日本バプテスト厚木教会
Iglesia Bautista Japonesa de Atsugi
JAPAN BAPTIST ATSUGI CHURCH
2017年5月7日 日本バプテスト厚木教会 復活節 第三主日礼拝
ヨハネによる福音書 第21章1~14節
1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
「復活された主イエスが私たちをもてなして下さる。」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ヤコブの手紙 第1章12節の言葉です。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」
今年の受難節、主イエスの十字架の苦しみを覚える時季は、マタイによる福音書の受難記事の言葉をご一緒に聴いてきました。そして、復活主日とそれに続く主の日の礼拝もマタイによる福音書の復活記事の言葉を聴いてまいりました。そのようにして、マタイによる福音書の受難記事、復活記事の言葉を終わりまで聴きました。そこで、以前から続けて来まして、受難節でお休みしていました、ヨハネによる福音書の連続講解説教に戻ります。不思議な導きで、今日与えられましたのは、ヨハネによる福音書の復活記事です。
前回、ヨハネによる福音書 第20章の最後の言葉をご一緒に聴きました。ヨハネによる福音書は一端そこで終わっていて、そこに、福音書記者は結びの言葉として、ここまで書いてきた目的が述べていました。こういう言葉でした。「30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」そのように言っていました。あなたがたに主イエスは神の子であり、救い主であることを信じてもらいたいから、ここまで書いて来たのです。あなたがたに真の命を受けて頂きたいから書いて来たのです。そのように福音書記者は言っているのです。この言葉をしっかりと受け止めておきたいと思います。
ところが、ヨハネによる福音書は、本日与えられています第21章も続きます。本日の箇所の最後の14節で「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」と言われていますように、ここには復活された主イエスが三度目に弟子たちに現れてくださった時のことが記されています。本日の箇所はこう始まっていました。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。」そう言われています。場所はティベリアス湖畔です。ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖の別名です。主イエスはエルサレムで十字架に架けられ、エルサレムで葬られたのです。そして、復活されたのです。この前の二回の復活記事は、そのエルサレムが舞台でした。しかし、今回の舞台は、ティベリアス湖、すなわちガリラヤ湖です。なぜ、主イエスはガリラヤで弟子たちに現れてくださったのでしょうか。それは、弟子たちがガリラヤ湖畔に来ていたからです。そのことが、2節、3節で言われています。「2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3 シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」そう言われています。後(のち)に使徒と呼ばれる弟子たち、イスカリオテのユダを除く11人の内、7人がここに登場します。彼らは皆、ガリラヤで主イエスに従いました。そして、エルサレムで復活の主イエスに二度お会いしたものの、彼らはまだ何も活動していませんでした。使徒たちが主に用いられ、再び主の御用をするのは、聖霊降臨の時を待たねばならなかったのです。そこで、彼らの多くがガリラヤ出身であるということで、ガリラヤに帰って来ていたのでしょう。しかも、その内ペトロをはじめとする4人が漁師出身です。ティベリアス湖畔に来ました。生活するには何もしないわけにはいきません。食いっぱくれてしまいます。そこで、ここで言われていますように漁に出たのでしょう。しかし、残念ながら、その夜、魚は一匹も獲れなかったのです。
ある方は、ここでの漁を伝道のことを譬えていると見ます。マルコによる福音書 第1章17節で、主イエスはシモン・ペトロと彼の兄弟アンデレに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とおっしゃっています。福音伝道者を、人間をとる漁師とおっしゃっているのです。そこから漁をすることは伝道することの譬えであると理解するのです。ところが、この時の漁では一匹の魚も獲れなかったのです。なぜか、神に導いていただいて事を進めるのではなく、人間的な思いで何とかしようとしたので、失敗に終わったのでしょう。私どもの場合もそのようなことがしばしばあります。自分では入念に計画したつもりでも、自分の思いばかりが先走りして、うまくいかないのです。特に神の業である伝道はそうでしょう。祈り、御霊がはたらいてくださることを願いつつ、私どもが出来ることをしてまいりましょう。
