top of page

 

 

2017年12月3日 日本バプテスト厚木教会 アドベント第一主日礼拝

 

ローマの信徒への手紙 第5章1~11節

 

 1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。10 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。11 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

 

「私たちに命を与えてくださった主イエス・キリスト」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。コロサイの信徒への手紙 第4章18節の言葉です。「恵みがあなたがたと共にあるように。」

 本日から、教会の暦では、クリスマスを待つアドベントに入ります。昨日、厚木市内の五つのキリスト教会の方々と共にクリスマスの讃美歌を歌うキャロリングを行いました本厚木駅前は、クリスマス・年末に向けてのイルミネーションが綺麗に輝いていました。お家(うち)でもクリスマスの飾り付けをなさった方もあるのではないでしょうか。我が家では、先週、妻と娘たちがクリスマス・ツリーを出し、家中にクリスマスの飾りつけをしてくれました。クリスマスシーズンを迎えました。

さて、先日も申しましたように、教会の暦の一年は本日のアドベント第一主日から始まります。クリスマスを待つ、御子のご降誕の祝いの備えをすることから、教会の暦の一年は始まるのです。

また、この時期は主のご降誕を待ち望むだけでなく、初代教会における最大の関心事でありましたキリストの再臨、キリストが再びこの世界に来られることを覚え、再臨の主を待つ時とされています。すなわち、過去の歴史的事実であるキリストの降誕を記念するだけでなく、未来に向って神の国、神の支配がやがてもたらされるという希望に向って、信仰を守りつつ、その時を待つ時とされています。そもそも、この時期に限らず、普段から、そうすることが必要なのですが、特に、このアドベントの時期は、そのことを深く心に刻み、再臨の主を待ち望む時とされています。

墓から復活された主イエスは天に昇られ、神の右の座につかれました。そこで、父なる神と共に、世界を支配し、同時に、私どもの罪の執り成し、私どもの罪を赦していただけるように父なる神にお願いしてくださっているのです。その主イエスが、終わりの時に再び地上に来てくださるのです。それは、私どもの救いの完成の時であり、同時に、最後の審判の時でもあります。主イエスは、その日は突然来るとおっしゃいます。ですから、その日のために、私どもはいつ主イエスの前に呼ばれても良いようにしていなければならないのです。うつつを抜かしてはいられないのです。そのように、クリスマスを待つと同時に、再臨の主イエスを待つのが、アドベントです。静まって、良き備えをして、クリスマスを、主の再臨を、待ちたいと思います。

 クリスマスを待つアドベントに入りましたので、普段の説教はお休みしまして、神の御子主イエス・キリストのご降誕をテーマとして説教させていただきます。主イエス・キリストのご降誕の出来事は、マタイによる福音書とルカによる福音書に書かれています。今年はそれらの箇所からではなく、新約聖書後半にあります手紙と、ヨハネによる福音書から、クリスマスの意義を教えてくれている言葉をご一緒に聞いてまいりましょう。

 ところで、先程も申しましたように、クリスマスになりますとあちらこちらで綺麗なイルミネーションを見ることが出来ます。駅前、ホテル、大きな店舗の前には、クリスマス・ツリーや志向を凝らしたイルミネーションが飾られます。海外旅行のパンフレットを見ると、この時期、クリスマスの飾りつけをしたヨーロッパの都市を巡る旅が紹介されています。

 では、なぜ、これほどまでにして、クリスマスをお祝いするのでしょうか。主イエス・キリストがお生まれ下さったのはもう2000年も前なのに、何で、主イエス・キリストのご降誕を盛大に素敵な飾りつけをして祝うのでしょうか。

 その答えの一つは、クリスマスにお生まれ下さった主イエス・キリストは、神の御子だからでしょう。神の子、神である方が、人となってお生まれ下さった。これは驚くべきことで、人間の長い歴史の中で、たった一回の出来事です。だから、2000年経っても、このようにお祝いしているのだ、と言うことが出来るでしょう。

 ただ、神の御子、御独り子が人となってお生まれ下さったことは大変なことですが、それが、この私にとってどうなのかと言われれば、今申したことは誰もが納得する答えとは言えないでしょう。そのことが、この私にとって、私の人生にとってどんな意味があるのと聞かれたら、正直言って、そうだよね。あなた自身にとっては、それほど意味がないかもねとしか答えられないかもしれません。神の御子が人間としてお生まれになっても、あなたに直接関係ないかもね、としか答えらないかもしれません。

 では、クリスマスが私ども一人一人にとって重大な意味があり、それゆえ、これほど盛大にお祝いするのは、なぜでしょうか。そのことを教えてくれるのが本日与えられた聖書箇所なのです。

 本日の箇所は、こう始まっていました。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、・・・。」ここで、「このように」と言われていますように、前の第4章まで述べられたことを受けて言われています。ここでも言われていますように、第4章まででは、「信仰によって義とされる」ことが述べられていました。それは、人はどんなに頑張っても、神の前に正しい、義、正しいと認められることは出来ない。人は誰でも、悪に誘われ、神から離れてしまう。罪に染まってしまう。どんなに正しいと言われる人でも、全く正しい神の前に出たら、一人の罪人に過ぎない。そのままだと、滅びるしかない。どうしたら救われるのか。救われる唯一の道は、神の御子、主イエス・キリストが十字架で、私どもに代わって、私どもの罪を償って下さった救い主なのだから、そのことを信仰によって受け入れるしかないということです。主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって私どもの罪は赦していただけて、救っていただけるのです。それが信仰によって義とされること、信仰義認なのです。これは、キリスト教会の大切な教義、教えです。

 本日の箇所は、その信仰義認を受けての話です。そして、本日注目したいのは、6節以下です。6節です。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」そう言われています。「わたしたちがまだ弱かったころ」とは、わたしたちが弱く、サタンの誘惑に勝てずにいた頃という事です。「不信心な者のために死んでくださった」と言われている「不信心な者」とは、私どものことです。すぐに神様から信仰から離れてしまう私どものことです。そして、「死んでくださった」とは、十字架で死んでくださったということです。これが、キリストが救い主と言われる所以(ゆえん)です。主イエス・キリストは私どもの罪を私どもに代わって、十字架の上で償ってくださったのです。そこから、主イエスのことを私どもは救い主と呼ぶのです。主イエスがおられなかったら、私どもは救われなかったのです。

 そうです。クリスマスは、私ども一人一人を救ってくださる、救い主である主イエス・キリストがお生まれくださったから、特別な日なのです。大いにお祝いすべき日なのです。 私どもは、主イエス・キリストの十字架によって、罪赦され、救って頂ける。滅びから、神に捨てられることから、救われるのです。これが、キリスト教会が2000年宣(の)べ伝えてきた福音です。そこから、今年度、私どもは、年度の聖句として、詩編 第40篇14節の言葉、「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。」を頂き、標語として、「わたしの救いと愛する人の救いを祈り求めよう 」と掲げているのです。

 さて、キリスト教会のはたらきは多岐に及んでいます。また、キリスト信仰に基づく活動も様々です。教育、福祉活動、平和活動、人権活動などなどです。それらは、どれも大切なはたらきであり、貴い活動だと思います。しかし、キリスト教会のはたらきの第一は福音伝道です。言い変えれば、十字架にお掛かり下さった主イエス・キリストを救い主と信じることによって一人でも多くの人が救われるように、神の救いの業をお手伝いすることです。もし、一人一人が救われることがないとしたら、キリスト教会の多岐にわたるはたらきも、キリスト信仰に基づく様々な活動も、教育、福祉活動、平和活動、人権活動などなども虚しいものとなってしまいます。私どもの信仰において、第一のことは、この私が救われること、そして、私どもの愛する人、そして、一人でも多くの隣人が救われることなのです。

