2016年5月1日 日本バプテスト厚木教会 復活節 第五主日

 

ルカによる福音書 第24章44~49節 

 

 44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48 あなたがたはこれらのことの証人となる。49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 

「主イエスは私たちの心の目を開いてくださる」

 

 今日この日も、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げできますお恵みを感謝しています。今日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。テモテへの手紙 一 第1章2節の言葉です。「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」。

 復活節第五主日の礼拝をお捧げしています。いよいよ、今週の木曜日、5月5日が、今年の昇天日、主イエスが天に昇られ、父なる神のみもとに帰られたことを記念する昇天日です。そして、二週間後の再来週の日曜日、15日は聖霊降臨日です。旧約で言う五旬祭です。過越祭から50日目ということで、五旬祭、ペンテコステです。しばしば聖霊降臨日イコールペンテコステのように私どもは言っていますが、五旬祭のギリシア語訳がペンテコステです。

このように、いよいよ復活節も終わりに来ています。それに合わるように、ルカによる福音書の復活記事を聴き続け、復活記事の終わり近くまできました。ただ、本日の記事は、前回の記事と同じ場面ですが、それは現在の日付と時刻からすると、主イエスが復活された週の初めの日の晩遅くか、翌日、今でいう月曜日の未明です。ということで、弟子たちはご復活された主イエスにお会いしているものの、まだまだ、復活された主イエスを受け入れられずにいたのです。それゆえ、前回の記事の中でも、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った(ルカによる福音書 第24章37節)」のです。

 では、本日与えられました箇所をもう一度聴いてみましょう。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである』」。主イエスは弟子たちにこうおっしゃったのです。旧約聖書でわたしのについて書かれていることは、かつてわたしが話したように、すべて、その通りになります。そのように主イエスはおっしゃったのです。例えば、詩編 第2編2節に、こういう言葉があります。「なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」。どうして、王たちは、父なる神に、父なる神に油注がれた方、主イエスに逆らうのか、そのように言われています。このように、旧約聖書で主イエスについて預言されていたことは、ことごとく実現したのです。そして、のちにキリスト教会は、旧約聖書は主イエスのことを預言した書として位置づけ、そのように読むようになります。それは、私どもにとって、旧約聖書の大切な読み方の一つです。

 続く45節です。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」。ここで、主イエスは弟子たちの心の目を開いてくださったのです。それは、聖書を悟らせるため、聖書を正しく理解するためでした。そうです。私どもも、心の目を主イエスに開いていただいて、初めて聖書を正しく理解することができるのです。

では、心の目を開いていただくと旧約聖書に何が預言されているが分かるのでしょうか。続く46、47節です。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣(の)べ伝えられる』と」。そうです。先ほど詩編から引用しましたように、そして、受難節にずっと交読文で呼んできましたように、イザヤ書 第53章の「苦難の僕」では、主イエスの十字架の苦しみが預言されていました。主イエスはその預言通りに苦しみを受けられ、十字架につけられ、復活されたのです。それは、ここで主イエスがおっしゃっているように、まさに「罪の赦しを得させる」ためだったのです。この十字架と復活の主イエスを救い主と信じることこそが、私どもに「罪の赦しを得させる」ためだったのです。しかも、その罪が赦されることによって与えられる救いが、広く宣(の)べ伝えられることも預言されていたと主イエスはおっしゃるのです。こうです。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣(の)べ伝えられる」。ここで、罪を赦して頂くためには、悔い改めが必要であることも含めて言われています。父なる神と、救い主・主イエスに、罪を赦して頂くためには、悔い改めが必要なのです。自分の罪を認め、その罪を主イエスが償ってくださった信じ、今までの生き方を改めるのです。神に向き直るのです。神に立ち帰るのです。それによって救われるのです。その知らせ、福音があらゆる国々に宣(の)べ伝えられるというのです。事実、その後の歴史を見ると、ここで確認されていた預言はその通りになったのです。

主イエスは弟子たちに主イエスの復活の証人となることをここで預言されます。こうです。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。そうです。使徒たちが主イエスの復活の証人として、福音を伝え、そのあと、多くの人たちが使徒たちのはたらきを受け継いだのです。それによって、イスラエルから遠く離れた日本にいる私どもも、このように、主イエスがご復活なさった一週間の初めの日、主の日に、礼拝をお捧げしているのです。

さらに主イエスは本日の聖書箇所の最後の49節で、聖霊をお送りくださるとの約束をしてくださいました。こうおっしゃいました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」そうおっしゃったのです。ですから、他の福音書と違って、ルカによる福音書によれば、使徒たちは、少なくとも聖霊降臨日までは都に留まっていたのです。

今、確認しましたように、主イエスは使徒たちの心の目を開いてくださり、聖書に何が預言されているかを悟らせてくださったのです。悟らせていただいて、聖書の預言を聴きくと、主イエスの十字架と復活によって、それを信じることで、私どもの罪が赦されることが分かるのです。

マタイによる福音書の第16章21節以下の記事にこうあります。主イエスがご自分の十字架と復活の預言をされると、ペトロが主イエスをいさめて、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言います。すると、主イエスはペトロにこうおっしゃったのです。「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」。そうです。ペトロは彼なりに主イエスのことを思っていたのでしょう。ですから、主イエスが十字架にお架かりになるなんて、あっては成らぬことだと言ったのです。しかし、それは、正しい聖書の預言理解、さらには正しい聖書理解ではなかったのです。主イエスのおっしゃるように、人間のことを思っていては、人間の常識で考えていては、聖書を悟ることは出来ないのです。神のことを思うこと、神の思いを教えていただき、それを受け入れなければ、聖書を悟ることはできないのです。そうしなければ、私どもの心の目を開いていただいたことにならないのです。

このように、私どもにとって、心の目を開いていただくことは、聖書を悟る上で、信仰を頂くうえで、とても大切なことです。

さらに、心の目を開いて頂くということはどういうことか、ご一緒に考えてみましょう。かつて、こんなことがあったそうです。死期が迫っている老婦人の所に、若い神学生が実習として、お見舞いに行ったのです。しかし、神学生は何の聖書の言葉も言えず、死期が迫っている老婦人のために祈ることもできなかったのです。それどころか、その老婦人は、もうじき伝道者として巣立つ若者のために祈ってくれたのです。神学生は大失敗してしまったと思って、病院のチャプレンや指導教授にそのことを報告しました。すると、報告を受けた二人の先生は、そろって良い訪問でしたねと言ったそうです。それは、死期の迫った老婦人が、自分のことばかり思ってしまうのではなく、若いもうすぐ巣立つ神学生のことを思って、すなわち心を開いて、心の目を開いて、そのように祈れたことを良かったねと言ったということです。私どもは、大変な事態に陥ると、心を閉ざし、心の目を閉じてしまいます。しかし、そのような時も、父なる神と御子主イエスの慰めとお導きをいただいて、心を、心の目を開いていただくことができたら、幸いです。そのようにしていただけるように祈ってまいりたいと思います。

さて、キリスト者で、非行を犯した子たちのお世話をしている北海道家庭学校の校長をされていた谷昌恒氏は、このようなことを言っています。子どもたちは、自分たちが非行に走ったのは、親のせいだと言う。確かにそういう面を否定はできない。そのように、誰もが、誰かから被害を受けている。そう、誰もが被害者だ。しかし、自分たちも加害者であるという自覚を持って欲しい。それが人間存在としての自覚を深めることになる。被害者意識だけだと、いつまでもそこに留まって、そこから抜け出せない。前を向いて生きられなくなってしまう。進んで責任を負おうとする時、そこで初めて、生きることの意味が成立する。そのように言うのです。この進んで責任を負うこと、自分も加害者であることを受け入れることも、心を開くこと、心の目を開くことではないでしょうか。そうすることも、聖書を悟ること、聖書を正しく理解することに通じると私は思います。

