべきことは主張して行く時、神が私どもの小さな業をお用い下さって、平和を実現してくださるのです。ですから、私どもが世界平和を祈り、平和活動に募金することなども、主イエスは平和を実現するための貴いはたらきと見てくださるに違いありません。

また、自分の周りで平和を実現することも、貴いことだと思います。かつて、教会員の間での不和を何とかして解消させた牧師のお話しを聞いたことがあります。教会員同士で不仲になってしまったそうです。話しを聞くと、一方の人が相手の方に頼んでしてくれたことを、没にしてしまったのです。それは頼んだ人の勘違いのために、相手の方が一所懸命用意した物が使えなくなってしまったためでした。しかも、一所懸命用意した物が使えなくなったことを、頼んでいた人は隠していたのです。すぐに平謝りで謝っておけば良かったのですが、それが出来なかったのです。しかし、それがバレてしまいます。そのために、依頼され、一所懸命用意した方が、依頼した人を問い詰めたのです。その時、時は遅いですが、謝れば良いところを、その人は謝れず、逆に、相手のことを非難し始めたのです。そうなれば、相手の人は、自分の一所懸命用意した物を没にされ、そのことを謝ることもせず、逆に自分を非難してきたものですから、怒るのも仕方ありません。主任牧師が間に入りますが、なかなか収まりません。その内に、主任牧師が他の教会へ赴任し、主任牧師のもとにいた牧師が引き継いで主任牧師となります。そして、その不仲の仲裁に入ったのです。原因を起こした信徒の方が、強情なため、その引き継いだ牧師もほどほど苦労したそうです。私はその話を聴いているだけで、辛くなってきました。でも、諦めることなく、二人の話を聴き、ようやく不仲を解消できたと聞きます。ようやく、二人の間に平和を実現したのです。

二人の人の間の小さな世界でも「平和を実現する」ということは、実に大変であるということは、その経験談からも分かります。そのように、平和のために、不仲を解消するために、諦めることなく努力する人を、主イエスは「幸いである」という最高の祝辞を送ってくれるのです。そして、「その人たちは神の子と呼ばれる」という、こちらも最高の祝辞を与えてくださるのです。主イエスと同じように神の子と呼んでいただける、これに優(まさ)る祝辞があるでしょうか。主イエスはそのようにして、平和実現のために努力する人を応援してくれているのです。主イエスご自身が応援してくれているということで、勇気を頂いて、私どもも平和実現のために努めてまいりましょう。

「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」。今日、このみ言葉を新たに心に刻み、ご一緒に平和を実現してまいりましょう。お祈りを致します。

 

平和の主、イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、大切な御子を私どもにくださり、あなたと私どもとの和解を、平和を実現してくださいました。心より感謝申し上げます。そして、主イエスは、私どもを、平和を実現するために、召してくださっています。あなたにお応えするために、私どもも、自分の出来る限りの力をもって、平和を実現していくことが出来ますようにお導きください。まず、自分の家族の中に、友との間に、近所の方々との間に、職場の中に、教会の中に平和を実現し、その平和を広げて行けますように、お導きください。そのために、いつも、あなたがそばにいて、私どもを励ましてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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2018年8月19日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

マタイによる福音書 第6章5~15節

 

 5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

「神を呼ぶ~主の祈り①」

 

 今週も、主イエスが復活された主の日の朝に、共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝致しております。

今、この時、共に主の前に跪(ひざまず)き、過ぎた一週間の間に、主なる神に、そして隣人に犯した罪を告白し、赦していただきましょう。ローマの信徒への手紙 第8章1節、2節の言葉です。「1 今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

今、罪の赦しの宣言を受けられ、罪と死から解放された皆さんに、聖書の祝福の言葉をお贈りします。コリントの信徒への手紙 二 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 先日まで行(おこな)ってきました「教会とは何か」と副題をつけた説教を終えまして、本日から「主の祈り」の説教を始めます。以前、「主の祈り」の説教をしましたが、もう一度させて頂きます。

