2017年8月6日 日本バプテスト厚木教会 平和を覚える主日礼拝

 

イザヤ書 第2章1~5節

 

 1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

 

 

「剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ローマの信徒への手紙 第1章7節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

 日本バプテスト同盟の月刊誌、「ジャパン・バプテスト」、略して「JB」誌の8月号に、「共謀罪」法(組織犯罪処罰法)に反対する声明が掲載されました。JB誌を購読されていない方にも見て頂きたいと思い、先日お配りしました。まだ受付の机の上にありますので、ご覧になっておられない方は、ぜひ、ご覧になっていただきたいと思います。

なぜ、このような声明が出されたのでしょうか。その理由は、この組織犯罪処罰法は、その声明にも書かれていますように、日本国憲法が保障する良心の自由、思想信条の自由を脅(おびや)かすものだからです。そして、この組織犯罪処罰法は、かつての日本が、「治安維持法」によって、戦争へと向かっていった道を再び作るものだからです。さらに、先程、ご一緒に読みました「『戦争責任』に関する悔い改め」の精神にも反するものだからです。

私がこのような警戒心を強くするようになったのは、ある詩を教えられてからです。その詩とは、ドイツルター派牧師であり反ナチ運動組織告白教会の指導者マルティン・ニーメラーの言葉に由来するです。こう言う詩です。

  ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった

  私は共産主義者ではなかったから

  社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった

  私は社会民主主義ではなかったから

  彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった

  私は労働組合員ではなかったから

  そして、彼らが私を攻撃したとき

  私のために声をあげる者は、誰一人の子っていなかった

 21世紀に生きる私どもは、二つの世界大戦を起した20世紀から、良く学ばなければなりません。本日の聖書箇所の4節の最後の言葉、「もはや戦うことを学ばない。」であり、戦わないための知恵を学んでいきたいと思います。

 さて、本日の聖書箇所の2節から4節の言葉は、同じく旧約聖書のミカ書の第4章1節から3節にもある言葉です。そして、本日の言葉の中の4節途中からの言葉、「彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」との言葉は、アメリカ合衆国のニューヨークにあります国際連合本部のロビーの高い壁面に刻まれています。そして、そこを訪れる人々に国際連合の理想である万国平和への願いを印象深く訴えているのです。

 ある方は言います。かつてベトナム戦争中に、村人が川に墜落したアメリカ軍機の金属を溶かしてヤカンなどの日常品を作っている様子をテレビで紹介していた。これこそ、イザヤ書やミカ書が伝える預言そのものであり、平和を望む庶民の大らかな不屈の魂を物語るエピソードだ。そのように、ある方は言っていました。

 さて、イザヤ書の言葉をご一緒に聴く中で、預言者イザヤが活動していた頃の南ユダ王国の置かれていた状況を少しずつ申し上げてきました。本日も、この書の背景となる当時の様子をお伝えします。

 預言者イザヤが神からの召命を受け、預言者としての活動を始めた紀元前742年頃、近くにあった強国であるアッシリアのティグラテビレセル三世は世界帝国建設の活動を始めていました。彼の下で、優れた技術と装備を持つ軍隊が造られ、無敵の戦力を誇示しました。また、彼の優れていた点は、彼の占領地の統治の仕方にもあります。占領地の支配者たちは、捕囚として他の地域に移させ、占領地には、アッシリアの勢力の下にある新しい支配者を送り、完全にアッシリアの属州とするものでした。そのようにして、占領地で反乱が起こることを抑えたのです。

 当時の南ユダ王国は、そのような強国であるアッシリアに武力や策略で、敵(かな)うはずがありませんでした。それでも、支配者たちは、上手い策略で、生き延びようと必死になっていたのです。そして、人々は慌(あわ)て、戸惑うのです。イザヤ書 第7章2節では、こう言われています。「アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」。そして、軍隊や、他国との同盟にばかり頼る者と、まず何よりも主なる神に頼る者との差は明白です。イザヤ書 第31章1節以下ではこう言われています。「1 災いだ、助けを求めてエジプトに下り/馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く/騎兵の数がおびただしいことを頼りとし/イスラエルの聖なる方を仰がず/主を尋ね求めようとしない。2 しかし、主は知恵に富む方。災いをもたらし/御言葉を無に帰されることはない。立って、災いをもたらす者の家/悪を行う者に味方する者を攻められる」。ただし、ここでも言われています主に頼ろうとしない姿は、決して人ごとではないのです。つい神よりも、武力や策略に頼ってしまうのは、私どもの姿なのです。主は語られたみ言葉を無に帰されることは決してないのです。その主をどんな時も信頼してまいりたいと思います。

 どんなに状況が厳しくても、預言者イザヤの主なる神に対する信頼は揺るぎませんでした。それは、アッシリアの武力による支配はいずれ終わり、主なる神が、平和の王である主なる神が、全世界を支配するというものした。それゆえ、本日の聖書箇所の1節で「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。」と言われています幻を、主なる神から幻で見せていただいた光景を、イザヤは素直に伝えたのです。2節から3節で言われているように、戦争でなく平和をもって支配される主なる神に、全世界から人々が集い、礼拝を捧げるのです。2節の言葉です。「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かう。」そして、3節で言われているように、人々は言うのです。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう。」アッシリアのような武力や支配力に従うのではなく、真の平和をもたらして下さる主に従い、主の道を歩もうと、人々がこぞって言うようになるとイザヤは言うのです。