さて、先週の「聖書を読み祈る会」の昼間の会では、イスカリオテのユダのことが話題の中心になりました。いつもにも益して、皆さんから疑問や意見、感想が活発にありました。改めて、ユダの裏切りは、私どもの永遠のテーマであると思いました。一つの疑問はこうです。ユダ自身、悪かっただろうが、主イエスがその気になれば、ユダを救って上げることもできたのではないかという疑問です。この疑問にはいろいろな答えが考えられると思います。これが唯一の正解というのはないと思います。もっとこのことは考えてみたいと思います。

ただ、私が思ったことはこういうことでした。あとで、ペトロは主イエスを三度も知らないとしって、ユダとは違った形で主イエスを裏切ってしまいます。しかし、ユダは自分から行動を起こして主イエスを裏切ったと言う点で、ペトロや他の弟子とは決定的に違っています。そして、マタイによる福音書 第25章にあります主イエスの言葉です。そこでは、最も小さい者の一人にどうしたかという一点で、最終的に救われ祝福にあずかるか、救われないで審(さば)きを受けるかに分けられてしまいます。そこから、聖書は、だれでも最終的には救われるという万人救済説は取っていないと、どうしても思われます。そうしますと、ユダに同情したい気持ちも分かりますが、私どもは、自分自身もイスカリオテのユダになってしまう危険性が一杯あることに気付くことの方をもっと強く考えなければならないと、私には思えるのです。ユダは、弟子の中でお金を預かる係になっていたことから、知恵もあり、主イエスから信頼されていたのでしょう。しかし、その彼が、自ら主イエスを裏切ったのです。本日の聖書の言葉で言えば、ユダは心の目が閉ざされていたのです。心の目が閉ざされていたので、主イエスの言葉を信じることができず、主イエスに従うことも、聖書の預言も信じることができなかったのです。

心の目を開いていただくこと、そして、聖書を悟ることこそが、私どもがなすべき急務であると思います。主イエスにおすがりして、心の目を開いていただきましょう。そうして、主イエスに従いつづけましょう。お祈りを致します。

 

 復活の主、私どもの救い主、イエス・キリストの父なる神よ。私どもはすぐに、あなたから目を背け、心の目を閉じてしまいます。そして、自分勝手な思いにふけってしまい、ユダにようになってしまいます。どうぞ、そのような私どもを、悔い改めに、あなたへの立ち帰りに導いてください。どうぞ、私どもの心の目を開いて、聖書の真理を悟らせてください。そして、私どもをお救いください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

の主、イエス・キリストのお名前によって、祈り願います。アーメン。

5月1日 説教 - 並木牧師
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2016年5月8日 日本バプテスト厚木教会 復活節 第六主日

 

ルカによる福音書 第24章50~53節 

 

 50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 

「絶えず神をほめたたえよう」

 

 今日この日も、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げできますお恵みを感謝しています。今日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。テモテへの手紙 一 第6章21節の言葉です。「恵みがあなたがたと共にあるように」。

 本日は「母の日」です。母の日の起源はアメリカ合衆国にあります。ある方が調べたところによりますと、アメリカで最も古い母の日の記録は1872年6月2日だそうです。J.W.ホウという方が、この日を平和のために母の日として守るように提案しました。しかし、この活動は立ち切れになってしまいした。この他に、今日(こんにち)の母の日の起源となった出来事以外に少なくとも二つの母の日運動があったそうです。ただ、それらも、広まらず、立ち切れになってしまいました。

 さて、今日(こんにち)の母の日の始まりとなった出来事は、1906年5月9日、今から110年前にありました。その日、アンナ・M.ジャーヴィスさんという方が一年前に亡くなったお母さんの記念会を個人的に開きました。すると、翌年1907年には、アンナさんがいた教会で五月第二日曜日に記念会が開かれました。この時に、アンナさんは、出席した人々に一束のカーネーションを贈って、お母さんへの感謝を表し、お母さんの思い出を話したのです。アンナさんのお母さんは、26年もの間、子どもたちと共に礼拝を捧げ、聖書の言葉を共に学ぶ、教会学校の教師として忠実に仕えた人でした。その教会学校で、お母さんが娘のアンナさんのクラスの受け持ちになったことがありました。ある日のこと、学年ごとの分級で、十の戒め、十戒の五番目の戒め「父と母を敬いなさい」をお母さんがアンナさんはじめ子どもたちに教えました。そして、その分級の最後に先生であるお母さんが言いました。「ここにいる皆さんの中で、だれでもいいですから、お母さんの偉大な愛に心から感謝の気持ちを表す方法を考え出してください」そのように言ったのです。それからというもの、アンナさんはそのお母さんの言葉を忘れることができませんでした。そこで、一束のカーネーションにその思い、すなわち、お母さんの偉大な愛への心からの感謝を託したのです。それは、お母さんが亡くなって二年後のことでした。ようやく、昔、お母さんから出された宿題に応えることができたのです。その後、アンナさんは、教会の女性たちと一緒に「母の日」推進の運動を進めました。すると、ジョン・ワナメーカーさんという人が、1908年5月第二日曜日に自分の経営するデパートで、母に感謝する集まりを開催しました。ジョン・ワナメーカーさんは、忠実な教会員で教会学校の教師でもあったそうです。さらに、他の教会でも記念の礼拝が行なわれるようになったのです。そして1913年には、ペンシルヴェニア州で「母の日」が州の祝日となり、さらには、翌年1914年の5月9日、時の合衆国大統領W.ウィルソンが5月第二日曜日を母の日とする文書に署名しました。このようにして、母の日が始まり、5月第二日曜日が「母の日」と制定されました。そして、日本では、大正時代初期からこの日を祝うようになったそうです。

ただ今、母の日の由来を申しました。ここから、「母の日」は、「父と母を敬いなさい」という神の言葉を聞くことから始まっていることが分かります。十戒のその言葉が記されています出エジプト記第20章12節では、こう言われています。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」。このように、戒めに続いて、それを守る者には長く生きることができるという祝福を与えると約束してくださっているのです。このような祝福が約束されているのは、十戒の中で、他に、偶像礼拝を禁じた部分だけです。ここから、父母を敬うことが如何に大切で、そうすることを神がどれほど喜ばれるかが分かると思います。

主がくださったこの戒めを大切にしていきたいと思います。そして、他の聖書のみ言葉と同様、聞くだけでなく行う人にして頂けるよう主に祈り願ってまいりましょう。

ところで、父も、母も、既に亡くなってしまったという方は、自分はどうしたらよいのか、と思われるでしょう。父、母がいなければ、この戒めに従いようがないのではないか、というのは率直な感想です。では、どうしたらよいのでしょうか。一つの例として、こうすることが出来ると思います。父、母が生きている時、自分は本当に父、母を敬ってきただろうか、大切にしていただろうか、振り返って見ることです。悔い改めの思いを持って、振り返るのです。そして、戒めをしっかりと守ることのできなかったなら、それを認め、神に赦しを乞うのです。その際、自分を責(せ)めてはいけません。神は自分を責(せ)め苛(さいな)むことを望んでおられ訳ではありません。それはむしろ過去に囚(とら)われることです。それに対して、悔い改めは前向きなのです。神に立ち帰ることだからです。神の赦しをいただいて、新たな思いで神に従うからです。

 また最近、特に親からの虐待が社会問題化しています。また、親から虐待は受けていなくても、親との間の昔の辛い体験のために、どうしても、父母を敬えないという方もおられると思います。それでも、神が、聖書が、「父と母を敬え」と言っているから、そのようにしなければならないのでしょうか。私は必ずしもそうではないと思います。神は誰よりもそのような悲しい体験を知っていて下さり、慰めを与えてくださる方だからです。しかも、十戒は、誰よりも神を尊ぶことが原点です。その意味で、父、母を敬うのは、父、母を通して神から命をいただいたこと、神に養ってもらったこと、神に愛してもらったことを感謝する事です。十戒は神の戒めですから、父、母を敬うことは、そもそも神を敬うことから来るのです。主なる神を敬い、主なる神を大切にし、主なる神を愛する、その上で、父母を通して与えられた自分の命を大切にする事、それが私どもに求められている事です。その意味では、母の日は、神が自分に命が与えられたことを感謝する日とも言えるでしょう。その上で、もし良き父母を与えられていたら、益々感謝しなければならないでしょう。心から神に感謝を捧げましょう。

