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2017年10月1日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第6章1~13節

 

 1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾(すそ)は神殿いっぱいに広がっていた。2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆(おお)い、二つをもって足を覆(おお)い、二つをもって飛び交(か)っていた。3 彼らは互いに呼び交(か)わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆(おお)う。」4 この呼び交(か)わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇(くちびる)の者。汚れた唇(くちびる)の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇(くちびる)に触れたので/あなたの咎(とが)は取り去られ、罪は赦された。」8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫(かし)の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。

 

マルコによる福音書 第1章16~20節

 

 16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18 二人はすぐに網を捨てて従った。19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 

「わたしがここにおります。わたしを神の御用に遣わしてください。」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。がラテヤの信徒への手紙 第1章3節の言葉です。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

 イザヤ書の言葉をご一緒に聴き続けています。本日は、第6章を与えられました。小見出し、第6章の初めの本文とは別に太字で書かれているものですが、そこに「イザヤの召命」と書かれています。この第6章は、イザヤが、主なる神に預言者として召された時のことが記されているのです。

 こう始まっています。「ウジヤ王が死んだ年のことである」。ウジヤ王は南ユダ王国の王です。歴代誌 下 第26章1節以下では、こう言われています。

   「1 ユダのすべての民は、当時十六歳であったウジヤを選び、父アマツヤの代わりに王とした。2 アマツヤが先祖と共に眠りについた後、彼はエイラトの町を再建して、ユダに復帰させた。3 ウジヤは十六歳で王となり、五十二年間エルサレムで王位にあった。その母は名をエコルヤといい、エルサレムの出身であった。4 彼は、父アマツヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。

 そう言われています。ウジヤ王は、52年間王位に就いていたのです。そして、父と同じように「主の目にかなう正しいことを・・・行った。」と言うのです。しかも、当時、強かったアッシリアの勢力が沈滞していたため、王国が北と南に分裂して以来、物質的には最も繁栄していました。

 しかし、そのウジヤ王、晩年、傲慢になってしまったのでしょうか。祭司だけに認められていた務めを勝手に行い、神の怒りを招き、重い皮膚病になってしまうのです。歴代誌 下 第26章16節以下です。

16 ところが、彼は勢力を増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした。17 祭司アザルヤは主の勇敢な祭司八十人と共に後から入り、18 ウジヤ王の前に立ちはだかって言った。「ウジヤよ、あなたは主に香をたくことができない。香をたくのは聖別されたアロンの子孫、祭司である。この聖所から出て行きなさい。あなたは主に背いたのだ。主なる神からそのような栄誉を受ける資格はあなたにはない。」19 香をたこうとして香炉を手にしていたウジヤは怒り始めたが、祭司たちに怒りをぶつけている間に重い皮膚病がその額に現れた。それは主の神殿の中にいた祭司たちの目の前、香の祭壇の前の出来事だった。20 祭司長アザルヤと祭司たちは皆彼の方を向いて、その額に重い皮膚病ができているのを認め、直ちに去らせた。彼自身も急いで出て行った。主が彼を打たれたからである。21 ウジヤ王は死ぬ日までその重い皮膚病に悩まされ、重い皮膚病のために隔離された家に住んだ。主の神殿に近づくことを禁じられたからである。その子ヨタムが王宮を取りしきり、国の民を治めた。

 そのように言われています。主の目に正しかったウジヤ王ですが、自分の立場を弁(わきま)えなかったために、悲しい最期を迎えたのです。私どもも心しておかなければならないことだと思います。

 その「ウジヤ王が死んだ年のことである」と第6章は始まるのです。イザヤはエルサレム神殿にいます。そこで彼は幻を見たのです。それは、天の御座におられる主なる神でした。その時彼が見た光景、聞いた声が、第6章1節以下で語られます。「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾(すそ)は神殿いっぱいに広がっていた。2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆(おお)い、二つをもって足を覆(おお)い、二つをもって飛び交(か)っていた。」そう言われています。ここセラフィムが出て来ます。一対の翼で飛び交(か)い、一対の翼で顔を覆(おお)っています。これは謙遜を表していると言われます。そして、一対の翼をもって足を覆(おお)っていたとは、下半身を覆(おお)っていたということであり、恥を、汚れを覆(おお)うことを表すと言われます。

 このセラフィムが主を賛美するのです。3節です。「彼らは互いに呼び交(か)わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆(おお)う。」先ほど賛美しました讃美歌546番の最初の歌詞、「聖なる、聖なる、聖なるかな」も、そして、讃美歌66番の最初の歌詞、「聖なる、聖なる、聖なるかな」も、このイザヤ書 第6章3節から取られた言葉です。聖なる神を、万軍の主を賛美しているのです。

 そして、神のご臨在を表すように、神殿の敷居が揺れ動き、神殿に煙が満ちるのです。4節です。「この呼び交(か)わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた」。

その時、イザヤは聖なる神を見てしまったので、汚れた自分は、俗なる存在である自分は、滅びるばかりだと叫ぶのです。5節です。「わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇(くちびる)の者。汚れた唇(くちびる)の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。』」イザヤは一体どうなってしまうのでしょう。

その時、またも不思議なことが起きます。6節以下です。「6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火(ひ)鋏(ばさみ)で取った炭火があった。7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇(くちびる)に触れたので/あなたの咎(とが)は取り去られ、罪は赦された。』」このようにして、セラフィムによって、イザヤの咎(とが)は取り去られ、罪は赦されたのです。ここで炭火を口に触れさせられたというのは、象徴的だと思います。私どもは色々な罪を犯します。その種類を上げたら、尽きないでしょう。ただ、その中でも口、唇(くちびる)が犯す罪は特に多いと思います。口は災いの元とも言います。常に冷静に、祈りをもって、言葉を発したいものです。

さて、このようにして、罪赦され、聖(きよ)められたイザヤに、天上の会議での言葉が聞こえます。8節です。「8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」。主なる神に代わって、民の所に行って、神の言葉を取り次ぎ、御心を知らせる役目を誰に任せようか。誰を預言者として送ろうかとの声が聞こえるのです。イザヤは即答えます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」そう答えます。この時、イザヤは反射的に答えているようです。どうしようか、と考えた様子がありません。神の召しに応えると言うのは、こういうものなのかもしれません。

