日本バプテスト厚木教会
Iglesia Bautista Japonesa de Atsugi
JAPAN BAPTIST ATSUGI CHURCH
2017年11月5日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
イザヤ書 第8章16~23節a
16 わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう。17 わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが/なおわたしは、彼に望みをかける。18 見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。19 人々は必ずあなたたちに言う。「ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか」と。20 そして、教えと証しの書についてはなおのこと、「このような言葉にまじないの力はない」と言うであろう。21 この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。22 地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。23 今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。
ルカによる福音書 第10章38~42節
38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
「私たちは主なる神を待ち望む」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。フィリピの信徒への手紙 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。
イザヤ書の言葉をご一緒に聴き続けています。本日は、第8章16節以下を与えられました。初めに、本日の箇所における状況を説明致します。隣国のシリアと北イスラエル王国との同盟軍が、預言者イザヤのいた南ユダ王国に攻めて来ます。シリア・エフライム戦争と呼ばれる戦いです。その時、南ユダ王国の王、アハズ王は、この窮地を脱するために、預言者イザヤのアドバイスを聞かずに、アッシリアに助けを求めるのです。イザヤは、アハズ王に主なる神を信頼し、アッシリアに助けを求めぬように勧告しますが、聞かれないのです。そして、イザヤは、今度、アッシリアが攻め上って来ると預言したのです。どころが、実際には、そうはならなかったのです。その時、イザヤは人々の嘲笑(ちょうしょう)の的になります。ここに来て、イザヤは公の預言活動から退かざるを得なくなるのです。そこでイザヤがしたことが16節です。「わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう」。イザヤは自らが預言した言葉の一切を弟子たちと共に巻物にまとめ、封じるのです。この時、イザヤは自分の預言活動を虚しいものと思ったのでしょうか。確かに、人間の視点から見れば、虚しく、無駄なように思えたのかもしれません。しかし、イザヤはそこに留まっていないのです。イザヤの物の見方、考え方は、あくまで信仰に基づくのです。そこで、17節です。「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが/なおわたしは、彼に望みをかける」。預言者イザヤも人の子です。厳しい状況を目の前にすると動揺したでしょう。自分の失敗で落ち込むこともあるでしょう。しかし、イザヤが何よりも、誰よりも信頼している方は、主なる神なのです。イザヤが何よりも、誰よりも期待している方は、主なる神なのです。ですから、たとえ「主が御顔をヤコブの家に隠しておられても」、イザヤは、主なる神に望みをかけ、主なる神を待ち望むのです。続く18節では、こう言われます。「見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である」。そう言います。今、南ユダ王国も、預言者イザヤも、厳しい状況に置かれています。イザヤの預言は聞かれず、預言の言葉を疎んじる南ユダ王国は、この先、現れるバビロンに滅ぼされるのです。そのような中にあって、イザヤと息子たち、インマヌエル(神は我々と共におられる)と名付けられたイザヤの息子、そしてマヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と名付けられたもう一人の息子の、主なる神を待ち望む姿は、イスラエルの将来の希望のしるしとなるのです。神が奇跡的に与えてくださったしるしとなるのです。そのことが、「シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である」と言われるのです。
しかし、人々は益々イザヤの預言を軽んじ、「口寄せや、霊媒」そして、「まじない」をありがたがるようになるのです。そのことが、19節、20節でこう言われるのです。「19 人々は必ずあなたたちに言う。『ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか』と。20 そして、教えと証しの書についてはなおのこと、『このような言葉にまじないの力はない』と言うであろう」。
このような不信仰の向かう所は、悲惨です。その様子が21節から23節で語られます。「21 この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。22 地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。23 今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」。
実に厳しい中にイザヤはいるのです。そして、イザヤ自身が預言するように、事態は益々悪化していくのです。それでも、イザヤは主を待ち望むのです。
では、主を待ち望むということは、どういうことかを見てみましょう。箴言 第10章28節です。「神に従う人は待ち望んで喜びを得る。神に逆らう者は期待しても裏切られる」。主に従う者にとって、待ち望むことで、大きな喜びを頂くのです。信仰者にとって、主を待ち望むことは、とても大切なことなのです。
次に、主を待ち望んだ人を見てみましょう。お生まれになったばかりの主イエスがエルサレム神殿で捧げられた時のことです。ルカによる福音書 第2章22節以下です。
22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。(中略)25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31 これは万民のために整えてくださった救いで、32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
シメオンは主を待ち望み、主イエスにお会いできたのです。何という祝福でしょう。
次に、主を待ち望んだ旧約の信仰者たちを、見てみましょう。ヘブライ人への手紙 第11章1節以下では、こう言われています。
1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」。
