2017年6月4日 日本バプテスト厚木教会 聖霊降臨日

 

使徒言行録 第2章1~4節

 

 1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

コリントの信徒への手紙 一 第12章3節

 

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 

 

「わたしたちも聖霊に満たされて」

 

 聖霊降臨日、おめでとうございます。このような祝いの日、皆さんと共に礼拝をお捧げできますお恵みを感謝しています。今日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。ヘブライ人へ手紙 第13章20節、21節の言葉です。「20 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、21 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」。

 聖霊降臨日は、復活祭・イースター、そして、降誕祭・クリスマスと共に、キリスト教会にとって、大切なお祝いの日です。子どもにも分かり易くするためでしょうか、この日はしばしば教会の誕生日とも言われます。聖霊、すなわち神の霊が主イエスの弟子たちに降(くだ)り、キリスト教会が生まれた、始まったのです。

日本バプテスト同盟では、今日の聖霊降臨日を「海外伝道を覚える日」としています。使徒言行録を読みますと、聖霊降臨によって始まったキリスト教会は厳しい迫害を受けました。殉教者も出ます。そのため、迫害から逃れ、遠くまで行く者もいました。ただし、その道すがら、彼らは福音を宣(の)べ伝えるのです。そのようにして、福音は徐々に伝えられ宣(の)べ伝えられ、宣(の)べ伝えられ、遂には全世界へと宣(の)べ伝えられていくのです。そして、ユダの地から遠く離れた極東の日本にも福音は宣(の)べ伝えられたのです。日本では戦国時代、カトリック教会が宣教師を送って来て、福音伝道しました。当初はそうではありませんでしたが、次第に厳しい迫害を受けるようになり、信仰を捨てる者があるかと思えば、殉教する者もいました。その後、鎖国が続き、長く宣教師が来ることが出来ませんでした。しかし、明治維新、今度はカトリック教会だけでなく、プロテスタント教会も加わり、日本各地に宣教師が伝道しました。そのように、日本の福音伝道は、海外から来てくれた宣教師たちによって始められました。それからしばらくして、日本のキリスト教会も海外に宣教師を送り出すようになります。日本バプテスト同盟でも、大里英二宣教師夫妻をタイのチェンマイにお送りしたことがありました。ただし、大里英二宣教師ご夫妻が退任されたあと、現在に至るまで、バプテスト同盟は宣教師を派遣していません。それでも、宣教師派遣を支えてきました海外伝道協会は、海外のバプテスト教会と連絡を取り、海外のバプテスト教会との交流を進めています。聖霊降臨日である本日は、身近な伝道のために、そして、世界宣教のためにもお祈りいたしましょう。

 さて、聖霊降臨の出来事については、先ほど朗読致しました使徒言行録の第2章1節から4節までに伝えられています。その日は五旬祭の日でした。ギリシア語で「50」を表す「ペンテコステ」と呼ばれる五旬祭は、ユダヤ教の三大祭りの一つです。そして、これもユダヤ教の三大祭りの一つである過越祭から50日目にあたるために、五旬祭、ペンテコステと呼ばれていました。そもそもは小麦の収穫を祝う祭りでした。そのため、刈り入れの祭りとも呼ばれます。後(のち)にモーセがシナイ山で神から律法を授かったことを記念する祝祭ともなりました。その祭りの日、使徒たちを中心とする主イエスの弟子たち一同が一つになって集まっていました。ということは、礼拝を捧げていたか、一緒に祈っていたのでしょう。すると突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえました。そして、その音は彼らが座っていた家中に響いたのです。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上に留まりました。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたのです。

 聖霊とは神の霊です。聖霊は、旧約聖書にも出てきますが、聖霊という名では呼ばれていません。「神の息」というのは、聖霊のことです。そして、聖霊が新約聖書に登場するのは、聖霊降臨日が最初ではありませんでした。聖霊によって身ごもった母マリアから主イエスはお生まれになりました。マタイによる福音書 第1章18節では、こう言われています。 「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。そう言われています。またルカによる福音書 第1章35節では、マリアに答えて天使がこう言っています。「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。そう言われています。このように、私どもの救い主、主イエスの誕生は、聖霊、すなわち神の霊のはたらきによるものだったのです。それは神の御子主イエス・キリストの誕生としては当然のことだったのかもしれません。

また、主イエスがヨルダン川でバプテスマを受けられた時、聖霊が主イエスの上に降(くだ)られました。ルカによる福音書 第3章21、22節です。「21 民衆が皆洗礼(バプテスマ)を受け、イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。そう言われています。この時、普段は目に見えない聖霊、神の霊が見えるお姿で現れ、父なる神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃって、御子を祝福されたのです。

このように、使徒言行録 第2章に書かれている聖霊降臨の出来事以前にも、聖霊が降ったと言う出来事はあったのです。そのことも覚えておきたいと思います。

本日は、使徒言行録 第2章に書かれている聖霊降臨の出来事を記念し、お祝いの礼拝をお捧げしています。実は、そのようにして聖霊が降(くだ)られることは、既に主イエスが予告し、約束してくださっていた事でした。ヨハネによる福音書 第14章16節で、主イエスはこうおっしゃっています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。ここで主イエスが言われている弁護者とは、聖霊のことです。ヨハネによる福音書 第14章26節ではこう言われています。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。主イエスはそうおっしゃっていました。主イエスが十字架で死なれ、ご復活なさっても、主イエスが私どもの罪を償い、赦すメシア、救い主であることは、使徒と呼ばれる弟子たちにもよく分かりませんでした。しかし、聖霊が降って来てくださると、主イエスがおっしゃるように、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださった」のです。すなわち、聖霊は、主イエスがおっしゃった事としてくださった事への悟りを与えてくださったのです。それゆえ、聖霊を受け、悟りを与えられた人々の中からペトロが立てられ、使徒言行録 第3章では、そのペトロは大勢の前で、説教しています。

