2017年2月26日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

マタイによる福音書 第26章1~13節

 

 1 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。2 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、4 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。5 しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

 6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏(せっこう)の壺(つぼ)を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 

「愛する主イエスへの贈り物」

 

 今週も、週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを、感謝しています。今日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テモテへ手紙 一 第1章2節の言葉です。「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」。

 週報でお伝えしていますように、今週3月1日、水曜日は、灰の水曜日です。その日から、主イエスの十字架を覚える受難節に入ります。次週3月5日、日曜日は、受難節 第一主日となります。受難節の説明は、次週の説教の中でさせていただきます。

さて、いつも受難節には、それに合わせ、主イエスの十字架とその苦しみを覚える聖書箇所から説教致しております。今年はマタイによる福音書の受難記事の言葉にご一緒に耳を傾けてまいりたいと思っています。そこで、本日はまだ受難節に入っていませんが、本日から、マタイによる福音書の受難記事の言葉を共に聴いてまいりましょう。

 本日与えられましたマタイによる福音書 第26章は、主イエスご自身が十字架に付けられるとの弟子たちへの予告から始まっています。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」。そうおっしゃるのです。主イエスが捕えられる時がもう二日後に迫っているのです。そのことを主イエスは良くご存じなのです。しかも、逃げも隠れもなさらないのです。そもそも、ご自分から進んでエルサレムに来られたのです。なぜなら、十字架でつけられ、殺されることこそが、主イエスの救い主としての役目だったからです。本日の聖書箇所の3節、4節で言われていますように、主イエスを十字架につけることは、「祭司長たちや民の長老たち」の主イエスを亡き者とする陰謀によるものでした。当時の指導者たちによる犯罪でした。その意味で十字架は、人が神に背き続けた罪が、遂には神の御子をも殺してしまうという、人の罪の行き着く所であったと言えるでしょう。その一方で、十字架は、私どもが犯したすべての罪を、神の御子主イエス・キリストが私どもに代わって償ってくださるものだったのです。そのように、十字架は私どもの神への背きという罪で塗り固められたものであり、もう一方から見れば、十字架は、御子主イエスが私ども罪人の身代りとなってくださり、私どもを救ってくださるために無くてはならないものだったのです。ですから、私どもの救い主としての使命を全うなさろうとしてくださる主イエスは、祭司長たちや民の長老たちによって捕えられ、十字架につけられるために、御自らエルサレムに来て下さったのです。

 この箇所の言葉を聞く度に私は思い知らされます。主イエスを殺したのは、無神論者ではない。自他ともに認める信仰者たちだった。自分こそは勤勉に、しかも熱心に神を礼拝していると思っている人たちだった。そのことをいつも重く受け止めなければならないと思っています。勿論、信仰生活は不真面目ではいけないと思います。しかも、あとでも述べますように、冷めた信仰など有り得ないと思います。しかし、自他ともに認める信仰者たちが、ユダヤの指導者たちが、先頭に立って主イエスを殺した事実を決して忘れてはならないと思います。どこに、落とし穴があるか分からないのです。常に神に立ち帰ることを忘れずに、悔い改めることを忘れずに、人を非難するのでなく、人の振り見て、自分を吟味することを忘れずにまいりたいと思います。

 2節の後半で、主イエスはこうおっしゃっています。「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」。そうおっしゃっています。ここで「引き渡される」と訳されている言葉は、「裏切られる」とも訳される言葉です。主イエスは人々に裏切られ、イスカリオテのユダに裏切られ、イスカリオテのユダとは違う意味ですが、他の弟子たちからも裏切られ、捕らえられてしまうのです。

先ほども申しましたように、主イエスがそうおっしゃった頃、主イエスが予告なさったことが、主イエスを十字架につけるという陰謀が進められていました。そのことが3節以下で言われていました。ただ、5節以下でこう言われているのです。「 しかし彼ら(祭司長たちや民の長老たち)は、『民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」。そう言われています。しかし、その後、彼らにとって思いがけないことになるのです。主イエスがおっしゃるように、主イエスは「裏切られる」のです。騒ぎ出すのではと陰謀を企んでいた指導者たちが恐れていた民衆たちが、主イエスを裏切るのです。指導者たちは「しめた」と思ったに違いありません。しかし、それは先程も申しましたように、神の御子が私どもの罪を私どもに代わって償ってくださるという救いの出来事が着実に進められていたという事でもありました。

 さて、6節では、こう言われています。「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病(ひふびょう)の人シモンの家におられたとき、・・・」。そう言われています。主イエスは1節で、「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、・・」と言われています。第24章の初めの方で言われていますように、主イエスはオリーブ山で座って、長い説教を始められたのです。そして、本日の箇所である第26章1節で言われるように「これらの言葉をすべて語り終えられた」のです。その後、主イエスは都エルサレムから退いて、ベタニア村に赴かれたのです。そこには、たぶん主イエスがエルサレムに来られた時に常宿とされていたシモンの家があったのです。当時、重い皮膚病(ひふびょう)の人は、人々からは「神に捨てられた人」とのレッテルを張られていました。主イエスは人々からそのような扱いを受けていたシモンのもてなしを受けられていたのです。そのようにして、主イエスは地上のご生涯の最後の静かな時を過ごされていたのです。

そこに、一人の女性が入って来ます。7節です。「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏(せっこう)の壺(つぼ)を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた」。そう言われています。この突然の出来事に周りにいた人たちは驚いたことでしょう。そして、この女性の行為に反応するのです。8節、9節です。「8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。『なぜ、こんな無駄遣いをするのか。9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに』」。そうです。弟子たちは怒(おこ)り出すのです。「何て無駄遣いをするのか」。この女性は主イエスに精一杯のおもてなしをしたことは明らかです。極めて高価な香油を主イエスの頭に注ぎかけたのですから。たぶん、何年もかけて貯めたお金で買った香油でしょう。それを、主イエスの頭に注ぎかけるという一瞬に使ってしまったのです。その極めて高価な香油は、石膏(せっこう)の壺(つぼ)に入っていたとありますので、決して少量ではなかったでしょう。部屋中その香りで満たされたことでしょう。この女性が良かれと思ってしたその行為は、一瞬にして、弟子たちに否定されてしまったのです。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」。この言葉は、この女性への非常識なことをするという非難の言葉であると共に、この女性の行為を喜んで受けられた様子の主イエスに対する非難であったかもしれません。主イエスはこの日、エルサレムで長い説教をなさり、その中で、終わりの日に備えることの大切さを説かれると同時に、こうもおっしゃっていたのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイによる福音書 第25章40節)。」そうおっしゃっていたのです。そのように、「最も小さい者の一人にした」と言われ、貧しい者、困っている者への愛を説いておられた主イエスが、こんな無駄遣いを喜んで受けられるなんておかしいと思い、非難は主イエスにも向いていたかもしれません。他の福音書では、この時、イスカリオテのユダがこの女性を非難したと言います。もしかしたら、ユダはこの女性よりも主イエスを非難する思いを強く持ったのかもしれません。

