日本バプテスト厚木教会
Iglesia Bautista Japonesa de Atsugi
JAPAN BAPTIST ATSUGI CHURCH
2017年9月3日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
イザヤ書 第5章1~7節
1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。 2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。5 さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ6 わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(きょうかん)(ツェアカ)。
「主なる神は私たちのことを嘆いておられる」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。コリントの信徒への手紙 一 第1章3節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
9月に入りまして、朝晩冷え込む日がありました。残暑がありますが、急に秋が近づいて来たような気がしています。秋と言うと皆さんにとって、何が楽しみでしょうか。芸術の秋、読書の秋とも言われます。また、体育、スポーツの秋とも言われます。また、夏とは違ったレジャーを楽しめる時でもあります。ただ私にとっては、何と言っても食欲の秋です。中でも、果物が美味しい季節です。梨、柿、林檎(りんご)などなど、美味しい果物を上げたら、それだけで話が終わってしまうかもしれません。そして、本日の聖書箇所に出てくる、葡萄(ぶどう)があります。一言で葡萄(ぶどう)と言いましても、最近は色々な種類の葡萄(ぶどう)が食べられるようになりました。どれも、個性的な味で、楽しみです。
今、夏が過ぎようとして、少々寂しい思いもしていますが、今年も主なる神が与えてくださる秋の恵みを存分に味わいたいと思っています。
イザヤ書の言葉をご一緒に聴き続けています。第5章に入りました。本日の箇所はこう始まっています。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」
ここでの「わたし」は預言者です。そして、葡萄(ぶどう)畑(ばたけ)を愛して世話をしている「わたしの愛する者」は、読み進んだ7節で万軍の主なる神であることが明らかにされ、葡萄(ぶどう)畑(ばたけ)がイスラエルの家で、植えられた葡萄(ぶどう)がユダの人々であることが明かされます。
初めから2節途中までは、麗しい歌のように聴こえます。ところが2節の終わりで、「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」となり、事態は一変します。
3節に入りまして、1節で預言者から「わたしの愛する者」と呼ばれていた葡萄(ぶどう)畑(ばたけ)の持ち主である万軍の主ご自身が語られます。ですから、ここからの「わたし」とは万軍の主な神です。3節、4節です。「3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」そう言われています。ここでは、万軍の主なる神が、御自分のなさったことに何か不足があったであろうか、と聴き手に訴えています。万軍の主である「わたし」とイスラエルの家である「ぶどう畑」、どちらが間違っているか、裁いみよ、と呼びかけているのです。
そして、遂に審判の言葉です。5節、6節です。「5 さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩(くず)し、踏み荒らされるにまかせ 6 わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生(お)い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。」そう言われています。とても厳しい審(さば)きの言葉です。
そして、最後の7節で、この譬(たと)えが何を譬(たと)えていたかが、明かされます。そして、万軍の主なる神の期待が如何に裏切られたかが、はっきりと述べられるのです。「7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(きょうかん)(ツェアカ)。」
主なる神が、イスラエルの家をユダの人々を、如何に愛し、世話してきたか、しかし、それを裏切るように、ユダの人々は、主なる神に背き、逆らい、主なる神の期待を裏切り、どれだけ悲しませてきたか、そして、今もそうであるかが、語られています。
かつて、エジプトで奴隷ように扱われて苦しんでいたユダの人々を、主なる神はエジプトから導き出し、乳と蜜の流れる地と呼ばれる、ユダヤの地に連れ戻してくださいました。そこで、国を建て、繁栄をもたらしてくださったのです。しかし、ユダの人々は、主なる神のお恵みを忘れ、主の言葉に従わず、さらには、他の神を礼拝するようになってしまったのです。主なる神を裏切り、背き続けたのです。そして、今、預言者は、主なる神の嘆きの言葉をここで伝えているのです。
ここで主が嘆かれているユダの人々とは、今、この言葉を聴いている私どものことでもあります。私どもは、褒められることは好きですが、叱られること、間違いを指摘されることは嫌いです。嬉しくありません。できれば、避けたいです。しかし、それらの間違いを指摘する言葉を避けていると、いつまでもそのままです。改善することが出来ません。自分が正しく生きるためには、自分が良くなるためには、聞くのが辛い指摘もしっかりと聴いて、改めなければなりません。本日のみ言葉を聴くにあたって、私どもに求められている姿勢はそのような姿勢ではないでしょうか。
さて、本日の聖書箇所で、思い出される福音書の主イエスの言葉があります。ヨハネによる福音書 第15章1節以下です。
1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
ここで主イエスは、最初に、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」とおっしゃっています。主イエスが葡萄(ぶどう)の木で、父なる神が農夫なのです。そして、5節で、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」とおっしゃっています。私どもが葡萄(ぶどう)の枝なのです。ここでは、良い実を結ぶにはどうしたらよいかが、はっきりと言われています。これも5節です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」そのように言われています。主イエスとしっかりとつながっていれば、豊かに良い実を結ぶことが出来るのです。ここから、信仰に生きるとは、主イエスにしっかりつながっていることだと言えるでしょう。そうすることが、父なる神の御心なのです。
本日のイザヤ書の言葉を聴く上で、主イエスのこの言葉は、良い導きを私どもに与えてくれると思います。イスラエルの民も、私どもも、父なる神の期待を裏切ってしまった、酸っぱい葡萄(ぶどう)を実らせた葡萄(ぶどう)なのです。そこから、脱するためには、良い実を実らせるためには、主イエスとしっかりつながっていくことが肝心なのです。