そして、聖霊のことを弁護者と言われていました。当時、厳しい迫害がされ、キリスト者たちは、捕らえられて、証言させられたり、尋問させられたりしたのです。そのような時、多くの人がどう答えたら良いか分かりませんでした。しかし、そのような時こそ弁護者である聖霊が側(そば)にいてくださり、どう答えたらよいかを教えてくれたのです。聖霊はそのようなはたらきもしてくださったのです。

そして、主イエスがおっしゃたように、聖霊によって初めて、主イエスこそが救い主であると信仰告白できることを、使徒パウロも言っています。それが先ほど二番目に聖書朗読しました箇所の言葉です。コリントの信徒への手紙 一 第12章3節です。もう一度お読みします。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。初代教会の指導者となる使徒たちも、聖霊によらなければ、主イエスが真の意味で救い主であるとは分からなかったように、私どもも、聖霊によらなければ、主イエスを神の子、救い主であるという信仰をいただくことができないのです。

そこから、こういうことも言えるでしょう。キリスト者の中には、今この時、聖霊がはたらいてくださっているのを感じるとおっしゃる方がいます。それは素晴らしいことだと思います。しかし、そのような経験はまったくないとおっしゃる方もおられます。そのような方(かた)の方(ほう)がむしろ多いでしょう。ただし、聖霊のはたらきをすぐに感じることが出来ないことで引け目を感じることはありません。私ども人間は遥かに神に劣る存在です。神はすべての面で私どもを遥かに超えておられる方(かた)です。ですから、神の霊である聖霊のはたらきが、私どもの五感、見る、聞く、嗅(か)ぐ、味わう、触れるという、五感で感じることが出来なくても、さらには、第六感で感じることも出来なくても何ら不思議はないのです。しかし、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」との言葉から、誰かが、「イエスは主である」、「主イエスは神の子、救い主です」と信仰告白できたなら、それは、その人に聖霊がはたらいてくださったということです。そのように、信仰をいただいて、信仰告白がなされたら、それは、神の霊、聖霊がはたらいてくださった証拠なのです。そう考えると、信仰告白して、キリスト者となられた皆さんには既に聖霊がはたらいてくださっていた事が分かります。真に感謝です。そこから、こうも言えるでしょう。今日のように、礼拝に出席くださっていて、まだ、信仰告白なさっていない方々にも、今、誰も知らない間に、聖霊が、神の霊がはたらいてくださって、その方々も「イエスは主である」「主イエスは神の子、救い主です」という信仰卯告白へと、導いてくださっている。そう言えると思います。

どうぞ、心を開いて、自分が神の前に犯した罪を具体的に告白してください。法律に触れる事ではなくても、自分が神に対して、他の人に対して犯した罪を告白することは、ある意味恥ずかしいことです。自分の至らなさを公にするのですから。しかし、そのように、自分の罪をはっきり認め、その罪を主イエスが十字架で償ってくださり、わたしは罪赦された。まさに、主イエスはこのわたしの救い主です。そのように信仰告白されることをお勧めします。そうすれば、バプテスマを受け、神の救いを頂けるのです。いつまでも、神から離れることなのないことを保証してくださる永遠の命を頂けるのです。そのようなるように導いてくださるのが、聖霊であるということです。コリントの信徒への手紙 一 第12章3節、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」との言葉は、そのように信仰告白して救われることこそ、聖霊のおはたらきなのだと言っているのです。

本日は、聖霊のおはたらきについて、いくつか申し上げていますが、このコリントの信徒への手紙 一 第12章3節、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」との言葉こそが、聖霊の最も重要なおはたらきについて述べている言葉です。どうぞ、まだ信仰告白をなさっていない方も、どうぞ、神の霊、聖霊を歓迎してお迎えしてください。そして、あなたも救いを頂いてください。

さて、使徒パウロは彼が書いた手紙の他の所でも、聖霊について証ししています。パウロは主イエスの十字架と復活によって私どもに与えられた最大の賜物は、聖霊であるとしています。そして、ローマの信徒への手紙 第5章5節で、こう言っています。「希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。そう言うのです。私ども一人一人の心に神の愛が溢れるばかりに注がれている、そのように神に愛され続けているのも、神の霊、聖霊のはたらきによるのだと、パウロは言うのです。

さて、使徒言行録 第1章8節ではこう言われています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」主イエスはそうおしゃいました。復活された主イエスがいよいよ父なる神のおられる天に上げられる時におっしゃった言葉でした。この中で、主イエスはおっしゃいました。もうすぐ、神の霊、聖霊が降(くだ)る。すると、あなたがたは聖霊から力を受ける。その力とは、あなたがた福音伝道へと、キリストを証しすることへと、突き動かす。そして、あなたがたはエルサレムだけではおさまり切れず、ユダヤ地方、サマリア地方の全土で、さらには世界の果てまで、キリストの証人として、証しを続けるようになると、おっしゃったのです。そして、多くの迫害を受けますが、主イエスがおっしゃたようにキリスト者たちはキリストを証しし、福音は世界に広がって行ったのです

ところで、使徒と呼ばれた人たちは、特に主イエスのお側(そば)にいました。さらには、甦られた主イエスにお会いしたのです。ですから、主イエスのご復活の目撃証人です。その意味で、彼らは特別です。のちの時代では、どんなに頑張っても主イエスのご復活を目撃出来ませんでしたから、目撃証人とはなれません。しかし、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との言葉は、別の意味の証人を産むのです。