「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」。主イエスの頭に香油を注いだ女性はこの言葉を聞いて、ひどく戸惑ったことでしょう。主イエスのために良かれと思ってして差し上げたことが、実はいけないことだったのか。私は何てことをしてしまったのか。そんな思いになっていたかもしれません。自分のしたことが浅はかなことだったのかと思い、ひどく気落ちしたかもしれません。

 しかし、主イエスは10節以下でこうおっしゃいます。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。主イエスは弟子たちの非難の言葉を一掃されるのです。「わたしに良いことをしてくれたのだ」。あなたがたが貧し人に施したいと思うのなら、いつでも出来るではないか。あなたがたがそう思うのだったら、それをわたしは止めたりはしない。すぐに貧しい人に施してやりなさい。しかし、わたしはもうすぐ去って行く。いつまでも一緒にいられるわけではない。だから、この女性はわたしに最善のことをしてくれたのだ。主イエスはそうおっしゃったのです。

 かつて、このようなことがあったそうです。キリスト教主義の学校が礼拝堂に立派なパイプオルガンを設置したのです。すると、そのようなお金があるのなら、困っている人たちのために寄付すべきではなかったと言う人があったそうです。その人の言うことはもっともなことに聞こえます。しかし、精一杯の礼拝をお捧げしようとする思いにそのようなケチをつけることは如何(いかが)なものでしょうか。そのような時、本日の主イエスのお言葉、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」とのお言葉を思い出したいと思います。

 さらに、主イエスはこうおっしゃいました。12節です。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」。主イエスはそうおっしゃったのです。ここで主イエスは「わたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」とおっしゃっています。それは、亡骸が死臭を放つことへの対策として、当時、ユダヤで行われていた、亡骸に香料を塗ることを言っています。ただ、この女性は、主イエスがもうすぐ十字架につけられることになるなどとは知らなかったでしょう。ですから、自覚に主イエスの葬りの準備をしたとは、とうてい思えません。そこから、主イエスのこのお言葉は、何よりも、この女性を思いやっての言葉であったことと思われます。また、この主イエスお言葉は、主イエスに対し最善を尽くすことは、私どもが思っているより何倍も意味のあることだということを示してくれていると思います。

 さらに、主イエスはこうおっしゃいました。13節です。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣(の)べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。そうおっしゃいました。ここで「はっきり言っておく」と主イエスはおっしいました。この言葉は、主イエスが大切なことをおっしゃる時、使われる言葉です。「この福音」とは、主イエスの十字架の救いのことでしょう。ということは、「この福音」とは、本日の箇所を含めて、これから聴いていく、主イエスの受難物語のことでもあるでしょう。これから、世界中に「この福音」が宣(の)べ伝えられ、主イエスの受難も宣べ伝えられる。その時、この女性がわたしにしてくれたことも、記念として一緒に語り伝えられるとおっしゃってくださったのです。この女性にとって何と光栄なことでしょう。この女性はこの主イエスのお言葉を聞いて、慰められたことでしょう。

 ヨハネの手紙 一 第4章10節では、こう言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。この女性は、主イエスがこれから十字架について下さることを知らなければ、その意味も知らなかったでしょう。ただ、自分が主イエスを愛する前に、主イエスが、父なる神が、こんな自分を愛して下さっていることを非常に良く知っていたに違いがありません。そのことをとても喜んでいた。そのことが嬉しくてしかたがなかった。それゆえ、今度は何とかして主イエスへの自分の愛の思いを、感謝の思いを表したかった。それが「極めて高価な香油」を主イエスに注ぐことだったのです。しかも、香油は少しずつ使うのが常識のようでしたが、この女性にとって、主イエスへの並々ならぬ思いは、そのような常識さえも忘れさせてしまうほど、強いものだったようです。

 日本基督教団の吉祥寺教会の牧師であり、東京神学大学でも教えておられた竹森満佐一師は、この箇所の説教の中でこう言っています。「信仰生活は、なりふり構ってはいられないものであります。この婦人のように、はたの人の思惑などは、全然、問題にしないものである、と思います。信仰は、余り、熱狂的にならない方がいい、と分別くさいことを言う人があります。しかし、信仰は、ただ、神のことだけを考える生活です。それならば、時としては、人間の目には愚かしいと思われることもあるにちがいありません」。そのように、竹森牧師は言うのです。そうです。主イエスはこの女性のなりふり構わぬ異様な行為を喜んで受けてくださったのです。

 また、教会改革者カルヴァンは、この箇所についてこう言っています。「この婦人は、み霊(たま)の息吹に導かれてキリストへの義務をはたさないわけにはいかなかった」。そして、20世紀を代表する神学者の一人であるティリッヒはこの箇所の説教題を「聖なる浪費」として、その中でこう語っています。「この女の浪費は計算成り立たない、勘定づくでない愛である。もともと、計算づくで人を愛するのは、愛ではない」。そう言うのです。

 それにしても、この女性をカルヴァンの言うように「キリストへの義務」に駆り立てたのも、ティリッヒのいう「聖なる浪費」をさせたのも、主イエスの溢れるほどの愛ゆえでした。

 コリントの信徒への手紙 一 第1章25節ではこう言われています。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。そうなのです。主なる神のなさることは、時として愚かに見えるのです。神は、時として弱く見えるのです。主イエスが自ら進んでユダヤの指導者たちの企みにまんまとしてやられるのです。人間的に見たら、実に愚かです。しかも、主イエスは十字架につけられるのを早められるのです。もっと遅くしようとすれば出来たのにそうなさらないのです。過越祭に合わせて、十字架につけられるのです。ある説教者はこう言っています。「主イエスは過越の祭りの代わりに新しい祭りを、小羊の血の代わりにご自身の血を、ここの置こうとしておられる」。そう言うのです。過越祭は、イスラエルの民が、エジプトから導き出されたことを、神の救いに与ったことを記念する祭りです。しかも、エジプトの長子が皆殺された神の裁きが、イスラエルの民にとっては過越されたことを祝う祭りでもあります。主イエスはその過越祭に十字架につけられることで、過越祭に新たなる意味を加えられたのです。私どもが罪から、悪から脱出して、神の救いに入れられるという奇跡を起こしてくださったのです。そのために、主イエスはご自分が十字架につけられるのを早められたのです。それは人間的に見れば、実に愚かなことです。十字架で殺される主イエスは弱く惨めに見えます。しかし、そこまでして、私どもの罪を償い、私どもを救おうとしてくださった神の愛の深さを私どもは知らなければなりません。その愛の高さ、深さ、広さゆえに、そして、一見すると神の愚かさ、弱さにしか見えない行為ゆえに、私どもは救っていただけるのです。

