日本バプテスト厚木教会
Iglesia Bautista Japonesa de Atsugi
JAPAN BAPTIST ATSUGI CHURCH
2018年1月7日 日本バプテスト厚木教会 新年礼拝
詩編 第40章13、14節
13 悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ
何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く
わたしは心挫(くじ)けています。
14 主よ、走り寄ってわたしを救ってください。
主よ、急いでわたしを助けてください。
使徒言行録 第16章31節
31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
「わたしの救いと愛する人の救いを祈り求めよう Ⅲ」
今週も、主イエスがご復活なさった週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝いたします。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 一 第1章1節の言葉です。「恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
今年度、私どもは、礼拝堂正面左側に書いてありますように、「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください」との聖句を頂き、「わたしの救いと愛する人の救いを祈り求めよう」との標語を掲げて歩んできました。本日はキリスト生誕2018年という新しい年の新年礼拝です。そして、一方では、2017年度もあと3ヶ月という時でもあります。その意味で、今年度の標語によって、さらにしっかり歩んで行きたいと思っています。
今年度の聖句も標語も「救いを求めること」がテーマです。私どもが救われること、それは何にもまして重要だからです。キリスト信仰において、最重要課題だと思うからです。
本日私どもに与えられています詩編の言葉を、もう一度聴いてみましょう。
「13 悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多くわたしは心挫(くじ)けています。/14 主よ、走り寄ってわたしを救ってください。/ 主よ、急いでわたしを助けてください。」
詩人は救いを求めています。助けてくださいと求めています。何から救っていただきたいのでしょうか。何から助けて頂きたいのでしょうか。絡みつく悪から、自分の罪からです。しかも心が挫(くじ)けそうになっているのです。それでも、どうか救って欲しい。助けて頂きたいと必死の叫んでいるのです。とても厳しい状況、危険な状況なのです。
それでは、私どもはどうでしょうか。このような厳しい、危険な状況は私どもとは関係ないのでしょうか。詩人の叫びは人ごとなのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。私どもはどんなに努力しても、神の目から見れば罪人です。そうです。今この時でさえ、私どもは罪を犯してしまう可能性を持って生きているのです。胸に手を当て思い出してみるとよいと思います。私どもはどんな時でも、自分勝手な思いが浮かんで来ます。多くの場合、それらを抑え込むことが出来ますが、どうしても抑え切れずにそのような思いを行ってしまうこと、行動に表してしまうことがあります。そして、それを自覚していればまだ良いのですが、無自覚の内に神の前に罪を犯し、神を悲しませ、人を傷つけているということがしばしばです。それは、自分以外の人がしていることを見ればよく分かると思います。あの人は他の人には気付かれないと思って、自分勝手なことをしている。また、あの人は無自覚のまま、自分勝手なことをして、少しも悪いと思っていない。そう感じることは私ども日常何度もあります。では、自分はどうかと客観的に考えた時、自分だって外から見れば、他の人から見れば、大して変わらない。いや、自分の方がもっと酷(ひど)いことをしているかもしれないと、分かるのではないでしょうか。その意味で、私どもは反面教師から良く学ばなければならないのです。
そのように、思い巡らしてみると、詩編の詩人のこの時の姿は、まさにこの私の姿ではないかと思わされます。そして、今まで詩編の詩人のように自分の罪に苦しむことのなかった自分は、病気の自覚症状がないまま病気がどんどん進行してしまっていた人と似ているのではないかとさえ思えるのです。そうであれば、私どもも詩人のように真剣に神の助けを、救いを求めていかなければならない事に気付かされます。
もう一度、詩編の言葉を聴いてみましょう。
「13 悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多くわたしは心挫(くじ)けています。/14 主よ、走り寄ってわたしを救ってください。/ 主よ、急いでわたしを助けてください。」
自分の罪を自覚し、悔い改め、詩人のように真剣に救いを求めるなら、父なる神は、私どもの祈りをお聴きくださるでしょう。そして、いつも父なる神の右の座にいて私どもを執り成してくださっている主イエスは、益々、父なる神に私ども救いを父なる神にお願いしてくださるに違いありません。
さて、今年度の聖句、標語をテーマにしました8月の退修会の閉会礼拝では、ローマの信徒への手紙 第10章10~13節の言葉を読みました。こういう言葉でした。
10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
そう言われています。私どもが救われるためにはどうしたらよいかが、10節と13節で言われています。まず10節です。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」人は、心から、主なる神を信頼し、主なる神の御子主イエス・キリストを、罪から救い出してくださる救い主であると信じることによって、今まで犯してきた罪を赦され、義とされる。そして、それらを人々の前で言い表すことによって、すなわち、信仰告白することによって、救われるということです。そして、ヨエル書 第3章5節からの引用である13節、「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」も、信仰を持って、主なる神を呼び求める者は、誰であっても救われると言っています。すなわち、ここで言われていることは、信仰によって義とされ、救われるということです。