さて、本日の「ぶどう畑の歌」から思い出される聖書箇所をもう一つ見ておきましょう。ルカによる福音書 第13章6節以下です。主イエスはここで、一つの譬(たと)え話をされています。ここにもぶどう園が出て来ます。ただし、ぶどう園に植えられているいちじくの木のことが言われています。こうです。
6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7 そこで、園丁(えんてい)に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8 園丁(えんてい)は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ここに登場する「ある人」と言われているぶどう園の所有者は、主なる神と見ることが出来るでしょう。そして、「園丁(えんてい)」は主イエス・キリストと見ることが出来るでしょう。そうしますと、ここでの「いちじく」とは、私どものことでしょう。そして、ここでは、葡萄(ぶどう)ではなく、いちじくですが、三年も実がならないのです。酸っぱい実も困ったものですが、全く実を付けないのも困ったものです。三年も待ったのに、実を付けないのです。「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と葡萄(ぶどう)園の所有者が言っても不思議はありません。「切り倒せ」とは、厳しい言葉のように聞こえますが、それまで三年も待ったことを思えば、致し方(かた)ないでしょう。この葡萄(ぶどう)園の所有者は決して情け容赦のない方ではないのです。しかし、もうこれ以上待てないとおっしゃるのです。
しかし、それに対して、園丁(えんてい)は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と申し出るのです。もう一度チャンスを与えて下さいと懇願(こんがん)しているのです。
義なる神は、憐れみ深い神でもあります。ですから、この譬(たと)え話のように、「三年も」待ってくださるのです。期待を持って待っていて下さるのです。しかし、我慢にも限界があります。いよいよ、審(さば)きを下さざるを得なくなった時です。主なる神の御子、主イエスは、どうか、もう一回チャンスを与えて下さい。何とか私がやってみますから、もう一年待って下さい。そのように即審(さば)かれて当然の私どものために執り成してくださるのです。
ローマの信徒への手紙 第8章34節では、こう言われています。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
そうです。御子主イエスは、「神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。主イエスはそういう方なのです。
父なる神は義なる神です。御心に逆らう私どもを、そのままになされる方ではありません。厳しい審(さば)きをもって私どもに臨まれる方です。しかし、同時に、常に私どもを執り成してくださる御子主イエスを私どもに救い主として与えてくださったのです。
主なる神の嘆きの言葉を真剣に聴いてまいりましょう。私どものことを嘆いておられるのですから、正直言って、聴かないで済ませられるなら、そうしたいところです。しかし、今、ここで真剣にお聴きし、自分の真実の姿を認め、悔い改めて、赦しを冀(こいねが)ってまいりましょう。御子主イエスが私どものために執り成してくださっているのですから、今が主なる神に立ち帰るチャンスなのです。この機を逃さず、審きではなく、赦しと救いに与れるように、主なる神に向き直って、従ってまいりましょう。
お祈りを致します。
私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。私どもはあなたから計り知れない恵みを頂いていながら、どれほどあなたの期待を裏切ってきたことでしょう。どれだけあなたを悲しませてきたことでしょう。どうか、私どもにあなたの言葉を真剣にお聴きする耳を与えて下さい。あなたの前から逃げるのでなく、あなたの前に進み出て、あなたの厳しいお言葉を真剣に聴く者とさせてください。そして、御子主イエスがいつも私どものために執り成してくださっていますから、御子におすがりして、あなたの憐れみにおすがりして、赦して頂くことが出来ますようお導き下さい。どうぞ、私どもを滅びからお救い下さい。あなたに立ち帰って、救いを頂き、あなたに従って歩ませて下さい。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2017年9月10日 日本バプテスト厚木教会 創立記念礼拝
士師記 第6章11~24節
11 さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。12 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」13 ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」14 主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」15 彼は言った。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」16 主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」17 彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。18 どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われた。
19 ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調(ととの)え、肉を籠に、肉汁(にくじゅう)を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。20 神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁(にくじゅう)を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。21 主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。22 ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」23 主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」24 ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。それは今日(こんにち)もなお、アビエゼルのオフラにあってそう呼ばれている。
「主なる神はあなたと共におられます」
教会創立117周年、おめでとうございます。
今週も、主イエスが甦られた一週間の初めの日の日曜日に、みなさんとご一緒に礼拝をお捧げできますことを感謝致します。本日も、皆さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めさせていただきます。コリントの信徒への手紙 一 第16章23節の言葉です。「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」。
