2016年3月6日 日本バプテスト厚木教会 受難節 第四主日礼拝

 

ルカによる福音書 第23章39~43節 

 

 39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

「主イエスに覚えて頂く幸い」

 

 本日もこのように、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。コロサイの信徒への手紙 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」。

 

 今、私どもは受難節、主イエスの十字架を覚える時を過ごしています。それに合わせて、ルカによる福音書の受難記事の言葉をご一緒に聞いています。前回の箇所は、主イエスが十字架に付けられる場面でした。その時、主イエスはこうおっしゃいました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」そのようにおっしゃって、主イエスを直接的、間接的に殺してしまった、私ども皆の罪の赦しを父なる神に頼んでくださったのです。真にありがたい主イエスの執り成しの祈りです。

 

 そして、本日の箇所です。既に福音書に書かれていましたように、主イエスが十字架に付けられた時、他の二人の人も一緒に十字架に付けられたのです。本日の箇所はこう始まっています。39節です。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」主イエスと一緒に十字架に架けられた内の一人が、主イエスに声をかけるのです。それもののしって言うのです。「お前は人々から、メシア、救い主と呼ばれているではないか。それなのに、俺たちと一緒に十字架に架けられているのか。本当にお前がメシア、救い主なら、自分自身と俺たちを今すぐ救えるはずだ。今すぐ、十字架から降りて、俺たちも降ろして見せろ。」そのようにののしったのです。主イエスを罵(ののし)る言葉は、前回までの箇所で既に聞いてきました。それらの罵りと、この言葉は少し違います。

 

ここでは、「我々を救ってみろ」と言っています。この俺を救えないのか。それでは、メシアとは名ばかりではないか、そのように罵(ののし)っているのです。この男の考えるメシアは、むざむざ十字架に架けられてしまうような、惨(みじ)めなメシアではないのです。そう考えていくと、この男のののしりは決して他人事ではないと思えてきます。私どもも、この罵りに似た、祈りとは言えないような訴えをします。「神よ。あなたはどうして私をこのような目に遭わすのですか。私はあなたを神と崇めてきた。あなたの言葉を聞いてきた。それなのに、今の私の状況は何(なん)ですか。もしかして、あなたは無力なのか。それに私がこれだけ訴えているのに、どうして一言も答えないのか。それでも神なのか。」私どももそのような訴えを、ののしりをしていないでしょうか。そう思うと、この男も決して他人でないように思えるのです。なまじ自分には信仰がるとか、信念があると思っていると、自分の正しさに固執して、他の人を罵り始めるのです。そこで、堂々巡りし、混沌へとはまっていくのです。

 

そして、この男の言葉を繰り返し聞けば聞くほど、この男は希望を失っていることに気付かされます。絶望しているのです。ここでは、最後の希望をかけて主イエスに願っているのではなく、絶望して罵(ののし)っているのです。もう諦(あきら)め、その気持ちを主イエスにぶつけ、汚い言葉を浴びせているのです。本当のメシア、救い主がすぐ側にいてくださるのに、残念ながら、それに気付かないのです。絶望は罪であると言われます。絶望してしまった人はとても悲しい人です。同情の気持ちを禁じ得ません。しかし、絶望することは、私どもを愛し続けて下さっている神に対する罪でもあるのです。ですから、かつて絶望してしまったことがあるなら、その罪を赦して頂けるよう、悔い改めたいと思います。また、身近な方が絶望してしまったら、その方のために祈りたいと思います。何とかして絶望から這い上がれるように、そして、その方が絶望という罪を犯したことへの執り成しの祈りをしたいと思います。弱さのゆえに、絶望に陥ってしまった兄弟を、姉妹を、どうぞお赦し下さいと祈りたいと思います。

 

 ところで、もう一人の十字架に架けられた人は違いました。40節、41節では、こう言われています。「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」そのように言われています。ここで驚くのは、この人が主イエスは自分たちと違うことに気付いていることです。もしかしたら、以前から主イエスのことを知っていたのかもしれません。そのような可能性はあるでしょう。しかし、ある人はそうではないと言います。ではなぜ、「しかし、この方は何も悪いことをしていない。」とはっきり言えたのでしょうか。それは、前回の聖書箇所の言葉、34節の主イエスの言葉、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」との言葉を、この人は聞いていたからではないでしょうか。その言葉を聞いて、この人は自分たちとは全く違う人だと思ったのかもしれません。

 

ところで、十字架に付けられる人のほとんどは、酷い犯罪者か、ローマの治安を乱す者たちでした。治安を乱す者は、過激な政治犯とも言えます。ローマ帝国のイスラエル支配を何(なん)とか止(や)めさそうという政治思想を持ち、過激な手段に訴えた人たちです。この二人もその可能性があります。ですから、一方の者は、メシア、救い主と聞いて、ローマ帝国からイスラエルを解放する救い主しか考えてなかったのでしょう。ですから、そのイメージからかけ離れている主イエスをののしったのでしょう。

 そして、もう一人も、イスラエルの解放という志を持って、闘ってきた人としましょう。その意味で、十字架刑に処せられることは無念だけれども、自分は殉教者だと思っていたかもしれません。しかし、主イエスの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」との言葉に衝撃を受けたのです。自分たちはイスラエルのためを思って闘ってきた。そのことに誇りを持っていた。しかし、自分の隣で、自分と同じように処刑されているこの人は違う。同じイスラエルの解放を願っていても、自分たちとは全く次元の違うところで闘って来られた方だ。まさに、この方こそ、真のメシア、救い主だ。神の子だ。そのように気付いたのではないでしょうか。この方の前では、自分たちがしてきたイスラエルの解放を目指す闘いは愚かだった。実は神の御心から外れていた。だから、自分がこのように審(さば)かれてしまうのも仕方がない。俺は、ローマ帝国に審(さば)かれたのではなく、神に審(さば)かれたのだ。今、分かったが、これは当然の報いということだ。彼はそう思ったのでしょう。その思いが、40節、41節の言葉に表されているのではないでしょうか。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 

 そして、この人は、もう一人の受刑者から、主イエスの方へ目を転じて、主イエスにこう申し上げるのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」この言葉は、口語訳聖書ではこう訳されていました。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」新共同訳と口語訳では、翻訳の際の基礎にしている底本が異なるために、このように異なった翻訳となっています。新共同訳では、「御国においでになるとき」が、口語訳では、「あなたが御国の権威をもっておいでになる時」となっています。口語訳は、主イエスが再び地上に来られる再臨の時と思われますし、新共同訳では、御国、神の国にいらっしゃる時ということで、時間については言われていません。ただ、いずれにしましも、その時まで、わたしのことを覚えていて下さり、思い出して下さいと乞い願っているのです。