人はどんなに努力しても、罪を犯します。私どもは神から見れば、根っからの罪人で、生きている限り人は罪を犯さざるを得ない存在です。ですから、行いによっては到底救われないのです。行いによって救われようとすることは、無駄な努力なのです。それゆえ、信仰による救いしかないのです。ありがたいことに、その救いを父なる神は求める者誰にでも与えてくださるのです。
今引用しました10節の言葉、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」との言葉を心から信じ、さらに13節の言葉、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」との言葉も心から信じてまいりましょう。信仰に生きることが、救って頂く道であると明確に教えてくれているのです。
さて、クリスマスにも説教しましたが、聖書が伝えるところの「救い」を端的に言い表した聖書の言葉が、ヨハネによる福音書 第3章16節、17節の言葉です。
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
そうです。主イエス・キリストがお生まれくださったのは、私どもが自分の罪によって滅んでしまわないためです。滅びを免(まぬが)れ、救われるためです。主なる神が御子主イエスを私どもの元にお送り下さったのは、私どもが救われるためなのです。
何度も申していますように、キリスト教会という呼び名は、その本質をよく表しています。キリスト教会の特徴を最も表しているのは、まさにキリスト、主イエス・キリストです。そのキリストが私どもに何をもたらしてくださったかを端的に言い表している言葉が、今引用しましたヨハネによる福音書 第3章16節、17節のみ言葉なのです。それは、言い換えれば、キリスト教会の存在意義がそこにあるということでもあります。
先日も申しましたが、何でクリスマスがこんなに嬉しいのでしょうか。それは、救い主が来てくださって、私どもが救われたからです。滅びではなく救いを頂いたからです。クリスマスの喜びは、赤ちゃんの主イエスが成長され、私どもの救いのために、十字架におかかりくださったことで、それによって私どもが救われたことです。と言うことは、もし、私どもが救われることに熱心でなかったら、それが故に、もし、私どもが救いに与ることがなかったら、神の御子主イエスが神の身分にこだわることなく、わざわざ地上に降りて来て下さったこと、赤ちゃんとしてお生まれくださったことは無駄になってしまうのです。そして、主イエスが神に見捨てられてまで、滅びと呪いを一身に受けて十字架で死んでくださったこと、それらの私どもにとってあまりにも勿体ないことを、無駄になってしまうのです。そんなことをしても良いのでしょうか。絶対にいけません。主なる神が、主イエスが私どもを愛するあまり、私どもを救いたいが故になさってくださった全てを、私どもの不信仰によって、救いを求めない不届きな身勝手な思いによって、無駄にしてしまってはいけないのです。ですから、私どもは必死になって、「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください」と祈り求めるのです。その必死さこそが、私どもの信仰であると言っても過言ではないでしょう。
さて、本日二つ目の聖書の言葉、使徒言行録 第16章31節、「二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』」は、私どもに大きな慰めを与えてくれる言葉です。私どもは自分だけでなく、自分の家族、親族が皆信仰を頂いて、罪赦され、救われることを心から願っています。しかし、日本において、家族皆がキリスト者、親戚一同がキリスト者であるという方は珍しいでしょう。それらのキリスト者でない方々に伝道出来ていないと、責任を感じておられる方もあるでしょう。しかし、以前にも申しましたように、主なる神は、私どもに伝道するように勧めておられますが、その結果をとやかくおっしゃることはなさらないのです。そもそも、伝道は主なる神の御業です。ですから、私どもはそのお手伝いをさせて頂いているのです。それは、家族、親族への伝道も同じです。主が私どもに求めておられることは、私どもが祈って、伝道のお手伝いすることです。その結果は主なる神が全部負ってくださるのです。しかも、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです(コリントの信徒への手紙 一 第12章3節)。」と言われていますように、「イエスは主である」との信仰告白をさせてくださるのは、聖霊なのです。聖霊がはたらいてくださらなければ、私どもがどんなことをしようとも、人は信仰を得られないのです。ですから、聖霊の大いなるおはたらきを祈りましょう。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」この言葉は、使徒言行録のこの場面だけ当てはまる言葉だと私は思っていません。普遍的な真理の言葉だと思っています。ただ、この私が主イエスを信じることが、直接、家族の救いにはならないと私どもは知っています。それぞれが、信仰を言い表すことが必要です。ですから、この私が信じる、信仰を頂くことが、間接的に、巡り巡って、私どもの家族の救いにつながるということでしょう。この言葉は、初めパウロが言った言葉ですが、今は、聖書の言葉です。神の言葉です。ですから、永遠の真理なのです。この真理を信じてまいりましょう。
では、信仰を告白せず、既に亡くなった家族や親しい人たちはどうなのでしょうか。私どもは使徒信条で、主イエスは十字架で死んで、陰府(よみ)に下られたと告白しています。陰府とは、亡くなった方、誰もがまず行く所です。主イエスもそこに行かれたのです。その主イエスは目的もなくどこかへ行かれる方ではありません。罪を赦すため、癒しを与えるため、福音伝道するため、救いを与えるためです。ですから、地上で信仰を持たずに亡くなった方も、陰府で、主イエスにお会いしているのです。そこで、主イエスに救われるかもしれないのです。ですから、今生きている家族の救いを祈ることは勿論、信仰を告白せずに亡くなった方の救いを祈ることも大切なことなのです。
使徒言行録の言葉を信じ、愛する人達の救いを祈ってまいりましょう。私どもの救いと愛する人の救いを切に祈り求めてまいりましょう。