 私どもも、本日の箇所の女性のように、父なる神と主イエスの愛の深さに浸りたいと思います。そして、私どもの精一杯の思いを込めて、主に従い、仕えてまいりたいと思います。

 祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御子は、ただただ、私どもの救いのために、十字架に進まれました。恥も苦しみも厭(いと)わず、私どもの救いのために前進してくださいました。心より、感謝を捧げ、賛美致します。どうか、私どもも、高価な香油をお捧げした女性のように、あなたに従い、あなたに仕え、精一杯のものをお捧げしていけますよう、お導き下さい。どうぞ、さらにあなたの愛を知り、あなたをほめたたえる者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

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2017年2月19日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第20章30、31節

 

 30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

「信じて主イエスの名により命を受けよう」

 

 今週も、週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを、感謝しています。今日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 二 第3章18節の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように」。

ヨハネによる福音書の言葉をご一緒に聴き続けています。今、主イエスのご復活を伝える第20章の言葉を聴いています。本日は第20章の終わりの言葉を聴きます。この言葉は、ヨハネによる福音書の結びの言葉です。ヨハネによる福音書はこのあと第21章も続きます。しかし、一端ヨハネによる福音書はこの第20章で終わるのです。その意味で、本日の箇所は、ヨハネによる福音書の「あとがき」とも言えます。

本日の箇所はこう始まっています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」。そう言われています。ここで言われている「しるし」とは何でしょうか。まずは、主イエスがなさった癒しを中心にした奇跡を指しています。そして、それは、主イエスが人間以上の存在であることに結び付けられ、主イエスが神の子であり、メシアと呼ばれる救い主であることを指し示す「しるし」であることを言っています。ただ、ヨハネによる福音書 第4章48節では、こう言われています。「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」。そのように言われていて、「しるし」が否定的に使われています。しかし、それとは違って、本日の箇所では、肯定的に用いられています。主イエスが神の子であることを指し示す、癒しや奇跡のことを肯定的に「しるし」と呼んでいます。主イエスはそのしるしをいくつもなさってくださったのです。

さらに申せば、ここで言われている「しるし」は、前回の箇所で、主イエスがトマスにお見せになった十字架の釘の跡、痛々しい傷跡が残る手でもあるでしょう。まさに、主イエスは十字架の苦しみによって、私どもの罪を償い、私どもの救い主となってくださった「しるし」です。主イエスはそのようにして、私どもの救い主としての「しるし」をなさってくださったのです。

ところで、この30節と同様の言葉が、このあとの第21章25節、ヨハネによる福音書の最後の最後の言葉となっています。こう言われています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」。そう言われています。ある人の話では、このような「あとがき」は、当時珍しくなかったそうです。ただ、第21章25節の言葉と本日の箇所の言葉は、決して誇張ではないでしょう。私どもを愛して止まない主イエスが、この地上で、私どものためにして下さった行為、しるし、奇跡は、まさに溢れるほどあるのです。それら一つ一つは宝のようで、その中から、福音書記者は、大切に手で掬(すく)うようにして、福音書の中に入れてくれたのでしょう。ですから、一つの宝でも、それは光り輝くような主の恵みに溢れているのです。

ところで、今、私どもは新共同訳聖書を使っています。日本のプロテスタント教会とカトリック教会が共同で翻訳作業を行った聖書です。この聖書になりまして、以前使っていました口語訳聖書にはなかった「小見出し」が付きました。「小見出し」とは、聖書の各段落の前に太字で書かれたものです。これは、そもそもの聖書本文にはありませんので、聖書朗読の際には読まないことになっています。ただ、初めて聖書を読む方には良い手引きとなると思います。しかし、今、申しましたように、そもそもの聖書本文には、この「小見出し」はありませんでしたので、参考までにしておくのが適切な使い方と言えるでしょう。

そのことを弁(わきま)えて、本日の箇所の「小見出し」を見てみますと、「本書の目的」と書かれています。それは本日の箇所の後半にあたります31節で述べられていることを言っています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。そう言うのです。この書は、読んでくれるあなたがたがキリスト信仰を持ってもらうために書かれたのだ、と言うのです。その他の目的のために書かれたのではないと言うのです。ということは、この福音書は自由気ままに読んでもらっては困る。信仰に導かれるために読むものである。そのように言っているのです。ある意味、この福音書の読み方を限定しているのです。ヨハネによる福音書の編集記者が、この書をどのような目的をもって書いたかということです。どのような書物を読むにしても、まずは、著者、編者(へんしゃ)の意図をしっかり読み取ることが求められます。そこを外(はず)してしまったら、読む意義が半減してしまいます。それは、ここまで、ヨハネによる福音書を読んできた私ども、ヨハネによる福音書の言葉一つ一つを聴いてきた私どもが、ここまで正しく読んできたか、聴いてきたかと問われているということでもあります。

何冊もの神学書を書いている神学者の方がこう言っています。「自分の手元を離れてしまったものは、どんな読み方をされても、文句は言えないとも言える。しかし、自分の願った通りに内容を読み取ってくれた人がいると、その人の手を握って感謝したほどの喜びに満たされる」。そう言うのです。今、私どもが読み、聴いているヨハネによる福音書もそうなのです。ヨハネによる福音書の編集記者が、私どもを信仰に導こうとして書いたのです。私どもがそのことを分かって、「主イエスは神の子メシアであると信じて」たら、編集記者にとって、この上ない喜びなのだと思います。

 最後に、「信じてイエスの名により命を受けるためである。」と言われています。ここで言われている「信じて・・・」とは、どういうことでしょうか。本日の聖書箇所の直前、前回の聖書箇所の最後の所でこう言われていました。ヨハネによる福音書 第20章29節です。「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』」。そうおっしゃいました。この「見ないのに信じる」ということが、まさに本日の箇所で言われている「信じる」ということです。前回も申しましたように、マタイによる福音書 第5章以下の山上の説教の冒頭で、主イエスは「何々する人たちは、幸いである」と続けておっしゃいました。例えば、第5章3節以下です。「3 心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/ 4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」。そのように主イエスはおっしゃっています。そこで、主イエスは「幸いである」と繰り返しおっしゃっています。そのようにして祝福してくださっています。トマスへの主イエスの言葉、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」も、同じです。主イエスは、見なくても信じる人の幸いを宣言して、見なくても信じる人を祝福すると約束してくださっているのです。それは、見なくても信じる人となるようにと私どもをお招きくださっているということでもあります。そのように、主イエスを信じるように招かれ、見ないのに信じることが、本日の箇所でも言われている「信じる」ということです。そのように、「信じてイエスの名により命を受けなさい」と言われているのです。

では、「イエスの名により命を受ける」とは、どういうことでしょうか。主イエスが十字架にお架かり下さったことによって、私どものすべての罪が償われたと信じ、その意味で、主イエスは救い主であるとことを受け入れ、それによって、主イエスが与えてくださる永遠の命を信じること、さらには、主イエスご自身が命、永遠の命そのものであることを信じることです。