私どもは、この目でキリストを見たことがありません。しかし、先ほど朗読致しましたように「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」との言葉から、信仰を頂いた人には聖霊がはたらいてくださったということで、聖霊の証人となるのです。不思議なことに三位一体と言われ、父子聖霊はお一人の神ですから、神の霊、聖霊の証人は、即、神の御子の証人でもあるのです。イエスは主であると証しした者は、即、キリストの証人とされるのです。主イエス・キリストこそが救い主ですと、証し続ける者とされるのです。

さて、聖霊降臨直後、福音はどのように伝えられたでしょうか。

五旬祭に聖霊が降ると、すぐに聖霊に満たされたペトロが説教を始めます。それを人々は聴いていました。すると、こういうことが起こったのです。使徒言行録 第2章37節以下です。

37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 ここで、ペトロが求道者に勧めたことは、単純でした。「悔い改めなさい」そして、「イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい」でした。悔い改め、神に向き直り、神に立ち帰るのです。放蕩息子が父親の所に帰って来たように、神に立ち帰るのです。そして、信仰を告白し、主イエスを自分の救い主とし、バプテスマを受けるのです。そうすれば、賜物として聖霊を受ける、プレゼントとして、神の霊があなたの側に来てくださると伝えたのです。

 ペトロが勧めたことはシンプルでした。悔い改めなさい。それは、今まで自分の生き方の方向転換をすることです。神に背き、背を向けていた生き方を悔い改め、神に立ち帰り、神さまの方に歩み始めるのです。そして、主イエスを救い主と信じ、バプテスマを受けるのです。実に、キリスト教会が人々に勧めるべきことは、そこに尽きるのです。福音伝道とは、それを勧めることに尽きるのです。ですから、逆に言って、信仰を得るためには、キリスト者となるためには、その急所をしっかり押えることが肝心なのです。聖書の知識などは、それについて来るものなのです。その意味で、キリスト者となることは決して難しいことではありません。既に救いを頂いた私どもも、そのシンプルな信仰の核心をしっかり伝え、福音伝道してまいりたいと思います。

 

 さらに、使徒言行録 第2章43節以下では、救われる者が次々と現れたと言われています。どのような伝道をしたのでしょうか。その個所を聴いてみましょう。

  43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 ここで私が注目したいのは、「信者たちは皆一つになって」いたことです。さらには、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参っていた」ことです。そして、「喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」ことです。それによって、「民衆全体から好意を寄せられた」のです。ここには、初代教会の信者たちが、どのように外に伝道活動に行ったかは語られていません。外にも伝道していたことでしょう。しかし、ここではそのことには触れていません。そして、仲間に加えられる者が日に日に増えたと言っているのです。では、彼らが皆から尊敬されるような立派な人たちだったのでしょうか。使徒言行録を読み進めますと、豊かに人たちと貧しい人たち、ユダヤ人の中でも、外国から戻って来た人たちとそうでない人たちとの間で、配慮に欠け、分裂が起こったことが言われています。そうです。エルサレム教会の人たちが皆、立派であったという訳でもなさそうです。では、どうして、多くの人が短い間に加えられたのでしょうか。それは、彼らが心を一つにして、喜びと真心をもって神を礼拝していたからだと言っています。彼らのその姿勢が、多くの人感銘を与えたのだと思います。そこから、彼らをそのようにさせる方、主なる神はきっと素晴らしいかたに違いないと、人々は思ったのでしょう。そうです。それこそ、証人、主イエスのあかしびと、聖霊のあかしびととされた者の証しではないでしょうか。私どもが喜びと真心をもって礼拝を捧げることで、そのようにして、主なる神を指し示すことが、福音伝道において、証しにおいて、何よりも大切なことなのだとここでは伝えているのでしょう。これが、聖霊に満たされていた人々の姿だったのだと思います。

 初代教会の人々は聖霊に満たされ、喜びと真心をもって神を礼拝し続けました。その姿が良き証しとなり、伝道をしていたのです。私どもも、彼らに倣って、そのようにしてまいりましょう。お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、イエス・キリストの父なる神よ。御霊なる神よ。どうぞ、私どもも聖霊に満たしてください。そして、いつも、喜びと真心をもって礼拝を捧げ、キリストを証しする者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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2017年6月11日 日本バプテスト厚木教会 こどもの日・花の日礼拝

 

マルコによる福音書 第10章13~16節

 13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 

ローマの信徒への手紙 第12章15節

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

 

 

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」

 

 今日も、皆(みな)さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も皆(みな)さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めます。ヨハネの手紙 二 3節の言葉です。「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります」。

今日は、キリスト教会におけるこどもの日・花の日です。この「こどもの日」を始めたのは、160年ほど前の、1856年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州チュルシイ市の教会にいたレオナルド牧師でした。レオナルド牧師は、6月のある日曜日を決めて、こどものために、こども中心の集まりをしようと言い出し、そのようにしました。

 それから10年後の1866年、アメリカ合衆国のメソジストという教会の一年に一度の集まりで、6月の二番目の日曜日を「こどもの日」として教会の行事に加えるように決めました。そして、この日を、こどもたちに、神さまや聖書を教えることの大切さを覚える日としました。さらに、この時期は一年の中で最も多くの花が咲く季節であることから、皆(みんな)で花を持ち寄って教会の礼拝堂を飾るようにしました。そして、礼拝のあとに、こどもたちに、その花を持って病気の方のお見舞いや各社会施設を慰問してもらい、こどもたちに奉仕と感謝を学んでもらうようになりました。こうして、「こどもの日」、そして「花の日」として、この日が守られるようになりました。