 それは、使徒信条がよく表しています。使徒信条は讃美歌566番にあります。そこでは、主イエスのことをこう言っています。「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に甦り、・・・。」そのように続きます。使徒信条の中では、主イエスがなさったことや奇跡、主イエスのお言葉については何も述べていません。それ短い中には言い切れないからだけではありません。私どもが信じる信仰の核心部分は十字架と復活だからです。十字架と復活によって、私どもは救っていただいた。そのことが、信仰の核心部分なのです。信仰告白では、何よりもそのことを告白するのです。

 本日の聖書箇所に戻りましょう。7節でこう言われています。「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。」そう言われています。

あなたにとって何が一番大切ですか聞かれて、「命」と答える方は多くおられることでしょう。キリスト者であっても、そうでなくても、私どもにとって、大切なものは自分の命です。ですから、「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。」と言われていますように、他の人のために死ぬなんことは、なかなか出来ません。ただ、とても愛に満ちた人であれば、正しい人や善良な人のために、死んでくれる人がもしかしたらあるかもしれません。なぜなら、それによって、自分の死がその人、正しい人や善良な人のためになるからです。しかし、自分の命を投げ出してまで、他の人を助けようという人はほとんどいません。ましてや、悪人のために死ぬ人などいないでしょう。極悪人のために死んでも、それは無駄死になると思われるからです。

ただ、時々、線路に転落したり、線路内に入ってしまった見ず知らずの人を命がけで助けた人の事を聞きます。そのために、助けた方が亡くなってしまう場合もあります。そのような究極の愛の行為には驚くばかりです。ヨハネによる福音書 第15章13節に、こういう主イエスの言葉があります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」今、私が申した人は、友のために命を捧げたのではなく、見ず知らずの人のために命を捧げたのです。まさに、これ以上の愛はないでしょう。しかし、それは真(まこと)に数少ないこと、希少なことです。パウロがローマの信徒への手紙で言っているように、「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれない」でしょう。

そして、8節ではこう言われます。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」そう言われています。主イエス・キリストは、私ども罪人のために死んでくださったのだと言うのです。そうです。私ども人間は、どんなに正しいと思われる人でも、真(まこと)に正しい方である神の前に出たら、皆五十歩百歩で、多少程度の差はあれ、罪にまみれた罪人なのです。ですから、そんな悪人であるということが分かっていれば、誰もそんな悪人のために死んではくれないのです。私どもの常識で言ったら、そのような死は無駄死にだからです。ところが、今読んだ8節のように、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださった」のです。これは驚くばかりです。なぜ、そんなことを主イエス・キリストはしてくださったのでしょう。続けて言われていますように、それは、「神がわたしたちに対する愛を示される」ためだったのです。

私どものような罪人のために、主イエス・キリストが身代わりになって死んでくださった。誰もしないような、無駄死にとも思えるような死を死んでくださった。罪にまみれてしまっている私どものために、そのような私どもの罪を赦そうとして、主イエス・キリストは身代わりに死んでくださったというのです。こうして、父なる神と御子主イエス・キリストの私どもに対する愛を示してくださったのです。

これは、動かし難い事実なのです。神がそこまでして、私どもを愛して下さっている、罪を赦してくださっているという事実は誰も否定できないし、変えることの出来ない事実なのです。感謝です。私どもはそれほどまでに神に、神の御子に愛されているのです。

この事実に基づいて、この手紙を書いているパウロは話を進めます。9節です。「9 それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」そういうのです。私どもはキリストが十字架で流してくださった血によって、罪赦され、もう罪人ではなく、義なる人、正しい者としていただいたのだから、正義の神が悪い者に対して怒られるその怒りから、私どもが救われることは当然のことですとパウロは確信をもって言うのです。

さらに10節です。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」そう言うのです。私どもが神に背いて罪人であったということは、言い換えれば、神の敵であったということです。私どもは神の敵だったのです。しかし、神の御子主イエス・キリストはその敵のために、死んでくださったのです。それは、神と神に背いている私どもを和解させるためだったと言うのです。そして、その和解はキリストの十字架で実現したのです。これも、動かし難い事実です。それゆえ、私どもが御子主イエス・キリストの命をいただいて、罪赦され、救われるのは当然のことだと、ここでもパウロは確信に満ちて言うのです。

そして、本日の箇所をこう結ぶのです。11節です。「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」そう言うのです。私どもがこのようにキリストの十字架によって、神の愛によって、恩寵によって、罪赦されたこと、救われたこと、この素晴らしい事実によって、私どもは神を誇りとする、神に愛され、神が共にいてくださることを誇りにすると言うのです。何よりも、神と和解させて頂いたという、動かし難い事実を頂いているから、そのように言えると言い切るのです。

 このように、主イエスは神と罪人であった私どもを和解させるために、十字架にお掛かり下さったのです。そのために、地上に、私どもの所にお生まれ下さったのです。ですから、御子のご降誕は、いよいよ、私どもの救いが実現するという何にもまして嬉しい出来事だったのです。それゆえ、2000年経っても、そして、永遠に、この日を私どもは祝うのです。

 クリスマスに向けて、ふさわしい心備えをしてまいりましょう。そして、ご一緒に賛美をもって、喜びを表し、お祝いいたしましょう。お祈りを致します。

 

 主よ、アドベント第一主日の礼拝をこのようにお捧げ出来ますことを感謝致します。あなたの御子が、あなたの敵であった私どものために十字架で死んでくださいました。信じられないほどの深い愛が、深い憐みがそこにあったことを覚えます。その御子が私どもに与えられたクリスマスを前にしています。どうぞ、あなたの深い愛を、御子の深い愛を心に刻み、クリスマスをお祝いすることができますよう、お導き下さい。私ども一人一人が心の中に御子をお迎えできますように、今この時、あなたに立ち帰らせて下さい。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

2017年12月10日 日本バプテスト厚木教会 アドベント第二主日礼拝

 

フィリピの信徒への手紙 第2章6~11節

 

 6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

「へりくだった神の御子」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 一 第1章1節の言葉です。「恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

アドベントのロウソク二本に火が灯りました。アドベント第二主日礼拝をお捧げしています。

主イエスがお生まれになられた時の様子は、マタイによる福音書とルカによる福音書が伝えています。その内のルカによる福音書の降誕記事は、賛美で溢れています。第1章47節以下にマリアの賛歌があります。第1章68節以下、新共同訳聖書には、「ザカリアの預言」という小見出しが付いていますが、これも賛歌、ザカリアの賛歌とも言えるものです。第2章に入りますと、羊飼いたちに現れた天使に天の大軍が加わって賛美しています。そして、羊飼いたちは赤ちゃんの主イエスにお会いしたあと、賛美しながら帰って行きました。

本日のこの礼拝でも、五曲賛美します。そして、クリスマス礼拝では、聖歌隊、教会学校聖歌隊も賛美してくれます。さらに、クリスマス・イブ礼拝では、もっと多くの賛美を歌います。そのよう、私どもは普段から、多くの賛美を主なる神にお捧げしています。そして、クリスマスは特に賛美に溢れていると言えるでしょう。

 このように、賛美を捧げることは、昔、旧約の時代の昔から行われていました。詩編がそうです。詩編 第4篇を見てみますと、1節でこう言われています。「指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。」このように、詩編は朗読されるのではなく、歌われていたこと、伴奏が付いて、指揮者までいて、歌われていたことが分かります。どのようなメロディーで、どのようなリズムで歌われていたかは分かりません。しかし、詩編の歌詞で賛美を捧げていたことは確かです。