先ほどご一緒に「主の祈り」を致しました。

   天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ、ねがわくはみ名(な)をあがめさせたまえ。

み国(くに)を来(き)たらせたまえ。

みこころの天(てん)になるごとく地(ち)にもなさせたまえ。

我(われ)らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日(きょう)も与(あた)えたまえ。

我(われ)らに罪(つみ)をおかす者(もの)を我(われ)らがゆるすごとく、我(われ)らの罪(つみ)をもゆるしたまえ。

我(われ)らをこころみにあわせず、悪(あく)より救(すく)い出(いだ)したまえ。

国(くに)とちからと栄(さか)えとは、限(かぎ)りなくなんじのものなればなり。アーメン。

このように祈りました。最近は、新来者や子どもたちのために分かり易くしようと、口語訳の主の祈りを礼拝の中でしている教会もあります。しかし、今も多くの教会で、私どもと同じように文語で祈られています。一度馴染んだものはなかなか変えられないと思います。

そして、多くのキリスト教会の礼拝の中で祈られますので、長年、教会生活をされている方は、暗唱されていて、見ないでも、すらすら祈ることが出来るでしょう。しかし、ある方は、こう指摘します。キリスト者であれば、多くの人が主の祈りを覚えている。暗唱している。でも、その祈りが自分たちの信仰に根付いいているだろうか。私どもの祈りも生活も「主の祈り」によって形作られるほどに、主の祈りが私どもの生活の中に食い込んでいるか。もしかしたら、呪文(じゅもん)のように祈ることで終わっていなか。そのように問うのです。

 では、主イエスはどうして、「主の祈り」を教えられたのでしょうか。本日、与えられ、先ほど朗読して頂きました聖書箇所では、主イエスが「主の祈り」をお教えになったいきさつが語られていました。こう始まっていました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。」主イエスはここで偽善を戒めておられるのです。あなたがたは偽善者のようになってはならない。それは、祈る時も同じである、と主イエスはおっしゃっているのです。では、ここで反面教師として登場してくる偽善者はどう祈るのでしょうか。主イエスはこうおっしゃいます。5節後半で言われています。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」そして、7節ではこうおっしゃっています。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」

当時、ファリサイ派を中心とするユダヤ人たちが大切にしていたことは、施し、祈り、断食、清めなどです。これらを厳格に守れば、信仰生活が成り立つと確信していたのです。そのため、それらがきちんと出来ているか、絶えず確認しなければなりませんでした。自分で確認するだけでなく、他の人にも確認してもらい、自分は厳格に戒めを守っていると確認してもらわなければならないと思っていたのです。祈りもそうです。そのために、主イエスがおっしゃるように、「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」のです。では、どこで祈ったらよいのでしょうか。6節です。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

 本日の箇所の直前、主イエスは施しの偽善を戒められた時、こうおっしゃっています。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」それと同じように主イエスは「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」とおっしゃったのです。自分がしている施し、愛の業を自分で確認することのないように、他の人に見えないところで祈る自分の姿も、自分で確かめる必要もないのです。

しかも、彼らは、これで良いと確信できる祈りをしようと、立派な言葉で、長くくどくどと続く祈りをしていたのです。そのような祈りについて、主イエスは「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」とおっしゃったのです。では、短く祈れば良いのでしょうか。ここでの異邦人は偶像を拝む者という意味で、「くどくど祈ること」は、真(まこと)の神に対する信仰に生きる者のすることではないと、厳しく戒められているのです。そこで主イエスは8節でこうおっしゃっています。「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」くどくど祈らなくても、あなたに必要なものを主なる神はご存じなのだとおっしゃるのです。それなら、祈る必要はないではないか、そう思われる方もあるでしょう。それに対して、8節から9節にかけて、主イエスはこうおっしゃるのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。」そうして、「主の祈り」を教えてくださったのです。

「主の祈り」について、こう言っている人もいます。「もしかすると、神が私どもに最も必要なものとして、私どもに与えてくださった第一のものが、この『主の祈り』だったと言えるのではないだろうか。」それほどまでに、私どもが信仰に生きていく上で、「主の祈り」は大切で、信仰生活の指針となっていると言うのです。

先ほど申しましたように、主イエスの時代のユダヤ人たちも信仰において、祈ることを大切にしていました。それは私どもにとっても同じです。その点で、私どもキリスト者は、もうどう祈ったら良いか迷う必要はないのです。「主の祈り」をそのまま祈れば良いのです。キリスト教会において、新約聖書の各文書が記されたあとの時代、教える父と書いて、「教父(きょうふ)」と呼ばれる人たちが教会の指導者として用いられます。その教父たちが書き残したものの中で、「主の祈り」を日々の生活の中で繰り返し祈りなさいと勧めているのです。一日の内で「主の祈り」をその通り何度も祈るのです。そのようにして祈りの生活を整えなさいと言うのです。