今日、私たちは、今、賛美してくれました教会学校のお友だちと共に、教会創立記念礼拝を捧げています。以前、教会学校のある先生が、今日のことを、「教会のお誕生日です」とおっしゃっていました。そう今日は教会のお誕生日。日本バプテスト厚木教会は117歳になりました。
私たちは、1900年、明治33年、9月に、井出伊之助先生が初代牧師として来てくださり、厚木町の井上潤之助さんが持っていた家に講義所を開いたことを、教会創立日、教会の誕生日としています。
ところで、教会によっては伝道開始を教会の誕生日としている教会もあります。私どもの場合そう考えると、1900年から遡(さかのぼ)ること18年、1882年、明治15年頃になります。その頃、宣教師のミズ・サンズ先生をはじめ伝道師の苗村(なえむら)かく先生、重本千代先生、伊達謙さんたちのはたらきで、この厚木の地での伝道が始まりました。
また、第六代牧師の阿部祐四郎先生は、1905年、明治38年、11月23日に、講義所を教会組織としたことを教会設立と考えていらっしゃって、その日を記念の日とされていたとの記録も残っています。現在、当教会は、11月をリバイバル月間としています。
私はこう思います。「ローマは一日にして成らず」と言われるように、キリスト教会も、そして、この日本バプテスト厚木教会も一日にしては成らず、初めの伝道から始まって、何年も、そして、何人もの方がはたらいてくださり、少しずつ少しずつ形ができ、それが受け継がれ、受け継がれ、現在の日本バプテスト厚木教会があるのです。
その間、教会の活動が振るわず、一旦は、教会を閉めてしまうことが決まったこともありました。そして、関東大震災、日中戦争、太平洋戦争と、困難な時もありました。しかし、皆が祈りつつ教会を支え、アメリカの教会からの支援もあり、教会は続いてきました。そして、今から84年前には厚木幼稚園も始まりました。
今年も、教会学校だよりの「ぶどうの木」9月号の表に、日本バプテスト厚木教会の歴史を短くまとめておいてくれましたので、まだご覧になってない方は、あとでご覧になってください。
先程、旧約聖書、士師記の言葉を読んでもらいました。今日の聖書箇所は、今、教会学校の礼拝で子どもたちが聴いています士師記の言葉です。この頃のイスラエルの国にはまだ王様がいませんでした。士師と呼ばれる人が、皆の指導者、リーダーとして、神さまから与えられた役目を果たしていました。今日登場する士師はギデオンと言う人です。ちなみに、このギデオンという名前は、ギデオン協会という世界中で無料で、ただで、聖書をプレゼントしている団体の名前として、今使われています。
そのギデオンが、お父さんのヨアシュの持ち物であるテレビンの木の近くで小麦を打っていました。そこに、神さまの御使い、天使が来て、テレビンの木の下に座ったのです。その時の様子を描いたのがこの絵です。右側にいるギデオンが麦を打っています。左の奥のテレビンの木の下に天使が座っています。天使はギデオンに言いました。「勇者よ、神さまはあなたと共におられます。」あなたは、もしかしたら、自分は一人だと思っているかもしれない。自分を助けてくれる人は誰もいないかもしれない。そう思っているかもしれない。しかし、そんなことはない。神さまはあなたといつも一緒にいて、あなたを守り、助けてくれる。神さまは、あなたを一人にはしておかないよ、ということです。今日の説教題「主なる神はあなたと共におられます」は、この天使の言葉から頂きました。
一方、その言葉をいただいたギデオンは天使に言いました。「わたしの主よ、お願いします。主なる神さまがわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」ギデオンはそう言ったのです。ギデオンが言ったことはこうです。神さまが一緒にいてくださるというのなら、そして、私たちの先祖の人たち神さまによってエジプトから助け出されたと言い伝えられたことは、今はどうなってしまったのですか。今、神さまは私たちを見捨てて、私たちを敵のミディアン人に引き渡されたではないですか。ギデオンはそう言ったのです。ギデオンは、天使が、神さまはいつもあなたと一緒ですよと言ってくれても、最近の状況から、その言葉をすぐには信じられなかったのです。
そこで、天使は神さまに代わってギデオンの方を向いて言いました。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」そう天使は神さまに代わって言ったのです。神さまがギデオンを遣わして、イスラエルの人々をミディアン人から救い出してくださると言ったのです。その言葉を聞いて、ギデオンは言いました。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」そう言ったのです。ギデオンは自分が小さく弱いことを知っていました。そこで、どうすれば、仲間のイスラエルの人々を救えるか教えてくださいと、お願いしたのです。天使は神さまに代わってギデオンに答えます。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」そう答えてくれたのです。神さまはわたしがあなたと一緒にいるよと繰り返しおっしゃられたのです。さらにギデオンは言います。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」そう言って、供え物を持って帰って来るまで、ここにいらしてくださいと頼みました。神さまに代わって天使は言います。「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われたのです。
ギデオンはすぐに行って、子山羊一匹、麦粉(むぎこ)の酵母を入れないパンを調(ととの)え、肉を籠に、肉汁(にくじゅう)を壺に入れ、テレビンの木の下にいる天使に差し出しました。天使は、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁(にくじゅう)を注ぎなさい」と言います。ギデオンはそのとおりにします。すると、天使は、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くしたのです。すると、天使の姿は消えていました。ギデオンは、この方が神さまの御使い、天使であることをようやく悟ったのです。ギデオンは叫びます。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」当時、天使を見てしまったら、死んでしまうと思われていたのです。しかし、神さまはギデオンにこう言われました。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」そこで、ギデオンはそこにの神さまのための祭壇を築き、「平和の主」と名付けました。
このように、ギデオンは、最初、神さまが自分たちと一緒にいてくれるとの言葉を素直に信じられませんでした。しかし、お供え物を捧げると、神さまがそれを受け入れてくださったのをその目で見て、神さまがおっしゃることが、嘘ではないとの確信を得たのです。こうして、ギデオンは神さまに遣わされ、ミディアン人からイスラエルの人たちを救うことが出来たのです。
さて、神さまがいつも一緒にいてくださるというお言葉は、かつて神さまから遣わされてイスラエルの人たちをエジプトから脱出させたモーセも頂きました。出エジプト記第3章12節では、こう言われています。