ここで言われています「主イエスの名により」という言葉を、イギリスのバプテスト教会の説教者でありましたスポルジョンは、「イエスに包まれる」と言い換えています。原語では、「ラップされる」と言っているのです。台所で使うラップです。そのように、主イエスにしっかり包んで頂き、いつまでも新鮮に保って頂くこということでしょうか。「主イエスの名により」とは、そのように私どもを包み込んでくださる主イエスによって、そのようにしてお恵みくださる主イエスによってということだと言うのです。そのような主イエスによって、私どもは真(まこと)の命を受けるのです。

ここで言われている命もそうですが、新約聖書で「命」と言われる場合、しばしばそれは、「永遠の命」のことを指(さ)します。この聖書が言う「永遠の命」とは、不老不死の命のような類(たぐい)の命ではありません。この「永遠の命」は身体的な命、心臓の鼓動による命とは区別されます。主イエスを救い主と信じることで賜(たまわ)る命のことです。「キリスト・イエスにある新しい命(ローマの信徒への手紙 第6章4節、第8章2節)」とも言えます。それは、復活されたキリストご自身の命でもあります(ローマの信徒への手紙 第8章10節、11節、コリントの信徒への手紙 一 第15章45節)。ですから、復活の命とも言えます。主イエス・キリストを救い主と信仰を告白し、バプテスマを受けたキリスト者は、この世に生きている時から、既にこの「永遠の命」に生きているのです(ヨハネによる福音書 第5章24節)。そして、決定的にこの「永遠の命」に生きるのは、肉体の復活が与えられる「終わりの日」を迎える時、すなわち、主イエスが再び地上に来られる再臨の時です(ヨハネによる福音書 第6章40節、54節)。また、ヨハネによる福音書 第17章3節では、主イエスがこうおっしゃっています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。そうおっしゃっているのです。すなわち、主なる神と主イエスのことを正しく知って、受け入れ、信じていくことそれ自体が、永遠の命である。すなわち、創造主であり、救済主である唯一の神を信じ、主イエスを神の子、そして、十字架による救い主と信じること、そうすることが既に永遠の命を生きているということなのだと言うのです。主イエスはそのように教えてくださっているのです。それは、まさに、キリスト信仰に生きることこそが「永遠の命」、「復活の命」を生きているということだ、という事です。それは、前回の箇所で、トマスが、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したように、私どもも信仰を告白し、その信仰告白から離れないように生きることこそが、「永遠の命」、「復活の命」を生きているということだとも言えるでしょう。

また、私はこう思います。「永遠の命」とは、いつまでも神が共にいくださることを約束された命と言うことも出来る。私どもを愛して止まない主なる神と主イエスがいつまでも共にいてくださることが保証された命、そのような約束を頂いた命です。ではそれは、どのようなものでしょうか。それは、子にとって、親がいつまでも共にいてくれるという、子にとって何にも換えがたい暗黙の了解のようなものではないでしょうか。そのように、主なる神からどんな時も私どもを見捨てないという保証をいただいた命、生きる時も死ぬ時も、いつも側(そば)にいてくださると約束下さる命という意味も「永遠の命」の意味の中に含まれていると、私は思っています。

 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。私は思います。ここで言われていることは、ヨハネによる福音書が書かれた目的であると同時に、新約聖書が、さらには聖書全体が書かれた目的であるとも言えるのではないか。聖霊の導きによって、聖書が証言する言葉を語った人たち、そして、それを言い伝えた人たち、さらには、それを書き記した人たち、皆、ここで言われているヨハネによる福音書の執筆目的と同じ目的をもって、聖書の言葉を私どもに伝えてくれたのだと思います。そして、書かれたものを読み聞かせた人たちも、さらには、聖書を世界各国の言葉に翻訳した人たちも、そして、聖書の言葉を説教した人たち、聖書の言葉を友だちに伝えた人たち、そのように伝道した人たちも、ここで言われている「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」との同じ目的の下に、聖書の言葉を伝え続けたのでしょう。まさしく、それは神の御心に適(かな)ったことであり、それによって、今、私どもはこのように礼拝を捧げ、私どもも、救いに、命に、招かれているのです。

 まだ、主イエス・キリストをわたしの救い主と信仰告白なさっておられない方、本日の言葉、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」との言葉を、ご自分に向かって語られている言葉として聞いて頂きたいと思います。それは、神の御心であり、日本バプテスト厚木教会の教会員一同の思いです。そして、既に信仰を告白し、バプテスマを受けておられる方々、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」という私どもの信仰の最終目的、私どもの人生の最終目的をしっかりと達成できるよう、日々、主なる神と共に、主イエスと共に歩んでまいりましょう。主の言葉をいつも大切にし、それによって、自分を省(かえり)み、もし間違っていたら、躊躇(ためら)うことなく悔い改め、主に立ち帰ってまいりましょう。それと同時に、主の言葉によって、慰められ、励まして頂き、主に従ってまいりましょう。

 祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主なる主イエスよ。そして、その主イエス・キリストの父なる神よ。いつも私どもをお導きくださっていますことを感謝致します。私どもはあなたの救いに与(あずか)っていながら、気を緩(ゆる)めると、すぐに迷える小羊のように彷徨(さまよ)い始めてしまいます。しかし、あなたはどんな時でも、そのような私どもを見捨てず、私どものことで諦(あきら)めることなく、私どもを引き戻してくださいます。心より感謝申し上げます。「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」とは、まさにあなたの御心です。どうぞ、私ども一人一人があなたの御心を受け入れ、御子主イエスの十字架の救いを受け入れ、主イエスの名により永遠の命に生きる者とさせてください。命の恵みに感謝し、あなたを賛美し、日々歩む者とさせてください。私どもの主、救い主なる主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

 

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2017年2月12日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第20章24~29節

 

 24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

「主イエスはわたしの主、わたしの神」

 

 今週も、週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを、感謝しています。今日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 二 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

ヨハネによる福音書の言葉をご一緒に聴き続けています。今、主イエスのご復活を伝える第20章の言葉を聴いています。次回、第20章の終わりの言葉を聴きます。その言葉は、ヨハネによる福音書全体の結びの言葉です。ヨハネによる福音書はそのあと第21章も続きます。しかし、一端ヨハネによる福音書は第20章で終わります。そうしますと、本日の聖書箇所が当初のヨハネによる福音書の本文の終わりとなるのです。しかも、本日の聖書箇所は復活物語の頂点であると言われますし、それだけでなく、本日の箇所がヨハネによる福音書全体の頂点であるとも言われます。すなわち、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」で始まったこの福音書は、「わたしの主、わたしの神よ」との信仰告白と「見ないのに信じる人は、幸いである。」との祝福の言葉で幕を閉じるのです。