 

 人に覚えてもらっていることは、嬉しいことです。世の中、暇な人はいないでしょう。幼い子も、年配の方も、日々忙しく動いています。ですから、皆がそれぞれ、今日はこれとこれとをしなければと思っているでしょう。または、側にいる人が、これとこれをしてもらおうと決めているでしょう。そもそも、一日の内の起きている間に、三度食事をするのも忙しいことです。そのような中で、忙しい他の人に自分のことを覚えていただいていることは、嬉しいことです。それに優って、主イエスに覚えて頂いていることは、この上なく嬉しいことです。神の御子である方、王の中の王、真の王である方、そして、私どもを愛して止まない救い主である方に覚えて頂いていること、この幸いは、私どもが日頃思っている以上に、遥かに幸いなことです。その幸いをこの人は主イエスに直接願ったのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 

 ある人は、ここにキリスト教会が始まったと言います。驚きです。私どもは、しばしば、聖霊降臨日、主イエスが天に帰られ、50日目に弟子たちの上に聖霊が降った日を、キリスト教会の始まりと考えます。または、マタイによる福音書 第16章18節で、主イエスが「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」とおっしゃった言葉から、キリスト教会は始まったと考えます。マタイによる福音書 第16章16節以下ではこう言われています。「16 シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。』そう言われています。ですから、本日の場面で教会が始まったと聞くと、驚きを禁じ得ません。ではなぜ、そのように言うのでしょうか。

 

 十字架に架けられているのは皆罪人です。私どもは皆、神に背き、逆らい続けている罪人です。しかし、主イエスはまったく罪のない方でありながら、私どもと同じ人間になって、私どもの罪を償うために、罪人の一人となってくださったのです。教会に集う者は、教会の頭なる主イエスを初め皆罪人なのです。しかも、十字架に釘で手足を打ち付けられ、身動きがとれないのです。主イエスが捕えられた時に逃げてしまったペトロや他の弟子たちのように逃げて行くことが出来ないのです。それは、キリストを頭とするキリストの体なる教会に私どもは捕えられ、キリストの愛から逃れることが出来ないことと似ています。そして、十字架の受刑者と同じように、私どもは死に臨んでいるのです。年老いていても、若くても、皆、死に向かっている、死に臨んでいるのです。その死に臨んでいる私どもの傍らに主イエスがいてくださる。しかも、主イエスも私どものために死んでくださるのです。そして、私どもに慰めの言葉をくださるのです。まさに、ここに教会が始まっているのです。

 今申しました「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」との願いに応えてくださった主イエスの慰めの言葉が、本日の箇所の最後にあります。43節です。「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」

 

 ここで「はっきり言っておく。」と訳されている言葉は、原語では、「アーメン」です。主イエスが真理をお告げになる時に使われる言葉です。この言葉を聞いたら、普段以上に、その後の言葉をしっかり聞かなければなりません。さて、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われている「楽園」という言葉は、口語訳では「パラダイス」と訳されていました。そして、私どもは、この楽園、パラダイスを天国だと理解し、そのように理解することを好みます。それで良いと思います。二人、主イエスとこの受刑者は、天国で一緒にいるのです。

 

 ただし、ここで「楽園」と訳されている言葉は、主イエスのお言葉の中でここでしか使われていません。この言葉、庭園、庭を表す言葉です。しかも、そもそもペルシアの言葉で、高い塀に囲まれた王宮の庭園を意味している言葉なのです。誰もそこに簡単に入ることが出来ない所なのです。そこから、人も、そして、死さえもここには入れない場所と理解されるようになったそうです。さらに、この「楽園」とは、アダムとエバが追放された追放されたエデンの園と考えられるようになったそうです。アダムとエバが蛇に騙(だま)され、神の言いつけを破って、禁断の木の実を食べたことによって、追放されたエデンの園です。この楽園喪失、「失楽園」は、詩人ミルトンが歌った人類最大の不幸だと言われています。人間の悲惨はそこに始まるのです。そして、ユダヤの人々はこう信じていました。再び神との正しい関係を回復させた人、つまり、義人と認めて頂いた人は、この楽園に招かれ、最後の勝利を待ち望んで生かして頂ける。そのように信じたそうです。その楽園に、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と願った男が招かれているのです。主イエスと共に、この楽園に入るのです。人生最悪の日にです。その最悪の十字架の死を突き抜けて、いのちに入れられるのです。しかも、主イエスが同伴者として共にいて下さるのです。

 

 このあと、この男は主イエスが息を引き取られたあとも、しばらく生き続けたことでしょう。これ以上ない肉体の苦痛に苛(さいな)まれながらです。しかし、同時に、この上ない慰めに癒(いや)されたことでしょう。ここから、人生は最後まで諦めてはならないこと、諦めては勿体(もったい)ないことが分かります。私どもも、主イエスに覚えて頂く幸いを胸に刻み、共に主イエスに従ってまいりましょう。

 祈りを捧げます。

 

 十字架の主よ。私どもも祈ります。私を忘れないで下さい。私のことを思い出してください。いいえ、私どもが祈り願う前に、あなたが私どもに呼びかけてくださり、いつも共にいるとお約束してくださっています。そうです。あなたは、あなたご自身の教会に死を超えるいのちの約束を語り続けよ、伝え続けよとおっしゃってくださいました。私どもは罪と死の中にありながらも、その惨めさの中から、あなたのその慰めにすがりながら、祈ります。あなたこそ、真の王、真の救い主です。真のいのちに生き、私どもをそのいのちの中に招き入れて下さる方です。どうぞ、私どもに、赦しと救いをお与えください。そして、私ども一人一人にも、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とのお言葉をかけてください。いつまでも、あなたと共にいさせてください。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

2016年3月13日 日本バプテスト厚木教会 受難節 第五主日礼拝

 

ルカによる福音書 第23章44~49節

 

 44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

 

 

「主イエスは真に正しい方」

 

 本日もこのように、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。コロサイの信徒への手紙 第4章18節の言葉です。「恵みがあなたがたと共にあるように。」

 

 先週金曜日、3月11日は東日本大震災から5年ということで、マスコミでもそのことが大きく取り上げられていました。各地で慰霊祭や5年前を振り返る行事が行われていました。今になって、当時のことが色々と検証されています。そして、未だに復興が進まない現状も知らされます。大切な方を失った方々が今なお深い悲しみにあることも覚えました。被災された方々に、主のお慰めがあります祈り致します。