 このように、旧約時代から、私どもの信仰の先輩たちも、多くの賛美を捧げてきたのです。当時も、私の愛唱詩編、愛唱賛美歌は、これこれですと言われていたのではないでしょうか。

 今は、礼拝に来られなくなってしまった永井俊子姉、お嬢さんとお嫁さんがお世話をされて、静かにお過ごしでいらっしゃるということです。そのお嬢さんがしばしば讃美歌を耳元で歌って差し上げるそうです。永井姉の讃美歌集には、ご自分の愛唱賛美歌だけでなく、親しかった方々の愛唱賛美歌も印が付けられていて、お嬢さんがそれをご覧になって歌って差し上げているそうです。そうすると、永井姉がとても喜んで小さな声で合わせて歌われるということです。今でも、しっかり歌詞を覚えていらっしゃるということです。信仰者にとって、讃美歌はなくてはならないものとなっています。

 タイタニック号の海難事故は多くの方がご存じでしょう。豪華客船タイタニック号は、処女航海中の1912年4月14日深夜、北大西洋で氷山に接触し、翌4月15日未明に沈没しました。犠牲者は1513人で、当時、最悪の海難事故であったということです。船がしだいに沈没していく時、専属のオーケストラが、今の私どもの讃美歌の320番「主よ、みもとに近づかん」を演奏したこともよく知られています。乗客たちがそれを聴いて、どれだけ慰められたか知れません。

そのように、賛美歌は、私どもの身近にあり、親しみ、時には大きな励ましを、時には大きな慰めを与えてくれています。

さて、本日はフィリピの信徒への手紙から、主イエスのご降誕の意味を聴こうとしています。この聖書箇所、実は、当時の賛美歌の歌詞であったと言われています。聖書学者たちがほぼ一致してそのように言っているのです。残念ながら、これもどのようなメロディー、どのようなリズムで歌われたかは分かりません。でも、確かに賛美歌の歌詞であったと言われています。

では、なぜ、この手紙を書いたパウロが讃美歌の歌詞をここに引用しているのでしょうか。それは、その前の第2章3節以下を読めば分かります。こう言っています。

3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

 何を行うにも、利己心や虚栄心から行うのは止めなさいとパウロは言うのです。それは大切なことです。私どもは、どうしても自分中心に物事を考えてしまいます。また、自分の利益になることに心が向いてしまいます。普段はそのことに気付きません。私自身もそうです。家族にそのことを指摘されると、つい「違う」と反論します。興奮していると、なかなか自分の非を認められません。しかし、気持ちが落ち着いて、冷静になってくると、自分の身勝手さが分かってきます。深く反省させられます。でも、またそのことを忘れて、いつの間にか、利己心に支配されていまいます。その繰り返しです。情けなくなります。

 また、つい虚栄心を張ってしまいます。どうしても、他の人に良く見られたいとの思いから、自分自身を高めるよりも、手っ取り早い方法を使って、自分を一段も、二段も良く見せようとしてしまいます。主なる神の目よりも、つい他の人の目を気にしてしまうのです。こちらも、冷静になって振り返ると、愚かだなと、自分自身に呆(あき)れるのですが、いつの間にかまた同じことをしています。自分が情けなくなります。

 それだからこそ、パウロの指摘を謙虚に受け入れることが何より必要だと思います。パウロはさらに言います。「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、・・・。」これも苦手です。つい人の欠点を他の人に言いたくなります。喉まで出て来て、ぐっと止めることはしょっちゅうです。しかし、ついポロっと言ってしまうのです。あとで後悔しても、あとの祭りです。誘惑に弱い自分に、ここでも情けなくなります。そんなことをして、他の人を落としたと思っても、自分の立場が良くなる訳でもないのに、つい、他の人を落とし、自分を優れていると見せたがってしまうのです。そうすることで、実は、自分が高められるどころか、あの人は他の人の荒探しばかりしていると、むしろ、自分を落としてしまうのに、その時はまったく気付かない自分に呆(あき)れるばかりです。

パウロは言います。「4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」ここで、パウロは自分の心や行動を改めるために、自分のことばかり考えるのでなく、他の人のことも考えるように述べ、その意味で、キリストに倣いなさいと述べるのです。

そこで、本日の聖書箇所、賛美歌にも歌われていた、キリスト賛歌を引用するのです。もう一度お読みます。6節、7節です。「6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」

主イエス・キリストは神の御子、御独り子です。犬の子が犬で、人間の子が人間であるように、神の御子は神です。主イエス・キリストは父なる神と同じく神なのです。神の身分をお持ちなのです。でも、それにこだわっていたら、人間になることは出来ません。主イエス・キリストは、私どもを救うために、私どもの所に来てくださいました。それも、私どもと同じ姿、人間と同じ者になってくださったのです。主イエスは罪を犯されなかったという点、そして、神の御子であるという点を除いて、私どもと同じ者になってくださいました。そのために、神の身分を捨てなければならなかったのです。神の身分を捨てることは大変なことです。勿体(もったい)ないことです。しかし、私どもの救い主となるため、私どもと同じ者となるために、主イエスはその尊い神の身分を捨てて下さったのです。何てありがたいことでしょう。主イエスは、それほどまでに私どもを愛してくださっていたのです。

私は思います。イザヤ書の言葉をご一緒に聴いてきて、イスラエルの人たちだけでなく、いやむしろ、この自分自身が神の前に罪深いことを、審(さば)きを受けて当然であることを、思い知らされます。主イエスは、そんな私を、私どもを救うために、まずは、私どもと同じ者になってくださったのです。罪深い私と、私どもと同じ姿になってくださったのです。聖(きよ)い神の御子が、罪にまみれた者と同じ者になってくださったのです。良い譬(たとえ)ではありませんが、お前は、ゴキブリと同じ姿になれと言われたら、「絶対ヤダ」と言うでしょう。あんな汚らわしい姿になんて絶対なりたくないと思うでしょう。しかし、神から見たら、この罪にまみれた私、私どもは、ゴキブリの汚らわしさなんて問題にならないほど、罪に汚れていることでしょう。主イエスはそのような私どもと同じ者、同じ姿になってくださったのです。真にありがたいことです。罪人の私、私どもにとって、真に勿体(もったい)ないことです。

そして、パウロはこう続けます。7節の終わりからです。「人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

神が罪人と同じ者となり、人間の姿で現れ、人間となってくださった。これこそ、まさに、キリストのご降誕の出来事です。徹底的なへりくだりです。今述べましたように、この私自身が、私どもが、最も苦手としている「へりくだり」を主イエスは徹底してくださったのです。それは、十字架の死に至るまでであったとパウロは言うのです。それは、同時に、神に従順であったということだと言うのです。この神に従順も、この私が、私どもが、最も苦手とするところです。主なる神に向かって、何か言いたいのです。素直に、神の言葉を聴けないのです。しかし、主イエスは、それをしてくださったのです。「へりくださり」「従順」でいてくださったのです。