さて、私事になりますが、前にもお話しした事です。私が牧師になる召しをいただいた時もそうでした。教会の役員さんが、同盟総会の報告をされて、当時、宣教研修所と呼んでいた神学校の話をされていた時、そこ入って学ぶように示されたのです。そして、背中を強く押される思いがしました。その直前までそんなことは少しも考えてもいませんでした。私は、これは自分の考えでなく、主なる神からのお召しと感じました。そう思ってからは、主の召しをお断りするなんてとんでもないと思いました。その後のこと、経済的なことなど全く考えませんでした。正直言って、仕事を辞めて、神学校に行くことは無謀なことでした。常識外れでした。しかし、不思議と一つ一つ導かれて行きました。感謝です。

イザヤ書に戻ります。そのあとの主の言葉も意外です。9節以下です。「9 主は言われた。『行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」

主なる神はイザヤに預言者として、民の所に行くように命じられます。しかし、民は預言者イザヤの言葉を拒み、悔い改めることをしないことまで、ここで預言されるのです。実に、厳しい出発です。イザヤが決心して、預言者としてはたらくと言ったのですから、すこしでも励ましの言葉をかけてくれてもよいと思います。しかし、それは人間的な浅はかな考えなのです。時代は厳しいのです。そして、いつの時代も、生温いことでは神に従えないのです。イザヤの預言者としての出発はそのように厳しいものでした。

そこでイザヤは尋ねます。11節です。「11 わたしは言った。『主よ、いつまででしょうか。』主は答えられた。『町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。』主はそうおっしゃるのです。町や国が亡びるまで、あなたは預言し続けるのだとおっしゃるのです。実に厳しい言葉です。

続く12節、13節も厳しい言葉が続きます。ただ、切り株が残ると主はおっしゃるのです。これは、メシア、救い主が与えられることを予感させる言葉です。こうです。「12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫(かし)の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である」。

こうして、かすかな希望を与えられ、イザヤは預言者として歩み出すのです。たぶん、イザヤはこう思ったでしょう。主なる神が命じられたことに従うのだから、主はいつも共にいて、お導きお守り下さると。

さて本日は、漁師たちが主イエスに召され弟子になった記事も与えられました。もう一度お読みします。

 16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18 二人はすぐに網を捨てて従った。19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

 私がこの記事で注目するのはすぐに従ったことです。この「すぐ」はキーワードだと思います。そのことを強く思い知らされる記事がルカによる福音書にあります。第9章57節以下です。

   57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58 イエスは言われた。「狐(きつね)には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕(まくら)する所もない。」59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬(ほうむ)りに行かせてください」と言った。60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬(ほうむ)らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62 イエスはその人に、「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 「すぐ」従うことの大切さが、ここではっきり言われています。私どもも、そのように主に従ってまいりましょう。

 さて、弟子という言葉は、福音書では、後に使徒と呼ばれる十二弟子や、伝道に専念する人たちのことを言っています。しかし、使徒言行録になりますと、キリスト者、信徒も含めて弟子と呼ばれるようになります。そこで、預言者として召されることは特別であっても、弟子として召されることは、キリスト者になること、信者になることとイコールだと思います。その意味で、本日与えられた召命記事は、私どもキリスト者皆に当てはまることなのです。

 ですから、バプテスマを受け、キリスト者となった方、教会員となった方は、主なる神の召し、召命を受けたのです。では、召命を受けた私どものつとめは何でしょうか。礼拝、集会に出席することだと思います。キリスト者として、神に従う上で、礼拝を捧げることは、とても大切なことです。そして、一緒に大切にされることは、祈ることです。絶えず祈ることです。神の栄光のために、福音伝道のために、教会のために、信仰の兄弟姉妹の為に、そして、自分と自分の家族のために、友のために、祈ることです。祈ることは、キリスト者に与えられた大切なつとめです。礼拝、祈り、神から大切な役目を託されていることを喜び、感謝し、励みたいと思います。

 そして、伝道すること、証しすることも、キリスト者のつとめだと思います。一人の友を教会に誘うこと、その友の救いのために祈ること、チラシを一枚配ること、皆伝道です。そして、証しすることです。自分の救いを言葉をもって証しすることはとても十様な事だと思います。そして、自分の姿をもって証しすることもキリスト者にとって、とても大切なことです。以前、入信の証しの中で、先輩の信仰者の姿を見て、信仰に導かれたということをよく聞きました。最近、そのような言葉を聞かなくなって、残念です。この点は、私自身、そして、私ども自身大いに反省すべきところだと思っています。

そして、俗な言い方で申し訳ないのですが、神に召された者は、主イエス・キリストの看板を背負っているのです。私どものちょっとした言葉、行為が、主イエス・キリストがほめたたえられることにつながることにもなれば、主イエス・キリストに泥を塗ってしまうことにもなるのです。そのことを忘れてはなりません。

特に、教会に初めて来られた方、求道者の方、そして、私どもの教会においては、幼稚園の先生方に、です。私も経験あるのですが、初めて行った教会にいらっしゃった方のちょっとした言葉、行為が、初めて来た方の心には残るのです。

私どもの教会では、比留間牧師、澤野正幸牧師、そして、阿部牧師ご夫妻、河原牧師ご夫妻、そして、現在の井一春子理事長、大谷佳子園長、田邊幹夫事務長というように、教会の牧師、そして、教会を代表する方々が、幼稚園の先生や保護者の方たちに対し、良き証しをして来られました。キリスト者としての姿を日々証しして来られました。そのキリスト者としての麗しい姿を、今、牧師として教会を代表する私をはじめ、日本バプテスト教会員一同が、今後どう証ししていくかが、今、問われていると思います。私どもの何気ない言葉、行為を、求道者の方、幼稚園の先生方、保護者の方は見ておられるのです。キリストの香りを伝えられるか、キリストに泥を塗るか、私どもキリストに召された者に託されているのです。その意味で、責任は大きいのです。そして、私どもの普段の行為が、キリストを証しし、それが良き伝道につながるという光栄にも与ることが出来るなて何て名誉なことでしょう。

キリストに召されたことを感謝し、その名誉にも感謝し、召された者に相応しく証し立ててまいりましょう。

お祈りを致します。

 

