2017年4月2日 日本バプテスト厚木教会 受難節 第五主日礼拝

 

マタイによる福音書 第27章27~44節

 

 27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套(がいとう)を着せ、29 茨(いばら)で冠(かんむり)を編んで頭に載せ、また、右手に葦(あし)の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。30 また、唾を吐きかけ、葦(あし)の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套(がいとう)を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。

 32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36 そこに座って見張りをしていた。37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

 

「イスラエルの王である主イエスを、十字架につける」

 

 今週も、週の初めの日に、皆さんとご一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テトスへの手紙 第3章15節の言葉です。「恵みがあなたがた一同と共にあるように。」

 新年度を迎えました。2017年度です。入学、就職と大きな変化を迎える方もあるでしょう。教会も新しい年度を迎え、年度の聖句も標語も変わりました。新たな思いを持って、信仰の歩みを続けてまいりたいと思います。

 受難節にあたり、マタイによる福音書の受難記事をご一緒に聴き続けています。いよいよ、主イエスは十字架につけられるために、引いて行かれます。そして、とうとう十字架に磔(はりつけ)になるのです。本日の聖書箇所ではこう言われていました。

 総督ピラトの率いる兵士たちは、主イエスを総督官邸に連れて行きます。そして、部隊の全員を主イエスの周りに集めました。それから主イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套(がいとう)を着せ、茨(いばら)で冠(かんむり)を編んで頭に載せ、また、右手に葦(あし)の棒を持たせます。赤い外套(がいとう)、茨(いばら)の冠(かんむり)、右手の葦(あし)の棒、兵士たちは主イエスを皮肉って王の恰好(かっこう)をさせたのです。そうして、主イエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱しました。また、彼らは主イエスに唾(つば)を吐きかけ、葦(あし)の棒を取り上げて頭をたたき続けるのでした。兵士たちはこのように主イエスを侮辱したあげく、外套(がいとう)を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行きました。

 兵士たちは総督官邸を出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、主イエスの十字架を無理に担がせました。主イエスは疲労(ひろう)困憊(こんぱい)され、刑場まで十字架の横木を担いでいけそうもなかったのです。そして、刑場であるゴルゴタ、すなわち「されこうべの場所」に着きます。すると、兵士が苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、主イエスはなめただけで、飲もうとされませんでした。苦いものを混ぜたぶどう酒には、痛み、苦しみを少しでも感じなくする効果があったのでしょう。ただし、そのような効果があっても、十字架刑で、手足に釘を撃ち込まれる痛みがどれほど少なくなるかは大いに疑問です。それでも、受刑者は少しでも苦しみから逃れるために、飲んだのではないでしょうか。しかし、主イエスはなめただけで、飲もうとされず、十字架の苦しみから逃げる姿勢はとられなかったのです。兵士たちは主イエスを十字架につけると、旧約聖書 詩編 第22篇19節で預言されていたように、くじを引いてその服を分け合うのです。そうするのは、死刑を執行する者に与えられた権利だったようです。十字架につけられた主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げてありました。そして、主イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられました。すると、そこを通りかかった人々は、頭を振りながら主イエスをののしって、こう言いました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」そして、同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、主イエスを侮辱して言うのでした。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」さらには、一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じように主イエスをののしったのです。

 さて、32節で、こう言われていました。「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」これと同様のことが、マルコによる福音書でも言われています。第15章21節です。「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」そのように言われています。マルコによる福音書では、「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、・・・」と言われています。マルコによる福音書記者がいた教会では、この「アレクサンドロとルフォス」と言う人は良く知られていたのでしょう。ですから、わざわざ名前を出しているのだと思われます。たぶん、二人とも同じ信仰者、キリスト者だったのでしょう。その父親がこの時、無理やり主イエスの十字架を担がせられたシモンだったと言うのです。そこから、このシモンは後にキリスト者になって、息子たちもその信仰を受け継いだと思われます。

 たぶん、シモンは過越祭を祝うために、わざわざエルサレムに来ていたのでしょう。そして、主イエスが十字架の横木を担がされ、刑場に引いて行くのを見るために集まっていた群衆の中で、彼もその様子を見ていたのでしょう。たぶん、主イエスに代わって十字架を担がされるのですから、シモンは屈強な体つきだったのでしょう。すると、突然、兵士に呼び止められ、主イエスの十字架を無理やり担がされたのです。青天(せいてん)の霹靂(へきれき)です。何も悪いことをしていないのに、突然、死刑囚が背負う十字架を無理やり担がされたのです。何という侮辱(ぶじょく)でしょう。たぶん、シモンにとって、こんな屈辱(くつじょく)を受けたのは後にも先にもなかったでしょう。

 ところで、マタイによる福音書の福音書記者は、主イエスが刑場に引かれて行くこの場面で、シモンが十字架を担がされたことだけを述べ、他のことには触れていません。この場面で、福音書記者の関心はここに集中しているのです。

 先ほど述べましたように、後に、このシモンはキリスト者になったと思われます。この屈辱的な体験の後、一体、主イエスはどのような方であるのかと関心を持ち、また、主イエスがご復活されたと聞いて、初代のキリスト教会で、信仰を授かったことでしょう。そして、この時の体験を、何度も語ったことでしょう。そして、このシモンの体験は、主イエスのこの言葉と共に、教会で語り継がれたことでしょう。その言葉とは、こういう言葉です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マタイによる福音書 第16章24節)。」主イエスはそうおっしゃったのです。厳しい言葉です。主イエスについて行くとは、自分の十字架を背負って、主イエスに従うことだと、主イエスご自身がおっしゃっているのです。自分の十字架を背負うとは、しばしば、信仰者が受ける人生の苦しみのこととして言われます。そして、本日の箇所のシモンのことを思えば、屈辱的な目に遭(あ)わされることとも言えるでしょう。また、主イエスの十字架が、他の人の罪の償いであったことを思えば、自分の十字架も、他の人のための苦しみということになるでしょうか。そのように、自分の十字架を背負うことは、決して喜ばしいことではありません。しかし、主イエスは、御自分について来たいと思う者は、自分の十字架、無理やり担がせられる十字架を拒んではならないとおっしゃるのです。やはり厳しい言葉です。信仰に生きることの厳しさをこの言葉から教えられます。

