2016年4月3日 日本バプテスト厚木教会 復活節第一主日礼拝

 

ルカによる福音書 第24章13~27節

 

 13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16 しかし、二人の目は遮(さえぎ)られていて、イエスだとは分からなかった。17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍(にぶ)く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

「共に歩んでくださる主イエス」

 

 今日この日も、皆さんと一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日は、テサロニケの信徒への手紙 一 第5章28節の言葉を皆さんにお送りして説教を始めます。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

 今年の受難節、私どもはルカによる福音書の受難記事の言葉をご一緒に聴いてきました。そして、先週、復活主日の礼拝では、それに続く主イエスが甦(よみがえ)られたことを知らせるルカによる福音書の記事をご一緒に聴いてきました。本日は、復活節第一主日です。これから、教会総会の日を除く五月の聖霊降臨日前まで、ルカによる福音書の復活記事の言葉を共に聴いてまいりたいと思います。

 そこで、本日と次回は、しばしば、「エマオの途上」と呼ばれる聖書箇所から聴いてまいりたいと思っています。

 本日の箇所はこう始まっています。「ちょうどこの日、・・・」。その前では、主イエスが復活された朝のことが語られています。ですから、この記事も、主イエスが復活されたその日の出来事であることが分かります。前後関係から、その日の午後のことと思われます。

 今回、この記事で私が気になった言葉は、20節のクレオパの言葉です。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。この言葉です。クレオパはこの人が主イエスだとまだ知らないのですから、こういうのも無理はありません。しかし、たとえそうだとしても、主イエスに対して知ったかぶりをしているのです。ここに、今回私は、私どもの姿を見ました。私どもは、ついつい知ったかぶりをします。そうして自分を相手よりも上に置こうとします。しかし、それは実は愚かな事です。彼らはエルサレムで起こった出来事はよく知っていたものの、主イエスがおっしゃるようにこれらの出来事の意味が分からないのです。「物分かりが悪く、心が鈍(にぶ)く」なっていたのです。まさに、これこそ私どもの姿そのままです。ですから、私どもは、いつもどこでも、心して謙遜でいるようにしたいものです。

 本日の説教題を「共に歩んでくださる主イエス」と致しました。本日の記事、エマオの途上で、主イエスはクレオパともう一人の弟子、二人の弟子と一緒に歩いてくださいました。それも、15節で、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」と言われていますように、主イエスの方から二人に近づいて来てくださったのです。二人が主イエスに寄り添って歩んだのではなく、主イエスの方から近づいて来られたのです。そうです。私どもは自分が意識して行っていることに、心が向いています。ですから、信仰においても、自分から求め、自分が心開いて、主イエスに、父なる神に近づいて行ったと思っています。確かに、そういう面はあります。誰かが、こうこうしなさいと言っても、当の本人がその気にならないと、どんなことも進みません。信仰においても同様のことが言えるでしょう。本人がその気になって行わないと何も出来ないということです。しかし、他方から見ると、私どもの信仰の歩みには、神が先回りして備えてくださっていたとしか思えないことがあります。信仰生活を振り返ると、自分が一所懸命に神を、神の御子を求めてきたことによる歩みもあるでしょうが、神が備えてくださったからこそ、今、信仰生活を続けていられると思わされることがあります。それは、言い換えれば、父なる神の方から、主イエスの方から、私どもに近づいて来てくださり、私どもを良い道に導いてくださったとしか思えないことがしばしばあるということです。

 そして、どんな時も、主イエスは私どもの側(そば)にいてくださるのです。残念ながら、私どもの心が、主イエスの方に向いていなかったり、心を閉ざしていると、主イエスが側(そば)にいてくださること、主イエスの方から近づいて来てくださり、私どもに寄り添うようにいてくださることに気付かないのです。主イエスはそのように、私どもが気付かなくても、私どもの傍らにいてくださる方なのです。

 共に歩んでくれる人がいることは、何かと助かります。まずは家族がそうでしょう。一人でいると、何から何まで自分でやらなければなりません。しかし、家族がいてくれると、いろいろと助けられることがあります。そして、一緒にいることで、ひと時を楽しく過ごすことが出来ます。そして、一緒に住んでいなくても、家族がいることで、私どもの生活は豊かになります。共に歩んでくれる家族が与えられていることは、感謝です。それは、友人の場合も同じでしょう。共感し合える友がいること、愚痴を聴いてくれる友がいることで、私どもは慰められます。共に歩んでくれる友、歩みのペースを合わせて一緒にいてくれる友がいることは幸いなことです。