お祈りを致します。
私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。私どもを救ってください。自分が犯した罪から救い上げてください。私どもが罪に滅ぼされることのないように、一刻も早く、助け、救ってください。そして、私どもの愛する人たちも、あなたが救ってください。あなたに救って頂けないなら、私どもは滅ぶしかありません。あなたの救いの貴さを今一度知らせてください。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈り願います。アーメン。
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2018年1月14日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
イザヤ書 第10章20~34節
20 その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。21 残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。22 あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びは定められ、正義がみなぎる。23 万軍の主なる神が、定められた滅びを全世界のただ中で行われるからだ。
24 それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。たとえ、エジプトがしたように/彼らがあなたを鞭(むち)で打ち、杖を振り上げても。25 やがて、わたしの憤りの尽きるときが来る。わたしの怒りは彼らの滅びに向けられる。26 万軍の主は、彼らに対して鞭(むち)を振るわれる/かつて、オレブの岩で/ミディアン人を打たれたように。またエジプトでなされたように/杖を海の上に伸ばされる。27 その日が来れば/あなたの肩から重荷は取り去られ/首に置かれた軛(くびき)は砕かれる。」
彼らはリンモンの前から上って 28 アヤトに着き、ミグロンを過ぎて/ミクマスに軍需品を配置した。29 彼らは峠を越え、ゲバに露営(ろえい)した。ラマは震え、サウルのギブアは逃げ去った。30 娘ガリムは叫び声をあげよ。ライシャは耳を傾け、アナトトは彼女に答えよ。31 マドメナは逃げて行き/ゲビムの住民は避難した。32 更に今日、彼らはノブに立ち/娘シオンの山、エルサレムの丘に向かって/進軍の手を振り上げる。33 見よ、万軍の主なる神は/斧(おの)をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。34 主は森の茂みを鉄の斧(おの)で断ち/レバノンの大木を切り倒される。
ヨハネによる福音書 第3章16,17節
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
「主なる神は滅びと回復を与えられる」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 一 第5章28節の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。」
イザヤ書の言葉をご一緒に聴いています。本日与えられましたのは、第10章20節以下です。初めの20節から23節の段落には、「残りの者の帰還」という小見出しが付いています。北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、多くの若い働き手が捕虜として連れて行かれるのです。捕囚されるようになるのです。人間の目から見れば、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたのは、アッシリアの武力が北イスラエル王国に勝っているからです。しかし、神の目から見ると違います。主なる神が、ご自身に従わず、御心に背いてばかりいる北イスラエル王国に審(さば)きを下されるのです。では、神は厳しいだけの方でしょうか。いいえ、そんなことはありません。アッシリアの攻撃により多くの者が命を失い、捕囚によって多くの人材が奪われます。しかし、捕囚はいつまでも続くもではなく、終わるのです。小見出しにあるように、「残りの者たち」が祖国に帰ってくるのです。この「残りの者」は、旧約聖書において、重要な概念です。神は審(さば)きを下される一方で、イスラエルを憐れんでくださり、将来を担う「残りの者」を用意してくださっているのです。厳しさと慰め、この相反するものを神は与えられるのです。20節から23節の段落には、審(さば)きと「残りの者の帰還」という回復の両方が預言されているのです。
21節と22節では、「残りの者が帰って来る」と繰り返し言われます。これは旧約聖書が書かれた原語、ヘブル語で「シャル・ヤシャブ」です。これは、既に聴きました第7章3節に出てきましたように、彼の長男の名前です。イザヤは息子の名前で、北イスラエル王国の滅亡からの回復を預言しているのです。「残りの者が帰って来る」との預言は、滅亡を前提とした預言です。国が滅び、捕囚がなされ、そののち、「残りの者が帰って来る」のです。決して喜んで聞ける預言ではありません。ところが、滅亡の預言が成就し、捕囚が行われた時、最悪の事態になったと思われる時、「残りの者が帰って来る」との預言は、希望の預言として聞かれるようになるのです。
主なる神は義なる神、正しい方です。妥協なさる方ではありません。ですから、過(あやま)った事、間違ったことをそのままにしておかれる方ではありません。特に、神のおっしゃることを聞かなかったり、不忠実であることにを、見過ごされる方ではありません。悪い事をすれば、それ相当の審(さば)きが下されるのです。しかし、一方、主なる神は実に憐み深い方です。私どもを見捨てるようなことは決してなさいません。それゆえ、審(さば)きを下された者が、正しく立ち帰ることが出来るように、道を備えてくださるのです。回復を与えてくださるのです。何てありがたいことでしょう。