すると、そこに復活された主イエスが現れてくださいます。4節以下です。「4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5 イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。6 イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」そう言われています。
他の福音書の復活記事でもそうですが、主イエスのお側に仕えていた弟子たちが、復活の主イエスにお会いしていながら、その方が主イエスであることに気付かないのです。信仰の目が閉じてしまうとか、霞(かす)んでしまっていたのでしょう。主イエスの弟子たちがそうですから、私どもこそ、このことは肝に銘じておきたいものです。
そこで主イエスは弟子たちに尋ねられます。「子たちよ、何か食べる物があるか」。ここで、主イエスは何も獲れず不漁である弟子たちを責めておられるのではありまません。原文のニュアンスは、「食べるものは何にもないだろうね」と念を押している言葉だそうです。しかも、「子たちよ」と訳されている言葉は、「神の子たちよ」とも訳せる言葉なのです。ここは現実の厳しさを教えられている言葉だと言う人もいます。確かに、福音伝道において、いつも厳しさが伴います。私どももそのことを正直に認めなければなりません。そして、自分の力の限界をはっきり認識しなければなりません。
弟子たちもそのことを正直に認めて言いました。「ありません」と答えたのです。それに対して、主イエスは言われます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかったのです。そこで、主イエスがアドバイスしてくださいます。先ほど申しましたように、弟子たちの中には元漁師、漁の専門家もいたのです。ですから、「そんなこと言っても、今まで獲れなかったのだから、無駄ですよ」と言い返してもおかしくありません。しかし、彼らは素直に、主イエスのお言葉に従います。その方が主イエスだとはまだ気付いてもいませんが、素直に従ったのです。すると、引き上げられないほどの魚が網にかかったのです。
私どもは自分の意見を主張して、なかなか他の人の言葉を聴かないことがあります。それは、聖書の言葉に対しても同じではないでしょうか。「神の言葉である聖書にはそう書いてあるけど、現実はそう簡単でないよ」と心の中でつい呟(つぶや)いてしまうことはないでしょうか。自分で自分の行動に網を張ってしまって、なかなか外に出ようとしないということはないでしょうか。ですから、この時の弟子たちの素直さに私どもは学ばなければならいと思います。
ここで、7節以下最後までの言葉をもう一度聴いてみましょう。「7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10 イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12 イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」そのように言われています。「陸から二百ペギスほど」と言われていますが、約九十メートルです。
このように、主イエスは岸で、魚を焼き、パンも用意して、弟子たちを待っていてくださったのです。朝食の準備をしてくださっていたのです。夜中、漁をし、疲れていた弟子たちにとって、有り難いおもてなしをしてくださったのです。主イエスは復活してくださり、完全に希望を失ってしまった弟子たちに大いなる光を与えてくださいました。そして、今日(きょう)の場面では、弟子たちに先立って、ティベリアス湖に行かれ、弟子たちを待っていてくださったのです。しかも、夜中何も獲れなかった弟子たちに適切なアドバイスをしてくださり、弟子たちに朝食の準備までしてくださっていたのです。
このように、主イエスは弟子たちをもてなしてくださいました。それは、父なる神も同じです。先ほど交読文で読みました詩編 第23編でも、言われていました。今度は新共同訳でお読みします。お聴きください。
1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
2 主はわたしを青草の原に休ませ
憩(いこ)いの水のほとりに伴い
3 魂(たましい)を生き返らせてくださる。
主は御名(みな)にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
4 死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭(むち)、あなたの杖(つえ)
