2017年3月26日 日本バプテスト厚木教会 受難節 第四主日礼拝

 

マタイによる福音書 第27章1~26節

 

 1 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。2 そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。

 3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。6 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、7 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。8 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。9 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。10 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」

 11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。

 15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 

 主イエスを売り渡したユダの罪と

          主イエスを『十字架につけろ』と叫んだ群衆の罪

 

 今週も、週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを、感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テトスへ手紙 第1章4節の言葉です。「父である神とわたしたちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。」

 受難節にあたり、マタイによる福音書の受難記事をご一緒に聴き続けています。主イエスを裁く裁判の場面が続いています。そして、本日の聖書箇所では、その裁判の記述に挟まれるように、十二弟子の一人で、主イエスを裏切ってしまったイスカリオテのユダがそのあとでどうしたかが記されています。このように言われています。主イエスが捕えられたのは、夜でした。その夜の内に、最高法院では主イエスを死刑にすることで一致します。そして夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは、いよいよ主イエスを殺そうと相談します。そのために、主イエスを縛って身柄を総督ピラトに渡すのです。そのころ、主イエスを裏切ったユダは、主イエスに有罪の判決が下ったのを知ります。そして、主イエスを売り渡したことを後悔するのです。そこで、売り渡した際に貰った銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言うのです。祭司長や長老たちは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言って、ユダにとりあいません。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んでしまったのです。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにしたのです。その畑は「血の畑」と言われているとのことです。実は、このことも旧約預言の成就でした。預言者エレミヤを通して言われていたことが実現したのです。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」との預言です。ただし、この預言は、エレミヤの言葉よりも、ゼカリア書 第11章12節、13節の言葉に近い言葉です。そこではこう言われています。「12 わたしは彼らに言った。『もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。13 主はわたしに言われた。『それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。』わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。」

 マタイによる福音書によると、イスカリオテのユダは、後悔し、自分の罪を言い表しました。しかし、もう何をしても後の祭りと思い、絶望し、自ら命を絶ったのです。イスカリオテのユダ自身には、もうその道しか残されていないと思えたのでしょう。しかも、その後のお金の処分については、預言されていたことだと、マタイによる福音書の編集記者は言うのです。ですから、イスカリオテのユダが自ら死を選ぶことも、定められていたことだと言う見方も出来るでしょう。ただ、はたしてそうなのでしょうか。勿論、ユダの裏切りの罪は大きかったでしょう。罪の大きさを比べることは極めて難しいと思いますが、もし、ペトロが主イエスと知らないと言ったことと比べると、やはり、イスカリオテのユダが裏切った罪の方が大きいと私は思います。しかし、ユダに残された道はこれしかなかったのでしょうか。私は、ユダにもまだ生きる道は残されていたと思いたいし、事実、あると思います。生き恥を曝(さら)すことは、とても惨めな道かもしれません。しかし、生きているということは、何らかの可能性を残していることであり、その可能性を自ら摘(つ)んでしまうということは、真(まこと)に勿体(もったいない)ないことだと思います。それだけに、私どもはどんな時でも、絶望しないように普段から心掛けておきたいと思います。

 明日、告別式を行う大塚専三兄の愛誦聖句の一つが詩編 第23篇です。思えば、阿部義枝姉はじめ、多くの方が詩編 第23篇を愛誦聖句とされていて、葬儀の度ごとに朗読しているように思えます。

  1 【賛歌。ダビデの詩。】

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

2 主はわたしを青草の原に休ませ

憩いの水のほとりに伴い

3 魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく

わたしを正しい道に導かれる。

4 死の陰の谷を行くときも

   わたしは災いを恐れない。

あなたがわたしと共にいてくださる。

あなたの鞭(むち)、あなたの杖(つえ)

それがわたしを力づける。

5 わたしを苦しめる者を前にしても

あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

わたしの頭に香油を注ぎ

わたしの杯を溢れさせてくださる。

6 命のある限り

恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

主の家にわたしは帰り

生涯、そこにとどまるであろう。

 多くの方が、この詩編に慰められ、励まされてきたのでしょう。どうぞ、皆さん、人生に絶望しないためにも、この聖句を繰り返し、読んだり、聞いたりして頂きたいと思います。

では、次に祭司長や長老たちに目を向けてみましょう。祭司長や長老たちは利用できる者は利用するものの、ユダの役目が終わってしまえば、真(まこと)に冷たいものです。ユダに同情もしていません。むしろ、軽蔑していたのではないでしょうか。しばしば、世の中はそうです。利用価値があると思われる時は、良い顔をしても、邪魔になったら、そっぽを向かれる。ですから、人間調子に乗ってはならないのです。本当に信用出来るのは父なる神と御子主イエス・キリスト、そして、ごく一部の人たちです。本当に信頼できる方、友をしっかりと見出すことが出来るか出来ないかは、その人の人生を大きく左右すると思います。その際、調子の良いことばかり言っている人について行かないことだと思います。主なる神と御子主イエスは私どものことを思うからこそ、私どもを慰める言葉と共に、厳しい言葉も、聖書を通しておっしゃってくださっているのです。

 さて、本日の聖書箇所の後半では、裁判の場面に戻っています。今度は、ピラトが主イエスに尋問しています。主イエスは総督ピラトの前に立たれます。総督が主イエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、主イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われるのです。そして、祭司長たちや長老たちから訴えられている間、主イエスはこれには何もお答えになりませんでした。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言うのです。それでも、どんな訴えにも主イエスはお答えにならなかったのです。沈黙されたのです。総督ピラトはこの様子を見て、非常に不思議に思います。ところで、過越の祭りの度ごとに、総督ピラトは民衆の希望する囚人を一人釈放する、恩赦をすることにしていました。そのころ、バラバ・イエスという人々に良く知られた囚人がいたのです。ピラトは、人々が集まって来た時に人々にこう尋ねたのです。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」なぜ、総督ピラトがそのように訊(き)いたのかと言えば、人々が主イエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからでした。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、ピラトは妻からの伝言を受けます。その伝言はこういうものでした。「あの正しい人、主イエスのことですが、あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」そういう伝言でした。しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、主イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得したのです。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言います。それに対し、ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と答えたのです。何とか主イエスを処刑したくないピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言います。しかし、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けるのです。そこでそれ以上言っても無駄なばかりだとピラトには分かります。しかも、かえって騒動が起こりそうなのを見て、ピラトは水を持って来させ、群衆の前で手を洗ってこう言うのです。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」それを聞いた民はこぞって答えます。「その血の責任は、我々と子孫にある。」その言葉を聞いたピラトはバラバを釈放し、主イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡すのでした。

 ここで、ピラトは群衆に言い負かされてしまいます。群衆が言っていることは間違えだと知りながら、祭司長たちや長老たちが自分たちの妬(ねた)みのために主イエスを抹殺しようとしていることに気付きながら、彼らの言いなりになってしまいます。その要因の一つは、ローマから派遣された総督として、民の反発を買わず、治安を安定せることが、その後の出世にもつながるからです。この地帯はなかなか治めるのが難しい地域の一つだったそうです。そのため、この辺りをしっかりと治めた総督で、後に皇帝となった人もいたそうです。ピラトは彼なりにやったのでしょうが、のちに皇帝にはなりませんでした。しかも、不名誉なことに、使徒信条の中に、主イエスが「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」と言われ、今日(こんにち)までそのようにして、彼の名前が言われ続けています。彼に同情する方もあるでしょう。その気持ちも分かります。ただし、この時、最も権力があったのが総督ピラトです。他の人の罪も大きいとは思いますが、最高責任者として、主イエスを十字架に付けた責任は、総督ピラトにあるのです。

 今日(こんにち)でもそうです。私どもは、役職に就くことあります。それが比較的小さな組織の役職でも、それほど重い役職ではないと思っても、そこには責任があることを忘れてはなりません。

 それにしても、祭司長や長老たちの扇動に乗ってしまう群衆も情けないものです。ここからも群集心理の怖さを思わされます。人は得てして、自分自身で何が正しいか判断するよりも、自分は多数派の中にいたいという思いで、どちらにするかを選択し、行動してしまいます。一人や、少数派が怖いのです。それは、まさしくいじめの構造です。子どものいじめによる事件がしばしばニュースになり、社会問題になっています。悲しいことです。何とかしなければなりません。しかも、子どもだけでなく、大人の中での問題でもあります。多くの場合、いじめる側が多数派、いじめられる側が少数派です。そして、この自分が少数派にならないために、多数派に同調したり、多数派に積極的に賛同しないものの、表だって反対もしない、逆らわないのです。悲しいかな、自分の中にもそのような弱さがることを認めないわけにはいきません。しかも、大人の場合、パワハラのように、上位の力を持っている者が、力のない下位の者をいじめるのです。

 主イエスが裁かれ、十字架につけられる記事にはそのような私どもの弱さが、罪があふれ出しているように思えます。そこで思います。それだからこそ、そのような弱さを罪を抱えたままの私どもの救いのために、主イエスは十字架についてくださったのです。主イエスはダメな私どもを責めるのではなく、そんな私どもを赦し、私どもを受け入れ、私どもの罪すべてを償ってくださったのです。何て憐れみ深い方でしょう。これほどまでに慰めに満ちた方は他におられるでしょうか。

 私どもを赦すために、私どもの救いのために、十字架への道をまっすぐ進んで下さった主イエスにしっかりと心を向け、目を反らさぬようにして、ついてまいりましょう。従ってまいりましょう。お祈りを致します。

 

 私どもの唯一の救い主なる主イエス・キリスト、その父なる神よ。私どもはどれほどあなたに罪を犯し、あなたを悲しませたことでしょう。そして、どれほど私どもは隣人を傷つけてきたことでしょう。どうぞ、私どもの様々な罪をお赦し下さい。そして、どんな時もあなたに望みを置き、決して絶望することのないようにお導き下さい。また、どんな時も何が正しいかを見極めることが出来る正しい目と人に流されない勇気を与えてください。そして、いつもあなたと御子に従っていけますように、お導き下さい。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

 

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2017年3月19日 日本バプテスト厚木教会 受難節 第三主日礼拝

 

マタイによる福音書 第26章57~75節

 

 57 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。58 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。59 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。60 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、61 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。62 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」63 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」64 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」65 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒瀆(ぼうとく)した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆(ぼうとく)の言葉を聞いた。66 どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。67 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、68 「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

 69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。70 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。71 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。72 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。73 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 

「裁かれる主イエスと、主イエスを知らないと言うペトロ」

 

 今週も、週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを、感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テモテへ手紙 二 第4章22節の言葉です。「主があなたの霊と共にいてくださるように。恵みがあなたがたと共にあるように。」

 先ほど司式者からお知らせがありましたように、本日は、悲しいお知らせから始めなければなりませんでした。教会員の大塚専三さんが今朝午前1時50分、主の下(もと)に召されました。昨年暮れから入院退院を繰り返され、治療を続けておられましたが、残念ながら、主の下(もと)に召さました。ご家族に主のお慰めがありますようお祈りしたいと思います。

 さて、私どもはマタイによる福音書の受難記事を聴いています。前回最後の場面では、とうとう、主イエスが捕えられてしまいました。本日はそこからです。人々は主イエスを捕らえると、祭司の頭(かしら)である大祭司カイアファのところへ連れて行くのです。そこには、既に律法学者たちや長老たちが集まっています。一方、ペトロは遠く離れて主イエスに従い、ついて行くのです。そして、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒にそこに座っていたのです。祭司長たちと最高法院の全員は、主イエスを死刑にしようとして主イエスにとって不利な偽証を求めます。そのための偽(にせ)の証人は何人も現れましたが、証言が食い違い、証拠としては採用されなかったのです。最後に二人の者が来て、こう証言したのです。 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました。」それを聞いた大祭司は立ち上がり、主イエスに言います。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、主イエスは黙(だま)り続けておられます。先程の交読文、イザヤ書第53章で預言されていたように、主イエスは黙(もく)されるのです。大祭司は言います。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」すると、主イエスはおっしゃいます。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」ると、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒瀆(ぼうとく)した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆(ぼうとく)の言葉を聞いた。どう思うか。」すると人々は、「死刑にすべきだ」と答えるのです。そして、主イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、こう言うのです。「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と。