 本日、教会学校のお友だちにも、お友だちや皆さんが持って来て下さった花を持って、お年寄りの施設や、日頃お世話になっている交番のお巡りさんなどの所に行ってもらいます。よろしくお願い致します。

 私たちは、この日を、今年も、このように大人の礼拝と教会学校の合同礼拝としてお捧げしています。そこで、教会学校のみなさんに申し上げます。皆(みな)さんの後ろには、大勢の大人の方たちがいます。教会学校の皆(みんな)が、毎週この礼拝堂で礼拝を捧げているように、大人の方々も、毎週ここで礼拝を捧げています。教会学校には卒業はありませんから、どうか皆(みな)さんも、この方々のように大人になっても、そして、おじいさん、おばあさんになっても、神さまに礼拝を捧げ続けてください。

 そして、大人の皆(みな)さん、毎週こどもたちも、このよう教会学校に来てくれます。子どもたちは、毎週、一所懸命来てくれています。先ほど朗読して頂きましたように、イエスさまはこどもたちを呼び寄せ祝福されました。そこで、ぜひ、皆(みな)さんも、こどもたちの祝福を祈ってください。そして、この子たちが皆(みな)さんの信仰を受け継いでくれるよう、お祈りください。

 今申しましたように、イエスさまに倣って子どもを祝福しましょうという意味で、先ほどマルコによる福音書の言葉をご一緒に聴きました。それに合わせて、14節後半のイエスさまの言葉をしっかり心に留めておきたいと思います。イエスさまはこうおっしゃっています。「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。イエスさまはそうおっしゃっています。ここ出てくる「はっきり言っておく」という言葉は、イエスさまが特に大切なことをおっしゃる時に使われた言葉です。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そのことは、とても大切なことだよとイエスさまはおっしゃったのです。神さまの国に入れていただきたい。そのためには、神さまの国を受け入れなければならない。神さまの国のことを嫌(きら)ったり、嫌(いや)がったり、不満を漏(も)らしたりしていたら、神さまの国に入(はい)れないと言うのです。神さまの国を喜んで受け入れなければ、神さまの国には入れてもらえないと、イエスさまはおっしゃるのです。そもそも、神さまの国のことを嫌(きら)ったり、嫌(いや)がったり、不満を漏(も)らしたりしていたら、さらに言えば、神さまご自身のことを嫌(きら)ったり、嫌(いや)がったり、不満を漏(も)らしたりしていたら、神さまの国には入りたくないでしょう。ですから、神さまのことを喜んで受け入れ、神さまの国のことも喜んで受け入れる人だけが、神さまの国に入りたいと心から願っている人だけが、神さまの国に入(はい)れるということです。

そこで、神の国を喜んで受け入れている人は誰かということで、イエスさまは、それは子どもたちだとおっしゃるのです。子どもたちは神さまのことも、神さまの国も喜んで受け入れている。そのように、あなたも神さまの国を喜んで受け入れるならば、あなたも神さまの国に入れます。そのように言われているのです。

昔も、子どもは将来の担い手として、大切にされていたことでしょう。その一方で、子ども、幼子は何も出来ないとして、一段低く思われていたようです。しかし、神さまに従うという点において、そして、神さまの国を喜んで受け入れるという点において、大人は子どもに倣わなければならないと、イエスさまはここでおっしゃったのです。この時、むしろ、子どもの何も出来ないこと、子どもが大人に頼ってばかりいることが、高く評価されているのです。

世の中では、何か出来ることが高く評価されます。何かを他の人より上手に出来ることは、良い事だと。そのために、出来ないことが低く見られてしまう傾向があります。そのため、幼子やお年寄りが低く見られてしまうのです。それは良くないことです。しかし、どうしてもそのような傾向があります。ところが、神さまの国を喜んで受け入れ、神さまの国に入れてもらうという事においては、むしろ、何も出来ないことの方(ほう)が良いのです。なまじっか何か出来ると、神さまの国を喜んで受け入れられず、不満を漏らすのです。神さまのやり方よりも、自分のやり方の方(ほう)が良いなどと思って、100パーセント神さまの国を受け入れることが出来なくなってしまうのです。そうです。私どもの世界では何か出来ることが大事でも、神さまの国では、出来ないこと、従って、神さまのなさりようを受け入れ、神さまのなさりたいように従っていくことが大事なのです。

もちろん、子ども、幼子には足りないところが多く、しっかり、教え育ててあげなければなりません。しかし、子どもが、幼子が、大人に頼り切りであるように、私どもが神さまに向かう時は、自分のやりようは置いておいて、ひたすら神さまに頼って、神さまにお任せしていくのが一番なのです。神さまの国を、子どもたち、幼子たちのように喜んで受け入れてまいりましょう。そうすれば、神さまは喜んで私どもを神さまの国へ迎え入れてくださいます。

 さて、本日は、今行っている教会学校のプログラムに合わせまして、ローマの信徒への手紙からみ言葉をいただきました。教会学校の先生たちが使っています「聖書教育」という教案にはありませんが、ローマの信徒への手紙 第12章15節の言葉を聴いてまいりましょう。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とうみ言葉です。