 本日の箇所には、十二弟子の一人で、「ディディモと呼ばれるトマス」が登場します。「ディディモ」とは、双子という意味です。たぶんトマスは双子の一人だったのでしょう。ただし、この言葉を一つの象徴としても理解する人がいます。その人は言います。トマスの双子兄弟のもう一人とは、この聖書の言葉を今聞いている私ども自身であると。そう言われるとそのような気がします。弟子の中で、最後まで主イエスの復活を信じなかったトマス。しかし、それでも、主イエスに見捨てられずに、主イエスの方から会いに来てくださったトマス。そして、見なくても信じる信仰に招いていただいているトマス。まさに、それらのトマスの姿は、私どもの姿を良く映していて、私どもはトマスと双子の兄弟のような存在なのです。

 このトマス、しばしば、「疑い深いトマス」と呼ばれます。それは、本日の記事から受ける印象から、仲間の弟子たちの言葉を信じず、主イエスの復活を疑ったために、そのように言われるのでしょう。

 このトマスは、他の福音書では、十二弟子の一人として紹介されるだけです。でも、ヨハネによる福音書では、本日の箇所以外にも登場します。まず初めに、ヨハネによる福音書 第11章16節です。こう記されています。

   16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 このトマスの言葉から、トマスは勇ましい人であったと想像できますし、自分が生きていく上で、最期の死に場所を真剣に考えていたとも思われます。納得のいく死に方によって自分の人生を意義付けようとしていたのでしょう。しかし、主イエスが捕えられた時、トマスも主イエスを見捨てて逃げた弟子の一人だったのです。それは、勇ましいことを言うものの、いざとなると尻込みしてしまうトマスの双子の兄弟である私どもにも言えることかもしれません。

次にトマスが登場するのは、ヨハネによる福音書 第14章です。ここでは、主イエスが弟子たちに話されています。

   1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 この箇所から、トマスは率直な人であるという印象を受けます。こんなことを主イエスにお訊(き)きしてはいけないかな、などという思いを持たず、率直に主イエスに、自分には分からないと申し上げています。それに対して、主イエスはすぐにお応え下さり、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」との真理をお語りくださいました。この主イエスの言葉には、多くの人が励まされ続けています。私どもの道であり、真理であり、命である主イエスがいつまでも私どもと一緒にいて下さり、ついには私どもに救いを得させていただきたいと思います。その点で、主イエスがこのみ言葉をおっしゃって頂くきかっけを作ってくれたトマスに、感謝したいと思います。

 このように、トマスは、ある時は勇ましく、ある時は率直であった人のようです。ここから、トマスの人柄の一端が窺(うかが)えるのではないでしょうか。

 では、本日の箇所を見てみましょう。主イエスが復活された後のことです。ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言っても、トマスは信じません。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。そのように言い張ったのです。

なぜ、トマスはそのように答えたのでしょうか。どうして、主イエスの復活を信じられなかったのでしょうか。疑い深かったから。自分の目で見たことでないと信じなかったから。いろいろ考えられると思います。たぶん、そうであったのでしょう。ただし、聖書は、トマスが主イエスの復活を信じられなかった原因を端的に伝えています。本日の箇所の冒頭の言葉、24節の言葉です。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。そうなのです。前回、ご一緒に聞きました聖書箇所、本日の箇所の直前で、主イエスは復活なさった日の夕方、弟子たちの前に現れてくださったのです。ただし、そこにトマスはいなかったのです。どこかを彷徨(さまよ)い歩いていたのでしょうか。誰かと会うのも怖くて、一人で籠(こも)っていたのでしょうか。いずれにしろ、他の弟子たちと一緒にいなかったのです。そのため、折角(せっかく)、弟子たちの前に現れてくださった主イエスに、トマスだけお会いできなかったのです。それによって主イエスの復活を信じられず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」などと、相当強気の発言までしてしまったのです。

 このことは、信仰は一人で信じるものではないことを教えてくれます。私どもの信仰は、キリスト体なる教会、キリスト教会が受け継いできたものです。キリスト教会が受け継いできた信仰告白を私どもも受け入れ、信仰に入れられた、信仰共同体に加えられたのです。そのように信仰には、キリストの体なる教会が、信仰共同体である教会が不可欠です。共に礼拝を捧げる信仰共同体が必要なのです。教会で、兄弟姉妹と共に礼拝を捧げ、聖書のみ言葉を聴き、共に祈りを捧げ、共に賛美を捧げ、私どもは信仰を保っていくのです。時々、「私は一人で信仰を持って行けます。一人で聖書を読んで、一人で祈って、信仰を保っていきます」と言う方がいます。しかし、それでは正しい信仰を持ち続けることは出来ないのです。一人よがりな信仰に陥(おちい)ってしまうのです。トマスのように自分の考えに支配されてしまうのです。

 トマスは一時的ではあっても、弟子たちの群れから離れ、信仰共同体から、教会から離れてしまいました。そのために復活された主イエスにお会いできず、不信仰に陥(おちい)ってしまったのです。

 しかし、聖書はこう伝えています。「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」。そうです。トマスは帰って来たのです。弟子たちの群れの中に、教会に帰ってきたのです。この時、一週間前と同じように、弟子たちは一緒に家の中にいたのです。前回の箇所には、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、・・・」との言葉がありましたが、本日の箇所ではそのような事は言われていません。それでも、弟子たちはまだユダヤ人を恐れて家の中にいたのかもしれないと想像出来るでしょう。しかし、ある聖書解釈者は、そうではないと言います。ここでは、一週間前と同じようにして、そこに主イエスが、復活された主イエスが来てくださるのをトマスにも見せたかったのだ、そう言うのです。そう言われると、そのような気がします。そして、トマスが弟子たちの群れに戻って来たこと、教会に帰って来たこと、これこそがトマスが立ち直るために欠くことのできないことでした。それが復活の主イエスにお会いする機会となり、不信仰から立ち上がる何よりもの要因となるのです。

今度も戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来てくださったのです。そして、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。前回と同じように、主イエスは、弟子たちを訪れるために、どんな所にも来てくださるのです。主イエスの方から来てくださるのです。鍵をかけている部屋にでも、それと同じように、固く心を閉ざしていたトマスの心の中にも、そして、トマスと双子の兄弟である私どもの心の中にも入ってきてくださるのです。主イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイによる福音書 第28章20節)。」とおっしゃって、どんな時も、私どもを見捨てることなく、共にいてくださると約束してくださる方です。このように、不安と不信の中にいるトマスを訪ねてくださるのです。そして、「あなたがたに平和があるように」と、「シャローム」と、弟子たちに平和の宣言をしてくださったのです。「もう、心配ない、あなたがたには、平和が、平安が、既に与えられている」と宣言してくださるのです。

この時の主イエスはトマスに会うためだけにいらっしゃったと言ってもよいでしょう。今、主イエスに来ていただいて、お会いする必要が一番あったトマスのために、主イエスは、この時来てくださったのです。