それがわたしを力づける。
5 わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
6 命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
このように、主なる神は私どもをもてなしてくださり、困難の中にある時、お守りくださるのです。
私どもは、主なる神から、御子主イエスから多くの恵みを受けています。ですから、私どもの方が、主なる神を、御子主イエスをもてなさなければなりません。しかし、いつも私どもの行為に先立って、主なる神も、御子主イエスも私どもをもてなしてくださっているのです。私どもに必要なものを揃(そろ)え、私どもを歓迎して、養ってくださるのです。
この礼拝も、私どもが準備しているようでいて、司式者の祈りの中で感謝していますように、主なる神が備え、私どもをお迎えくださっているのです。まずは、主のおもてなしを受けること、感謝して受けることから始めたいと思います。これからも、感謝と賛美をお捧げして、主のおもてなしを受けてまいりましょう。
祈りを捧げます。
私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。復活の主イエスは、そして、あなたは、いつも私どもを、お迎えくださいます。そして、私どもを溢れる恵みでもてなしてくださいます。心より感謝申し上げます。どうぞ、いつも、感謝と賛美をもってあなたに従っていけますよう、これからも私どもをお恵み、お導きください。あなたの御子主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
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2017年5月14日 日本バプテスト厚木教会 復活節 第四主日礼拝
ヨハネによる福音書 第21章15~19節
15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
「あなたは主イエス愛してますか」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ペトロの手紙 一 第1章2節の言葉です。「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」
ヨハネによる福音書 第21章の言葉を聴いています。前々回、ヨハネによる福音書 第20章の最後にあります結びの言葉を聴きました。そこで、一端、ヨハネによる福音書は終わっていると申しました。しかし、本日の箇所を聴きますと、第21章がなかったら、ヨハネによる福音書は完結しなかった。第21章があって初めて、ヨハネによる福音書は完結していると言えるという実感を持ちます。それは、主イエスを知らないと三度も言ってしまったペトロと復活の主イエスが正面から向き合う場面が第20章にはなく、第21章にそれがあるからです。しかも主イエスを知らないと言ったペトロが再び主の弟子として召され、派遣されることなくして、その後のキリスト教会の歴史はなかったと言っても言い過ぎではないと思われるほどに、第21章のこの場面は重要だからです。
ところで、ヨハネによる福音書が私どもに与えてくれるメッセージは、しばしば、第3章16節の言葉に尽きると言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉です。このように、主なる神の偉大な愛は御独り子主イエス・キリストを私どもに与えてくださったことに尽きるのです。神の愛は、御独り子を与える神の愛だったのです。さらに、この御独り子、主イエスの愛を最も印象的に告げている言葉は第13章1節の言葉であると言われます。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」という言葉です。主イエスは弟子たちをこの上なく愛し抜かれたのです。この「この上もなく」との言葉は、文語訳では「極みまで」と訳されていました。そのように限りなく弟子たちを愛され、弟子たちの足を洗ってくださったのです。そしてその後、主イエスは弟子たちにこうおっしゃいました。同じ第13章の34節、35節です。「34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」そうおっしゃいました。ここで、主イエスは新しい掟を与えるとおっしゃっています。では、どんな掟かというと、「互い愛し合いなさい」とおっしゃるのです。何も新しいところはありません。では、主イエスがおっしゃる新しい掟の新しいとは何なのでしょうか。本日は、その新しいとは何が新しいということなのかを探ってみたいと思います。