 それと同じように、私どもがどんな状態でいようが、主イエスは共に歩んでくださるのです。しかも、本日の聖書にありましたように、主イエスの方から近づいてきてくれるのです。私どもは決して一人ではないのです。もし、一人だと思っても、必ず、主イエスが一緒にいてくださるのです。それは特に長年の信仰生活を振り返った時に気付かされます。自分は一人だと思っていた。それを辛く思っていた。誰も分かってくれないと思っていた。しかし、そんな時こそ、主イエスが共にいて、一緒に歩んでくださり、支えてくださっていたことに気付かされます。本日の箇所の二人の弟子が、復活の主イエスを主イエスであると気付かなかったように、私どもも、信仰の目が塞がれている時、主イエスが共に歩んでくださっていても、それが主イエスであることに気付かないのです。しかし、あとで思えば、その時も主イエスが側にいて、共に歩んでくださっていたことに気付かされる。信仰生活には、そのようなことが多いのです。

 ただし、近頃、共に歩んでくれる方に負担をかけてしまうことをとても気にする方が多くなっているようです。いじめを受けても、親に心配をかけるので黙っている子ども、子どもに自分の介護の負担を掛けるのは申し訳ないと思っている親などです。確かに、家族とは言え、相手に負担を掛け過ぎないようにと気遣いをするようです。確かに、何でもかんでも、面倒見てもらうのでは、相手は大変でしょう。しかし、共に歩んでくれる家族であれば、互いに補いあって、苦労も一緒に負って、共に歩むことが大切でしょう。

主イエスは本日の聖書箇所のように、いつの間にか私どもの側にいて、共に歩んでくださるのです。しかも、全能の父なる神の御子ですから、私どものことが重荷になるようなことは無いのです。むしろ、主イエスは私どもが頼れば頼るほど、喜んで、受けて下さる方です。なぜなら、信仰とは、神に依り頼んで歩むことだからです。むしろ、神に負担をかけることこそが信じて生きることだからです。

また、主イエスが私どもと共に歩んでくださるということは、信仰の兄弟姉妹が祈っていてくれることにもつながります。信仰の兄弟姉妹は、なかなか、共に歩むことはできないでしょう。しかし、信仰者には祈りという、とっておきの宝があります。主イエスが共に歩んでくださるように、信仰の兄弟姉妹が祈っていてくれるのです。主イエスが共にいてくれることは、主イエスを通して、一緒である信仰の兄弟姉妹にも覚えてもらえるということでもあります。

さて、25節以下ではこう言われていました。「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍(にぶ)く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。そう言われています。この時の二人、主イエスから直接、旧約聖書全体にわたり、主イエスについて預言されていることを説明されたというのです。何と、うらやましいことでしょう。主イエスから直接お聴きできるなんて、とても素晴らしいことです。たぶん、受難節の間、ずっと交読文で読んできた、イザヤ書 第53章についても、主イエスは解き明かしてくださったのでしょう。

この聖書の解き明かしは、教会が受け継いでいます。私どもは主イエスから直接お聴きすることはできませんが、その後、主イエスに代わって、キリスト教会がその役目を果たしています。礼拝での説教がそれに当たりますし、水曜日の聖書を読み祈る会で、聖書を読むこともそれに辺ります。また、青年会の皆さんも一緒に聖書を読んで、共にみ言葉の解き明かしをしています。そのように、牧師は主イエスに倣って、聖書の解き明かしをすることが大切な役目となっています。しかし、それは牧師の専売特許ではありません。誰でも、一緒に聖書を読む、聖書の言葉を聴くことで、いつの間にかそこで聖書の解き明かしが行われるのです。ですから、聖書を一人で読むことも大切ですが、何人かで読むことで、自ずと、聖書は解き明かされるのです。それは、教会がキリストの体なる教会と言われているように、ここに目には見えないけど、キリストが一緒にいてくださり、私どもと共に歩んでくださっているからだと思います。

主イエスは、二人が鈍く、何も分かっていないからと、突き放すことはしませんでした。その物分かりの悪い弟子に丁寧に、聖書の解き明かしをしてくださったのです。私どもも、人のことは言えません。私どもこそ、物分かりの悪い、なかなか悟らないキリスト者、主イエスの弟子です。しかし、主イエスはそのような私どもを見捨てるようなことはなさいません。そのような私どもを憐れみ、導いてくださるのです。何と感謝なことでしょう。共に歩んでくださる主イエスにこれからも従ってまいりましょう。

お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、復活の主イエス・キリストの父なる神よ。復活の主イエスは二人の弟子と共に歩んでくださいました。そして、聖書を解き明かしてくださいました。この二人の姿は、まさに私どもの姿です。主イエスがいてくださっても、主イエスと気付かず、鈍く、悟ることに遅いです。しかし、主イエスはそのような私どもを決してお見捨てにならず、ご自分から私どもの側に来てくださいます。ありがとうございます。どうぞ、私どもも、復活の主イエスに従っていくことができますよう、日々お導きください。あなたのお導きを喜んで受ける者としてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

2016年4月10日 日本バプテスト厚木教会 復活節 第二主日礼拝

 

ルカによる福音書 第24章13~32節

 

 13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16 しかし、二人の目は遮(さえぎ)られていて、イエスだとは分からなかった。17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍(にぶ)く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

「復活の主イエスに出会う」

 

 今日この日も、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日は、テサロニケの信徒への手紙 二 第1章2節の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