私どもは、このように共に礼拝を捧げています。そして、このように礼拝を捧げる時、主はこの場にご臨在くださるのです。主ご自身がここに来てくださるのです。しかも、今、この時、主の言葉を必要としているこの私に、他でもないこの私のために、主はお語りくださるのです。

 主イエスはトマスにこう言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。ここで主イエスはトマスを叱責(しっせき)なさっていません。疑い深さを軽んじてはいません。あなたが思うようにしてみなさい、と言ってくださっているのです。主イエスは身を低くしてくださっているのです。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、真(まこと)の信仰に招いてくださっているのです。

この主イエスの言葉を聞いた時、トマスは自分が主イエスのご復活を信じないことで、その罪で、どれだけ主イエスを苦しめていたかを知ったのでしょう。主イエスは十字架の上で、私の罪を償うために苦しんでくださった。その惨(むご)たらしい傷跡、見るに忍びない傷跡を見せてくださっている。しかも、そのように苦しんでまで、わたしを救おうとしてくださった主イエスのご復活を、わたしは信じられなかった。以前、何度も復活なさるとおっしゃってくださっていたのに、この目で見るまでは信じないと言い張ってしまった。それは、さらに主イエスを苦しめることになっていたのに、それさえも私は気付かなかった。それほどまでに愚かな、罪深い自分に今トマスは気付いたのです。

ですから、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張ったトマスですが、指を釘跡に入れる必要も、手をわき腹に入れる必要もないことに気付き、自分の愚かさを強く感じたことでしょう。

 そして、トマスは答えます。「わたしの主、わたしの神よ」。これは、復活の主イエスにお会いしたトマスの信仰告白です。しかも、この一言で完結している信仰告白であり、信仰告白の真髄(しんずい)であるとも言われます。この後(のち)の教会が受け継いで行く、信仰告白の核心とも言うべきものだ、とも言われます。ここから、教会の信仰告白の歴史が始まったとも言われます。このような信仰告白が、主イエスのご復活を信じられない一番弱い弟子であったトマスによって語られたのです。ここに、主なる神の慰めに満ちた御心を思わずにいられません。

 ここで大切なのは、「わたしの」と言っていることです。信仰に生きる上で、信仰共同体である教会は欠かせません。共に礼拝を捧げ、互いのために祈り合うことが必要です。そこでは一致して、「私ども」が共にあることが肝心です。しかし、その信仰の基礎にある信仰告白は、「わたし」の信仰なのです。一人で神の前に進み出て、神と一対一で向き合うのです。そして、トマスのように、「わたしの主、わたしの神よ」と申し上げるのです。私は卑しく、罪深い人間。一方、あなたは主なる方、わたしの神、わたしを愛して止まない神、そのあなたについて行きますという宣言です。それは同時に、神と私の親しさをも表しています。詩編 第27篇 10節ではこう言われています。「父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」。そのように、主イエスは、私どもの父母、兄弟姉妹に優って、近くいてくだいます。私どもに親しく臨んでくださっています。「わたしの主、わたしの神よ」とは、その誰よりも親しく臨んでくださる神に等しい主イエスに、お応えする告白でもあるのです。

 主イエスは最後におっしゃいます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。この言葉は、聴きようによっては、復活の主イエスにお会いし、そのお姿を見たことで、復活を信じたトマスを責めているようにも聞こえます。そうなのでしょうか。私はそうは思いません。マタイによる福音書 第5章以下の山上の説教の冒頭で、主イエスは「何々する人たちは、幸いである」と続けておっしゃいました。例えば、第5章3節以下です。「3 心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/ 4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」。そのように主イエスはおっしゃっています。ここで、主イエスは「幸いである」と繰り返しおっしゃっています。私どもの考えでは、どう考えても幸いとは思えない人々に向かって、実はあなたがたは幸いなんですよ、と主イエスは呼びかけていてくださるのです。そのようにして祝福してくださっています。本日の箇所のトマスへの主イエスの言葉、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」も、同じだと思います。主イエスはここで、見なくても信じる人の幸いを宣言して、見なくても信じる人を祝福すると約束してくださっているのです。それは、見なくても信じる人となるようにと私どもをお招きくださっているということでもあります。

 弟子たちの中で一番弱かったトマスが、一番に神に用いられたのです。今申しましたように、教会の歴史に残る信仰告白をトマスは主イエスに申し上げたのです。そして、南インドにトマス教会というキリスト教会があります。トマス自身がそこまで行って伝道したと伝えられています。このことは、弱い私どもにとって、限りない慰めと励ましとなっています。復活された主イエスは、今なお罪深い私どもを、弱い私どもを、躓(つまず)きやすい私どもを救い上げてくださるのです。私どもも、主の復活を信じて、見なくても信じる信仰をいただいて、主イエスに従っていきましょう。主の前に跪(ひざまず)き、トマスのように「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白してまいりましょう。お祈りを致します。

 

 復活の主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、トマスを見捨てることなく、復活の信仰にお招きくださいました。どうぞ、双子のトマスに似て、躓(つまず)きやすい私どもを憐れみ、あなたのところに導いてください。「見ないのに信じる人は、幸いである」との御子の祝福を信じます。私どももその祝福にお招きくださっていることを感謝致します。私どもも復活信仰の道を歩ませてください。復活の恵みに与(あずか)らせてください。復活の主、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

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2017年2月5日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

使徒言行録 第12章1~17節

 

 1 そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。3 そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。4 ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。5 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。

 6 ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。7 すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。8 天使が、「帯を締め、履物(はきもの)を履(は)きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。9 それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。10 第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。11 ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」12 こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。13 門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。14 ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。15 人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。17 ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。

 

「祈る教会 ~ 教会とは何か⑰」

 

 新しい週を迎えました。今週も週の初めの日に、このように皆さんと共に礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も皆さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 一 第5章28節の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」。

 本日は、はじめにバプテスト・デーのことをお話しします。2月第一主日は、バプテスト派の日本宣教開始を記念する日で、私どもの日本バプテスト同盟では、この日をバプテスト・デーと呼んでいます。今から144年前の1873年(明治6年)2月7日、この日、ネイサン・ブラウン夫妻、ジョナサン・ゴーブル夫妻の両夫妻が、アメリカ・バプテスト宣教師同盟(ABⅯU)から派遣されて、横浜に到着したことを記念して、この2月第一主日を「バプテスト・デー」としました。この日、アメリカ・バプテスト宣教師同盟(ABⅯU)による日本伝道が開始されたのです。私どもが属しています日本バプテスト同盟の歩みは、ここから始まっています。その翌月の3月2日には、このブラウン、ゴーブル両夫妻によって、横浜に日本最初のバプテスト教会、横浜第一浸礼教会が設立されます。これは日本のプロテスタント教会では、最初の横浜海岸教会に続き、二番目に設立されたもので、現在の日本バプテスト横浜教会の前身です。