さて、続く24節から27節の途中までの段落には、「アッシリアを恐れるな」との小見出しが付いています。前回の箇所で見ましたように、アッシリアは実は主なる神の道具なのです。神が北イスラエル王国に審(さば)きを下されるためにアッシリアを用いられるのです。しかし、アッシリアは傲慢になります。そのために今度はアッシリアに審(さば)きを下されるのです。そう預言されているのが、前回の箇所でした。それゆえ、本当の意味で恐れるべきなのは、アッシリアではなく、主なる神なのです。それゆえ、24節、25節で、こう言われているのです。「24 それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。『シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。たとえ、エジプトがしたように/彼らがあなたを鞭(むち)で打ち、杖を振り上げても。25 やがて、わたしの憤(いきどお)りの尽きるときが来る。わたしの怒りは彼らの滅びに向けられる。』」そのように言われています。主なる神の北イスラエル王国への憤りが終わったら、今度は神の怒りは彼ら、アッシリアの滅びに向けられるのです。
そして、27節です。北イスラエル王国とそこの人々を「あなた」と呼んでいます。こう言われています。「その日が来れば/あなたの肩から重荷は取り去られ/首に置かれた軛(くびき)は砕かれる。」のです。神が赦しを与えて下さるのです。
私どもはともすると、真に恐るべき方、畏れ敬うべき方のことを忘れ、人を恐れてしまいます。大きな力を誇っている国を恐れてしまいます。確かに目の前の敵は恐ろしいものです。しかし、この世界を創り、今もなおご支配されているのは主なる神です。最も恐れるべき方に、まず目を向けなければならないのです。
既に聴きましたイザヤ書 第2章22節に、こういう言葉がありました。「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」鼻で息をしているだけの者、人間などに頼るなと言われています。彼のどこに値打ちがあるのかとも言われています。頼るべきは万物の支配者である主なる神なのです。そこから、人間を恐れるのを止めよ、との声も聞こえてくるように私には思えます。鼻で息をしているだけの者は恐れるに及ばないのです。主なる神はいつも変わらない方です。しかし、人間は変わるのです。強い国も、元を正せば、人の集まりです。常に変わるのです。今は強そうでも、いつかは衰えるのです。そして、何よりも、すべての支配者は主なる神なのです。神のみを恐れるべきなのです。
そして、本日の箇所の三番目は、27節途中から34節までで、「敵の攻撃」という小見出しが付けられています。32節まではいろいろな地名が挙げられ、敵が攻め上ってくる様子が語られています。しかし、それらも主なる神が敵を用いて、下される審(さば)きなのです。ですから、33節、34節で、こう言われます。「33 見よ、万軍の主なる神は/斧(おの)をもって、枝を切り落とされる。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒される。34 主は森の茂みを鉄の斧(おの)で断ち/レバノンの大木を切り倒される。」そう言われています。敵が攻めて来ているのですが、実は主なる神が北イスラエルに審(さば)きを下されているのです。ここでも、真理を知りたいと思うなら、物事の表面だけでなく、その背後にあるもの、背後におられる神を見なければならないのです。
さて、キリスト信仰を頂いている方は、神の救いを信じています。しかし、どのように救いが与えられるか、誰に救いが与えられるかなどと一歩踏み込んで考えてみると、人によって、大きく見解が異なります。ある方たちは、万人救済論を信じています。最終的に、すべての人は救われるのだという信仰です。途中いろいろあっても、最終的に、誰もが神の救いに与れると言うのです。そうなれば、とてもありがたいと思います。そうなることを願います。ただし、本当にそうなのかと言われると、私は大いに疑問を持ちます。私は、マタイによる福音書 第25章32節で言われているように、最後の時、羊と山羊を分けるように、永遠の命という祝福を受ける者と、永遠の罰を受ける者とに分けられると思っています。私どもは、どちらかに入れられると思うのです。
先程も申しましたように、主なる神は、義の神、正義を貫かれる神であり、同時に、憐み深い神でいらっしゃるのです。とことん、憐み深い方なのです。それは、本日二番目に読んで頂きましたヨハネによる福音書 第3章16,17節からよく分かります。もう一度お読みします。「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ここでも、滅びと永遠の命という言葉が出てきます。裁きと救いという言葉が出てきます。常に二つの道があるのです。そして、今申しました万人救済はないのではないかと思うという点から申せば、17節の「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とは、神の裁きはもうないということではなく、神はあくまでも、救いを望んでおられる。そのために、御子を世に遣わされた。裁くことは、神の御心ではなく、出来れば、裁くことなく、皆救いたいという意味だと思います。神は決して私どもを懲らしめようとは思っておられないのです。しかし、どうしても、悟らない者、立ち帰らない者には、仕方なく裁きを下されるのです。
本日の説教題は、「主なる神は滅びと回復を与えられる」と致しました。イザヤ書の記事、イザヤ書の言葉に合わせて、滅びと回復と致しましたが、「主なる神は裁きと救いを与えられる」と言い換えることも出来ると思います。主なる神は裁きでも救いでもどちらでも与える権威をお持ちなのです。その判断をなさるのは神なのです。しかし、繰り返し申しますように、神は喜んで裁きを下される訳ではありません。出来る限り、祝福を、救いを、与えたいと切に願っておられるのです。
それと同時に、神は気まぐれな方ではありません。私どもの考えを遥かに超えた方ではありますが、公平でいらっしゃり、首尾一貫して愛と義を貫かれる方です。ですから、裁きか救いかを決めるかは、私どもの主なる神に対する態度にかかっているのです。主なる神がどのように私どもになさってくださるかは、私どもの態度如何なのです。
もう一度、ヨハネによる福音書 第3章16,17節をお読みします。「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」常に、神は私どもを滅びでなく、救いに与らせようとなさっておられえるのです。切にそう願っておられるのです。そのお気持ちにお応えするのが、信仰ではないでしょうか。主なる神の御心にしっかりお応えすること、そのお気持ちを無にするようなことはしないことが、信仰に生きることだと、今、私は思っています。