 一方、ペトロは外にいて中庭に座っていました。そこへ一人の女中が近寄って来て、言うのです。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と。すると、ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言ったのです。そこで、ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、こう言いました。「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と。そこでも、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消します。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロにこう言ったのです。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」と。そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めました。するとすぐ、鶏が鳴いたのです。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃった主イエスの言葉を思い出しました。そして外に出て、激しく泣くのでした。

 本日の聖書箇所の前半は、最高法院で主イエスを裁いていた様子を伝えています。主イエスが十字架につけられることが決定されるのは、主イエスが総督ピラトの所に連れて行かれれてからです。でも、本日の箇所では、最高法院の決定は出てしまっています。65節、66節です。「そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。『神を冒瀆(ぼうとく)した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆(ぼうとく)の言葉を聞いた。どう思うか。』人々は、『死刑にすべきだ』と答えた。」

 この記事を読んで、そして聴いて、こう思われる方もあるのではないでしょうか。正式な裁判でこんなに早く判決が決定してしまうことがあるのだろうか。本文では、証拠採用されなかった何人かの偽証の部分は省略されていますが、それを加えたとしても、そんなに長い時間にはならないでしょう。今日(こんにち)、裁判に時間がかかり過ぎるので、何とか迅速に行えないものかということが、しばしば言われます。しかし、ここでは、短時間に死刑の決定がなされています。それは、昔、今日(こんにち)のように裁判の制度がしっかりしていなかったから、こんなことはざらにあったのだろう。この場合だけじゃなく、いつもそうだっただろうと思われる方があるのではないでしょうか。しかし、当時のユダヤの裁判に詳しい専門家からすると、ここでの裁判の進め方は無茶苦茶だそうです。そもそも、過越の祭りの最中に、しかも夜中に最高法院が召集されるということは異常なことだそうです。そして、大祭司はあまりにも性急に結論を出そうとしています。これは、本来の裁判のやり方を決めた法にも背くものだそうです。その上、59節で言われていますように、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」のです。あまりにも酷い裁判なので、学者の中にはこんな裁判が実際にあったのだろかと、訝(いぶか)る人もあるそうです。では、なぜ、それほどまでして、大祭司以下が主イエスを殺そうとしたのでしょうか。その理由はいくつか考えられるでしょう。ある人は、妬(ねた)みのためであると言います。

 本日は主イエスを殺した玄以は妬(ねた)み妬(ねた)みは怖いと言う話は、何人もの方から聴きました。誰かが幸せになる。結婚する。妬(ねた)みが始まり、酷くなると、執拗な嫌がらせが始まる。また、人の成功を妬(ねた)む。頑張っている人がいるとみんなで応援しようと言う。しかし、その人が大成功し、世の中から称賛されると、初めは一緒に成功を喜んでいるようでいても、今度は、悪評を立てようと、誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)が始まるということがしばしばあります。さらに、高級な学問の世界に生きていると思われる学者たちがどんなに深い妬(ねた)みの虜になっているかということを、幾度も見て来たという方もいます。そして、それは、聖書を研究する神学者たちも例外でないと言っている神学者もいます。そうかと思えば、キリスト者で、大変優れた社会福祉の仕事をしていると多くの方から思われている方が、妬(ねた)みの虜になっていて、同業者を切り崩すことをしていると、その人の身近な方から聞かされ、ショックを受けたという話まであります。ローマの信徒への手紙 第12章15節で、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と言われていますが、しばしば、泣く人と共に泣くことは出来る人でも、喜ぶ人と共に喜ぶことはなかなか出来ないものだと言われます。そうです。妬(ねた)みのためです。誰でも自分が褒(ほ)められるのは嬉しい。しかし、他の人が褒(ほ)められるこことで、一緒にそのことを喜べず、妬(ねた)みの思いが募ってしまうことがあるのです。

 大祭司と言えば、エルサレム神殿に仕える祭司の最高位です。誰もがなれる訳ではありません。ですから、大祭司のことを羨(うらや)み妬(ねた)んでいた人もいたかもしれません。ところが、エルサレムから見たら、田舎のナザレ出身の主イエスが現れる。人々に人気があり、奇跡を行ったとも伝えられ、優れた預言者だとか、この方こそメシアだと言う人もいる。人々は大祭司を称賛するのではなく、ナザレのイエスを称賛し、多くの人が集まっている。しかも、主イエスは「宮清め」を行い、神殿から両替商や商売人たちを追い払ってしまった。大祭司が商売を許可していたのに、それは無視した。このまま主イエスにそんなことをさせておいたら、こちらの足元が崩されていまいかねない。ナザレのイエスめ。とんでもない奴だ。大祭司の妬(ねた)みは苛立(いらだ)ちになっていたことでしょう。こうなったら、どんな方法でもよいから、主イエスは抹殺しなければならない。いつまでも、のさばらせてはおけない。そんな思いになったのでしょう。

 この時、主イエスは囚(とら)われの身です。大祭司カイアファは思うがままに振る舞っているように見えます。しかし、見方を換えれば、大祭司カイアファは妬(ねた)みの虜(とりこ)になっています。妬(ねた)みの奴隷で実に不自由になっているのです。一方、主イエスは自由です。妬(ねた)みにも、利己的な思いにも囚われていないのです。真に自由なのです。

 聖書の言葉を聴く際の基本姿勢は、そこに描かれていることは、他人事(たにんごと)ではないということです。他の人の罪は、自分に関係ないということは無いということです。私どもも人を羨(うらや)みます。そして、家族、親族の幸福、成功は喜び、それが自慢になったりもします。しかし、身近な人の幸福、成功を、私どもはしばしば羨(うらや)み、妬(ねた)んでしまうのです。そして、つい、その人を貶(おとし)めようと悪口を言ってしまうということがあります。残念ながら、私どもの心は狭く、弱いのです。その意味で、この時の大祭司の妬(ねた)みに囚われている姿は、私どもの姿を映している鏡のようなものなのかもしれません。そのような人間の罪が、私どもの罪が、罪の無い方、私どもを愛して止まない神の御子主イエス・キリストを不当に裁き、殺してしまったのです。