 実は、日本におけるバプテスト派の伝道開始は、それに先立つこと十数年前、1860年(万延元年)、今、申しましたジョナサン・ゴーブル夫妻がバプテスト自由伝道協会の宣教師として来日した時から始まっていました。彼らは「キリシタン禁制」の大変困難な時代に、伝道しており、1871年(明治4年)、日本国内で最初に日本語聖書「摩(ま)太(たい)福音書(ふくいんしょ)」(マタイによる福音書)を出版しました。一方、ブラウン博士は、既にビルマ・北西インドのアッサム伝道に従事していました。ブラウン博士はすぐれた言語学者で、伝道活動に従事しながら、ビルマ語訳やアッサム語訳の新約聖書を完成していたのです。1872年(明治5年)春、アメリカ・バプテスト宣教師同盟(ABⅯU)は、そのネイサン・ブラウン博士のそれまでのアジア伝道の実績に裏付けられた申し出を受け、ブラウン夫妻たちの派遣を決議しました。ブラウン博士は、来日後、日本語の聖書翻訳に没頭して、1879年(明治12年)、来日から6年後に、日本における最初の新約聖書全訳を完成しました。このように、バプテストの宣教師は日本の聖書和訳に先駆的は事業を残しつつ、伝道したのです。

そもそも、アメリカ合衆国のキリスト教会の外国宣教は、アメリカ合衆国独立後、繰り返し起こった信仰復興運動、リバイバル運動によって起こりました。その流れの中で、アメリカ合衆国の北部バプテストの日本伝道も始められたのです。ただし、日本伝道は、南北戦争で荒廃したアメリカ合衆国が立ち直る、その途上で行われた外国宣教活動の一つでした。まさに「御言を宣(の)べ伝えなさい。時が良くても悪くても、・・・(口語訳聖書 テモテへの第二の手紙 第4章2節)」との言葉の通り、アメリカ合衆国の北部バプテストのキリスト者たちは、自国の復興を進めると同時に、日本伝道を始めたのです。

私どもの信仰の先達たちが、そのように神に用いられて、日本伝道を始めたことを覚えておきたいと思います。本日、このバプテスト・デーの礼拝を、皆さんとご一緒に捧げることができますことを感謝いたします。

私どもは「教会とは何か」と副題をつけた説教を続けています。本日はその第17回です。本日のテーマは祈りです。今、私どもが捧げている礼拝の中でも捧げられる祈り、本日の礼拝の中では五回祈りが捧げられることになっていますが、その祈りが本日のテーマです。

さて、本日与えられました聖書箇所、使徒言行録 第12章は、初代教会、始まったばかりの教会が厳しい迫害にあったことを語っています。1節、2節でこう言われます。「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」。ここに出て来るヘロデ王は、主イエスがお生まれになった時にいたヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスです。父親のヘロデ大王は、自分の地位が狙われていると怯(おび)え、家族親族、側近を次々と殺した恐ろしい王です。しかも、主イエスが将来、自分の地位を脅かすのではないかと恐れ、主イエスを殺そうとしました。主イエスがお生まれになったベツレヘム周辺の男の赤ちゃんたちを皆殺しにしたのです。そして、今度は、その息子のヘロデ・アンティパスが、――彼は既にバプテスマのヨハネを殺しています――そのヘロデが、初代教会、生まれたばかりのキリスト教会の人々を迫害したのです。その中で、ヘロデは、ヨハネの兄弟ヤコブを殺させたのです。ヨハネも、この時、殺されたヨハネの兄弟ヤコブも、ガリラヤの漁師ゼベダイの息子で、彼ら自身も漁師でした。しかし、主イエスに声をかけられ、主イエスに従い、使徒と呼ばれるようになる主イエスの十二弟子に加えられたのです。このヨハネの兄弟ヤコブは、使徒たちの中で最初の殉教者となりました。初代教会では、既に、ステファノが殉教していましたから、ヤコブは二人目の殉教者でした。

 このように、生まれたばかりの初代教会は、迫害を受け、殉教者まで出る事態だったのです。それでも、ヘロデ・アンティパスによる迫害は留まるところを知りません。本日の聖書箇所、3節、4節では、こう言われています。「3 そして、(ヘロデは)それ(ヤコブを殺したこと)が、ユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。4 ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった」。そのように言われています。今度は、使徒たちの中心的存在であったペトロを捕えたのです。これにより、生まれたばかりの教会は大きなダメージを受けたでしょう。初代教会の中で指導的立場にあった、使徒ヤコブが殺され、今度は使徒ペトロが捕えられたのです。もしかしたら、ペトロも殺されてしまうかもしれません。その時、教会はどうしたでしょうか。続く5節でそのことが告げられています。「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」。そうです。教会では、ペトロのために、熱心な祈りが神に捧げられたのです。以前にも申しましたように、初代教会の頃の教会と言った場合、教会専用の建物がある訳ではなく、教会員の中で、広い家の所有者が、礼拝等(など)のために教会員皆に家を開放していたのです。その時の様子が、本日の聖書箇所の12節にも出てきます。「ペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた」。ここから、エルサレム教会の人々は、ここで言われている「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」、そこを家の教会として、集まり、礼拝を捧げ、聖餐に与り、祈りを捧げていたことが分かります。そこは、かつて、主イエスと十二弟子たちが、最後の晩餐と呼ばれる過越の食事をした家であっただろうとも言われています。そこに、大勢の人が集まって祈っていたのです。

 一方、ペトロの方は、天使の不思議な導きで、牢を出て来るのです。その時の様子が6節以下にこう書かれています。ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前の晩、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていました。番兵たちは戸口で牢を見張っていたのです。すると、突然、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らしました。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言います。すると、不思議なことに、鎖が彼の手から外れ落ちたのです。天使が、「帯を締め、履物(はきもの)を履(は)きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにします。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言ったので、ペトロは外に出てついて行きました。その時、ペトロは天使のしていることが現実のこととは思われず、幻を見ているのだと思いました。そうして、第一の衛兵所、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、またも不思議なことに門がひとりでに開いたのです。ペトロはそこを出て、通りを進んで行くと、急に天使は離れて行ったのです。その時です。ペトロは我に返ったのです。そして言います。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」そこから、ペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていたのです。

 本日の聖書箇所では、熱心な祈りを捧げていた教会の姿が描かれています。ペトロが牢獄に捕えられている間、教会の人々は祈り続けていたのです。他には手の打ちようがなかったとも言えますが、他の手を打とうなどとは、これっぽちも、考えていなかったと言うのが実際のところでしょう。神に依り頼み、祈ることが最善であると信じ、熱心に祈っていたのです。ここに心に刻んでおきたい教会の大切な姿があります。本日の聖書箇所が伝えているペトロが天使の導きで牢獄から解放されたという出来事は印象的です。しかし、この出来事の背景にありました祈り続ける教会の姿も、一度聞いたら、忘れることの出来ない出来事です。ある牧師は、教会が祈る集まりであることを抜きにして教会を語ることは出来ないと言います。教会はしばしば信仰共同体とも言われますが、祈りの共同体であることも忘れてならない事実です。私どもキリスト者は、祈りによって、共に祈ることによって、互いのために祈ることによって、共に生きるのです。