ここで言われている「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」こそ、主なる神を待ち望むことだと私は思います。このあと創世記に登場する、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラのことが述べられ、13節でこう言われます。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
そうです。主を待ち望んでいた者たちは、最後まで信仰を抱いて死んだ者たちは、待ち望んでいたものを、約束されたものを、手に入れなくても、「はるかにそれを見て喜びの声をあげた」のです。はるかに望み見ることができ、喜びの声をあげるほどに喜んだのです。
では、私どもは、どのように主を待ち望んだらよいのでしょうか。本日もう一つ朗読しました聖書箇所を見てみましょう。もう一度お読みします。
38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
ここで大切なのは、42節の主イエスのお言葉です。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ここで注意したいのは、主イエスはマルタの「おもてなし」を決して軽んじておられないということです。しかし、主イエスお話を聴くこと、これは私どもにすれば、礼拝だと思います。それよりも、「おもてなし」をマリアが重んじようとしたために、主イエスは「必要なことただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」とおっしゃったのです。
この必要なただ一つのこととは、今申しましたように、私どもにとって礼拝です。主イエスへの「おもてなし」も、礼拝の準備も、大切ですが、それらは必要なただ一つのことである礼拝のためにあるのです。そこを逆転してはならないのです。
わたくしどもが主を待ち望むことは、この必要なただ一つのことである礼拝を捧げることだと私は思います。毎週の礼拝、一回一回、心を込めて捧げること、もう二度とない今日のこの礼拝をお捧げするこそこそが、私どもにとって、主なる神を待ち望むことだと思います。
もう二度とない今日のこの礼拝。礼拝は出来事だと言われます。今日の礼拝は今日一回切りの聖なる神の出来事なのです。神がご臨在くださる聖なる出来事なのです。
そのことに関して、申し上げます。皆さんもそうでしょうが、私も祈りについて、注意されたことはほとんどありません。しかし、一度、はっきり注意されたことがあります。それは、説教塾という牧師の説教を学ぶグループでのことです。それは、礼拝の中で、「今日来られなかった人にも、今私どもが頂くお恵みと同じお恵みを与えてください」という祈りについてです。こうです。今日、礼拝に来れなかった人のために祈ることは良いことだ。その方々のために祈ることは良い。その人たちに神のお恵みがあるように祈りことも良い。しかし、今、この礼拝で私どもが頂くお恵みと同じお恵みを来れなかった人たちにもお与えくださいと祈ることは、おかしい。今日の礼拝は、今日一回切りの出来事であり、主なる神がご臨在くださる時である。だから、今、この礼拝で頂くお恵みと同じお恵みは、この時だけのものであるということでした。そのように注意されました。確かにそうです。それからは、私も来れない方のために祈る際に、「同じお恵み」とは祈らないように注意するようになりました。
そのようにお捧げする礼拝は、先ほど引用しましたヘブライ人への手紙で言われていること「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげる」出来事が実現する時だと私は思います。私どもは、この礼拝で、旧約聖書 創世記の信仰者たちのように、神が約束してくださるものを、はるかに見て喜びの声をあげ、神を賛美するのです。
これからも、ご一緒に礼拝を捧げ、信仰の先輩たちのように、「約束されたものを、はるかにそれを見て喜びの声をあげる」礼拝を捧げてまいりましょう。そのようにして、イザヤのように、シメオンのように、創世記の信仰者たちのように、そして、良い方を選んだマリアのように、主を待ち望んでいきましょう。
お祈りを致します。
私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。わたくしどもは、多くのものに惑わされ、心揺れ動かしてしまいます。そして、つい目に見えるものに頼ろうとしてしまいます。安易なものに頼ろうとしてしまいます。しかし、あなたは、誰よりも、何よりも信頼できる方です。どうぞ、預言者イザヤがそうであったように、そして、信仰の先達たちがそうであったように、何よりも、誰よりも、あなたを待ち望むことが出来ますよう、私どもをお導きください。しっかりとあなたに留まり、あなたのみ旨が行われることを待つことができますように、私どもに信仰と、信仰を持ち続けるための希望と忍耐を、いつもしっかり持っていられまうように。どうぞ、私共一人一人をお守りください、主を待ち望む信仰を持ち続けさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
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2017年11月12日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
イザヤ書 第8章23節b~第9章6節
23 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱(はずかし)めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。
[ 第 9 章 ]
1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。3 彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐げる者の鞭(むち)を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
マタイによる福音書 第4章12~17節
12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。 14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。/15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」 17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見る」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。フィリピの信徒への手紙 第4章23節の言葉です。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」
イザヤ書の言葉をご一緒に聴き続けています。本日は、イザヤ書 第8章23節後半以下の聖書箇所を与えられています。冒頭に小見出しが付いていまして、「ダビデの位(くらい)」と書かれています。ダビデとは、イスラエルの二番目の王です。ですから、「ダビデの位(くらい)」とは、ダビデ王の王位(くらい)ということです。それは5節、6節で、ダビデ王の血筋を引く王をほめたたえる言葉があることに関連して言われています。