さて、「祈り」とは、何でしょうか。キリスト教会の中で、改革派の信仰を良く表したものとして、ハイデルベルク信仰問答があります。具体的な質問に対して、明確な答えがなされ、そこから、どう信仰に生きるかを教えている書です。そのため、改革派以外の教会でも良く読まれ、引用されます。そのハイデルベルク信仰問答の第三部は、十戒(じっかい)と「主の祈り」を教えています。その第三部の表題が「感謝について」です。感謝、信仰に生きる者の生活は感謝の一語に尽きるという事でしょう。そして、祈りを学ぶところでは、「キリスト者はなぜ祈らなければならないのか」とまず問うのです。そこでこう答えます。「祈りが、神がわれわれにお求めになる感謝の、最もすぐれたものであり、また神は、恩恵とみ霊(たま)とを、心からの慕(した)わしさをもって、たゆまずこれ(感謝)を求め、また、それ(恩恵とみ霊(たま)と)を感謝する者にのみ与えようと思っておられるからであります。」祈ることはなぜ必要なのか。それは感謝の最もすぐれた姿だからです。しかも、感謝する者にのみ、神が私どもに与えようといつも思っておられる神の恵とみ霊(たま)を与えてくださるのです。そのようにハイデルベルク信仰問答は言うのです。

では、なぜ、願ったものが与えられる前に祈るのかと思われる方もあるでしょう。一般的に考えれば、確かにそうです。願いが叶って、願っていたものが与えられて、初めて感謝するのではないか。しかし、真(まこと)の信仰においては、そしてハイデルベルク信仰問でも、そうは考えないのです。あなたは主イエスに救われているではないか。神の子とされているではないか。既に多くの恵みを与えられている。だから、何よりも先に感謝するのです。その最もすぐれたものが祈りである、と言われるのです。

 主の祈りは、「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ、・・・」と祈り始めます。ここで、私どもは驚きます。そして教えられます。主イエスはご自分の父なる神のことを、私どもにも「父よ」と祈りなさいとおっしゃるのです。「父よ」と祈ってよいとおっしゃるのです。神が主イエス・キリストを長男とし、私どもを主イエス・キリストの兄弟として、神の子として生かしてくださっているからです。それゆえ、主イエスのお父さまである神を、私どももお父さまと呼ぶことが出来るとお教え下さり、そのように祈り始めなさいとおっしゃるのです。真(まこと)に勿体(もったい)ないことです。聖なる方である神を、畏れ多い主なる神を、主イエスと同じように、お父さまと呼んで祈り始めなさいとおっしゃるのですから。ですから、「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ」との言葉は、祈りを始める決まり文句ではないのです。既に、感謝の最もすぐれたものが祈りであると言われている、感謝を込めて、お父さまと呼ぶのです。そのため、「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ」と呼ぶことだけで祈りはもう充分であるとも、この一言(ひとこと)で祈りは完成されているとも言われるほどです。神が私どもの父として、私どもをしっかりとつかまえ愛してくださっている。もうこれ以上望むことがあろうか。それほどの思いをもって「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ」と呼び始める時、私どもの祈りの生活は変わってくるのです。それほどに、この「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ」との言葉は大切な言葉なのです。

 では、「天(てん)にまします」と申しますように、神が天におられるということは、どういうことなのでしょうか。

 列王記 上 第8章22節以下にソロモン王が神殿をお捧げした、献堂した時の祈りがあります。少し長いですが引用します。

   22 ソロモンは、イスラエルの全会衆の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に伸ばして、23 祈った。「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、24 あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。25 イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの前を歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を断たず、わたしの前から消し去ることはない』と。

   26 イスラエルの神よ、あなたの僕、わたしの父ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。

27 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。28 わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。29 そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。30  僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。

 この祈りは素晴らしい祈りである、としばしば言われます。「主の祈り」を祈ろうとする者の姿勢を正す祈りである、とも言われます。そして、ここで特に注目したいのは、27節以下です。「27 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。28 わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。29 そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。」ここで言われるように「天も、天の天も、(主よ)あなたをお納めすることができません。」ほどに、主なる神は大きく偉大なのです。しかし、主なる神は、父なる神は天をすみかと定めてくださったのです。ですから、「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ」と神を呼び、祈るのです。

 神は父子聖霊なる三位一体の神ですから、聖霊の神として、どこにでも住んでくださるのです。私どもといつも一緒にいてくださるのです。いや、私どもの中に住んで下さる神であり、私どもを神殿としてくださる神なのです。

