2017年7月2日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

テモテへの手紙 一  第5章3~16節

 

 3 身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。4 やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。5 身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、6 放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。7 やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。8 自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。9 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、10 善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。11 年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、12 前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。13 その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。14 だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。15 既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。16 信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば教会は身寄りのないやもめの世話をすることができます。

 

テモテへの手紙 一  第6章11~16節

 

 11 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。12 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。13 万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。14 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。15 神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

 

「教会に生きる~教会とは何か ⑲」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ユダの手紙 2節の言葉です。「憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」。

 「教会とは何か」とサブタイトルをつけた説教を続けています。今日は第19回です。「教会に生きる」と題を付けました。教会に生きるとはどんなことなのか、与えられた聖書箇所から探ってまいりたいと思います。

 本日は、二箇所、聖書朗読を致しました。先にお読みした箇所は、前回読みました箇所の続きです。前回の箇所では、年配者に配慮するように言われていました。教会に集う人たちは、父なる神の下にある神の家族であるという視点から、年配者に心配(こころくば)りするようにしなさいと勧められていました。

そして、本日の箇所では、寡(やもめ)、夫に先立たれた女性のことが言われています。聞いていますと、一部の寡(やもめ)に対して厳しい批判をしている部分もあります。聖書は約2000年前に書かれた古典です。歴史的文書であるから許されますが、現代であれば、女性差別と批判されかねない部分かもしれません。ただし、なぜ、そのようなことがここに書かれているのでしょうか。それは当時のキリスト教会では、一定の年齢を超えた、この手紙の中では60歳を越えた、身寄りのない寡(やもめ)は、教会で登録し、教会がお世話をする制度があったと考えられるからです。その資格がある者はどういう者であるかを、厳しく限定していたと考えられるからです。

当時、キリスト教会初期において、キリスト教会は、今日(こんにち)のように信仰共同体であるだけでなく、生活共同体とも言えたようです。そのため、社会的に立場の弱い人たちに配慮するだけでなく、生活の面でもお世話していたようです。そのために、一定の年齢を超えた身寄りのない寡(やもめ)などは、教会で生活のお世話をすることがほぼ制度化していたようです。

与えられた箇所からは、そのように教会でお世話する一定の年齢を超えた身寄りのない寡(やもめ)も、一定の年齢を超えるまでは、一所懸命に他の人のお世話をしなければならなかったようです。他の人のお世話を一所懸命した身寄りのない寡(やもめ)だけが、一定の年齢を超えると教会のお世話になったようです。

当時、多くの女性は10代で結婚していたようで、若くして寡(やもめ)となる人も少なくなかったようです。しかし、そのような若い寡(やもめ)は、教会が世話をする対象ではないことが言われています。余計なお世話と思いますが、そのような寡(やもめ)は再婚した方がよいとまで言っています。

ここに書かれている寡(やもめ)のことは、神の家族として、教会に生きる一つの例です。その特徴として、社会的に弱い立場の人、年配の人や、身寄り内ない寡(やもめ)などは、特別配慮されなければならないということでしょう。その一方で、若い者は教会に仕えること、信仰の兄弟姉妹に対してや、その他の人に対しても奉仕をすることが求められています。そのように、神の家族として、教会に生きるということは、出来る間は一所懸命奉仕し、ある年齢になったら、皆から配慮してもらうということです。世の中の家族も、幼子や年配の人は世話をされる側で、若い人はその人たちのお世話をする側です。神の家族として、教会に生きることもそれに似ています。

実際、教会は多くの奉仕によって支えられています。まずは、礼拝です。教会の中心となっている礼拝は、多くの方の奉仕によって成り立っています。その中でも一番大変なのは奏楽者だと、私は思っています。前奏から始まって、何曲もオルガンを弾いて貰っています。奏楽者は礼拝の初めから終わりまで気が抜けないでしょう。しかも、何曲も弾くために、前の週はその準備をしつつ生活なさっているようです。その意味で、礼拝を捧げている私どもは、奏楽者にいくら感謝しても感謝し過ぎることはないと思います。そして、礼拝奉仕者として、司式者、そして受付の方、献金当番の方がいてくれます。もし、その方々がいなかったら、礼拝はスムーズに進まないでしょう。大切な奉仕だと私は思っています。そして、大切な奉仕の一つであるとなかなか認識されないのは、皆さんの賛美です。礼拝は、基本的に、神からの呼びかけと私どもの応答で構成されています。聖書朗読と説教という、主なる神からの呼びかけがあります。説教は牧師が語っていますが、牧師は自分の考えを述べるのではありません。説教者を通して、主なる神が私どもに語りかけてくださっているのです。それに対して、賛美は神への応答です。神にお応えするのです。礼拝出席者全員で歌う会衆賛美は、出席者である皆さんお一人お一人に委ねられて大切な奉仕なのです。皆で主なる神にお応えし、賛美をお捧げするのです。

また、なかなか皆の目に触れることがありませんが、礼拝のために掃除をして下さる方、そして、礼拝堂正面のお花を生けてくださる方がおられます。礼拝は主なる神にお捧げするものです。同時に、皆が気持ち良く捧げられる礼拝でなければなりません。掃除をし、お花を生けて下さるご奉仕によって、礼拝堂がそれに相応(ふさわ)しく整えられることはとても大切なことです。また、私どもの教会では、礼拝直後にコイノニア、交わりの時を持っています。その準備のご奉仕も、皆さんが順になさって下さっています。

では、礼拝が終われば奉仕も終わりかと思うと、そうではありません。毎週、会計担当の方がその日の献金など、会計の奉仕をなさってくださっています。主の日の礼拝に毎週休みがないように、会計担当の方は、毎週、皆がホットしている時に、別室でご奉仕くださっています。

また、老人施設に入(はい)られ、教会の礼拝に出席できなくなってしまった方の所に、時々行ってくださるという奉仕をして下さっている方もあります。来て頂いた方はとても嬉しいと思います。これも貴い奉仕です。

 このように、実に多くの奉仕によって、礼拝は、そして教会は成り立っています。その全部を上げ切ることは出来ません。そのように、多くの方が教会に仕えることで教会は成り立っています。

 さらに、信仰告白をされ、バプテスマを受けられ、教会員となられた方は、礼拝出席という奉仕の他、礼拝献金をお捧げする他にも月定献金をお捧げする奉仕があります。月に一定の金額を教会にお捧げするのです。どれだけお捧げするのでしょうか。昔から、主なる神に従う者は、収穫の十分の一をお捧げするということになっていました。それを受け継いで、キリスト者も収入の十分の一をお捧げするというのが、伝統となっています。それによって、皆で会計的にも教会を支え、主なる神に、教会に仕えるのです。

 そして、教会奉仕で忘れてならないのは、祈りの奉仕です。他の方のため、病気の方や、課題を抱えている方、皆のために祈ることです。ある面から言えば、神の家族である教会は互いに祈り合う事によって、成り立っています。互いのことを思いやり、配慮し、そして、その人のために祈るのです。祈り続けるのです。これは誰でも出来る奉仕です。寝た切りになってしまっても出来る奉仕です。祈りの奉仕は、キリスト者の奉仕の中でも、最も貴い奉仕の一つです。実際、祈って頂いていることで、勇気と力が与えられます。感謝です。

 そのように、神の家族として、教会に生きるということは、父なる神に仕え、母なる教会に仕えることなのです。

 その一方で、教会は、既に申しましたように、年配の方、寡(やもめ)となってしまった方に配慮するのです。教会に生きるということは、そのように、誰一人として軽んじられないということでもあります。

先月18日の伝道礼拝の中でも申しましたように、当時ユダヤ人社会で嫌われ、排除されていた徴税人や罪人と呼ばれる人たちを主イエスは喜んで受け入れ、一緒に食事もされました。その時の様子こそ、あるべき教会の姿なのです。誰も排除されず、軽んじられず、弱い人は配慮されるのです。

最近、礼拝に出席なさっている女性の中で最高齢の方を、毎週、どなたかが、教会からの帰りに、本厚木駅まで自動車で送ってくださっています。誰かが決めた訳ではありませんが、いつの間にか、そのような貴いご奉仕をしてくださっています。以前にも、今は礼拝にいらっしゃれない方が、まだようやく礼拝に来られていた頃、同じように、礼拝の帰りに本厚木駅まで、自動車でお送り頂いている光景をよく見ました。年配の方に配慮する教会の特徴をよく表してくださっていると思い、感謝しています。

 時々、こんな言葉を聞きます。年配の方からです。「今はしてもらうばかりで、何にもご奉仕出来なくなって、すみません」。しかし、他の方に聞くと、その年配の方は昔、礼拝を欠かしたことがなく、人一倍、奉仕をされていたそうです。そのように、神の家族として、教会に生きるということは、若くて出来る時に教会に仕え、それが出来なくなったときは、皆に配慮され、今まで以上に大切にされるということだと思います。