 私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、イザヤを預言者として、召し、お用い下さいました。そして、今、あなたは、私どもを、伝道する者として、そして証し人として召してくださっています。何という光栄、名誉でしょう。どうぞ、いつも、あなたを礼拝し、祈りを捧げ、み言葉を伝え、証しする者として、私どもをお用い下さい。私ども一人一人の信仰の歩みをお恵みお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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2017年10月8日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第7章1~17節

 

 1 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。

 3 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、 4 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。5 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、6 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、7 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」10 主は更にアハズに向かって言われた。11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。15 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。16 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。17 主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」

 

 

マタイによる福音書 第1章18~25節

 

 18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

「インマヌエル、神は我々と共におられる」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。ガラテヤの信徒への手紙 第6章8節の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン」。

 イザヤ書の言葉をご一緒に聴き続けています。本日は、第7章に入りました。本日の箇所はこう始まっていました。「1 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである」。アハズ王が、イザヤのいた南ユダ王国の王であった時のことだと言うのです。そして、こう続けて言われます。「アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来た」。アラムとは、シリアです。そして、ここで言うイスラエルとは、北イスラエル王国です。このあと、エフライムという呼び名でも出て来ます。ということは、アハズ王の治世の時、シリアと、南ユダ王国とは兄弟である北イスラエル王国が手を組んで、こともあろうに、南ユダ王国に攻め上って来たというのです。しかし、「攻撃を仕掛けることはできなかった。」と言われていますように、エルサレムを包囲したものの、エルサレムを陥落させることは出来なかったのです。

 そして、2節ではこう言われています。「しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」。シリアが北イスラエル王国と同盟を結んで、攻め上ってくると聞いて、王も、民も、「森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」と言うのです。皆、激しい不安に襲われたのです。

 その時です。3節以下です。「主はイザヤに言われた。『3 あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池(かみちょすいち)からの水路の外れでアハズに会い、 4 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない』 」。この時、主なる神がイザヤにアハズ王の所に行くようにおっしゃるのです。そして、アハズ王に「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」と告げるようにおっしゃるのです。

 主なる神の言葉は続きます。5節以下です。「『5 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀(はか)り、6 「ユダに攻め上って脅(おびや)かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう」と言っているが、7 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない』」。主なる神はこうおっしゃったのです。シリアと北イスラエル王国が共謀して、別の王を立てようとするが、その企みは成功しない。そうおっしゃったのです。それだからこそ、4節で言われていましたように、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」のです。

 すると、今度は主なる神がアハズ王に直接おっしゃるのです。10節以下です。「10 主は更にアハズに向かって言われた。11 『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府(よみ)の方(ほう)に、あるいは高く天の方(ほう)に。』」そうおっしゃったのです。ここで、主なる神はアハズにしるしを求めよとおっしゃいました。あなたが、そして、南ユダ王国が守られるというしるしを求めなさいと、おっしゃったのです。

 ところがです。12節です。「12 しかし、アハズは言った。『わたしは求めない。主を試すようなことはしない。』」そう言うのです。アハズ王は、しるしを求めることは主なる神を試すことになるので、そのような畏れ多いことは出来ないと言うのです。しかし、それはアハズ王の浅はかな考えだったのです。13節です。「13 イザヤは言った。『ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる』」。イザヤはそう言うのです。アハズ王は主なる神がおっしゃることを、素直に聞けば良かったのです。そうしなかったために、主なる神にまでも、もどかしい思いをささせてしまうのです。そして、イザヤも、主なる神がしるしを与えられると言うのです。

 では、どんなしるしでしょう。イザヤの言葉が続きます。14節の途中からです。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。15 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳(ぎょうにゅう)と蜂蜜(はちみつ)を食べ物とする。16 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる」。イザヤはそのようにアハズ王に言ったのです。男の子、インマヌエル、すなわち「神は我々と共におらえる」という意味の名前を与えられる子が、おとめから産まれる。それが、あなたに与えられるしるしであると言うのです。

 この預言の通り、この時、エルサレムは、シリアや北イスラエルから守られるのです。

さて、「神は我々と共におられる」という真理は、聖書の中に繰り返し言われる真理です。そして、それはその言葉を聞いた人を励ましてきました。そのことをご一緒に見てまいりましょう。

 主なる神がイスラエルの民をエジプトから導き出される時の指導者として、神がモーセを召された時、主なる神はモーセにこうおっしゃいました。出エジプト記 第3章12節です。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」。そう主はおっしゃいました。主なる神から召された時、不安で一杯だったモーセにとって、その後のモーセにとって、この主なる神が共にいて下さるという約束は、とても励まされる約束であったに違いありません。

 そして、モーセの後継者となったヨシュアに主なる神はこうおっしゃいました。ヨシュア記 第1章5節です。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」。主なる神はヨシュアにそうおっしゃいました。その後、何度も戦っていかなければならなくなるヨシュアは、この約束で大いに励まされたことと思います。

 そして、イスラエルが最も繁栄した時の王であり、多くの祝福をいただいたダビデ王は詩編 第23篇4節でこう歌っています。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」ダビデ王にとっても、主が共にいてくださることが、何よりもの励ましとなったことでしょう。

 このように、主なる神が共にいてくださるというメッセージは聖書に繰り返し出て来ます。

 そして、先ほど朗読していただいたマタイによる福音書の記事です。クリスマスになるとしばしば聞く記事です。主イエスの母マリアの夫となるヨセフに天使が現れた時のことを告げています。

 22節、23節でこう言われていました。「22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。そう言われていました。これからお生まれになる神の子、主イエスにはもう一つお名前があって、インマヌエルという名であり、それは神は我々と共におられるという意味であると言うのです。これによって、イザヤの預言が成就すると言うのです。

 これは、主イエスの存在そのものが、神が私どもと共にいてくださることを表しているということです。そうです。主なる神が、私どもと共にいてくださるからこそ、主なる神は大切な御独り子を私どもにくださったのです。主イエスのことを思う時、主イエスの言葉を聞く時、私どもは、主なる神がいつも私どもと共にいてくださることを知るのです。