変な言い方ですが、もし、そうでなければ、「へりくださり」「従順」でいてくださらなかったら、十字架で殺されることは出来なかったでしょう。処刑される、殺される、しかも、何も悪いことをしていないのに処刑される。不当に殺される。実に惨めです。誰も進んでそのようなことはしないでしょう。しかし、主イエスは自ら進んで、へりくだり、神の救いのご計画に従順に従い、最も惨めな死に方である十字架にお掛かりくださったのです。これによって、私どもの救いの道が出来たのです。十字架で死んでくださった主イエスを、私どもの罪を償って下さった救い主と信じることで救われる道をこうして開いてくださったのです。それまでは、罪にまもれたこの私、私どもを救う道は無かったのです。主イエスが十字架で死んでくださらなかったら、私、私どもが救われる可能性は無かったのです。主イエスが十字架で死ぬことで、そこに、確かな救いの道を開いてくださったのです。もし、主イエスがいなかったら、主イエスがへりくだってくださらなかったら、私どもは救いに絶望するしかなかったのです。そこに、確かな救いの光を照らし、救いの希望の道を主イエスは開いてくださったのです。

私の尊敬する神学教師の方は、もはや死は恐ろしくないと言われます。それは地上の死を恐れないだけでなく、神の救い、永遠の命の確信がありからでしょう。一方、ある年配の教会員の方は、自分が救われるか救われないか、今も不安だとおっしゃいました。それぞれ思いは違いますが、救いを、そして永遠の命を強く求めておられる点では同じではないかなと私は思っています。そして、その救いの前提となるのが、主イエスの十字架による救いです。十字架で死んでくださった方を救い主と信じる救い、その救いの道です。確かにその救いの道があるからこそ、救いを求めることが出来るのです。永遠の命を求めることが出来るのです。

そう思うと、主イエスのへりくだりと従順がどれほど貴いことかを思い知らされます。そのへりくださりと従順を生涯貫かれた主イエスが、お生まれくださったのが降誕祭、クリスマスです。そうです。前回も申しましたように、クリスマスの喜びは、私どもの救いの道は開かれたことの喜びなのです。私どもが救っていただけるという喜びことが、クリスマスの喜びなのです。

9節以下でパウロはこう言います。「9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

へりくだってくださった神の子、この方こそ、主、私どもの救い主であると告白し、クリスマスをお祝い致しましょう。

祈ります。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたが、御子を私どもにお与え下さいましたことを感謝致します。そして、御子がへりくだって、あなたに従順に従ったゆえに、十字架の救いの道が開かれたことを感謝致します。どうぞ、へりくだった御子がお生まれくださったこの喜びに私どもが満たされ、あなたの救いの喜びを今この時、存分味わうことが出来ますように。このアドベントの時、そして、クリスマス、私どもを救いの喜びに満たしてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2017年12月17日 日本バプテスト厚木教会 アドベント第三主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第1章1~18節

 

 1 初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。2 この言(ことば)は、初めに神と共にあった。3 万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。4 言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10 言(ことば)は世にあった。世は言(ことば)によって成ったが、世は言(ことば)を認めなかった。11 言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12 しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。14 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 

「まことの光が世に来た」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 一 第5章28節の言葉です。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

アドベントのローソク三本に火が灯りました。アドベント第三主日礼拝をお捧げしています。いよいよ次週はクリスマス礼拝をお捧げします。しかも、今年はその日の夕方に、クリスマス・イブ礼拝をお捧げすることになっています。クリスマス・イブ礼拝は、今年も一部、二部と2回行いますので、次週24日、日曜日は、ここで三つもクリスマスをお祝いする礼拝をお捧げすることになっています。どうぞ、皆さん、よろしくお願い致します。

今年のアドベントは、パウロの書簡とヨハネによる福音書の言葉から、クリスマス、主イエスのご降誕の意味を探っています。本日と次週は、ヨハネによる福音書の言葉をご一緒に聴いてまいりましょう。

本日は、ヨハネによる福音書の冒頭の言葉を頂いています。

 「1 初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」と始まります。新共同訳聖書はここで言語(げんご)の「言(げん)」という字、すなわち一言(ひとこと)の「言(こと)」という字を「ことば」と読ませています。普段は読まない読み方です。しかも、「初めに言(ことば)があった」、初めにそのなんだかよく分からない「言(ことば)」があったと言うのですから、何のことやら分かり辛(づら)く、とっつきにくく感じます。マタイによる福音書の初めに、よく知らない人の名前が続く系図があるのも、聖書をとっつきにくくさせていますが、ヨハネによる福音書も、初めて読む人を拒否しているのかとさえ思われる書き出しとなっています。

 この「言(ことば)」には、多くの意味が含まれ、かつ哲学的、信仰的に深い意味が込められています。ですから、一朝一夕で理解するのは無理だと思います。しかし、読み進めてまいりますと、この「言(ことば)」は、ある方のことを言っていることが、少しずつ分かってきます。

 まずは、すぐあとの「言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」です。神と一緒にいて、神に等しい方だと言うのです。「言(ことば)」がどなたであるかを解き明かす大きなヒントです。続いて、4節、5節で、「光」が出てきます。4節で、言と光との関係が、「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と述べられます。そして、6節では、バプテスマのヨハネが登場します。しかも、7節、8節で、バプテスマのヨハネは「光について証しをするために来た」と言われ、これも言(ことば)と光についての大きなヒントになっています。さらに、10、11、12節で、「10 言(ことば)は世にあった。世は言(ことば)によって成ったが、世は言(ことば)を認めなかった。11 言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12 しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と言われます。ここまで来ると、「言(ことば)」は、主イエス・キリストのことを言っていることがもう分かります。

 10節から11節にかけて、「世は言(ことば)を認めなかった。言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」と言われています。民の不信仰がここで言われます。今年、私どもはイザヤ書の言葉を聴いてきました。そこでも、イスラエルの民の不信仰が繰り返し言われていました。そして、それは、この私の不信仰を、私どもの不信仰を映し出していました。そして、今聴いています所でも、民の不信仰が言われています。「言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」父なる神が、御子主イエスをお送りくださったのに、民は受け入れなかったのです。旧約からの不信仰がここでも続いているのです。

その「言(ことば)」の内にある命が光と言われますが、「光」も主イエス・キリストご自身と理解できる表現が出てきます。9節です。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」ここで言われている「光」は、主イエス・キリストご自身とも読めます。本日の説教題はここから取らせて頂きました。このように、福音書記者は、「言(ことば)」と「光」という言葉、表現を用いて、主イエス・キリストがこの世に来て下さった様子とその意義を述べていくのです。

先程申しましたように、ここで言われている「言(ことば)」にはいくつもの深い意味があります。その一つが、私どもが話す言葉です。神の言葉、聖書の言葉です。私どもは正典である聖書の言葉を頂いています。削っても、書き加えてもいけない、神の言葉です。私どもの信仰は、言葉によって導かれています。時として、聖書の言葉はとっつきにくい所があります。しかし、その聖書の言葉によって、私どもは、何が神の前に正しいのか、正しくないのかを知ることが出来、それによって、正しい道に導いて頂くことが出来ます。その意味で、聖書を頂いていることをとても感謝しています。世の中の信仰の中には、キリスト教会の正典である聖書に当たるものを持たない信仰もあります。それに対して、キリスト教会は神の言葉であり、正典である、聖書の言葉、主イエス・キリストの言葉を持っています。その言葉によって、私どもは何が正しく、何が間違っているかを知ることが出来ます。その言葉によって、慰められます。励まされます。キリスト教会の信仰は、言葉による信仰なのです。神の言葉、主イエス・キリストの言葉を頂いていることを深く感謝しています。