 

 今、私どもは受難節、主イエスの十字架を覚える時を過ごしています。それに合わせて、ルカによる福音書の受難記事の言葉をご一緒に聞いています。前回の箇所は、主イエスの十字架上での場面でした。一緒に十字架に架けられた内の一人が主イエスに言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。するとイエスはこう答えてくださったのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。なんと慰めに満ちたお言葉でしょう。そして、なんと美しい場面でしょう。

 

 本日の箇所は前回に続いて主イエスは十字架に架けられたままです。マルコによる福音書によりますと、主イエスが十字架に架けられたのは午前9時でした。第15章25節でこう言われています。「 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」そして、ルカによる福音書の、本日私どもに与えられた箇所はこう始まっていました。「44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」そう言われています。主イエスが十字架に架けられて、3時間ほどすると太陽は光を失い、全地が暗くなったと言うのです。神の御子、主イエスが死に向かわれているのを悲しむかのようです。それが3時まで続いたというのです。

 

ところで、エルサレム神殿の一番奥が至聖所です。十戒を刻んだ石板を納めた契約の箱が置かれています。大祭司だけが年に一度、贖罪の日にだけ入ることが出来る所です。その手前が聖所です。「神殿の垂れ幕」とは、この聖所と至聖所を仕切る垂れ幕のことです。午後3時、その垂れ幕が真ん中から裂けてしまったというのです。これは何を意味するのでしょうか。その一つが、神を拝む道が断たれたという理解です。エルサレム神殿における礼拝が終わってしまうことを象徴していたのではないでしょうか。神殿礼拝がこの時の太陽のように光を失うことを言っていると言う理解です。主イエスの死に際して、全地が暗闇に覆われたことを思えば、神殿の垂れ幕が裂けたのは、今申しましたように、礼拝を捧げる場所が失われたこと、神殿礼拝の終わりを意味していると理解するのがよいのかもしれません。

一方、「神殿の垂れ幕」は、至聖所と聖所を隔てると共に、神と人を隔てるものであったとも言えます。そこから、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」ことは、誰もが神の前に望みをもって出ることが出来ることを意味するとも理解されます。主イエスの十字架の死は神と人との中垣を取り除いてくださったのです。その一つの表れとして、誰もが「主イエス・キリストのお名前によって祈ります」と直接神に祈りを捧げることが出来るのです。このように、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」ことについては、正反対の理解がなされています。どちらも、捨て難い理解だと思います。

 

続く46節では、とうとう主イエスが最期を迎えられます。こう言われています。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」ここで主イエスがおっしゃった言葉は、ユダヤ人が愛した夕べの祈りである詩編 第31編6節の一部です。そこではこう祈られています。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖(あがな)ってください。」実際、この時、夕べの祈りの時であったとも言われます。今の季節のように、まだ日が長くなっていない時期です。エルサレムの町の中から夕べの祈りを告げる鐘の音が聞こえていたのかもしれません。そのユダヤの人々が愛した祈りの言葉を主イエスが十字架の上で、最期の言葉として祈られたのです。

 

 主イエスは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈られました。ここで主イエスがおっしゃっている「わたしの霊」とは、霊と肉と分けて考えるところの霊ではありません。その意味では、霊肉すべてを含む、存在の全てです。主イエスは、「父よ、わたしの全てをあなたの御手に委ねます。」と祈られたのです。父なる神に全幅の信頼を置いて祈られた祈りでした。

 

 思えば、主イエスほど、父なる神に信頼をおいて全生涯を歩まれた方はなかったでしょう。どんな時も、父なる神への祈りを欠かすことなく、父の御心をお聴きになって、進まれました。父なる神からの権威をもって、悪霊にも波や風にも命令なさいました。そして、父なる神による私どもを罪から救う救済計画に基づいて、十字架にまっすぐ向かわれたのです。父なる神を深く信頼しておられなければ、出来ないことだったでしょう。そして最期に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈られたのです。まさしく、主イエスの最期の祈りとしてふさわしい祈りであったと思います。

 

 そして、47節です。「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。」そう言われています。ここに百人隊長が登場します。その名の通りローマ軍の百人の部下を持つ指揮官です。ユダヤ人からすると、異邦人、異教徒であったでしょう。そして、たぶん、この時の十字架刑執行の責任者であったのでしょう。ですから、少なくとも、主イエスを十字架に架けた時から、主イエスのことを見ていたのでしょう。その彼が「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。」のです。信仰告白に近い言葉を発し、神を賛美したのです。彼は後にキリスト者になったと推測する人が多くいますが、この時の彼の言葉からすると、当然のことでしょう。それにしても、なぜ、「本当に、この人は正しい人だった」と言えたのでしょうか。それは、主イエスが十字架の上でおっしゃった言葉をしっかりと聞いていたからでしょう。ルカによる福音書によりますと、主イエスが十字架の上でおっしゃった言葉は以下の三つでした。一つ目が「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」でした。二つ目が「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」でした。そして、三つ目が本日の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」です。

 

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」との言葉には、百人隊長は驚きを隠せなかったでしょう。十字架の上では、苦しみのあまり、何とかして助けてもらおうとするか、自棄(やけ)になって呪いの言葉を言う者はあっても、自分以外の人の赦しを乞う、執り成しの祈りを聞くとは思ってもみなかったでしょう。

 

また、二つ目の「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との言葉からは、主イエスが権威をお持ちの方であることが分かったでしょう。神からの権威を委ねられていなければ、このようなことは言えなかったはずです。そして、実に慰めに満ちた言葉をおっしゃることに驚いたことでしょう。ご自分が言いようもない激痛に苦しみながらも、もう一人の受刑者に慰めの言葉をもって答えている。そのことも驚きであったことでしょう。

そして、三つ目の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」です。既に申しましたように、これはユダヤ人が愛した夕べの祈りです。とは言っても、最期の息を引き取る時にこう祈られたということは、まさしく、父なる神に全幅の信頼を置いて、全てを父に委ねられたのです。これも既に申しましたように、これは全生涯を通じて、父なる神に信頼を置いて歩まれてこられた集大成と言えるでしょう。この時になって、急にこのような祈りは出来るはずがありません。百人隊長は、主イエスの父なる神との確かなつながりをしっかりと見たに違いありません。

 

 その結果、「本当に、この人は正しい人だった」という言葉が自然と口から出てきて、いつのまにか神を賛美していたのでしょう。十字架の上の主イエスに、真に義なる神の御子の真実のお姿を見たのです。

 