 アッシリアが北イスラエル王国を支配していた時、そのあとで、バビロンが南ユダ王国を支配した時、捕囚が行われ、人々は隷属を求められ、苦しい日々が続きます。確かに戦闘は収まりましたが、それは、真(まこと)の平和ではありませんでした。真(まこと)の平和は武力によっては作り出せないのです。現在の私どもの世界の平和も、武力のバランスの上に成り立っています。しかし、真(まこと)の平和は、本日の箇所で預言されている真(まこと)の平和は、主なる神が実現してくださるのです。この平和の実現のためには、何よりも神に信頼しなければならないのです。イザヤは、何よりも神への信頼を人々に求めたのです。私どもに必要な信仰もそのような信仰ではないでしょうか。

 当時の多く支配者たちは、そして人々は、主なる神を信頼していませんでした。自分たちの武力や策略で、生き残って行こうとしていました。結局それは成功しないのです。一方、イザヤは武力や策略で生き延びるのではなく、主なる神を信頼して行こうと呼びかけるのでした。その信頼こそが、本当の平和をもたらすと呼びかけているのです。4節の言葉、「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」との言葉は、主なる神に絶大な信頼を置いているからこそ、イザヤが伝えることが出来た言葉なのです。

 本日私どもが聴いていますイザヤの預言は、イザヤ書の初めの方にあることから、イザヤの活動の初期の預言と見ることが出来ます。その当時であっても、アッシリアは周辺諸国の大きな脅威となっていたと思われます。それでも、イザヤの主なる神への信頼は揺るがなかったのです。ところで、この本日の箇所の預言を、もっと後(あと)の時代になされた預言であると主張する学者もいます。その説によりますと、この預言がなされたのは、アッシリアがエルサレムまで攻めて来て、ヒゼキヤ王が降伏した紀元前701年以降であるとするのです。その時は、奇跡的に捕囚を免れ、名目的には独立を維持できました。しかし、アッシリアの前に降伏したという悲惨な状況だったのです。その中で、イザヤはこの預言の言葉を発したとある学者は言うのです。そのような中にあっても、目の前の悲惨な状況にも関わらず、イザヤの神への信頼は揺るがなかったのです。

 本日の箇所の最後で、イザヤは皆に呼びかけます。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。私どもも、闇でなく、主の光を求め、主の光の中を歩んでまいりましょう。私どもが自分でなすことは、結局、闇に向かっているのです。しかし、どんなに厳しく見えても、主に信頼していくことは、主の光の中を歩む事なのです。

 では、イザヤの神への信頼はどこから来ているのでしょうか。これについては、いろいろ推論出来ること思います。私は、出エジプトのあとのイスラエルの歴史が、イザヤに信仰の確信を与えていると思います。イスラエルの民は、飢饉のため、エジプトに移住したものの、それから数百年すると、奴隷のように扱われるようになります。苦しい日々が続きます。人々は主なる神に叫びを挙げます。主はその声をお聞きになり、モーセを指導者としてお送りくださり、エジプト脱出という困難な事業を成功させてくださいます。そして、40年もの間、荒野を旅するイスラエルの民を主なる神は養い、お守りくださいました。そして、ヨルダン川を渡り、約束の地に入植させてくださったのです。残念ながら、パレスチナ問題の発端はそこにあります。しかし、そのようにして、主なる神は、イスラエルの民をエジプトでの困難の中から救い出し、守り導いて、元いた場所へと導いてくださったのです。そして、その後、ダビデ、ソロモンの時代、イスラエルは主の恵みを受け、発展するのです。その記憶が、イザヤに主なる神への確固たる信頼を形作っていたのではないでしょうか。

 そして、昔は数百人数千人Tという小さな群れであったキリスト教会、迫害に次ぐ迫害を受けたキリスト教会は、それでも世界に広がって行きます。そして、今多くの人々が私どもと同じ信仰に生きています。私どもは、このキリスト教会の歴史から、信仰は決して滅びないことをしっかり学んでいきたいと思います。イスラエルが主に守られたように、キリスト教会も主に守られ、続いているのです。

話しをイスラエルに戻します。イスラエルの民は主なる神に守られたにもかかわらず、王国の発展後、神を疎(うと)んじ、王国は分裂します。ですから、イスラエルに対し、預言者イザヤは主の厳しい審(さば)きを預言するのです。アッシリアやバビロンバなどの強国に怯(おび)え、主なる神に信頼することなく、武力や策略に頼る支配者や民にイザヤは厳しい言葉を告げるのです。

さて、本日の聖書箇所の背景を申しましたが、非常に厳しい、困難な中にあって、このような預言が語られたことに驚かざるを得ません。そして、私どもの信仰の闘いも、時に、とても厳しい闘いに思えます。はたして、勝ち目はあるのかとさえ思ってしまいます。しかし、20世紀を代表する神学者の一人、カール・バルトは、このようなことを言いました。悪の力は今なお強いように私どもには見える。厳しいいものを感じる。しかし、戦いの大勢は決まっている。神の最終的な勝利は間近だ。ただ、悪の残党どもが悪あがきを続けていて、私どもを悩ましている。だから、もっと大きな視野に立って、戦いの大勢は決まっていることを忘れることなく、神の最終的勝利は間近であることを忘れることなく、信仰の闘いを続けていかなければならない。そのようなことを言っていました。私どもも、信仰の闘いを諦めることなく、最後の勝利を、真(まこと)の平和の完成を目指してまいりましょう。

私どもも、イザヤのように、どんな時も主なる神を信頼し、武力や策略では決して実現できない、真(まこと)の平和を共に作り出してまいりましょう。お祈りを致します。

 

 私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。どうぞ、私どもは、つい自分の力に頼ったり、策略に頼りったりしてしまいます。どんな時も、あなたに頼る信仰を貫けません。どうぞ、いつも私どもを悪から、誘惑から守り下さい。そして、何よりも、誰よりもあなたを信頼して、行く者として下さい。そして、あなたによる真(まこと)の平和を頂くことができますよう、お導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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