もしかしたら、ペトロはこの言葉、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」との言葉に触発されたのかもしれません。愛に燃えて、最後まで主イエスについて行こうとしたのでしょうか。ペトロは主イエスに尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか。」すると、主イエスはこう答えられるのです。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」そう主イエスはおっしゃるのです。ペトロはその主イエスの言葉に反発するように言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」ペトロはそう言ったのです。「あなたのためなら命を捨てます。」これはペトロの主イエスに対する明白な愛の告白です。主イエスが「わたしがあなたがたを愛したように、・・・」とおっしゃったように、わたしもあなたを愛する、命を捨ててでもあなたについて行くと、あなたを愛すると、ペトロは主イエスにお答えしたのです。ペトロとすれば、主イエスはそのペトロの言葉を喜んで受け止めてくれると思ったでしょう。しかし、ペトロの意に反して、そうはならなかったのです。主イエスはこう答えられます。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」主イエスはそうおっしゃったのです。ペトロとすれば、何で主イエスは何てことをおっしゃるのかと、半ば反発しながら、聞いたのではないでしょうか。しかし、まさに主イエスのおっしゃる通りになってしまったのです。
主イエスを知らないということは、主イエスを愛していないということです。そして、ペトロが主イエスを知らないと言ったことは、ペトロが躓(つまず)いた、ペトロが主イエスへの愛を失ったということですが、それだけにとどまらないのです。それでは、主イエスのペトロへの愛も全うされないということになってしまうのです。主イエスのペトロへの愛も未完成に終わってしまうことになるのです。そうなってしまえば、先ほど引用しました第13章1節で言われていた「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」との言葉の愛し抜くことも未完成となるということです。そしてそれは、第3章16節の言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と言われていた神の愛も、その愛も完結されないということに成りかねないのです。
ところで、旧約聖書、エゼキエル書 第18章23節ではこう言われています。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」そして、32節でも、こう言われています。「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」そのように言われています。そこから、ヨハネによる福音書に戻りまして、ペトロが躓(つまず)いたまま、主イエスへの愛を失ったままであることを、主なる神も、御子主イエスも良しとはなさらないことが分かります。そして、それによって、主なる神と御子主イエスの愛が、ペトロの上において完成しないことも喜ばれないのです。
そこで、主イエスはペトロとの関係を回復することを切望され、ペトロに尋ねられるのです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」主イエスはここで、一緒にいた他の六人の弟子以上にあなたはわたしを愛するかと問われたのです。際立った愛をペトロに求められたのです。傍らにいた他の弟子たちはひがんだと思われる言葉です。しかし、ペトロは使徒たちの中でも特別な召命、召しを受けている人でした。マタイによる福音書 第16章18節で、こう主イエスはおっしゃっています。ペトロが弟子たちを代表して、主イエスに信仰告白した直後です。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。」主イエスはそうおっしゃったのです。このように、ペトロは教会の礎として用いられる人でした。それゆえ、他の弟子たち以上に主イエスを愛することを求められたのです。そして、このあとすぐペトロ命じられます。殉教し、まさしく教会の礎となることを命じられるのです。弟子たちの中の弟子となり、教会の柱となるべく召されたペトロは、殉教するようになると告げられるのです。
ここで覚えておきたいのは、主イエスはペトロに御自分への愛だけを問われています。他は何も尋ねておられないのです。主イエスはペトロに愛だけを確認なさったのです。そうです。主イエスへの信仰とは、主イエスを愛すことに尽きるのです。
