2016年10月23日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第19章28~30節

 28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇(かわ)く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 

「救いの御業は成し遂げられた」

 

 今週も一週間の初めの主の日に、このように皆さんと共に礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。本日も皆さんに聖書の祝福の言葉をお送りして説教を始めます。コリントの信徒への手紙 二 第13章13節の言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

 ご一緒にヨハネによる福音書の言葉を聴き続けています。主イエスの十字架の場面が続いています。そして、主イエスは本日の聖書箇所の最後で息を引き取られるのです。

 本日の箇所はこう始まっています。28節です。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇(かわ)く』と言われた」。ここで「すべてのことが今や成し遂げられた」と言われています。これは、どういうことでしょうか。ここで言われている「すべてのこと」とは何のことでしょうか。それは、私どもの救い主である主イエスがなさろうとされているすべてのことでしょう。主イエスによる救いの御業、言い換えれば、父なる神がご計画くださった救いのみ業のことでしょう。それが、今や成し遂げられたことを主イエスが知られたというのです。

 聖書が告げる救い、それは、神の御子主イエスが十字架のおつきになることで、それによって、私どもの罪全てが償われ、私どもが赦されることによって、もたらされる救いです。その救いが成し遂げられた。そのことを主イエスご自身が知って、「渇く」と言われた。そのように聖書は告げるのです。

 主イエスはここで、渇きを訴えられています。申すまでもなく、十字架に付けられているということは、激しい苦痛を味わい続けているということです。そこに、渇きも加わっているのです。ある方は、この主イエスの言葉から、広島で原子爆弾によって被爆した時のことを思い出されています。皮膚の焼けただれた友人が水を求めていたそうです。しかし、水を与えることは死を早めると教わっていたため、水をあげることを躊躇(ためら)ったそうです。その友人は、その後すぐに息を引き取ったのです。その方は、どうせ死ぬのだったら、せめて喉の渇きを癒してやるべきだった。すまなかった。そういう思いが今なお痛みと共に残っているそうです。

 私どもも、夏の暑い日などに、とても喉が渇いたという経験があります。そして、そのような時、一杯の水がどれほど有り難いかを知っています。主イエスもサマリアの井戸ベで、日中、喉の渇きを覚えられ、サマリアの女性に水を求められたことがありました。その時の様子は、ヨハネによる福音書 第4章6節以降に記されています。しかし、主イエスはその記事の13節以降でこうおっしゃっているのです。

   13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 このように、主イエスはご自分が与える水を飲む者は決して渇くことがないとお約束してくださっているのです。ところが、そう約束してくださった主イエスご本人が、今、十字架の上で苦しみ、「渇く」とおっしゃっているのです。これは大きな矛盾のようにも聞こえます。ただ確かなことは、主イエスは本当の渇き、真の渇きをご存じだったということです。

 主イエスの十字架の厳しさは、肉体的な激痛だけではありませんでした。それ以上に、神の御子が父なる神から見捨てられるという激しい苦しみ、痛みでした。その意味で、主イエスの渇きは、私どもの肉体の渇きだけでなく、私どものような神に背いた罪人が神の審きを受け、神に捨てられるという苦悩とそれによる耐え難い渇きを、私どもに代わって負ってくださったことによるものでした。それは、一見すると「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とのみ言葉と矛盾するようですが、主イエスがそのように私どもの罪の償いのために、私どもに代わって苦しみを、渇きを、受けてくださったことによって、私どもの苦しみは取り除かれ、渇きは癒されたのです。そうです。主イエスが十字架上で体験された激しい渇きは、私どもが二度と渇かないようにするための渇きであったのです。

 主イエスはそのように、苦しみ渇きを担ってくださいました。それは、まるで神の御子が神の御子でなくなってしまったようにです。しかし、それこそが、主イエスが本当の意味での、神の子、救い主であることを全うしてくださったお姿だったのです。神の御子で救い主なる主イエス・キリストは、まるで神の御子ではないような惨めな、情けない、苦しみ、渇いたお姿になることで、真の意味での神の御子、救い主としての役目を果たしてくださったのです。何て有り難いことでしょう。

 そして、28節終わりではこう言われています。「こうして、聖書の言葉が実現した。」

ここで言われている聖書とは、詩編 第22篇16節の言葉です。こう言われています。

  16 口は渇いて素焼きのかけらとなり

舌は上顎(うわあご)にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

 前にもう申しましたように、この詩編 第22篇は、イザヤ書 第53章の「苦難の僕」と呼ばれる箇所と共に、主イエスの十字架とその際の出来事を預言した言葉として知られています。「こうして、聖書の言葉が実現した。」とは、そのことを言っています。

さらに、続く29節の出来事、「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。」と記されている出来事は、詩編 第69篇22節の言葉の成就でもあります。

   22 人はわたしに苦いものを食べさせようとし

渇くわたしに酢を飲ませようとします。

前回も確認しましたように、主イエスの十字架の場面において、旧約聖書の預言がいくつも成就しているのです。そのようにして、神がご計画くださった救いの業が、今、十字架の上で、成就している、実現しているのです。