 では、ここで「かっちゃんの野球」という紙芝居をご覧ください。

「アウト!」「ストライク!」「打った!」「とったぞ!」庭から、賑(にぎ)やかな声が聞こえてきます。 「野球か・・。おもしろそうだなあ。僕もやりたい・・」。かっちゃんは、一人で呼んでいた絵本を本棚に戻すと、急いで庭のほうへ、這(は)って行きました。えっ!這って? そう。かっちゃんは、赤ちゃんの時、病気をしたので、立って歩くことが出来ないのです。

 「僕も、入れてぇ」。庭に出て、かっちゃんが声をかけると、みんなが振り向きました。 「えーっ?かっちゃん、野球できるの?」りっちゃんが訊(き)きました。ちょっと困ったように、たっくんも言います。「応援してくれててもいいんだよ」。「僕、野球初めてだけど、観ててとっても楽しそうだから、やりたくなっちゃんたんだよ」。「そうかぁ-。どこやりたい?」 監督のやっちゃんが寄って来て訊(き)きました。「僕、バッターがやりたい」「分かった。じゃあ、順番が来るまで待っててね」「うん」かっちゃんは少しドキドキしながら、待っていました。

「さあ!かっちゃんの番だよ」。かっちゃんはバッターボックスまで、這って行きました。キャッチャーのたっくんが、ビニール製の軽いバットを渡しました。「よーし!」。かっちゃんが構えると、やっちゃんがピッチャーのりっちゃんに向かって言いました。「りっちゃん。低い球、投げてね」。「うん、分かった」。バッターボックスにお尻をついて構えているかっちゃんのストライクゾーンは、みんなよりずっと低いのです。

「ストライク!」。一度目は、空振りでした。二度目、飛んで来るボールをじっと見つめて、かっちゃんは思い切りバットを振りました。ポン!手応えがして、白いボールが遠くへ飛んで行きました。「ヒット!」。やっちゃんが叫びました。かっちゃんは夢中で、一塁目がけて這って行きました。

けれども、かっちゃんがベースに着く前に、ボールは一塁に返って来てしまいました。みんなは走って行けるのに、かっちゃんは、這って行かなければならなかったからです。

「残念!」「ほんと!」一塁ベースでボールを取ったけんちゃんも、困った顔をして言います。キャッチャーのたっくんも、ピッチャーのりっちゃんも、監督のやっちゃんも、「うーん」と考え込んでしまいました。「今度、ホームラン打とう。そうしたら、誰にも捕られないぞ・・・」かっちゃんは心の中で言いながら、次の番を待ちました。

打順が回って、また、かっちゃんの番になりました。かっちゃんがバッターボックスに入って構えます。「かっちゃん、行くよ!」りっちゃんの低めの球が、飛び込んで来ました。パーン!「ヒット!」白いボールが、庭の隅の草むらに飛んで行きました。みんなはいっせいにボールの方向を見つめます。かっちゃんはバットを置いて、一塁を目指します。その時です。監督のやっちゃんの声が庭中に響きました。「たっくん!代わりに走れ!」「分かった!」キャッチャーのたっくんが、“待ってました”というように、一塁目がけて、すごいスピードで走り出しました。けんちゃんは、まだ草むらのボールを探しています。たっくんが一塁のベースを踏みました。「セーフ!」「かっちゃん。早く、早く!」たっくんが叫びます。「うん!今行くよ」。かっちゃんはよいしょ、よいしょと、舟をこぐように、手も足も砂だらけになりながら、進みます。けんちゃんはやっとボールを見つけ出して、どこへ投げようかと、見まわしています。「かっちゃんのヒット!」。かっちゃんが一塁に着くのを待って、やっちゃんが叫びました。「やったぁ!」かっちゃんも大喜びで、砂だらけの手を振り回しました。「かっちゃん、やったね。すごーい!」。応援していた友達も、大拍手です。先生も手を叩(たた)きながら、駆け寄って来ました。「みんなもすごい!素敵な野球のルールを作っちゃったんだものね」。

「かっちゃん、今日の野球、面白かったね。」「うん、とっても面白かった。たっくん、代わりに走ってくれて、ありがとう。あしたも僕、ヒット打つからね」。「うん、その時は、僕も一所懸命走るよ」。「頼むね。でも・・・、僕がもし、ホームランを飛ばしたら、代わりに走るのはいらないわけだね」。「ほんとだ・・・!」二人は顔を見合わせて、大きな声で笑いました。 おしまい。

 さて、ここに出て来る、かっちゃんのお友だちや先生は、まさに、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いていましたね。それは、相手の気持ちに寄り添うということでした。相手と同じ気持ちになるこということです。それが、優しさなんですね。かっちゃんが野球をやりたいと言ったら、かっちゃんの気持ちになってあげて、一緒に野球をしました。かっちゃんが振れるように、軽いバットを使わせてあげました。かっちゃんが打てるように、低くボールを投げてあげました。それは、かっちゃんの野球をやりたいという気持ちと同じ気持ちになってあげたから、出来たことでした。かっちゃんと同じ気持ちになれたからこそ、どうやれば一緒に野球が出来るかを考えられたのです。

そして、かっちゃんが一塁まで這(は)っていかなければならないこと、それによって、バットで上手にボールを打ってもヒットにならないこと、それによってかっちゃんが悔しい思いをしているのを見て、かっちゃんの悔しい気持ちに寄り添って、かっちゃんと同じ気持ちになったらからこそ、それならどうしたら良いかを真剣に考えることが出来たんですね。かっちゃんと同じ悔しい気持ちになれたからからこそ、代わりに走る人を立てるという新しいルールを考え出すことが出来たんですね。そうしたからこそ、かっちゃんがヒットを打てた時、みんなはかっちゃんと一緒に喜ぶことが出来ました。みんなとても嬉しかったと思います。