思えば、ペトロが主イエスを知らないと言ったのは、自分も捕えられ、殺されるのではないかという恐怖からでした。その時も、ペトロは主イエスを愛していたでしょう。しかし、死への恐怖が、愛の絆(きずな)を断ってしまったのです。それだけにペトロは悲しみ、苦しみ、深い後悔の念に襲われたことでしょう。それゆえ、本日の箇所で、ペトロは真実の悔い改めに至ったのでしょう。この時、ペトロは愛を新しくしていただいたのだと言われます。それは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」との言葉から分かります。それまでのペトロにとって、「わたしがあなたを愛している」ということは、自分の熱い思いから発してしるものだったのです。しかし、その自分の熱い思いは、死の恐怖の前に一掃されてしまったのです。もろくも崩れ去ってしまったのです。そこで、ペトロは、自分の中に主イエスへの愛の根拠がなかったことに、あっても死の恐怖に負けてしまうようなちっぽけなものであることを知ったのです。では、ペトロは主イエスへの愛の根拠をどこに求めたのでしょうか。それは、主イエスがこの上なく自分たちを愛してくださっていることです。そうです。主イエスの中に、主イエスの愛の中に、自分が主イエスを愛する根拠を、揺るぎない確かさを見出したのです。ですから、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロは答えたのです。
それまでのペトロは、自分の力で主イエスを愛せると思っていました。自分の熱い思いで主イエスを愛していけると思っていたのです。しかし、主イエスを知らないと三度も言ってしまったことによって、そのような自信は一掃されてしまったのです。もろくも崩れ去ったのです。自分の力に頼ることの虚しさ、自分の熱い思いに酔いしれることの愚かさを知ったのです。そして、この上なく愛してくださる主イエスにのみ頼って行くことを学んだのです。この時、ペトロは新しい掟に生き始めていたのでしょう。主イエスが第13章でおっっしゃっていた新しい掟、その掟の互いに愛し合うというのは、この時のペトロの答えの中に表されていると思われます。そうです。愛の確かさは、私どもの内に根ざすものではないのです。この上なく私どもを愛してくださる主イエスの中に根ざすのです。これこそ、新しい愛に、新しい掟に生きるペトロの姿だったのです。
さて、新約聖書の原文、ギリシア語の原文を見ますと、この時、主イエスは「わたしを愛するか」と問われた際、二度目までは、神の愛を表す「アガペー」という言葉を使われ、最後は友としての愛を表す「フィリア」という言葉を使われて問われています。そのことに対して、主イエスや弟子たちはギリシア語ではなく、アラム語で話されていたのだから、そのことを論じても意味がないと言う人もいます。確かにその意見には一理あります。しかし、それだけで済ませられないと私は思います。
先ほど引用しましたヨハネによる福音書 第15章12節以下を15節まで聴いてみましょう。「12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」主イエスはそうおっしゃっているのです。ここで、主イエスは私どもを友と呼んできださっているのです。そして、ペトロに、わたしを愛するかと問われる中で、その友として愛するかと尋ねられているのです。それは、暗に第15章13節でおっしゃった「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とおっしゃった愛を求めておられるのです。主イエスは友と呼ばれた弟子たちのために、そして、私どものために、御自分の命をお捧げ下さいました。そして、今度は、ペトロを友と呼び、友としての愛すること、友としての最上の愛のである自分の命を捧げることを求めておられるのです。確かに、主イエスが他の弟子たち以上にわたしを愛するかと言われたことに、他の弟子たちはひがんだかもしれません。しかし、教会の礎となるペトロに、主イエスはここまでの愛を求め、ペトロに問われているのです。そして、ペトロは自ら進んで主イエスを愛し、主イエスに従うのです。
弟子たちをこの上なく愛し抜かれた主イエスの愛は、弟子たちを極みまで愛された主イエスの愛は、今、私どもに注がれています。そして、主イエスは私ども一人一人に尋ねられています。「あなたもわたしを愛するか。」私どもも、主イエスの愛の中に招かれています。私どもも、ペトロのように、主イエスに「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」とお応えし、私どもの愛の確かさを、主イエスの中に置かせていただいて、主イエスを愛し、主イエスに従ってまいりましょう。
お祈りをいたします。
私どもの救い主で、私どもをこの上なく愛し続けてくださっています主イエス・キリスト、そのお父さまであられる神よ。ペトロは主イエスの愛によって、主イエスの愛の中に引き戻して頂きました。そして、主イエスを愛する者としての使命を与えられ、改めて主イエスに従って行きました。今、ペトロに注がれた愛を私どもが受けていると確信いたします。どうぞ、私どもをこれからもこの上なく愛してください。あなたと御子の溢れる愛をいただいて、私どもも愛をもって、あなたにお答えする者とさせてください。どうぞ、いつも、あなたと御子の愛の中に留まらせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。