 「エマオへの途上」とか、「エマオへの道」としばしば呼ばれる聖書箇所を与えられています。先週は、28節まででしたが、本日は32節まで与えられました。この記事の初めの13節14節はこう始まっていました。「13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた」。そう言われています。この記事の前に、女性たちが週の初めの日に、主イエスの墓に行ってみると主イエスの亡骸はなく、墓にいた白い衣を着た天使は、主イエスがご復活なさったことを告げたのです。女性たちはそのことを弟子たちに伝えます。しかし、弟子たちは信じないのです。ただ、ペトロは墓まで走って行き、主イエスの亡骸がないのを確認するのです。本日の記事は、ちょうどその日なのです。二人の弟子、一人はクレオパです。十二弟子には入っていませんが、主イエスをお慕いしていたその他の弟子たちの一人でしょう。そこから、クレオパと一緒にいたもう一人の弟子も、十二弟子には入っていない弟子であったと思われます。

 この時、二人は「エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩いて」いました。1スタディオンは約185メートルということですから60スタディオンとは、約11キロメートルです。11キロメートルと言えば、本厚木駅から小田急相模原駅までの線路が約11キロメールだそうです。これは線路の距離であって、徒歩で歩くと線路の上は通れませんが、もっとあるはずですが、そのくらい離れたエマオという村に二人は向かっていたのです。なぜ、エマオに向かっていたか、その目的は不明です。ただ、歩きながら「この一切の出来事について話し合っていた」と言うのです。それは、主イエスが捕えられ、不当な裁判にかけられ、死刑判決を受け、総督ピラトがしぶしぶそれを認め、ついに十字架刑に処せられたこと、そして、三日目の朝、女性たちが墓に行ってみると、主イエスの亡骸はなく、主イエスはご復活されたのだと告げられたことでしょう。そして、そのあとの17節でこう言われています。「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった」。そう言われています。二人は暗い顔をしていたのです。そうです。この一切の出来事について話し合っていても、主イエスがご復活されたという知らせを聞いても、全く喜びがないのです。

 先月、私どもは復活主日礼拝、イースター礼拝を捧げました。今年も多くの方々と、主イエスの復活をお祝い致しました。お祝いです。なかなかその気持ちを言葉に言い表しづらいのですが、その日は喜びの日でした。同時に、既に主のもとに召された方々の写真も並べ、いつの日かその方々も復活させられて、私どもと再び会いまみえることが出来ること、再会出来るという希望を確認することも出来ました。

 しかし、主イエスがご復活されたまさにその日、私どもが、もしその記念すべき日に立ち会えたなら、どんなにか嬉しかったろうに、と思えるその日にいた二人が「暗い顔」をしていたということは、一体どういうことなのでしょう。私どもにとって、それは分かりづらいことです。しかし、聖書の言葉を良く聞くことで、その理由が分かってくると私は思います。そのヒントとなる言葉は、主イエスの言葉です。二人が、このところエルサレムで起こった一切のことを、そして、主イエスをメシアと期待していたことを述べたあとの主イエスの言葉です。25節、26節です。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍(にぶ)く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そう言われています。この中の「物分かりが悪く、心が鈍く」ということです。二人には、主イエスの十字架も、復活も、理解出来ないのです。メシアである方が殺されてしまうなんて有り得ない。さらには、死んだ人が復活する、甦るなんて、有り得ない。信じられない。彼らにとって、主イエスに起こったこれらの出来事が不可解だったのです。なぜそうなってしまったのか分からず、理解不可能な、ただただ不可解な出来事だったのです。

 私ども、信仰に生きる者にとって、先ほども申しましたように、復活主日は喜びです。しかし、信仰に生きていない人は、大の大人が、何てたわごとを言っているんだと思うかもしれません。そして、あの人たちは怪しい宗教を信じていると思うかもしれません。そうです。復活を信じないとことには、喜びはないのです。復活は、たわごとか、怪しいことなのです。ですから、この二人にとって、十字架が理解出来ない上に、さらに復活という不可解な出来事が起きてしまって、当惑していたのでしょう。そのような弟子たちに主イエスはおっしゃったのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍(にぶ)く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。物分かりが悪く、心が鈍いたちに、聖書の預言者の言葉を信じられなかったのです。既に申しましたように、イザヤ書 第53章、「苦難の僕」と呼ばれる預言は、まさに、主イエスの十字架を預言した言葉でした。そして、福音書の記事によりますと、主イエスが殺されること、そして、復活されることを、ご自分でたびたび弟子たちに語られていたのです。しかし、弟子たちは聖書の預言を、さらには、主イエスご自身の言葉を理解出来ず、そのために、受け入れることも出来なかったのです。