 先ほど、ルカによる福音書の最後の箇所を朗読していただきました。復活された主イエスが天に上げられる記事です。こう始まっていました。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。前回も申しましたように、ルカによる福音書の復活記事の前回までのところは、主イエスがご復活された週の初めの日、その日の早朝から深夜、そして、翌日の未明までのことのように書かれています。ですから、本日の箇所は、週の初めの日の次の日の朝早く、現在の私どもで言うと、月曜日の朝早くのことです。主イエスは、エルサレムら彼らをベタニアの辺りまで連れて行かれます。ベタニア村はエルサレム近郊のオリーブ山の東側にある小さな村です。エルサレムから数キロしか離れていません。その辺りまで主イエスは弟子たちを連れて行かれたのです。そこで、主イエスは弟子たちに手を上げて祝福されました。それは祭司が人々を祝福する時のやり方です。主イエスは父なる神から遣わされた最も偉大な祭司でもあられます。そして、この時のように、私どもを祝福してくださる方なのです。感謝です。主イエスはそのように弟子たちを祝福しながら彼らを離れ、天に上げられたのです。父なる神のもとに帰られたのです。

 このようにルカによる福音書の記事からは、ご復活された主イエスが地上におられたのは二日間です。しかし、一般にはご復活された主イエスが地上におられたのは四十日とされています。現在のキリスト教会の暦でも、そのようにして、主イエスの昇天日を決めています。

 さて、父なる神のもとに帰られた主イエスは、そのあと、どうされたのでしょうか。そして、今、どうされているのでしょうか。ローマの信徒への手紙 第8章34節ではこう言われています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。そう言われています。父なる神のもとに帰られた主イエスは父なる神の右に座られたのです。そこは、父なる神に次ぐ高い座です。それは、神と共にこの世界をご支配なさるということです。しかも、主イエスはそこで、わたしたちのために執り成してくだっていると、ローマの信徒への手紙、それを書いたパウロは告げています。私どもは、主イエスの十字架の救いを頂きながら、神に背き、罪を犯してしまいます。そのような私どもが罪に定められないように、主イエスが私どもに代わって、父なる神に私どもの赦しを乞(こ)うてくださっているのです。真に、ありがたいことです。それゆえ、パウロは「「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。いいえ、誰もわたしたちを罪に定めることができません」と言い切ることができるのです。私どもも、主イエスにおすがりして、罪を執り成して頂きましょう。悔い改め、神に立ち帰って、救いをいただけるよう、励んでまいりましょう。

 さて、主イエスを見送った弟子たちはその後、どうしたでしょうか。こう言われています。52節、53節です。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。ここで不思議に思うのは、主イエスを見送った弟子たちが、大喜びでエルサレムに帰って来たことです。単に喜んだのではないのです。大喜びしたのです。主イエスと別れたというのであれば、むしろ、喜ぶよりも、寂しくなり、悲しくなるのではないでしょうか。しかし、ここで、弟子たちは大喜びでエルサレムに帰って来たと言うのです。なぜでしょうか。

 一つの答えはこうです。既に読みました聖書箇所、「エマオへの途上」と呼ばれる箇所の終わりの方にこうありました。第24章28節以下です。

   28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

この箇所をご一緒に聴きました時このように申しました。「ここで注意したいことがあります。31節の『すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった』という言葉です。ある注解者は言います。これは、主イエスのお姿が見えなくなっただけで、主イエスがどこかへ行かれたことではないと。私どもの目に見えなくても、主イエスは今も、私どもと共に歩んでくださり、私どもと共に宿ってくださるのです。主イエスはいつも一緒にいてくださるのです」。そうです。エマオの途上で、主イエスが見えなくなった際にも、そして、主イエスが天に上られた際にも、私どもの目に主イエスのお姿が見えなくなったこと、イコール、主イエスがどこかへ遠くへ行かれてしまったことにはならないのです。主イエスが上られた天、そこに父なる神と御子主イエスは今もいらっしゃるのですが、その天は物理的に遠くにあるのではないのです。信仰に生きる者にとって、むしろ、天は私どもに近いのです。

本日、私どもはルカによる福音書の終わりの言葉を聴いています。そこでマタイによる福音書の終わりの言葉も見てみましょう。こう言われています。マタイによる福音書 第28章18節以下です。

   18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 そう言われています。今読みなしたように、結びの言葉は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」です。そうです。天に上られた主イエスは、一見、遠くに行かれたように、思えます。しかし、実は主イエスはいつも私どもと共にいてくださるのです。

 私どもは、主イエスがこの地上にいてくださった時と、主イエスが天に上られたあとの時を分けて考えます。それは時を考える上で、正しいことです。しかし、その際、主イエスと私どもは物理的距離が遠くなってしまったように思ってしまいます。しかし、天の存在と天と地の距離を物理的に計ることは不可能です。そして、今申しましたように、主イエスご自身が、わたしはいつもあなたがたと共にいるとおっしゃってくださったのです。私どもは信仰によって、この主イエスのお言葉を受け入れ、信じています。ですから、信仰によって、私どもはいつも主イエスと共にいるのです。この目には見えませんが、主イエスはいつも私どもの側にいてくださるのです。そして、私どもを憐れみ、慰めてくださっているのです。しかし、私どもの心が主イエスから離れてしまうと、心の目を閉ざしてしまうと、主イエスが共にいてくださること、側にいてくださることが分からなくなってしまうのです。

 ところで、主イエスは地上におられる時、どこか一地点にしかおられませんでした。エルサレムにおられながら、日本に来ることはできませんでした。しかし、天に上られた主イエスは、私どもが信仰の目をもって求めれば、どこにでもいてくださるのです。どこにでも来てくださり、私どもと共にいてくださるのです。エルサレムにいる信仰者と共にいてくださると同時に、日本にいる信仰者と共にいてくださるのです。そうです。今このように、心を込めて礼拝を捧げている私どものところに、三位一体の神は、父なる神、御子イエス・キリスト、御霊なる神はご臨在くださるのです。私どもと共にいてくださるのです。ですから、私どもも、弟子たちのように、「大いに喜ぶ」ことができるのです。

 ルカによる福音書の結びの言葉は「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」です。弟子たちは神殿の境内で、主なる神を礼拝し続けたのです。私どもも、弟子たちのように、神をほめたたえ、礼拝し続けてまいりましょう。

 さて、本日の箇所で、50節の主イエスが「手を上げて祝福された」と訳されている中の「祝福された」という言葉と、53節の弟子たちは「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と訳されている中の「ほめたたえる」という言葉は原語では同じ言葉が使われています。主イエスから私どもに向かっての行為だから、「祝福された」と訳され、弟子たちから神に向かってだから、「ほめらたたえる」と訳しているのです。そもそも、この言葉には「良い言葉を語る」という意味があるのです。主イエスが弟子たちに良い言葉を語ってくださったということは、祝福してくださったということです。そして、弟子たちが神に良い言葉を語ったとなれば、神をほめたたえたことになるわけです。そう思いますと、いつも、父なる神から、御子主イエスから祝福を、良い言葉を、語っていただけるようにしたいものです。そのためにも、私どもも、父なる神と、御子主イエスに向かって、いつも良い言葉を語り、ほめたたえてまいりたいと思います。