 私どもは、この百人隊長のように、肉体の耳で主イエスの言葉を聞き、肉体の目で主イエスのお姿を見ることは出来ません。それはとても残念なことです。しかし、聖書を通して、信仰によって、私どもはこの百人隊長が聞いたのと同じ主イエスの言葉を聞き、同じ主イエスのお姿を見ることが出来るのです。私どもは、信仰の耳と信仰の目をいただいていますから、聖書を通して、このような礼拝を通して、共に賛美することを通して、百人隊長と同じ体験をさせていただくことが出来るのです。そして、私どもも、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美いたしましょう。

 聖書は、主イエスの十字架の出来事を伝える中で、主イエスの十字架の意義を教えてくれています。繰り返し申しますが、苦しまれる主イエスを見て、「おいたわしや、おいたわしや」と言うだけでは、主イエスの十字架の意味をしっかりと受け取ったことになりません。主イエスは私どもの罪を償うために十字架を負い、十字架にお架かり下さったのです。主イエスのみ苦しみの原因は、私どもの罪ににあったことを忘れてはならないのです。ですから、主イエスの受難記事は、悔い改めをもって聞かなければなりません。

 

 また、主イエスの十字架の記事は、そしてその中の一緒に処刑された者の姿は私どもに多くのことを教えてくれます。私どもも死に際して、どのようにすべきかを教えてくれるのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と主イエスに申し上げた一人の受刑者から、そして、最期に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈られた主イエスから、私どもが死に際して、どうあるべきかを教えられます。そして、そこでは死が決して闇ではないこと、主イエスが死においても伴ってくださることを教えられます。

 

 さらには、主イエスの十字架の上でのお言葉は、主イエスの私どもの救い主たるお姿を的確に示しているのです「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」との言葉から、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との言葉から、主イエスこそが私どもの救い主であることを教えられます。私どもはこの方に救っていただくのです。

 

 さて、後(のち)に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」との主イエスの祈りはキリスト者の死に際しての祈りになりました。教会改革者ルターも最後にこのように祈ったと伝えられています。そうです。私どもも安らかに「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と、祈って死に臨むことが出来るのです。感謝です。死においても、私どもは、キリストに倣う者となりたいものです。

 

今日、私どもも百人隊長のように、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美いたしましょう。そのようにして、信仰の証しと賛美を続けていきたいと祈り願います。祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主、十字架の主イエス・キリストの父なる神よ。闇の中に深く立たれた主イエスが、既に甦りの光をそこに灯し、死の力をも、もはや闇の力でないことを教えてくださり、ありがとうございます。そして、死に際しても、私どもの父でもあるあなたのみ名を呼ぶ良き機会であることを教えてくださり感謝致します。やがて、私どもも死を迎えます。どんなに長生きしても、皆死を迎えます。しかし、その闇がもはや闇でないことを主の光の中で知り続けていくことができまように、お導き下さい。あなたに全てを委ね進んでいけますように。そして、百人隊長のように、主イエスのまさしく私どもの救い主であるお姿をしっかりと見、主イエスのお言葉をしっかりと聞くことが出来ますようにお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

3月13日説教 - Unknown Artist
00:00 / 00:00

2016年3月20日 日本バプテスト厚木教会 棕櫚の主日礼拝

 

ルカによる福音書 第19章28~40節

 28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 

ルカによる福音書 第23章50~56節

 50 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、51 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。52 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、53 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。54 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。55 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、56 家に帰って、香料と香油を準備した。

「大切な方を葬る」​

 

 本日もこのように、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。テサロニケの信徒への手紙 一 第1章1節の言葉です。「恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 本日は、棕櫚の主日です。ヨハネによる福音書 第12章12節以下によりますと、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城された時、群衆は棕櫚の葉、新共同訳ではナツメヤシになっていますが、その葉を持ってお迎えしたのです。そこから、本日を棕櫚の主日、パームサンデーと呼んでいます。この日、主イエスはろばの子、誰も乗ったことのないろばの子に乗って、「平和の王」として都エルサレムに来てくださったのです。今日はそのことを記念する日です。私どもも真の王をお迎えし、従って行くのです。平和の王です。戦いに強い王でありません。武力によって、他の者を支配し、平和をもたらす王ではないのです。神の権威と神の正義をもって、真の平和をもたらしてくださる王です。世界に平和を、平安をもたらす王です。そして、神と人の間に和解をもたらし、神と人との間にこそ平和をもたらしてくださる王です。その意味で王の中の王です。先ほども祈りましたが、間違った王の支配は私どもを不幸にします。その意味でも、私どもは常に真の王なる主イエスに従って行くことが必要なのです。それが神の栄光につながるのはもとより、真の王の支配は私どもに本当の幸いをもたらすのです。私どもも、王の中の王、真の王なる主イエスに従ってまいりましょう。

 さて、もう一箇所朗読しました聖書箇所は、主イエスの埋葬の記事です。今年の受難節は、ルカによる福音書のイエスの十字架の記事からみ言葉を続けて聞いてきました。先週の箇所で、主イエスは息を引き取られました。本日の箇所では、もう主イエスの息はないのです。亡骸がそこにあるだけです。その主イエスを葬ったことが本日の箇所で語られています。

 主イエスが十字架にかけられた受難日、別の言い方では聖金曜日でが、その日、私どもの教会では礼拝・集会はありません。しかし、キリスト教会は伝統的にその日に礼拝を捧げて来ました。それが金曜日で、その次の日曜日が復活主日、イースターです。キリスト教会では、クリスマスと並んで盛大に祝われて来ました。では、間の土曜日はと申しますと、「沈黙の日」と昔から呼ばれていたそうです。安息日ということもあるのでしょうか。その日は、そこまでの受難週に毎日、礼拝・集会をしてきた教会も、礼拝・集会を休んだそうです。そうしますと、金曜日までに説かれてきた十字架の記事と、復活主日に説かれる復活の記事との間の記事、本日の聖書箇所、主イエスの埋葬の記事は、礼拝が休むために説かれない、説教されないことが多いようです。しかし、主イエスの埋葬を無視することは出来ません。主イエスは息を引き取られていますが、大事な聖書箇所ですので、ご一緒に聞いてまいりましょう。