実は、本日の箇所は、ここに名前は出てきませんが、紀元前728年に行われたヒゼキヤ王の即位、ヒゼキヤが王位に就くのを祝ってイザヤが語った即位の宣言なのです。南ユダ王国では、アハブ王に代わって、弱冠25歳のヒゼキヤが王位(くらい)に就きます。それを祝って預言者イザヤが語った言葉が、本日の箇所です。
この頃のイスラエルの状況を申します。シリアと北イスラエル王国が、南ユダ王国に攻めて来たシリア・エフライム戦争において、危機感を強くした南ユダ王国の王アハブは、預言者イザヤの言葉を聞かず、アッシリアに援助を求めるのです。要請を受けたアッシリアが攻めて来ます。シリアは滅ぼされます。北イスラエル王国は多くの部分をアッシリアに奪われ、占領されてしまうのです。そのことが、23節でいわれています。こうです。「先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱(はずかし)めを受けた。」アッシリアが攻めて来て、占領してしまうのです。辱(はずかし)めを受けるとはそういうことです。しかも、捕囚として、その住民をアッシリアに連れて行ってしまうのです(列王記 下 第15章29節)。北イスラエル王国はいよいよ厳しい中に置かれるのです。続けて、こう言われます。「後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」と言われます。ガリラヤは北イスラエル王国の土地です。ここで「栄光を受ける」と預言されています。しかし、実は、この預言の後、紀元前722年、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされてしまうのす。
第9章に入ります。ここからが、ヒゼキヤ王の即位(くらい)を祝い喜ぶ言葉です。「1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。3 彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐げる者の鞭(むち)を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。」闇の中にいると、目は暗闇に慣れてしまいます。民も暗闇の中にいるとそこに慣れ、希望を失ってしまうのです。しかし、そこに光が射すのです。しかも大いなる光です。眩(まぶ)しいほどの希望の光です。さらに、死の陰の地に住む者の上にも光が輝くと、イザヤは預言するのです。ヒゼキヤ王は、アハブ王と違い、主なる神の御心にかなった王となります。イザヤはそれを闇の中に見出す大いなる光と見たのです。そしてこれを人々が喜び祝うだろうと言うのです。
「あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。」とは、士師記に登場するギデオンがミディアンを打ち破った時のことを言っています。その時のように、勝利するだろうと預言するのです。
続く4節です。「地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた」。兵士の靴、身にまみれた軍服は、アッシリア軍のものです。戦(いくさ)は終わり、それらは火で焼かれると言うのです。
続く5節のです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。この言葉は、王の即位(くらい)の宣言の言葉です。
そして、5節後半では、主なる神によって立てられた王をたたえるのです。「権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる」。このように言って、イザヤはヒゼキヤ王の即位を祝うのです。
この言葉は、その後(のち)、イスラエルの民が願い求めた、メシア、救世主の登場を預言する言葉として、人々の心に残ります。そして、キリスト教会は、ナザレのイエスと呼ばれた方こそ、そのメシアであると信じ、それを宣べ伝えるようになるのです。
そして、6節の最後でこう言われます。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」主の熱意とは、神が人間に注がれる熱愛のことです。神に逆らう傲慢な者には審判、審(さば)きとしてはたらく神の熱愛であり、神に従う謙虚な者には救いと権利の回復をもたらす神の熱愛です。そのような主なる神の熱愛が、神の前に正義を行う理想の王を、さらにはメシア、私どもの救い主を、もたらしてくださるのです。
預言者イザヤはこのように預言しました。しかし、南ユダ王国はアッシリアに滅ぼされなかったものの、その後に来たバビロンによって滅ぼされ、多くの若者、働き手が連れて行かれるバビロン捕囚を受けるのです。
本日、もう一つ与えられた聖書箇所は、主イエスにおいて、このイザヤの預言が成就したと言われている箇所です。
ここで一つお断りしておきます。新約聖書でこのように、イザヤの預言がメシア預言、主イエス・キリストを預言する言葉として、引用されています。しかし、預言者イザヤは、自分の語った言葉が、後に、そのように読まれるとは全く思っていなかったでしょう。しかし、福音書記者は、そして、キリスト教会は、そのように読むのです。
本日与えられたマタイによる福音書の記事ではこう言われています。主イエスは、バプテスマのヨハネが、ヘロデ・アンティパスに捕らえられたとお聞きになります。そこで、主イエスは一時ガリラヤに退かれるのです。ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれたのです。このことが、預言者イザヤを通して言われていたことの成就であったとマタイによる福音書の福音記者は言うのです。その言葉とは、本日与えられましたイザヤ書の冒頭の言葉、第8章23節bから第9章1節の言葉であると言うのです。そして、その時から、主イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。福音を宣べ伝え始められたのだと福音書記者は言うのです。
本日のイザヤ書の預言にありますように、即位したヒゼキヤ王は主なる神の御心にかなった王となります。しかし、後に南ユダ王国がバビロンに滅ぼされることまで変えることは出来ませんでした。そして、イザヤが預言したような、ダビデ時のように王国が再び繁栄するということもありませんでした。その意味で、信仰を持たない人から見れば、イザヤの預言は虚しい言葉に聞こえるかもしれません。ヒゼキヤ王の即位の際に見た預言者イザヤの儚(はかな)い夢であったと言われてもしょうがないでしょう。
しかし、イスラエルの民は、これらのイザヤの預言の言葉を聖書の言葉として大切に持ち続けます。決して捨てようとはしませんでした。そして、先ほども申しましたように、本日のイザヤ書の言葉をキリスト教会はメシア預言、主イエス・キリストを預言した言葉として聞くのです。本日のイザヤ書 第9章5節、6節の言葉、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。」その言葉は、主イエス・キリストにおいて実現したと信じるのです。
ある意味、これはイザヤ書の言葉の深読みでしょう。ユダヤ教徒からすれば、読み込み過ぎと言われるかもしれません。しかし、この深読みこそがキリスト信仰なのです。
先日、夜の「聖書を読み祈る会」で、文学は面白い、そして、深読みが面白いという話になりました。確かにそうだと思います。深読みと言えば、「みみずくは黄昏に飛びたつ」という題の村上春樹、川上未映子対談集が出版されています。その中で、川上さんは、村上作品を、作者が意識していない所まで深読みしているのです。それを、村上さんが面白く聞いているのです。深読み、それは人によって読み方が違うでしょう。しかし、どんどん深く読んでいく面白みが文学にはあることを教えられます。