 さて、本日の記事の後半では、ペトロが、主イエスが予告された通り鶏が鳴く前に、三度も主イエスを知らないと言ってしまったのです。ペトロは何を怖がっていたのでしょうか。ペトロは自分も主イエスのように捕えられると思って、主イエスを知らないと言ってしまったのでしょう。しかし、ある人は言います。もし、ペトロを捕らえるつもりだったら、主イエスを捕える時に捕らえていたはずだ。ペトロを捕らえようと思えば、とっくに捕えていたはずである。確かに、そう言われれば、そうでしょう。しかし、主イエスが不当に裁かれる様子を垣間見たペトロ、主イエスが辱(はずかし)めを受けている様子を見たペトロは怖くなって、怖気(おじけ)づいてしまったのでしょう。

 先週の説教の中で、私はこのように申しました。ゲツセマネの祈りの場面です。マタイによる福音書 第26章38節です。主イエスはこうおっしゃっています。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」ここで主イエスは「わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃったと言うのです。今私どもが聴いていますのはマタイによる福音書の言葉ですが、マルコによる福音書の同じ記事をみますと、そこには、「わたしと共に」という言葉はありません。マタイによる福音書の福音書記者は、主イエスの伝承を私どもに伝える中で、主イエスが「わたしと共に」とおっしゃったことを、「わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃったことを大切に思い、私どもに伝えてくれています。主イエスが私どもを求めてくださっているのです。主イエスご自身が私どもと共にいて、目をさましていて欲しいと望んでおられるのです。

 そうです。マタイによる福音書は、主イエスが「わたしと共に」とペトロにおっしゃった言葉を大切に伝えているのです。そして、主イエスの弟子として生きることは、主イエスと共にいることです。ですから、ペトロはいつでも、「わたしはいつも主イエスと共にいる」と言わなければならないのです。確かに、ペトロはそう思うからこそ、他の弟子たちのことは気にせず、自分一人だけでも主イエスに「従った」のです。離れていましたが、主イエスに「従った」のです。ついて行ったのです。本日の58節です。「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、・・・」と言われています。しかし、いざとなったら、「あなたもナザレのイエスと一緒にいた」と言われると、主イエスを知らないと言ってしまったのです。自分が主イエスの弟子であることを否定し、弟子であることを自分から辞めてしまったのです。「わたしと共に」とおっしゃってくださる主イエスと一緒に歩めなかったのです。挫折がそこにあったのです。これも、私どもの姿を映しているようです。いざとなると、主イエスを捨ててしまうのです。弟子であることを辞めてしまうのです。呪いの言葉を言ってまでも、主イエスの弟子を辞めてしまうのです。ある神学者は、夜、主イエスを訪ねたニコデモのことを、こう言いました。「人間というものは、真昼に悪魔に仕えて、それを恥じることがない。しかし、それだけにキリストを告白するのに世間体を恥じるものである。」この言葉は、ニコデモだけでなく、本日の箇所のペトロにも当てはまる言葉です。それは、私ども自身にも当てはまるということでもあるでしょう。実に私どもは情けない存在なのです。

 ただし、そのことを誰よりも分かっていてくださるのが、主イエスご自身です。ペトロは、主イエスの言葉を思い出した時、泣き崩れます。一つには自分の情けなさを嘆いたのでしょう。ある説教者はそれだけでないと言います。ペトロの涙は、主イエスの言葉を思い出しての悔い改めの涙だと言います。ペトロはこんな自分のことを誰よりも知って、主イエスはどんな時も共にいてくださることを強く感じ、激しく悔い改めの涙を流したのだと言うのです。その根拠となる言葉が、マタイによる福音書の最後にあります。第28章20節です。主イエスの言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」ペトロはそのことを既によく分かっていた。だから、自分の情けなさを泣くと共に、そんな自分を見捨てず、主イエスはいつ、どんな時でも、共にいてくださることを思い出し、主イエスの愛の深さを思い出し、今すぐに悔い改めなければならないことを知り、悔い改めの涙を流したのです。

 先ほども申しましたように、私どもも、ペトロと同じ弱さ、罪を抱えています。ですから、私どもも、ペトロと同じように、悔い改め、主イエスに赦しを乞うてまいりましょう。主イエスはどんな時も私どもを見捨てることなく、私どもと共にいてくださいます。

 お祈りを致します。

 

 私どもの全てを知って、私どもを憐れみ、慈しんでくださいます主イエス・キリストの父なる神よ。大祭司カイアファの姿の中に、使徒ペトロの姿の中に、私どもの罪を、弱さを見ます。私どもは、真に、情けない罪人です。しかし、あなたの御子はそんな私どもを、見捨てることなく、いつも憐れんでくださいます。慈しんでくださいます。そして、いつも側に、共にいてくださり、私どもを導いてくださいます。あなたと御子の愛の深さに感謝し、あなたをほめたたえます。どうぞ、私どもをお救いください。己の罪を認め、悔い改めて、あなたに従い、救いに与らせてください。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

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2017年3月12日 日本バプテスト厚木教会 受難節 第二主日礼拝

 

マタイによる福音書 第26章46~56節

 

 36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時(いっとき)もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 47 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。54 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」55 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。56 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 

「父なる神の御心が行われるよう祈り求める主イエス」

 

 今週も、週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを、感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テモテへ手紙 二 第1章2節の言葉です。「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。」

昨日3月11日、東日本大震災から6年という日でした。各地で追悼式が行われ、新聞、テレビ、ラジオそれぞれが、犠牲者の方々を追悼し、被災された方々の苦しみを覚え、さらには、今もなお避難生活を続ける方々の思いを伝えていました。その中の一つに、昨日の朝日新聞の夕刊のトップに載っていた「孫たちよ」と題がつけられた写真がありました。写真の説明にはこうありました。宮城県石巻市。「大川小学校に通っていた3年生を含む孫3人を亡くした男性。慰霊碑に刻まれた孫の名前に触れていた。」男性の後ろ姿の写真で、表情は分かりません。しかし、痛切な思いが伝わって来る写真でした。