 ここで主イエスを埋葬したのは、アリマタヤ出身のヨセフでした。55節で、「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届けた」とあります。出来ることなら、彼女たちは自分たちの手で主イエスを埋葬して差し上げたかったことでしょう。しかし、それは不可能でした。なぜなら、エルサレムに墓を持っていなかったからです。そもそも、墓を掘る土地を持っていなかったからです。創世記 第23章では、信仰の父と呼ばれるアブラハムが亡くなった妻サラを葬る墓を作るための土地を購入する話だけが書かれています。そのように、亡くなった人を葬るには、まずそのための土地を手に入れなければならなかったのです。また、墓のための土地購入のことで、創世記は1章を費やしていることから、昔から、信仰においても、葬り、埋葬は重要なことであったことが分かります。私どもの教会でも、葬儀を大切にしています。また、来週参ります教会墓地、私どもの信仰の先輩や私どもの家族が眠っている教会墓地も大切にしています。それも旧約聖書から続く信仰における伝統であると言えるでしょう。

 さて、本日の箇所に戻りまして、しばしば、十字架刑に処せられた者は、遺体の引き取り手もなく、きちんと埋葬されないこともあったようです。また、今申しましたように、主イエスに従って来た人たちは、ガリラヤ出身の者が多かったのでしょう。エルサレムに土地を持っている者もなく、もし、アリマタヤ出身のヨセフがいなかったら、主イエスをきちんと葬ることも出来なかったことと思われます。そう思うと、私どもの救い主、主イエスを埋葬してくれたヨセフに心から感謝したい思いになります。

 このヨセフについて、本日の聖書箇所の初めにこう言われています。「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。」そう言われています。ヨセフは善良な人であったと言われています。ここで言われている「善良」とは、他の人々や仲間にいつも親切で、憐れみある行為をしていたということだそうです。また、正しいとは、神と正しい関係を持っていたという事で、神との正しいおつきあいをやめることがなかったということだそうです。さらに、ヨセフは議員であったということです。しかも、「同僚の決議や行動には同意しなかった。」と言われています。ヨセフは主イエスの死刑を決めた最高法院の議員であったということです。しかし、主イエスを死刑にするとの決議に同意しなかったのです。主イエスの処刑には反対だったのです。しかし、そうだからと言って、議会での審議の中で、反対演説をしたかどうかは分かりません。その場では、何を言っても駄目だと思い、自分の無力を感じながら、黙って、心の内で反対と呟(つぶや)いていたのかもしれません。主イエスを助けるために、命を賭けて英雄的な行為をした訳ではないのかもしれません。その意味では真に無力な知識人の典型であったのではなかとも言われます。その意味で、ヨセフにも主イエスを殺してしまったという責任がなかったとは言えないでしょう。彼自身もそのことを心苦しく思っていたとも考えられます。しかし、福音書記者はヨセフを責めたりはしていません。ヨセフが自分に出来る限りのことをしたことを伝えているのです。52節以下で、ヨセフがしたことを伝えています。「この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。」そう言われています。

 主イエスの遺体を渡してくれと願い出ることは、仲間の議員に知れたら、自分たちに反対する者として、敵視されたり、不当な扱いを受ける可能性があったでしょう。社会的に地位や名誉を損なうかもしれません。しかも、十字架で死んだ人とは、木に架けられて死んだ人ということで、ユダヤでは神に呪われた死に方をした人にあたります。呪われた遺体に触れる。その埋葬に関わることで、この後も続く過(すぎ)越(こし)の祝いの席から退かなければならないということをも意味していたそうです。そのような状況になることが分かった上で、ヨセフは敢(あえて)えて、主イエスのご遺体を引き取ったのです。

 しかし、福音書記者は、ヨセフがそのような犠牲を覚悟で、主イエスのご遺体を引き取ったとは言っていません。そのようなことには注意を払っていないような記述をしています。たぶん、そのような注意を払う必要もなかったのでしょう。ヨセフ自身もそのようなことに囚われていなかった。自由であったのかもしれません。信仰に生きるということは、そういうことなのです。今まで、気にしていたこと、大切にしていたことが、信仰を頂いて、価値観が大きく転換すると、それらはまったくと言っていいほど気にならなくなるのです。51節で言われていますヨセフが「神の国を待ち望んでいたのである。」とは、そういう事だと思います。神の国、神の支配を強く求め、待ち望む信仰に生きることで、目先のこと、一時的なことはどうでもよくなり、永遠のこと、もっと本質的に大切なことを求めるようになるのです。私どももそのような信仰に生きたいと思います。

 ここでヨセフが提供した墓は新しい墓でした。もしかしたら、自分のために用意していた墓かもしれません。ヨセフはそれを主イエスに差し出したのです。惜しくはなかったのでしょう。これも神の国を待ち望む信仰に生きていたからに他ならないでしょう。ところが、あとで主イエスは復活されて、その墓を出て行かれるのです。そのようにして、ヨセフに墓は返されるのです。それは、エルサレム入城の際に、使われたろばの子に似ています。主イエスは大切なご用のために、ろばの子を調達されるのです。持ち主は、ろばの子を連れて行くために来た弟子の「主がお入用なのです」との言葉に従って、たぶん惜しむことなくろばの子を差し出したのでしょう。ところが、主のご用が終わったら、主イエスはろばの子を持ち主にお返しくださったのです。

 私どもも、自分の予定に反して、主のご用をしなければならないことがあるかもしれません。こんなことしていたら大変だと思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、主イエスはその人に必要なものはちゃんとお返しくださるのです。しかも、ろばの子の持ち主も、新しい墓を提供したヨセフも、その後、主のお役に立てたことをとても喜んだことでしょう。これも信仰に生きる幸いの一つだと思います。献金をはじめ、主にお捧げすること、主のご用に用いていただくことは、そうしない者は決して知り得ない幸いを主ご自身から頂くことが出来るのです。

 その後、ヨセフは自分もこの墓に埋葬されることを幸いに思ったことでしょう。そうです。主イエスが甦られたこの墓に自分も葬られる、それは、いつの日か自分も主イエスと同じように、甦りの命を頂いて、墓から出て来ることが出来るからです。それと同じように、教会の葬り、葬儀、埋葬も、主イエスの復活を見上げ、いつの日か私どもも復活の命に与ることを覚えつつ行われます。確かに、肉親を、愛する人を親しい方を失うことは辛く悲しいことです。生きている中でこれほど辛いことはないでしょう。その意味で、泣く者と共に泣くことが葬儀では求められます。でも、何によっても、その悲しみはい癒されることはないでしょう。しかし、そのような中にも、復活の希望があるのです。信仰を抱いて生き抜いた者は、主の再臨の時に、復活のいのちに与ることが約束されているからです。キリスト教会の葬儀の特徴はそこにあります。どんなに大きな絶望と思われても、私どもに復活の主イエスがおられるのですから。その意味で、ヨセフが主イエスのために捧げたこの墓は、その後、復活を指し示すものとなったことでありましょう。