キリスト預言、それも一つの深読みかもしれません。しかし、そこに深い真理が見えてくるように思えます。神の深い御心がそこで明らかになるように、私には思えるのです。それは、信仰を持たない人にとって、空虚なものかもしれません。しかし、信仰者にとって、これこそが、真理なのだと思います。
私の母は今、一人暮らしです。膝が悪くなって、最近はあまり教会の礼拝に行けなくなってしまいました。その母は先日こう言っていました。「信仰を頂いていると、神様がいつも一緒にいてくれることを知っている。だから、一人で暮らしていても、一人暮らしではない。」そのように、嬉しそうに言っていました。たぶん、信仰を持たない方にはその気持ちは分からないでしょう。しかし、真剣に信仰に生きておられる方でしたら、母の言葉は実感をもって分かるではないかと思います。
先日、説教の中で、ヘブライ人への手紙 第11章を引用しました。その13節の言葉が、それからというもの、私の中で響き続けています。こういう言葉でした。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。創世記の信仰者たちは、地上において、神に約束されたもの獲得出来なかった。しかし、彼らは信仰によって、はるかに、約束されたものを見て、喜びの声を上げたと言うのです。私はこれこそが信仰者の姿ではないかと思いました。真の信仰を持ち続けてることは幸いなことです。しかし、それによって、地上で栄誉を受けるとか、多くの物を手に入れるとは限りません。得てして、真の信仰者の一生は、世の中的に見て、成功者ではないでしょう。他の人と比べて、比べること自体虚しいことですが、あえて比べて見たら、幸せに見えないかもしれません。恵まれた人生に見えないかもしれません。しかし、今引用しましたように、真の信仰者は、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげた」のです。信仰によって、肉体の目では見えないものを見て、喜ぶことが出来たのです。そのようにして、神を賛美したのです。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見る。」このイザヤの預言は、その時代において、実現したとは言えないでしょう。むしろ、目の前の出来事は厳しく、南ユダ王国は、滅ぼされ、バビロン捕囚という憂き目に遭うのです。しかし、信仰を頂いている者たちは、どんな状況になろうとも、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見る。」との言葉を信じて歩み続けたことでしょう。
後に、バビロンはペルシャに滅ぼされ、捕囚は終わり、イスラエルの民は、国を、神殿を再建するのです。それでも厳しい状況は続きます。そして、メシア、救い主、主イエス・キリストを与えられます。まさに、闇の中を歩む民は、大いなる光を見たことでしょう。私ども歩みも、世の中的には、成功とは言えないかもしれません。しかし、信仰によって、私どもはいつも主なる神に希望を抱いて歩んで行けるのです。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見る。」とのみ言葉を心に刻み、信仰の道を歩んでまいりましょう。
祈りを捧げます。
私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。どうぞ、私どもの信仰をお守りください。目の前の出来事は厳しいです。信仰に生きず、欲望のままに生きた方が幸せのように見えたり、傲慢な生き方の方が自分の心を満足させるように多くの人を錯覚させています。しかし、それらは真に愚かなことです。どうぞ、あなたにだけに望みを抱いて、真の信仰の道を歩めますよう、私どもをお導きください。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見る。」という信仰をいつも抱いて歩ませてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。
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2017年11月19日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
ルカによる福音書 第22章14~16節
14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
「教会の暦を生きる~教会とは何か⑳」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。コロサイの信徒への手紙 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
久しぶりに、「教会とは何か」と副題を付ける説教を致します。本日のテーマは暦(こよみ)、教会の暦(こよみ)、教会暦(きょうかいれき)です。
先程、ルカによる福音書の言葉を朗読しました。主イエスが十字架に付けられる前日のことです。そこでは、主イエスは弟子たちと過越の食事を摂ることを切に願われいたとおっしゃっています。この過越の食事とは、ユダヤ教の三大祭りの一つの過越祭を祝う食事の事です。過越祭とは、かつて、イスラエルの民が神によってエジプトから救い出されたことを祝う祭りです。その言われはこうです。エジプトの王ファラオが、イスラエルの民に荒れ野に出て行って礼拝を捧げることを許可するきっかけとなる事件がありました。それは、神の使いがエジプトの長子と家畜の初子(ういご)を滅ぼすという出来事でした。エジプト中が深い悲しみに覆われました。しかし、その神の使いはイスラエル人の家を「過ぎ越し」たのです。そこから、イスラエルの民がエジプトから脱出したことを祝うこの祭を「過越祭」(出エジプト記 第12章23~27節)と呼ぶようになりました。イスラエルの暦のニサンの月の14日頃、太陽暦で言えば3月末から4月初め頃に、小羊を屠(ほふ)って焼き、種なしパンとともに食して祝いました。主イエスはこの食事を弟子たちと一緒にされることを切に願われたのです。それは、十字架に付けられる直前であったからでしょう。それと同時に、主イエスが過越祭を、そしてユダヤの暦を大切にされていたことが窺(うかが)われます。
ところで、暦と言えば、早いもので今年も11月中旬を過ぎました。来年のカレンダーが売られていたり、来年のカレンダーが送られてきたりしています。もう来年の手帳を用意された方もあるでしょうか。これから用意されるという方もあるでしょうか。そのように、私どもは、1月から始まり12月で終わる暦を持っています。また、日本では、学校、会社や役所などでは、4月から始まり3月で終わる「年度」というの暦を持っています。教会の活動や会計も年度ごとに行っています。
そして、信仰に生きる者には、信仰生活の暦があります。それは、教会の暦、教会暦と深い関係にあります。教派によってずいぶん違いますが、教会には教会の暦、教会暦があります。では、教会暦の一年はいつから始まるでしょうか。それは、毎年、アドベント 第一主日から始まります。今年ですと、12月3日のアドベント 第一主日ですから、教会暦でいう新しい一年が始まるのです。教会の暦はクリスマスを待つ時期が初めに来るのです。ということは、次週26日の日曜日が教会の暦では、一年最後の主の日の礼拝ということになります。