 そこで思います。私どもは隣人に対して、良い言葉を語っているでしょうか。隣人とは、主イエスが最も小さい者の一人にしたことは、すなわち、私にしたことであるとおっしゃった、最も小さい者の一人です。私どもの隣人とは、主イエスに愛されといる一人であり、主イエスご自身なのです。その隣人に、私どもは、いつも、良い言葉を語っているでしょうか。いじわるは言ってないでしょうか。妬(ねた)み、嫉(そね)みの言葉を言っていないでしょうか。隣人を無視していないでしょうか。私どもは、良い言葉を語っているか問われていると思います。神をほめたたえるように、神に良い言葉を語るように、隣人に良い言葉を語ってまいりましょう。主イエスが私どもに良い言葉を語ってくださり、私どもを祝福してくださったことに倣ってまいりましょう。私どもを常に愛してくださり、良い言葉をくださった主イエスに倣って、私どもも隣人に対するようにさせていただきましょう。

 そして、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」弟子たちに倣って、私どもも、賛美を捧げ、祈りを捧げ、神をほめたたえてまいりましょう。お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、復活の主、イエス・キリストの父なる神よ。主イエスは、天に上られ、いつも私どもを執り成してくださっています。そして、常に私どもと共にいてくださいます。感謝です。どうぞ、私どもも、弟子たちのように、大きな喜びに満たされ、あなたをほめたたえていくことができますように、お願致します。そして、いつ、どんな時にも、あなたに向かって、隣人に向かって、良い言葉を語っていくことができますようにお導きください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月8日 説教 - 並木牧師
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2016年5月15日 日本バプテスト厚木教会 聖霊降臨日

 

使徒言行録 第1章8節

 

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 

「聖霊に満たされ、キリストの証人となろう」

 

 聖霊降臨日、おめでとうございます。聖霊降臨日は、復活祭、イースター、そして、降誕祭、クリスマスと共に、キリスト教会にとって、大切な祝いの日です。子どもにも分かり易くするためでしょうか、この日は教会の誕生日とも言われます。聖霊、すなわち神の霊が主イエスの弟子たちに降(くだ)り、キリスト教会が始まったのです。

このような祝いの日、皆さんと共に礼拝をお捧げできますお恵みを感謝しています。今日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。テモテへの手紙 二 第1章2節の言葉です。「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」。

日本バプテスト同盟では、今日のこの聖霊降臨日を「海外伝道を覚える日」としています。使徒言行録を読みますと、聖霊降臨によって始まったキリスト教会は厳しい迫害を受けました。殉教者も出ます。そのため、迫害から逃れ、遠くまで行く者もいました。ただし、その道すがら、彼らは福音を伝えるのです。そのようにして、福音は徐々に伝えられ、遂には全世界へと伝えられていくのです。そして、イスラエルから遠く離れた極東の日本にも福音は伝えられたのです。日本では戦国時代、カトリック教会が宣教師を送って来て、福音伝道しました。当初はそうではありませんでしたが、次第に厳しい迫害を受けるようになり、信仰を捨てる者があるかと思えば、殉教する者もいました。その後、鎖国が続き、長く宣教師が来ることが出来ませんでした。しかし、明治維新、今度はカトリック教会だけでなく、プロテスタント教会も加わり、日本各地に宣教師が伝道しました。そのように、日本の福音伝道は、海外から来てくれた宣教師たちによって始められました。それからしばらくして、日本のキリスト教会も海外に宣教師を送り出すようになります。日本バプテスト同盟でも、大里英二宣教師夫妻をタイのチェンマイにお送りしたことがありました。ただし、大里英二宣教師ご夫妻が退任されたあと、現在に至るまで、バプテスト同盟は宣教師を派遣していません。それでも、宣教師派遣を支えてきました海外伝道協会は、海外のバプテスト教会と連絡を取り、海外のバプテスト教会との交流を進めています。

そして、今申しましたように、日本バプテスト同盟は、毎年、聖霊降臨日を「海外伝道を覚える日」としています。そこで、今年も、私どもは本日、聖霊降臨日の礼拝の席上献金を全額、海外伝道協会にお捧げします。そのことは、先週の週報に書きましたが、今週の週報には書き忘れてしまいました。すみませんでした。どうぞ皆さん、献金によって海外伝道協会のはたらきを支えると共に、今後も海外伝道協会のはたらきを覚えてお祈ください。

 さて、聖霊降臨の出来事については、使徒言行録の第2章1節から4節までに詳しく伝えられています。その日は五旬祭の日でした。ギリシア語でペンテコステと呼ばれる五旬祭は、ユダヤ教の三大祭りの一つです。これもユダヤの三大祭りの一つである過越祭から50日目にあたるために、そのように呼ばれていました。そもそもは小麦の収穫を祝う祭りでした。そのため、刈り入れの祭りとも呼ばれます。後(のち)にモーセがシナイ山で神から律法を授かったことを記念する祝祭ともなりました。その祭りの日、使徒たちを中心とする主イエスの弟子たち一同が一つになって集まっていました。すると突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえました。そして、その音は彼らが座っていた家中に響いたのです。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたのです。

 聖霊とは神の霊です。聖霊が新約聖書に登場するのは、聖霊降臨日が最初ではありませんでした。聖霊によって身ごもった母マリアから主イエスはお生まれになりました。マタイによる福音書 第1章18節では、こう言われています。 「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。そう言われています。またルカによる福音書 第1章35節では、マリアに答えて天使がこう言っています。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。そう言われています。このように、私どもの救い主、主イエスの誕生は、聖霊、すなわち神の霊のはたらきによるものだったのです。それは神の御子主イエス・キリストの誕生としては当然のことだったのかもしれません。

また、主イエスがヨルダン川でバプテスマを受けられた時、聖霊が主イエスの上に降(くだ)られました。ルカによる福音書 第3章21、22節です。「21 民衆が皆洗礼(バプテスマ)を受け、イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。そう言われています。この時、普段は目に見えない聖霊、神の霊が見えるお姿で現れ、父なる神は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とおっしゃって、御子を祝福されたのです。

今、使徒言行録 第2章に書かれている聖霊降臨の出来事のことを申しました。そのように聖霊が降(くだ)られることは、主イエスが予告し、約束してくださっていたことでした。ヨハネによる福音書 第14章16節で、主イエスはこうおっしゃっています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。ここで主イエスが言われている弁護者とは、実は聖霊のことです。ヨハネによる福音書 第14章26節ではこう言われています。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。確かにそうでした。主イエスが十字架で死なれ、ご復活なさっても、主イエスが私どもの罪を償い、赦すメシア、救い主であることは、使徒と呼ばれる弟子たちも分かりませんでした。しかし、聖霊が降って来てくださると、主イエスがおっしゃるように、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださった」のです。すなわち、聖霊は、主イエスがおっしゃったこととしてくださったことへの悟りを与えてくださったのです。それゆえ、コリントの信徒への手紙 一 第12章3節ではこう言われています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。初代教会の指導者となる使徒たちも、聖霊によらなければ、主イエスが真の意味で救い主であるとは分からなかったように、私どもも、聖霊によらなければ、主イエスを神の子、救い主であるという信仰をいただくことができないのです。

そこから、こう言えるでしょう。キリスト者の中には、今この時、聖霊がはたらいてくださっているのを感じるとおっしゃる方がいます。それは素晴らしいことだと思います。しかし、そのような経験はまったくないとおっしゃる方もおられます。そのような方(かた)の方(ほう)が多いでしょう。ただし、聖霊のはたらきをすぐに感じることが出来ないことで引け目を感じることはありません。私ども人間は遥かに神に劣る存在です。神はすべての面で私どもを遥かに超えておられる方(かた)です。ですから、神の霊である聖霊のはたらきが、私どもの五感、見る、聞く、嗅(か)ぐ、味わう、触れるという、五感で感じることが出来なくても、さらには、第六感で感じることが出来なくても何ら不思議はないのです。しかし、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」との言葉から、誰かが、「イエスは主である」、「主イエスは神の子、救い主です」と信仰告白出来たなら、その人に聖霊がはたらいてくださったということです。そのように、信仰をいただいて、信仰告白がなされたら、それは、神の霊、聖霊がはたらいてくださった証拠なのです。そう考えると、信仰告白して、キリスト者となられた皆さんに聖霊がはたらいてくださったことが分かります。真に感謝です。そこから、こうも言えるでしょう。まだ、信仰告白なさっていない方々にも、今、誰も知らない間に、聖霊がはたらいてくださって、その方々も「イエスは主である」「主イエスは神の子、救い主です」という信仰卯告白出来るように、導いてくださっているのです。どうぞ、心を開いて、神の霊を歓迎してお迎えしてください。