私どもの教会では、水曜日に聖書を読み祈る会を開いています。年末年始と8月はそれぞれ1カ月ほどお休みしていますが、それ以外は、ほぼ毎週水曜日に開いています。その名の通り、一緒に聖書を読み、そこから与えられたことを分かち合っています。そして、その日の祈りの課題をいくつか選び、共に祈りを捧げています。世界的に見ると、このような祈祷会、祈り会をしている所は、それほど多くないそうです。けれども、世界の教会の中で、祈ることを止めた教会というのはどこにもありません。キリスト者たちは、今も昔も、教会に集い、また、それぞれの場所で、祈り続けてきました。かつてドイツで、ヒットラーが率いるナチス政権が教会に自分たちの考えを押し付けようとした時、それに抵抗して、告白教会が生まれました。告白教会が大切にしたのが、水曜日や土曜日に教会に密かに集まり、祈るための集会をしたことだそうです。その祈りが、ヒットラー政権との闘いを支えたのだとも言われています。

教会は祈ることを止める訳にはいきません。もし、止めてしまったら、それは教会ではありません。いつも申しますように、ここに集って来る私どもは、性別も、年齢も、考え方も、性格も、趣味も、様々です。ですから、それらによっては皆が一致することは出来ません。では、何によって一致するのかと言えば、信仰と祈りによってです。共に祈ることによって、一致するのです。本日の聖書箇所のように、初代教会の人々は熱心に祈ったのです。迫害の中、祈ることを止めませんでした。教会の闘いのために祈っています。自分たちもヘロデによって、捕らえられたり、殺されるかもしれないという恐れを抱いていたでしょう。そのような中で、捕らえられているペトロのために、ひたすら祈ったのです。

教会に生きるということがどういうことか分かるのは、一緒に祈ることによってだと言う人がいます。教会の祈りの交わりに参加することで、教会に生きることが具体的に分かるようになると言うのです。そうだと思いまます。

迫害の嵐が吹き荒れる中で、エルサレム教会は全く無力でした。ヤコブが殺され、ペトロが捕えられても、何の抵抗も出来ませんでした。けれども、祈ることは出来ました。祈ることによってペトロを支えることが出来ました。どんなことよりも、最も有効なことは、祈ることであると知っていたのでしょう。なぜなら、全知全能の神に祈り願うのですから。そして、祈りに答えるかのように、光が照(て)ったのです。7節です。「主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした」のです。

エルサレム教会の人々は、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に集まりペトロのために、ペトロが解放されるように、熱心に祈っていました。そして、誰もが思ってもみない仕方で、ペトロは牢獄から解き放たれたのです。ところが、13節以下です。「(ペトロが)門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来ます。ロデは、聞こえた声がペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げます。しかし、人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言って取り合いません。ロデは、本当だと言い張るのです。すると、人々は、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出す始末です。しかし、ペトロは戸をたたき続けたので、人々が戸を開けてみると、そこにペトロがいたのです。非常に驚きます。この時、ペトロが解放されるようにと人々は熱心に祈り求めてきました。しかし、その祈りが聴かれた時、彼らは祈りが聴かれたことを信じることが出来なかったのです。これはどういう理解したらよいのでしょうか。人々はペトロのために一所懸命祈ったのです。けれども、祈りつつ、まさかあのヘロデの手からペトロが解放されるなどということはないと思っていたのかもしれません。ヤコブのように殺されると思い、諦めていたのかもしれません。このように、一所懸命祈りつつも、心の片隅では、駄目だと諦めている。そのようなことは、私どもにもあるのではないでしょうか。それは、熱心に祈っているようで、既に、祈りの熱心を失っているということなのかもしれません。私どもは問われています。あなたは、祈りが聴かれるという確信を持って祈っているのかと。確信がない祈りは、真に虚しい祈りとなってしまいます。それでも、私どもを慰めてくれるのは、本日の聖書箇所でありましたように、祈っていた者たちが深いところで確信を持てずに祈っていたとしても、すなわち、祈る者が神への確かな信頼に立てずにいても、確信が持てない不充分な状態にあっても、神は教会の祈りをお聴きくださり、答えてくださるということです。そうです。熱心に祈ったから祈りが聴かれたのではないのです。神が私どもの貧しい祈りに耳を傾けてくださったから、祈りは聴かれたのです。

私どもは、自分たちの確信によって生きるのはないのです。私どもの確信は揺らぎ、神への信頼は無くなりやすいのです。ですから、どんなに熱心に祈っているようでも、私どもの信仰も、祈りの心も不充分なのです。いや、信仰も祈りの心もないに等しいかもしれません。それでも、確かにあるのは、そのような私どもを憐れみ、導いてくださる主な神の確かさです。そのいつも変わることのない神の確かさ故に、弱く迷いやすい私どもは祈りへと励まされるのです。祈りへと導かれるのです。神の確かさを信じ、従って行きましょう。共に教会の祈りを続けましょう。

先日の教会学校では、以下のようなマタイによる福音書の山上の説教の言葉を聴きました。マタイによる福音書 第7章7節以下です。主イエスご自身の言葉です。

   7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

主イエスのこの御言葉を信じ、主イエスを父なる神を信頼して、求めて祈ってまいりましょう。

今、教会の兄弟姉妹の中に、弱っている方々が多くおられます。病気治療中の方、病気と必死に闘っておられる方がいます。水曜日の聖書を読み祈る会でも、神が御手を伸べて癒してくださるようにと何人もの方のために祈っています。しかし、私自身の祈りの言葉は貧しく、それ以上に、私自身祈りつつも、心は揺れ、なかなか神への信頼と確信に立てずに祈ってしまいます。共に祈りつつも、こんな自分がみんなの足を引っ張っているのかもしれないという思いに苛(さいな)まれます。しかし、それでも、神の憐れみ深さを信じ、神の確かさを信じ、神の御力を信じ、それだけを頼りにして、共に祈ってまいたいと思います。神は必ず私どもの祈りに耳を傾け、私どもの祈りを聴いてくださいます。いや私どもが祈り願う以上の結果を与えて下さいます。信じて祈ってまいりましょう。

共に祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。どんな時にも私どもの祈りに耳を傾け、私どもの祈りをお聴きくださる主なる神よ。私どもは、あなたに祈ることを教えられました。心より感謝申し上げます。どうぞ、あなたから与えられた祈りを大切にし、いつもあなたの確かさを信じ、祈り続けることができますように、私どもを励まし、お導き下さい。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

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