 さて、前にも申しましたように、主イエスの十字架の記事を聴いて、「おいたわしや、おいたわしや」と思う事を、福音書は皆さんに求めていません。主イエスに同情することが大事なのではありません。ここでは無力に見える主イエスです。しかし、私どもは、この後(あと)、死に勝利され、復活される主イエスを知っています。ですから、復活を祝うハレルヤの歌声と共に、主イエスの十字架を深く見つめるのです。

 さて、37節では、こう言われていました。「イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである』と書いた罪状書きを掲げた。」そして、41節以下では、こう言われています。「・・・祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42 『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。』」そう言われています。ここでは、皮肉を込めて、王、王様であると言われています。そして、王という言葉がからかう材料として使われています。

 そもそも、マタイによる福音書の初め、第2章1節以下でこのように言われていました。「1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」そう言われていました。占星術の学者たちは、ユダヤ人の王、そして、自分たちの王となる方を求めて、はるばる東の国からやって来たのでした。このように、マタイによる福音書では、主イエスが私どもの王でることが告げられています。本日の箇所では、皮肉として、からかう対象として、王と言われています。しかし、まさしく、主イエスは、私どもの救いのために、裁かれる王となってくださり、十字架で死んでくださる王となって、人々に侮辱される王となってくださったのです。このようなお姿の王である主イエスこそ、まさしく私どもの罪を償ってくださり、私どもを救ってくださる王なのです。私どもの信仰における大きな課題は、私どもにとって、「まことの王」は誰かということです。誰が私どもを正しい道に導いてくれるか、誰が私どもを確かに救ってくださるか、それをはっきり見極めることが、私どもの信仰における大きな課題なのです。本日の聖書箇所はその課題に対し、良き示唆を与えてくれていると思います。

 そして、39節、40節でも、こう言われています。「39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』」そう言われています。そして、44節です。「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」そう言われています。このように、福音書記者は、主イエスの十字架の苦しみを伝えるよりは、主イエスがののしられたことを繰り返し伝えています。高い地位にある者も、そして、そうではない人々も、皆、主イエスをののしっているのです。これは、交読文でも読みました、イザヤ書 第53章の預言の成就であると共に、私どもの醜さを如実に表しているのだと思います。兵士だけでなく、高い地位にある者も、一般の人々も、皆、救い主として死んでくださった主イエスをののしっているのです。皆、醜さを露わにしているのです。それは、私どもも例外でないということです。普段は上手(うま)く隠していても、時にそれが噴出してくるのです。つくづく、自分の罪深さ、醜さを良く知って、悔い改めなければならないと、思い知らされます。

 しかも、主イエスはそのような私どもを代表するような人たちからの罵(ののし)りを受けながら、それに一言も言い返されないで、私どもの罪の償いの十字架にお架かりくださったのです。まことに勿体ないことです。

 今日においても、力なくしては、正義は守れないと考えられています。私もそう思っています。しかし、主イエスは力を振るうことなく、正義を貫いてくださったのです。今日的常識からみても、それは真に非常識です。主イエスはご自分を守らず、そのために力を振るうことなく、正義を、赦しという愛を、貫いてくださったのです。

 もし、主イエスがここで力を振るわれたら、周りにいた者は皆裁かれ、死んでしまったことでしょう。そして、私どもも、罪赦されることなく、自分の罪の故に滅ぼされることでしょう。しかし、主イエスは力を振るうことなく、私どもを裁くことなく、赦しという愛を十字架の上で貫いてくださったのです。それゆえ、私どもは主イエスの十字架によって、救っていただけるのです。主イエスこそ、「私どもを真実に生かす王」でいらっしゃるのです。この方にいつまでも従ってまいりましょう。

お祈りを致します。

 

 私どもの唯一の救い主なる主イエス・キリスト、その父なる神よ。私どもはどれほどあなたに罪を犯したことでしょう。しかし、あなたと御子主イエスは、そのような私どもを罪と悪から救い出すために、黙って十字架についてくださいました。そのようにして、他にはない、まことに有り難い救いを私どもにくださいました。どうぞ、あなたと御子が与えてくださった救いの貴さを噛みしめ、いつまでもあなたに従っていけますよう、私どもをお導き下さい。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

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2017年4月9日 日本バプテスト厚木教会 棕櫚の主日礼拝

 

マタイによる福音書 第21章1~11節

 

 1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。/ 5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」/ 6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

 

マタイによる福音書 第27章45~61節

 

 45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。58 この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。59 ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、60 岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。61 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。

 

「十字架の上で死んだナザレのイエスは、本当に神の子だった」

 

 今週も、週の初めの日に、皆さんとご一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。フィレモンへの手紙 第1章3節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 本日はパームサンデー、棕櫚の主日です。主イエスが子ろばに乗って平和の王として、エルサレムに入城されたことを記念する日です。本日は、最初にその主イエスのエルサレム入城の記事を読みました。ここで大事なことは、主イエスが王として来てくださったことです。群衆が「ダビデの子にホサナ」と叫んでいます。ダビデとは、かつてのイスラエルの王です。イスラエルの民が誇りとしている王です。そして、ダビデの子、ダビデの子孫とは、メシア、救い主のことです。当時、ユダヤでは、ダビデ王家の末裔から神の民を救うメシア、救い主が現れると信じられていたのです。そして、メシアであるダビデの子も、ダビデ同様、神の民の王なのです。「ホサナ」とは、「救ってください」という意味です。ここでは、「救ってください」「助けてください」という意味と一緒に、賛美の意味も込めて群衆は叫んでいます。