 確かに、主イエスの言葉も、聖書の言葉も、よく理解し、受け入れられないと、何とも不可解なもの、あまり意味のないものとしか、見えないでしょう。しかし、その意味が分かって来ると、自分の前に、聖書の世界が、神の世界が大きく開けて来るのです。そこには、私どもが自分で考える世界を越えた雄大な世界が待っているのです。聖書を読む醍醐味、聖書の言葉を聴く醍醐味は、そこにあります。申しましたように、キリスト教会、そして、そこに仕える牧師の役目の大切な一つは、その醍醐味を伝えることだと私は思っています。聖書は家で一人でも読まれるべきものですが、まずは、教会で、礼拝で、その他の集会で読まれ、説かれるものです。私どもは、どうしても物分かりが悪く、心が鈍(にぶ)い者です。ですからこそ、教会で聖書の言葉を読み、聴くことによって、そして、それが解かれることによって、そこに書かれていることを悟るのです。その意味で、私は自分に負わされた責務はとても大きいといつも思っています。一人一人の方が物分かりが悪く、心が鈍(にぶ)いことを脱し、一人一人の方が救われるために、牧師はキリストの体なる教会に仕えているからです。言い方を換えれば、皆さんは、神に命を与えられ、愛されている一人として、教会に、そして牧師に、物分かりが悪く、心が鈍(にぶ)い現状を変えてもらう権利があるのです。そのようにして、自分を救ってもらう権利があるのです。

 さて、本日の記事の中に、不可解な言葉があります。16節です。「しかし、二人の目は遮(さえぎ)られていて、イエスだとは分からなかった」。そう言われています。このあとの記事の言葉を聴いても、復活前の主イエスのお顔と復活後の主イエスのお顔が違っていたということではないようです。主イエスのお顔は変わっていないのです。しかし、二人には、その人が主イエスとは分からなかったのです。たまに会う人だったら、そのようなことはあるでしょう。しかし、二人にとって、主イエスは親しい方だったに違いありません。十二弟子ほど側にいた訳ではないにしても、主イエスを慕って、主イエスについて行き、繰り返し、主イエスが語られる言葉を聴いていたでしょう。このあと、食事の場面で、主イエスと気付くように、主イエスと一緒に食事をすることも何度もあったでしょう。主イエスのお顔を忘れるはずがありません。ですから、この方が主イエスであることに、二人が気付かなかったことは、実に不可解です。聖書は言います。「二人の目は遮(さえぎ)られていて、・・・」。そうです。人の考えや力を越えた大きな力によって、すなわち、神によって、二人の目は遮られていたのです。申していますように、二人が主イエスを認めなかったことは、私どもの理解の範囲を超えています。しかし、福音書が伝えるように、事実そのようなことが起こったのです。そのことをあまり議論しても意味はないと思います。その点は、そのまま素直に受け入れるべきことと思います。

 その一方、この目が遮られたという出来事が私どもに示唆してくれていることは、大きいと思います。信仰とはいかなるものかを、この出来事は指示(さししめ)していると私には思えてならないのです。それは、信仰を頂く前は、私どもの目は遮られていて、真の信仰を頂くことによって、私どもの目が開かれるということです。

 目が遮られているということは、自分の知っていることや、自分の理解できる範囲で生きていることです。それ以外のことは受け入れられないからです。そのために、聖書の言葉に生きることが出来ないのです。そのため、聖書の教える、恵み、喜び、希望が理解出来ず、そこに生きようとしないのです。主イエスを主イエスと認められず、十字架の意味も不可解で、復活も信じられないのです。一方、目が開かれることによって、主イエスの十字架の有難さが分かり、復活という恵みを信じ、そこで希望に生きることが出来るのです。

 先週の聖書を読み祈り会でも申し、プリントに書いたことですが、キリスト信仰に生きるとは、愛に生きることとも言えます。そこで、もし私どもの目が遮られていると、私どもが愛に生きられることを、それが可能なことを受け入れられないのです。しかし、目が開かれると、キリストの愛に倣って生きられるように、神のお導きをいただくことが出来るようになるのです。具体的に愛に生きることを考えるために、子に対する親の気持ちが分かるかどうかということを考えてみたいと思います。

 先週、たまたま、NHKラジオで、精神科医の香山リカさんが担当されている番組を聴きました。その番組は、視聴者からのお便りに、香山リカさんが答えるという番組です。女性からこのような質問がありました。「わたしには子どもがいません。しばしば、親にならないと、親の気持ちは分からないと言われます。子どもいない私は、そう言われると、そのことがとても気になります。それって本当ですか。」という質問でした。香山さんは、その質問に、そんなことないですよ、と答えていました。香山さんにも子どもはいないそうです。子どもがいることで良いことはいっぱいあるでしょうが、こどもがいないことでも良いことはいっぱいあります。それぞれの人生です。そして、子どもがいなくても、親の有難さ、自分の親が自分に対して抱いていてくれた気持ちは良くわかりますよ、と答えられていました。私もそう思います。それは、厚木幼稚園の先生方を見ているとそう思います。先生方はとても子どもたちを可愛がっています。一人一人の子をとても大事してくれています。それは特に卒園式の時に感じます。先生方が、しばしば、感極まりそうになられていることです。何とかして、感極まって、言葉が出なくなるのを押さえるようにされていることが、一回の卒園式の中で何度もあります。先生方の多く未婚の方です。しかし、私は思います。子どもたちへの愛は、親御さんに負けないほどだと。ですから、親にならないと、親が子を愛する気持ちは分からないということはないのだと、私も思っています。