改めて犠牲者、行方不明者のご家族に主のお慰めがありますよう、お祈りしたいと思います。そして、被災された方々が一日も早く元の生活に戻れますようにお祈り致します。

本日は、受難節 第二主日です。主イエスの十字架の苦しみを覚え、それによって、私どもの罪が償われた喜びを噛みしめる大切な時期を過ごしています。

本日もマタイによる福音書の受難記事を与えられています。本日の記事は、しばしば、「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる場面とそれに続いて、主イエスが捕えられる場面です。

順番が逆になりますが、本日はまず後半の主イエスが捕えられる場面の記事に目を向けたいと思います。

 十二人の一人であるユダが祭司長たちや民の長老たちの遣わした剣や棒を持った大勢の群衆を案内して、主イエスの所にやってきます。いよいよイエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていのです。申すまでもなく、当時、写真はありませんから、誰かを捕らえようとする時は、その人の顔を良く知った人が「この人だ」と指示したのです。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻します。主イエスを裏切るのに主イエスに親しいように振る舞うのです。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われます。すると主イエスは捕られてしまいました。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人、ヨハネによる福音書ですと、ペトロと言われていますが、マタイによる福音書には名前は記載されていません。その人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落としてしまったのです。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、主イエスはこうともおっしゃいました。「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。

 本日、まず注目したいのは、51節以下です。51節ではこう言われています。「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。」ちょっと聞くと、剣を抜いて打ちかかった人は勇敢に聞こえます。はたして、そうでしょうか。いや、むしろ怖くて剣を振り回したのではないでしょうか。教会改革者カルヴァンはこう言っています。「この男は一見自分の弱さを忘れて、主イエスを身をもって守っているように見えるけれども、彼がここで選んだのは滅びでしかなかった。」カルヴァンはそう言うのです。

 続く52節で主イエスはこう言われます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」比較的良く知られた主イエスの言葉の一つです。では、なぜ、ここで主イエスはこのようにおっしゃったのでしょうか。一振りの剣では勝ち目がないからでしょうか。いいえ、そうではありません。そのことは、続く主イエスの言葉から分かります。53節です。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」主イエスが父なる神に頼めば、すぐに十二軍団以上の天使を送ってもらえるとおっしゃるのです。一軍団とは、ローマ帝国の一つの軍団の組織で、大変大きな兵力を持っていたそうです。それが、十二軍団以上というのです。しかも、それは人の軍団ではなく、天使の軍団だというのです。主イエスを捕えに、ユダに案内された人たちは大勢いたということですが、もし、父なる神がそれらの天使の軍団の一部をお送り下さっただけでも、彼らはひとたまりもなかったことでしょう。そうです。主イエスは捕えに来た者たちを追い払う事くらい容易(たやす)いことだったのです。しかし、主イエスはそうはなさらず、彼らの思うがまま捕らえられておしまいになるのです。

その理由を主イエスは54節でおっしゃっています。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」これと同様のこととが、マタイによる福音書 第16章21節でも言われていました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」そうです。主イエスが捕らえられ、十字架につけられることは、神が予(あらかじ)めお決めになっていたことなのです。これを「神の必然」と言う人もいます。なぜなら、それなくして、私どもの罪は償われないからです。私どもは救われないからです。それゆえ、「神の必然」の中に込められている神の愛は深いのです。神が何とかして私どもを救うために、主イエスに重い重い十字架を御子に負わせられるのです。一重に私どもを救うため、私どもを深く深く愛してくださっているからです。

さて、「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」との言葉をある神学者はこう理解します。この言葉は主イエスにおいても当てはまる。主イエスご自身が剣を持ってそれを振り回されたとしても、ここで言われていることは実現すると言うのです。主イエスも剣によって滅びてしまうと言うのです。主イエスはそのことを良くご存じであったのです。そして、何より、剣によっては神の御心が実現する事はないことを知っておられたのです。天使の十二軍団以上が降って来ても、神の御心は実現しないのです。私どもの救いは、主イエスの十字架と復活なくしては実現しなかったのです。父なる神と御子主イエスの深い深い愛に感謝したいと思います。

ここで、本日の記事の前半の「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる記事の言葉を聴いてまいりましょう。この礼拝堂正面右側、ちょうど私の頭の上あたりに架けられている絵が、まさに、主イエスがゲツセマネで祈っておられるお姿を描いたものです。周りは暗くて良く見えないかもしれませんが、主イエスの背後に眠り込んでしまった弟子たちも描かれています。

過越の食事、そして、その後の聖餐の元になった主の晩餐の後、主イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来られます。そして、こうおっしゃったのです。「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。」そして、主イエスは他の弟子たちをそこに座らせ、ペトロおよびゼベダイの子二人だけを伴われるのです。そのとき、主イエスは悲しみもだえ始められ、彼らにこう言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」そして、主イエスはお一人で少し進んで行って、うつ伏せになり、祈られたのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたのです。主イエスはペトロに言われました。「あなたがたはこのように、わずか一時(いっとき)もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」そうおっしゃって、主イエスは更に、二度目に向こうへ行って祈られました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」そして、再び主イエスが戻って御覧になると、弟子たちはまた眠っていたのです。ひどく眠かったのであると。そこで、主イエスは彼らを離れまた向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られたのです。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

聖書で言われていますように、この場所は「ゲツセマネ」と呼ばれています。「油絞り」という意味だと言われます。ここはオリーブ山の一角にありました。辺りはオリーブ畑で、そのオリーブから油を絞る場所がそこにあったのではないかと言われます。