 そして、30節です。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」。ここで成し遂げられたのは何でしょうか。28節のところで、申しましたように、主イエスによる私どもの救いの業です。神が、預言してくださった救いの御業がここで成し遂げられたとおっしゃっているのです。

さて、新共同訳で「成し遂げられた」と訳されている部分は、口語訳では、「すべてが終わった」と訳されていました。これも正しい訳なのですが、最近は、新共同訳のように「成し遂げられた」と訳されることが多くなっているようです。ところが、これは大いなる始まりであったと言う人もいます。その方は主イエスの譬え話の中の、「もう用意ができましたから、おいでください」との言葉を思い出しているのです。その譬え話はこう始まっています。ルカによる福音書 第14章15節以下です。

  

15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。

そうです。「もう用意ができましたから、おいでください」とは、神の国の食事の準備が出来たことを、私どももそこに招かれていることを表している言葉なのです。そのような祝宴の場所が遂に備えられた。いよいよ、祝宴が始まるというのです。そこから、本日の箇所で、主イエスがおっしゃった「成し遂げられた」とは、私どもの救いのための御業が成し遂げられたことであり、神の国の祝宴の準備が出来上がったことを意味するのだということです。いよいよ、待ちに待った祝宴が始まるのです。すなわち、「成し遂げられた」とも「すべてが終わった」とも訳される言葉は、私どもの救い道が完成して、遂に神の国の祝宴が始まることを意味する言葉なのだと言うことです。なんと素晴らしい知らせでしょう。まさに、これこそ良きおとずれ、福音です。

ところで、30節後半の言葉、「頭を垂れて息を引き取られた」、ここで私どもは、主イエスは力尽き、前に首を垂れて、息を引き取られたと想像します。しかし、ある人によると、元のギリシア語の意味は、後ろに倒れるように首を垂れたということだそうです。そこから、主イエスが絶望の中で息を引き取られたようでありながら、床に就く人が安らかに体を横たえ、首を枕の上に、後ろに傾けるように息を引き取られたのだ、と言う人もいます。安らかにお眠りになった。復活を前にして、ここで主イエスは既に死に勝っておられるのだと、言うのです。

ところで、神の御子、主イエス・キリストを殺すこと、十字架で、木に架けて殺すことはユダヤでは呪われた殺し方でした。そのようにして、私ども人間は、父なる神がお送りくださった御独り子を殺してしまったのです。それは、信仰によって見れば、歴史上、最も恐ろしい出来事でした。あってはらない出来事でした。一般に、起こしてはならない事故、事件が起を起してしまった場合、その人や、その団体が陳謝します。それによって、赦されるわけではありませんが、深く謝ります。同様に、それ以上に、歴史上最大の悪事は、どんなに謝ろうとも、償えない出来事でした。しかし、それらは、旧約聖書の預言の成就、救いの預言が、神のご計画が実現したことだったのです。そして、まさに、本日の箇所で、主イエスは「成し遂げられた」とおっしゃり、父なる神が用意してくださった御業がすべて、終わり、主イエスがなすべき救いの御業は完成したとおっしゃったのです。この時、父なる神は、御心が成し遂げられたことを喜ばれたに違いありません。確かに、愛する御独り子を見捨てなければならなかったことは、父なる神にとって、これ以上ない苦しみ、痛みであったでしょう。それは、譬えようもないものだったでしょう。しかし、父なる神はそのようにしてまでも、私どもを救いたいと思われ、御子主イエスもそれに同意され、救いの御業を実行してくださり、ここですべてを成し遂げられ、その業を完成なさったのです。そして、私どもの救いの道が完成したことを、私どもが救われることを喜んでくださったのです。

私どもはそれほどまでに神に愛されているのです。まさに、今聴き続けていますヨハネによる福音書の第3章16節、17節で言われている通りです。

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 私どもは、主なる神にこれほどまでに愛され、この素晴らしい救いをいただいているのです。何という幸でしょう。これに優る幸いはないでしょう。そして、この幸いを知っているのがキリスト者です。救いは、救いの道は、すべての人に与えられています。その意味で平等です。しかし、残念ながら、信仰を頂いていない人は、この救いを、救いの道を知らず、この喜びも知らないのです。キリスト者の特権は、この救いの喜びを知っていることです。ただし、この特権は私どもが独占すべきものではありません。私どもは、この救いとこの喜びを多くの人に知らせる役目を頂いているのです。私どもは先に救われた者であり、このあと大勢の方々が救われるために、この喜びを知るために備えられているのです。私どもはその方々に先立って、救いに与り、この喜びに与っているのです。そして、このことを宣べ伝えるという真に名誉な役を担わせて頂いているのです。ご一緒にこの福音を宣べ伝えてまいりましょう。

まだ信仰告白なさっておられない方、どうぞ、主の救いを受け、救いの道を歩み出してください。そして、何にも代えがたいこの救いの喜びと神の尽きることの愛に身を委ねてください。ご一緒に主に従う喜びを味わってまいりましょう。お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。御子が私どもの救いの道を完成させてくださり、そのみ業を成し遂げてくださいましたことを感謝致します。あなたがこれほどまでに私どもを憐れみ、愛してくださっていることを感謝致します。どうぞ、この喜びから離れることなく、いつまでもあなたの祝福と恵みの内を歩ませてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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