 私どもの人生は、誰もが毎日、死に向かっての歩みです。死が何十年先であっても、私どもは日々、刻々、死に向かって進んでいるのです。ですから、死から目を離すことは出来ません。しかし、今申しましたように復活を望み見ることによって、それは失望でなく、希望に変えられるのです。

さて、ヨセフが主イエスに新しい墓をお捧げしたことは真に美しい行為です。主イエスが十字架に向かわれるに先立って、罪のある女性が持てる限りの香油を主イエスにお捧げした行為、主イエスが美しいとおしゃってくださった行為に匹敵する美しい行為だったとも言われます。そして、主イエスご自身、ヨセフに身を任せたその亡骸は、なすべきことを終えたその亡骸は、さぞかし美しかったことでしょう。

 葬りは悲しいことです。一人の方が亡くなってしまったのですから。そして、亡骸は朽ちていきます。それもとても悲しいことです。しかし、本日聖書箇所の主イエスの葬りとそれを行ったヨセフは、私どもの葬りも、そして、いつか死を迎えた私どもの冷たくなった体も神の前にあっては美しいことを教えてくれています。なすべきことを成し遂げた者の葬りは美しく、亡骸も美しいのです。それは、復活という確かな希望が与えられているからです。

本日の箇所は、54節以下で、その後のことを語り、主の復活への序曲となっています。「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。」そう語られています。ご一緒に主の死を悼み、復活の希望を胸に、次週の復活主日の礼拝に備えてまいりましょう。祈ります。

 

私ども救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、御子によって、私ども救いの道を完成してくださいました。そして、主イエスはご自身の亡骸をヨセフに委ねられ、ヨセフによる葬りを受けられました。私どももいつの日か主イエスと同じように、葬られ、主イエスのように墓に眠ります。しかし、主イエスが私どもと同じよう葬られましたから、私どもも自分の亡骸を委ねることが出来ます。そして、死においても、主イエスが側にいてくださることを覚えることが出来ます。感謝です。しかも、復活の希望を抱いて、葬っていただけます。どうぞ、死においても私どもを慰めてくださる主に、これからも従う者とさせてください。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

2016年3月27日 日本バプテスト厚木教会 復活主日礼拝

 

ルカによる福音書 第24章1~12節

 

 1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 

「主イエスは三日目に復活することになっていた」

 

 イースター、おめでとうございます。今日、みなさんとご一緒に、主イエスのご復活をお祝い出来ますことを、感謝しています。本日は、ヘブライ人への手紙 第13章20節、21節の言葉を皆さんにお送りして説教を始めます。

    20 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、21 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 今年の受難節、私どもはルカによる福音書の受難記事の言葉をご一緒に聴いてきました。そして、今日、主イエスが甦(よみがえ)られたことを知らせる記事の言葉をご一緒に聴いています。本日の箇所はこういう言葉で始まります。「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」。一週間の初めの日です。日曜日です。主の日です。主イエスに従って来た女性たちは、日曜日の朝早く、それも明け方早く、主イエスが埋葬された墓に行ったのです。香料を持って。主イエスのお体に香料を塗るためです。しだいに放たれるようになる主イエスの亡骸(なきがら)からの死臭を少しでも消すためです。

 既に聴いてきましたように、主イエスが埋葬されたのは、今でいう金曜日の日没直前でした。日が沈むと、一切の労働が禁じられている安息日です。亡骸を埋葬することも、亡骸に香料を塗ることも出来ません。アリマタヤのヨセフが、主イエスの亡骸にどれだけのことをしてくれたかは分かりません。ただ、安息日に入る直前に急いで埋葬されたので、通常の埋葬と同じようには出来なかったはずです。主イエスの埋葬を見守っていた女性たちはその様子を見ていたのでしょう。ですから、出来るだけ早く主イエスのお体に香料を塗って差し上げようとして、週の初めの日の明け方早く墓に向かったのだと思われます。

 一切の労働をしてはならない安息日は、今の私どもの土曜日の日没に明けています。ですから、土曜日の夕方に墓に行くことは出来たはずです。しかし、申すまでもなく、それからはどんどん暗くなるばかりです。そこで、女性たちは、空が白んでくる週の初めの日の明け方を待って、香料を持って墓に行ったのです。

 ここで言われていますように、主イエスのご復活は週の初めの日、日曜日に起こったのです。私どもはこの週の初めの日、日曜日を記念して、その日を主イエスが甦られた日、主の日として、毎週礼拝を捧げています。そうです。今日、私どもは主イエスのご復活を記念する復活主日礼拝、イースター礼拝を捧げていますが、毎週、日曜日ごとに、主の日ごとに、主イエスのご復活を記念して、祝って、主の日の礼拝を捧げているのです。ですから、今日は、一年の中でも特別な日曜日、日曜日の中の日曜日ということも出来ます。そして、今日は、主の日の礼拝の始まりを記念する特別な主の日の礼拝とも言えるでしょう。

 たぶん、キリスト教会の祝祭の中で、本日の復活主日、イースターよりも、降誕祭、クリスマスの方が盛大に祝われるでしょう。主イエスがお生まれなさったクリスマスの方が、主イエスのご復活を祝うイースターよりも賑(にぎ)やかに祝われることと思います。でも忘れてならないのは、キリスト教会で最も大切にされているものの一つである、日曜日の礼拝、主の日の礼拝の起源は、本日の復活主日、イースターにあるのです。その意味で、私どもは、もっともっとイースターを大切にしたいと思います。そして、毎週の主の日の礼拝も、主イエスのご復活を記念し、祝っているのだという思いを強くしたいと思います。

 さて、香料を携えて墓に行った女性たちは、主イエスに従い、主イエスや弟子たちのお世話をしてガリラヤからついてきた女性たちです。神の国を宣(の)べ伝えるために、旅を続けておられた主イエスにずっとついて来た女性たちです。食事の準備をしたり、衣服を洗ったり、主イエスや弟子たちの身の回りのお世話をしてきたことでしょう。弟子たちと共に、最も主イエスのお側で仕えたことと思われます。主イエスの衣服を洗うこともあったでしょう。その意味で、主イエスのお体の温もりを感じることもあったと思われます。それだけに、主イエスのお体に釘が打ち込まれ、血が流された十字架の出来事、愛する主イエスの肉体が引き裂かれるという出来事は、女性たちにとって、人一倍つらいことであったことでしょう。しかも、見ているだけで、自分たちの手で主イエスを埋葬して差し上げることが出来なかったことも、辛いことであったことでしょう。ですから、この時、主イエスのお体に香料を塗って差し上げることには、女性たちの強い主イエスへの思いがこもっていたことと思われます。