 

 では、今度は、本日二つ目にお読みしました聖書の言葉に耳を傾けましょう。もう一度お読みします。テモテへの手紙 一 第6章11~16節です。「11 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。12 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。13 万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。14 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。15 神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、16 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン」。

本日、ここの中で特に注目したいのは、12節の言葉です。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」と言われている言葉です。ここで言われていますように、私どもが教会に召されたのは、キリスト者として召されたのは、永遠の命を手に入れるためなのです。ここで言われます「永遠の命」とは、しばしば申していますように、不老長寿でいつまでも生き続けることではありません。「永遠の命」とは、地上の命が終わっても、神の下に置かれ、いつの日か主イエスと同じように復活の命に与るということ。いつまでも、神と一緒で、神から離される事がないということです。それは簡単に申せば、神の国に、天国に入れて頂けるということです。

ただ、なかなかそのイメージが沸かないと思います。なぜなら、天国の様子を見て来た人は誰一人としていないからです。無理もありません。ただし、その手がかりがあります。それは、今私どもが捧げている礼拝、そして特にこのあと行います聖餐です。

聖餐は、まずは何と言っても、主イエスの十字架を表すものです。十字架で捧げられた主イエスの肉と血を頂き、私どもの罪の赦しのために主イエスが十字架にお架かり下さったことを、もう一度心に刻むのです。

それと同時に、聖餐は、天国の祝宴を示しているのです。私どもがいつの日か主なる神に招かれ、天国の祝宴の席につくことを、聖餐を受けさせていただくことで指し示しているのです。

主イエスは、祝宴の席に招待される様子をいくつかの譬え話の中で用いられました。また婚礼の花婿を迎えに出る様子も譬え話の中に出て来ます。そのように、私どもが経験する最も華やかな喜ばしい時の一つに、結婚披露宴があります。皆が花嫁花婿を祝福し、お祝いムードで満たされます。美味しい料理や飲み物も振る舞われます。天国の祝宴もそれに譬えられるのです。主なる神が私どもをご招待下さるのです。たぶん、私ども一人一人の席も用意されていることでしょう。主なる神と御子主イエスと御霊が祝宴を用意してくださり、私どもがそこに招かれるのです。聖餐はその祝宴を象徴し、指し示してしているのです。天国に入ることを許された者は、天国の祝宴の席に着かせていただけるのです。主イエスを私の救い主と信仰告白し、主なる神に従い続けた者に、主なる神は永遠の命を与え、天国に招き入れてくださるのです。私どもは、父なる神、主イエスと共に、祝宴を囲むのです。

神の家族として、教会生きることは、そのような永遠の命に与(あずか)ることを最終目的としています。そのために、地上においては、父なる神に仕え、教会に仕え、大切な存在として、配慮されるのです。

皆さんも神の家族の一員となるように、教会に生きるように、招かれています。礼拝で賛美をもって、主なる神に応答するように、神のお招きに応え、一緒に、神の家族の一員としていただき、教会に生きてまいりましょう。そして、永遠の命を賜りましょう。

祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、私どもをあなたの家族としてくださり、母なる教会に生きるように召してくださっています。あなたのお招きに心より感謝申し上げます。どうぞ、あなたを悲しませるのではなく、あなたに喜んでいただけるように、あなたに立ち帰り、常に悔い改めをもって、あなたに従っていけますように、私ども一人一人をこれからもお恵みお導き下さい。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

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2017年7月9日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第1章1~20節

 

 1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。

  2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。3 牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。4 災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。5 何故、お前たちは背きを重ね/なおも打たれようとするのか/頭は病み、心臓は衰えているのに。6 頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭(むち)のあと、生傷は/ぬぐわれず、包まれず/油で和らげてもらえない。7 お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ/田畑の実りは、お前たちの目の前で/異国の民が食い尽くし/異国の民に覆(くつがえ)されて、荒廃している。8 そして、娘シオンが残った/包囲された町として。ぶどう畑の仮小屋のように/きゅうり畑の見張り小屋のように。9 もし、万軍の主がわたしたちのために/わずかでも生存者を残されなかったなら/わたしたちはソドムのようになり/ゴモラに似たものとなっていたであろう。

 10 ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。

 11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息(あんそく)日(び)、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を 16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ 17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。

 18 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋(ひ)のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。19 お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。20 かたくなに背くなら、剣の餌食(えじき)になる。主の口がこう宣言される

 

「神は罪に汚れた私たちを白くして下さる」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日は聖書の賛美の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ユダの手紙 24節、25節の言葉です。「24 あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、 25 わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン」。

 先週、九州で豪雨がありました。多くの方が亡くなり、多くの方がケガをされ、今なお多くの方が避難されています。家が流され、多くの建物、道路、橋が被害を受けました。今も孤立している地区があると聞きます。亡くなられた方のご家族に主のお慰めがありますよう、お祈り致します。そして、ケガをされた方を主がお慰めくださり、一日でも早く回復されますようお祈り致します。また、孤立している地域の方が早く助けられ、避難が早く終わり、復旧作業が早く進みますようにお祈り致します。共に祈ってまいりましょう。

 さて、先日5月28日、長らく続けてまいりましたヨハネによる福音書の連続講解説教を終えました。そこで本日から、イザヤ書の連続講解説教を始めます。イザヤ書は第66章まであります。イザヤ書の言葉を聞き終えるまでどの位かかるか分かりませんが、ご一緒に聴いてまいりたいと思います。

 新共同訳聖書には巻末に付録がついていまして、これはとても役に立ちます。最初に聖書地図があります。その次に「聖書について」という題名で、聖書全体についての解説があります。その中のイザヤ書を見てみると、以下のように書いてあります。少し、補足して申します。預言者イザヤは紀元前八世紀後半、アッシリア帝国の最盛期に、エルサレムに遣わされた、神の使者です。イザヤは神の言葉を取り次ぎ、王と住民全体を、どんな時にも神に信頼し、神に従うように招いています。さて、イザヤ書は三部構成になっているとしばしば言われます。第一部は第1章から第39章までで、今も申しました預言者イザヤが活動した紀元前八世紀後半のアッシリア帝国の最盛期のユダヤに対して語られています。そして第二部、第40章から第55章まででは、南ユダ王国がバビロンに占領され、多くの人がバビロンに連れて行かれたバビロン捕囚のあと、バビロンに移されたユダヤ人に向けてられて書かれていています。そして第三部の第56章から第66章は、未来のエルサレムを歌っていると言われています。

 もっと簡単に、二部構成だと言う人もいます。前半が、第1章から第39章で、審判、神によるイスラエルの裁きだとするのです。そして、後半、第40章から第66章が、回復、バビロンに負けてしまったイスラエルを、神が再び回復させてくださることが書かれていると言うのです。

ところで、ある聖書学者が面白い指摘をしています。イザヤ書が66章あるのと、旧新約聖書が66巻の書物からなっていると数が一致すること、さらには二部構成の前半の、神の審判が語られた39章は旧約聖書の39巻と、ここでも数が一致し、後半の27章は新約聖書の27巻に数が一致するのです。面白い指摘です。

ところで、イザヤ書にあまり馴染みがないと思われている方もあるかもしれません。しかし、良く知られたキリスト預言がイザヤ書の中にあります。まずは、交読文 36にありますイザヤ書 第11章です。新共同訳では、「平和の王」という小見出しがついている箇所です。交読文ではこう始まります。「エッサイの根より一つの芽いで、その根より一つの枝生(は)えて実を結ばん」で始まる箇所です。平和の王として来てくださるキリストを預言しています。そして、もう一つ、こちらは交読文の39にありますイザヤ書 第53章です。「苦難の僕」と呼ばれ、十字架のキリストを預言した箇所です。そのように、イザヤ書は特に重要なキリスト預言がなされた書であるとも言えます。

では、本文をみてまいりましょう。こう始まっています。「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻」。ここから述べることは、預言者イザヤが見た幻だと言われています。ただ、第2章の初めにも、「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと」と言われていますので、第1章の冒頭の言葉が、イザヤ書全体について言われているのか、それとも、第1章だけについて言われているのは不明です。ただ、どちらにしろ、本日の箇所は、イザヤが主なる神から幻で示されたことだと言うのです。