 そうです。聖書の中の英雄たちだけでなく、主イエスを救い主としていただいた私どもとも、主なる神はいつも共にいてくださるのです。

 ところで、マルコによる福音書 第10章13節以下では、こう言われています。

13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 この箇所は、マタイによる福音書、ルカによる福音書にも同じような記事、しばしば平行記事と呼んでいる記事があります。この箇所は、私がずっと気になっている箇所です。それは、「子供のように神の国を受け入れる」とは具体的にどういうことかということかという疑問を持ち続けているという事と、そして、それをあなたは実行しているかという問いかけが私になされていると感じているからです。

そこで、こんなことを考えました。幼子(おさなご)、まだ自分では歩けなかったり、歩くようになっても、いつも親から離れられない子のことを考えました。そのような子にとって、何が厭(いや)でしょうか。その一つは、何か怖いものを見た時かもしれません。それから、痛みや、のどの渇きや空腹を感じた時でしょう。確かにそのような事は、大人も幼子(おさなご)も厭(いや)でしょう。では、その他はどうでしょうか。幼子(おさなご)です。自分の置かれた状況は全く分かりません。自分が安全な所にいるのか、危険な所にいるのか、大人や少し成長した子なら分かる現在自分が置かれた状況は、ほぼ分かっていないでしょう。

 そのような幼子(おさなご)にとって、最も怖いことは、身近な信頼できる大人が一緒にいてくれないことではないでしょうか。どんなに安全な、快適な所にいても、身近な信頼できる大人が一緒にいてくれなかったら、幼子(おさなご)は非常に不安になり、すぐに泣き出すのではないでしょうか。ですから、その逆に、どんなに危険な所にいても、どんなに酷い状況にあっても、身近な信頼できる大人が、一緒にいてくれれば、幼子(おさなご)は安心するでしょう。真っ暗な所でも、薄気味悪い所にいても、身近な信頼できる大人が一緒にいてくれさえすれば、幼子(おさなご)は安心できると思います。それと同じように、心から信頼している主なる神が共にいてくれさすれば大丈夫と思うこと、それが、「子供のように神の国を受け入れる」ことの一つだと私は思います。

 「神は我々と共におられる」こと、その神を信頼することは、今申しました幼子(おさなご)にとって、身近な信頼できる大人が一緒にいてくれることと似ていると思います。私どもは、自分は何でも知っていると思っています。しかし、主なる神から見れば、何も分かっていない、小賢(こざか)しい存在です。しかし、そんな自分のことを弁(わきま)えず、私どもは何事も自分で決めようとします。そればかりでなく、偉そうな口まできいてしまいます。そのため、ある時は、尊大に振る舞い、尊大な口をききます。それによって、手痛い失敗を味わいます。また、ある時は、酷く臆病になります。勇気をもって進むべき時に、状況があまりにも酷くて、打つ手なしと判断し、尻込みしてしまいます。しかし、注意して進めば、状況は改善できる場合もあるのです。

 自分の力だけに頼っていると、そして、自分の判断だけに頼っていると、そのようになりがちです。しかし、私どもは私どもを遥かに超える存在である主なる神を知っています。そして、主なる神は、天地万物の創造者であり、昔から常に万物の支配者であることを知っています。しかも、主なる神は、「神は愛です」と言われるほど、愛と憐れみに満ちた方です。私どものために、貴い御独り子、主イエス・キリストを私どものためにくださるほど、私どもを愛してくださっている方です。そうです。私どもにとって、主なる神は最高の、そして最も強い、最強の味方です。その主なる神が、まさしくインマヌエル、神は我々と共におられる神なのです。ですから、私どもは、どんな状況にあっても、恐れることなく、常に共にいてくださる主なる神を信頼して、従って行きたいと思います。幼子(おさなご)が身近な信頼できる大人が一緒にいてくれれば、いつも安心しているように、私どもも、何よりも、誰よりも信頼できる主なる神がいつも共にいてくださることを感謝し、従ってまいりましょう。

 お祈りを致します。

 

 私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、あなたに従う者たちにどんな時も一緒にいるとお約束してくださり、その約束を実行してくださいました。ありがとうございます。そして、今、あなたは、私どもにその約束をしてくださっています。あなたの憐れみに心より感謝致します。どうぞ、先人たちがあなたのその約束に大いに励まされ、勇気づけられ、あなたに従いましたように、私どもも、最強の味方であるあなたが共にいてくださるお恵みに感謝し、あなたに絶大な信頼を寄せ、あなたに従っていけますように、お導き下さい。私ども一人一人のあなたへの信頼をさらに強くしてください。強固なものとしてください。私どもの主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

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2017年10月22日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第7章18節~第8章4節

 

 18 その日が来れば/主は口笛を吹いて/エジプトの川の果てから蠅(はえ)を/アッシリアの地から蜂(はち)を呼ばれる。19 彼らは一斉に飛んで来て/深い谷間や岩の裂け目に宿り/どの茨にも、どの牧場にも宿る。20 その日には、わたしの主は/大河のかなたでかみそりを雇われる。アッシリアの王がそれだ。頭髪も足の毛もひげもそり落とされる。21 その日が来れば/人は子牛一頭、羊二匹の命を救いうるのみ。22 しかし、それらは乳を豊かに出すようになり/人は凝乳(ぎょうにゅう)を食べることができる/この地に残った者は皆、凝乳(ぎょうにゅう)と蜂蜜(はちみつ)を食べる。23 その日が来れば/ぶどうの木を千株も育てうるところ/銀一千シェケルに値するところもすべて/茨とおどろに覆(おお)われる。24 茨とおどろがこの地を覆うので/人は弓矢を持ってそこへ行かねばならない。25 鍬(すき)で耕されていた山々にも/人は茨(いばら)とおどろを恐れて足を踏み入れず/ただ牛を放ち、羊が踏み歩くにまかせる。

第8章

  1 主はわたしに言われた。「大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい」と。2 そのためにわたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカルヤを、信頼しうる証人として立てた。3 わたしは女預言者に近づいた。彼女が身ごもって男の子を産むと、主はわたしに言われた。「この子にマヘル・シャラル・ハシュ・バズという名を付けなさい。4 この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる。」

 

マタイによる福音書 第18章10~14節

 

 10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。11 (†底本に節が欠落 異本訳)人の子は、失われたものを救うために来た。12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 

「一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。エフェソの信徒への手紙 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