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2017年5月21日 日本バプテスト厚木教会 復活節 第五主日礼拝
テモテへの手紙 一 第5章1、2節
1 老人を叱(しか)ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭(さと)しなさい。若い男は兄弟と思い、2 年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。
「神の家族としての教会~教会とは何か ⑱」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ペトロの手紙 一 第5章14節の言葉です。「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。」
受難節の期間お休みしていましたが、「教会とは何か」とサブタイトルをつけている説教を続けています。今日は第18回です。「神の家族としての教会」と題を付けました。教会では、同じ信仰に歩んでいる人たちのことを兄弟姉妹と呼んでいます。そして、名前のあとに、男の人でしたら、「兄」と書いて、何々兄弟と読んだり、女の人でしたら、「姉」と書きまして、何々姉妹と読んだりしています。今、私どもの教会では、週報はじめ
印刷物はそのようにしています。ただ、最近の傾向として、世の中一般に合わせて、また、新しく来られる方に合わせて、名前のあとに兄、姉と書くことを止め、単に、何々さんと書くようにしている教会もあります。ただし、書き方はどうであろうと、信仰に基づく兄弟姉妹であるということには変わりありません。
その信仰における兄弟姉妹の一番上は、主イエス・キリストです。ということは、兄弟姉妹のお父さまは、主イエス・キリストの父なる神、主なる神です。神の家族ということは、そういうことです。その意味で、信仰告白して、バプテスマを授けられるということは、キリスト者になるという事と同時に、私どもの場合は、日本バプテスト厚木教会の教会員となることであり、公に、世の中に向かって、わたしは神の家族の一員であることを言い表すことです。
さて、先程、朗読致しました、テモテへの手紙は、初代教会で最も神に用いられて伝道者の一人である使徒パウロが、若い伝道者、牧師であったテモテに送った手紙です。ここには、若い伝道者テモテが教会を牧会する上でのアドバイスが多く述べられています。本日は、その中の言葉を聴いています。神の家族として、信仰の兄弟姉妹に、どのように対したら良いかを教えてくれています。
もう一度お読みます。「老人を叱(しか)ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭(さと)しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい」。そのように言われています。初めに、年配者にどう対応するかを述べています。くどくど言わずに、二点に絞って、アドバイスしています。年配者を叱ってはいけない。年配者は、自分の父親や母親と思い、優しく諭してあげなさい。そう言うのです。また、若い男性に対しては、自分の弟と思い、接しなさい。若い女性に対しては、決して淫(みだ)らな思いを抱くのではなく、常に清らかな心で、自分の妹と思って接し、諭して上げなさい。そのように言うのです。総じて、あなたが自分の家族を慈しむように、教会の兄弟姉妹、信仰の兄弟姉妹に対しても接するように教えているのです。そして、間違えや失敗を叱責するのではなく、責めるのではなく、優しく労(いた)わるように対応しなさい。ただし、兄弟姉妹が過ちを犯してしまったら、それを見過ごすのではなく、丁寧に諭して上げなさい。そのように言われています。牧会者であるテモテに、教会の皆に配慮するようにと教えています。
私事で恐れ入りますが、私の母は今87歳です。今、東京の江東区で一人暮らしをしています。東京のJR飯田橋駅の近くにあります日本基督教団 富士見町教会の教会員です。私の記憶では、80歳くらいまでは、案外自由に外出できました。しかし、80歳を越える頃、高血圧の症状が進んで、あまり遠出出来なくなりました。そのため、少し遠出をする際には、私の弟が自動車に乗せて行くようにしています。また、母は昔、右(みぎ)膝(ひざ)を痛めたために、常に右膝をかばうようにしていて、手押し車のシルバーカーを押して歩いています。