私どもはどうしても、自分の気持ちや自分の欲に動かされてしまいます。しかし、私どもが良く生きるためには、何とかして神の御心にお応えして、神の御心に沿って生きることなのです。それが、私どもにとって、最高の生き方であり、最も幸(さいわ)いな生き方なのです。私どもを愛して止まない神の御心に従って歩んでまいりましょう。
お祈りを致します。
主よ。あなたは、すべてを決める権限と権威をお持ちの方です。私どもを裁くも救うも、あなたがすべてお決めになられます。しかし、幸いなことに、私どもはあなたの御心を常に聞かせていただいています。何が正しく何が過(あやま)ちであるかを知っています。どうぞ、自分勝手な思いを捨て、あなたに従う者とさせてください。一人一人を祝福し、救いに与らせて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。
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2018年1月21日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
出エジプト記 第3章11,12節
11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
イザヤ書 第46章3,4節
3 わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。/ 4 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
マタイによる福音書 第28章16~20節
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
「主なる神と共に生きる~教会とは何か㉑」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 二 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
久しぶりに、「教会とは何か」と副題を付ける説教を致します。本日のテーマは、主なる神と共に生きていく事、神から離れず、いつもしっかりついて行くことです。
本日は聖書を三箇所お読みしました。どれも、神が、そして神の御子主イエスが、どんな時も共にいてくださる、一緒にいてくださる、と言われている言葉です。言い方を換えれば、決してあなたを見捨てないよとおっしゃっている言葉です。
最初の聖書箇所、出エジプト記では、モーセに、神ご自身が、あなたと共にいるとのメッセージを送ってくださっています。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」とおっしゃっています。与えられました聖書箇所の前後をお読みいただくとすぐに分かることがあります。それは、その後、イスラエルの民を導いていくモーセ、エジプトの軍勢に追われたり、荒れ野を何十年と旅するモーセ、勇敢な指導者のように見えるモーセが、初めの時には気の弱そうな頼りなさそうな態度で神にいろいろと申し上げ、質問している事です。その時、主なる神からの言葉が、「わたしは必ずあなたと共にいる」だったのです。この箇所を読みますと、この言葉を頂いたモーセがすぐに勇気を奮い起こしたようには思えません。しかし、のちのち、モーセにとって、困難に直面する度に、神からのこの約束に彼はどんなにか励まされたことかと思います。私どもの想像も及ばないほどに励まされ力づけられたことであったと思います。
そして、続くイザヤ書の言葉です。こう言われていました。ヤコブの家、イスラエルの家の残りの者に向かって、主なる神がおっしゃっています。「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。/ 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」生まれてからこれまで、あなたはわたしに背負われ、担われて来た。そのことを忘れてはならない。そして、これからも、あなたが老いて、白髪になる時までも、あなたを背負って行こうと主なる神がおっしゃっているのです。なぜそこまでしてくださるのか。「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」とおっしゃいます。あなたに命を与えた者として、最後まで責任をもってあなたを担っていく。あなたを守り、困難に直面したら、そこから救い出すと宣言して下さっているのです。これも、慰めに満ちた言葉です。この言葉は、聖書にありますように、まずはヤコブの家、イスラエルの家の残りの者に向かって語られた言葉です。でも、この言葉をこのように、今の私どもが聞く時、主なる神は、私ども一人一人に向かって、同様に語ってくださっているのです。
そして、三つ目は、マタイによる福音書の最後の言葉です。復活された主イエスが弟子たちを送り出された時の言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」主イエスは最後の最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃって、弟子たちを送り出してくださったのです。弟子たちへの花向けの言葉とも言えるでしょうか。今後どんな困難が待っているか分かりません。事実、使徒と呼ばれるようになるこれらの弟子たちの何人かは殉教するのです。しかし、その弟子たちにとって、主イエスが共にいてくださることは、何よりも心強かったでしょう。言うまでもなく、主イエスは肉体をもって共にいてくださるということではありません。このあとすぐに聖霊が使徒たちに下ります。神は父子御霊の三位一体の主です。ですから、聖霊が共にいてくださることは、主イエスが共にいて下さることに等しいのです。弟子たちもそのことを知って、さぞかし、心強く思ったに違いありません。そして、福音伝道に送り出されるのです。