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
また、モーセの後を継いで、イスラエルの人たちを導いたヨシュアも、同様の言葉を頂いています。ヨシュア記 第1章5節です。神さまの言葉です。
一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。
このように、神さまは、モーセとも、ヨシュアとも、そして、今日の聖書箇所に登場したギデオンとも、一緒にいてくださり、彼らを守り助けてくださったのです。
さて、神さまが一緒にいてくださったのは彼らだけではありません。このことは聖書の中で繰り返し言われているからです。では今度は新約聖書で見てみましょう。イエスさまがお生まれになることを天使がヨセフさんに告げた言葉の中にこういう言葉があります。マタイによる福音書第 第1章23節です。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
イエスさまには、もう一つお名前があって、その意味は、神さまは私どもと一緒にいてくださると言う意味ですよ、と天使が教えてくれました。実はこの言葉は、元々、今大人の人たちが礼拝の中で聴いていますイザヤ書の中にある言葉なのです。
そして、もう一つマタイによる福音書の最後、第28章20節で、イエスさまご自身がこうおっしゃっています。
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
そうです。神さまも、イエスさまも、いつも私どもと一緒にいてくれるのです。
私は思います。神さまがいつも一緒にいてくださったからこそ、日本バプテスト厚木教会は、このように117年間も続いて来たのだと。
先程申しました教会学校だより「ぶどうの木」の9月号の「厚木教会の歴史」にも書かれていますように、1923年、今から94年前、関東大震災という大きな地震がありました。この地震によって、教会がどれだけの被害を受けたか。教会員や関係者の中で何人の方が亡くなり、ケガをし、家が壊れたかは、記録に残っていません。ただ想像するに大きな犠牲、被害があったことと思います。そして、これで、閉鎖、教会を閉じる事を引き延ばしてもらった厚木教会も、これで終わりと多くの方が思ったことでしょう。しかし、大地震に対するアメリカ合衆国から募金を頂いて、厚木教会は閉鎖されず、続けることが出来たのです。今申しましたように、関東大震災での犠牲と被害は非常に大きかったに違いいありません。しかし、神さまはそのような中にあった厚木教会をお見捨てにはならなかったのです。神さまは、教会と一緒に、みんなと一緒にいてくださり、教会を続けさせてくださったのです。
2000年に私どもの教会は100周年をお祝いいたしました。その時、記念誌として、「神をたたえて」が発行されました。その中に、昨年、ご紹介した下平潤子さんが証しを書かれていて、その終わりの方でこう言われています。
毎年クリスマスが近づくと聖書の御言葉が愚かな私に何かを教え力づけてくれる。今年与えられたのは、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」であった。この聖句は、関東学院長であられた坂田先生がよく子どもたちにも、私たちにも教えてくださった御言葉でしたが、これこそクリスマスの私たちに賜った喜びの音信であったと今年は深く思い知り、感謝に満たされています。イエス・キリストのご誕生こそインマヌエルだったことを、そして、弱く愚かな罪人の頭の私に、この世に旅もまたその果ての死も超えさせて下さる聖言と確信し、ただ神さまの絶大な御愛を感謝しています。
そのように、下平潤子さんは言われていました。同じ、記念誌の証しで、今日、残念ながらいらっしゃれなかった佐藤照代姉も、この「インマヌエル」という言葉で、証しを結ばれています。
天使がギデオンに言った言葉、「主はあなたと共におられます」との御言葉を心に刻み、これからも、神さまは、教会と共に、私どもと共にいてくださる確信を強くして、毎週の礼拝を捧げてまいりましょう。
お祈りを捧げます。
私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神さま。今日、教会の創立記念礼拝をお捧げ出来ましたことを感謝致します。どうぞ、これから私どもと一緒にいて、私どもをお守り、お導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2017年9月17日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
イザヤ書 第5章8~24節
8 災(わざわ)いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。9 万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は/必ず荒れ果てて住む者がなくなる。10 十ツェメドのぶどう畑に一バトの収穫/一ホメルの種に一エファの実りしかない。11 災(わざわ)いだ、朝早くから濃い酒をあおり/夜更けまで酒に身を焼かれる者は。12 酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず/御手の業を見ようともしない。13 それゆえ、わたしの民はなすすべも/知らぬまま捕らわれて行く。貴族らも飢え、群衆は渇(かわ)きで干上(ひあ)がる。14 それゆえ、陰府(よみ)は喉(のど)を広げ/その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も/騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む。15 人間が卑(いや)しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。16 万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。17 小羊は牧場にいるように草をはみ/肥えた家畜は廃虚(はいきょ)で餌(えさ)を得る。18 災(わざわ)いだ、むなしいものを手綱として、罪を/車の綱として、咎(とが)を引き寄せる者は。19 彼らは言う。「イスラエルの聖なる方を急がせよ/早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう。」20 災(わざわ)いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし/苦(にが)いものを甘いとし、甘いものを苦(にが)いとする。21 災(わざわ)いだ、自分の目には知者であり/うぬぼれて、賢いと思う者は。22 災(わざわ)いだ、酒を飲むことにかけては勇者/強い酒を調合することにかけては/豪傑(ごうけつ)である者は。23 これらの者は賄賂(わいろ)を取って悪人を弁護し/正しい人の正しさを退ける。24 それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし/炎が枯れ草を焼き尽くすように/彼らの根は腐(くさ)り、花は塵(ちり)のように舞い上がる。彼らが万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なる方の言葉を侮(あなど)ったからだ。