 イザヤ書の言葉をご一緒に聴き続けています。本日の箇所の前半、第7章18節から25節までには、「大いなる荒廃」と言う小見出しが付いています。大いに荒れ果てるとの預言です。それはいつ訪れる事なのでしょうか。この8節の短い段落の中で、18節「その日が来れば」、20節「その日には」、21節「その日が来れば」、23節「その日が来れば」と、「その日」という言葉が繰り返し出て来ます。そう、「大いなる荒廃」はその日の事を言っています。では、「その日」とは、いつのことでしょう。それは、本日の箇所の直前、すなわち、前回の箇所の最後の第7章17節で言われていました。こうです。「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨(のぞ)んだことのないような日々を臨(のぞ)ませる。アッシリアの王がそれだ」。ここで言われている「臨(のぞ)んだことにないような日々」が本日の箇所で言われる「その日」です。「アッシリアの王がそれだ」と言われています。アッシリアが、アッシリアの王がエフライムとユダに、すなわち、北イスラエルと南ユダに、襲い掛かってくる日のことです。その日には、国の敗北そして、その後(あと)に、みな荒れ果て、大いなる荒廃が訪れるのです。

 18節では、こう言われます。「その日が来れば/主は口笛を吹いて/エジプトの川の果てから蠅(はえ)を/アッシリアの地から蜂(はち)を呼ばれる」。ここでは、エジプトがうるさい蠅(はえ)に、アッシリアが人を刺す蜂(はち)に譬えられています。まさに、この両大国は、イスラエルを悩ます存在なのです。

 続く、19節です。「彼らは一斉に飛んで来て/深い谷間や岩の裂け目に宿り/どの茨にも、どの牧場にも宿る」。蠅や蜂はユダヤの地の至る所にやって来て、人々を悩ますのです。

 そして、20節です。「その日には、わたしの主は/大河のかなたでかみそりを雇われる。アッシリアの王がそれだ。頭髪も足の毛もひげもそり落とされる」。ここでは、アッシリアがカミソリに譬えられています。周辺国を綺麗さっぱり打ち負かし、統一してしまうのです。

 続く21節、22節です。「21 その日が来れば/人は子牛一頭、羊二匹の命を救いうるのみ。22 しかし、それらは乳を豊かに出すようになり/人は凝乳(ぎょうにゅう)を食べることができる/この地に残った者は皆、凝乳(ぎょうにゅう)と蜂蜜(はちみつ)を食べる」。敗北と荒廃によって、少しの家畜しか残せないのです。しかし、それらは、将来への希望となる「残りの者」たちを養うこととなるのです。すこし、慰められる言葉です。

 23節、24節です。「23 その日が来れば/ぶどうの木を千株も育てうるところ/銀一千シェケルに値するところもすべて/茨とおどろに覆(おお)われる。24 茨とおどろがこの地を覆うので/人は弓矢を持ってそこへ行かねばならない」。戦いに敗れたために、農地が荒廃してしまうのです。そこは野獣が棲(す)む所となり、弓矢を持たずには、そこへ行けないのです。

 そして、25節です。「鍬(すき)で耕されていた山々にも/人は茨(いばら)とおどろを恐れて足を踏み入れず/ただ牛を放ち、羊が踏み歩くにまかせる」。農地が、国土が益々荒廃していくのです。

そして、第8章に入ります。ここでは、生まれて来る子どもに、預言の言葉が名前として付けられます。その預言とは、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」というものです。イスラエルの敗北と略奪を預言した言葉が、将来ある子どもに名前として付けられるのです。しかも、そのことの証人が立てられ、この預言がなされたことが公に証明されるように手続きがなされるのです。ここに出て来る女預言者とは、預言者の妻であるとも言われます。イザヤは主のご命令に従って、自分の子に、そのような名を付けるのです。第8章1節から4節をもう一度お読みします。「 1 主はわたしに言われた。『大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい』と。2 そのためにわたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカルヤを、信頼しうる証人として立てた。3 わたしは女預言者に近づいた。彼女が身ごもって男の子を産むと、主はわたしに言われた。『この子にマヘル・シャラル・ハシュ・バズという名を付けなさい。4 この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる』」。

 先日読みましたように、インマヌエル「神は我々と共におられる」という名前を付けるなら分かります。しかし、この箇所のような名前「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の名前を子どもに付けることは、私どもの常識からは考えられないことです。しかし、それが主の命令だったのです。このように、イザヤは家族と共に、まさに献身的に預言者としての使命を果たして行くのです。極端な例かもしれませんが、これこそが主に仕える者の姿であったのです。そして、この預言も、その後、現実となるのです。

 さて、このような預言の言葉を読んでいますと、主なる神はどのような思いで、これらの言葉をイザヤにおっしゃっていたのだろうかと思ってしまいます。国の敗北、そして、今日の箇所では、国土の荒廃です。聞いている私どもは決して良い気分にはなりません。明るい気持ちではなく、暗くなってしまいます。たぶん、主なる神がおっしゃるのをイザヤも喜んでは聞けなかったでしょう。むしろ、暗い、憂鬱(ゆううつ)な思いで聞いていたことでしょう。では、主なる神ご自身はどう思われて、このようにお語りになっていたのでしょうか。

 怒りに任せて、おっしゃっているのでしょうか。確かに主なる神は怒っておられます。非常な怒りです。しかし、私どもが本気で怒ると、際限なく口汚く、罵(ののし)ってしまうことがあります。それに比べ、聖書にある主なる神の言葉は、厳しい言葉が続きますが、神ご自身は口汚く罵るようにはお語りになっておられません。では、冷静に淡々と語られていたのでしょうか。それも違うと思います。

 「神は愛です(ヨハネの手紙 一 第4章16節)。」と聖書は言います。主なる神は愛そのものであると言います。「神は愛です」は、新約聖書にある言葉です。確かに、新約聖書と旧約聖書は趣(おもむき)が違います。しかし、キリスト教会においては、どちらも正典です。どちらも、私どもが従うべき基準として教会によって定められた書物です。旧約、新約合わせて聖書です。ですから、新約聖書で言われている主なる神は、旧約聖書においても同じです。