教会の暦の中には、教会に来られたことのない方でもご存じのような、主イエス・キリストがお生まれ下さったことを祝う降誕祭・クリスマスがあります。そして、主イエスが墓から甦ってくださったことを祝う復活祭、復活日・イースターがあります。
さて、先程申しましたように、教会暦は教派によってずいぶん違います。伝統を重んじる東方教会、正しいと言う字を書く正教会です。そして、同じく伝統を重んじるローマ・カトリック教会、そしてルーテル教会は教会暦を重んじ、クリスマスやイースターのような特別な日だけでなく、全ての日がどのような日であるか決まっています。ローマ・カトリック教会には、信仰の偉人を聖人として定めています。暦の中で、この日が、どの聖人の記念日であるかということが大切にされています。また、年間を通して、その日に読むべき聖書箇所も決まっています。祈りの言葉も定め、暦に従って、教会生活、信仰生活を作っているのです。ローマ・カトリック教会では、どの教会の礼拝でも読まれる聖書箇所は同じです。また、何日から何日まではこういう意味の期間であると定められています。私どもの教会では、降誕祭・クリスマスを待つアドベントや、主イエスの十字架の苦しみを覚える受難節・レントは特別に覚えていますが、ローマ・カトリック教会のように、教会暦を重んずる教会では、一年を通して、この時期はどういう時であるかが定められています。そのような教会では、正面の祭壇に布がかかっています。白、赤、緑、紫などがあり、その布が暦によって変えられるのです。ちなみに、クリスマスと復活日・イースターは白で、聖霊降臨日は赤です。
そのように、伝統的な教会暦を重んじる教会があれば、そのような教会と比べると教会暦をあまり重んじない教会があります。私どものバプテスト教会にも教会暦はあります。私どもの教会も、クリスマスやクリスマスを待つアドベント、そして、復活日やそのまえの受難節、そして聖霊降臨日は大切にしています。しかし、ローマ・カトリック教会のように伝統的な教会暦を重んじる教会ではありません。
ちなみに、伝統的な教会暦を重んじない教会の中には、以前は降誕祭・クリスマスを祝わない教会が案外多かったそうです。なぜなら、12月にクリスマスを祝う聖書的根拠がなかったからです。主イエス・キリストのご降誕の様子は書かれていますが、それがどの季節であったかという記述はないのです。その意味で言えば、私どもの日本バプテスト同盟は聖書主義を掲げていますが、厳密、かつ厳格に聖書主義を掲げるのなら、12月にクリスマスをお祝いする根拠はないということになります。ただ、現在ではどのキリスト教会でも12月にクリスマス、主イエスのご降誕を祝っています。
また、伝統的な教会の暦を重んじない理由の一つは、暦が一年サイクルになっていて、繰り返し、循環されることにもあります。キリスト教会の信仰、聖書信仰の時間の観念は、直線的なのです。天地創造で始まり、主イエス・キリストが再び地上に来られる再臨の時まで、時間は直線的なのです。歴史的な出来事はその時、一回限りなのです。キリスト信仰の時間観は、循環ではなく、はっきりとした始まりがあり、はっきりとした終わりがあるのです。
ところで、西暦の年数の数え方は、歴史の中心にキリストの降誕を置いて、その前とそのあとを分けるということでは、キリスト信仰、聖書信仰に合っているように思えます。しかし、それですと、紀元前の歴史をいくらでも遡(さかのぼ)ることが出来るように誤解してしまい、天地創造の始まり以前にも時間を遡ることが出来るように錯覚してしまいます。その意味では、西暦の年数の数え方は、厳密な意味では、天地創造という、はっきりとした初めのある聖書信仰と合わないことになります。
さて、既に申しましたように、伝統的な教会暦を重んじる教会では、その日に読まれる聖書箇所が決まっています。それに倣いまして、私はクリスマスを待つアドベントと、主イエスの十字架の苦しみを覚える受難節・レントの時期は、伝統的な教会暦で定められた聖書箇所とは違いますが、アドベントやレントに相応しいと思われる聖書箇所から説教をさせて頂いています。しかし、私は、それ以外のほとんどの礼拝では、福音主義教会・プロテスタント教会の特徴である連続講解説教、教会改革者カルヴァンから始まったとされる聖書の箇所を順番に説教していく説教をさせて頂いています。先日までは、ヨハネによる福音書の連続講解説教をさせて頂いていましたが、現在は、旧約聖書のイザヤ書の連続講解説教をさせていただいています。
さて、伝統的な教会暦を重んじない教会でも、クリスマスをお祝いしますし、復活日・イースターをお祝いします。そして、聖霊降臨日も祝います。その意味では、それぞれの教会が独自の教会暦を持っているということにもなります。伝統的な教会暦にありませんが、アメリカの教会で始まりました母の日、そして、こどもの日・花の日を教会の暦の中に入れています。また、日本バプテスト厚木教会は、最近、9月第二主日を創立記念礼拝として、礼拝を捧げるようになりました。そのように、教会ごとに、教会の暦、教会暦を持っているのです。
一つ、教会暦の良い点を申します。それは、毎年、繰り返し、主イエス・キリストの歩みをたどることが出来るという事です。クリスマスを待つ時、主イエスのご降誕を待っていたイスラエルの民のことを思い、クリスマスの準備をします。そして、クリスマス、皆で救い主のご降誕をお祝いいたします。
次に、元旦、私どもの教会では必ず元旦に礼拝を捧げるわけではありませんが、元旦は、一年の初めであるばかりではなく、主イエス・キリストのご降誕から、昔の日数の数え方によれば、八日目に当たり、イスラエル男子が必ず受ける割礼がなされ、イエスと名付けられた日なのです。ルカによる福音書 第2章21節で、こう言われています。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは胎内に宿る前に天使から示された名である。」そのように言われているのです。イエスとはギリシア語読みのイエズスから来ています。イスラエルの民が元々使っていたへブル語では、旧約聖書にも出てくるヨシュアです。よく長男、その家の跡継ぎに付けられた名前で「主なる神はわれらの救い」という意味です。そのような深い意味の名が、私どものメシア、救い主に付けられた記念の日が元旦、一年の最初の日なのです。ですから、元旦は、新しい年を迎え、この年も、主のみ栄を表して頂き、私どもをお導きくださるようにと祈ると共に、救い主が命名された記念日として、「主なる神はわれらの救い」という意味の名が御子に付けられたことを祝い、御子主イエスによる救いの出来事を思い出し、祝福の中に立たせていただく日でもあるのです。
バッハは元旦の礼拝の曲を作っています。その中に、ソプラノがとても美しくこのように歌うところがあるのです。
イエス
それは新しい年に一番先に口にする言葉
そしてこれから毎日、このイエスという名を口にすると
その名が私にとって微笑みとなる
そのような歌詞が出てくるのです。そして、最後にこう言うのです。
そして、終わりの時
最後の言葉もまた
イエスの御名
私どもの地上での最後の言葉も、そのようにさせて頂けたら、何と幸いなことでしょう。
このように、元旦に賛美し、またそのような賛美を聴いて一年を始めることが出来たらなんと幸いなことでしょう。
そして、1月6日、公現日、エピファニーを迎えます。主イエスが公にお姿を現されたと日とされ、マタイによる福音書の占星術の学者たちがこの日に主イエスの所に来て、礼拝をお捧げした日とされています。