私事になりますが、それを強く感じる出来事が先週ありました。私の長女の優奈が、先週の中学入学式の前日に、中学の制服で幼稚園に来た時です。その場に私はいなかったのですが、娘が園舎に行くと、先生方皆が、成長した娘を見て、涙を流すほどに喜んでくれたとのことです。その意味で、幼稚園の先生方の多くは信仰者ではありませんが、子どもたちを精一杯愛することで、信仰に生きることの大切な一つである愛に生きることを自然と実践なさっていると思いると思いました。

その意味で、目が遮(さえぎ)られるということは、喜ぶ者と共に喜ぶことが出来ないこと、泣く者と共に泣けないことではないかと思います。喜ぶ者と共に喜ぶとは、一時(いっとき)、自分がお立ち台から降りて、喜んでいる人をお立ち台に立たせてあげることです。そんな時にも、自分の方が優れているのだと示したくなったり、自分の名誉を保ちたいと思って、お立ち台を譲らないこと、それは、信仰の目、愛の目が遮(さえぎ)られていることに他ならないと思います。

さて、聖書が教える愛に生きることの行き着くべきところは、赦すことだと思います。主イエスは十字架の上で、こう祈られました。ルカによる福音書 第23章24節です。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」。主イエスはここで究極の赦し、究極の愛をお示しくださいました。真に感謝です。この祈りによって、私どもは救われるのです。

では、お前もこのように祈れるかと言われるとなかなか難しいでしょう。一般的にも、殺人犯を、殺された人の家族はなかなか赦せません。たぶん、犯人が死刑になっても、赦せないでいるでしょう。そうです。罪を受けた者の傷は深いのです。酷いことをされた人の心は、そこで酷く傷ついてしまい、なかなか、そこから抜け出せない。ですから、相手を傷つけてしまうということは、それは精神的にもですが、相手に大きなダメージを与えてしまうことなのです。その意味で、そのことを謝罪することはとても大切なこととだと思います。たぶん、なかなか赦してもらえないでしょう。しかし、心から謝罪するしか道はないと思います。

一方、傷つけられた側です。今申しましたように、一度受けた傷はなかなか癒えないようです。先日、いじめについての調査で、いじめを受けるとそれは一生忘れられない。トラウマとなって残ることも珍しくないという報告がありました。辛いことです。しかし、主イエスの十字架での祈りは、そこに留まってはならないことを私どもに教えてくれているのです。それは言い換えれば、赦さないという殻に自分を閉じ込めるのではなく、自分をそこから解放してあげなさいということでもあります。傷つけられると、自分では意識していなくても、本日の聖書の二人、クレオパともう一人の弟子のように、目が遮(さえぎ)られてしまうのです。そのために、主イエスのように赦しに愛に生きる道が、見えなくなってしまうのです。ただ傷つき、心が頑なになっているので、残念ながら、自分の目が遮(さえぎ)られていることに気付かないのです。ですから、傷が癒えるまで待たなければならないかもしれません。しかし、いつまでもそこに留まることは、目が遮られ続けることで、自分をそこに閉じ込めること、愛に、信仰に生きることを拒絶することなのです。それは、厳しいようですが、主イエスに従って歩むことを拒絶することです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ってくださった主イエスの祈りを否定し、主イエスを拒絶することなのです。しかも、それは、そのように主イエスが十字架の上で祈って下さり、この私も赦してくださった赦しを拒絶すること、自分は神に赦されなくてもよい、自分が救われなくも構わないということになってしまうのです。まさに、それは信仰を捨てると宣言していることに他なりません。その意味で、主イエスの十字架の救いを受けたい、すべての罪を赦していただきたいとおもうなら、自分も赦しの道へ一歩踏み出すことが必要なのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」との主イエスの祈りは、私どもの救いを確保してくださる有り難い、勿体ない言葉であると共に、私どもの信仰の姿を教えてくれることばなのです。さらには、先ほど「主の祈り」を祈りました。それは決して、お題目を唱えるように祈ったわけではありません。そして、その中で、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦し給え」と祈りました。もし、人を赦さないなら、その祈りは嘘になってしまいます。残念ながら、信仰の目が、愛の目が遮られていると、そのことが分からず、到底そのことを受け入れることが出来ないのです。私どもも、目の遮りを一刻も早く解いていただけるよう、祈りたいと思います。

さて、28節、29節ではこう言われています。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」。そう言われています。復活された主イエスも、二人と共に歩んでくださった主イエスも、十字架以前と同じように、神の御業ために、さらに先に進んで行こうとされるのです。しかし、二人のお泊りくださいとの言葉に、予定を変えて、お泊りくださるのです。先ほど賛美しました讃美歌39番は、私の愛唱讃美歌の一つでもありますが、この聖書の言葉から歌詞をとった讃美歌です。こように、主イエスは私どもの願いを、祈りをお聞きくださり、予定を変更してくださるのですそして、共に宿ってくださるのです。主イエスは共に歩んでくださり、共に宿ってくださるかたなのです。真に感謝です。