 さて、当時のユダヤの墓は、横穴式で、入り口を大きな石、むしろ岩と呼んだ方がよいもので塞いでいました。ですから、女性たちだけで、その大きな石を動かすことは困難だったと思います。ですから、この時、女性たちがどのように石を動かそうと考えていたのか疑問に思います。ただ、そのことについて、福音書記者は何も書いていません。結局はそのような心配はなかったのです。2節では、「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、・・・」とあります。容易に墓の中に入れたのです。

 私どもは、何かを行う時、準備をします。しっかり準備しないと大変なことになるということで、前もって準備をします。それはとても大切なことです。何事に対しても起こり得ることを予想して対処することが求められます。昔から、「備えあれば憂いなし」と言われ、今日(こんにち)、何事にも安全が第一であると言われます。周到な準備は大切です。そのためでしょうか。信仰をもって一歩踏み出す際にも、先のことを心配して、踏み出すのを躊躇してしまうことはないでしょうか。信仰に生きる際、神に祈り、神が良きようにお計らいくださることを信じて進むことが求められることがあります。私どももこれからのことを完全に予測し、準備出来ないけれども、進んで行かなければならないことがあります。そのような際に、この時の女性たちのように、墓石をどのように動かそうかと気を揉(も)むのではなく、兎(と)に角(かく)、墓に行ってみることが必要なのではないでしょうか。主イエスの亡骸に香料を塗って差し上げたという強い思いが、その信仰に似た彼女たちの強い思いが、主なる神に届いたのだと思います。主なる神も石を動かすという良き備えをして待っていてくださったのでしょう。

 続く、3節、4節ではこう言われています。「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、・・・」。折角、明け方早く、準備しておいた主イエスのお体に塗る香料を持って来たのに、肝心の主イエスの亡骸がないのです。まさに、途方に暮れるばかりです。誰が主イエスのお体を運び去ったのだろう。彼女たちにとって、これ以上ない悲しみにくれながらも、せめて、愛する主イエスのお体に香料を塗ることだけでもしたいと思ったのに。それさえも、出来なくなってしまったのです。この時、途方に暮れた女性たちの悲しみはひとしおだったことでしょう。もう何もする気力もなくなってしまったのではないでしょうか。

 残念ながら、私ども人間の業は、このように行き詰ってしまうことがあります。自分に出来る精一杯のことをしても、結果として、虚しさだけが残る。どなたも経験されたことだと思います。残念ながら、私どもがすることには、そのように限界があるようです。しかし、落胆することはないのです。主なる神はこの時、女性たちに良い意味での想定外の出来事を起こしてくださったのです。ここから、私どもは、どんな時でも、主なる神は私どもをお見捨てになることはないと信じてまいりたいと思います。私どもが行き詰まることがあっても、神の御業は行き詰まることはないのです。心を狭くしていると、自分のことしか見えなくなります。目先のことしか見えなくなります。狭い範囲で、一喜一憂してしまいます。しかし、少し心を広く持てば、隣人のことも思いやれますし、ひいては主なる神に栄光を帰すことも出来るのです。決して私どもを見捨てるようなことはなさらない主なる神を信頼して、進んでいきたいと思います。

 聖書はこう続けます。「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ』」。そう言われています。ここに登場する輝く衣を着た二人とは、神からの使い、天からの使いでしょうか。突然のことに、女性たちは、恐れて地に顔を伏せてしまいます。その輝きに主なる神のご栄光を感じたのかもしれません。畏れ多いこととして、見ないように、顔を伏せたのかもしれません。そして、二人の言葉を聞くのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。そうです。主イエスは既にご復活なさっているのです。もはや主イエスは亡くなった方、死者ではないのです。二人の言うように、女性たちは、「生きておられる方、主イエスを死者の中に捜している」のです。女性たちにとっては、驚くばかりでしょう。しかし、天の使いと思われる二人にとって、復活された主イエスを死者の中に捜すことは、可笑しなこと、滑稽なことなのです。そして、愚かなことでした。

 神の出来事を前にすると、実に私どもの思いは、可笑しなこと、滑稽なことで、愚かなこなのです。この世の中には不条理が多くあります。どうして、こんなことが起こるのかと、分からなくなってしまうことがあります。神の支配の下で、こんなことが起こることが許されるのかと、時には思ってしまうことが数多くあります。それでも、長い目で見ると、人間の一生という短い時間ではなく、神のご支配という長い時間で見ると、神は着実に御業を行っておられることが分かります。それが世界の歴史となっています。そこから見たら、神の出来事を前にした、私どもの思いはまさに、可笑しなこと、滑稽なことで、愚かなこなのです。それだけ、人は神の前にあってはちっぽけなのです。信仰に生きる私どもは、そのことを弁えなければなりません。そして、私どもの思いを遥かに超える神の偉大さに、今以上の信頼を置いていかなければならないことを知らされるのです。

 天の使いと思われる二人の言葉は続きます。「『まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」そう言われています。そうです。今起こっていること、主イエスが十字架につけられ、三日目にご復活なさることは、既に主イエスがおっしゃっておられたことだったのです。ただ、弟子たちも、女性たちも、その意味が分からず、理解していなかったのです。私どももそういうことがあります。正しく理解しないと、既に言われたことが分からない。そのようなことがしばしばあります。それは、聖書の言葉を聴いたり、読んだりする時、しばしば起きます。それだからこそ、聖書の言葉は繰り返し、聴き、読まれなければならないのです。皆さんも、経験があるでしょう。既に何度も聴き、読んだ聖書の言葉、その言葉を改めて聴き、読むと、新しい発見があるのです。以前は気付かなかった言葉を発見したり、今まで分からなかったことが分かったりするのです。それは、人生経験を積むことで分かって来ることでもあります。私どもは、静かに書斎で聖書を読むのではないのです。日々の厳しい生活の中で、何とかしても生きていかなければならないという生活の中で聖書の言葉を聴いている、読んでいるのです。その中で、既に何度も聴いていた言葉が、新しい響きをもって聴こえて来て、自分なりに神の真理を悟ることが出来るのです。そうです。この時、女性たちが感じたような経験を、私どもは聖書の言葉を聴くたびに、読むたびに、しているのです。そのようにして、私どもは、神の御心を教えていただくのです。それが、主なる神からの励ましとなり、慰めとなるのです。