そして、暦は進んで、灰の水曜日を迎えます。伝統的な教会の暦に従いますと、前年の棕櫚の主日に飾った棕櫚の葉を焼き、その灰を額に付けてもらうのです。悔い改めを表します。その日から受難節・レントが始まり、主イエスの十字架のみ苦しみを覚える時期となります。伝統的な教会暦を重んずる教会の祭壇に掛けられる布は悔い改めを表す紫になります。ちなみに、クリスマスを待つアドベントも悔い改めを表す紫の布が掛けられます。クリスマスを待ち、その準備をすると共に、主イエスが再び来られる再臨の時を待つのです。再臨の時は最後の審判の時でもあり、主イエスに従って来た者には救いの完成の時でもあります。特に、悔い改め、神への立ち帰る時なのです。そのために、祭壇にかけられる布は紫なのです。
さて、受難節・レントの終わりは受難週です。主イエスが十字架の苦しみを負われた一週間です。その最初の日、日曜日が棕櫚の主日です。主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城され、人々が棕櫚の葉を敷いたり、降ったりして、平和の王である主イエスをお迎えしたことを記念する日です。そして、その週の木曜日は主イエスが弟子たちの足を洗われたことを覚える洗足木曜日です。そして、翌日の金曜日が主イエスが十字架で処刑されたことを覚える受難日です。しかし、次の日曜日は、十字架上で亡くなり、墓に葬られた主イエスが甦られたことを祝う復活日・イースターです。主イエスがご復活なさったことを皆で祝い、喜ぶ日です。最近は、イースター・エッグなどによって、信仰を持たない人たちにも覚えられるようになってきたようです。
そして、主イエスは40日間、弟子たちにその姿を現され、40日後に天に昇られ、父なる神の右の座に就かれたのです。そこで、常に私どもを執り成して下さっているのです。そして、復活日から50日目、五旬祭・ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに降ったのです。私どもはそのことを聖霊降臨日に覚え、礼拝を捧げます。それはキリスト教会の始まり、世界宣教への始まりでもありました。
このように、私どもは、教会の暦に従って、主イエス・キリストのご降誕を祝うアドベント、降誕祭・クリスマス、そして、イエスと命名された元旦、占星術の学者たちが主イエスに礼拝をお捧げしたことを記念する公現日・エピファニー、灰の水曜日、そして、主イエスのエルサレム入城を記念する棕櫚の主日、洗足木曜日、十字架についてくださったことを覚える受難日、ご復活を祝う復活日・イースター、父なる神のもとに昇られた昇天日、そして聖霊降臨を祝うのです。救い主、主イエス・キリストの歩みを、教会暦に従って、振り返り、記念するのです。そのように、私どもは教会生活・信仰生活を送り、私どももの救い主、主イエスと共に歩ませて頂くのです。
これからも、教会の暦に従って、私どもの救いの出来事を確認しつつ、主イエスに従ってまいりましょう。お祈りを致します。
私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。私どもはもうすぐ、クリスマスを待つアドベントを迎えます。そして、教会の暦に従って、礼拝を捧げ、主イエス・キリストのご生涯を振り返りつつ、主イエスが完成してくださった私ども救いの出来事を記念してまいります。どうぞ、あなたと御子から頂くお恵みをしっかりと心に刻み、教会生活、信仰生活を続けていけますように、私どもをお導き下さい。どうぞ、私ども一人一人の信仰の歩みを祝福してくださり、一人一人を救いへとお導きくださいますように祈り願います。この祈りと願いを、御子主イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。アーメン。
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2017年11月26日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
イザヤ書 第9章7節~第10章4節
7 主は御言葉をヤコブに対して送り/それはイスラエルにふりかかった。8
民はだれもかれも/エフライム、サマリアの住民も/それを認めたが、なお誇り、驕(おご)る心に言った。9 「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き/桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」10 主は民に対して、苦しめる者レツィンを興し/敵を奮い立たせられた。11 アラムは東から、ペリシテは西から/大口を開けて、イスラエルを食らった。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。
12 民は自分たちを打った方に立ち帰らず/万軍の主を求めようとしなかった。13 それゆえ主は、イスラエルから頭も尾も/しゅろの枝も葦の茎も一日のうちに断たれた。14 長老や尊敬される者、これが頭/偽りを教える者、預言者、これが尾だ。15 この民を導くべき者は、迷わす者となり/導かれる者は、惑わされる者となった。16 それゆえ、主は若者たちを喜ばれず/みなしごややもめすらも憐れまれない。民はすべて、神を無視する者で、悪を行い/どの口も不信心なことを語るからだ。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。
17 まことに悪は火のように燃え/茨とおどろをなめ尽くす。森の茂みに燃えつき、煙の柱が巻き上がる。18 万軍の主の燃える怒りによって、地は焼かれ/民は火の燃えくさのようになり/だれもその兄弟を容赦しない。19 右から切り取っても、飢えている。左に食らいついても、飽くことができない。だれも皆、自分の同胞の肉を食らう。20 マナセはエフライムを、エフライムはマナセを/そして彼らは共にユダを襲う。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。
[第10章]
1 災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。2 彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。3 刑罰の日に向かって/襲って来る嵐に対して/お前たちはどうするつもりか。誰に助けを求めて逃れるつもりか。どこにお前たちは栄光を託そうとするのか。4 捕らわれ人としてかがみ/殺された者となって倒れるだけではないか。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。
マタイによる福音書 第23章1~36節
1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。14 (†底本に節が欠落 異本訳)律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
15 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