 続く2節、3節です。こう言われています。「2 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。3 牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない」。そう言われています。牛やろばでも自分の世話をしてくれる飼い主、主人を知っている。しかし、神の民であり、主なる神から特別のお恵みとお導きを頂いているイスラエルの民が、こともあろうに、主なる神を知ろうとせず、背(そむ)いていると言うのです。口語訳聖書 伝道の書 第12章1節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と言われています。また、箴言 第1章7節では、「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮(あなど)る」と言われています。主なる神をしっかり知ること、そして、主を畏れ敬うこと、それが、知恵の初めであり、信仰の初めなのです。私どもは、ここで言われているイスラエルの民のことを人ごとと思わず、自分のこととして真剣に聴かなければならないと思います。

 そのような、自分の愚かさや罪を認識しないと、4節のように言われてしまうのです。「災いだ、罪を犯す国、咎(とが)の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮(あなど)り、背を向けた」。そのように言われてしまうのです。そのようにならないように、この4節の言葉もしっかりと心に刻んでおかなければならないでしょう。

 このあとも、厳しい罪の指摘が続きます。もしかしたら、これらの言葉を聞くのが嫌になってしまうかもしれません。しかし、神の前に正しく、神の御心に従って歩むためには、まず、自分の現実を知ること、神の言葉から耳を反らすことなく、自分の罪を認めることが、大切です。その態度で、これらの言葉を聞いてまいりたいと思います。

 では、9節、10節の言葉をもう一度聞いてみましょう。「9 もし、万軍の主がわたしたちのために/わずかでも生存者を残されなかったなら/わたしたちはソドムのようになり/ゴモラに似たものとなっていたであろう。10 ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ」。そう言われています。ソドムとゴモラは創世記 第19章でその罪深さのために主なる神に滅ぼされてしまった町です。もし、万軍の主なる神がわたしたちのために、わずかでも生存者を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになっていて、ゴモラに似たものとなっていたであろうと言うのです。「わずかでも生存者を残す」とは神の慈悲です。旧約聖書において、「残りの者」というのは、重要な言葉です。神が審(さば)かれ滅ぼされる。しかし、お慈悲で、「残りの者」を残してくださるのです。そこで希望は続くのです。ここでは、そのように「わずかでも生存者を残されなかったら」「残りの者を残されなかったら」、イスラエルは、そして、あなたは、ソドムとゴモラのように神の審きを受け、完全に滅ぼされてしまっただろうと言うのです。そして、イスラエルよ、あなたはソドムの支配者だと言うのです。だから、立ち帰って「主の言葉を聞け」と命じられるのです。さらに、イスラエルよ、あなたはゴモラの民だと言うのです。だから、立ち帰って、「わたしたちの神の教えに耳を傾けよ」、と呼びかけるのです。あなたは、完全に滅ぼされてもおかしくなかった。だから、主の言葉を聞き、主の教えに耳を傾けよと告げるのです。

 続く11節以下も、もう一度聞いてみましょう。「11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽(あ)いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香(こう)の煙はわたしの忌(い)み嫌うもの。新月祭、安息(あんそく)日(び)、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた」。そう言われています。捧げ物は大切です。しかし、あなたがたがあまりにも罪深いので、主に背いているので、形だけの捧げ物も、儀式も主なる神は喜ばれないと言っているのです。11節の終わり、「雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない」。13節、「香(こう)の煙はわたしの忌(い)み嫌うもの。新月祭、安息(あんそく)日(び)、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない」。14節、「お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた」。どんな捧げ物も、儀式も、主は喜ばれないのです。イスラエルが、そしてあなたが、主を知らず、主に聞き従わないからだと言うのです。そのような状態であったなら、どんな捧げ物も儀式も、むしろ、主に嫌われると言うのです。

 そのように、厳しい罪の指摘が続きます。しかし18節になって、一転して、救いを告げる言葉となります。18節、「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋(ひ)のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる」。そのように言われます。このような場面で「論じ合う」という言葉は珍しい言葉です。この言葉は裁判所の法廷用語、法律用語だそうです。検事が罪人を訴える罪状書き読み上げ尋問するのです。判事はそれを聞き、論告がなされ、最後に判決が下される時に使われる言葉だとうです。イスラエルの罪が、裁判所で、法廷で、論じられるのです。私どもの罪が、論じられ、判決が下されるのです。

 「たとえ、お前たちの罪が緋(ひ)のようでも/雪のように白くなることができる」と言われています。ここで罪が、「緋(ひ)」、「緋(ひ)色」、赤い色に譬えられています。罪の色と言えば、黒を連想される方が多いのではないでしょうか。「白」は無罪、「黒」は有罪、そして、「灰色」は黒の疑いがあるものを言われます。では、ここでなぜ、「お前たちの罪が緋(ひ)のようでも」と言われているのでしょうか。そのヒントとなるのが、15節後半のこういう言葉です。「どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を」との言葉です。そうです。ここでの「緋(ひ)」は、血の色です。血が流れるのです。人を殺し、返り血を浴びるのです。お前の罪は、殺人という最も重い罪の一つであるか、それに等しい罪であると言うのです。しかし、主なる神は、そのような罪をも、「雪のように白くなることができる」とおっしゃるのです。真っ白い雪のように、汚いものを全て覆ってくれる、純白の白のようにすることが出来ると主なる神はおっしゃるのです。あなたの罪を赦して、償い、あなたを罪のない者にすることだって、主なるかみなら出来るとおっしゃるのです。この部分、新改訳では、「雪のように白くなるのだ」と訳しています。あなたの罪を赦していただくことが出来るではなく、あなたの罪は赦されるとはっきり言うのです。

 そうです。主なる神はどんな罪をも赦すことが出来、それを実行してくださるのです。ここで語られているのは約束です。しかし、私どもの約束とは違い、主なる神の約束は必ず実行されるのです。どんなに罪深い私どもでも、罪を赦していただき、白い、全く罪のない者として頂けるのです。感謝です。

 その約束が現実となるのは、先ほどイザヤ書が預言していると言いました主イエス・キリストです。主イエス・キリストの十字架なのです。その意味で、イザヤ書は、そして旧約聖書は、新約聖書としっかりつながっていて、預言が成就するのが、新約なのです。最後に、イザヤ書 第44章22節の言葉をお読みします。主の言葉です。「わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」。私どもの大きな罪をも償って、赦し、私どもを聖(きよ)くしてくださる主なる神に感謝し、主なる神に従ってまいりましょう。お祈りを致します。

 

 私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。私どもは、イスラエルの民と同様、あなたの前に多くの罪を犯しています。しかし、それらをあなたは雪のように白くし、私どもを贖い、救ってくださいます。感謝致します。どうぞ、あなたの赦しに感謝し、あなたに従っていけますように、私どもをお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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2017年7月16日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第1章21~31節

 

 21 どうして、遊女になってしまったのか/忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに/今では人殺しばかりだ。22 お前の銀は金(かな)滓(かす)となり/良いぶどう酒は水で薄められている。23 支配者らは無慈悲で、盗人(ぬすびと)の仲間となり/皆、賄賂(わいろ)を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない。24 それゆえ、主なる万軍の神/イスラエルの力ある方は言われる。災いだ/わたしは逆らう者を必ず罰し/敵対する者に報復する。25 わたしは手を翻(ひるがえ)し/灰汁(あく)をもってお前の滓(かす)を溶かし/不純なものをことごとく取り去る。26 また、裁きを行う者を初めのときのように/参議を最初のときのようにする。その後に、お前は正義の都/忠実な町と呼ばれるであろう。27 シオンは裁きをとおして贖(あがな)われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖(あがな)われる。28 背く者と罪人は共に打ち砕かれ/主を捨てる者は断たれる。29 慕っていた樫(かし)の木のゆえにお前たちは恥を受け/喜びとしていた園のゆえに嘲(あざけ)られる。30 お前たちは葉のしおれた樫(かし)の木のように/水の涸(か)れた園のようになる。31 強い者も麻(あさ)の屑(くず)となり、その行いは火花となり/共に燃え上がり、消す者はいない。

 

 

 

「悔い改める者は神の恵みの御業によって贖(あがな)われる」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日は聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ヨハネの黙示録 第1章4節の言葉です。「イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように」。

 

 先週から、イザヤ書の言葉をご一緒に聴いています。本日は、第1章21節以下のみ言葉を聴いてまいります。

 本日の箇所はこう始まります。21節です。嘆きから始まります。「どうして、遊女になってしまったのか/忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに/今では人殺しばかりだ」。

 ここで、「忠実であった町が」と言われています。ここでは町の名前は特定されていませんが、イスラエルの町、たぶんイザヤの出身のエルサレムの現状を見て、主なる神は嘆かれているのでしょう。

 「どうして、遊女になってしまったのか」と嘆いています。遊女、客を遊ばせるという意味で、娼婦、売春婦のことです。エルサレムの町の民は、堕落し、そこまで堕落してしまったと言っています。現在の日本においては、売春禁止法により、違法な職業となっています。エルサレムの民の現状をそのように譬えています。