 この時、主イエスはなぜ、ろばにお乗りになったのでしょう。それは、この時の出来事が4節、5節で言われていますように、旧約の預言の成就だったからです。そこではこう言われていました。「4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。/ 5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」そう言われています。これは、イザヤ書 第26章11節と、ゼカリア書 第9章9節の二つの預言を結び合わせたものです。この時、主イエスはこの預言の言葉を意識し、自ら進んでこの預言を成就されたのでしょう。では、なぜ、ろばなのでしょう。当時、王や支配者はこのように町に入る時、馬に乗っていました。それも、軍馬、戦争ための馬です。しかし、主イエスは預言に従い、ろばに乗られました。馬が戦(いくさ)に使われるのと違い、ろばは物を運んだりする作業のために使われていました。そのように、馬は戦の象徴で、ろばは平和の象徴なのです。主イエスは武力で支配する王ではなく、平和の王としてエルサレムに入城されたのです。

 先週の聖書箇所、十字架につけられる主イエスのことが記されていた記事では、皮肉を込めて、主イエスはイスラエルの王と言われていました。人々は、地位の高い者も、低い者も、主イエスを、弱弱しい王、全く威厳のない王として、主イエスを侮辱していました。その陰で、私どもを本当に救ってくださる王はこの方、十字架につけられた主イエスであることが示されていました。そして、ろばに乗った主イエスお姿は、私どもに真(まこと)の平和をもたらしてくださる王が、まさにこの方であることを示しています。

 先週も申しましたように、私どもは、誰を王とするか、誰を王として従って行くかがいつも問われているのです。なぜなら、間違った王に従って行ったら、大変なことになってしまうのです。それは、誰の言葉を信じて生きていくかという事でもあります。その意味で、信仰生活において、人間として生きていく上で、誰を自分の王とするか、誰の言葉を信頼して生きていくかが、とても重要なのです。

 この時主イエスは人々の歓迎を喜んで受けてくださいました。ただし、人々は一週間も経(た)たない内に、主イエスを「十字架につけろ」と叫んだのです。それでも、主イエスはこの時、人々の喜びに満ちた歓迎を快くお受けくださったのです。私どもも、この時の人々のように、主イエスを大いなる喜びをもってお迎えしましょう。主イエスは、私どもの歓迎を喜んでお受け下さるのです。ですから、いつまでも、主イエスを私ども自身の王として、いつも従って行きたいと思います。

 ここで、なぜ私どもの罪が償われるために十字架が必要だったのかを確認しておきたいと思います。旧約聖書をお読みになるとすぐ分かりますように、神の民イスラエルは繰り返し、繰り返し、主なる神に背き、逆らっています。神は義なる神、常に正しい神です。神は人も正しくあることを求められます。しかし、人はすぐ神に背き、神に逆らってしまいます。それが罪です。主の裁きが下ると、その時は悔い改めて出直すのですが、しばらくすると、人はまた神に背くのです。それが私ども人間の真の姿なのでしょう。聖書では、義なる神と、その神に背き、逆らう人の罪がはっきりと描かれています。日本にも日本の神信仰がありますが、聖書のような、義なる神と罪を犯す人という視点とは違うようです。一方、聖書においては、神殿では常に自分たちが神に逆らった罪を赦して頂くために、動物の犠牲が捧げられました。動物とは言え、それらの大事な命を絶って、それを捧げることで、人間の罪を償って頂こうとしていたのです。それゆえ、常に動物が裂かれ、血が流されていた神殿の祭壇は生臭い臭いが漂っていたとも言われます。では、それで、人間の罪は完全に償われたのでしょか。いいえ、そのようなことはありません。なぜなら、今述べましたように、私ども人間は一端は心を入れ替えても、またすぐに神に逆らい、罪を重ねるからです。では、どうしたら良いのでしょうか。そこで、神の御独り子が、全く罪のない独り子が、十字架にお架かり下さり、貴い犠牲となって、血を流し、命を捧げてくださったのです。そのようにして、私どもが神に背き、逆らった罪、隣人を傷つけた罪、すべてを御独り子お一人で償ってくださったのです。そのように、主イエスが犠牲の捧げ物となってくださったことで、私どもは完全に赦されたのです。救われたのです。私どもが主なる神との関係を取り戻すためには、神の御独り子がそのように犠牲の捧げ物となってくださる十字架がなくてはならなかったのです。

 では、本日二つ目の聖書箇所を見てまいりましょう。主イエスが十字架で息を引き取られる場面と埋葬の場面です。46節では、こう言われていました。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」そう言われています。

 ここで主イエスがおっしゃった言葉は、詩編 第22篇の冒頭の言葉です。嘆きの歌として始まり、賛美に終わっている詩編です。ここから、主イエスは十字架の上で、ずっとこの詩編 第22篇の言葉をもって父なる神を賛美し、祈っておられたのだろうと言う人もいます。大切にしたい理解の一つです。主イエスはそのようにして、息を引き取られるその時まで、父なる神を呼び求めたのでしょう。私どももそうありたいものです。

 それと同時に、主イエスの十字架とは、まさに「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と主イエスがおっしゃるように、神に完全に見捨てられることであったことを知っておく必要があるでしょう。主イエスの十字架の苦しみ、それは極端なほどの肉体の苦痛だけではありませんでした。それだけでも、言いようのない痛み、苦しみであったでしょうが、主イエスはそれ以上に、親しい父なる神に見捨てられるという真に恐ろしい、言いようのない苦しみ、絶望を味わったのです。

