top of page

2016年6月5日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

使徒言行録

第18章1~4節

 1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、3 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。4 パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。

第18章18~28節

 18 パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。19 一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。20 人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、21 「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。22 カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。23 パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。

 24 さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。25 彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼(バプテスマ)しか知らなかった。26 このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。27 それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。28 彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。

 

「 教会に仕えた信徒 プリスキラとアキラ ~ 教会とは何か ⑩ 」

 

 今日も、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝致しております。本日も皆さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めます。フィレモンへの手紙 3節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

 受難節、復活節の間、お休みしていました「教会とは何か」と副題を付けています説教を本日より再開させていただきます。今回は第10回です。本日は初代教会の信徒であった、プリスキラとアキラという夫婦の姿を通して、私どももどのように、主なる神に、教会に仕えていったら良いかを確認してまいりたいと思います。

 本日与えられました聖書はこう始まります。第18章1節です。「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った」。パウロは、十二弟子の一人ではありませんが、初代教会の中で、最も用いられた伝道者の一人です。ギリシアなどに何度も伝道旅行に出かけました。そして、各教会を励ます手紙を書き、それらの手紙は新約聖書に残っています。そのパウロがギリシアの東南にありますアテネからほぼ西にありますコリントに来たのです。そこで、トルコの北部のポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻、プリスキラに出会いました。さて、この夫妻はコリントに来る前には、ローマにいたのです。しかし、紀元49年頃、ローマにいたユダヤ人の中で争いが起こりました。そのため、治安が悪くなるのを恐れたクラウディウス帝が全ユダヤ人を、ユダヤ教徒、キリスト教徒の区別なく皆、ローマから退去させるようにと命令したのです。そのため、やむなく、プリスキラとアキラの夫婦も、イタリアから来たのでした。

パウロは誰から紹介されたか分かりませんが、この二人、プリスキラとアキラ夫妻を訪ねます。 彼らは職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をしました。その職業はテント造りであったということです。聖書にはこの三人がテント造りを職業としていたとありますが、それが布製のテントだったか、革製のテントだったかは、分かりません。ともかく、同じ信仰をいただいている上に、同じ仕事をしていたというので、お互いに分かり合えるところが多かったのだと思います。パウロにとって、大きな励ましになったことでしょう。続く、四節ではこう言われています。「パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた」。パウロはテント造りの仕事をしつつ、安息日には会堂で説教し、キリストを宣べ伝えたのです。

 次に朗読しました18節以下を見てみましょう。「パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した」。パウロはしばらくコリントで伝道しましたが、そこを発(た)って、海を渡り、ギリシアの東にあるシリア州と呼ばれる地に伝道に行くのです。プリスキラとアキラ夫妻も同行します。続く19節以下です。「一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、『神の御心ならば、また戻って来ます』と言って別れを告げ、エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた」。パウロはエフェソでも伝道します。しかし、そこに長く留まることなく、ユダヤの地、カイサリア、エルサレム、アンティオキアへと向かうのです。プリスキラとアキラはパウロと一緒にエフェソに行きますが、彼らはそこに留まるのです。

 そして、二人はそのエフェソに来た伝道者アポロを招いて、もっと正確に神の道を説明したのです。ここから、プリスキラとアキラは福音について良く知って理解し、アドバイスも与えられたことが分かります。

 このように、プリスキラとアキラはコリントの地で、エフェソの地で、伝道者パウロやアポロを助け、主なる神に、キリストの体なる教会に仕えたのです。当時、パウロが会堂で説教したように、教会専用の建物はありませんでした。家の教会です。プリスキラとアキラは自分の家を提供して、家の教会を始め、そこが、コリントの教会、エフェソの教会の元になったことと思われます。

 約2000年に近い歴史を持つキリスト教会の歴史は、ここに登場するプリスキラのような女性とアキラのような男性たちによって、作られてきました。プリスキラとアキラのように、その名前が伝えられている人もいます。しかし、その名前も記録されることなく、今となっては誰も知らない人たちもいます。むしろ、そのような方々の方が多いでしょう。彼らの多くは神に栄光を帰すことの貴さを良く知っていたでしょうから、自分の名が残ることよりも、神の栄光が燦然(さんぜん)と輝くしことを願ったことでしょう。しかし、彼らは「命の書」にその名はしっかりと記されていることでしょう。命の書については、ヨハネの黙示録 第21章27節で、こう言われています。「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」。キリストの体なる教会に仕え、神を礼拝し続け、信仰を守り通した人は「命の書」にその名が記されるのです。そして、いつの日か神の都に、迎え入れられるのです。