「高ぶる者の目は低くされ、聖なる神はあがめられる。」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。コリントの信徒への手紙 二 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
イザヤ書の言葉をご一緒に聴き続けています。今日の箇所をお聴きになって、皆さんは、どんな印象をお持ちになられたでしょうか。どんな言葉が印象に残りましたでしょうか。同じ言葉を聴いても、私どもはそれぞれ、注意が向く言葉は異なります。ですから、どの言葉が印象に残るかは、その人それぞれです。そうであって良いのです。ただ、本日の箇所において、「災いだ」という言葉が、多くの方々の印象に残ったのではないでしょうか。まず「災いだ」、その言葉で始まります。繰り返し出て来ます。合計6回出て来ます。
この「災いだ」という言葉、原語のヘブル語では間投詞で、「ああ」とか、「ああ悲しいかな」とも訳せる言葉です。9節で、「万軍の主はわたしの耳に言われた」とありますので、本日の箇所も預言者イザヤが伝える、万軍の主なる神の言葉です。ですから、「災いだ」との嘆きの言葉も、万軍の主なる神の嘆きの言葉なのです。では、何を嘆かれているのでしょうか。いくつもあります。ただ、最初の嘆きは、本日の箇所の小見出し、本日の箇所の前に太字で書かれていますように、「富める者の横暴」に対する嘆きです。こう言われています。8節です。「災(わざわ)いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている」。富める者が自分の富を増やすことばかりに心を向け、独り占めにしようとしているのです。貧しい者のことなどこれっぽっちも考えていないのです。当時、イスラエルの民は繁栄し、豊かになるのです。その一方で、主なる神への礼拝は疎かにされていくのです。
このような富の集中傾向は、今日(こんにち)益々強まっていると言われます。少し前、「世界人口の半分の人の財産と同じ富が62人の富豪に集中している」との調査が報告されました。 世界ではわずか62人の富豪が、最貧層35億人分と同じだけの富を所有しているというのです。この62人の富は1兆7,600億ドルに上り、世界人口の半分以上の人たちが持っている資産を合わせた額を上回ったというのです。今日(こんにち)、富豪の中には巨額の寄付をする方がいます。また、慈善事業の団体も多くあります。しかし、貧困の問題は解決されていません。また、昨今、日本でも子ども貧困が大きな社会問題となっています。なかなか、目に見えにくいために、見過ごされがちになっていますが、国の将来のためにも、私どもの将来のためにも、子どもの貧困は早急に解決しなければならない問題だと思います。
これらの貧困問題の解決は一筋縄ではいかないでしょう。その中でも、預言者イザヤが万軍の主の言葉として、ここで告げているように、「富める者の横暴」は大きな問題として、私どもも真剣に向き合わなければならい課題だと思います。「災(わざわ)いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている」
続く9節では、そのような横暴に対する主なる神の審判が告げられます。「9 万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は/必ず荒れ果てて住む者がなくなる」。富める者の繁栄は一時的であって、あっという間に荒廃へと向かうのです。続く10節では、如何に少ない収穫となってしまうかが告げられます。「十ツェメドのぶどう畑に一バトの収穫/一ホメルの種に一エファの実りしかない」。ここで言われている面積を表す単位「ツェメド」とは、軛(くびき)でつないだ一組の牛が一日に耕作する土地の広さで、約2,500平方メートルです。ですから、十ツェメドとは、約二万五千平方メートルの土地ということです。バトとは、約23リットルです。ですから、約二万五千平方メートルとう広大な土地に、約23リットルの収穫しかないということです。ホメルとは、約230リットル(200リッターから400リッターの間で時代によって変化したという説もある。)です。そして、エファとは、約23リットルです。ということは、種を蒔いても、その種の十分の一の実りしかないということです。富める者の家が荒廃すると共に、農作物の収穫が激減し、皆が貧しくなってしまうということです。
続く11節、12節では、酒をあおってばかりいて、自分を喜ばすことには熱心なのに、主なる神にちっとも目を向けようとしない者たちのことが告げられます。「11 災(わざわ)いだ、朝早くから濃い酒をあおり/夜更けまで酒に身を焼かれる者は。12 酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず/御手の業を見ようともしない」。
自分の楽しみが一番で、主なる神のことは、二の次、三の次なのです。そして、主なる神の審判は、富める者たちだけでなく、群衆にも及ぶのです。13節です。「13 それゆえ、わたしの民はなすすべも/知らぬまま捕らわれて行く。貴族らも飢え、群衆は渇(かわ)きで干上(ひあ)がる。14 それゆえ、陰府(よみ)は喉(のど)を広げ/その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も/騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む」。
そして、続く15節、16節で、人間と聖なる神との違いが明確に語られます。ある解説者は本日の箇所の中心はここにあると言います。15節、16節です。「15 人間が卑(いや)しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。16 万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる」。
私どもはちょっとしたことで、傲慢になります。また、常に他の人より上に立っていたいという卑(いや)しさがあります。それらの傲慢や卑しさに気付いて、そうしないようにしているなら良いのです。しかし、多くの場合、それに気付かないのです。そして、気付いていても、他の人の目を誤魔化(ごまか)せると思うのです。しかし、多くの場合、神の目に全てが明らかなように、人の目にも、手に取るように明らかなのです。そのことに気付かずにいることはむしろ愚かなこと、惨(みじ)めなことです。ただ、今申したことの逆で、他の人が傲慢であったり、他の人より上に立っていたいという卑(いや)しさは、一目瞭然なのです。ですから、私どもは、自分の罪を、自分の過ちを、それら反面教師からしっかり学べば良いのです。しかし、しばしば、私どもは、正しい教師である主イエスの言葉を、そして、今聴いていますある意味教師の一人である預言者の言葉を、真剣に聴けないように、反面教師のすることを自分に当てはめ、自分を戒めるということもなかなか出来ないのです。
「15 人間が卑(いや)しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。16 万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる」。人間はどんなに頑張っても、所詮卑しい存在。それゆえ、あがめられるべき聖なる神に頼って、聖なる神のみ言葉に耳を傾けなければ、衰え滅びるのです。このように私どもが毎週礼拝を捧げ、聖なる神を賛美し、聖なる神に祈りを捧げ、聖なる神のみ言葉に耳を傾け、そのみ言葉に従おうとしているのも、そのためです。