また、使徒パウロも聖霊について証ししています。まず、パウロは主イエスの十字架と復活によって私どもに与えられた最大の賜物は聖霊であるとしています。そして、ローマの信徒への手紙 第5章5節で、こう言っています。「希望はわたしたちを欺(あざむ)くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。そう言うのです。私ども一人一人の心に神の愛が溢れるばかりに注がれている、そのように神に愛され続けているのも、神の霊のはたらきによるのだと、パウロは言うのです。

先ほど、使徒言行録 第1章8節の言葉を朗読していただきました。復活された主イエスがいよいよ父なる神のおられる天に上げられる時におっしゃった言葉です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」そうおっしゃいました。もうすぐ、聖霊、神の霊が降(くだ)る。すると、あなたがたは聖霊から力を受ける。その力とは、あなたがた福音伝道へと、キリストを証しすることへと、突き動かす。そして、あなたがたはエルサレムだけではおさまり切れず、ユダヤ地方、サマリア地方の全土で、さらには世界の果てまで、キリストの証人として、証しを続けるようになると、おっしゃったのです。そして、多くの迫害を受けますが、主イエスがおっしゃたようにキリスト者たちはキリストを証しし、福音は世界に広がって行ったのです

ところで、使徒と呼ばれた人たちは、特に主イエスのお側にいました。さらには、甦られた主イエスにお会いしたのです。ですから、主イエスのご復活の目撃証人です。その意味で、彼らは特別です。のちの時代では、どんなに頑張っても主イエスのご復活を目撃出来ませんでしたから、目撃証人とはなれません。その意味で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との言葉は、別の意味の証人を産むのです。

私どもは、この目でキリストを見たことがありません。しかし、先ほど引用しました「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」との言葉から、信仰を頂いた人には聖霊がはたらいてくださったということで、聖霊の証人となるのです。不思議なことに三位一体といわれ、父子聖霊はお一人の神ですから、神の霊の証人は、神の御子の証人でもあるのです。イエスは主であると証しした者は、即、キリストの証人とされるのです。主イエス・キリストこそが救い主ですと、証しする者とされるのです。

先ほど、キリスト教会に対する迫害が厳しくなると、迫害から逃げて行った人たちがその途中で伝道したと申しました。そのようにして各地に福音が伝えられたのです。では、迫害が強くなり始める前には、どのように福音は伝えられたでしょうか。

五旬祭に聖霊が降ると、すぐに聖霊に満たされたペトロが説教を始めます。それを人々は聴いていました。すると、こういうことが起こったのです。使徒言行録 第2章37節以下です。

37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 ペトロが求道者に勧めたことは、単純でした。「悔い改めなさい」そして、「イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい」でした。悔い改め、神に向き直り、神に立ち帰るのです。放蕩息子が父親の所に帰って来たように、神に立ち帰るのです。そして、信仰を告白し、主イエスを自分の救い主とし、バプテスマを受けるのです。それだけなのです。そうすれば、賜物として聖霊を受ける、プレゼントとして、神の霊があなたの側に来てくださると伝えたのです。

 ペトロが勧めたことはシンプルでした。悔い改めなさい。それは、今まで自分の生き方の方向転換をすることです。神に背き、背を向けていた生き方を悔い改め、神に立ち帰り、神さまの方に歩み始めるのです。そして、主イエスを救い主と信じ、バプテスマを受けるのです。実に、キリスト教会が勧めるべきことはそれだけなのです。福音伝道とは、それを勧めることに尽きるのです。

 私どもは福音伝道と言いながら、求道者の方にいろいろと要求していないでしょうか。私どもが求道者の方に勧めることが出来るのは、ペトロが勧めたシンプルなことに尽きるのです。そこだけを真剣に伝えて行くことこそが伝道ではないでしょうか。間違っても、求道者の方を、先輩のキリスト者の子分にしてはいけないのです。その意味で、先に救われた者、先にキリスト者になった者は、求道者の救いのためだけに心を砕くようにすることが、福音伝道なのです。

 さらに、使徒言行録 第2章43節以下では、救われる者が次々と現れたと言われています。どのような伝道をしたのでしょうか。その個所を聴いてみましょう。

  43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 ここで私が注目したいのは、「信者たちは皆一つになって」いたことです。さらには、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参っていた」ことです。そして、「喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」ことです。それによって、「民衆全体から好意を寄せられた」のです。ここには、初代教会の信者たちが、外に伝道活動に行ったとは言われていません。それでも、仲間に加えられる者が日に日に増えたのです。では、彼らが立派な人たちだったのでしょうか。使徒言行録を読み進めますと、豊かに人たちと貧しい人たち、ユダヤ人の中でも、外国から戻って来た人たちとそうでない人たちとの間で、配慮に欠け、分裂が起こったことが言われています。そうです。エルサレム教会の人たちが皆、立派であったという訳でもなさそうです。では、どうして、多くの人が短い間に加えられたのでしょうか。それは、彼らが心を一つにして、喜びと真心をもって神を礼拝していたからだと思います。彼らのその姿勢が、多くの人感銘を与えたのだと思います。そこから、彼らをそのようにさせる方、主なる神はきっと素晴らしいかたに違いないと、人々は思ったのでしょう。そうです。それこそ、証人、あかしびととされた者の証しではないでしょうか。私どもが喜びと真心をもって礼拝を捧げることで、そのようにして、主なる神を指し示すことが、福音伝道において、証しにおいて、何よりも大切なことなのだと思います。これは、今年度の標語とも一致します。「十字架の救いをひたすら求めよう」。このことこそが、私ども一人一人が救われる秘訣であり、同時に、キリストをあかしするあかしびとに与えられた、最も有効な証しの姿だと思います。それが、福音伝道へとつながるのです。

 初代教会の人々は聖霊に満たされ、喜びと真心をもって神を礼拝し続けました。私どもも、彼らに倣って、そのようにしてまいりましょう。お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、イエス・キリストの父なる神よ。御霊なる神よ。どうぞ、私どもも聖霊に満たしてください。そして、いつも、喜びと真心をもって礼拝を捧げ、キリストを証しする者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月15日 説教 - 並木牧師
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2016年5月22日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

ヨハネによる福音書 第15章26節~第16章4節a

 

 26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 第16章

 1 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

 

「わたしたちは神の証人」

 

 本日もこのように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。テモテへの手紙 二  第4章22節の言葉です。「主があなたの霊と共にいてくださるように。恵みがあなたがたと共にあるように」

 今年も、皆さんと共に、主イエスの十字架の苦しみを覚える受難節を過ごし、主イエスのご復活を祝う、復活主日の礼拝をお捧げしました。そこから、復活節を過ごし、先週は聖霊降臨日の礼拝をお捧げしました。今年は、受難節、復活節の間はルカによる福音祖の受難記事、復活記事にご一緒に耳を傾けてまいりました。そのために、ヨハネによる福音書の言葉を聴くことをお休みしていました。本日は久しぶりにヨハネによる福音書の言葉を聴いてまいりましょう。ヨハネによる福音書の言葉を少しずつ聴き続けて、本日は第16章に入りました。

 本日の箇所は、主イエスが使徒たち、十二弟子たちになさった別れの説教の一部です。前半、第15章の部分は、図(はか)らずも、聖霊のこと、真理の霊とも弁護者とも言われている聖霊のことが言われています。そして、後半、第16章では、使徒たちがこれから受ける迫害のことをおっしゃっています。