そして、光です。主イエスがお生まれくださった当時、世界では強いことが正義でした。強い者が弱い者を征服していく。それが当たり前でした。しかし、主イエスはその中にあって、愛の光を燦然(さんぜん)と輝かせて下さったのです。しかし、世界は依然と強い者が支配していました。そして、20世紀、主イエス・キリストの愛の光を受け継いだ、マホトマ・ガンジーとキング牧師は、非暴力による運動を進めました。そして、こんにち、その光を受け継いだ人々によって、相手を責めるのではなく、相手を赦すことによって、平和を作り出す動きがいくつも現れています。主イエスの光が受け継がれているのです。

 14節の言葉は、クリスマス、御子主イエス・キリストのご降誕の出来事を述べています。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」そうです。父なる神と共におられたキリストが、肉体をとって、私どもの間に来てくださったのです。これこそ、御子ご降誕の出来事、クリスマスの出来事です。ここで、福音書記者は、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と言っています。しかし、10節、11節で、「10 言(ことば)は世にあった。世は言(ことば)によって成ったが、世は言(ことば)を認めなかった。11 言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」と言われていましたように、神に背きいていた民は、真の信仰を持ち損(そこ)なってしまった民は、「言(ことば)」である主イエス・キリストを認めなかったのです。しかし、主なる神に従順であり、主の言葉を素直に受け入れた者にとっては、福音書記者が言うように、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」のです。主イエスがご降誕くださった時、このように主イエス・キリストの栄光を見ることが出来たのは、み使いたちと、羊飼いと東から来た占星術の学者たちだけだったのです。

 ベツレヘムでは、神の御子がお生まれくださったことを誰も知らず、マリアとヨセフに宿を提供することもしなかったのです。また、ヘロデ大王と祭司長や律法学者たちは、メシア、キリストがベツレヘムでお生まれなさったことを知っても、羊飼いや占星術の学者のように礼拝を捧げに来なかったのです。まさに、10節、11節で、「10 言(ことば)は世にあった。世は言(ことば)によって成ったが、世は言(ことば)を認めなかった。11 言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」と言われていた通りでした。

 私どももこの民のようになっていないでしょうか。神の御子、主イエス・キリストが肉体をとり、わざわざ私どもの所に来てくださったように、今、私どもの傍らに来てくださっているのではないでしょうか。そして、私どもはそれに気付かなかったり、そのことを拒否し、神無しで生きようとしていないでしょうか。アドベントのこの時期、もう一度、自分自身を振り返り、悔い改め、神に立ち帰らせていただきたいと思います。

 次週、教会学校の子どもたちと一緒に礼拝を捧げます。そして、子どもたちが賛美してくれます。「クリスマス おめでとう」という歌を歌ってくれます。次週皆さんに聴いていただくのですが、その歌詞をここで紹介します。

1節 よぞらに ほしが なくっても

あなたのひとみは ほしのよう

かみさまのひかりを うけたから

クリスマス おめでとう ハレルヤ

2節 ローソクの あかりが なくっても

あなたの むねには ともしびが

かみさまの あいに ゆれたから

クリスマス おめでとう ハレルヤ

3節 なんにも プレゼント なくっても

あなたに すてきな プレゼント

かみさまが ひとりごを あたえられた

クリスマス おめでとう ハレルヤ

 4節 あなたの こころに イエスさまが

このよる おうまれなさったら

すばらしい すばらしい クリスマス

クリスマス おめでとう ハレルヤ

 こういう歌詞です。次週、子どもたちの賛美を楽しみにしていただきたいと思います。この歌はクリスマスを迎えようとしている私どもの心を導いてくれる賛美だと思います。そこで、本日、先駆けて歌詞をご紹介しました。私は特に3節、4節の言葉が心に留まっています。3節です。「なんにも プレゼント なくっても あなたに すてきな プレゼント かみさまが ひとりご あたえられた クリスマス おめでとう ハレルヤ」クリスマスは何と言っても、父なる神が、御子を私どもにくださったことを、喜びたいと思います。この喜びは、尽きることのないものです。月日が過ぎても、この喜びは決して少なくなることなく、それどころか、クリスマス、その意味を知れば知るほど、大きくなる喜びです。今、この時、その喜びを十二分に味わわせていただきましょう。そのためにも、4節で言われているように、主イエス・キリストを私ども一人一人の心にお迎えしたいと思います。素直に主イエスをお迎えできたら、4節の歌詞、「あなたの こころに イエスさまが このよる おうまれなさったら すばらしい すばらしい クリスマス クリスマス おめでとう ハレルヤ」。この歌詞のように、素敵な、素晴らしいクリスマスをお迎え出来るでしょう。

 先週の聖書箇所で、聴きましたように、主イエスはへりくだって、従順に歩まれました。アドベントのこの時、私どもの、主イエスに倣って、へりくだり、従順に、主イエスをお迎え出来たら、私ども自身が大きな祝福を頂くことが出来るのです。そのようにして、クリスマスを迎えたいと思います。

 本日の聖書箇所の最後にこう言われています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」わたくしは思います。もし、主イエス・キリストがお生まれくださらなかったら、私は、今ほど、父なる神のことを知らなかった。主イエス・キリストが人のかたちをとって、お生まれくださって、十字架におかかりくださったことで、神の愛の深さを知ることができた。もし、父なる神が、御子をお送り下さらなかったら、私はもっともっと神を知らず、神の愛を知らなかっただろう。そう思うと、神の御子が私どもの所に来て下さり、愛に溢れた神を表してくださったこと、その神の御子が私どもの所に来て下さったことを祝うクリスマスをどんなに喜んでも、喜び過ぎることはない。そう思いました。

 次週、クリスマス礼拝を捧げます。皆さんで、心を合わせ、感謝と賛美をお捧げしましょう。

 お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。御子は暗闇を照らす光として、私どもの所に来てくださいました。そして、主イエスは誰よりも、何よりも、はっきり父なる神を表してくださいました。御子主イエスによって、私どもは、愛に溢れた父なる神であるあなたのことを知ることが出来ました。感謝致します。次週、皆さんと共に、御子、救い主のお生まれを心から祝い、喜ぶことができますようお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2017年12月24日 日本バプテスト厚木教会 クリスマス礼拝

 

ヨハネによる福音書 第3章16,17節

 

 16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

 

クリスマス、おめでとうございます。アドベントの蝋燭(ろうそく)四本に火が灯(とも)りました。今日は皆さんが待ちに待ったクリスマスですね。皆でイエス様のお誕生日のお祝いをしています。そして、今年も、大人の方々と教会学校の子どもたちと一緒に、礼拝をお捧げしています。

では、いつものように、皆さんに聖書の祝福の言葉をお送りして説教を始めます。ヘブライ人への手紙 第13章20、21節の言葉です。

   20 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、 21 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

今日は初めに、最初のクリスマス、すなわちイエスさまがお生まれになった時のことをルカによる福音書に基づいて描かれた紙芝居を見て頂きます。

始まり、始まり。

ガリラヤのナザレの町に、ローマの兵隊が来て言いました。

「王様の命令です。みんな自分の先祖の町に帰って、名前を届けなさい。」

「住民登録」といって、どの町に何人の人が住んでいるか調べようとしているのです。大工のヨセフは、先祖の町ベツレヘムに行かなければなりません。ヨセフは、マリアをろばに乗せて出かけました。ナザレからベツレヘムまで、十日もかかります。もうすぐ赤ちゃんを産むマリアには、とても大変な旅行です。「マリア、大丈夫?疲れたら少し休もうね。」「ええ、大丈夫よ、もう少し頑張りましょう。」