 かつては、「忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに」と言われています。それは、23節で言われていることの逆であったということです。それは、こういうことでしょう。支配者らは慈悲を持って民を治め。犯罪者と結託するようなことは全く無く。賄賂(わいろ)を嫌い、取り入ろうとする者からの贈り物を拒んだ。さらには、後ろ盾がなく、社会的に弱い立場にある孤児の権利をしっかり守り、同じく、後ろ盾がなく、社会的に弱い立場にあるやもめの訴えをしっかり取り上げて、やもめたちを守っていたのです。まさに、21節後半で言われるように、「忠実であった町。そこには公平が満ち、正義が宿っていた」のです。しかし、21節の最後で言われるように、「今では人殺しばかりだ」となってしまったのです。実際に殺人事件が多くなっていたのでしょう。ただ、ここで言われている「人殺し」は、犯罪や、不正、不公平などの罪を代表して「人殺し」と言われているのではないでしょうか。

 モーセがシナイ山で主なる神から頂いた十戒、十の戒めの中でも、「殺してはならない(出エジプト記 第20章13節)」と言われています。一般社会においても、殺人は大きな犯罪です。そして、私どもの多くは、自分は一生人殺しなどという恐ろしい事は行わないと思っているでしょう。ただし、業務上過失致死ということもあります。普段から充分に気を付けなければなりません。

また、十戒が教会で説かれる時 ―― 以前、私どもも十戒の一つ一つを主日礼拝の説教で取り上げました。―― その中で、「殺してはならない」との言葉が説かれる時、しばしば、とても厳しく、このように語られます。「もしかして、あなたは誰かがいなければよいのになあ」と思ったことはありませんか。そう思ったということは、その人を殺してしまったに等しい罪です。そのように説かれます。そう思うと、ここで語られているエルサレムの堕落は、全くの人ごととは言えないことに気付かされます。神の目から見れば、私どもは既に「殺してはならない」に等しい罪を犯しているのです。

そのようにエルサレムの実情は、23節で言われている通りだったのです。「支配者らは無慈悲で、盗人(ぬすびと)の仲間となり/皆、賄賂(わいろ)を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない」。

支配者は、多くの権限が委ねられています。そのため、しばしばその権限を世のために使うのではなく、私腹を肥やすために使ってしまうのです。これは、高い地位を委ねられた者に常に付きまとう誘惑でしょう。近代社会は、それらを厳しく取り締まってきました。最近は少なくなりましたが、日本でも、政治家の汚職が、特捜部の厳しい捜査を受け、暴かれたことがしばしばありました。もう二度とそのようなことはない事を祈ります。また、近代社会においては、社会的に弱い立場の人の権利を守る様になってきました。しかし、現在でも、弱い立場の人が多くいます。日本では子どもの貧困がまだまだ解消されていません。世論を盛り上げ、そのような問題も解決しなければなりません。そう思うと、23節で主なる神が嘆かれていることも、現在の私どもと無縁ではないことに気付かされます。

それらのことを、22節では比喩でこう言っています。「お前の銀は金(かな)滓(かす)となり/良いぶどう酒は水で薄められている」。純銀は光輝いていて、高価です。しかし、それも今は汚れた金属の滓(かす)となってしまったと言うのです。そして、良質のぶどう酒も水で薄められ、味気ないものとなってしまったと言うのです。エルサレムの民の堕落を神はこのように嘆かれているのです。

なぜ、ここまで堕落してしまったのでしょう。一つ言えることは、イスラエルの民に驕(おご)りがあったからだと思います。イスラエルは、ダビデ王、その息子ソロモン王の時代に繁栄します。王国は領土を広げ、富を集めます。立派な王宮を、壮大な神殿を建設します。そして、自分たちは神の民であることを誇ります。しかし、そこに驕(おご)りがあったのでしょう。全ては神のお恵み、恩寵だったのです。しかし、自分たちが優れているかのように錯覚し、神の言葉を軽んじ、神に背いたのです。ソロモンは後年、偶像礼拝を始めてしまいます。

そこに神の審(さば)きが下るのです。24節です。「それゆえ、主なる万軍の神/イスラエルの力ある方は言われる。災いだ/わたしは逆らう者を必ず罰し/敵対する者に報復する」。「災いだ」と主なる神、万軍の神は言われるのです。災いと言うと、私どもはまず自然災害を連想します。自然災害は真に恐ろしいものです。しかし、ここで言われているのは言うなれば、人災です。エルレムの町の人々が行っていること、不正、不公平、殺人、等々は、人災だと言うのです。しかも、24節後半で、「わたしは逆らう者を必ず罰し/敵対する者に報復する」と言われているように、それらの罪は、主なる神に逆らい、敵対していることなのです。主なる神はその罪をそのままにはしておかれることは決してなく、厳しく罰し、報復するとおっしゃるのです。

私どもは厳しくされることを好みません。罰せられることを嫌(きら)います。しかし、厳しく罰せられることは自明のことであっても、犯罪はなくなりません。そして、私どもの側(そば)には常に悪の誘惑があります。ですから、主なる神が厳しい方でなかったら、罪を罰せられることが無かったら、私どもはどれほど罪を犯すでしょうか。理想の姿とは程遠いですが、厳しく罰せられることを恐れ、罪を犯すことを思いとどまるということも、誘惑に弱い私どもにとっては必要なことではないでしょうか。

主なる神はさらにおっしゃいます。25節です。「わたしは手を翻(ひるがえ)し/灰汁(あく)をもってお前の滓(かす)を溶かし/不純なものをことごとく取り去る」。主なる神は、私どもを立ち帰らせるために、悪いものを除いてくださるのです。悪いものを取り除く、もし、それが出来ないのなら、悪いものから遠ざかることが必要です。もし、本人が出来ないなら、周りの者が、立ち直らせたい人を悪いものから遠ざけることが必要です。悪を断ち切るか、悪との関係を断ち切るのです。私どもが何か新しくなりたいと思う時、今までの習慣を断ち切らなければならないことがあります。それを断固として行うことが、新しい一歩を踏み出すきっかけになることもあります。今までのぬるま湯につかったままでは駄目だということです。主なる神に従うためにも、妨げるものを断ち切る必要があるのだと思います。

続く、26節では、初めに戻ること、初心に帰ることが大切な事と言われます。「また、裁きを行う者を初めのときのように/参議を最初のときのようにする。その後に、お前は正義の都/忠実な町と呼ばれるであろう」。そう言われています。ある方がこんなことを言っていました。汚職にまみれてしまった政治家や役人も、最初からそのようなことをしようとしてなった訳ではなかった。しかし、権力を得、高慢になってくるとそのようなことに手を染めるようになってしまう。しかし、初心を貫ける者はそのようなことをしない。そうです。初心に立ち帰ることは、いろいろな意味で大事なのです。私ども信仰者も、信仰告白し、バプテスマを授けていただいた時の純粋な思いを忘れてはならないのです。いつもそこに立ち帰ることが、信仰において、大切だと私は思っています。他の方の信仰告白やバプテスマ式に感動するのは、その方が救われた喜びと同時に、その時、自分の初心を生き生きと思出せるからではないでしょうか。

続く27節です。「シオンは裁きをとおして贖(あがな)われ/悔い改める者は恵みの御業によって贖(あがな)われる」。本日の説教題はここから取らせてもらいました。悔い改めるとは、自分の犯した罪を悔い、自分の姿勢を改めるということです。そして、それは、信仰においては、神に立ち帰ることです。放蕩息子が父親の所に帰って来たたように、神に立ち帰ることが、信仰において、悔い改めることの真髄です。主なる神は厳しい裁きをとおして、私どもを贖(あがな)ってくださるのです。

贖(あがな)うとは、ここでは、罪を贖(あがな)うということで、贖罪(しょくざい)です。贖罪(しょくざい)とは、金品や善い行いをもって罪を償う事を言います。贖(あがな)うの元々の意味としては、奴隷などをお金をもって買い戻すという意味があったと聞きます。その意味では、罪を犯し、悪の奴隷になってしまった私どもを買い戻してくださることでしょう。そこから、罪を償うと言う意味が生まれたと言っている人もいます。今、贖うと言う言葉を詳しい国語辞典で調べると、キリスト信仰における罪の償いについて、さらには、キリストの十字架による私どもの罪の贖いについても言及されています。そうです。ここで、「悔い改める者は恵みの御業によって贖(あがな)われる」とは、神に立ち帰る者は、神の恵みの御業、その最終的な、最高のものであるキリストの十字架によって、罪を贖って頂けるのです。償って頂けるのです。