このように、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という聖書の言葉に従うことで、誰も仲間外れにされることなく、みんなが楽しく遊べることができるんですね。

さて、今月の幼稚園の聖句は、ルカによる福音書 第6章31節の言葉、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」です。このみ言葉に従うためにも、今申しました相手の気持ちに寄り添う、相手の気持ちになってみることが大切なのだと思います。

今、世の中、嫌なことが多くあります。テロ、殺人、暴行、詐欺、いじめ、これらは、相手の気持ちを少しも考えようとしないことで、起こしてしまう事だと思います。相手の気持ちに寄り添って、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもして」、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」なら、そのようにして他の人に優しくなれたなら、私どもはもっと暮らし良くなるでしょうし、世の中も平和になることでしょう。

お祈りを致します。

 

 イエスさまのお父さまである神さま。今日、このように、こどもの日、花の日の礼拝をお捧げ出来ましてありがとうございます。どうぞ、私たちも、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことが出来ますように、他の人の気持ちも寄り添う事が出来ますように、お導き下さい。イエスさまのお名前によってお祈り致します。アーメン。

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2017年6月18日 日本バプテスト厚木教会 伝道礼拝

 

ルカによる福音書 第15章1~7節

 

 1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3 そこで、イエスは次のたとえを話された。4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 

 

「あなたは神さまの宝物」

 

 本日は、ようこそ日本バプテスト厚木教会の伝道礼拝にお出でくださいました。このようにご一緒に礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。私は毎週の説教を聖書の祝福の言葉をもって始めています。本日も皆さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして説教を始めます。ヨハネの手紙 三 15節の言葉です。「あなたに平和があるように。」。

 先程、ルカによる福音書 第15章の言葉を朗読してもらいました。このルカによる福音書 第15章は、朗読してもらいました箇所を含めて、三つの譬(たと)え話が続きます。「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、そして、「放蕩(ほうとう)息子」のたとえです。福音書の中には、いくつもの主イエスが語られた譬(たと)え話がありますが、その中でも、特に良く知られた譬(たと)え話です。主イエスの譬(たと)え話を、思い出せる順に挙げてくださいと言ったら、多くの人が、「見失った羊」のたとえと「放蕩(ほうとう)息子」のたとえを初めの方で挙げることでしょう。

 さて、この三つの譬(たと)え話は、本日の聖書箇所の初めの部分の出来事がきっかけになって、同じ主題で続けて主イエスがお話しくださった譬(たと)え話です。今申し上げましたように、主イエスの譬(たと)え話はいくつもありますが、主イエスがこのように同じ主題で三つの譬(たと)え話を話されたという記述は、四つあります福音書の中でも、ここだけです。という事は、これらの譬(たと)え話で主イエスがお伝えようとなさったことが、如何に大事なテーマであったかということです。では、そのテーマとは何でしょうか。そのヒントになるのが、主イエスが譬(たと)え話を始められる直前の言葉です。本日の聖書箇所の初めの部分です。こういう言葉でした。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」そう言われていました。

 ここで、「徴税人」と呼ばれている人は、税金を集める人です。誰でも、出来れば税金を払いたくありません。その証拠に、何処何処の誰々が、脱税をしたとか、所得税の漏れをしたとかいうニュースをしばしば耳にします。誰でも、税金は払いたくない。そこで、そこで税金をごまかす人が絶えないようです。ですから、税金を集める徴税人という仕事は人に嫌われがちです。しかも、この当時のユダヤの徴税人というのは、その頃、ユダヤを植民地のように支配していたローマ帝国から税金を集める仕事を委託されていた人たちでした。当時の多くのユダヤの人たちにとっての一番の願いは、そのローマ帝国の支配から解放されることでした。そのため、徴税人は、仲間のユダヤ人を裏切り、ローマ帝国の手先となってローマ帝国に納める税金を集めている人たちと見られていました。当然、人々から嫌われていました。その徴税人と一緒に、ここに登場するのが、「罪人」です。「罪人」とは一般に、ユダヤの掟、神から与えられた律法を守らなかった人たちです。たぶん、ここに登場する罪人とは、強盗をはたらいたことがあるとか、傷害事件を起こしたことがあるとか、または姦淫の罪を犯したことがあるという人たちだったでしょう。人々から恐れられたり、嫌われていた人たちです。そのような徴税人や罪人たちが、主イエスの話を聞こうとして主イエスに近寄って来たのです。主イエスは喜んでその人たちを受け入れてくださり、お話しをされ、さらには、ご一緒に食事までされたのです。今の私どももそうですが、一緒に食事をするとのは、とても親しい人だけです。ですから、主イエスが徴税人や罪人も喜んで受け入れて、お話しをしてくださり、一緒に食事までされたということは、彼らと、とても親しくされたということです。既に申しましたように、徴税人、罪人は、当時ユダヤで嫌われていた人たちの代表のような存在でした。そのために、聖書が言うように、「ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」のです。当時のユダヤであれば、当然、出て来る不満であったでしょう。多くの人たちから慕われている主イエスがこの時なさっていることは、非常識なことと思われてしまったのです。

 では、主イエスが三つの譬(たと)えでおっしゃっていること、私どもに伝えようとなさっていることは、何でしょうか。それは、神にとって、そして、神の御子である主イエスにとって、誰一人として、大切でない人はいない、ということです。神は、そして主イエスは誰も排除なさらないということです。皆から嫌われている徴税人も、罪人も、神にとって、神の御子主イエスにとって、大切な大切な一人だということです。そのことを何とかして知ってもらうために、主イエスは三つの譬(たと)え話を立て続けになさったのです。