内からの声と外からの声ということが言われます。世の中では、内側からの声、自分の内面から聞こえる声を静かに聴こうということが時々言われます。自分の本音はどうなのか。自分が本当に願い望む事は何なのか、静かになって、自分の内なる声を聴いてみようというのです。それは、それなりに意味があることだと思います。
しかし、信仰において、まず大切にされるべきは、外からの声、外からの言葉です。それは、聖なる神が私どもに向かって語りかけてくださる言葉です。私どもはそれらの言葉を、聖書の言葉の中から聴こうとしています。しかも、自分一人で聖書の中から聴くだけでなく、信仰共同体である教会の礼拝、集会の中で聴こうとしています。それは、外からの声、外からの言葉を自分勝手に聴かないためです。信仰共同体である教会において、正しく信仰を受け継ぐ教会において、信仰の兄弟姉妹と共に聴くのです。そして、精一杯そのように生きようとするのです。
しばしば、私どもは聖なる神の言葉を聴いても、それを自分自身に当てはめて聴くことを怠けてしまいます。その一つの理由は、そうすることは、一人で聖なる神の前に立つことだからです。他の人が、裁判において、被告となっている様子を見ることは平気でも、多くの人にとって、自分が裁判の被告として、裁判官の前に立つことは耐え難いことです。それと同様に、いやそれ以上に神の前に一人で立つことは、厳しく、出来るならそうしたくありません。しかし、その覚悟をもって、聖なる神のみ言葉を聴かなければ、み言葉は人ごとで、目の前を通り過ぎて行くのです。または、よく言われるように、右の耳から入って、左の耳に抜けて行くのです。確かにその方が気楽です。しかし、それでは、折角、聖なる神のみ言葉を聴いても、そのことが何の足しにもならないのです。み言葉をポイと捨てているに等しいのです。
「15 人間が卑(いや)しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。16 万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる」。今日、私どもは、このみ言葉を心に刻みたいと思います。そして、卑しく、低くされ、そのままであると滅びに向かってしまう自分の呟(つぶや)きを聴くのではなく、聖なる神のみ言葉、常にあがめられるべき聖なる神のみ言葉を真剣に聴いてまいりたいと思います。
本日の箇所は、こう結ばれています。24節です。「それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし/炎が枯れ草を焼き尽くすように/彼らの根は腐(くさ)り、花は塵(ちり)のように舞い上がる。彼らが万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なる方の言葉を侮(あなど)ったからだ」。厳しい審(さば)きの言葉です。この後、北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、そして、南ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、それぞれ、多くの働き手が捕虜となって連れられていく、捕囚を受けるのです。主の審(さば)きの預言が現実のものとなるのです。
ではなぜ、主の審(さば)きを受けなければならないのでしょうか。24節の終わりで、はっきりと言われています。「彼らが万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なる方の言葉を侮(あなど)ったからだ」。そうなのです。主なる神の教え、主なる神の言葉を拒むのです。心の中でそんなもの聴いてもしょうがないという侮(あなど)りがあるのです。そのために、目の前の繁栄がいつまでも続くかのような錯覚に陥(おちい)り、自分を喜ばすことばかりに心を向けるのです。これは、イスラエルの民の罪の指摘であるばかりでなく、今この言葉を聴いている私どもに、聖なる神が預言者イザヤを通して語っておられる言葉です。
私どもは、本日の聖なる神の「災いだ」との嘆きを真剣に聴かなければなりません。なぜなら、今、聖なる神は私どものことで、嘆きの言葉を挙げられているからです。この言葉を今自分に向けて語られた言葉として聴き、24節終わりの言葉、「彼らが万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なる方の言葉を侮(あなど)ったからだ」との言葉を、「この私が万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なる方の言葉を侮(あなど)ったからだ」と言い換えて、神の前に跪(ひざまず)くことが、今、私どもに求められています。
今日与えられた聖なる神のみ言葉を真剣に聴き、心に刻み、自分のこれまでの生き方を悔い改め、聖なる神に立ち帰りましょう。常に自分を吟味し、真剣にみ言葉に従ってまいりましょう。
お祈りを捧げます。
私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。どうか、私どもにあなたの言葉を真剣にお聴きする耳を与えて下さい。あなたの前から逃げるのでなく、あなたの前に進み出て、あなたの厳しいお言葉を真剣に聴く者とさせてください。御子主イエスがどんなに忙しい時も、どんなに疲れている時も、一人退いて、あなたに祈りを捧げ、あなたの声に耳を傾けたように、私どももひたすらあなたに聴く者とさせてください。
どうぞ、私どもを滅びからお救い下さい。あなたからの審(さば)きの言葉を聴くことのないように、あなたに立ち帰って、救いを頂き、あなたに従って歩ませて下さい。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2017年9月24日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝
イザヤ書 第5章25~30節
25 それゆえ/主は御自分の民に向かって激しく怒り/御手を伸ばして、彼らを撃たれた。山々は震え/民のしかばねは芥(あくた)のように巷(ちまた)に散った。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。26 主は旗を揚げて、遠くの民に合図し/口笛を吹いて地の果てから彼らを呼ばれる。見よ、彼らは速(すみ)やかに、足も軽くやって来る。27 疲れる者も、よろめく者もない。まどろむことも、眠ることもしない。腰の帯は解かれることがなく/サンダルのひもは切れることがない。28 彼らは矢を研ぎ澄まし/弓をことごとく引き絞っている。馬のひづめは火打ち石のようだ。車輪は嵐のように速(すみ)い。29 彼らは雌(め)獅子(じし)のようにほえ/若(わか)獅子(じし)のようにほえ/うなり声をあげ、獲物を捕らえる。救おうとしても、助け出しうる者はない。30 その日には、海のごう音のように/主は彼らに向かって、うなり声をあげられる。主が地に目を注がれると、見よ、闇が地を閉ざし/光も黒雲に遮(さえぎ)られて闇となる。
マタイによる福音書 第25章31~46節