前回申しましたように、イザヤ書には多くのキリスト預言が含まれています。それは、新共同訳聖書の巻末付録の「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧」見れば、よく分かります。先週の「聖書を読み祈る会」でも、イザヤ書 第53章が何度も福音書で引用されていることを確認しました。

そうです。イザヤ書は、キリストを指示(さししめ)しています。特に、キリストの十字架を指示しているのです。そして、今、聴いています27節後半の「悔い改める者は恵みの御業によって贖(あがな)われる」とのみ言葉が、最終的に成就するのは、主イエス・キリストの十字架においてなのです。もし、主イエスの十字架がなかったなら、「悔い改める者は恵みの御業によって贖(あがな)われる」との御言葉は完全には成就されなかったことになるでしょう。その意味で、イザヤ書で言われているイスラエルの罪、そこから、教えられる私どもの罪も、主イエスの十字架無くしては、完全に贖って頂くこと、償って頂くことは出来ないのです。

主イエスの十字架に感謝し、主イエスこそが私どもの救い主であるとの信仰告白を続けてまいりましょう。そして、いつまでも、救い主、主イエス・キリストに従ってまいりましょう。

お祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。私どもは、イスラエルの民と同様、あなたの前に多くの罪を犯しています。しかし、それらすべてをあなたの御子、主イエスが十字架で贖ってくださいました。感謝致します。どうぞ、あなたの赦しに、十字架に感謝し、あなたに、そして、御子主イエスに従っていけますように、私どもをこれからもお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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2017年7月23日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第2章6~22節

 

 6 あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。この民がペリシテ人のように/東方の占い師と魔術師を国に満たし/異国の子らと手を結んだからだ。7 この国は銀と金とに満たされ/財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ/戦車には限りがない。8 この国は偶像に満たされ/手の業、指の造った物にひれ伏す。9 人間が卑(いや)しめられ、人はだれも低くされる。彼らをお赦しにならぬように。10 岩の間に入り、塵の中に隠れよ/主の恐るべき御顔(みかお)と、威光の輝きとを避けて。

11 その日には、人間の高ぶる目は低くされ/傲慢(ごうまん)な者は卑(いや)しめられ/主はただひとり、高く上げられる。12 万軍の主の日が臨む/すべて誇る者と傲慢(ごうまん)な者に/すべて高ぶる者に――彼らは低くされる―― 13 高くそびえ立つレバノン杉のすべてに/バシャンの樫(かし)の木のすべてに 14 高い山、そびえ立つ峰のすべてに 15 高い塔、堅固な城壁のすべてに 16 タルシシュの船と美しい小舟のすべてに。17 その日には、誇る者は卑(いや)しめられ/傲慢(ごうまん)な者は低くされ/主はただひとり、高く上げられる。18 偶像はことごとく滅びる。19 主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞穴(ほらあな)、地の中の穴に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。20 その日には、だれもが/ひれ伏すために造った銀の偶像と金の偶像を/もぐらやこうもりに投げ与える。21 主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞窟(どうくつ)、崖(がけ)の裂け目に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。22 人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。

 

 

 

「誇る者は卑(いや)しめられ、傲慢(ごうまん)な者は低くされ、 主なる神はただひとり、高く上げられる」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日は聖書の賛美の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ヨハネの黙示録 第1章5節から6節の言葉です。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」。

イザヤ書の言葉をご一緒に聴いています。今後、聴いていきます箇所であるイザヤ書第6章3節に、こういう神を賛美する言葉があります。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」そういう賛美の言葉があります。ここに、イザヤ書が伝える主なる神の特徴があります。それは、主なる神は聖なる方であるということです。聖なる方の逆は、俗なるものです。俗なるものは私ども人間です。聖と俗、そこには、私どもからは決して越えられないものがあります。そして、聖なる主はすべてにおいて人を超越しておられ、人の世界と歴史を究極的に支配されている方です。聖なる方と俗なる私ども、その違いをいつも弁(わきま)えている事が、私どもの信仰生活において大前提となることです。イザヤ書はそのことも教えてくれています。

 さて、連続講解説教ということで、イザヤ書の言葉を聴いていますので、本来であれば、本日は第2章1節以下の言葉を聴くべきところです。ただし、第2章1節から5節は、再来週の8月6日、私どもが「平和を覚える主日」と呼んでいます8月第一主日に説教させて頂きたい箇所です。そのため、本日は第2章6節以降の言葉をご一緒に聴いてまいりましょう。

 本日の箇所は、衝撃的な言葉から始まります。「あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた」。ここでの「あなた」とは、主なる神です。主なる神が、御自分の民、神の民であるイスラエルを、イスラエルと呼ばれたヤコブの家、ヤコブの子孫である民を捨てられたと言うのです。ご自分の民を捨てられたと言うのです。

旧約聖書の初めの創世記にありますように、主なる神はアブラハム、イサク、そして、のちにイスラエルと呼ばれるようになるヤコブの神のとして、彼らを守り導いて来られました。創世記の終わりの方では、イスラエル一帯を飢饉(ききん)が襲いますが、主なる神は、ヤコブの息子ヨセフを事前にエジプトに遣わし、ヤコブ一族を守って下さいました。しかし、時が経つと、彼らはエジプトで奴隷のように扱われます。しかし、主なる神はモーセを遣わし、イスラエルの民を、出エジプト、エジプトを脱出させるのです。そして、40年荒れ野と呼ばれるシナイ半島を主に導かれて旅し、遂にはヨルダン川を渡って、元いたユダヤの地に戻って来るのです。そして、士師と呼ばれるリーダーが与えられた時代の後(のち)、イスラエルは王国となり、主の祝福をいただいて大いに繁栄します。しかし、王国は南北に分裂します。そして、預言者イザヤが生きた時代、近隣のアッシリアが台頭して来るのです。そのように、困難な時代にこそ、イスラエルの民は主なる神の憐れみとお導きを頂いて、守られてきたのです。それなのに、「あなた―主なる神―は御自分の民、ヤコブの家を捨てられた」と、イザヤは告げるのです。今までも、イスラエルの民がみ心に背きたことは何度もありました。その度(たび)に、主の怒りが下りました。それでも、主なる神はイスラエルをお見捨てになることはなかったのです。しかし、ここに至って、イザヤが幻の中で見たものは、主なる神が愛するご自分の民を見捨てられたというとても受け入れ難い事実だったのです。

 その言葉に続く6節後半にその理由が述べられています。「この民がペリシテ人のように/東方の占い師と魔術師を国に満たし/異国の子らと手を結んだからだ」。そう言われています。「東方の占い師と魔術師を国に満たし」とあります。占い、魔術は、主なる神に反することとして、禁じられています。レビ記 第19章26節では、こう言われています。「あなたたちは血を含んだ肉を食べてはならない。占いや呪術を行ってはならない」。しかし、それを満たしていたというのですから、主なる神が怒られるのは当然です。

そして、6節の終わりの「異国の子らと手を結んだからだ」は、直訳に近いそうです。ただし、ここはむしろ意訳して、「異国と同盟したからだ」とした方が分かりよいと言っている人もいます。ここで、理解を助けるために、当時のイスラエル周辺の勢力関係について少しご説明します。

 当時、イスラエルは、二つの王国に分かれていました。北イスラエル王国と南ユダ王国です。そして、既に申しましたように、近くにアッシリアという周りの国と比べてとても強い国がありました。そのアッシリアのティグラト・ビルセル三世は、近隣の諸国に朝貢を要求します。貢物をもって来て、自分たちにひれ伏せと要求したのです。それに反発したのがシリアと北イスラエルとペリシテでした。彼らは同盟を結んで対抗します。ところが、南ユダはその同盟に入らなかったのです。そして、今、6節の終わりの「異国の子らと手を結んだからだ」との言葉は「異国と同盟したからだ」と言った方がよいと言われていることを紹介しました。この言葉から類推すると、南ユダ王国は、こともあろうに北イスラエル王国が反発してしるアッシリアと同盟を結んでいたか、結ぼうとしていたようなのです。そこで、南ユダには、アッシリアと対抗するのではなく、北イスラエル、シリア、ペリシテと対抗するために、金銀をはじめとする財宝と軍馬、戦車などの武器が集められていたのです。そのことが7節で、こう言われているのです。「この国は銀と金とに満たされ/財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ/戦車には限りがない。」

 現代では、軍事力に全く頼らない平和を提唱する方々がいます。軍事力は持てば、あれも、これもとなって、際限ない。また、武力によって、武力で対抗しようとすると戦争は拡大するだけあると言われるのです。戦争をなくすためには、そうしなければならないと言われるのです。その意見は多数派ではありませんが、しっかり聞いておくべき意見の一つだと私は思います。それに関連して、憲法第9条において戦争を放棄している日本が、どれほどの防衛力を持つべきかは、人によって意見が異なっています。難しい問題です。