では、私どもは信仰生活において、教会生活において、どこで神のご臨在を知り、感じるでしょうか。マタイによる福音書 第18章19節、20節では、こう言われています。主イエスの言葉です。「19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」そう言われています。本日は20節の言葉、今読みました中の後半に注目したいのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」主イエスの名によって二人とか三人が集まるのは、多くの場合、教会の礼拝や集会でしょう。今私どもが礼拝をお捧げしているのもそうでしょう。その中に主イエスがいてくださるのだと主イエスご自身がおっしゃっているのです。今、私どもの中にもう既に主イエスがおられるということです。勿論、その主イエスが目でみえる訳ではありません。ですから、私どもは教会において、二人三人が集う礼拝で、今ここに主イエスがいて下さることを、主イエスのご臨在を、信仰によって知るのです。
そして、ヨハネによる福音書はこう言っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである(ヨハネによる福音書 第1章18節)。」ここでの「父のふところにいる独り子である神」とは、主イエス・キリストのことです。ここで言われていることは、こうです。自分の目で、肉体の目で、神ご自身を見た人は、有史以前からこんにちまで一人もいない。ただ、神のもとにおられる神の御子主イエス・キリストだけが父なる神を示してくださった。そうヨハネによる福音書の福音書記者は言っているのです。ということは、神が私どもと共にいてくださることも、私どもは主イエスによって知るのです。
さらに、マタイによる福音書で、主の天使が主イエスの地上での父親となったヨセフにこう言っています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/ その名はインマヌエルと呼ばれる。』/ この名は、『神は我々と共におられる』という意味である(マタイによる福音書 第1章23節)。」ここから、まさしく、主イエスは、神が私どもと共にいてくださることを、ご自身によってお示しくださったのです。言い方を換えれば、主イエスは「神は我々と共におられる」とい真理を私どもに具体的に表してくださった存在だということです。
これらの言葉を信仰によって信じることで、私どもは、いつも、どこにいても、主なる神が共にいてくださることを知ることが出来るのです。ですから、私どもは信仰を頂いていることを感謝したいと思います。もし、信仰を授かっていなかったら、これらの恵みに満ちた真理のみ言葉を信じることが出来ないのです。豚に真珠、猫に小判のように、至宝のような聖書のみ言葉を信じられないなら、これらのみ言葉は私どもにとって全く価値のないものです。しかし、私どもは信仰を頂いていますので、これらの宝のような聖書のみ言葉を素直に受け入れ、信じることが出来るのです。ですから、どんな状況においても、私どもは孤独でなく、主なる神が、御子主イエスが共にいて支えてくださること、励まし導いてくださることを知っているのです。
教会は、そして教会の礼拝、集会は、既に申しましたように、主イエスの名によって、二人、三人集まるところであり、その中に主イエスがいてくださる所です。主イエスが、父なる神がご臨在くださる所です。そして、この旧約聖書、新約聖書を貫く大いなる神のメッセージを力強く発信し続けているのもキリスト教会なのです。私どもは、このキリストの体なる教会、母なる教会に連なっていることで、主なる神がいつも共にいてくださることを実感し、主と共に生きていく決心を強くして頂けるのです。
前回、このシリーズの説教では、暦、教会暦をテーマにしました。その教会暦では、来月2月半ばには、主イエスの十字架の苦しみを覚える受難節、レントに入ります。そして、今年は、4月1日に復活主日、イースターを迎えます。申すまでもなく、復活主日は、クリスマスと並んで、キリスト教会の大きな祝いの時です。その復活主日が与えてくれるメッセージも、御子主イエスは我々と共にいてくださるということです。私どもの罪の償いのために、ご自身を貴い供え物としてお捧げ下さった主イエスは十字架で死んで下さいました。それは真にありがたいことです。しかし、主イエスは亡くなってしまったのです。そのままでは、勿論、主イエスは私どもと共にいることは出来ません。私どもは取り残されたと言わざるを得ません。しかし、父なる神は、御子を墓から甦らせ、再び私どもに与えてくださったのです。それによって、私どもは義とされると共に、再び主イエスと共に歩んで行くことが可能になたのです。主イエスは今もなお生きて私どもと共にいて、私どもを執り成し、守り、導いてくださっているのです。
また、教会暦ではありませんが、私どもにとって、暦の中にあります誕生日、そして、バプテスマを受けた方でしたら、バプテスマ記念日・新生日も、とても大切な日です。地上での命が始まった日、そして、永遠の命を授かって生き始めた日だからです。そして、それらの日も、主なる神が共にいてくださることを特に覚える日であるとして受け止められています。
教会学校では、それぞれの方の誕生月にこどもさんびか80番を一緒に歌います。こういう歌詞です。「生まれる前から 神さまに / 守られてきた ともだちの / たんじょう日ですおめでとう / 生まれれて きょうまで みんなから / 愛されてきた ともだちの / たんじょう日です おめでとう」こういう歌詞のこどもさんびかです。そこから思うことは、誕生日、そしてバプテスマ記念日も、新しい命を生き始めた記念日をお祝いすると共に、その日から今日(きょう)まで、主なる神が、そして、周りの人たちが共にいてくれたことを感謝する日なのです。単に嬉しい日なのではなく、自分に命が与えられたことを、そして、その命を今生きていることを感謝する日であり、神が周りの人たちが共にいてくれたことを喜び、感謝する日なのです。そう考えると、年齢を重ねたから、もう誕生日を祝っくれなくてよいとか、誕生日は嬉しくないとなどとは言えないと思います。確かに、年を重ねることで、体が衰え、体の自由がなくなり、辛いことがいっぱいあると思います。しかし、今生きていて、誕生日を迎えることが出来たことは何より感謝すべきだと思います。残念なことに、地上で誕生日をもう迎えることが出来なかった人のことを思うと、その思いを強くします。今まで、そして、今この時も主が共にいてくださることに感謝すべき時だと思います。
今、私は強く願っています。今日(きょう)この場に集われた皆さんと共に、いつも父子なる神、聖霊なる神が共にいてくださいますように。そして、願いつつもここに集うことが出来なかった方々とも共に父子なる神、聖霊なる神がいてくださいますように。
祈りを捧げます。