31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇(かわ)いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇(かわ)いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪(のろ)われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇(かわ)いたときに飲ませず、43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇(かわ)いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
「主なる神の怒りはやまず、我々になすすべはないのか。」
今週も、主イエスが復活された週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。コリントの信徒への手紙 二 第13章13節の言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。
イザヤ書の言葉をご一緒に聴き続けています。本日の箇所は、第5章25節以下です。
25節は「それゆえ」という言葉で始まっています。その前に語られたことを受けて、「それいえ」なのですが、ここで言う「それゆえ」とは、どういうことでしょうか。前回の箇所、第5章8節から24節までは、「富める者の横暴」という小見出しが付けられていて、「災いだ」という言葉が6回も繰り返されていました。「災いだ」とは、預言者が告げる万軍の主なる神の嘆きです。イスラエルの民に対する嘆きです。当時、経済的に発展し、富める者たちはさらに裕福になり、富を独り占めしようとしていたのです。その一方で、万軍の主なる神を蔑(ないがし)ろにしていたのです。神が「災いだ」と嘆かれるのは当然です。そのような状況を受けての「それゆえ」なのです。25節です。「それゆえ/主は御自分の民に向かって激しく怒り/御手を伸ばして、彼らを撃たれた。山々は震え/民のしかばねは芥(あくた)のように巷(ちまた)に散った。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ」。そう言われています。神を省みないイスラエルの民に向かって、神が激しく怒られるのです。当然でしょう。神が御自分の民に怒り、彼らを撃たれたのです。審判が下ったのです。山々は揺れ動き、イスラエルの民の死体は、ごみ、くずのように、散らばっているのです。悲惨な状況です。しかし、それで神の怒りが治まったと思ったら、大間違いです。イスラエルを打たれた神の御手は延ばされたままなのです。
今、見ましたように、神が何に向かって怒っておられるのか、前回の箇所から分かります。民の奢(おご)りです。自分の事ばかり考え、他の人のこと、そして、神のことを軽んじたことです。それに対する神の怒りです。
そして、イザヤがこの預言をしたよりも後(あと)の時代、列王記 下 第22章で、何に対して、主の怒りが下るかが語られています。13節では、自分たちの先祖たちが、のちの申命記と呼ばれる書物に耳を傾けず、今度は、自分たちがそこに書かれていることを行わなかったことに対して、神の怒りが下るだろう。だから、神の御旨を尋ね求めていかなければならないと言っています。列王記 下 第22章13節です。南ユダ王国のヨシヤ王が命じた言葉です。「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ。」そう言われています。
さらに、そのすぐあと、第22章17節では、主なる神以外の神を礼拝したこと、偶像礼拝したことに、神が怒られていることを、主ご自身がおっしゃっています。「彼らがわたしを捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で造ったすべてのものによってわたしを怒(いか)らせたために、わたしの怒(いか)りはこの所に向かって燃え上がり、消えることはない。」そう言われています。
このように、人の奢(おご)りに対して、聖書のみ言葉を聴かない事に対して、み言葉を行わない事に対して、主なる神を軽んじ、主以外のものを礼拝することに対して、神の怒りが下っているのです。
では、主なる神はその怒りをどのように表されるのでしょうか。それは、本日の箇所の小見出しにありますように、「遠くからの敵」によってです。具体的には、アッシリアとバビロンです。強力な武力を持った国が攻め上って来るのです。26節です。「主は旗を揚げて、遠くの民に合図し/口笛を吹いて地の果てから彼らを呼ばれる。見よ、彼らは速(すみ)やかに、足も軽くやって来る」。主なる神が、イスラエルをご自分の民、神の民とされた主なる神ご自身が、旗を揚げ、合図し、口笛を吹いて、敵を呼ばれるのです。
昔、ある国が戦(いくさ)に負け、滅ぼされた場合、普通、その国で信じられていた神への信仰は無くなってしまいます。国が負けただけでなく、その国の神が敵に負けたのです。信仰が無くなるのは、信じていた人たちが散らされてしまうからでもありますが、そんな弱い神を信じてもしょうがないという思いもあったでしょう。
しかし、イスラエルの神、主なる神は違います。天地創造された方であり、世界の支配者です。そして、26節で言われますように、神がアッシリア、バビロンなどの敵を用いて、厳しい審判を下されるのです。決して、主なる神が敵の神より弱いからイスラエル王国や南ユダ王国が負けたのではありません。敵に攻め上られるのは、主なる神からの審(さば)きなのです。
さて、攻めて来る敵の勢いは、衰えません。27節、28節です。「27 疲れる者も、よろめく者もない。まどろむことも、眠ることもしない。腰の帯は解かれることがなく/サンダルのひもは切れることがない。28 彼らは矢を研ぎ澄まし/弓をことごとく引き絞っている。馬のひづめは火打ち石のようだ。車輪は嵐のように速(すみ)い」。
そして、敵は獲物に狙いをつけたライオンのようで、狙われた者には、もはや助かる望みはないのです。29節です。「彼らは雌(め)獅子(じし)のようにほえ/若(わか)獅子(じし)のようにほえ/うなり声をあげ、獲物を捕らえる。救おうとしても、助け出しうる者はない」。
さらに、敵ではなく、イスラエルの民を審(さば)く主なる神ご自身が唸(うな)り声を上げられるのです。そして、敵に襲われたイスラエルの民がいる地上は、暗闇となるのです。30節です。「その日には、海のごう音のように/主は彼らに向かって、うなり声をあげられる。主が地に目を注がれると、見よ、闇が地を閉ざし/光も黒雲に遮(さえぎ)られて闇となる」。
敵の侵略の前に、神の民イスラエルはなすすべがないのです。
この預言は、アッシリアが北イスラエル王国を攻撃してくる直前に語られたものと言われています。その後、アッシリアは北イスラエルの都、サマリアを陥落させ、さらにその後、アッシリアのサルゴン二世は北イスラエル王国を滅ぼすのです。
本日のイザヤ書の言葉で、私の印象に残った言葉は、25節後半の言葉、「しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。」です。神の審きが下るのです。「民のしかばねは芥(あくた)のように巷(ちまた)に散っている」のです。神の怒りに触れ、審きが実行に移され、その結果、悲惨な状況が目の前に広がるのです。しかし、それでも足りないのでしょうか。主の怒りは止まないのです。本日の説教題はここから取らせて頂きました。「主なる神の怒りはやまず」です。そして、そのあとに、「我々になすすべはないのか」と付けました。そのあと、主なる神は遠くからの敵を呼び寄せられ、ご自身の審(さば)きを彼らにさせるのです。敵は速(すみ)やかにやって来るのです。この箇所を聴く限りでは、イスラエルの民には、もうなすすべはないのです。この中でも言われていますように、ライオンの餌食(えじき)になるように、審(さば)きを受けるしかなのです。もう遅いのです。主なる神に立ち帰って、神の憐れみにおすがりして、何とかして審きを免れさせていただく期限はとっくに過ぎてしまったようです。もうこうなったら、なすすべはないのです。