ただし、預言者イザヤの時代、生き残るためには、敵に対抗するためには、どうしても経済力も、軍事力も必要だったのでしょう。ただし、他の国とは違い、北イスラエル王国も、南ユダ王国も、自分たちは神に選ばれた民であることを忘れてはならなかったのです。かつての王、サウル王にしても、ダビデ王にしても、当時のイスラエルは強い武力を持っていました。しかし、王は武力に頼るよりも先に、神に頼ること、神に従う事の大切さを知っていました。神はそれに応えてくださり、国を発展させて下さいました。しかし、預言者イザヤのこの時代、王や民は、神よりも、経済力や武力に頼っていたのです。また、神に頼るより、策略を巡らし、どこの国と同盟を結ぶと有利かという事の方に心が向いていたようです。そのことを指摘して、「この国は銀と金とに満たされ/財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ/戦車には限りがない。」と7節で言われているのです。

今回の同盟総会の総会牧師である捜真バプテスト教会の小野慈美牧師は説教の中でこんな事を言っておられました。神に希望を抱くと言うのは、「人事を尽くして天命を待つ」というのとは、順番が違う。神に希望を抱くとは、天命に従い、その上で、人事を尽くすことだ。そのように言っておられました。信仰においては、まず、神の言葉を聴くのです。人が動くのはそれからなのです。そうでないと、しっかりと神の言葉に従うことが出来ないのです。

続く8節では、こう言われています。「この国は偶像に満たされ/手の業、指の造った物にひれ伏す」。異邦人と同盟を結ぶことで、偶像礼拝が盛んに入っていたのかもしれません。しかし、ここで言われている偶像、そして、「手の業、指の造った物」とは、刻んだ像だけはないと思われます。主なる神に頼るよりも、他のものに頼る時、その他のものが偶像になるのです。神を差し置いて、経済力や武力に頼るとすると、それこそが偶像礼拝なのです。

私どもキリスト者は、偶像を拝むことはないでしょう。神社、仏閣を見学はしても、それらの文化遺産を鑑賞しても、それを拝んだり、礼拝することはしないでしょう。しかし、今申しましたように、それで、偶像礼拝をしていないとは言えないのです。神第一にして、まず神に頼り、神の言葉を聴き、それに従うのでなければ、神よりも先に来るものがあれば、それこそが偶像なのです。今申しました経済力も、武力もそうです。私ども個人としては、地位や名誉、能力なども偶像となってしまうのです。

そこに、神の審(さば)きが下るのです。9節、10節です。「人間が卑(いや)しめられ、人はだれも低くされる。彼らをお赦しにならぬように。岩の間に入り、塵の中に隠れよ/主の恐るべき御顔(みかお)と、威光の輝きとを避けて」。そう言われます。そして、19節でも同様のことが言われます。「主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞穴(ほらあな)、地の中の穴に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて」。そして、21節でも、こう言われます。「主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞窟(どうくつ)、崖(がけ)の裂け目に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて」。三度も繰り返し言われるのです。ということは、このことをしっかり心に留めなければならないということです。そうです。主なる神は畏れ多い方、そして、恐るべき方なのです。多くの人が、神の審(さば)きが下って、ようやくそのことを思い出すのです。私どもは、そうならないように、普段から、主なる神は畏れ多い方、恐るべき方であることを、心に刻んでおきましょう。

そして、11節では、こう言われます。「その日には、人間の高ぶる目は低くされ/傲慢(ごうまん)な者は卑(いや)しめられ/主はただひとり、高く上げられる」。そして、17節では、少し違って、こう言われます。「その日には、誇る者は卑(いや)しめられ/傲慢(ごうまん)な者は低くされ/主はただひとり、高く上げられる」。本日の説教題は、この17節の言葉を使わせて頂きました。

その11節と17節の間の12節では、同様のことが言われています。こうです。「万軍の主の日が臨む/すべて誇る者と傲慢(ごうまん)な者に/すべて高ぶる者に――彼らは低くされる―― 」。そう言われています。そして、13節から16節では、レバノン杉が、バシャンの樫(かし)の木が、高い山が、そびえ立つ峰が、高い塔が、堅固な城壁が、タルシシュの船と美しい小舟が、誇る者、傲慢な者の譬えとして、言われているのです。13節以下です。「13 高くそびえ立つレバノン杉のすべてに/バシャンの樫(かし)の木のすべてに 14 高い山、そびえ立つ峰のすべてに 15 高い塔、堅固な城壁のすべてに 16 タルシシュの船と美しい小舟のすべてに」。これらは、12節で言われている「彼らは低くされる」ものたちなのです。

ところで、本日の箇所最後の22節では、人間を「鼻で息をしているだけの者」と言っています。面白い言葉です。こうです。「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」。神に造られた人間一人一人は素晴らしいと思います。しかし、人間には限りがあるのです。残念ながら、どんな立派な人間にも限界があるのです。そのことをしっかりと覚えておきましょう。

では、本日のメイン・テーマである17節の言葉を聴いてまいりましょう。「その日には、誇る者は卑(いや)しめられ/傲慢(ごうまん)な者は低くされ/主はただひとり、高く上げられる」。この言葉の前半、「その日には、誇る者は卑(いや)しめられ/傲慢(ごうまん)な者は低くされる」で、私がまず思い出すのは、バベルの塔の物語です。創世記 第11章1節以下です。こう言われています。

1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。2  東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

 そのように聖書に言われています。バベルの塔は、当時、最高の建設技術をもってして、建てられたことでしょう。それは素晴らしいことです。しかし、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」というのは、まさしく、高慢であり、傲慢です。主なる神が言葉を混乱させ、建設を止めさせられたのは当然の事と言えるでしょう。「その日には、誇る者は卑(いや)しめられ/傲慢(ごうまん)な者は低くされる」のです。

私どもは、いつも自慢したいという誘惑に曝(さら)されています。なかなかその誘惑から逃れられません。そして、すぐ他の人と自分を比べ、傲慢な思いに陥ります。そうならないために、「その日には、誇る者は卑(いや)しめられ/傲慢(ごうまん)な者は低くされる」との言葉を、自分に当てはめて、自分の歩みを振り返りたいと思います。そのために、この言葉をよく心に刻んでおきたいと思います。

 では、「主はただひとり、高く上げられる」との言葉はどう聴いたらよいでしょうか。主なる神は創造主です。全世界の造り主です。そして、究極的に世界の支配者です。「主はただひとり、高く上げられる」のは当然の事と言えるでしょう。

 では、この主を、主なる神でなく、主イエスとして聴いたらどうなるでしょうか。主イエスは神の御独り子です。ですから、主イエスにおいても、「主はただひとり、高く上げられる」のは当然のことと思えます。ただ、聖書によりますと、主イエスの場合は、そうではなかったのです。フィリピの信徒への手紙 第2章6節以下、それは、キリスト賛歌と言われ、当時の讃美歌の歌詞であったと言われます。こう言われています。

   6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣(の)べて、父である神をたたえるのです。

 そのように言われているのです。主イエス・キリストは、父なる神と等しい方でしたが、遜(へりくだ)って、私どもと同じ姿になってくださったのです。しかも、私どもの罪を償うために、徹底的に遜(へりくだ)ってくださり、恥(はじ)をも厭(いと)わず、人々からの暴言、嘲(あざけ)りをも受けられ、呪われた十字架にお架かり下さったのです。死に至るまで、イザヤ書 第53章が預言した「苦難の僕」たるメシア、救い主として、その使命を果たすために、父なる神のご計画に従順に従われたのです。その遜(へりくだ)りと従順ゆえに、父なる「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」のです。そのようにして、父なる神は、御子主イエスにおいて、「主はただひとり、高く上げられる」との預言を成就してくださったのです。何と有難いことでしょう。それゆえ、私どもは心から、高く上げられた主イエス・キリストを私どものメシア、救い主と告白し、従ってまいりましょう。

 もう一度、17節の言葉をお読みします。「その日には、誇る者は卑(いや)しめられ/傲慢(ごうまん)な者は低くされ/主はただひとり、高く上げられる」。

 祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。今日も私どもに、貴いみ言葉をお与え下さり、ありがとうございます。イスラエルの民だけではありません。私どもも、すぐに驕(おご)り高ぶってしまいます。傲慢になってしまいます。しかし、「誇る者は卑(いや)しめられ/傲慢(ごうまん)な者は低くされる」のです。どうぞ、十字架の主イエスに倣い、遜って、あなたに従う者とさせて下さい。これからも、「主はただひとり、高く上げられる」とあなたをほめたたえ、従って行く者とさせて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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2017年7月30日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第3章1節~第4章1節