 その最初になさった譬(たと)え話が、先ほど朗読してもらいました聖書箇所に書かれていました。譬(たと)え話の部分をもう一度お読みしますので、お聴きください。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」主イエスはそうおっしゃったのです。

 あなたがたの中に百匹の羊を所有している人がいたとしようね。そして、その中の一匹を見失ってしまったとすればどうするだろう。主イエスはそのように言って譬(たと)え話を始められたのです。羊百匹とは相当の財産です。ところが、その中のたった一匹ですが、いなくなってしまったのです。「その一匹を見失ったとすれば、・・」と主イエスはおっしゃっていますが、その一匹は群れから迷い出てしまったのでしょう。しかし、その一匹が勝手に迷い出てしまったのであっても、羊の所有者からすれば、一匹一匹を大切にし、大切に見守っていなければならない立場からすれば、「私が見失ってしまった」のだとの思いになってしまうのかもしれません。そうなってしまったら、羊の所有者であるあなたはどうするだろうか。主イエスはおっしゃるのです。あなたは、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。必ずそうするに違いないとおっしゃるのです。九十九匹が残っているから、一匹くらいいなくなっても、一匹くらい見失っても構わないなどとは言わないでしょう、と主イエスはおっしゃるのです。

 譬(たと)え話の上にさらに譬(たと)え話で申し訳ないのですが、もし、あなたに十人の幼子がいたら、しかも、その幼子の内の一人を見失ってしまったら、どうするでしょうか、そのように考えてみてもよいのではないでしょうか。主イエスはおっしゃいます。「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」。そのように、もし、私どもも一人の子を見失ったら、当然、その子を私どもは探しに行くでしょう。ただ、残していく九人を誰かに預けて、探しに行くでしょう。もし、誰か預かってくれる人がいなかったら、何とかして、九人を安全な所に置いて、たぶん、それでも残していく九人に対しる不安は完全に拭(ぬぐ)えないでしょうが、留守中に九人に何か起こるかもしれないとの不安は残るでしょうが、それでも、何とかして見失ってしまった一人を探しに行くことでしょう。九人残っているから、一人くらいいなくなっても構わないなどとは決して思わないでしょう。そう思うと、確かに、主イエスのおっしゃる通りです。そして、私どもも必死に見失った子を必死に探すことでしょう。

 主イエスの譬(たと)えに戻ります。主イエスはおっしゃいます。5節、6節です。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」。主イエスはそうおっしゃいます。もしかしたら、一匹を見つけたことを、そこまでして喜ぶだろうかと思われる方もあるでしょう。確かに、この羊の所有者の喜びようは大袈裟(おおげさ)とも思えます。しかし、もし、逆の場合を想像してみましょう。もし、その一匹が見つからなかったら、そして、最悪、見つかっても、死んでいたとしたら、羊の所有者に譬(たと)えられたあなたは、どれだけガッカリするだろうか。想像するまでもないでしょう。羊一匹一匹を大切にしていた所有者であるあなたは、意気消沈してしまうでしょう。そう思うと、この譬(たと)えで言われているほどに喜ぶことも分かるような気がします。

 譬(たと)え話の物語の部分はそこで終わっていますが、主イエスはここでおっしゃりたいことをはっきり言われます。続く7節です。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。そうおっしゃるのです。これは、どういうことでしょうか。初めに「このように、悔い改める一人の罪人については、・・・」とは、何のことを言っているのでしょうか。「このように、・・」とは、譬(たと)え話で、見失われた一匹の羊が見つけ出されたことです。それと同じように、「悔い改める一人の罪人については・・・」とは、主イエスの下に来て、主イエスの話を聴いて、主イエスのおっしゃることを受け入れようとしている徴税人や罪人たちのことです。そのような人たちは、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と主イエスはおっしゃるのです。既に悔い改めて、救われている人たちについては、改めて喜ぶことはないけれども、このように新たに悔い改めて、救われる人、神に立ち帰った人については、神のおられる天で、大きな喜びが沸き上がるに違いない。主イエスはそうおっしゃるのです。だから、徴税人や罪人たちがわたしの所に来てくれることを、むしろ、一緒に喜んで欲しいと主イエスはおっしゃるのです。その人たちも天の父なる神にとって、大切な一人一人であり、彼らが、神に立ち帰ってくれたなら、神ご自身も大いに喜んでくださる。主イエスはそうおっしゃるのです。

 本日の伝道礼拝の案内をするチラシの裏面に、私はこのように書かせてもらいました。その初めの部分です。「あなたは、神さまにとって唯一無二の存在です。神さまはあなたに貴い命をプレゼントして下さいました。そして、今日この日まで養い育て守って下さいました」。そのように書きました。本日の譬(たと)え話にあるように、皆さんは、主なる神にとって、大切な存在です。先ほどの譬(たと)えのように、親にとって一人の子が大切な存在であるように、神にとって、皆さんは大切な存在、唯一無二の存在、その意味で宝物です。親にとって、子は子宝であるように、神にとって、皆さんは宝物なのです。その証拠に、神は皆さんに貴い貴い、いくらお金を出しても買うことの出来ない、大切な命をプレゼントして下さいました。しかも、生まれてから、今日この日まで養い育て守って下さいました。私が改めて申し上げるまでもなく、赤ちゃんが生まれてから、自分で身の回りのことが出来るようになるまで、どれほど、大人のお世話になったことでしょう。大概は母親のお世話になったことでしょう。それに係った費用、お世話した人の働きも賃金に直してみると、膨大な金額でしょう。そして、それらの育児は、私どもの信仰から言えば、主なる神が陰になって支えお守りくださっていたことなのです。なぜ、大人の人たちはあなたにそこまでしてくれたのでしょう。神はそこまでしてくれたのでしょう。それは、子は子宝だからです。神にとっても、皆さんは宝物だからです。