 26節で、主イエスはこうおっしゃいました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」。主イエスは、ご自分に代わって聖霊が、私どもをどんな時も弁護し守ってくださる方でもある方が、来てくださるように、してくださるのです。それは、神の真理を表す霊でもあり、私どもに真理を告げてくれる霊でもあるのです。その方が主イエス・キリストを証ししてくださるのです。そのように、真理の霊が証ししてくださるから、使徒たちも、そして、私どもも、キリストの十字架と復活の意味を知ることが出来るのです。聖霊降臨直前でも、使徒たちでさえ、主イエスがメシアである意味を分かっていませんでした。ですから聖霊降臨がなかったら、私どもはずっとと十字架と復活の恵み、有難さが分からなかったでしょう。真理の霊が来てくださったことは、真に感謝です。

 さらに主イエスはおっしゃいます。27節です。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」。こうして、使徒たちはキリストの復活の証人として、福音伝道していくのです。それによって、福音は世界に告げられていくのです。そして、福音を信じた者は、私どもは、新たな証人として、福音伝道の一端を担うという光栄を頂いているのです。私どもも、聖霊を受け、福音伝道の務めを担ってまいりましょう。

 さて、第16章2節後半ではこう言われています。「しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。そうなのです。キリスト者を迫害した人たち、例えば、後に回心し伝道者となったパウロでさえ、キリスト者を迫害している時は、キリスト者は異端者で、彼らを迫害し殺すことで自分は神に仕えていると思い込んでいたのです。実に恐ろしいことですが、それが事実でしょう。3節で、主イエスはその理由を述べます。「彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」。そうです。キリスト者を迫害する者たちは自分たちこそ神を知っていると、奢(おご)っていたのです。そのために、主イエス・キリストを受け入れられず、キリスト者たちを迫害することが正しいことだと思い込んでいたのです。奢(おご)り高ぶりが、如何に人の目を塞(ふさ)いでしまうのかが分かります。そのためにも、私どもの奢(おご)り高ぶりを神に打ち砕いていただきましょう。

とことで、何でこのような恐ろしい預言をあなたがたに話すのかという理由を主イエスは1節と4節でおっしゃいます。1節「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」。4節「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」。そうおっしゃるのです。迫害はたまたま起きたことではなく、主イエスもそのことをご存じだった。だから、今から備えをして、迫害が来た時には、私の言葉を思い出し、なんとか、信仰を保ちなさいとおっしゃっているのです。

 さて、第16章2節の前半では、こう言われています。 「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう」。この主イエスの預言はその通りになります。当初、初代教会の人たちは神殿や、シナゴーグと呼ばれる会堂で、他のユダヤ人たちと一緒に礼拝を捧げていました。彼らは、ナザレ派と呼ばれたようです。主イエスがナザレ出身であり、ナザレのイエスと呼ばれていたことに由来するのでしょうか。キリスト者たちはナザレ派と呼ばれ、他のユダヤ人たちから仲間として加えてもらい、会堂に出入りしていました。そしてローマ帝国には、皇帝を神のように礼拝するということもありましたが、ユダヤ人やナザレ派と呼ばれるキリスト者たちは皇帝礼拝を強制されることはありませんでした。そもそも、ローマ帝国は植民地支配において、ローマ帝国の支配を受け入れ、反抗せず、治安を乱さなければ、その他のことには寛容な政策をとっていました。しかし、ローマ帝国に反抗した一部のユダヤ人がたてこもったエルサレムが紀元70年に陥落すると、様子が変わります。ローマ帝国に対抗したユダヤ人たちがエルサレムにたてこもった時、ナザレ派と呼ばれたキリスト者たちはたてこもらず、武器を取らなかったのです。なぜか。それは、ルカによる福音書 第21章20節、21節にありますように、主イエスがその時は逃げなさいとおっしゃっていたからでした。こういわれています。「20 エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。21 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」。主イエスはそのようにおっしゃったのです。そのために、キリスト者たちはローマ帝国に反抗しなかったのです。その結果、キリスト者たちは、ユダヤ人からだけでなく、ローマ人からも、卑怯(ひきょう)な奴らだと言われるようになります。

 ところで、会堂での礼拝でも、私どもが礼拝の中で祈る「主の祈り」に似た決まった言葉を祈る祈りがありました。その祈りの中に、ある時期からこういう祈りが加えられるようになりました。十八祈祷と言われるものです。「教えに背く者に、いのちの望みもありませんように。ナザレ派は滅びますように」。そのように祈るように決められたのです。もちろん、キリスト者たちは自分で自分たちを呪うような祈りは出来ません。そこで、会堂の礼拝で、ナザレ派の者が入っていても、見つけ出し追放すために、祈りのこの部分をちゃんと祈っているか監視するようになったのです。中には死刑の宣言もされたそうです。このようして、悲しいかな、主イエスが預言されたこと、「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう」との預言が成就してしまうのです。

 そのような中で、「証人」という言葉は「殉教」という意味を持つようになります。復活された主イエスはシモン・ペトロや他の弟子たちにも現れてくださいました。そして、ペトロにこうおっしゃったのです。ヨハネによる福音書 第21章18節です。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。ヨハネによる福音書は続く19節でこう言います。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」。そう言うのです。このように、当時、キリストの証人となることは、殉教覚悟のことだったのです。そのようにして、使徒たちは、私どもに大切な教えを、信仰を伝えてくれたのです。

 なぜ、そうまでして、キリストの証人となって、殉教者となってでも、キリストの証人となったのでしょう。それは、キリストの救い無くしては、人は決して救われないからです。キリストの救い無くしては、滅びしかないからです。

 20世紀を代表する神学者の一人、カール・バルトはこのようなことを言っています。「私が示したいことはただ一つ。キリストは、人間のために死ぬという仕方でしか人間を救い得ないことを、キリストご自身が良く知っておられた」。またこうも言っています。「キリストの十字架と甦りを前にして、キリストなしの人間とは破滅した人間であることを意味する。それをよく知って欲しい」。そうなのです。キリストの十字架と復活を信じること無くして、人は救われないのです。そのため、キリストの証人となった、使徒たち初め、代々のキリスト者たちは、迫害を受けても信仰を捨てず、殉教しても信仰を捨てなかったのです。そのようにして、キリスト信仰は証しされ、伝えられたのです。

 このような、迫害、殉教は、明治政府によって、禁教令が廃止されてからも続きました。長崎の浦上にいた隠れキリスタンたち、ほぼ四千の浦上の人たちは根こそぎ捕えられました。長崎空港の近くには、そのキリスタンが捕えられていたという遺跡があるそうです。彼らは、各地に送られます。金沢に彼らが入れられた牢のあとが残っています。中には東京に連れて来られた者もあったそうです。その中で、多くの若者が津和野(島根県)に捕らえられました。拷問が続き、二十日間も三尺牢と言われる高さ三尺の牢に閉じ込められ、信仰を捨てるように求められたそうです。そこで、二十一歳の若者が、二十三歳の若者が死んでいったと記録されているそうです。そして、その中の何人かが脱出することに成功したのです。それは、自由の身になりたいからというより、同じ仲間が各地に送られているが、その人たちの消息を知り、慰めて上げたいと思ったからでした。当時、神戸にフランス人の神父が教会堂を建てることを許され、そこでミサをしていたので、どうしてもそこを訪ねたいと思ったそうです。そこにいましたヴィリヨン神父がこの人たちの訪問の記録を残しています。それによりますと、ミサをあげ終った夕刻暗がりの中に、この人たちが突然姿を現して驚いた。彼らが訴えるには、自分たちの苦しみについては何にも言わなかった。ただ飢えと苦しみのゆえに、とうとう信仰を捨てると言わざるを得なかった人々のために、祈って欲しいとひたすら願った。自分たちは信仰の節操を曲げていない。しかし、彼らは信仰を捨てた。そう言って殉教者気取りになるのではなく、彼らは飢えと苦しみの中で、キリストを否認した。キリストを救い主と信じることを止めた。そのことをよく理解してあげて欲しいと頼んだのです。彼らに代わって、彼らの名をもってそのことを訴え続けたと、神父は書き残しているそうです。そして、彼らがやがて信仰に帰るまで、自分たちがその償いわざを成し得るならば、それを教えて欲しいと言ったそうです。こうして、この人たちは訪問を重ね、牢に戻ったということです。たぶん、牢役人は大変驚いたことでしょう。