 まずここで注目したのは、40節です。「それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、わずか一時(いっとき)もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。』」主イエスがそうおっしゃったと言うのです。ここで「わずか一時(いっとき)」と訳されている言葉、「一時(いっとき)」その正確な意味は、二時間ほどの長さなのです。どうしても翻訳では、ほんの少しの時間のように思えますが、そうではないようです。主イエスはそれほどの時間、熱心に祈られたのです。そして、弟子たちにおっしゃった言葉は、二時間という長い祈りに耐えられなかったのかということだったのです。

 主イエスは二度目、三度目の祈りもなさっています。その祈りにはどれほどの時間祈られたかは言われていません。たぶん、祈りは益々深くなったと思われます。時間はさらに長くなりこそすれ、短くなったと想像するほうが難しいでしょう。実に激しい祈りをされていたようです。

 36節で主イエスはこうおっしゃっています。「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。」ここで「座る」と訳されている言葉は、「屈(かが)む」と訳した方が良いとも言われます。ぺたんと腰を下ろしているのではないのです。何のためでしょうか。いつでも立てるようにです。これは見張りの姿勢です。弟子たちは見張りの役目を仰(おお)せつかったのです。

 そして、38節です。主イエスはこうおっしゃっています。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」ここで主イエスは「わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃったと言うのです。今私どもが聴いていますのはマタイによる福音書の言葉ですが、マルコによる福音書の同じ記事をみますと、そこには、「わたしと共に」という言葉はありません。マタイによる福音書の福音書記者は、主イエスの伝承を私どもに伝える中で、主イエスが「わたしと共に」とおっしゃったことを、「わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃったことを大切に思い、私どもに伝えてくれています。主イエスが私どもを求めてくださっているのです。主イエスご自身が私どもと共にいて、目をさましていて欲しいと望んでおられるのです。

 このマタイによる福音書を元にして、ヨハン・セバスチャン・バッハが「マタイ受難曲」を書きました。その中で、テナーが「わたしはわたしのイエスの傍らにあって目を覚ましていよう」と歌います。美しい旋律で繰り返し歌います。私どもは、それを聴いて、いやいや自分たちもその場にいたら、弟子たちのように眠りこけてしまうのではないか、とつい思ってしまいます。はたして、自分はそのように歌えないなどと思ってしまいます。しかし、それは愚かなことだと、ある説教者は言うのです。なぜなら、特にマタイによる福音書では、主イエスご自身が「わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃってくださっている。私ども頼んでおられる。だから、自分は眠り込んでしまうしかない人間だと言い張ることは止めようと言うのです。

 今紹介しましたマタイ受難曲で、テナーが「わたしはわたしのイエスの傍らにあって目を覚ましていよう」と歌うのに続いて、合唱が応えるのです。こうです。「そうすれば、わたしの罪は眠り込む。」そうです。はっきりと主イエスと共に目を覚ましていると、罪は眠らずにおれなくなるのです。働くことが出来なくなるのです。しかし、もし、主イエスと一緒に目覚めていないと、逆に罪が目覚め、罪は主イエスと共に目覚めようとする私どもの心をさらに眠らせてしまうのです。

 そして、主イエスは39節でこう祈られます。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」そう祈られたのです。マタイによる福音書 第6章、山上の説教と言われる中で、主イエスは、私どもが「主の祈り」と呼んでいる祈りを教えてくださいました。私どもも先ほど祈りました。新共同訳ではこうです。マタイによる福音書 第6章9節以下です。「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。/御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。/ わたしたちに必要な糧を今日与えてください。/わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。/わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」そのように教えてくださいました。その中に、39節で主イエスが祈られた祈りがありました。「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」主イエスは「御心が行われえるように」と祈りなさいと教えられ、御自分でも、そのように祈られたのです。主イエスの祈りは、切実な祈りです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」主イエスはご自分の願いをはっきり述べられます。しかし、そこでは終わらず、「しかし」とおっしゃり、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈ってくださったのです。なぜでしょう。それは、先ほどご一緒に聴きました54節の言葉の通りです。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」そうです。主イエスが捕えられ、裁かれ、十字架に付けられて、ようやく、私どもの罪が償われるのです。それこそが神の御心なのです。主イエスはご自分の願いま述べられましたが、それよりも、御心が優先されえること、私どもの救いが実現することを望まれたのです。それ以外に、私どもの救いの道はないことをご存じだったのです。

 さて、41節で主イエスはペトロにこう言われています。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」そうおっしゃっています。ここで、心は燃えていてもと訳されています。この翻訳ですと、ペトロの心は燃えているが、と言う意味にとれます。ただし、ここで「心」と訳される言葉は、通常、「霊」と訳される言葉だそうです。ここで「霊」と言ったら、他でもない「神の霊」です。そうしますと、「心は燃えても」とは、「霊は前に向いても」、さらに、「神の霊は前進しても」ということです。そして、「肉体」と訳されている言葉は、肉体、体そのものであると共に、罪に弱い私ども自身です。ですから、「心は燃えても、肉体は弱い。」とは、神の霊は前進するが、私ども自身は弱いということなのです。

 しかし、主イエスこそが私どもの弱さを誰よりも知っていてくださるのです。しばしばいわれますように、主イエスはまことの神にして、まことの人であられるのです。ですから、主イエスご自身も、私どもと同じように、まことの人として「「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたのです。そうです。繰り返しますが、誰よりも、主イエスが私どもの弱さを知って、私どもを憐れんでくださっているのです。そして、その私どもを救うために、「御心のままに」と祈って、父なる神に従ってくださったのです。そのようにして、主イエスは最も呪われた死をに担ってくださったのです。教会改革者ルターは言います。主イエス・キリストは「唯一の大罪人」である。主イエスにこそ「最高最大の罪」があると。そうです。私ども皆の罪をお一人で負ってくださったのですから。そのようにして、私どもの罪は償われ、私どもは救いの道へと導かれたのです。

 神の深いお計らいに、そして、深い愛に感謝と賛美を捧げましょう。

ご一緒に祈ります。

 

私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御子主イエスは、御御心のままにと祈ってくださいました。私どもに何よりも救いが必要であることをご存じだったからです。私どもを深く深く愛してくださっているからです。この救い主に従って行けますよう、私どもを守りお導き下さい。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