いつも、どんな時も私どもを共にいて、お守りお導きくださっています父なる神よ。あなたは、私どもが弱っている時、行き詰ってしまった時、私どもと共にいてくださるとのメッセージを発してくださいます。ありがとうございます。どうぞ、あなたからのその有難いメッセージをいつでもしっかり受け取ることが出来ますよう、私どもの信仰の目をあなたの方に向き直らせてください。私どもが勇気を頂く上で、あなたが共にいて下さることに勝るメッセージはありません。そして、あなたからの慰めと励ますをしっかり受け取り、信仰の闘いを雄々しく闘って行くことが出来ますように。くじけそうになる心を、あなたから離れそうになる心を、どうぞ、あなたがつなぎ止め、あなたのメッセージをしっかりと聞かせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。
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2018年1月28日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
イザヤ書 第11章1~10節
1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち 2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭(むち)をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。6 狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。10 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
マルコによる福音書 第11章1~11節
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
「平和の王が来られる」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 二 第3章18節の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。」
イザヤ書の言葉をご一緒に聴いています。本日与えられましたのは、第11章1節以下です。この部分には、「平和の王」と言う小見出しがついています。最初の1節、2節ではこう言われています。「1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち 2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」そう言われています。「エッサイ」とは、イスラエルの代表的な王であるダビデ王の父親です。ですから、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」とは、ダビデ王家の末裔(まつえい)から、一人の王が生まれるということです。ユダヤでは、ダビデ王家からメシア、救い主が現れると信じられていましたから、この第11章1節以下はメシア預言であることが分かります。私どもキリスト者にとって、メシア、救い主とは主イエス・キリストですから、この箇所はキリスト預言ということです。主イエス・キリストがどのようなメシア、救い主として来られたのかを私どもに教えてくれる箇所なのです。
初めに、メシアの特徴として述べられるのが、今1節と共に読みました2節の言葉です。もう一度お読みします。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」そう言われています。メシア・救い主である主イエスには、主の霊、父なる神の霊、聖霊が留まっていると言われています。そう言えば、母マリアの夫ヨセフに、主の天使が主イエスの誕生を知らせた時こう言っていました。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである(マタイによる福音書 第1章20節)。」ここから、主イエス・キリストは、私ども人間とは違い、聖霊によって母マリアに宿ってお生まれになったことが分かります。そして、その後も、イザヤが預言したように、主の霊、聖霊が主イエスの上にとどまったのです。その際の聖霊がどのような霊であるかが続けて述べられます。「知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」そう言われています。主なる神の霊です。全知全能なる方の霊です。この世のどんな知恵も知識も及ばないほどの霊ということです。確かに新約聖書を読んでまいりますと、主イエスは憐れみと愛に満ちた方です。同時に、知恵と知識に富んだ方です。人の及ばない知恵と知識に満ちた方です。それゆえ、主イエスを救い主とは信じないが、貴重な人類の英知がそこに現れているとして、歴史的に優れた教師であったとして、主イエスの言葉に注目している人もあるほどです。また、「思慮と勇気の霊」とも言われています。思慮深く、決して信念を曲げることなく、どんな相手に対しても勇気をもって正しいことを言える霊ということでしょうか。確かに、主イエスは今申しましたように、優れた教師として尊敬されるほどですから、思慮深さの点でも相当なお方でありました。そして、当時、最も権威のあった、祭司長、そして、ローマから派遣された総督に対しても、まったく怯(ひる)むことなく、正義を、真理を述べられました。私どもの精一杯の勇気なぞ全く及びもつかないほどの勇気の霊をもって、御業をなさってくださいました。