今申しましたように、80歳になるまでは色々自分で出来ましたが、80歳を越えるころから、何事をするのも大変になってきました。最近、健康寿命という言葉をよく耳ににします。母にも、少しでも長く健康でいてもらいたいと思っています。そのように、何歳まで健康でいられるか、何歳まで色々なことが出来るか、それは個人差があると思います。ただし、屈強な体を持っている人でも、誰にでも限界はあります。そのことを本人も、周りにいる者も弁(わきま)えなければならないと思います。年を重ねれば、出来ない事が一つずつ増えてきます。昔は平気で出来たことも、出来なくなり、失敗することも多くなるでしょう。体を動かし辛(づら)くなるだけでなく、判断することも衰えてくるでしょう。失敗も増えるでしょう。寂しいことです。その際に、パウロは叱ってはならいと言うのです。諭しなさいと言うのです。ここで「諭す」と訳されている言葉、元の新約聖書はギリシア語で書かれていますが、そのギリシア語には、「慰(なぐさ)める」という意味もあるそうです。それは、年配者が失敗してしまったことを、過ちを、叱る、責めるのではなく、そうしてしまって、悲しい思いになっているその人を、慰めて上げなさいということでもあるのです。叱られたり、責められたら、その失敗、過ち、罪から、解き放たれないのです。いつまでも、そこに留まってしまうのです。
また、ここで言われている「諭す」のは、罪を知らせることを、罪に気付かせることを言っています。叱ること、叱責することは戒められていますが、それは、罪を曖昧(あいまい)にすることではありません。そもそも、キリスト信仰は、自分の罪を認め、自分の罪を赦していただくことから始まります。そして、救い主、主イエスに救っていただくのです。その意味で、罪を曖昧にすることは、救いを遠ざけることに他なりません。ですから、罪を犯した人に自分の罪に気付かせることは、その人の救いにとって、とても大切なことなのです。その際に、叱るのではなく、優しく諭すようにと勧めているのです。そのことの大切さを、パウロは若いテモテに年配者に接する際に一番心がけてもらいたかったのでしょう。
それは、逆に言えば、自分に罪を諭してくれる人の言葉をしっかりと聞かなければならないということです。ともすると、私どもは、自分の罪や失敗に、他の人が触れただけで怒ってしまったり、憤慨してしまったりするこがあります。自分の弱点を指摘されたと思い、怒ってしまうのです。しかし、それは、自分にとって損なことです。良きアドバイスをして頂いたと謙虚になるべきです。そのために、普段から心静め、冷静でいること、自分の行いを常に吟味することは必要ではないでしょうか。そして、他の人からのアドバイスを有り難く受け、自分自身が向上するために、そのことを生かしてまいりたいと思います。
さて、年配者を叱らないことを、もっと広く考え、総じて相手に配慮するということは、相手の気持ちになることだと思います。相手の悲しみを想像し、それに寄り添うのです。一方、配慮の無い人は、自分の事しか考えていません。自分の気持ちに押し流されて、他の人のことは全く考えられないのです。そのようなことは、根本から直して行いかなければならないことでしょう。そうするには訓練と時間がかかることでしょう。しかし、少なくとも神の言葉、聖書の言葉を聴こうとしている人でしたら、愛に生きることを望んでいる事と思います。時々は、思い出したように、相手の気持ちを想像することを始め、それを少しずつ習慣づけていくことが、神の家族の一員である私どもには求められていると思います。
かつて、こんな光景を見たことがありました。知り合いのある人が転んで、ケガをしてしまいました。そのことを別の方が話していたら、ケガをした人に同情するのはなく、小馬鹿にしたことを言っていました。しかし、すぐそこに、ケガをした本人が現れると、「どうだった、大変だったわね」と、さも心配していたような言葉をかけるのです。その変わりようの早さに驚いたことがあります。では、このようなことをどう捉えたら、よいでしょうか。私どもはどうしたらよろしいでしょうか。本日与えられた聖書箇所で、使徒パウロは「自分の父親と思って・・・」と言い、また、「兄弟と思い、・・・」と言い、「母親と思い、・・・」と言い、「姉妹と思って・・・」と言っています。確かに、使徒パウロの言うように、自分の大事な家族と思えば、優しく接することが出来るでしょう。勿論、この際の大事な家族と思えばとは、良好な家族関係であるということが前提になっています。
しばしば、遺産相続が、家族間で問題になった際、家族同士が、憎しみ、争い、もう関係修復が不可能とまでなってしまうこともあります。その意味で、親しい関係ほどこじれると厄介なことになります。ただ、今はそのような場合は考えないでおきましょう。