ようやくベツレヘムに着きました。トントントン、ヨセフは宿屋の戸をたたいて言いました。「ごめんください。今晩、泊めてください。」 宿やの主人が出てきて言いました。「今夜はお客が大勢で、空いている部屋は一つもありません。」「そうですか。しかたがない。もう一軒探してみましょう。」トントントン 「今晩、泊めてください。」「おあいにくさま。満員です。」「そうですか。もう一軒探してみましょう。」トントントン 「お願いです。今晩、一晩だけでも泊めてもらえませんか。」「お気の毒ですが、どの部屋もいっぱいです。」しかたがありません。マリアとヨセフは、家畜小屋に泊めてもらうことにしました。

そこに泊まっている間に、赤ちゃんが生まれました。元気なかわいい男の子です。ヨセフは、飼い葉桶にわらを敷いて、赤ちゃんのベッドを作りました。マリアは、赤ちゃんをきれいな布でくるんで、わらのベッドに寝せました。モーッと、牛が優しく鳴きました。ろばが長い耳をぴくぴくさせながら、赤ちゃんをのぞきこみました。

   真っ暗な夜、野原で羊飼いたちが野宿をしています。一晩中羊の群れを守っているのです。ライオンや熊が羊を食べに来たら、追い払わなければなりません。羊たちは、安心して気持ちよさそうに眠っています。羊飼いたちも眠そう。一日中はたらいたので、疲れてしまったのでしょう。夜も更けた頃、突然、空が明るくなりました。羊飼いたちは、はっとして目を覚ましました。「何だ、あれは!」「あっ、天使だ!神様の御使いだ!」羊飼いたちは、腰が抜けるほどびっくりしました。御使いが言いました。「こわがらなくても大丈夫。素晴らしいことを知らせに来たのです。今日(きょう)、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。布にくるまって寝ていますよ。」それから、大勢の御使いが現れて、神様を賛美して歌いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」

 「救い主がお生まれになったんだって!」「見に行こうよ。」羊飼いたちは、大急ぎで出かけました。「救い主はどこだろう?」「」あっ、あそこの家畜小屋!」御使いが知らせてくれたとおりです。家畜小屋の飼い葉桶に、布にくるまれた赤ちゃんがねています。「なんてかわいい赤ちゃんだろう!」羊飼いたちは大喜び。マリアとヨセフに言いました。「神様の御使いが教えてくれたんです。救い主がお生まれになったって。」「うれしいね。みななにも知らせてあげよう。」羊飼いたちは、神様を賛美しながら帰って行きました。

 ベツレヘムの家畜小屋で生まれた赤ちゃん。この方が、神の独り子、イエス様なのです。 

 おしまい。

 さて、今日は、ヨハネによる福音書第3章16節と17節の言葉を頂きました。先ほど司式者に朗読して頂いた聖書箇所です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 聖書の言葉の中でも、この言葉は特に大切な言葉、ゴールデン・テキスト、「黄金の聖句(せいく)」の一つと言われています。そもそも聖書の言葉は、どれも神さまから与えられた大切な言葉、貴い言葉です。ですから、勝手に削っても、加えてもならないのです。その中にあって、特に貴い言葉とされているのが、ゴールデン・テキストです。あるローマの皇帝(こうてい)、ローマ帝国の王様が聖書の大切な言葉を金、ゴールドで壁(かべ)に書かせたということもあったそうです。そのゴールデン・テキストの中でも、代表的なものとされるのが、本日の聖書箇所の前半、ヨハネによる福音書第3章16節です。また、この言葉は、クリスマスの意義を教えてくれる言葉であるということで、本日のようにクリスマスの季節によく説教される箇所でもあります。

 今年はちょうど宗教改革500年という年でしたが、その改革の先頭に立ったことで知られるマルチン・ルターが、この言葉を「福音のミニチュア」、「小さな福音書」と言ったことでも、この箇所は知られています。この言葉に教会が伝える福音が凝縮されているのだと言うのです。彼自身この言葉を大変好んだそうで、この箇所の説教は幾つも残っているのです。さらに、この箇所を「小さな聖書」と呼んで、この言葉の中に聖書の中心的なメッセージがあると言う人もいます。

 この聖句で、今日まず耳を傾けたいのは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と言われているところです。ここでは、「一人も滅びないで」と言われています。もしここで「滅びる」と言われたら、怖くなります。「滅びる」という言葉は厳しい言葉です。しかし、ここでは、「一人も滅びないで」と言われているので、怖がることなく、安心してこの言葉を聴くことが出来ます。ただ、「一人も滅びないで」と言われている前提になっているのは、私たちは、そのままであれば、滅びるということです。そのことをよく知らないと、ここで言われていることを分かったとは言えないでしょう。

 では、ここで言われている「滅びる」ということは、どういうことでしょうか。それは、聖書が書かれたギリシア語に遡りますと見えてきます。その一つが、「失われた存在」になるということです。神の下から離れて、神さまから失われてしまうことを言っているのです。神さまが私たちを見失ってしまうこと、無くしてしまうということです。そのことがイエスさまの譬で言われているのが、ルカによる福音書 第15章です。こういう譬です。百匹の羊のうちの一匹が迷い出てしまいます。羊飼いが大切な一匹の羊を見失ってしまうのです。羊飼いがそれを見つけ出し大喜びする話が、まずあります。それに続いて、ある女性が十枚の銀貨のうち一枚を無くしてしまうのです。女性は一所懸命探して見つけ出し喜んだ話が、次にあります。最後に、一人の息子が父親に自分が受け継ぐ財産を要求し、それを持って家を出たものの、放蕩(ほうとう)に身を持ち崩したあげく、ようやく父親の下に帰ってくる話です。帰って来ると、父親は叱るどころか、大いに喜び、歓迎の宴会を開いたというのです。いなくなっていた息子が見つかったと喜ぶのです。このように、見失う、無くなる事、神さまがこの私を見失うこと、神さまの下(もと)からいなくなることが、滅びることなのです。神さまに背(そむ)いて、神さまから離れ、神さまの下から失わることです。滅びるということは、このように、失ってしまうこと、いなくなってしまうことです。そのような滅びを表す言葉が、「独り子を信じる者が一人も滅(ほろ)びないで」というところに使われているのです。

 私ごとになりますが、40年前、私の父は亡くなりました。病気でしたが、突然のことでした。心の中に大きな穴が空(あ)いてしまったような思いがしました。他のものでは埋められない大きな穴がぽかんと空(あ)いたような感じでした。同じように、大切な家族を失われた方が、同じことをおっしゃっていているのを聞きました。大切な人を失うということは、皆同じ思いなのだと、つくづく思いました。

 本日のヨハネによる福音書の言葉において、一人が滅びるということは、神さまが私たちの一人を失うことです。私たちを愛して止まない神さまは私たちを失いたくないといつもお思いになっておられるのです。その一人がいなくなることです。神さまはどれほど悲しまれることでしょう。その愛に満ちた神さまに比べたら、私たち人間は愛することの少ない者です。それでも、私たちは家族や親しい友人という大切な人が亡くなると大きな悲しみに打ちひしがれます。ですから、愛に満ちた神さまにとって、神さまに愛されている私たちが滅んでしまうこと、見失うこと、失われることは、神さまにとって耐えがたいことなのです。

 ここで言われている「独り子を信じる者」とは、神の独り子、イエスさまこそが私の救い主と信じる人のことです。「独り子を信じる者が一人も滅びないように」とは、イエスさまを救い主と信じる人が滅びないように、神さまから見失われないようにしてくださるということです。私たちの救いはそこにあるのです。イエスさまを救い主として受け入れるだけで、滅びを免れ、救いに入れられるように、神さまがしてくださるのです。真に有難いことです。