 

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2017年3月5日 日本バプテスト厚木教会 受難節 第一主日礼拝

マタイによる福音書 第26章14~35節

 14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、15 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。16 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

 17 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。18 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」19 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

 26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

「弟子たちの裏切りと離反の中で、十字架に進まれる主イエス」

 

 今週も、週の初めの日に、皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを、感謝しています。今日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして説教を始めます。テモテへ手紙 一 第6章21節の言葉です。「恵みがあなたがたと共にあるように」。

 週報でお伝えしていますように、先週3月1日、水曜日は、灰の水曜日でした。その日から、受難節に入りました。受難節はその名の通り、主イエス・キリストが十字架の苦難を受けられたことを思い起こして礼拝を捧げる時です。この時期は、キリスト教会の一年の歩みの中でも、特に主イエス・キリストの十字架の意味をテーマにして礼拝を捧げる特別な期間と言われます。この受難節の呼び方はいろいろありまして、その一部を紹介しますと、「四(し)旬(じゅん)節(せつ)」、「レント」があります。受難節は、灰の水曜日から、復活日(イースター)の前日までの46日間を言います。では、どうして、この時期を「四旬節」とも呼ぶのかと申しますと、この期間の日曜日を除いた日は合計で40日間になるからです。なぜ、そのような数え方をするのでしょうか。この時期は既に申しましたように、主イエスの十字架を覚える時です。そのため、このあとで申しますように、質素な、控えめな生活をする習慣があります。ただし、受難節の期間であっても、日曜日・主の日は、週の初めの日、すなわち、主イエスが復活された記念の日です。祝いの日なのです。受難節の中にあっても、主の日だけは、質素で控えめであることはお休みして、祝い喜ぶ日なのです。そこで、46日間の中でも、日曜日・主の日は除いた40日のことを指して、四旬節と呼びます。また、「レント」とは、本来の意味は「長くなる」で、英語で言うと“Lengthen”で、日が長くなる季節、すなわち、元々は、春を意味する言葉でした。それが、のちに受難節のことを表すようになったのです。

 この受難節は、既に申しましたように今週の「灰の水曜日」から始まっています。その日、前年の棕櫚の主日(パーム・サンデー)、その日は、主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城され、人々が棕櫚の葉を持って主イエスをお迎えした記念日です。その棕櫚の主日(パーム・サンデー)に教会に持ち寄ったり、飾ったりした棕櫚の葉を保存しておき、それを焼いた灰で、「灰の水曜日」の礼拝に集まった人々が額に十字のしるしをつけてもらうという習慣がローマ・カトリック教会にあるそうです。それは、「あなたは灰になる」ということを象徴するために、さらにキリストの苦しみと十字架を記念するために、行われてきたそうです。人は最後には塵に帰り、灰に帰ります。そのように、灰は、悲しみの象徴であり、さらには、悔い改めの象徴なのです。キリストが私どもの罪の赦しの犠牲として十字架におかかりくださったことを覚え、悔い改めるのです。その悔い改めの象徴として灰を用いるのです。

今申しましたように、灰が悲しみの象徴であり、悔い改めの象徴であることを聖書で確認しておきましょう。旧約聖書のヨブ記 第2章7節、8節では、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた(ヨブ記 第1章1節)ヨブが、さらなるサタンの試みを受ける場面があります。こう言われています。「サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」ここで、ヨブが灰の中に座ったことは、息子娘を亡くし、さらなる試みである皮膚病を受け、苦しむヨブの深い悲しみを象徴しています。また、マタイによる福音書 第11章21節では、「粗(あら)布(ぬの)をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」という表現が出てきます。そこで言われていますように、ここでの灰は、悔い改めを象徴するものです。

 その「灰の水曜日」から受難節が始まることからも、この時期は主イエスの十字架の苦しみを覚え、その十字架が私どもの赦しのための犠牲であったこと、十字架なくしては私どもの救いは有り得ないことを覚え、主なる神の前に悔い改める時であることが分かると思います。

 そのため、この時期に断食もなされました。また、受難節でも主の日である日曜日の食事は別ですが、普段の食事は質素にするのです。具体的には、肉を食べないなどということもされたようです。また、昔、この期間は、ささやかな贅沢も控えるということがなされたようです。ただし、精進することや質素にすること自体に意味があるのではなく、そのようにして、この時期、他の事に心を向けるのではなく、主イエスが十字架の死に向かってどのような歩みを進めて行かれたかに、心を向ける、心を留めるためです。

 今年も、ブラジルのリオのカーニバルが始まったとか、今真っ盛りだとか、ニュースになりました。謝肉祭、カーニバルというと、世俗的な祭りと思われている方もあるでしょう。しかし、なぜこの時期に行われるのかというと、受難節には、今申しましたように、昔は、質素な、控えめな生活をするので、受難節に入る前のこの時期に、春が近づいたことを祝い、感謝して肉を食べ、陽気に過ごすということだったようです。ただし、陽気に過ごすと言っても、騒いで、度を越してはならないでしょう。

 また、ローマ・カトリック教会では、一年の中で、復活日だけに、バプテスマ式を行うことから、受難節がバプテスマ志願者の準備の時とされたようです。主イエスのご受難を覚えることで、十字架と復活を覚えることで、新しい方が、信仰告白、バプテスマへと導かれるようにとお祈りしたいと思います。

 ただ今の説明の中で、「灰の水曜日」については、申しましたので、その他の日についても、簡単にご説明致します。先ほど簡単に申しましたが、「棕櫚(しゅろ)の主日・パームサンデー」は、主イエスが子ろばに乗って、平和の王として、エルサレムに入られた記念の日です。「棕櫚の主日」と言う呼び名は、このあと引用するヨハネによる福音書 第12章13節で群衆が「棕櫚(しゅろ)の枝」を手に取り、主イエスを出迎えたことに由来します。一つ前の12節から引用します。口語訳で引用します。「12 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、 13 棕櫚(しゅろ)の枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、/『ホサナ、/主の御名によってきたる者に祝福あれ、/イスラエルの王に』。 14 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。」そのように言われています。ただし、口語訳で「棕櫚(しゅろ)の枝」と訳されててる部分が、新共同訳では、「なつめやしの枝」となっています。そのために、ただ今、口語訳で朗読致しました。