相手を自分の大事な家族の一員と思えば、相手の痛みは自分の痛みでもあり、相手の喜びは自分の喜びともなります。神の家族である教会の一員には、それが、使徒パウロからだけでなく、父親である神から、長兄である主イエスから、求められているのです。使徒パウロがローマの信徒への手紙 第12章15節で言っているようになることが求められているのです。そこではこう言われています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」そうなることが、私どもには求められています。もし、人が喜んでいたら、それを妬(ねた)むのではなく、一緒に自分のことのように喜びなさい。もし、泣いている人がいたら、決して「ざまあみろ」なんて思ってはいけません。その人に同情してあげなさい。一緒に泣いてあげなさい。そのように言うのです。愛に生きるということは、そういうことだと思います。
神の家族となること、それは愛に生きることです。それは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ということです。ここでも、大切なことは相手の気持ちになることでしょう。相手の気持ちを想像して、相手がどうして欲しいかを想像して、その気持ちに寄り添うようにしてあげることです。本日の箇所で言われている、「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい」は、まさに、その具体例でしょう。年配者の悲しみを、衰えを感じている人たちの寂しさを、想像し、その気持ちを理解し、同情し、時には一緒に泣いてあげて、その人を支えてあげるのです。
主イエスはこうおっしゃっています。ヨハネによる福音書 第15章14節です。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」そう主イエスはおっしゃっているのです。友のとは対等な関係です。友だちの上下関係はありません。どちらが年上でも、友は対等な関係です。ここでは、主イエスがおっしゃっていることには、「わたしの命じることを行うならば、・・・」という条件がついていますが、そうだとしても、神の御独り子であり、私どもの救い主である主イエスが、私どもに向かって、「あなたがたはわたしの友である」とおっっしゃってくださっているということは驚きであり、それだけに嬉しいこと、勿体ないことです。先ほど、主イエスは神の家族の中で、私ども信仰の兄弟姉妹の長兄であると申しました。私どもは主イエスの家族であり、主イエスの弟、妹なのです。それだけでも嬉しいのに、主イエスは私どものことを友とも呼んでくださり、対等な関係であるとおっしゃってくださるのです。それは言うなれば、主イエスの方から、親しみをもって私どもに近づいて来てくださっているということです。そうであれば、私どももそれを喜んで受け、主イエスの友として、兄弟姉妹として、主イエスと共に歩んでまいりたいと思います。
もう一箇所、聖書をお読みます。マタイによる福音書 第12章46節以下で、新約聖書23ページです。
46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
この記事を聴いて、主イエスは肉親の母や兄弟姉妹に冷たかったのではないかと印象を持たれる方があるかもしれません。確かに、神の子、救い主としての公生涯に入られてからは、肉親の家族とは、距離を保たなければならなかったでしょう。しかし、それは、主イエスが、神の子、救い主という使命を果たさねばならなかったからです。公生涯というように、私的な面は出来るだけ控えて、公の方として歩まなければならなかったからです。しかし、それまでは、主イエスは、地上の父親であったヨセフ亡き後(あと)、三十歳くらいまで、母マリアや兄弟姉妹を支えて大工として働かれてきたのです。ですから、主イエスは決して家族を軽んじられるかたではなかったと私は思います。ここで注目ししたいのは、最後の主イエスの言葉です。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」そうおっしゃってくださっているのです。天の父の御心を行う人は、みな、主イエスの兄弟姉妹であり、母である、家族であるとおっしゃってくださっているのです。主イエスご自身がこのようにおっしゃってくださり、私どもが主イエスと一緒に神の家族であると宣言してくださっているのです。真に嬉しい、勿体ないお言葉です。
主イエス・キリストはそのように、私どもを神の家族の一員としてお迎えくださっています。私どももそのことに感謝し、主イエスが私どもをこの上なく愛してくださったように、私どもも、信仰の兄弟姉妹の気持ちに寄り添い、愛し合い、共に歩んでまいりましょう。
お祈りを致します。
私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、私どもを教会に導いてくださいました。そして、私どもを神の家族の一員として、温かくお迎えくださっています。感謝致します。どうぞ、私どもも、主イエスに倣って愛に生きることができますように、お恵み、お導きください。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。