 その「独り子を信じる者が一人も滅びないで」という言葉に続いて、「永遠の命を得るためである」と言われています。では、ここで言われている「永遠の命」とはどういう命でしょうか。これは、イエスさまにある新しい命(ローマの信徒への手紙 第6章4節ほか)のことです。それはイエスさまを救い主と信じて、バプテスマを受けることによって始まる命です。それは、父なる神さまのふところに抱(いだ)かれて生きることでもあります。もう神さまから失われないということです。永遠に神と共にあるということです。ただし、それはいつまでも地上で続く命ではありません。終わりの日に復活に与(あず)かる命、甦(よみがえ)りを約束された命なのです(ヨハネによる福音書 第6章40節)。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と、言われています。その愛によって、今、見てきましたように、御子イエスさまを信じる者が一人も滅びず、いつまでも神さまの下にいられる永遠の命を頂けるのです。この部分は柳生(やぎゅう)訳(やく)、関東学院大学の教授、学院長をされた英文学者の柳生(やぎゅう)直行(なおゆき)先生の訳では、こうなっています。「神はこの世を愛するあまり、その独り子をさえも贈って下さった」。そう訳されています。私たちは、ここに神さまの愛の大きさを教えられます。

 先週、幼稚園のクリスマス礼拝・祝会が、学年ごとに三日連続で行われました。お母さん、お父さんが成長したお子さんを優しく見つめる姿に、微笑(ほほえ)ましいものを感じました。親の子どもへの愛情は、何よりも強いものだと言われます。確かにそうだと思います。しかし、先ほども申しましたように、愛することの少ない私たち人間は、愛に満ちた神さまの愛には比べものになりません。ですから、神さまが独り子イエスさまを深く愛されていたことは、私たちの想像も及ばないでしょう。それでも、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。「神はこの世を愛するあまり、その独り子をさえも贈(おく)って下さった」のです。神さまは愛する独り子さえも、私たちのためにくださったのです。ここで、「世」と言われているのは、私たちの世です。私たち自身です。神さまに背き、神を悲しませ続けている私たちです。そのような私たちのために、神さまは愛する独り子イエスさまを私たちにプレゼントしてくださったのです。それほどまでに、神さまは私たちを愛しておられるのです。なぜなら、私たちが滅びること、失われることに、神さまはどうしても耐えられなかったのです。

 今日(きょう)はクリスマスの出来事、神さまが独り子イエスさまを私たちへの贈り物としてくださったことを喜び、お祝いしています。ただし、神さまがイエスさまを私どもにお贈りくださったのは、イエスさまが十字架にかかって、私たちの罪の赦しのために死んでくださるためでした。私たちが滅びないためには、私たちが神から失われないためには、イエスさまが十字架で死ぬという大きな代償を支払わなければならなかったのです。神さまはそれだけの代償をお支払いくださったってまでして、私たちが滅びないように、私たちを失わないようにしてくださったのです。そのようにして、私たちは滅びを免れ、救われたのです。

 先程紹介しました教会改革者ルターは、毎日、本日の聖書の言葉を思い出し、悔い改め、神に立ち帰るように心がけなさい、と呼びかけたということです。神さまが大きな代償を支払ってまでして私たちにお贈りくだった救いです。この貴い救いを失ってしまったら、救いをくださった神さまとイエスさまに申し訳ありませんし、これほど勿体ないことはありません。せっかくの神さまの深い愛を無駄(むだ)にしてはならないのです。

 クリスマス、それは神さまが愛を込めて私どもに主イエスを贈り物としてくださった記念の日です。神さまがそこまで私どもを愛してくださっていることが明らかになった日です。最後に、先ほど紹介しました柳生訳で本日の箇所全部をご紹介いたします。「神はこの世を愛するあまり、その独り子をさえも贈って下さった。だから、御子を信ずる者は一人も滅びず、永遠の生命をいただくことができるのであり、それが神の思し召しなのである。神が御子(みこ)をこの世につかわしたもうたのは、この世を裁くためではなく、御子(みこ)を通してこれを救(すく)うためである」。そのように言われています。

 これからも、神さまの大きな愛に感謝し、共に礼拝を捧げ、救(すく)い主イエスさまに従ってまいりましょう。お祈りをいたします。

 

 イエスさまのお父さまである神さま。本日このように、クリスマス礼拝をお捧げできますお恵みを感謝いたします。クリスマスの出来事を通して、神さまの深い愛を知らせていただきました。私たちをそこまで愛してくださっていることに感謝の言葉は尽きません。どうか、私たちがいつもあなたの愛を忘れず、あなたの救いをしっかり頂くことが出来るよう、いつも守りお導きください。神の御子、救い主イエスさまのお名前によって、祈ります。アーメン。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2017年12月31日 日本バプテスト厚木教会 歳晩礼拝

 

イザヤ書 第10章 5~19節

 

 5 災いだ、わたしの怒りの鞭(むち)となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。 6 神を無視する国に向かって/わたしはそれを遣わし/わたしの激怒をかった民に対して、それに命じる。「戦利品を取り、略奪品を取れ/野の土のように彼を踏みにじれ」と。7 しかし、彼はそのように策を立てず/その心はそのように計らおうとしなかった。その心にあるのはむしろ滅ぼし尽くすこと/多くの国を断ち尽くすこと。8 彼は言う。「王たちは、すべて、わたしの役人ではないか。9 カルノはカルケミシュと同じではないか/ハマトは必ずアルパドのようになり/サマリアは必ずダマスコのようになる。10 偶像を持つ国々/エルサレムにも/サマリアにもまさる像を持つ国々を/既に手中に納めたように 11 そして、サマリアとその偶像にしたように/わたしは必ずエルサレムと/その彫像に対して行う。」12 主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる。13 なぜならアッシリアの王は言った。「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い/彼らの蓄えた物を略奪し/力ある者と共に住民たちを引きずり落とした。14 わたしの手は、鳥の巣を奪うように/諸民族の富に伸びた。置き去られた卵をかき集めるように/わたしは全世界をかき集めた。そのとき、翼を動かす者はなく/くちばしを開いて鳴く者もなかった。」15 斧(おの)がそれを振るう者に対して自分を誇り/のこぎりがそれを使う者に向かって/高ぶることができるだろうか。それは、鞭(むち)が自分を振り上げる者を動かし/杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。16 それゆえ、万軍の主なる神は/太った者の中に衰弱を送り/主の栄光の下に炎を燃え上がらせ/火のように燃えさせられる。17 イスラエルの光である方は火となり/聖なる方は炎となって/一日のうちに茨とおどろを焼き尽くされる。18 森も牧場も魂から肉まで焼き尽くされ/くずおれて、倒れる。19 森に残る木は数少なく/幼子でもそれを書き留めうる。

 

 

ルカによる福音書 第12章 13~21節

 

13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 

使徒言行録 第12章 20~23節

 

20 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆(うじ)に食い荒らされて息絶えた。

 

「驕(おご)った心の結ぶ実を主なる神は罰せられる」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。コロサイの信徒への手紙 第4章18節の言葉です。「恵みがあなたがたと共にあるように。」

 お祈りでも申しましたように、先週、林伸晃兄が主のもとに召されました。苦しく辛い中、必死に闘病されていましたが、その甲斐なく、主のもとへ旅立たれました。兄は長年、教会のために、いろいろなはたらきを担ってくださいました。しかし、そのことを決して誇らず、遜って主のため、教会のため、私どものために仕えてくださいました。