そして、メシアに留まった霊として、最後に言われるのが、「主を知り、畏れ敬う霊」です。たぶん、これが一番大切だと私は思います。メシア、救い主は主なる神から遣わされた方です。大きな力があり、威厳があるでしょう。ただし、それらは、主なる神から来るものです。もし、主なる神によらないものであったなら、それは、主のみ旨に反することです。ですから、メシアにはどうしても「主を知り、畏れ敬う霊」が留まっていなければならいのです。そもそも、主イエスは誰よりも主なる神、父なる神をご存じの方です。先週も引用しましたが、ヨハネによる福音書はこう言っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである(ヨハネによる福音書 第1章18節)。」ここでの「父のふところにいる独り子である神」とは、主イエス・キリストのことです。ここで言われていることは、こうです。自分の目で、肉体の目で、神ご自身を見た人は、有史以前から今日(こんにち)まで一人もいない。ただ、神のもとにおられる神の御子主イエス・キリストだけが父なる神を示してくださった。そうヨハネによる福音書の福音書記者は言っているのです。このように、そもそも主イエスは主なる神、父なる神をよくご存じでした。そして、さらに、主を知る霊が留まっておられるのですから、誰よりも、何よりも主なる神を、父なる神を知っておられるのです。そして、それによって、与えられた使命をしっかりとなさってくださったのです。また、主を知ることは、主は畏れ敬うことを充分に知ることでもあります。主イエスほど主なる神を畏れ敬っておられ、信頼しておられた方はいません。どんな時も、片時も、主なる神、父なる神を忘れることなく、遜(へりくだ)っておられました。
そう思うと、メシアだけでなく、私どもも「主を知り、畏れ敬う霊」のお導きを頂きたいと思います。そのお導きをいただくことで、私どもの信仰の歩みを確かなものにしてまいりたいと思います。主イエスの上に留まった「主を知り、畏れ敬う霊」の下(もと)に私どもも置いていただき、「主を知り、畏れ敬う霊」に導いていただきましょう。
さらに3節以降を見ていきますと、メシアが弱者に優しく、公平な裁きを行ってくださる方であることが分かります。3節以下です。「3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。4 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭(むち)をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。5 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。」そのように言われています。
そして、6節以下では、動物の楽園を譬(たとえ)として用いて、平和の王であるメシアが治める世界がどのようになるかを預言しています。「6 狼は小羊と共に宿り/豹(ひょう)は子(こ)山羊(やぎ)と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。8 乳飲み子は毒蛇(どくじゃ)の穴に戯(たわむ)れ/幼子は蝮(まむし)の巣に手を入れる。」
さらに、最後の10節では、平和の王が栄光を受けることを預言しています。「その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
このように、イザヤ書 第11章は譬も用いて、メシア・救い主である平和の王がどのような方であるであるかを示し、預言してくれているのです。
さて、本日はもう一か所、聖書を朗読していただきました。主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城された記事です。なぜ、主イエスは子ろばに乗って来られたのでしょうか。それは、ゼカリア書 第9章9節の預言を御自らが成就するためでした。こういう言葉です。
娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る。
雌ろばの子であるろばに乗って。
そう言われている預言です。ここでは、主イエスはご自分の意志で、この預言で言われている王、ろばに乗って来る王はご自分であることを表されたのです。その意味で、他の預言の成就とは大きく違います。主イエスご自身が、馬でなくろばに乗って来る平和の王であることを表してくださったのです。当時、馬は戦(いくさ)で、位が高い人が乗るものでした。馬に乗っているというのは権威を表していました。一方、ろばは物を運んだりと労働に使われていました。主イエスはそのろばに乗って、ご自分こそがゼカリア書で預言されている王であることを表してくださったのです。戦(いくさ)を行う王ではなく、平和をもたらす王として、エルサレムに入城されたのです。
平和の王は、戦(いくさ)に向かないろばに乗って、武器も持たずに来られました。当時の支配者は皆、武力を背景にしていました。そして、強力な武力で敵を負かし、平和を実現していたのです。主イエスがお生まれになった当時、地中海世界を治めていたローマ皇帝アウグストゥスもそうでした。彼は、敵を滅ぼし、地中海世界に平和をもたらしました。「パックス・ロマーナ」、「ローマの平和」です。多くの人がその平和を享受し、彼の誕生日は、良きおとずれ、福音とまで言われました。
どうでしょう。今日の世界の平和も基本的に、皇帝アウグストゥスがもたらした平和と変わらないでしょう。強大な力によって守られた平和。または、強大な力ともう一方の強大な力とのバランスの中にある平和です。私どもはどうしても、武力抜き、武装抜きの平和は出来ないでいます。その中で、主イエスは武力、武装に依らない、平和の王として、この世界に来てくださったのです。結果、十字架で殺されてしまいました。しかし、主イエスはご復活されたのです。
時は流れます。主イエスの非暴力の平和実現の理想は、マホトマ・ガンジーに受け継がれ、マルティン・ルーサー・キング牧師に受け継がれました。彼らは平和の王である主イエスに倣ったのです。ただ、今、申しましたように、現在も多くの場合、世界各地の平和は武力の後ろ盾で守られています。しかし、主イエスが表してくださった理想は忘れてはいけないし、その実現のために、私どもも祈り従っていきたいと思います。そのために、何より肝心なのは、先ほども申しましたように、「主を知り、畏れ敬う霊」に従うことだと私は思います。神のみ旨を熱心に求め、諦めることなく、真(まこと)の平和を祈り求めていくこと、これも、キリスト者のつとめであると私は思います。
主イエスが表して下さった真の平和を求め、そして、一人一人の救いを求めて、従ってまいりましょう。
お祈りを致します。
主よ。あなたは、平和の王である御子主イエスをお遣わしくださいました。そして、真(まこと)の平和の幻を見せてくださいました。未だに、真(まこと)の平和は実現していません。しかし、私どもは、平和の王である主イエスが真の平和を実現してくださることを信じ、疑いません。どうぞ、私どもの祈りをお聞きください。そして、平和を求め祈る一人一人を祝福し、すべての人を、平和と救いに与らせて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。