16 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。17 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。18 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。19 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。21 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。22 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。32 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。33 蛇(へび)よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
「私たちを戒めた主なる神に立ち帰り、主を求めよう」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。コロサイの信徒への手紙 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
イザヤ書の言葉をご一緒に聴き続けています。本日は、イザヤ書 第9章7節後半以下の聖書箇所を与えられています。冒頭に小見出しが付いていまして、「北イスラエルの審判」と書かれています。厳しい審判が預言されています。
「しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。」との言葉が、四度も繰り返されています。悔い改めないからです。神に立ち帰らないからです。それゆえ、主の怒りはやまないのです。怒りの御手は伸ばされたままなのです。
本日の箇所はこう始まります。7節、8節です。「7 主は御言葉をヤコブに対して送り/それはイスラエルにふりかかった。8 民はだれもかれも/エフライム、サマリアの住民も/それを認めたが、なお誇り、驕(おご)る心に言った。」7節で言われている言葉とは、北イスラエルに対しティグラト・ビルセルが強引な要求するとの預言のことを言っていると言われます。ティグラト・ビルセルの要求とは、北イスラエルが朝貢すること、すなわち貢物(みつぎもの)を持って来ることです。その屈辱的な要求は、神から審判の一つでもあったのです。8節で言われているように、民は誰も彼もそれが主なる神の審判の一つであるとみとめたのです。しかし、続けて言われますように、イスラエルの民は、「なお誇り、驕(おご)る心に言った」のです。悔い改めないのです。
そして、こんなことを言うのです。9節です。「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き/桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」敵に建物を壊されても、すぐにもっと良いものを建てられると言うのです。ここだけ聞くと、落胆せず、すぐに立ち上がるように聞こえます。しかし、これは反省がなく、神に立ち帰らず、強がりを言っているに過ぎないのです。
そして、10節、11節です。「10 主は民に対して、苦しめる者レツィンを興(おこ)し/敵を奮い立たせられた。11 アラムは東から、ペリシテは西から/大口を開けて、イスラエルを食らった。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。」そう言われています。ダマスコのレツィンを代表とするアラムとペリシテが攻め込んで来て、イスラエルを食いつくすのです。しかし、そこでも、北イスラエルの指導者と民は、悔い改めず、神に立ち帰らないのです。それゆえ、「なお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたまま」なのです。
12節で北イスラエルの神への姿勢が述べられます。「民は自分たちを打った方に立ち帰らず/万軍の主を求めようとしなかった。」
続く13節以下では、指導者たちの罪が述べられます。「13 それゆえ主は、イスラエルから頭も尾も/しゅろの枝も葦の茎も一日のうちに断たれた。14 長老や尊敬される者、これが頭/偽りを教える者、預言者、これが尾だ。15 この民を導くべき者は、迷わす者となり/導かれる者は、惑わされる者となった。」そう言われます。民も指導者も神の前に罪を重ねるのです。
続く16節以下です。「16 それゆえ、主は若者たちを喜ばれず/みなしごややもめすらも憐れまれない。民はすべて、神を無視する者で、悪を行い/どの口も不信心なことを語るからだ。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。」そう言われています。若者たちとは、戦いにおいて最強の戦力となる精兵たちを指しています。それを神は喜ばれないのです。そして、最も憐れまれるべき「みなしごややもめすらも憐れまれない」のです。なぜでしょう。ここで言われいますように、「民はすべて、神を無視する者で、悪を行い/どの口も不信心なことを語るから」です。
このように主の審判の言葉が続くのです。
さて、本日もイザヤ書と共に、新約聖書の言葉も頂いています。主イエスが律法学者やファリサイ派の人々を批判する言葉が続いています。
ここで注意したいことは、律法学者やファリサイ派の人々はとても勤勉な人たちであったということです。私どもが真似しようとしたら、大変な位にまじめな人たちであったそうです。毎日、祈りの時間には祈りを捧げ、律法をよく学んでいて、守り、貧しい人たちへの施しもしていました。安息日をきちんと守っていました。外見は、とてもまじめな信仰者たちだったのです。しかし、実態はどうであったかを述べ、主イエスが厳しく批判なさっているのです。
ここでは、「 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」との言葉が繰り返されます。マタイによる福音書 第5章の、山上の説教の冒頭で、繰り返し、「幸い」を告げられた主イエスの言葉と対照的です。結局、彼らは偽善者だとおっしゃっています。それは、人の目さえごまかせれば、それでよいと思っているということです。主なる神を軽んじているのです。主なる神が何もかも見ておられると真剣に思ったら、偽善などしていられまん。そんなことをしていたら、恐ろしいことを知っているわけですから。結局、律法学者やファリサイ派の人々は、主なる神の方を見ていたわけではなく、人目ばかりきにしていたのです。それでは、真の信仰者ではないのです。しかも、人の前で高慢なのです。それは実は神の前にも高慢であるということだと思います。
さて、私ごとになりますが、今、二人の娘、中学2年生と小学1年生の娘は、毎週土曜日、「ジョイ・キッズ」に参加させてもらっています。「ジョイ・キッズ」は、城間ラウラさんが主宰する伝道グループ「マラナタ」が開いておられる伝道を目的とした子ども会です。ほぼ毎週土曜日、午前10時から正午まで、アミューの一室を借りて開いておられます。城間ラウラさんが主宰し、お連れ合いの与座さん、息子さんのガブリエルさん、大西志保さん、太田エミリアさんが一緒になさっています。