そして、30節、31節です。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」。そう言われています。この二人はのちに使徒と呼ばれる十二弟子には入っていませんから、しばしば、最後の晩餐と呼ばれ、聖餐式の起源になった食事にはいなかったでしょう。しかし、繰り返し主イエスと一緒に食事をすることがあったのでしょう。そして、この時も、食事の席の主人として「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」主イエスを見て、目が開(ひら)けたのです。閉ざされていた目が開かれたのです。遮(さえぎ)られていた目が開かれたのです。そのしぐさが主イエスだと気付かせたのでしょう。そして、私は思います。このことは、聖餐式の意味を指示しているのではないかと。それは、私どもも聖餐に与ることで、目が開かれ、信仰に、そして愛に、生きる一歩を踏み出していけるのだと。

ここで注意したいことがあります。31節の「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」という言葉です。ある注解者は言います。これは、主イエスのお姿が見えなくなっただけで、主イエスがどこかへ行かれたことではないと。私もそう理解したいです。私どもの目に見えなくても、主イエスは今も、私どもと共に歩んでくださり、私どもと共に宿ってくださるのです。主イエスはいつも一緒にいてくださるのです。ですから、勇気をもって、主に頼り切って、信仰の道を歩んでまいりましょう。

そして、最後の32節です。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」。そうです。聖書の言葉を聴くこと、そして、聖書の解き明かしを聴くことは、私どもの心を燃えさせるのです。神の言葉、聖書の言葉にはそのよう不思議な力があるのです。ですから、これからも共に聖書の言葉を聴いてまいりましょう。そして、いつも主に心を燃やしていただきましょう。

お祈りを致します。

 

復活の主イエス・キリスト、その父なる神よ。どうぞ、私どもを鈍さから、頑なさから解放してください。そのために、どうぞ、私どもの目が遮(さえぎ)られないように,あなたが私どもの目を開いてください。そのために、あなたを礼拝し、自分の拘(こだわ)りを捨て、あなたの言葉を素直に聞く者とさせてください。どうぞ、いつまでも、私どもと共に歩み、共に宿ってください。主にみ名によって祈ります。アーメン。

2016年4月24日 日本バプテスト厚木教会 復活節 第四主日

 

 

ルカによる福音書 第23章39~43節 

 

 39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

「十字架の救いをひたすら求めよう」

 

 今日この日も、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げできますお恵みを感謝しています。今日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 二 第3章18節の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように」。

 私と共に、東京神学大学で4年間学んだ仲間の中に、仕事を定年前に辞めて、入学してきた方がありました。私どもの学年で最年長の方です。その方がある時、こんなことを言いました。「わたしの母は、周りの反対を聞かず、私を産みました。そして、皆が反対した通り、産後の日達が悪く、亡くなりました」。その言葉に、私どもは何とも言えませんでした。その方のお母さんは、命懸けで、子どもを産んだわけです。お母さんは何とかしてこの子が地上の生を受けて生きて欲しいと思ったのでしょう。たとえ、自分の命が終わっても。たぶん、その方は、他の人以上に自分の命の重みを感じていらっしゃることでしょう。

 思えば、私どもの救い主、イエス・キリストは、十字架にお架かりくださり、ご自分の命を懸けて、私どもに救いの道を与えてくださったのです。私どもの救いの道は、神の御独り子、主イエス・キリストの命と引き換えに頂いたのです。

 私どもが父なる神に対して犯してしまった罪、神の言葉に背いたり、神に逆らったりした罪を、私どもの身代わりとして、主イエスが十字架で償ってくださらなかったら、私どもはとっくに審(さば)きを受けて、滅んでしまったでしよう。今、こうしていられるのも、主イエスが私どものために、貴い命を差し出してくださったからです。ただし、私どもは、まだ、主イエスの貴い犠牲を充分に生かしているとは言えません。それは、私どもの罪からの救いは、まだ完成していないからです。私どもは、自分の救いの完成に至っていないからです。

では、どうしたら、主イエスがご自分の命を犠牲にしてまでも、私どもに与えてくださった救いをしっかり掴(つか)むことができるのでしょうか。私どもは、そのために、信仰の歩みを必死に続けているとも言えるのですが・・・。救いをしっかり掴(つか)むには、ただひたすら信仰に生きることです。すなわち、父なる神を礼拝し、賛美を捧げ、聖書のみ言葉を自分自身に語られた言葉として聴き、み言葉に従って日々生きていくことしか、救いをしっかり掴(つか)む道はありません。それは、信仰者であったら、第一に考えるべきことでしょう。そして、私どもがそのように生きることを、誰よりも望んでおられるのは、三位一体の神、すなわち、父なる神、御子主イエス、聖霊なる神、ご自身です。神が私どもについて、一番望んでおられることは、それなのではないでしょうか。