 

第3章 1 見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。2 勇士と戦士、裁きを行う者と預言者/占い師と長老 3 五十人の長と尊敬される者/参議、魔術師、呪術師などを取り去られる。4 わたしは若者を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。5 民は隣人どうしで虐(しいた)げ合う。若者は長老に、卑(いや)しい者は尊い者に無礼を働く。6 人は父の家で兄弟に取りすがって言う。「お前にはまだ上着がある。我らの指導者になり/この破滅の始末をしてくれ」と。7 だがその日には、彼も声をあげる。「わたしにも手当てはできない。家にはパンもなければ上着もない。わたしを民の指導者にしてもだめだ」と。8 エルサレムはよろめき、ユダは倒れた。彼らは舌と行いをもって主に敵対し/その栄光のまなざしに逆らった。9 彼らの表情が既に証言している。ソドムのような彼らの罪を表して、隠さない。災いだ、彼らは悪の報いを受ける。10 しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる。11 主に逆らう悪人は災いだ。彼らはその手の業に応じて報いを受ける。12 わたしの民は、幼子に追い使われ/女に支配されている。わたしの民よ/お前たちを導く者は、迷わせる者で/行くべき道を乱す。13 主は争うために構え/民を裁くために立たれる。14 主は裁きに臨まれる/民の長老、支配者らに対して。「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者から奪って家を満たした。15 何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者の顔を臼(うす)でひきつぶしたのか」と/主なる万軍の神は言われる。16 主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き/足首の飾りを鳴らしている。17 主はシオンの娘らの頭(こうべ)をかさぶたで覆(おお)い/彼女らの額をあらわにされるであろう。18 その日には、主は飾られた美しさを奪われる。足首の飾り、額の飾り、三日月形の飾り、19 耳輪、腕輪、ベール、20 頭(あたま)飾(かざ)り、すね飾り、飾り帯、匂(におい)袋、お守り、21 指輪、鼻輪、22 晴れ着、肩掛け、スカーフ、手提(てさ)げ袋、23 紗(さ)の衣、亜麻布の肌着、ターバン、ストールなどを。24 芳香(ほうこう)は悪臭となり、帯は縄に変わり/編んだ髪はそり落とされ/晴れ着は粗(あら)布(ぬの)に変わり/美しさは恥に変わる。25 シオンの男らは剣に倒れ/勇士は戦いに倒れる。26 シオンの城門は嘆き悲しみ/奪い尽くされて、彼女は地に座る。

第4章 1 その日には、七人の女が/一人の男をとらえて言う。「自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから/どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と。

 

 

「主は民を裁くために立たれる。私たちは主の言葉に耳を傾けよう。」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日は聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ヨハネの黙示録 第22章21節の言葉です。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」。

イザヤ書の言葉をご一緒に聴いています。第3章に入ります。本日の箇所には、「エルサレムとユダの審判」という小見出しがついています。前にも申しましたように、この「小見出し」は、以前礼拝で使っていました口語訳聖書にはついていませんでした。新共同訳聖書になりましてついたものです。この「小見出し」は、その個所に何が書いてあるかが一目で分かる利点があります。ただし、「小見出し」に囚われ過ぎてはなりません。また、「小見出し」は本文に含まれませんので、聖書朗読の際には読まない事になっています。それらを弁(わきま)えた上で、「小見出し」を活用して下さい。

本日の箇所はこう始まります。1節から3節です。「1 見よ、主なる万軍の神は/支えとなり、頼みとなる者を/また、パンによる支え、水による支えをも/エルサレムとユダから取り去られる。2 勇士と戦士、裁きを行う者と預言者/占い師と長老 3 五十人の長と尊敬される者/参議、魔術師、呪術師などを取り去られる」。そう言われています。これまで、エルサレムの民や、南ユダ王国の民が頼りにしてきた者たち、民の指導者たち、さらには、勇士と戦士を、預言者までも、取り去るとおっしゃるのです。同時に、頼ってはならなかった、占い師、魔術師、呪術師も取り去られるのです。エルサレム、ユダは支えを失うのです。

 続く、4節、5節です。「4 わたしは若者を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。5 民は隣人どうしで虐(しいた)げ合う。若者は長老に、卑(いや)しい者は尊い者に無礼を働く」。そう言われています。しっかりと民を指導し、治める者がいなくなるのです。互いに虐(しいた)げ合い、上下関係が疎(うと)んじられ、尊敬されるべき長老が、無礼な扱いえを受けるのです。

 続く、6節、7節です。「6 人は父の家で兄弟に取りすがって言う。『お前にはまだ上着がある。我らの指導者になり/この破滅の始末をしてくれ』と。7 だがその日には、彼も声をあげる。『わたしにも手当てはできない。家にはパンもなければ上着もない。わたしを民の指導者にしてもだめだ』と」。そう言われています。本来、その素質がある者が、指導者に選ばれるはずが、そのような者はいなくなり、上着を持っているだけで、その人を指導者になってくれと人は頼むのです。しかし、頼まれた者も、自分を指導者にしてもダメであると断るのです。誰も民を導けないのです。

 更に厳しい状況が告げられます。8節、9節です。「8 エルサレムはよろめき、ユダは倒れた。彼らは舌と行いをもって主に敵対し/その栄光のまなざしに逆らった。9 彼らの表情が既に証言している。ソドムのような彼らの罪を表して、隠さない。災いだ、彼らは悪の報いを受ける」。エルサレムもユダも、言葉においても行いにおいても主に背き、かつて、その罪によって滅ぼされたソドムの町のようだと言われていますのです。おまえたちは、「災いだ」と言われてしまうのです。

 続く、10節では、少しの希望を見出すことが出来ます。「10 しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる」。そう言われます。主に従うことだけが私どもに幸いをもたらすのです。しかし、その逆も事実です。それが11節です。「11 主に逆らう悪人は災いだ。彼らはその手の業に応じて報いを受ける」。そう言われています。

 現在は多くの女性が政治や企業のリーダーとなるようになりました。能力のある方が、男女を問わず用いられることは良い事です。しかし、12節で言われている女性の支配者とはそのような意味ではありません。この12節でも相応(ふさわ)しい指導者、支配者がいなくなってしまうことが、嘆くように告げられているのです。「12 わたしの民は、幼子に追い使われ/女に支配されている。わたしの民よ/お前たちを導く者は、迷わせる者で/行くべき道を乱す」。

そして、遂に、主が立ち上がられ、民の罪を指摘されるのです。13節から15節です。「13 主は争うために構え/民を裁くために立たれる。14 主は裁きに臨まれる/民の長老、支配者らに対して。『お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者から奪って家を満たした。15 何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者の顔を臼(うす)でひきつぶしたのか』と/主なる万軍の神は言われる」。主はどんな不正も、暴行も、見落とされないのです。私どもが行うことすべてが、主の目には明らかなのです。そのことも、この言葉からしっかり学んでおきたいと思います。

そのような状況の中にあっても、女性たちは、外側の見てくればかり気にするのです。ここでは、民を代表して、女性のことが言われています。象徴的に女性の装いの事が言われます。これは男性も同じことです。男性もしっかり自分のこととして聴かなければならない言葉だと思います。16節以下です。「16 主は言われる。シオンの娘らは高慢で、首を伸ばして歩く。流し目を使い、気取って小股で歩き/足首の飾りを鳴らしている。17 主はシオンの娘らの頭(こうべ)をかさぶたで覆(おお)い/彼女らの額をあらわにされるであろう」。そう言われています。どんなに美しく飾っても、それが、見てくれ、外側のことだけであったなら、その美しさは奪われてしまうのです。

その美しさが奪われる具体例として、いくつもの装身具が奪われ、なくなってしまうことが告げられます。18節から23節です。「18 その日には、主は飾られた美しさを奪われる。足首の飾り、額の飾り、三日月形の飾り、19 耳輪、腕輪、ベール、20 頭飾(あたまかざ)り、すね飾り、飾り帯、匂(におい)袋、お守り、21 指輪、鼻輪、22 晴れ着、肩掛け、スカーフ、手提(てさ)げ袋、23 紗(さ)の衣、亜麻(あま)布(ぬの)の肌着、ターバン、ストールなどを」。

続けて言われます。24節です。「24 芳香(ほうこう)は悪臭(あくしゅう)となり、帯は縄に変わり/編んだ髪はそり落とされ/晴れ着は粗(あら)布(ぬの)に変わり/美しさは恥に変わる」。そう言われます。良い香りは悪臭となり、綺麗な帯は、奴隷をつなぐ縄となり、綺麗に編まれた髪は切られ、そり落とされ、晴れ着は粗末な服となるのです。美しかった姿は、恥ずかしいまでの姿となるのです。