 さて、さきほど、皆さんで讃美歌312番の「いつくしみ深き」を賛美しました。私が申すまでもなく、この讃美歌は日本で最も親しまれている讃美歌の一つです。

 前にも申しましたが、最近になって、私はこの讃美歌の2節の言葉に心魅かれるようになりました。

   いつくしみ深き 友なるイエスは、

   われらの弱きを 知りて憐れむ。

   悩みかなしみに 沈めるときも、

   祈りにこたえて 慰めたまわん

 私どもは、しばしば自分の弱さを認めたがりません。そのため、自分の弱さを隠すために、そして自分の力の無さをごまかすために、強がってみせます。しかし、そんなことをしても、見せかけに過ぎないことは、自分が一番良く知っています。自分の弱さ、自分の無力さは自分がよく分かっています。そして実は、そんな私ども自身よりも、私どもを愛して止まない主イエスが、私どもの弱さを一番良く分かってくださっているのです。ただし、主イエスはそのことで私どもを責めたりなさいません。もしかしたら、私どもは他の人の弱さを知った時、敵の首を取ったように勝ち誇ってしまうかもしれません。そうではなくても、その相手よりも自分の方が上であるという優越感を持ってしまいます。しかし、主イエスは違います。私どもを決してそのようにはなさいません。私どもの所まで降りて来てくださり、私どもの悲しみ惨(みじ)めさを一緒に噛(か)みしめてくださるのです。そして、心から憐れんでくださるのです。それは、私どもが悩み悲しんでいる時に際立(きわだ)っています。私どもの心が萎(な)えて祈れなくなってしまうような時にも、そんな私どもを主イエスは憐れんでくだるのです。そして、私どもの声にならない祈りにも、呻(うめ)きのような祈りにも、耳を傾けてくださり、私どもに寄り添い慰めてくださるのです。泣きじゃくる幼子を宥(なだ)めるように、慰めてくださるのです。主イエスはそのような方なのです。讃美歌312番は、主イエスはそのような方であると教えてくれているのです。

 ところで、キリスト教会では、神は愛であると言うけれども、どうして、神は人間を酷い目に遭わすのか、どうして、悲惨な事故や災害が起きるかと、おっしゃる方があります。正直な思いでしょう。確かに、そう思われるのも無理はないと思います。しかし、神が自ら望んで、事故や災害を起されているはずはありません。神が私どもを不幸に陥れようとして、何か酷いことをなさっているとは、私にはどうしても思えないのです。そして、思います。何か酷い事を神の責任にする人に限って、普段、神に感謝することが少ないと思います。自分にとって良い事につては、神に感謝することをカラッと忘れ、自分にとって良くないことがあると、それらを神のせいにする。それはあまりに神を非難するのに都合良過ぎるやり方ではないかと、私には思えるのです。

 さて、先ほど申しました本日の伝道礼拝のチラシの裏面に書いた言葉の後半の部分で、私はこう書きました。「しかも、神さまはあなたを救うために、最愛の御子イエスさまをお贈り下さったのです。その神さまと御子イエスさまの愛の深さをご一緒に覚えましょう」。このことを申し上げるのには、ヨハネによる福音書 第3章16節の言葉をご紹介するのが一番良いと思います。こういう言葉です。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 そういう言葉です。神の愛の大きさは、神が御独り子主イエス・キリストを私どもにくださったことに如実に現れています。しかも、その主イエスを十字架につけて、私どもが神に犯した罪の数々を私どもの身代わりとなって、償ってくださったことで、神の愛は無限に大きいことが分かりました。そのようにして、神は私どもが自分の罪のために滅びてしまわないようにしてくださり、いつまでも神と御子主イエスと一緒にいられることを約束してくださり、いつの日か主イエスのように復活することも、約束してくだる永遠の命を与えてくださったのです。そう言われています。

 そのように、神の私どもに対する愛は真に大きく、絶対的なのです。愛する御子、主イエス・キリストを十字架の上で犠牲にしてまでも、私どもの罪を赦そうとしてくださる。そこまでして、私どもを救おうとしてくださるのが、神の愛なのです。

 キリスト者となること、信仰者となることは、自分の罪を悔い改め、神に立ち帰って、この絶大なる神の愛を受け入れることです。迷い出てしまった私どもを、一所懸命捜し出してくださり、見つけたら、大喜びしてくださる神の愛を、主イエスの愛を、喜んで受ける。受け入れる。それが、信仰に生きることです。神にとって、皆さんは唯一無二の存在です。この私は神に愛され続けていると信じることこそが、信仰に生きるということです。どうか、皆さんも、ご一緒にこの信仰に生きてまいりましょう。

 祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、いつも私どもを愛し続けてくださいます。私が自分勝手に迷い出ても、わたしがあなたを見失ってしまったとおっしゃって、あなたは私どもを一つも責めることなく、私どもを捜し求め、見つけて下さいます。そして、大いに喜んでくださいます。あなたの愛の大きさに比べれば、ちっぽけな私どもです。情けなくなるくらい弱い存在です。それでも、あなたは、私どもを唯一無二の存在として、慈しんでくださいます。溢れる愛を注いでくださいます。心より感謝申し上げます。どうか、いつまでもあなたの愛に留まらせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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(6月25日は講壇交換のため、原稿も音声もありません)

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