昨日、ここで、林伸晃兄のご葬儀を執り行いました。

 昨日の葬儀には、職場の同僚であった先生や生徒の方々が大勢参列してくださいました。式の中で、また、それ以外でも、林兄の思い出をお聞きすることが出来ました。多くの方が兄の優しい人柄に接し、そのことが強く印象に残っていることが分かりました。

 兄のお母様はじめ、奥様、ご家族皆さまに主のお慰めがありますよう、お祈り下さい。

思うに、今年、私どもは大塚専三兄を主のもとにお送りし、そして、年の瀬に、林伸晃兄を主のもとにお送りしました。お二人とも、その人柄から、多くの方から好意をもたれていました。決して尊大な態度をとることなく、子どもから年配者まで誰にでも、優しくしておられた方々でした。今年、私どもは大きなものを失ってしまいました。しかし、お二人とも、今は、信仰の諸先輩と共に、主の下(もと)におられることと思います。主がお二人を愛され、お近くに呼ばれたのかなとも思います。主が、お二人に地上で良くやったとおっしゃって、その労をねぎらっておらえることと思います。

 さて、アドベントとクリスマスには、それに関連した聖書箇所のみ言葉をご一緒に聴いてまいりました。明日1月1日は、既に申しましたように、主イエスが割礼を受けられ、イエスと名付けられた命名日です。そして、1月6日が占星術の学者たちが主イエスの所に来ました公現日、顕現日です。ですから、そこまでクリスマスシーズンは続いています。ですが、本日は前から続けて聴いていますイザヤ書の言葉を引き続きご一緒に聴いてまいりたいと思います。

本日は、イザヤ書 第10章5節後半以下の聖書箇所を与えられています。冒頭に「アッシリアの傲慢」という小見出しがついています。アッシリアと言えば、北イスラエル王国を滅ぼし、住民たちを捕囚するのです。それは、人間的な目で見れば、アッシリアが軍事力で優って北イスラエル王国を圧倒したのです。しかし、既に聴いてきましたように、実は、主なる神が、神に聞き従わない北イスラエル王国の王と民に審きを下すために、アッシリアを用いられたのです。アッシリアが主なる神の道具であることは、5節の言葉、「わたしの怒りの鞭(むち)となるアッシリアは。彼はわたしの手にある憤りの杖だ。」との言葉から分かります。しかし、そのように主なる神が用いようとされたアッシリアですが、彼らは主なる神が命じられたようには従わないのです。そのことが、7節で言われています。「しかし、彼はそのように策を立てず/その心はそのように計らおうとしなかった。」北イスラエル王国も、アッシリアも、神に従わないのです。その結果が12節で言われます。「主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる。」そう言われています。主なる神は、神に従わない北イスラエル王国と南ユダ王国に審(さば)きを下し、国を滅ぼされるのです。そして、それが終わったら、今度はアッシリアに審(さば)きを下されるのです。「アッシリアの王の驕(おご)った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる」のです。本日の説教題はここから取らせていただきました。あくまでも神の道具であるアッシリアです。神が用いてくださるのであって、自分たちの考えや思いで動いてはならないのです。それが傲慢であり、驕った心なのです。

人は何か人より優れた点があると、そこを自慢したくなります。他の人にそこを見てもらいたくなります。そして、褒めてもらいたくなります。昔も、今もそれは変わりないのでしょう。そして、本日の箇所で言われているように、個人だけでなく、組織、国家もそうようになってしまうのです。そして、そのようになる者を、主なる神は罰せられるのです。

自分の才能などを賜物と言う場合があります。それらは、そもそも自分のものではなかった。神から、天から賜ったものである。そういう考え方です。そもそも命が神から賜ったもの、賜物です。私どものものは何もなく、すべて神から賜ったものです。そうであれば、自分の才能なども自慢するのは可笑しなことで、優れた才能については神がほめたたえられるべきなのです。確かに人間的に見れば、どんな才能も、その人が必死に磨いて初めて輝き出すものでしょう。イザヤ書で言われているアッシリアも神の道具となるように国を強くしたのは、王や国民の業によるところが大きかったと思います。しかし、聖書が示してくれているように、物事の真理を知るには、人間的な目だけでなく、神の視点から見ること、すなわち、聖書が言っている視点で見ることが必要なのです。

ですから、アッシリアの傲慢は神の目から見れば、間違っていることです。わたくしどもは、これを反面教師として、そこから学ばなければならないと思います。

本日、他に、ルカによる福音書の言葉と、使徒言行録の言葉を与えられています。

まず、使徒言行録をみてみましょう。こう言われています。ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けたのです。どうも人々は王を敵に回すことは得策でないと判断し、王をおだてたようです。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒したのです。聖書はその理由をこう言います。「神に栄光を帰さなかったからである。」そう言うのです。この記事の前の出来事も読むと、ヘロデ王がとても傲慢であったことが分かります。誰でも王という地位に登ると、高慢になりやすくなってしまうようです。そして、神に栄光を帰すことをコロッと忘れてしまうのです。

さて、ルカによる福音書の譬え話に登場する人は、ある意味、堅実な人です。現代であれば、良き経営者、成功者と言えるでしょう。多くの人は、そのようになるために、人知れず、陰の努力、苦労をしてきます。これはあくまで譬え話ですが、彼もそうであったでしょう。その点では、人々から賞賛されても可笑しくなかったと思われます。

しかし、終わりの2節、20節と21節でこう言われているのです。「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」そう言われているのです。彼は、ヘロデのように傲慢には見えません。しかし、彼も、神に栄光を帰すことを忘れ、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならなかった」のです。その意味では、傲慢で、神の前に驕(おご)っていたと言えるでしょう。

本日、初めに申しましたように、今年、大塚専三兄と林伸晃兄を私どもは主のもとにお送りしました。お二人とも、私どもと同じ人間です。ですから、弱点、欠点を挙げれば、いくつもあるでしょう。そして、お二人とも、奥様の愛情と支えあったからこそ、良きはたらきが出来たのだと思います。これは私が言える分際ではありませんが、大塚専三兄も、林伸晃兄も、相当奥様に甘えていらしたと思います。そのような夫を支えてくれていた奥様があったからこそ、お二人とも、皆さんから好意を抱かれるはたらきができたのだと思います。

それにしても、先ほども申しましたように、お二人は相手によって、態度を変えることはほとんどなかったように思います。誰に対しても謙遜でいらっしゃいました。曲がったことはお二人ともお嫌いでしたが、他の人を非難するようなことはなさいませんでした。昨日、林伸晃さんのご長男の要人さんが、「父から、誰に対しても謙遜に対応するよう教えられました」とおっしゃっていました。私は、お二人が、信仰者としての生き方の一つのお手本を見せてくださったと思います。これは大きな信仰の遺産だと思います。私どもはその遺産を受け継いだのです。驕る心を捨て、謙遜に、神に栄光を帰す生き方を、神の前に富む生き方をしてまいりましょう。

祈ります。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。この一年、教会の皆さんと礼拝を捧げて来られました事を感謝致します。私ども人間はすぐに付け上がり、高慢になります。あなたからの賜物を、自分自身のもののように誇ります。その行き着くところは、神の審きと滅びです。どうぞ、早くそのことに気付かせて下さい。悔い改めて、あなたに立ち帰り、あなたをひたすら求めて、従う者とさせてください。そして、あなたに栄光を帰し、あなたの前に富む者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

Unknown Track - Unknown Artist
00:0000:00
Unknown Track - Unknown Artist
00:0000:00
Unknown Track - Unknown Artist
00:0000:00
Unknown Track - Unknown Artist
00:0000:00
Unknown Track - Unknown Artist
00:0000:00
bottom of page