 私どもは、聖書が伝える証人たちが殉教者となった記録を読む時、また、今申しましたような明治以後の殉教者の記録を聞く時、自分たちにも殉教という二文字が目の前に来たらどうしようとかと怯(おび)えてしまいます。そのように、思ってしまうのも無理はありません。今お話ししています私も、そのように想像すると怯(おび)えざるを得ません。しかし、それよりも前に、私どもの信仰はこのような証人、殉教者たちによって、伝えられたことを心に刻みたいと思います。彼らがどうしてそこまでしたのか。それは既に申しましたように、キリストの十字架と復活による救い無くして、私どもが神に犯した罪は赦されないし、それゆえ、私どもは救われないからです。ですから、私どもの信仰の先達たちは必至になって、信仰を受け継ぎ伝えたのです。

 今年度の標語、「十字架の救いをひたすら求めよう」は、主イエス・キリストが何としても、私どもを救わなければと、十字架に身を捧げてくださった熱い思いを知ることによって始まります。そして、今申しましたように、十字架の救いを何とか伝えなければと必死になった先達の思いを知ることによって、この信仰は導かれて行くと思います。私どもがいただいているキリスト信仰は、救いは、そのように貴重なものなのです。そのことを心に刻み、深く感謝し、これからも礼拝を捧げ、今度は私どもがキリストの証しをしてまいりたいと思います。

 お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたと、御子が、私どもの弁護者であり、真理の霊である御霊をお送りくださいましたことを感謝致します。私どもは、それにより、あなたの御心を、主イエスが真の救い主であることを悟ることが出来ました。感謝致します。そして、あなたは聖霊を受けた者たちを、主イエスを証しする証人としてお遣わしになり、私どもに福音を届けてくださいましたことを感謝します。そのように、私どもを救うために、あなたと、御子と、信仰の先輩たちが熱い思いをもって、福音を私どもに届けてくださったことに感謝致します。どうぞ、私どもも、神の証人として、キリストの証人として、あなたに仕えささてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月22日 説教 - 並木牧師
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2016年5月29日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第16章1~15節

 

 1 これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。4 しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

 4 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 

「真理の霊はわたしたちの誤りを明らかにする」

 

 今週も週の初めの日に、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝します。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。テトスへの手紙 第3章15節です。「恵みがあなたがた一同と共にあるように」。

 先週から、ヨハネによる福音書の言葉を聴くことを再開致しました。第16章に入りました。先週、既に第16章3節までの言葉をご一緒に聴きました。それでも、本日の聖書朗読は、第16章1節から致しました。1節から3節は迫害の予告です。そこには殉教者もいるのです。迫害は、多くの背教者、信仰を捨てる者たちを生みます。そして、信仰に殉じる殉教者をも生むのです。キリスト教会はそのごく初期から厳しい迫害に遭います。具体的にはまず2節で「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう」と言われるように、ユダヤ人共同体において、極めて重要な場、礼拝の場であり、集会の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂から追放されることでした。前回申しましたように、それが実際に起こるのは、主イエスが復活され天に昇られてから約60年後の紀元90年頃からです。それ以前の紀元70年に、エルサレム陥落、神殿崩壊、そしてイスラエル国の消滅を、ユダヤ人たちは経てきているのです。国家を失ったユダヤ人にとって、最後の拠り所である共同体から追放されることは厳しいことでした。民族共同体であると共に、信仰共同体であるユダヤ人が、礼拝から締め出されることは、実に厳しいことでした。そうされる側からすれば、酷(ひど)いいじめです。さぞかし、辛かったことでしょう。しかも2節で「あなたがたを殺す者が・・・」との言葉があるように、殉教する者がいたのです。そして、苦しみに耐えかねて、また殉教を見て信仰を捨てる背教者もいたことでしょう。主イエスはそのことをここで予告されているのです。そんなことなど起きて欲しくありません。そして、聴きたくない話です。しかし、主イエスはおっしゃいます。「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」。だぶん、迫害の中で、使徒たちは、キリスト者たちは、この主イエスのお言葉を思い出したことでしょう。そして、1節の言葉も思い出したでしょう。1節「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」。主イエスは真に正直なお方です。この後に起こる迫害を隠すことなく、予告、預言なさるのです。しかも、そう予告するのは、預言するのは、あなたがたをつまずかせないためだと、おっしゃるのです。あなたがたが躓(つまず)き倒れて、信仰をなくしてしまわないように、あなたがたのために、おっしゃっているのだというのです。

 使徒たち、それに続くキリスト者たちが、主イエスがおっしゃるように迫害に遭い、殉教者まで出ることは、避けられないことでした。地上において信仰に生きようとすれば、迫害をはじめとする様々な困難、艱難に出会います。信仰を持たずに生きて行こうとしても、いろいろな問題にぶつかります。人一人が生きてくということは、実に、厳しいこと、しんどいことです。その上、信仰を持って生きて行こうとすれば、さらに、それによって課題を背負(しょ)い込むことになります。しかし、信仰に生きることは、マイナスばかりではありません。真(まこと)に信じて、主に従うなら、むしろプラスが多く、マイナスを補って余りあるのが信仰生活に導かれます。その初めが、主イエスの憐れみに満ちた言葉です。1節「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」。主イエスはそうおっしゃるのです。

 

主イエスがお話しくださる言葉は、それをしっかりと聞くことによって、私どもを躓(つまず)きから、躓(つまず)き倒れて、信仰を捨てることから救い出してくれるのです。私どもが信仰を捨て、主イエスから離れてしまわないように、主イエスはいつも私どもを憐れみ、語りかけてくださるのです。

 聖書の言葉の中には厳しい言葉があります。主イエスのお言葉の中にも厳しい言葉がいくつもあります。しかし、丁寧に聴いてまいりますと、主イエスの言葉は実に憐れみに満ちています。主イエスは決して私どもを見捨てることなく、私どもの側にいて、慰め、憐れんでくださるのです。本日の聖書箇所の主イエスがそうですし、今、私どもの側にいてくださる主イエスもそうなのです。聖書の言葉、特に福音書の記事と主イエスの言葉には、その主イエスのみ旨が溢れています。

 その意味で、このように主の日の礼拝で、聖書の言葉を聴く時と共に、水曜日の「聖書を読み祈る会」も、主イエスのみ旨と憐れみを知る良い機会となっています。先週「聖書を読み祈る会」で読みましたルカによる福音書 第22章31節にこういう言葉がありました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。実に厳しい予告です。「歯に衣着(きぬき)せぬ」という言葉は、主イエスのためにある言葉かもれません。ここだけ聞くと、主イエスは何て情け容赦ない方だと思ってしまいます。しかし、ここで主イエスはこれから起こる事実を、そこにある真実を、はっきりおっしゃってくださったのです。ただ、主イエスの言葉は、そこで終わってはいません。続く32節です。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。主イエスがお祈りしてくださるのです。死をも恐れないと粋(いき)がっているペトロを、それでも、主イエスを知らないと三度も言ってしまうペトロを、弱く意気地のないペトロを、主イエスは憐れんで、ペトロの信仰が無くならないように父なる神に祈ってくださっているのです。なんと慰めに満ちた言葉でしょう。しかも、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とまでおっしゃって、ペトロが立ち直ることを預言し、それからなすべき使命を与えてくださっているのです。主イエスが真(まこと)の救い主であることをここからも知ることができます。

 このように、本日の箇所においても、「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」との、実に情け深い、憐れみ深い主イエスのお姿が垣間見えるお言葉を聴くことができます。