 さて、福音書において、主の祈りが出てくるのは、マタイによる福音書の他に、ルカによる福音書があります。第11章1節以下では、こう言われています。

   1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。/ 3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。/ 4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

ここでは、マタイによる福音書とは異なり、弟子たちの方から、祈りを教えてくれるよう求めています。なぜか、主イエスが祈っておられる姿を見たからです。主イエスが弟子たちの頼みを受けて与えて下さった祈りは、明らかに、ご自身の祈りに弟子たちを招き入れる祈りでした。「主の祈り」は、主イエスのように私どもも祈れるようにと、主イエスが与えて下さった祈りなのです。神の御子である主イエスが父なる神を呼ぶ祈りに、神の子とされた私どもが父なる神を呼ぶ祈りが重なるのです。何と素晴らしい事であり、何という恵みでしょう。

 最後に、ガラテヤの信徒への手紙 第4章6節、7節の言葉を聞きましょう。

   6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

 「アッバ」とは、幼子が初めて父親を呼ぶ時の言葉であると言われます。ですから、親しみを込めた言葉だとも言われます。神の御子である主イエスだからこそ、そのように祈ることができたのです。しかし、このガラテヤの信徒への手紙で言われるように、「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」と言うのです。それは、こういう事です。私どもも主イエスと同じように神の子とされたことは、神ご自身が、「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子(主イエス・キリスト)の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かる。」と言うのです。神ご自身が私どもに親しみを込めて「アッバ、父よ」と呼ばせてくださっているのです。それゆえ、「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ」と祈り始める私どもの祈りに、主なる神は耳を傾けてくださるのです。私どもはそのように、神の御子主イエスに似て祈ることが出来るのです。「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ」と祈れることに、心から感謝しつつ、これからも「主の祈り」を祈ってまいりましょう。

 共に祈ります。

 

 御子主イエスを私どもに与えてくださった父なる神よ。あなたの御子主イエスは、卑(いや)しい私どものために、あなたに背き続け罪に満ちていた私どものために、「主の祈り」を与えてくださいました。私どもは、あなたと御子による救いの中で、貴い祈りの言葉を与えられましたことを感謝致します。しかも、「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よ」とあなたを呼ぶことを許されましたことは、感謝しても感謝しきれません。どうか、与えられました貴い祈りを大切にし、その祈りの言葉によって、信仰生活を整えさせてください。「主の祈り」を与えてくださった御子主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

2018年8月26日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝(退修会)

 

マタイによる福音書 第6章20節

 

 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。

 

「地上でなく天に富を積もう」

 

 今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。

今、この時、共に主の前に跪(ひざまず)き、過ぎた一週間の間に、主なる神に、そして隣人に犯した罪を告白し、赦していただきましょう。ローマの信徒への手紙 第8章1節、2節の言葉です。「1 今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。2 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

今、罪の赦しの宣言を受けられ、罪と死から解放された皆さんに、聖書の祝福の言葉をお贈りして説教を始めます。コリントの信徒への手紙 二 第13章13節の言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたながた一同と共にあるように。」

 日本バプテスト厚木教会のその年度の聖句と標語は、いつも礼拝堂正面に掲げられています。礼拝堂正面左側に聖句、そして、右側に標語です。2018年度の聖句は、先ほどご一緒に言いましたマタイによる福音書 第6章20節です。「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」です。主イエスが山上の説教の中でおっしゃった言葉です。そして、標語は、本日の説教題と同じ、「地上でなく天に富を積もう」です。本日の退修会もこの聖句、標語をテーマにして行われます

以前も申しましたように、ここ三年ほどは、真剣に救いを求めていきたいという祈りの中で与えられました聖句を、年度の聖句とさせて頂きました。それは、私どもキリスト者の最終目的は、神の救いを頂いて、神の国に入れて頂くこと、聖書の言う「永遠の命」を頂くことであると私は信じるからです。そして、キリスト教会の伝道の最終目的も、教会員だけでなく、教会に連なる皆が、神の救いを頂いて神の国に入れて頂くこと、聖書の言う「永遠の命」を頂くことであると私は信じるからです。一昨年、2016年度は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」との御言葉でした。主イエスと一緒に十字架に架けられた人の最後の願いの言葉でした。最後の最後になって、最も大切なものに気付き、それが神の子主イエスが与えてくれる救いであることに気付き、必死になって救いを求めたのです。そこから、「十字架の救いをひたすら求めよう」と標語をさせて頂きました。