教会に仕えるということは、どうすることでしょうか。それは何よりも皆と共に礼拝を捧げることです。このように、礼拝に出席し、皆と共に賛美を捧げ、祈りを捧げること。そして、聖書の言葉に、説教に、耳を傾けることです。それが、神に仕えること、教会に仕えることの中で一番大切なことだと私は思います。

ある牧師がドイツに留学していた時、礼拝に出席していた教会員の一人が、土曜日に「明日はわたしの役はないから、礼拝は休む」と言ったそうです。明日の礼拝の中で、何かの役を任されている訳ではないから、自分がいなくても礼拝はいつものように進むだろうから、自分は出席しない、ということだったようです。その考えは一見筋が通っているようでありながら、大きな間違えです。今申しましたように、共に賛美を捧げる役を会衆の一人一人が担っているのです。自分は声を出して祈らなくても、心を合わせて祈ること、共にアーメンと言うことを担っているのです。しかも、神が今日与えてくださっている聖書の言葉を、説教の言葉を聴くという訳も、その日の献金をお捧げすることも、一人一人が担っている大切な役目なのです。

私はしばしば思います。牧師は何よりも主の日の礼拝のために神に召されている。礼拝の中で、説教という重要な役目を担わせていただいている。その意味で、責任は重い。しかし、自分一人では礼拝は成り立たない。教会の玄関には、受付をする人が必要です。今日、私は礼拝の司式もしていますが、説教者のほかに司式をする人が必要です。また、礼拝は、前奏から始まり後奏で終わりますように、そして、礼拝の中で、いくつもの賛美を捧げますように、奏楽者は礼拝の最初から最後まで、賛美、礼拝全体をリードしてくれています。献金を集めて下さる方もいます。祈って下さる方もいます。本日は聖餐にも預かりますので、配餐の奉仕をして下さる方もいなければなりません。しかも、礼拝、聖餐の前には、何人もの方がその準備をしてくださいます。その礼拝の準備のために、今日だけでなく、昨日、教会に来てくださった方もあります。いつものように、丁寧に掃除をしてくださっていました。

また、この礼拝の前には、この同じ場所で、教会学校の礼拝が捧げられました。そこでも、何人もの方々がご奉仕くださって、礼拝が成り立っています。雨の中でも、こどもたちは一所懸命来てくれました。

このように、教会は、そして、主の日の礼拝は、今もなお、多くのプリスキラとアキラによって、支えられているのです。皆がそれぞれに仕えているのです。ですから、他の所でもそうですが、教会にあっては、謙遜が求められるのです。皆で助け合って、心を合わせて礼拝を捧げています。誰が偉いとか、偉くないということは全くないのです。

コリントの信徒への手紙 一 第12章4節以下ではこう言われています。少々長くなりますが、引用します。

   4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

   2 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

このように、私どもはそれぞれ神から与えられた賜物は違っています。そして、そのそれぞれに与えられた賜物を用いさせていただいて、神に、教会に仕えているのです。しかも、どの働きが欠けても、支障を来すのです。ですから、どれも貴い務めなのです。誰も、威張ってはならず、高慢になってはならないのです。その意味で、今読みましたパウロの言葉のように、私どもは互いに助け合い、補い合っている、体に似ています。私どもは自分の体に大切なことを学ばせていただけるのです。真に感謝です。

私どもも、キリストの体なる教会の一部として、今に生きるプリスキラとアキラのように、主なる神に、キリストの体なる教会に仕えてまいりましょう。お祈りを致します。

 

教会の頭なる主イエス・キリストの父なる神よ。プリスキラとアキラが、伝道者パウロを助け、アポロに助言して、教会に仕え、あなたのみ栄(さか)えのために仕えましたように、私どもも、今、この教会において、仕える者とさせてください。私どもはともすると他の人と自分を比較し、自分の方が優れていると思いたがります。しかし、それは虚しいことであり、あなたに仕え、教会に仕える時の大きな妨げになります。どうぞ、私どもそれぞれがあなたに仕えるために、それぞれ違った賜物を頂いていることを覚え、今いる所で、信仰の兄弟姉妹と共に力を合わせてあなたに仕えていく者とさせてください。どうぞ、あなたの前で、信仰の兄弟姉妹の前で、人々の前で、謙遜に仕えていくことができますように、私ども一人一人をお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

6月5日 説教 - 並木牧師
00:0000:00
bottom of page