 本日の箇所、主なる神は厳しく、ユダヤがアッシリアの敗北の後、荒れ果てることを語っておられます。しかも、そこには、愛するイスラエルの民がアッシリアに敗北し、多くの血が流れ、敵による略奪があるのです。それゆえ、国は荒れ果ててしまうと語っておられるのです。主なる神が、もし、涙を流されることがあるなら、これらのことを語られた神は、涙ながらにおっしゃったのではないだろうかと私は思ってしまいます。私は、どうしても言う事を聞かない子どもを、親が涙ながらに叱っている場面を想像してしまうのです。

 主なる神は、イスラエルの民が憎いから審(さば)きを下されたのではありません。むしろ、イスラエルの民を、神の民として愛されている故です。神に背き続け、自分たちの事ばかり考えている王や民に、間違いに気付かせつために、厳しい審(さば)きを預言し、それを行われたのです。私は本日の預言の言葉の背後にも、深い神の愛があったのだと思います。もし、そうでなかったら、主なる神はイスラエルの民をとっくに見捨てて、彼らの中にイザヤのような預言者を送るようなことはなさらなかったでしょう。ここまで、主なる神は関わってくださっていること自体、主なる神が、神の民イスラエルを深く愛しておられた証拠だと私は思うのです。

 本日、新約聖書、マタイによる福音書 第18章の言葉も与えられました。「『迷い出た羊』のたとえ」です。注目したいのは、本日の説教題にもしました14節の言葉です。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。小さな一匹、小さな一人です。全体から見れば何も変わりないでしょう。でも、その一人が滅ぶことは天の父の御心ではないのです。

 昔の有名な映画の中に、「西部戦線異状なし」という映画があります。舞台は、第一次世界大戦です。映画のラストは、ドイツ軍の西部戦線で、一匹の蝶(ちょう)を捕まえようとして手を伸ばした若い兵士が狙撃され、死んでしまいます。しかし、その日、西部戦線からの報告は、「西部戦線異状なし」であったというものです。そうです。戦争において、一兵士の死など、どってことないのです。

 父なる神と御子主イエスは、それとは全く逆です。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」のです。それは、イザヤの時代でも、今でも変わりないのです。イザヤの時代、アッシリアの攻撃で命を落としたイスラエルの一人一人に対しても、そして、本日の箇所のような荒廃の中で、彷徨(さまよ)ったであろうイスラエルの民一人一人に対しても、それから何千年の歴史の中で、苦しんだ人たち、悲しんだ人たち、そして、命を落とした人たち、そして、現代において、苦しみ、悲しむ人たち、命を落とした人たちに対しても、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」のです。

 そのことを確認すると、益々、本日の箇所の言葉をイザヤに伝えられた主なる神の悲しみが、主なる神の思いが、私どもに迫ってくるように思えてならないのです。そうです。私どもは、その神の御心に気付かなければならないのです。涙ながらに、私どもを叱ってくださっている神の御心を一刻も早く知って、悔い改めければならないのです。

主なる神はどうしようもない私どもを見捨てるようなことはなさらず、迷い出た羊を探し出すように、私どもを探し出してくださいます。私どもにそこまでして関わってくださいます。それは実に効率の悪い事です。残りの九十九匹に関わっていた方が、どれほど効率がよいでしょうか。効果が上がるでしょうか。もしかしたら、主なる神はその点で、効率を優先に考えるに人間から見れば、最も愚かな方かもしれません。そして、その主なる神の御子も、私どものようなどうしようもない者のために、十字架で命を捨てるなんて全く愚かなことをなさったのです。

愛するということは、そういうことでしょう。愛することは、効率的に生きようとする者には、実に愚かなことと言えるでしょう。しかし、それを貫かれたのが、父なる神と御子主イエスなのです。親子そろって私どもを愛するという、最も愚かな行為を貫徹してくださったのです。それゆえ、どんなことがあっても、私どもを救って下さる方、誰よりも信頼の置ける方、それが、父なる神と御子主イエスなのです。その方に、すべてをお任せして、従ってまいりましょう。

祈りを捧げます。

 

私どもの救い主、主イエス。キリストの父なる神よ。あなたは、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と言われる方です。いつも、私どもへの愛に溢れている方です。そして、私どもにとことん関わってくださいます。時にあなたは厳しい審判を下されます。しかし、それさえも、あなたの深い愛から出たものであることを私どもは教えていただきました。感謝いたします。どうぞ、あなたの深い愛に一刻も早く気付き、悔い改めて、あなたに立ち帰る者とさせてください。もう二度と迷い出ることのないよう、あなたの下にいつまでも留まらせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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2017年10月29日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

イザヤ書 第8章5節~15節

 

 5 主は重ねてわたしに語られた。6 「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み/レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる。7 それゆえ、見よ、主は大河の激流を/彼らの上に襲いかからせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とそのすべての栄光を。激流はどの川床も満たし/至るところで堤防を越え 8 ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼は/インマヌエルよ、あなたの国土を覆(おお)い尽くす。」

 9 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。10 戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。

11 主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。12 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを/何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。13 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏(おそ)るべき方は主。御前におののくべき方は主。14 主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨(さまた)げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠(わな)となられる。15 多くの者がこれに妨(さまた)げられ、倒れて打ち砕かれ/罠(わな)にかかって捕らえられる。

 

ルカによる福音書 第5章1~11節

 

 1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 

「あなたたちが畏(おそ)るべき方は主なる神」

 

今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。エフェソの信徒への手紙 第6章23節、24節の言葉です。「23 平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。24 恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように」。 

  

 イザヤ書の言葉をご一緒に聴き続けています。本日の箇所は、預言者イザヤがいた南ユダ王国に、シリアとエフライムと呼ばれている北イスラエル王国の連合軍が攻めて来た時の政治的、軍事的混乱の中で、語られた言葉です。本日の箇所はこう始まります。5節、6節です。「5 主は重ねてわたしに語られた。6 『この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み/レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる』」。シロアの水とは、ギホンの泉から湧き出る水をエルサレムの南に導いて貯めてある水です。この水が戦争でエルサレムに籠城(ろうじょう)する際の貴重な水となります。昔から、エルサレムには神の御座があり、その下から都を守り支える水が流れ出ていると言われました。そして、どんな敵が襲って来ても、神は我々と共にいてお守りくださると信じられてきました。しかし、この6節で言われていますように、エルサレムの民はその水を、恵みの水を拒むのです。これは、主なる神に助けを求めず、主なる神を拒むことを象徴的に言っています。そして、「レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる」と言われていますように、今、南ユダに攻め上って来るレツィンとレマルヤの子ペカフヤに、恐れおののいてしまうのです。