私は正午に娘たちを迎えに行くだけですので、「ジョイ・キッズ」の詳しい活動は存じ上げません。ただ、いつも、娘たちが時間内に作ったお土産を持って来てくれます。それは、聖書の一節が書いてある、壁掛けであったり、置物であったりします。昨日は、ハート型の台紙にみ言葉が書いてあり、綺麗なレースの縁取(ふちど)りがしてあり、小さな花の形をした飾りがついていました。早速、妻が壁にかけてくれました。我が家には、そのような「ジョイ・キッズ」の時間に作って、お土産として娘たちが持ち帰った聖書の御言葉が、家のあちこちに置いてあります。毎日のように目にしますので、それらのみ言葉にとても親しくなっています。その一つに、ヤコブの手紙 第4章6節後半の言葉があります。こういうみ言葉です。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」そういうみ言葉です。神の前に、そして周りの人々の前に、高ぶっている者、高慢な者、傲慢な者を、神は喜ばれないのです。敵とされるのです。敵という言葉は厳しい言葉です。そして、本日与えられましたイザヤ書の中で、北イスラエルに向けられた審判の預言は、まさに、彼らを敵とされたような預言です。それは、北イスラエルの指導者や民に、自分たちの過ちを気付かせるためだったのです。自分たちを優先し、自分たちの思いを優先し、主なる神を疎んじ、主なる神を粗末にしている罪を気付かせるためだったのです。それでも、北イスラエルの指導者と民は自分たちの罪に過ちに気付かないのです。それゆえ、本日の箇所では、「しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。」との言葉が四度も繰り返されるのです。
そして、マタイによる福音書で、主イエスが嘆いておられる律法学者たちとファリサイ派の人々も同じです。主イエスはここで、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」と何度もおっしゃって嘆かれています。主イエスの嘆きの深さがここから窺(うかが)われます。彼らも高慢です。そのことがよく分かる一節が6節、7節です。こう言われています。「6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」そういう言葉です。いつも、他の人よりも上位であることを好むのです。もっと言えば、他の人と同じでは不満なのです。ですから、律法学者やファリサイ派の人々は、他の人が褒(ほ)められることを好まず、いつも自分が褒(ほ)められるように、他の人より上位に置かれるように仕向けるのです。これは、人に対してだけでなく、神に対してもです。一見、律法学者やファリサイ派の人々は勤勉に主なる神を礼拝し、律法を厳格に守っているように見えますが、主イエスがここで、繰り返し言われていますように、実態はそうではないのです。表は良く見せていても、内実は違うのです。ですから、主イエスは繰り返し、彼らのことを偽善者とおっしゃって嘆かれているのです。それは、言い方を変えれば、自分たちがよく思われるように、神に忠実であるように見せているだけで、心から神に忠実なわけでも、謙遜な訳でもなく、実際のところは、神を利用して、自分を高めようとしているのです。
律法学者やファリサイ派の人々は、彼らが大切にしている律法の書を繰り返し読み、学んでいたでしょう。モーセ五書と呼ばれる最初の五つの書物を特に大切にしていたと思われます。そして、それらの書ほど重要視していなかったかもしれませんが、イザヤ書などの預言書もよく読んでいたに違いありません。マタイによる福音書 第2章にありますように、占星術の学者たちが主イエスを礼拝するために東方から来て、ヘロデ王の所に来た時、祭司長たちや律法学者たちはメシアがどこで生まれることになっているのかと尋ねられた時、すぐに旧約聖書 ミカ書の言葉から、ベツレヘムであると答えています。そこから、律法学者たちは、預言書もよく読んでいたと推察することが出来ます。そうなれば、イザヤ書もよく読んでいたでしょう。ですから、本日の箇所のことも良く知っていたでありましょう。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、同じような過ちを犯しているのです。北イスラエルの指導者や民を反面教師として、充分に学べる機会を持ちながら、それらの言葉はしっかり頭の中に入っていたにも関わらず、そこで言われていることが、今、自分たちに言われていることだと気付かず、ただ表面的にしか読んでいなかったのです。昔、書物が貴重だった時代に、イザヤ書が書かれ、写本が作られ、大切に受け継がれてきたのに、それらを研究し、伝承していくべき役目にあった律法学者やファリサイ派の人々は、イザヤ書が伝えようとしている核心部分を、自分の聞くべき言葉として読んでいなかったのです。
私は思います。福音書を読みますと、主イエスは繰り返し、律法学者やファリサイ派の人々を批判されています。イザヤ書の言葉もよく知っていたはずである律法学者やファリサイ派の人々を厳しく批判されています。そして、福音書記者はその言葉をいくつも福音書の中に書き残しています。これらの福音書は、キリスト教会の第一世代の方たちが主のもとに召され、主イエス・キリストが地上におられた時のことを知らない人たちに伝えるために書き残されたものです。そして、福音書に残された主イエスの言葉は、いくつもある主イエスの言葉の中でも、その当時の教会で、特によく聞かなければならない言葉が多く書き残されたように、私には思えるのです。ということは、主イエスのおっしゃった律法学者やファリサイ派の人々への批判の言葉は、福音書が最初に読まれた教会にあっても、よく聞かれるべき言葉であったのだと思います。たぶん、当時の教会の中でも、キリスト者のなかでも、律法学者やファリサイ派の人々と同じ過ちを犯していた人たちが多くいて、そして、そうでない人たちもその同じ過ちを、罪を犯しかねないという危機感があったのではないでしょうか。
主イエスのご降誕、ご復活以降の人間の歴史を見る限り、私どもは、イザヤ書から、そして、主イエスの言葉から何を学んだのであろうかと思ってしまいます。確かに、科学技術は発達しました。政治制度も発達しました。皆の生活も良くなったでしょう。しかし、主なる神に対して、謙遜になったかと聞かれれば、「はい」と答えられません。それは、世界全体や、社会においてだけでなく、私も一人一人が神の前に謙遜か、神を心から畏れ敬っているかということです。科学や技術、制度はどんどん進んでも、私どもの主なる神に対する態度は、一向に変わらない、いや、ますます神を軽んじているのではないかと思えます。科学や技術などが発展し、人間はますます傲慢になり、高慢になり、主なる神からますます敵と言われているのではないかと思えるのです。
今、この時、イザヤ書の言葉は、私ども一人一人に語られているのです。マタイによる福音書が伝える主イエスの言葉も、私ども私ども一人一人に語られているのです。私どもを戒めた主なる神に立ち帰り、私どもを立ち帰らせようとしてくださる主を求めてまいりましょう。主イエスはいつも神の右の座にて私どもを執り成してくださっています。今この時こそ、悔い改めるチャンスです。神に立ち帰るチャンスなのです。神に立ち帰り、神をひたすら求めてまいりましょう。
祈ります。
私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。私ども人間は繰り返し過ちを犯し、あなたに罪を犯しています。その連鎖が止まりません。しかし、御子主イエスはあなたの右の座で、常に私どもを執り成してくださっています。感謝致します。どうぞ、あなたから与えられたみ言葉は、今この時、自分に向けられて語られているみ言葉であることに気付かせて下さい。どうぞ、真剣にみ言葉を聴き、高慢を打ち砕いていただき、謙遜にさせてください。どうぞ、悔い改めて、あなたに立ち帰り、あなたをひたすら求めて、従う者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。