 それから、女性たちはどうしたでしょうか。9節以下です。「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」そう言われています。女性たちは、まだ復活された主イエスにお会いしていませんが、主イエスのご復活を確信したのです。彼女たちのこの時の顔を想像してみたいと思います。どれほど喜び満ちていたことでしょう。主イエスが甦られた、主イエスが生きておられる、これ以上ない喜びに満たされたことでしょう。この時の女性たちを羨ましく思います。私どももその場にいたかったと。しかし、羨ましがる必要はないのです。私どももしっかり信仰をいただけば、いつもこのような喜びに満たされていることが出来るのです。信仰に生きるということは、父なる神と子なるイエス・キリスト、そして、御霊なる聖霊を常に身近に感じて生きることでもあります。それは、主イエスのご復活を確信した女性たちの喜びに決して劣ることのない喜びに生きることなのです。信仰に生きることは、いつも希望に生きることです。それは、今申しましたように、三位一体の神が、私どもからいつも離れずに共にいてくださることを知っているからです。信仰に生きる私どもでも、がっかりすることがあります。しかし、私どもは失望に留まることはないのです。神が常に希望を与えてくださっているからです。

 ところが、弟子たちは、使徒たちは、彼女たちの話をたわ言のように思ったのです。翻訳によっては、「愚かな話」とも、「空っぽの話」、「内容空虚な話」とも訳されます。この時の使徒たちは、信仰に生きていなかったからでしょう。信仰に生きること、そして、主イエスの復活を信じることは、そうでない人にとっては、真にたわ言を言っているように、愚かな話に従っているように見えるようです。そこが、信仰を頂いていることと、頂いていないことの大きな違いでしょう。そうです。信仰に生きるとは、まさに、理屈を超えたところにあるのです。そのように、ここで言われている主イエスの復活を信じること無くして、キリスト信仰は成り立たないのです。どんなに、主イエスのことを良く知っていても、主イエスの復活を信じることを抜きにしてのキリスト信仰はないのです。

 聖書の言葉は続きます。12節です。「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」ここで、ペトロは立ち上がってと言われている「立ち上がる」という言葉は、新約聖書の言葉の使い方からすると、それ自体が復活を表す言葉だそうです。この時、ペトロはまだ主イエスのご復活を信じていません。しかし、立ち上がっているのです。一方、主イエスはご復活されて、墓から立ち上がられているのです。

 私どもが主のご復活を信じ、確信する時、うずくまっていた私どもは、顔を上げ、しっかりと自分の足で立ち上がるのです。立ち上がらされるのです。復活を信じない生き方は、結局、虚しさに生きる生き方です。どんなに希望を持っていきていたとしても、最後は虚しさに行き着く生き方です。それに対して、復活を信じる生き方は、虚しさから立ち上がり、希望へと向かって行く生き方なのです。この時のペトロは、立ち上がり、一歩前進しているのです。私どもも、主の復活を信じて、しっかりと立ち上がらせていただきましょう。

 この時、ペトロは墓に走ります。このような経験は二度としなかったでしょう。そして、あとで、墓に走ったことを懐かしく思い出したことでしょう。私どもも、真理を手に入れるために、神に従って歩むために、走り出したくなる思いを留めておかないようにしたいと思います。走ることで、すぐに信仰を頂ける訳ではありませんが、それは、確かな信仰に向かう大きな一歩となるに違いありません。そのような思いは、神からの召しかもしれません。神のお導きに素直に従って、立ち上がり、走ることで、信仰の核心を頂けると私は思えてならないのです。

 さて、信仰を持たない方にとって、復活を信じることは、愚かなことかもしれません。勿論、私どもキリスト者も理性で復活を理解しているわけではありません。理性を越える信仰によって、復活を信じているのです。もし、復活が自然科学的で実証されたら、誰もが信じるでしょうが、それは、もう信仰の分野のことではなく、自然科学の分野のことだということです。神の存在と神の御業は、私ども人間の業である自然科学や学問を越えたところにあります。ですから、復活もそうです。ですから、復活は、実証されるべきものではなく、信じられるべきものなのです。復活を信じることは、まさに、信仰に生きることなのです。それは、神の御業にこの身を委ねて生きることです。私どもの世界において、多くのことが、自然科学で説明されるようになりました。しかし、まだまだ、分からい部分が多くあります。そして、どんな時でも、希望に生きるためには、神がいつも共にいてくださるという信仰に生きなければ無理なのです。私どもが、神の前に正しく歩むためには、神を信じ委ねていく信仰が不可欠なのです。主イエスの復活はその信仰によって信じられることなのです。自分の狭い世界で生きるか、それとも、神を信頼して、復活を信じて、信仰という大きな希望ある世界に生きるかの選択は、私どもに委ねられているのです。

 神への信仰に生きることは、幼子が親や大人を信頼して、手を引いてもらって歩むことに似ていると思います。幼子は分からないことばかりです。不安ばかりです。しかし、手を引いてくれる親や大人を信じているので、安心してついて行くことが出来ます。私どもにとって、復活を完全に理解することは出来ませんが、復活を信じ、神への信仰に生きる時、幼子が、親や大人に人の手を引かれるように、安心して前に進めるのだと思います。幼子のような信頼をもって、主なる神に、御子主イエスに、御霊なる聖霊に従ってまいりましょう。

 本日も、この礼拝堂に、主のもとに召された方々の写真を並べました。そして、午後、教会墓地にも参ります。それは、主イエスのご復活が、それだけで終わらないからです。主イエスは復活の初穂となってくださって、私どもの復活の先駆けとなってくださったからです。そうです。信仰を抱いて召された方は、主が再び来られる時、復活するのです。ここに飾られた写真の方々も、教会墓地に眠る方々も復活するのです。そのことを覚えるために、写真を飾り、墓地に参るのです。そして、わたくしどもも、復活の希望を頂いて、これからも歩んで行くのです。

 イースター、おめでとうございます。これからも復活の希望に生かされてまいりましょう。祈ります。

 

 復活の主、イエス・キリストの父なる神よ。御子を甦らせてくださり、再び、御子を私どもに与えてくださり、ありがとうございます。そして、私どもも復活の希望に生きさせてくだることを感謝致します。どうぞ、どんな時もあなたが側にいてくださり、私どもに希望を与えてくださることを信じて、あなたに従わせてください。そして、どうぞ、この喜びに生きていることを、これからも証しさせてください。そして、私どもを日々お恵みお導きくださいますようにお願いいたします。復活の主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

© 2023 by Uniting Church Arizona. Proudly created with Wix.com

  • facebook-square
  • Twitter Square
  • Google Square
This site was designed with the
.com
website builder. Create your website today.
Start Now