そして、昨年2017年度は、「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。」との詩編の言葉を頂きました。そして、副主題聖句「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救いわれます。」との御言葉を使徒言行録から頂きました。そこから、標語は「わたしの救いと愛する人の救いを祈り求めよう」とさせて頂きました。真剣に救いを求めてまいりたいと思ったからです。同時に、私どもの身近な愛する人たちも救いに与れるよう、諦(あきら)めることなく、祈り続けようと強く思わされたからです。

 そこで思います。救いを頂くために、私どもはどうしたらよいのでしょうか。具体的にどうしたらよいのか。どのような生き方をすれば、神の救いを頂くことが出来るのか。どうすれば、神の国に入れて頂けるのか。どうすれば、永遠の救いを頂くことが出来るのか。その問いを持ちつつ聖書に聴いていました。そこで示された聖書の言葉が、今年度の聖句である主イエスがおっしゃった言葉でした。「富は、天に積みなさい。」です。その言葉を今年度の聖句として頂きました。地上に富を積むのでなく、天に、神のもとに富を積むということです。そうすれば、「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」のです。

 残念ながら、地上の富は、失われてしまうのです。聖書が言うように、地上の財産は盗まれてしまうことがあります。そのため、資産家の方々は家に厳重な警備をしています。また、火事などで、すべ焼けてしまうこともあります。また、株券などは大暴落することもあります。そして大恐慌で酷いインフレになった時などは、お金の価値が暴落しました。地上の宝は、いつまでもそのままではないのです。

 前にもお話ししましたように、世界的によく読まれている小説「赤毛のアン」の終わりに近い場面に、アンの養父のマシュウ・カスバートが心臓発作で亡くなってしまうという悲しい場面があります。その直接の原因が、カスバート家が預金していた銀行が倒産したという新聞記事を読んだ事でした。妹のマリラや養女のアンのために、勤勉に働いてきたマシュウにとって、確かに取引銀行の倒産は相当なショックだったのでしょう。それが心臓発作の直接の原因でした。マシュウ亡き後、アンはマリラを支えながら暮らしていくのです。そのように、日々汗を流して一所懸命働いて、老後のために蓄えておいた財産も、銀行の倒産によって、一瞬の内に消えてしまうことがあるのです。真に残酷なことです。「地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」とおっしゃった主イエスの言葉の通り、地上の財産はあっという間に無くなってしまうことがあるのです。

 その点で、天に積んだ富は、無くなってしまうことも、価値が暴落することもないのです。

 では、天に富を積むとは、どんなことをすることでしょうか。主イエスはこの場面で、そのことを具体的には、おっしゃっていません。私が考えるに、天に富を積むとはどんなことか考えてごらん、と主イエスがおっしゃっているように思えるのです。ですから、皆さんそれぞれで考えて欲しいのです。

 そこで私が考えるに、その一つは、主イエスの言葉、聖書の言葉に聴き従うことだと思います。主イエスの言葉、聖書の言葉に聴き従うことで、天に富を蓄えることが出来ると思います。そのことを思わされる聖書箇所があります。ルカによる福音書 第10章25節から28節です。こう言われています。

  25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 ここで言われている『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』との言葉に従うことは、富を天に積む一つでしょう。そうすることで、「永遠の命を受け継ぐことができる」のですから、これこそが、「富を天に積む」ことだとも言えるでしょう。

 さて、日本バプテスト厚木教会の第六代牧師、阿部勇四郎先生は50年以上この教会を牧(ぼく)された先生です。伝え聞くとところによると、先生は、信仰生活の実践として、十一献金、十分の一献金を、ご自分でなさるだけでなく、教会の方々にはっきりと勧められていたそうです。それは、旧約時代から続く、キリスト者の伝統で、収入の十分の一をお捧げするということです。教会のために祈り、奉仕をし、十一献金を捧げることを積極的に勧めておられたようです。しかも、現在の礼拝堂を建てるための献金、教会墓地購入のための献金等々も皆に呼びかけて、当時からの教会員の方々と一緒に財務的にも現在の教会の基礎を築かれました。以前からの教会員の方々は、先生と共にそのようにして、教会を支えるという貴いおはたらきをさてこられました。そのように、教会のために祈り、奉仕し、献金をお捧げすことも、天に富を積むことの一つだと思います。私どももそのように心がけてまいりたいと思います。