25節、一方、男たちは戦で、次々に倒れ、死んでいくのです。女たちは、やもめとなってしまうのです。嘆き悲しみで覆(おお)われるのです。「25 シオンの男らは剣に倒れ/勇士は戦いに倒れる。26 シオンの城門は嘆き悲しみ/奪い尽くされて、彼女は地に座(すわ)る」。そのように言われるのです。

最後に第4章1節です。こう言われます。「その日には、七人の女が/一人の男をとらえて言う。『自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから/どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください』と」。そう言われます。多くの男が死に、多くの女性が夫を失い、やもめとなるのです。今でもそうですが、昔は今以上に、夫を失った女性は生きていくのが大変でした。ここに登場する七人の女性たちは、夫をうしなったやもめたちです。彼女らは生き残った一人の男をつかまえ、自分の生活は自分で守りますから、あなたのお世話にはなりませんから、形だけでよいから、あなたの妻としてください。あなたの名前を名乗らせてくださいと懇願するのです。そうして、やめもという身分から抜け出させてくださいと頼むのです。これが、エルサレムと南ユダ王国の象徴として、ここで言われている外面だけを飾っていた女性たちの行き着く先だと告げられるのです。実に厳しい言葉です。

 さて、本日の聖書箇所は、既に申しましたように、「エルサレムとユダの審判」という小見出しがついていますように、南ユダ王国の首都エルサレムと南ユダ王国に下る審判、審(さば)きについて語られていて、希望となる言葉がなかなか見つかりません。先ほど申しましたように、唯一、10節の言葉に希望を見出すことが出来るかもしれません。このあとで、その10節の言葉を聴きたいと思いますが、その前に、ここまで厳しい審(さば)きが語られている事をしっかりと心に留めなければならないと思います。そこで、本日の説教題を、「主は民を裁くために立たれる。私たちは主の言葉に耳を傾けよう」と致しました。この前半の言葉は、13節の言葉、「主は争うために構え/民を裁くために立たれる」の後半部分から取りました。主がイスラエルの民を裁くために立ち上がられたと言うのです。では、私どもはどうしたら良いのかという事です。しばしば、申します様に、聖書の言葉は、今、この言葉を聴いている私どもに対して語られている言葉です。ですから、単にイスラエルの民だけに向かって語られている言葉ではないのです。ですから、ここでも、自分に向かって今語られているとして、「私たちは主の言葉に耳を傾けよう」という言葉を、説教題の後半の言葉と致しました。今は、主が私どもを裁く言葉を語っておられるのだから、まずは、その言葉を真剣に聴こう。耳を傾け、しっかり聴きましょう、ということです。

 それを抜きにしては、益々、罪を重ねることになるからです。聖書で言う「罪」という言葉には「的外れ」と言う意味があることが、しばしば紹介されます。主なる神が私どもに求めていることから、外れたこと、的外れなことが、罪ということなのでしょう。その罪が重なって、主なる神が裁きを行われるのです。ですから、今度こそ、主なる神の言葉、ここでは、裁きの言葉ですが、その言葉をしっかり聴かなければならないのです。的外れな聴き方をしているようでは、益々罪に罪を重ねることになってしまうからです。

 本日の箇所は、厳しい審判、審(さば)きの言葉が続き、聴くのがいやになってしまうかもしれません。でも、しっかり聴かないと、罪から抜け出せず、主に対する背きを改めることが出来ません。ですから、むしろ聴きたくない言葉こそ、真剣に聴かなければならないのです。

 では、本日の箇所で唯一希望を見いだせる10節の言葉を聴きましょう。こういう言葉です。「しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる」。そう言われています。この言葉は、11節の言葉と対(つい)になっています。11節では、こう言われています。「主に逆らう悪人は災いだ。彼らはその手の業に応じて報いを受ける」。そう言われています。ここから、こういうことが言えるでしょう。本日の箇所で主とエルサレムと南ユダ王国に厳しい審(さば)きが告げられています。その言葉は、誰もが真剣に聴かなければなりません。ただ、そのような状況の中にあっても、自分の国が他国に占領されるような事態になっても、主に従い続ける人には幸いが主に約束されているということです。国が滅ぶという悲劇的な出来事にあっても、それによって、これからの生活が一転してしまいまが、それにもかかわらず、ここで、「しかし言え、主に従う人は幸い、と」と告げられているのです。この事実だけは変わらない。不変のものがある。だから忘れてはならない。そのためにも、この事をしっかり言え、と告げているのです。

 ここで「主に従う人は幸い」と言われていますように、何々は幸いであるという言葉は、しばしば聖書に出て来ます。詩編 第2篇12節では、「いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて」。そう言われています。また、今聴いています同じイザヤ書の 第30章18節でも、「まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」と言われています。そうです。主に従う者、主を避け所とする者、主を待ち望む者は幸いであると、祝福されているのです。祝福が約束されているのです。主に従うことを初めとして、主なる神とのかかわりをしっかりと持ち続ける者を、主は祝福してくださるのです。それに反し、主とのかかわりを持とうとしない者、主に背を向ける者は、祝福を得られないのです。

 さて、何々の人は幸いであると言う祝福の言葉と言えば、山上の説教で主イエスがおっしゃった言葉を思い出される方もあるのではないでしょうか。マタイによる福音書 第5章3節以下です。

   3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

   このように、主イエスはいろいろな人たちに、幸いとは程遠いと思われる人たちに、祝福からは遠いと思われる人たちに、あなたは幸いですよと告げ、祝福を約束してくださっているのです。しかも、最後は、「喜びなさい。大いに喜びなさい」とおっしゃっているのです。素晴らしいことです。これらの主イエスの言葉を、今私どもが聴いているイザヤ書 第3章10節の言葉、「しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる。」との言葉と合わせて聴くと、私はこう思います。マタイによる福音書の主イエスの幸を告げる祝福の言葉も、大前提として、主に従うことが求められているのだろうということです。つまり、「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」と言われていますが、主なる神や主イエスから離れてしまって、悲しみの中にある人に幸いが約束されているのではなく、主から離れず、従っている人の中で、悲しみにある人々は、慰められるので、幸いであると祝福が約束されているのだということです。そう思うと、どんな時も、世の中が大変な時も、国の状況が厳しい時も、主に従うことを心がけている人を、主なる神はお見捨てになることはないという事です。そのことを、心に刻んでおきなさいと、ここで言われているのだと思います。

 最後に申します。先程、本日の箇所は厳しい裁きの審判ばかりで、ここに希望の言葉を見出すことは難しいと申しました。それは、それ相当の罪を犯したのだから、主なる神の背いたのだから、仕方がないと言えましょう。事実、この後、南ユダ王国は攻めて来たバビロンに負け、首都エルサレムは陥落します。そして、バビロン捕囚と言って、多くの働き手や若者がバビロンに捕虜として連れて行かれるのです。苦しい時が続きます。しかし、その捕囚もやがて終わり、人々が帰って来るのです。そして、神殿の再建が始まるのです。主なる神は厳しい方です。一度は、イスラエルを捨てられたかとも思われます。しかし、そのように、国を回復させてくださるのです。そして、それから長い年月が過ぎますが、主なる神は、メシア、救い主をお送りくださるのです。既に申していますように、イザヤ書には、多くのメシア預言があります。そして、それらの預言を成就するように、主イエス・キリストがご降誕くださるのです。そして、主イエスは、私どもの罪を私どもに代わって償い、私どもを救うために、十字架におかかりくださるのです。主なる神がそのように、御子をメシア、救い主としてお送りくださるのです。主は、本日のイザヤ書の言葉のように、厳しい裁きを預言され、それを実際に行われるのです。しかし、その一方で、私どもを救うために、御独り子を、メシアを、お送りくださるのです。主は実に厳しい方であると共に、憐れみに満ちた方なのです。そのことを忘れないでいたいと思います。そして、主の救いに与るためにも、主の裁きの言葉を真剣に聴き、悔い改めて、主に立ち帰る者でありたいと思います。皆様がそのようにして、救いに与(あずか)り、主の祝福を頂けるように、祈ります。

 ご一緒に祈りましょう。

 

 私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、義なる方です。私どもの不義を、背きを決して許されません。どうぞ、あなたのお言葉をしっかり聴いて、あなたに立ち帰る者とさえてください。そして、あなたはそのように厳しい方ですが、あなたに従う者には、大いなる幸いを約束してくださいます。あなたがお送り下さった私どものメシア、救い主、御子主イエス・キリストに従ってまいります。どうぞ、いつも私どもを悪から守り、お導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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