 主イエスは、私どもが父なる神に背き逆らった罪を、隣人を傷つけた罪を、その全ての罪をお一人で引き受け、父なる神の審判を受けてくださったのです。それは、主イエスが詩編 第22篇の言葉に合わせて祈っておられるように、まさしく神から見捨てられるということだったのです。たぶん、主イエスによって罪償って頂いている私どもは、主イエスが私どもに代わって味わってくださったこの苦しみ、神に完全に見捨てられる絶望がどれほどのものであるかは、一生分からないでしょう。体験してくださった主イエスお一人だけが分かっておられると思います。主イエスはそのようにして、私どもの身代わりとなって、私どものすべての罪をお一人で背負って、十字架の上で償ってくださったのです。真に、感謝です。悔い改めをもって、感謝をお捧げなければならないと思います。

 さて、後半の聖書箇所の中心は、たぶん54節でしょう。こう言われています。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」そう言われています。ここでの言葉、「本当に、この人は神の子だった」は、まさに信仰告白です。この言葉を発した百人隊長や見張りの人たちが、どれほど、主イエスのことを分かっていたかは、ここからは分かりません。もしかしたら、主イエスのことをまだよく分かっていなかったかも知れません。もし、そうだとしても、「本当に、この人は神の子だった」との言葉は、貴い信仰告白の言葉です。大切なことは、彼らがここで神を恐れたことです。それは、恐怖の恐れでもあり、畏敬の畏れでもあったと思います。私どもはどれほど、神を恐(畏)れているでしょうか。恐怖の恐れと畏敬の畏れをどれだけ抱いているでしょうか。この場面で、私は自分自身にそのことが問われていると感じました。

それと同時に、「本当に、この人は神の子だった。」この言葉は、福音書記者自身の信仰告白の言葉であると思います。今回、レント、受難節に合わせて、マタイによる福音書の受難記事の言葉を聞いてきました。ですから、マタイによる福音書の初めから聞いてきた訳ではありません。しかし、福音書記者がマタイによる福音書 第1章1節から書き記し、ここまで書き記し、この場面で、百人隊長と見張りの人たちが、福音書記者自身の信仰告白を代弁してくれているという思いをもって書き記したのではないでしょうか。

 「本当に、この人は神の子だった」という言葉は、この言葉を発した人はもちろん、そのことを伝えた人、そして、書き記した福音書記者、そして、その後、福音書のこの言葉を聞いた人たち、皆の信仰告白が込められた言葉となっているのです。私どもも、本日、「本当に、この人は神の子だった」との言葉を自分自身の信仰告白の言葉としたいと思います。

 お祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主なる主イエスの父なる神よ。私どもも、主イエスを王として迎えることができますように。そして、主イエスこそ神の子、救い主と信仰を言い表すことができますように、私ども一人一人をお導き下さい。今週、受難週、主イエスの御苦みを覚え、過ごさせてください。そして、次週は、共に主のご復活をいわうことが出来ますようにお恵みください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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2017年4月16日 日本バプテスト厚木教会 復活主日礼拝

 

マタイによる福音書 第27章62節~第28章15節

 

 62 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、63 こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。64 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」65 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」66 そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。

  第28章

 1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

 11 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。12 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13 言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」15 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

 

「主イエスはここにはおられない。復活なさったのだ。」

 

 イースター、おめでとうございます。今日、みなさんとご一緒に、主イエス・キリストのご復活をお祝い出来ますことを、感謝しています。本日は、ヘブライ人への手紙 第13章20節、21節の言葉を皆さんにお送りして説教を始めます。

   20 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、21 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

今年も既に眠りにつかれた方々の写真を礼拝堂後ろに並べました。今日は主イエスのご復活をお祝いしていますが、いつの日か主が再び地上に来られる時、これらの眠りにつかれた方々も主イエスのように復活されます。今年もそのことを覚えて、主イエスのご復活を祝いたいと思います。今、眠りにつかれた方々の写真も、私どもと同じように礼拝堂正面を向いています。共に礼拝をお捧げしている思いになって、本日の礼拝をお捧げ致しましょう。 

 今年の受難節、私どもはマタイによる福音書の受難記事の言葉をご一緒に聴いてきました。そして、今日、主イエスが甦(よみがえ)られたことを知らせる記事をご一緒に聴いています。ただし、主イエスの復活を伝える記事の前後に、先ほど朗読して頂きましたような出来事があったことをマタイによる福音書は伝えているのです。前の記事は、主イエスの弟子たちが主イエスの亡骸を奪って、主イエスが復活されたのだと言いふらすかもしれないとファリサイ派の人たちが警戒したこと。そのようなでっち上げをされては困るということで、主イエスが葬られた墓に番兵を置いたことが述べられています。そして、後(あと)の記事では、弟子たちが盗んだのはなく、主イエスの亡骸が墓から無くなっていたことを番兵が祭司長たちに報告したこと。それを聞いた祭司長たちは、主イエスの復活は嘘で、主イエスの弟子たちが亡骸を盗んだことにしようとしたこと、などが述べられています。

 その記事に挟まれるようにして、マタイによる福音書は、主イエスのご復活を伝えているのです。その箇所はこういう言葉で始まっていました。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」。一週間の初めの日です。今私どもが言う日曜日です。主の日です。主イエスに従って来た女性たちは、日曜日の朝早く、それも明け方早く、主イエスが埋葬された墓に行ったのです。

 すると、大きな地震が起こったというのです。どうして、地震が起きたかというと、主なる神から遣わされた天使が天から降って来て、主イエスの墓の入り口を塞いでいた大きな石をわきへ転がしたからだというのです。そして、その天使は、その大きな石の上に座ったのです。その時の天使の姿は稲妻のように輝いていて、衣は雪のように白かったのです。さぞかし眩(まぶ)しかったに違いありません。それを見た番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになってしまったのです。すると天使は婦人たちにこう言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」天使たちはそのように婦人たちに言ったのです。その言葉を聞いた婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行ったのです。すると、なんと主イエスが行く手に立っておられるではありませんか。そして、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、主イエスの足を抱き、その前にひれ伏したのです。主イエスは言われます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」マタイによる福音書は、主イエスがご復活されたことをそのように伝えています。