 本日の定例総会資料の今年度の聖句と標語の所にこう書きました。「過去二年は、神を畏れることと、神に栄光を帰すことという信仰の原点に心を向け、主なる神に対する私たちの姿勢を吟味した。それを受け、今年度も私どもの信仰の基本姿勢を真剣に吟味したい。今年度は、父なる神と御子主イエスが下さった最高の恵みである十字架の救いをしっかりと頂いているかを吟味する。父と御子が私たちをあまりにも愛する余り、御子の貴い命を捧げてまでして開いてくださった十字架の救いに、私どもがどれほど真剣に心を向けているか、自問自答してまいりたい」。そのように書かせてもらいました。

 過去2年は、神を畏れることと、神に栄光を帰すことという神に対する私どもの態度、姿勢を問い直そうということでした。神に視線が向いていました。しかし、今年度は、神からの私どもへの視線という点に視点を変えてみました。そこで、神が私どもに求められている生き方とは何か。神が私どもに最も求められていることは何かという問いから始めました。

 そこで、私の中に浮かんだ一つの問いは、私どもは、主イエスの十字架の救いを無駄にしているのではないかと言う問いです。主イエスが命を懸けてくださったのに、命を懸けて、十字架の救いを私どもに与えてくださったのに、私どもはそれを真剣に受けとめているかということです。言い換えれば、主イエスが十字架にお架かりくださることによって、切り開いてくださった救いの道を、私どもは真剣に歩んでいるか。もしかしたら、救いの道ではなく、横道にそれてしまって、折角、切り開いてくださった救いの道が無駄になってはいないか、ということです。そういうことで、私が最初に考えた今年度の標語は、「十字架の救いを無駄にしない。」でした。それを3月の役員会に提案したところ、役員の皆さんから、説明を聞けば、その主旨は良く分かる。しかし、「十字架の救いを無駄にしない。」をそのまま標語とするのはどうか、とご意見を頂きました。確かに、それを標語とした時、標語だけを聞いた方に、充分に主旨が伝わるかと問われると、私も自信がありませんでした。それに、「無駄にしない」という否定の言い方は標語にふさわしくないとのご意見もいただき、確かにそうだなと思いました。そこで、どのような表現が良いか、さらに祈り求めて、「十字架の救いをひたすら求めよう」という標語が与えられました。

また、今年度の聖句も、当初、私の中では別の聖句でした。マルコによる福音書 第8章38節の言葉です。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」です。もし、あなたが全世界を支配したとしても、命が尽きてしまったら、全てを失うことになる。何の得にもならないということです。ただ、主イエスがここでおっしゃった命には、永遠の命の意味も含まれていて、むしろ、そちの意味の方が強いと思います。永遠の命とは言い換えれば、本日、テーマにしている、十字架の救いのことでもあります。どんなに富を権力を手に入れても、永遠に変わることのない、いのち、十字架の救いを、神から頂けなかったら、私どもは何を求めて一生涯生きて来たことになるのだろう。いつまでも、父なる神、御子主イエスと共にいることのできる永遠の命を頂けなかったら、何の得にもならない。地上で得たと思ったものは、死ぬ時、何一つ持って行けない。まさに旧約聖書に登場するヨブが言ったように、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな(ヨブ記 第1章21節)」なのです。

しかし、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」との聖句も、これだけ聞いただけでは、損得勘定をしているように聞こえかねないということで、年度の聖句としてはどうかな、ということになりました。そこで、年度の聖句としてふさわしいものを祈り求めまして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」との聖句を与えられた次第です。

今、今年度の聖句、そして、標語が決定するまでの舞台裏をお話ししました。本来は、お話しすべきことではないかもしれません。しかし、私どもが最も大切なことを求めているかどうかという問いを持って、今年度の聖句を与えられるように祈り求めたこと、そして、私どもがどれほど真剣に十字架の救いを求めているか、もしかしたら、私どもの日頃の関心は別のとことにあって、主イエスが十字架によって、与えてくださった救いを、ちっとも真剣に求めていないのではないか、もしかしたら、主イエスが十字架で死んでくださったことを無駄にしてしまっているのではないか、そのような思いのなかから、祈り求めて与えられた聖句と標語であることを知っていただきたいと思いまして、舞台裏をお話ししました。

ところで、このことを思う中で、私の頭の中にあった主イエスの譬え話の言葉を聴いてみましょう。「愚かな金持ちの譬え」と呼ばれている、ルカによる福音書 第12章13節以下の言葉です。新約聖書131ページです。

  13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

この金持ちは、穀物や財産を蓄えることで、安心してしまったのです。もうこれで、不足はない。しかし20節です。「神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」というのです。では、命が取り上げられないように、しっかり健康診断しておきましょうということではありません。全知全能の神は、生殺与奪の権能もお持ちなのです。