 南ユダは、このシリアと北イスラエルの攻撃に対し、不信仰にも、アッシリアの王に援助を求めるのです。結果、それがアッシリアという激流を南ユダに導いてしまうのです。そのことが7節以下で言われます。「7 それゆえ、見よ、主は大河の激流を/彼らの上に襲いかからせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とそのすべての栄光を。激流はどの川床も満たし/至るところで堤防を越え 8 ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼は/インマヌエルよ、あなたの国土を覆(おお)い尽くす。」激流のように押し寄せて来るアッシリア軍の勢いはこのように凄(すさ)まじいのです。ここで言われているインマヌエルは、イザヤの息子のことで、ユダの民を代表してイザヤの息子の名が呼ばれているようです。

 続く9節以下では、神の言葉は、南ユダに攻め上って来る諸国に向けられます。「9 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。10 戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから」。南ユダに攻め上る諸国の勢いは凄まじいことが、8節までで語られていましたが、それらの諸国は、連合し、武装し、戦略を練るものの、途中で、頓挫(とんざ)するのです。エルサレムを、南ユダを制圧することは出来ないのです。なぜか。ここで言われていますように、インマヌエル、神は我々と共におられるからだと言うのです。

 そして、11節以下、神の言葉は再びイザヤに臨むのです。こうです。「11 主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。12 あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを/何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない」。ここで、「同盟」と訳されている言葉は、「陰謀(いんぼう)」とか「謀反(むほん)」とも訳せる言葉だそうです。シリアと北イスラエルの同盟は、南ユダに対する陰謀で、それらにおののいてはならないと言われるのです。そして、聖なる方とするべき方は、そして、真(まこと)に畏(おそ)るべき方は、主なる神だけだと言うのです。それが13節です。「13 万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏(おそ)るべき方は主。御前におののくべき方は主」。敵を恐れるのではなく、真(まこと)に畏(おそ)るべき方を畏(おそ)れなさい

しかし、南ユダの住民は、エルサレムの住民は、主なる神を信頼して、従うことをしないために、主なる神は彼らにとって、つまずきの石、妨げの岩、仕掛けの網、罠となってしまうのです。そのことが14節で言われます。「主は聖所にとっては、つまずきの石/イスラエルの両王国にとっては、妨(さまた)げの岩/エルサレムの住民にとっては/仕掛け網となり、罠(わな)となられる。

そして、本日の箇所の最後15節です。こうです。「多くの者がこれに妨(さまた)げられ、倒れて打ち砕かれ/罠(わな)にかかって捕らえられる」。エルサレムの住民の多くが倒れ、捕らえられるのです。

 この時、人々は、攻めて来る敵に震え上がり、真(まこと)に畏(おそ)るべき方は、主なる神だけだということを忘れてしまうのです。これは、状況は違いますが、私どもにも容易に起こることです。真(まこと)に畏(おそ)るべき方ではなく、目の前の恐怖に心奪われ、恐れに震えるのです。

 さて、思えば、3年前の2014年度、その年度の聖句は、本日の聖書箇所、ルカによる福音書 第8章8節の言葉でした。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」でした。ペトロが主イエスに申し上げた言葉です。そこから、2014年度の標語を「主なる神に恐れおののくことを忘れない」と致しました。主なる神に恐れおののくこと、畏怖(いふ)の念を抱くこと、そして、畏敬(いけい)すること、畏(おそ)れ敬うことが、2014年度の私どもに与えられましたテーマでした。

 このことが如何に大切であるかは、箴言 第1章7節の言葉からも分かります。こういう言葉です。「主を畏(おそ)れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮(あなど)る」。主なる神を畏(おそ)れることは、まず、私どもは知らなければならないことである、というのです。ここでは、神を知ることが、知恵の初めとは言われていません。また、神を愛することが、知恵の初めであるとも言わないのです。もちろん、神を知ること、神を愛することは、大切なことです。主イエスの言葉の中でも、最も大切な戒めとして、神を愛することを挙げられていますので、神を愛することはとても大切なことです。しかし、私どもが、知恵の初めとすべきことは、神を畏(おそ)れることである、と箴言は言うのです。それは、信仰の基礎として、何よりも神を畏(おそ)れることを重視しなければならないということでしょう。また、神を畏(おそ)れることを忘れてしまったなら、どんなに信仰を深めようとしてしても、それは無理であるということでしょう。また、私どもは、信仰生活の中で、常に、神を畏(おそ)れることに立ち帰ることが求められているということです。

 ここで、神を畏れることの意義を覚えるために、旧約聖書、申命記 第10章12節、13節の言葉をご紹介します。

   12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏(おそ)れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。

 ここでは、主なる神が求められていることが、いくつか告げられています。そのどれもが大切です。ただし、その最初が「主を畏(おそ)れる」ことなのです。ここからも、主を畏(おそ)れることが、如何に大切なことであるかが、分かると思います。

 ところで、2014年度の標語「主なる神に恐れおののくことを忘れない」の中で、「神に恐れおののく」という言葉を使いました。そこでは、「恐怖」と言う時の「恐れる」という字を用いました。一方、神を畏(おそ)れると言う場合、本日のイザヤ書で言われている場合や箴言 第1章7節で用いているように、「畏怖(いふ)」、「畏敬(いけい)」という場合に用いる「畏(おそ)れる」という言葉を用いています。一般に、「恐怖」の「恐れ」という文字を使う場合は、「恐怖を抱く」「怖がる」というような意味で用い、箴言 第1章7節での「畏(おそ)れる」は、偉大な存在に触れ、「畏(おそ)れ敬う」意味に用いられます。ただし、この二つの「おそれ」を、明確に分けることは出来ないと私は思います。特に、神を「おそれる」と言った場合、この二つの意味が重なる部分が、大きいと思います。ですから、2014年度の標語にしました「恐れおののく」の中には、畏(おそ)れ敬う意味もあれば、恐怖を抱くの意味も含めてそのようにしました。