 この中で、天使が弟子たちにこう伝言するように婦人たちに命じています。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」そういう伝言です。天使は、主イエスが復活されたことを伝えなさいと言ったあと、かつて、主イエスと弟子たちが伝道されたガリラヤでお会い出来ると伝えなさいと言うのです。ところが、その伝言を頼まれた婦人たちは、墓から立ち去り、走って弟子たちの所にいこうとした所で、復活された主イエスにばったり出会うのです。死んだ方が復活されるという信じ難い出来事に遭遇した婦人たちは、「恐れながらも大いに喜び」、弟子たちの所に急いでいたのですが、その喜びを一層確かなものにするかのように、復活された主イエスは婦人たちの前にお姿を現してくださったのです。これによって、婦人たちは、「私たちは復活された主イエスをこの目で見た」という喜びに溢れて、弟子たちの所へ行ったことでしょう。そして、ガリラヤに行けば、この喜びをみんなのものに出来ると興奮しながら婦人たちは天使の言葉を伝えたことでしょう。

 ここに登場する二人のマリア、マグダラのマリアともう一人のマリアは、ずっと主イエスに従ってきた女性です。主イエスに従いながら一緒に旅を続け、主イエスや弟子たちの食事などのお世話をしてきたと思われます。そのように主イエスのお側に仕えながらも、たぶんいつも男性の弟子たちの後(うしろ)に控えながら、男性の弟子たちよりも一歩も、二歩も後ろに控えて、主イエスにお仕えしていたことでしょう。しかし、主イエスが捕えられると、その弟子たちは一目散に逃げてしまったのです。第26章56節では、こう言われていました。「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」

 一方、主イエスに従って来た女性たちは、主イエスが十字架で息を引き取られ、墓に葬られる様子もずっと見守っていました。そして、本日の記事にありますように、主イエスが復活されたその知らせをまず聞いたのは、マグダラのマリアともう一人のマリアでした。しかも、復活された主イエスが最初に出会ってくださったのも、この二人のマリアだったのです。

 ある男性牧師は、「このことを、私ども男性は忘れてはならない」と言います。今日、男女共同参画社会にしようと政府が率先して行っています。ということは、まだまだ、男女平等社会になっていないということでしょう。社会において、男性は男性というだけで女性より優先されて、それを当たり前のように思ってしまう風潮が未だにある。しかし、主イエスの十字架の出来事、復活の出来事において象徴されるように、しばしば男性は肝心な時に何も出来ない。むしろ、そのような時、女性たちが主に用いられて大切な役目を担っている。ここから、男性、女性ということで、無意識の内に優劣をつけたがる男性の思い込みを、思い上がりを一掃しなければならない。「このことを、私ども男性は忘れてはならない」と言っている男性牧師はそのように言いたいのでしょう。

 さて、8節、9節でこう言われていました。「8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」そう言われています。この9節の初めに、「すると」という言葉があります。ある神学者は、この「すると」という言葉は日本語としてはこれで良いのだが、原文はもっと強い意味だと言うのです。「見よ」という意味だと言うのです。「走って行った。すると見よ」と続くと言うのです。しかも、「イエスが行く手に立っていて」との部分は、むしろ原文の味わいからすると、「主イエスが迎えに来られて」となるそうです。この時走って行く二人のマリアの頭にあったのは、こんなことを言ったら、弟子のペトロは信じてくれるだろうかとか、あの疑い深い弟子のトマスは何と言うだろうか、という事だったかもしれません。そのような思いを抱きながら走っていた二人のマリアの前に突然現れたのは、他でもない復活された主イエスだったのです。主イエスの方から、二人を出迎えてくだったのでした。

 以前使っていました口語訳聖書から今の新共同訳聖書になりまして、この時、最初に主イエスがおっしゃった言葉は「おはよう」だったと訳されるようになりました。ただし、主イエスがここでおっしゃった言葉は、しばしば「平安あれ」と訳されるヘブル語の「シャローム」という挨拶に対応するギリシア語ではなく、「喜べ」と訳すことが出来る、もう一つのギリシア語の挨拶の言葉だそうです。ですから、この挨拶は、単なる「おはよう」とか、「こんにちは」という日常の挨拶ではなく、「喜びなさい」と訳されるべき言葉だと言う人がいます。

 讃美歌 第二編の93番に「わがよろこび」という歌があります。これは、「わが喜びなるイエスよ」という有名なドイツの歌だそうです。日本語に訳すのが難しかったようですが、この讃美歌の最後の一節はドイツ語では、「悲しみよ去れ、喜びのマイスター・イエスが入って来られるゆえに」という言葉だそうです。マイスターとは、親方、師匠、先生などと訳すことが出来る言葉です。マイスターとは、昔から行われてきた徒弟制度、そしてドイツの伝統的な教育方法を背景に持つ言葉です。そこで、主イエスを「喜びの先生」、「喜びの師匠」、「喜びの親方」と呼ぶのです。私どもは主イエスから喜びを学ぶのです。どんな悲しみも去るがよい。喜びのマイスターである主イエスが今入って来られる。悲しみよ、お前のいる場所はもうない。そうように歌うそうです。

 ところで、バプテスマを受ける前に皆さんにして頂いている信仰告白をお聴きすると、皆さんそれぞれの道筋を辿って、信仰を与えられたことが分かります。しかし、そこで共通していることは、どなたも私どもに先回りして下さる主イエスの出会ったということです。本日の箇所で言えば、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と言われている主イエスに出会いうことです。また、二人のマリアが「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて」と言われている主イエスに出会うことです。この主イエスの下で、単なる挨拶の「おはよう」ではなく、「喜びなさい」とおっしゃる主イエスの下で、まさしく喜びのマイスターから、私どもは真(まこと)の喜び、永遠に変わることのない喜びを学ぶのです。