愚かな金持ちが穀物を蓄えたように、食べるものは大切です。多少の財産もなければ、衣食住がままなりません。老後の蓄えも必要でしょう。主イエスも主の祈りの中で、日ごとの糧を与えてくださいと祈りなさいと教えてくださいました。しかし、それらが満たされることは、生きていく上での最低条件であり、究極の目標ではありません。また、愚かな金持が言っているように、「先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」でもないのです。差し迫った命の心配はない。神よ、感謝します。あなたの御言葉に従います。あなたが、私の救いを完成してくださいますよう、しっかりあなたに従って行きます。そのようにならなければならないのです。

 そのように考えてきますと、初めに申しましたように、私どもは、どれほど真剣に自分の救いを求めているかと考えてしまいます。自分の救いを求めているかは、言い換えれば、天に宝を積んでいるか、とも言えると思います。マタイによる福音書 第6章19節以下で主イエスはこうおっしゃいました。

   19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

 最後の、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」とは、実に鋭い言葉だと思います。私どもの生活を考えると、「あなたが最もお金を使うところにあなたの心はあるのだ」ということでしょうか。そう考えると、私どもは食事にお金を使います。食費は、生きていくためにどうしても必要です。また、衣食住の住む所にもどうしても、お金がかかります。そう考えると、着る物も必要です。では、それ以外に何に使うでしょうか。

 私はバプテスマ志願者の方に、キリスト者は「十分の一献金」、「十一献金」を、大切な伝統としてきたとお話ししています。収入の十分の一を献金としてお捧げし、自分の所属する教会の会計を支えていくことは大切なことですとお話ししています。最初、十分の一をお捧げすることはできなくても、将来そのようになるように、心掛けていくことは大切ですよと、お話ししています。また、収入の中から、残った分を献金するのではなく、今月はこれだけ献金しようとして、まず、収入の内から献金する分を先に取っておくことも大切ですよと、お話ししています。そうです。お金の使い方にも、その人の生き方が出てくるのです。優先順位をつけることが大事です。信仰においても、優先順位を付けることが大切なのです。

 その意味で、本日の聖書箇所に登場した主イエスと一緒に十字架に架けられた二人のうちの一人は幸いだったと思います。もう一度、聖書の言葉を聴いてみましょう。一緒に十字架刑に処せられた、主イエスとその右と左にいた受刑者との会話です。「39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』40 すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』42 そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。43 するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」。ここで、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った人は、もうすぐ死んでしまいます。その意味では、ちっとも幸いではありません。しかし、真(まこと)の救いを求めたという点では、あくまでも譬え話の登場人物ですが、愚かな金持ちよりは幸いでした。愚かな金持ちはあまりにも恵まれていたために、自分が求めるべきものの優先順位を間違ってしまったのです。救いを求めること、天に宝を積むことを、忘れてしまったのです。もしかしたら、彼の姿は私どもも自身の姿かもしれません。一方、十字架の上にいたもう一人の受刑者は、もう他のものを求めることはできなかったのです。主イエスに覚えていただいて、主イエスの救いを求めることしかできなかった。もう他の幸いを求めることができなかったのです。しかし、それがまさに彼にとって幸いでした。主イエスに「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言っていただいて、確かな救いを頂くことができたのです。私どもも、ここで救われた人のように、必死になって、十字架の救いを求めてまいりたいと思います。

 信仰に生きることは、必ずしも禁欲的に生きることではありません。禁欲的に生きることが、自分の信仰心情だというのなら、それは良いことです。しかし、信仰に生きるから、娯楽はいけないということではありません。芸術に触れることは、人の心を豊かにします。良いことだと思います。そこで大切なのは、優先順位です。キリスト者であれば、収入の中から、まず献金を取っておくように、神を第一とすることが肝心です。その意味で、私どもは一週間の生活の中で、日曜日、主の日を大切にし、主の日の礼拝を大切にしています。それと同じように、私どもが生きていく上で、まず、主イエスがご自分の命と引き換えに私どもにくださった、十字架の救いを求めること、救いの道を進んでいくことを第一とすることが求められるのです。それが優先順位の一番に来るのです。そうであれば、あとは、自由なのです。私ども、キリストにある兄弟姉妹、主の日の礼拝を共に捧げるという最も大切な点は一致してします。しかし、一週間の他の生活は皆それぞれ違います。そもそも、ここに集っている私ども、性別も、年齢も、仕事も、趣味も、好きな話題も、食べ物も、得意分野も違います。ただただ、主の日の礼拝を第一としていること、優先順位の一番だけが同じで、あとは様々です。それだから、人は面白いとも言えます。

 私どもは、主イエスの十字架によって救われた者です。そして、救いの完成のために、主イエスが十字架によって切り開いてくださった道を進んでいます。ですから、どんなことがあっても、そこから外れないようにしてまいりたいと思います。いつも、心の真ん中で、救を求めてまいりたいと思います。

 お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御子は、私どもを愛し、ご自分を十字架にかけてまでして、私どもに救いの道を開いてくださいました。どうぞ、あなたと御子のその思いをしっかりと受け止め、自分の救いをひたすら求める者とさせてください。どうぞ、目先のことに目を奪われたりしませんように、私どもを正しい道にお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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