では、いつだったら、神の憐れみにおすがりできたのでしょうか。残念ながら、その境目(さかいめ)がどこにあるのか、分かりません。ただ、もし分かったとして、ここまでであれば、神は赦して頂けるなどと流暢(りゅうちょう)なことを言っているような者を主なる神はお赦しにならないでしょう。また、まだまだ大丈夫などと言っていると、一線を越えてしまい、取り返しがつかないことになってしまうのが世の常です。
皆さんは、茹(ゆ)茹(ゆ)で蛙(がえる)の譬えをご存じでしょうか。こういう話です。「二匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩(ゆる)やかに温度が上昇する冷水に入れる。すると、前者、すなわち、熱湯に入れた蛙は直ちに飛び跳ね脱出して、火傷(やけど)はするものの助かるのに対し、後者、冷水に入れた蛙は緩(ゆる)やかに温度が上昇するために、油断していて、危険を察知する時期を逸(いっ)してしまい、茹(ゆ)で蛙(がえる)になってしまう」というものです。実際にそうなるかどうか実験した方もあるそうです。しかし、私に言わせてもらえば、事実はどうであっても構いません。あくまでこれは譬えであって、真実ではなくても、ある真理を分かり易く譬えたものだと思います。生(なま)温(ぬる)い中にいると、警戒心を持たず、危険を察知できず、逆戻り出来ない滅びへと堕ちて行ってしますのです。
では、どうしたら良いでしょうか。イスラエルの民に、神に立ち帰るように促(うなが)した預言者たちは、イザヤの前にもいたことでしょう。しかし、その時は実感をもって聞けなかったのかもしれません。でも、それでは駄目なのです。早く本気にならないと手遅れになってしまうからです。
本日、マタイによる福音書の記事も与えられました。本日注目するのは、マタイによる福音書 第25章のその前の話までは、譬えであったのに、31節に入ると、最後の審判の場面を思わせる預言の言葉になることです。これは譬えではなく、実際にこうなると告げられた言葉なのです。31節から32節です。「31 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。」そう言われています。そして、右にいる者たちに国を受け継がせるのです。一方、左にいる者には永遠の火が用意されているのです。34節と41節です。初めに、国を受け継ぐ人たちです。34節です。「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』」そう言われるのです。そして、次に永遠の火に入れられる人たちです。41節です。「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪(のろ)われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』」そう言われるのです。46節で言われるように、「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのです。」
ここで、祝福を受ける者と呪いを受ける者たちは両者とも、自分がしてきたことに対して無自覚です。しかし、この言葉を聴いた私どもは、これから自分のすることに無自覚ではいられません。そして、本日、イザヤ書の言葉も聴きましたから、神の審判の恐ろしさを知らないとは、もう言えません。では、どうしたらよいのでしょうか。コマーシャルの言葉ではありませんが、「今でしょう」なのです。神のみ言葉を聴いた今、この時が、悔い改めるチャンス、神に立ち帰るチャンスなのです。
先日もこの聖書箇所を引用しましたように、主イエスは悔い改めるに遅く、なかなか神に立ち帰らない私どものために、父なる神に猶予を求めてくださいます。ルカによる福音書 第13章6節以下です。
6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7 そこで、園丁(えんてい)に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8 園丁(えんてい)は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ここに登場する「ある人」と言われているぶどう園の所有者は、主なる神と見ることが出来るでしょう。そして、「園丁(えんてい)」は主イエス・キリストと見ることが出来るでしょう。そうしますと、ここでの「いちじく」とは、私どものことでしょう。三年も実がならないのです。全く実を付けないのですから、困ったものです。三年も待ったのに、実を付けないのです。「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と葡萄(ぶどう)園の所有者が言っても不思議はありません。「切り倒せ」とは、厳しい言葉のように聞こえますが、それまで三年も待ったことを思えば、致し方(かた)ないでしょう。この葡萄(ぶどう)園の所有者は決して情け容赦のない方ではないのです。しかし、もうこれ以上待てないとおっしゃるのです。
しかし、それに対して、園丁(えんてい)は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と申し出るのです。もう一度チャンスを与えて下さいと懇願(こんがん)しているのです。
義なる神は、憐れみ深い神でもあります。ですから、この譬(たと)え話のように、「三年も」待ってくださるのです。期待を持って待っていて下さるのです。しかし、我慢にも限界があります。いよいよ、審(さば)きを下さざるを得なくなった時です。主なる神の御子、主イエスは、どうか、もう一回チャンスを与えて下さい。何とか私がやってみますから、もう一年待って下さい。そのように即審(さば)かれて当然の私どものために執り成してくださるのです。
今、私どもはもう一年待っていただいている時かもしれません。そのことを早く自覚したいと思います。そして、本日与えられたイザヤ書の言葉とマタイによる福音書の言葉を自分に語られた言葉として真剣に聴きましょう。なすすべがなくなる前に、悔い改め、神に立ち帰りましょう。そして、確かな救いをいただき、神の国を受け継ぐ者とさせていただきましょう。お祈りを致します。
私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。私どもは、あなたの怒りを知りました。どうぞ、あなたが待ってくださっている間に、あなたが憐れみをかけてくださっている間に、悔い改め、あなたに立ち帰らせてください。自分の置かれている状況に早く気付かせてください。しっかりと目を開き、耳を開き、あなたの見せてくださる真理を見て、真理を聴かせて下さい。どうぞ、私どもが滅びることのないように、お導き下さい。あなたの救いに与れるようお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。