 さて、その前の6節ではこう言われていました。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」そう言われています。ここで「かねて言われていたとおり」とあります。これは、あなたがたは主イエスご自身から聞いていたではないか、ということです。三日目に甦らされると何度も言われたのです。しかし、弟子たちも女性たちもそれを信じられなかったのです。信じ切れなかったのです。それでも、そこで主イエスはそのような弟子たち、女性たちを見捨てるようなことはなさらなかったのです。まさに主イエスご自身がおっしゃっていたように主イエスは復活されたと、あなたがたが信じ切れなかったことが実現したと、天使によって告げられるのです。

 そして、7節でこう言われます。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。」

原文でここは、「あの方の弟子たち」と書かれています。また、8節で「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」と言われている中の「弟子たち」も原文では、「イエスの弟子たち」と言われています。主イエスが大切にされてきた弟子たちということでしょう。そのように、ここでは、その主イエスが大切にされていた弟子たちに告げなさいと言われ、その主イエスが大切にされていた弟子たちに知らせるために、二人は走って行ったのです。

 そして、10節に至って、復活され、マリアたちを出迎えてくださった主イエスはこうおっしゃるのです。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」そうおっしゃるのです。ここで、主イエスはご自分の弟子たちのことを、もはや「弟子」とはおっしゃらないのです。「わたしの兄弟たちに・・・言いなさい」とおっしゃるのです。親しみを込めて兄弟とおっしゃるのです。

 主イエスは、どうしてこれほどまでにご自分の弟子たちを大切にされ、親しみを込めて招いておられるのでしょうか。それは、彼らが使徒と呼ばれるようになり、初代教会の礎(いしずえ)となるからです。では、なぜその教会の礎(いしずえ)が、なぜその教会が大事なのでしょうか。それは、教会が信仰者を、救われる者を生み出すからです。ひいては、ここにいる私どもに救いを与えるからです。本日の箇所で、弟子たちが大切に言われ、ついには主イエスご自身がわたしの兄弟とまでおっしゃるように主イエスがご自分の弟子たちを大事にされたのは、結局、私どもが救われるためだったのです。なんて有り難いことでしょう。主イエスはこの時既に私どもの救いのために、すべてを備え、整えてくださっていたのです。感謝です。

 そして、主イエスが「わたしの兄弟たち」とおっしゃったことには、こういう解釈もされています。主イエスは十字架の上でこうおっしゃいました。第27章46節です。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」そう言われています。この「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とは、主イエスが最も深い罪人となってくださり、父なる神から完全に捨てられたこと、しかもそれでも、主イエスは父なる神を呼び求めておられたことを表しています。それと一緒に、この言葉は、詩編 第22編の初めの言葉でもあるのです。詩編 第22編2節ではこう言われています。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」そう言われています。まさに、主イエスは十字架の上で、この詩編 第22篇の言葉をもって、主を賛美され始めたのです。そして、ずっとその賛美は続いていて、ご復活され、マグダラのマリアたちにかけられた言葉、「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。」は、まさしく、詩編 第22篇の終わりの方の22節の言葉、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え・・・」との言葉だったと言うのです。主イエスは十字架の上で、そして、墓の中で、そして、ご復活されてマグダラのマリアたちに声をかけられた時も、詩編 第22篇を賛美なさっていた表れだと言われるのです。そのようにも解釈されているのです。主イエスご自身の信仰が伝わってくる理解です。このように、主イエスはどんな厳しい時も父なる神をほめたたえること、賛美することを止められることはなかったのです。私どもも、主イエスに倣って、どんな時も賛美の言葉を口ずさんでまいりたいと思います。

 さて、本日お祝いしています主イエスのご復活は、その前の主イエスの十字架の死と共に、私どもの信仰の中心部分、核心部分です。それだけに、主イエスのご復活を信じることは、私どもの信仰においてとても大事なのです。それは、私どもの救いにおいて大事であるということです。もし、主イエスが十字架で死んでくださらなかったら、私どもの罪は今もなお残っていたでしょう。救いへの道は閉ざされたままでした。また、主イエスがご復活してくださらなければ、私どももいつの日か復活させていただけるという希望を抱くことも、永遠に主なる神と共にいることが出来るという希望を抱くことも出来なかったのです。まさに、主イエスの十字架の死と復活ゆえに、私どもは自分自身の罪の赦しと救いと永遠の命を確信できるようにさせて頂いたのです。

 主イエスの十字架の死は、絶対死ぬことのない神と等しいお方が私どもと同じ死を死んでくださったということです。その意味で、私どもの死は決して孤独でないのです。私どもが生きる時も死ぬ時も、主イエスは共にいてくださるのです。それは私どもにとって大きな慰めとなっています。しかも、十字架の死は、私どもが経験することのない、完全な罪人の死でした。主イエスが私どもすべての罪を負ってくださったゆえに、主イエスは完全な罪人となって死んで下さったのです。それは最も深い絶望の死でした。すなわち、主イエスが私どもに代わってその死を死んでくださったゆえに、私どもはそのような償いの死を死ぬ必要がなくなったのです。これも大きな慰めです。

 しかも、主イエスは復活なさって、何よりも大きな希望の光を放ち続けてくださっているのです。かつて私どもは死に対して全く無力でした。わたくしどもは死に太刀打ち出来ませんでした。しかし、主イエスは復活して、死に勝利されたのです。しかも、主イエスはその勝利を独り占めにはなさいません。私どももその勝利に与るのです。そして、世界も主イエスの復活によって滅びを免れたのです。もし、主イエスが復活なさらなかったら、世界は滅びただろうと言われます。そうです。主イエスが死に敗北し、復活なさらなかったら、死の力は世界を覆い尽くし、希望の二文字も永遠に消え去ったことでしょう。しかし、事実は違います。主イエスは復活なさったのです。死に勝利なさったのです。希望の二文字は益々光り輝いているのです。私どもは復活の主、勝利者主、そして希望の主の下(もと)にいるのです。しかも、主イエスはこれ以上ない私どもの味方なのです。