 主イエスの言葉は続きます。5節です。「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない」。主イエスはもうじき、十字架に架けられ、墓に葬られるのです。しかし、復活して再び弟子たちの前に現れてくださるのです。でも、その時もつかの間、主イエスは父なる神のもとに帰って行かれるのです。しかし、今、主イエスに「どこに行かれるのですか」と尋ねる者はいないのです。この言葉を聴くと、第14章で弟子の一人トマスが主イエスに「どこに行くのですか」と尋ねたことを思い出させます。しかし、この時は同じことを尋ねる者はいないのです。なぜでしょうか。その理由がすぐに述べられます。続く6節です。「むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」。弟子たちの心は悲しみに満ちているのです。主イエスとの別れを悲しみ、何も尋ねられないのです。沈黙するだけなのです。

 主イエスの十二弟子は皆主イエスを慕って、主イエスに従ってきました。主イエスは公生涯において、一箇所に定住するということはありませんでしたから、主イエスに従う弟子たちも一緒にあちらこちらに行きました。しかし、彼らにとって、主イエスのお側にいるということは真に充実した日々だったことでしょう。主イエスのお言葉を側で聴き、主イエスのなさる不思議な業を間近で見たのです。私どもが想像しただけでも、弟子たちの主イエスに従った日々は充実し、またとない時だったことでしょう。しかし、主イエスと別れる時が迫っているのです。弟子たちの中には、「こんなはずはなかった」との思いを強くしていた者もあったでしょう。たぶん、一人や二人ではなかった、いや、全員が、「こんなはずではなかった」という思いをひしひしと感じていたことでしょう。

 そうです。私どもも、人生を生きて来て、「こんなはずではなかった」という思いを何度も経験します。自分が入りたい学校に入れなかった。就きたい仕事に就けなかった。それらが、叶ったとしても、思ったように学業が進まない。会社が傾いてきてしまった。思いがけず、重い病気にかかった。大切な肉親を失った。などなど、「こんなはずではなかった」との思いを、私どもも抱くのです。まさに、この時の弟子たちは、「こんなはずではなかった」との思いに押しつぶされそうなっていたでしょう。

 続く主イエスの言葉を聴きましょう。7節です。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」。この「実を言うと」という翻訳は上手い訳だと評価する方があります。この「実」というのは、単なる事実と言うより真実、真理のことです。神の真理です。あなたがたを生かす神の真実、真理はこうだとおっしゃるのです。それによると、主イエスが去って行かれる、弟子たちと別れ、父なる神のもとに帰られることは、むしろあなたがたのため、弟子たちのためになることだとおっしゃるのです。

 なぜ、そのようなことが言えるのでしょうか。7節後半です。「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。主イエスが、弟子たちと別れ、去って行かなければ、弁護者と呼ばれる聖霊が来てくれないからであると、主イエスはおっしゃるのです。この弁護者という言葉は、助け主、慰め主とも訳されます。原文の元々の意味は「そばに来てくれる人」だそうです。側にいて助け支えてくれる人です。裁判で裁かれる時など特にそのような人が必要です。その意味で、まさに弁護者なのです。聖霊はそのように、私どもの側にいて、お守り下さる方なのです。

 では、ここではどのように助けてくださると主イエスはおっしゃっているのでしょうか。少し飛んで13節です。「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」。真理の霊とも呼ばれる聖霊は、真理を悟らせる、神の真理を悟らせるという仕方で私どもを助けてくださると主イエスはおっしゃるのです。しかも、「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」のです。真理の霊は自ら語るのではなく、あなたがたがわたしから聞いたこと語り、これからのことをあなたがたに告げると、主イエスはおっしゃるのです。真理の霊、聖霊は、主イエスがおっしゃったことを悟らせるために、そして、悟った弟子たちのこれからを語ってくださるのです。

 続く14節、15節で、主イエスはこうおっしゃいます。「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである」。そうおっしゃるのです。真理の霊、聖霊は、主イエスの栄光を与えることをその目的の一つとされているのです。真理の霊は、主イエスのものを受けて、主イエスの言葉を、主イエスの業を受けて、あなたがたに告げることによって、あなたがたを悟らせるのです。それによって、私どもは悟りを得るのです。主イエスこそ、真の救い主、十字架と復活にこそ、私どもの救いがあることを悟るのです。そうさせるために、真理の霊、神の真理を告げる霊ははたらいてくださるのです。

 戻りまして、8節の言葉を聴いてみましょう。聖霊、真理の霊が具体的に何を明らかにしてくださるかが、述べられています。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。そう言われています。正しいことを知るためには、私どものどこが間違っているかを明らかにしてもらわなければなりません。自分の間違え、誤りを知ることは、それなりの覚悟がいります。しかし、それから目を背けていたら、正しいこと、真理を知ることは出来ないのです。その意味で、その方、聖霊が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、私どもの誤りを明らかにしてくださり、真理を教えてくださることは、嬉しいことなのです。信仰に生きるということは、自分の罪を認めること、そして、悔い改めて、神に向き直ること、神に立ち帰ることです。そのために、何が誤りであったかをきちんと知っておくことが出発点となるのです。

 主イエスの言葉が続きます。9節です。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、・・・」。そうおっしゃいます。主イエスを信じないこと、それこそが罪なのです。主イエスを十字架で私どもの罪を償ってくださった救い主として受け入れることこそが、私どもが罪赦され、生きる唯一の道です。その主イエスを受け入れないこと、主イエスを必要としない振りをすること、それこそが罪なのです。それは神に犯した罪、その罪を罪と認めず、赦しを乞わないことでもあります。それこそが罪だとも言えるでしょう。

 続く、10節です。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、・・・」。そうおっしゃるのです。義についての世の誤り、私どもの誤りは、神を見なくなってしまうことによって、起こり、大きくなるのです。既に申しましたように、主イエスが父なる神の下に行ってくださることによって、主イエスに代わる弁護者、真理の霊が来てくださいます。そうすることによって、私どもは、神の真理、主イエスこそ私ども皆の真の救い主としることが出来るようになりました。それは、地上の主イエスと違って、どこにいても、聖霊のおはたらきによって、聖霊と聖霊によって悟らせていただく主イエスにお会いできるからです。これこそ、まさに、聖霊の恵みです。しかし、その時、私どもは与えられた信仰の目によって主イエスを見なければなりません。もはや、肉体の目で主イエスを見ることは出来ないのです。そこで、残念なことに肉体の目で主イエスが父なる神が見えないことによって、父なる神と御子を見なくなってしまうということが起こるのです。その点、幼子たちは素晴らしいと思います。肉体の目では見えなくても、多くの幼子は神を、主イエスを見ることが出来るからです。しかし、父なる神を見ないことで、主イエスを見ないことで、何が神の前に義なのか。何が神の前に正しいかが、見えなくなってしまうのです。それゆえ、私どもは、神を見上げ続けることが必要です。そうです。礼拝を捧げ続け神を見上げていく、神を主イエスをしっかりと見ていくことが、信仰において大切なのです。これからも共に礼拝を捧げて、父なる神を、御子主イエスを、見上げてまいりましょう。神を見ることこそが、神の前に正しいこと、義なのです。

 そして、11節です。「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」。そう言われています。この世の支配者は、この世を神の御心に叶うように尽くしていくために、神から大切な使命を与えられているのです。しかし、多くの場合、支配者は自分に委ねられた権限を過って用いているのです。その意味で、私どもは何かの役職を任されたら、高ぶることなく、その役職に与えられた使命を果たしていかなければならないのです。

 聖霊はこのように私どもの誤りを教えてくださり、主イエスこそ私どもの救い主であることを悟らせてくださるのです。コリントの信徒への手紙 一 第12章3節でこう言われている通りです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。私どもも、聖霊、真理の霊を受け入れ、神に立ち帰り、主イエスに従ってまいりましょう。お祈り致します。

 

 私どもを日々お導きくださる三位一体の主なる神よ。どうぞ、御子主イエスがお送りくださる、弁護者であり、真理の霊である御霊を受け入れる者とさせてください。それによって己の誤りを悟り、神の真理を知って、御子主イエスを救い主と受け入れる者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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