 ところで、ある面から見れば、地上に富を積むことと、天に富を積むことは、紙一重であるとも言えるでしょう。それは、天に富を積むことは、地上の名誉を求めるのではなく、神に栄光を帰すことでもあるからです。行うことは同じでも、行ったことを自分の名誉とせず、神に栄光を帰すならば、それは天に富を積むことになると思われるからです。

 前にもお話ししたことがあると思いますが、かつて、こんな事があったそうです。第二次世界大戦中ドイツで、ある牧師がナチスに抵抗したため軍隊に入れられ、ソビエト連邦と戦う東部戦線に送られたそうです。ナチスはしばしばその手を使って教会を迫害しました。その牧師は、その後ソビエト連邦の捕虜になってしまいます。彼は、捕虜収容所に入れられます。するとすぐに、志願者を募って牧師を養成する神学校を収容所の中に作ってしまったそうです。勿論、充分な施設はなかったでしょう。それでも、彼の熱意に主は応えてくださり、彼の熱意に動かされ、捕虜収容所にいながら神学の学びをする人がいたのです。彼は満足し、得意になったそうです。戦後、そのことを監督(かんとく)と呼ばれる教会の指導者に、得意になって報告しました。すると監督(かんとく)はこう言ったのです。「若い兄弟よ、キリスト者に成功はありません。キリスト者は実(み)を結ばせていただくだけです」。そう言われて、彼は大切なことに気付かされました。彼はのちに、このことを正直に書き残しました。謙虚(けんきょ)に自分の間違えを認めることが出来(でき)たことは素晴らしいと思います。また、厳しい収容所生活の中で熱心に牧師養成に努めた人に対して、少しも遠慮(えんりょ)することなく、正しい事をはっきり言えた監督(かんとく)も素晴(すば)らしいと思います。私どもは、「豊かに実(み)を結ぶ」と言うよりも、豊かな実(み)を結ばせて頂くのです。私どもの手柄にしてはならないのです。私どもが豊かに実(み)を結ばせていただいたら、それによって、天の父なる神は栄光をお受けになるのです。このように、自分の名誉とするのではなく、神に栄光を帰したなら、それは天に富を積むことになると思います。

 ところで、天に富を積む生き方が、自分自身にとって最善の生き方であることに気付かされた人の一人として、使徒パウロを挙げることができるでしょう。パウロはフィリピの信徒への手紙 第3章5~11節で、こう言っています。

   5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵(ちり)あくたと見なしています。キリストを得、 9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」

 救い主、主イエス・キリストと真(まこと)の出会いをした人は、どうすれば救いに与れるかを知り、そのようにするのです。救いに与った人の中では価値の大転換が起き、何を一番大切にすべきかが変わってしまうのです。まさにパウロがそうでした。その意味で、パウロは富を天に積むことの素晴らしさをよく知っていた一人と言えるでしょう。

 天に富を積むことは、決して難しいことではありません。一つの聖書の御言葉に忠実に従うことも、小さな愛の業行うことも、天に富を積むことの一つだと思います。相手のことを思いやり、愛を込めた一言を言うことも、天に富を積むことでしょう。若い人が、電車の中でお年寄りや体の不自由な人や妊婦の方に席を譲る、小さな親切も、天に富を積むことの一つだと思います。

 そして、謙遜になることです。自分の誉れを求めるのでなく、神を褒(ほ)め称(たた)え、神に栄光を帰し、さらには他の人を軽んじないことです。私どもはどうしても自分と人を比較し、結局ドングリの背比べになるのですが、自分の方が優れているとしたいのです。冷静に見ればどうでもよいこと、小さなことに拘(こだわ)るのです。そのようなことに心を向けることを止め、天に富を積もうと思うなら、神の前にも、人の前にも謙遜になることが求められていると思います。

 ご一緒に天に富を積んでまいりましょう。そして、神の救いに与り、神の国に入れていただき、聖書が教える永遠の命を授けていただきましょう。

 お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、復活の主、イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、私どもに救いに与らせようと日々心を砕いてくださっています。どうぞ、あなたと、御子主イエスの愛とお導きを常に心に留めさせて下さい。そして、御子が「富は天に積みなさい」と勧めてくださっていますから、そのみ言葉に従う者とさせてください。どうぞ、わたくしども一人一人が、天において、あなたのみもとに於いて、富む者となれますようお導き下さい。日々、私どもを励まし、時には叱り、正しい歩みにお導きください。天に富むことを、何よりの喜びとする人生を歩ませてください。私どももの救い主、復活の主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

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