 復活の希望に生きてまいりましょう。死と滅びの力に、主イエスから頂いた復活の信仰と希望の信仰をもって立ち向かい、それらを打ち破っていきましょう。復活の主イエスが私どもと共にいてくださいますので、恐れるものはないのです。

 もう一度申し上げます。イースターおめでとうございます。復活の希望に生かされ、復活の主に従ってまいりましょう。祈ります。

 

 復活の主、イエス・キリストの父なる神よ。御子を甦らせてくださり、私どもも復活の希望に生きさせてくだっていますことを感謝致します。どうぞ、どんな時もあなたが、そして、復活の主が側にいてくださり、私どもに希望を与えてくださることを信じて、従っていけますようお導き下さい。そして、私ども一人一人の信仰の日々をこれから益々お恵みくださいますように祈り願います。復活の主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

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2017年4月23日 日本バプテスト厚木教会 復活節第一主日礼拝

 

マタイによる福音書 第28章16~20節

 

 16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

「主イエスは世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださる。」

 

今週も、週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。フィレモンへの手紙 25節の言葉です。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」

 本日は、先週、復活主日にご一緒に聞きましたマタイによる福音書の復活記事に続く記事を与えられました。この時、主イエスは十一人の弟子たちに宣教命令を発せられ、彼らを送り出されました。こう言われています。十一人の使徒たち、自ら命を絶ってしまったイスカリオテのユダを除く十一人は、マグダラのマリアともう一人のマリアに現れた天使のお告げに従い、ガリラヤに行きました。そして、主イエスが指示しておかれた山に登ったのです。すると、そこで主イエスにお会いしたのです。弟子たちはひれ伏します。しかし、自分の目で主イエスを見ても、主イエスのご復活疑う者もいたのです。それでも、主イエスは、使徒たちに近寄って来て言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書は、主イエスのこの言葉をもって終わっています。

 

本日の記事は、マタイによる福音書の復活記事の最後の部分です。と同時に、マタイによる福音書全体の終わりの記事となっています。

 

先週の記事の中ではこう言われていました。第28章5節以下です。「5 天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」確かに、あなたがたに伝えました。』」そう言われていました。この時、天使は主イエスが復活されたことを伝えると共に、使徒たちへの伝言を婦人たち、マグダラのマリアともう一人のマリアに頼みました。今申しましたように、「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」そういう伝言です。ガリラヤに行けば、復活された主イエスにお会い出来るとのことでした。この言葉を聞いた十一人の弟子たちは、この天使の言葉に従って、ガリラヤへ行ったのです。そして、山に登って、主イエスにお会いするのです。昔から、山はそこに神が降りて来られる所、神が顕現される所とされていました。この時も主イエスは山で弟子たちの前に現れてくださったのです。弟子たちは主イエスにお会いすると、ひれ伏して拝みました。礼拝しました。

 しかし、その時、復活された主イエスを目の前に見ながらも、主イエスのご復活を疑う者もいたのです。死んだ人が復活する。常識では考えられないことです。それは。科学技術が発達した現代社会だから、ということではありません。当時から、主イエスのご復活を疑うは人は多くいたのです。それゆえ、私どもは使徒信条の中で、はっきり主イエスのご復活を信じると信仰告白するのです。

しかも、ここでは、先週聞きましたように、マタイによる福音書によりますと、主イエスが復活されたことを告げる記事の前後に、主イエスが復活された事実を隠し、弟子たちが主イエスの亡骸を奪った偽装工作が行われたことにしようという企みがあったという記事がありました。どうしても、主イエスの復活を受け入れようとしない人は、昔も今もいるのです。

 主イエスは弟子たちにおっしゃいました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」そうおっしゃいました。そもそも、権能、権威は、父なる神のものです。その権能、権威が、神の御子主イエスに授けられたのです。そこで、今度は主イエスご自身が神の権威をもって、弟子たちを派遣されるのです。福音伝道者として遣わされるのです。そして、主イエスは具体的に以下のことを指示されるのです。こうです。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」福音伝道することは、具体的にバプテスマを授けることだと言われるのです。そして、主イエスから命じられたこと、教わったことを守るように、今度はあなたがたが、教え伝える番であると、主イエスはおっしゃるのです。

 権能、権威という言葉を聞くと、マイナスのイメージを持つ方、権威という言葉に抵抗がある方がおられるでしょう。私もその一人です。それは、しばしば、神聖であるべき権威を人が自分勝手に使ってしまうからでしょう。または、権威主義と言われるように、権威を振りかざして、他の人を従わせようとすることが行われるからでしょう。しかし、権威そのものは、決して悪いものではありません。何か重要なことを命令したり、決定する場合、権威を持った方が行わなければなりません。

 世の中を動かす政治、行政、司法などは、任命され、その職務を任された者が、その立場にある者としての権威を持って、それを行います。職務を任されていない者が、何の権威、権限も持たぬ者がそれを行うことは出来なのです。