 では、実際に、旧約聖書に出て来る人が、神を畏(おそ)れた出来事を一つ見てまいりましょう。出エジプト記 第3章1節以下です。

   1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆(おお)った。

 昔から、神を見ると死んでしまうと信じられていたのです。うっかり神を見てしまったら大変と、モーセは顔を覆(おお)ったのです。このように、時として、神の領域に踏み込んでしまって、神に急接近してしまい、もしかしたら、そのことを咎(とが)められて、滅ぼされてしまうのではないか、また、見てはならない神のお姿を見てしまうのではないかと、モーセは恐れおののいたのです。

 天地万物を創造され、世界を支配されている主なる神と、神に造られ、神の支配の下で生きている人間とは、はっきり区別されるべきであり、神の領域に立ち入ってしまったり、神を見ることは、畏(おそ)れ多いことであるとして、モーセは恐れおののいたのです。

 私どもも、このように恐れおののくことがあるでしょうか。正直申しまして、普段、あまりないのではないかと思います。ただし、この礼拝もそうでありますように、礼拝は神にお捧げする礼拝です。そして、私どもが主を求め、心からの礼拝をお捧げする時、聖霊が降って来てくださるのです。今、私どもがお捧げしている礼拝に、主なる神はご臨在くださるのです。礼拝は、神がご臨在くださる場所であり、その時なのです。ですから、私どもも、モーセのように、礼拝を捧げる度(たび)に、神を畏(おそ)れ敬い、恐れおののきつつ、神の前にぬかづく者でありたいと思います。そして、これを礼拝の時だけのこととせず、普段の生活の中で、神を畏(おそ)れ敬い、恐れおののきつつ、歩んでまいりたいと思います。それが、信仰の初歩である神を畏(おそ)れ敬い、恐れおののきつつ生きることだからです。

 本日もう一つ与えられましたルカによる福音書の記事を見てみましょう。この時、主イエスは湖の岸から少し離れた所に浮いているシモンの舟の上から、岸にいる群衆に向かって教えられたのです。そして、話し終わったとき、主イエスは、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。4節です。すると5節、シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と答えるのです。ところが、ペトロはそこに留まっていなかったのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と言って一歩踏み出したのです。漁に関してシモン・ペトロは専門家で、一方、主イエスは素人(しろうと)です。素人が専門家にあれこれ指示するなんて、普通でしたら有り得ないことでしょう。ですから、このペトロの決意は大きなことです。しかも、これは主イエスへの信頼に満ちた言葉です。ともすると、私どもはこれ以上やっても無理に決まっていると決めつけてしまいます。そうとしか考えられなくなってしまうことがあります。しかし、「お言葉ですから、・・してみましょう」と、主のお言葉だから、もう一度挑戦してみようと一歩踏み出す時、私どもは自分の力だけを頼りに生きてきた歩みから抜け出すことが出来るのです。

 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったのです。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼みました。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになってしったのです。ガリラヤ湖を知り尽くしているはずのベテラン漁師が夜通し漁をしても、何も獲れなかった。それが、主イエスのおっしゃった通りにすると、網が破れそうになるほどおびただしい魚がかかり、さらには、手を貸してくれた舟と共に二艘の舟を魚でいっぱいにし、舟が沈みそうになったというのです。

 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのです。この時、シモンは大いなる出来事を見ただけでなく、その手でとてつもない網の重さを感じ、全身に戦慄が走ったことでしょう。ペトロは、まさにこの時、主イエスとの真(まこと)の出会いを経験したのだ、と言う人もいます。この時初めて、主イエスがどういう方なのかを、ペトロは知ったのです。それは、「主よ」と主イエスを呼んでいることからも分かります。「主」とは、主なる神、主イエスと言いますように、神を、または神に等しい方を呼ぶ言葉です。

この時のペトロは、大漁の奇跡を目(ま)の当(あ)たりにし、これほどの奇跡を起こす方は、まさに畏(おそ)れ多い方に違いないと気付いたのです。そのため、主イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください」と言うしかなかったのです。これほどの奇跡を起こす方は、聖なる方、主なる神に違いないことにペトロは気付くのです。罪なく真に清い方、俗なる者を寄せ付けない聖なる方に違いないことに気付くのです。そのような方が、罪深い自分のような者の側におられたら、自分は滅びるしかない。そうならないためには、「主よ、わたしから離れてください。」と言うしかなかったのです。ペトロはこの時、震えるような恐怖を感じたのでしょう。

神と人との間には、創造者とその創造者に造られた者という区別がります。そして、世界の支配者とその支配に従う者という区別があるのです。そのことをはっきり認識し、主なる神を畏(おそ)れ敬い、恐れおののくことが、人として忘れてはならない、神に対する基本的な姿勢です。さらに、この箇所で強調されていますように、神と人とは、聖なる罪なき方と罪深い者という区別があります。その認識に基づいて、ペトロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言わざるを得なかったのです。主イエスの奇跡を目の当たりにし、主イエスの神性に触れた時、ペトロは、聖なる方と罪深い者という圧倒的な違いの前に、恐れおののいたのです。そのことを、私どもも深く心に留めたいと思います。

信仰に生きるということは、このように、神と私ども人間をはっきり区別する事、創造者とその創造者に造られた者という違いをはっきりと認識すること、そして、支配者と支配される者という違いをはっきり認識すること、さらには、全き聖なる方と、罪深い自分との違いをはっきり認識することから始めなければなりません。

 モーセは、主なる神の前に恐れおのにきました。しかし、エルサレムの民は、神を畏れ敬うことを忘れてしまいました。そして、ペトロは奇跡を行われた主イエスに恐れおののきました。これらの出来事をしっかりと胸に刻みましょう。私どもも、主を畏(おそ)れ、恐れおののきつつ、主に従う者としていただきまよう。

 

お祈りを捧げます。

 

私どもの主イエス・キリストの父なる神よ。私どもは、あなたと私どもの関係を忘れ、傲慢になります。あなたに恐れおののくことを忘れ、あなたの言葉を粗末にします。どうぞ、そのような私どもをお赦しください。自分のことを弁(わきま)え、あなたの前に、へりくだる者とさせてください。そして、どうぞ、目まぐるしい時代にあって、回りの出来事に惑わされることなく、常にあなたに従う者として、ふさわしく歩ませてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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