 ここで、主イエスは一切の権能を父なる神から授かっておられるとおっしゃっています。その権能、権限に基づいて、主イエスは十一人を派遣されるのです。そして、バプテスマを授けるように命じられるのです。それも父子聖霊の名によってです。このことは、実際にバプテスマ式の時に、バプテスマを授ける牧師がこの通り宣言します。父子聖霊の名によって、誰々にバプテスマを授けますと宣言するのです。そうです。バプテスマは、父なる神と子なるキリスト、そして神の霊である聖霊の名によって、その権威によって、授けられるのです。聖書にしばしば出てきますように、名、名前はその方の存在を表すと共に、その方の権威、権限をも表します。バプテスマはまさに、父なる神と子なるキリスト、そして神の霊である聖霊、すなわち、三位一体の神の権威によって、授けられるのです。バプテスマの司式者はそのことをそこに集っている会衆にはっきり宣言してバプテスマを授けるのです。そのようにして、キリスト者を生み出すのです。三位一体の神の権威、三位一体の神のお墨付きをもらって、新たにキリスト者が生まれるのです。ですから、そのように一端宣言したら、そのことを、誰かが反対しても取り消すことは出来ないのです。ですからバプテスマを受けキリスト者となった方は、三位一体の神の権威をもって、お墨付きを頂いて、キリスト者とされたことを、いつも自覚しなければなりません。それは、誰か他に人に、キリスト者であることで文句をつけられることはないということです。それは、同時に、キリスト者はキリスト者とされたことに、責任があるということでもあります。卑近な言い方で申し訳ありませんが、三位一体の神の権威、権限をもって、キリスト者とされた者は、主イエス・キリストの看板をいつも背負っているのです。その看板に相応しく歩むことが、いつも求められているのです。それはまた、自分が嫌になってしまったからと言って、勝手にキリスト者であることを止めることは出来ないということでもあります。

 主イエスが一切の権能を授かっておられるということ、父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けられるということは、そのような意味があることを、私どもは、はっきり自覚しなければなりません。

 そして、ここで弟子たちへの派遣命令は、彼らから福音を聴き、バプテスマを授けられた者たちが、今度は自分たちに向けられた派遣命令であるとして聞かれたのです。そのように、十一人の弟子たちに続く者も、その命令に忠実に従い、福音を宣べ伝え、信仰者としての証しをしてきたのです。それが今日(こんにち)までのキリスト教会の歴史なのです。キリスト者とされた者は、皆この派遣命令を自分に向けられたこととして聞き、それに従ってきました。ですから、今、私どもも、この派遣命令を自分に向けられた言葉として聞き、従ってまいりましょう。

 主イエスは最後に、こうおっしゃいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」今、私どもの目に主イエスのお姿は見えません。しかし、主イエスはご自分に代わる方として、聖霊をお送りくださいました。キリスト者とされた者は、その神の霊である聖霊を受けたのです。それは、父なる神、そして、子なる神主イエスが共にいてくださることに他なりません。主イエスは、世の終わり、再び地上に来られて、私どもの肉体の目で再び見ることが出来る時まで、そのようにして、聖霊のはたらきによって、私どもと共にいてくださるのです。

 この「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」ということは、マタイによる福音書が伝える一つの大きなメッセージであると思われます。それは、マタイによる福音書の初めの方の第1章23節の言葉、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」との天使の言葉と、本日の言葉が対(つい)になっていると思われるからです。ここで天使は言います。主イエスにはもう一つの名前があるそれは、インマヌエルであって、「神が我々と共におられる」とおう意味であると告げるのです。そして、本日の箇所で、そのインマヌエルとの名前もお持ちの主イエスがいつまでも私どもと共にいてくださると宣言してくださっているのです。

さらには、この神が私どもと共にいてくださるという事は、マタイによる福音書に限らず、聖書全体が伝える一つの重要なメッセージであると、私は思います。そこで、出エジプト記の言葉を聞いてみましょう。第3章12節では、こう言われています。「神は(モーセに)言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』」このように、主なる神はモーセにおっしゃいました。ここで主なる神は「必ずあなたと共にいる」と約束してくださいました。なぜこうおっしゃったのでしょう。その前の第3章11節の言葉も聞いてみましょう。「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』」このあと出エジプト、イスラエルの民のエジプト脱出のリーダーとしてモーセは偉大なはたらきをするのですが、主なる神に召されたこの時は、今読みましたように、真(まこと)に弱気なことを言っていたのです。私は思います。モーセにとって、「わたしは必ずあなたと共にいる。」との主の約束は、その後のモーセを支えた大切な言葉となったと。

 ところで、最近は、オリンピックだけでなく、パラリンピックにも注目が集まるようになってきました。ちなみに、私が日本バプテスト厚木教会に招聘(しょうへい)される前にいました杉並中通教会には、もう故人となられましたが、バルセロナ・パラリンピック、競泳、背泳ぎの金メダリストの方がおられました。当時、パラリンピックは余り知られていなかったので、その方の事もほとんど知られていませんでした。そのパラリンピックの種目の中に、目の不自由な方のマラソン競技があります。横に伴走して下さる方がいて、その方の持っている紐(ひも)を頼りにマラソンを走るのです。42.195キロメートルを走るということは、目が見える、見えないに係らず大変なことでしょう。その上、目が不自由ということはとても大変なことと思います。それだけに、横で走ってくれる伴走者の存在は大きいこととでしょう。そのマラソンの伴走者と同じように、主なる神、そして、御子主エスは、「わたしは必ずあなたと共にいる(出エジプト記 第3章12節)。」そして「いつもあなたがたと共にいる(マタイによる福音書 第28章20節)。」とおっしゃって、いつも私どもと共にいてくださるのです。モーセも、そして、十一人の弟子たちも、そして、十一人の弟子のあとを継いだ、今日に至るまでのキリスト者たちも、主が共にいてくださるというこの約束にどれほど力付けられたか分かりません。

そのように、主なる神は、従う者といつも一緒にいてくださるのです。それゆえ、私どもはどんなことにも恐れることなく、進んで行けるのです。信仰の道を、勇気を持って進んで行けるのです。

私どもも、これからも主なる神が、主イエスがいつも共にいてくださることを信じて、従ってまいりましょう。

お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、主イエスの父なる神よ。どうぞ、いつも私どもと共にいてください。あなたの派遣命令に従って、私どもも歩んでまいります。どうぞ、私どもの信仰の道をお恵みのお守り下さい、主のみ名によって祈ります。アーメン。

2017-4-2 説教 - 並木裕忠牧師
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2017-4-9 説教 - 並木裕忠牧師
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2017-04-16 - 並木裕忠牧師
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2017-04-23 - 並木裕忠牧師
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