その「棕櫚の主日」からの一週間を「受難週」と呼びます。受難節もいよいよクライマックスです。平和の王として群衆に迎えられた主イエスですが、祭司長たちやファリサイ派の人々の陰謀により、捕えられ、最高法院で不当な裁判にかけられ、死刑判決を受けるのです。しかも、ローマから派遣されていた総督のピラトもそれを認めたために、十字架にかけられ、殺されたのです。

さて、受難週の中にあります「洗足木曜日」は、主イエスが弟子たちの足を洗われた日です。ヨハネによる福音書 第13章1節以下にこうあります。「1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」こう記されています。この夜、このあと、主イエスはイスカリオテのユダの裏切りによって、祭司長たちやファリサイ派の手先により捕えられてしまうのです。そして、翌日の金曜日、すなわち「受難日」に、主イエスは十字架につけられ、息を引き取られたのです。そして、その日の内に墓に埋葬されるのです。ところが、週の初めの日の朝、主イエスは復活されたのです。その日を記念して、「復活日(イースター)」を祝います。

 受難節の説明の最後に、「受難節への招き」と題されている言葉をご紹介します。

   主にあって愛する兄弟姉妹。代々(よよ)の教会は我らの主の苦難と復活を記念するこの期節を、深い献身の思いをこめて守ってきました。深い悔い改めと断食と祈りの時としてこれを守り、復活日に備えることが教会のならわしとなったのです。

   信仰に導かれた者が、キリストの体なる教会に加えられるための洗礼(バプテスマ)の準備と時として、同時に、信仰共同体から離れていた者たちが、悔い改めと赦しを通して再び和解を与えられて教会の交わりと回復される時として、この40日間は大切にされてきました。

   したがって全会衆は、イエス・キリストの福音が告げ知らせる神の慈しみと赦しを思い起こし、洗礼(バプテスマ)によってすでに与えられている信仰を更新しなければなりません。

   そこで私は、み名によって、この聖なる受難節へとあなたがたを招きます。自ら(みずから)省(かえり)み、悔い改めと祈りと断食と愛の献げ物によってこの期節を守りましょう。神のみ言(ことば)に親しみ、これを味わいつつ、切に祈りましょう――。

 さて、先週に続き、本日もマタイによる福音書の受難記事を与えられています。本日の聖書箇所の初めにあるのは、主イエスの弟子の一人であるイスカリオテの裏切り行為です。祭司長たちは主イエスを引き渡す報酬として、イスカリオテのユダに銀貨三十枚を渡すことにするのです。この銀貨三十枚にはどのような意味があるのでしょうか。主エジプト記 第21章32節です。こう言われています。「もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀三十シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されねばならない。」そう言われているのです。銀貨三十枚、銀三十シェケルは、当時の奴隷の一人の賠償金の金額なのです。ただし、時代が下って、主イエスの時代、貨幣価値は変わっていたでしょう。主イエスの時代には、銀貨三十枚、銀三十シェケルでは奴隷一人の賠償をすることはもはや出来なかったでしょう。ということは、イスカリオテのユダは、奴隷一人の値段にも満たない金額で、主イエスを売り渡したということです。

    そして、もう一つ、「銀貨三十枚」という値を知るために読んでおかなければならないと言われる聖書箇所があります。ゼカリア書 第11章12節です。「わたしは彼らに言った。『もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。」そう言われています。ここでは、主なる神が民を養ってきた分を賃金としてくれと言ったら、たった銀三十シェケルだったということです。主なる神の業が不当に安く扱われていることを言っています。それと同じように、祭司長たちはたった銀貨三十枚で、ユダから主イエスを買うのです。もちろん、買値が高ければ良い、という話ではありません。高かろうが安かろうが、人を売り渡すほど卑しいことはなく、それは、残酷なこと、愛に欠けたことです。しかも、神の御子を売り渡すという事ですから、実に恐ろしいことです。

    ところで、本日の箇所はこう始まっていました。「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、・・・」。もうこの時点で、ユダの裏切りは始まっているのです。もう弟子であることを止めているのです。その意味では、「十二人の一人で、・・・」ではなく、「十二人の一人であった、・・・」と書いてもよさそうです。しかし、そうは書かないのです。福音書によれば、主イエスの弟子は一時期とても多かったようです。しかし、様々な困難の中で、主イエスから離れて行く者もあったようです。その中にあって、ここまで主イエスに従ってきたのが十二人の弟子たちでした。しかし、その弟子たちの中から裏切りが起こったのです。この十二弟子はのちに初代教会の中核となる人たちです。ですから、十二人の弟子たちこそ最初の教会とも言えるでしょう。その最初の教会の中から裏切りが生まれたのです。これは、キリスト教会にとって恥ずかしいことです。しかし、どの福音書記者もこの事実を隠そうとはしないのです。それが事実だからです。そして、そこにこそ、私どもにも通ずる罪と弱さが如実に現れているからです。そのことは、むしろ、イスカリオテのユダ以外の弟子たちが強く感じていたようです。21節、22節でこう言われています。「21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』22 弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」そう言われています。弟子たちは自分たちの弱さ、危うさを知っていたのです。所詮、人間は弱い存在です。危うい存在です。それだからこそ、主なる神から、御子主イエスから信仰を授かって、み言葉を良く聴いて、従っていくのです。自分の弱さ、危うさを自覚することは、信仰の第一歩と言えるでしょう。

ある牧師は言います。説教の中で、イスカリオテのユダのことを語らずに済ませることができたら、どんなに気が楽なことか、どんなに幸いなことかと言っています。イスカリオテのユダに向き合うことは、私どもの弱さ、危うさ、罪深さと真剣に向き合うことなのです。それは大切なことです。しかし、とても重いこと、しんどいことなのです。

 ところで、今申し上げたように、聖書は「十二人の一人であった、・・・」ではなく、「十二人の一人で、・・・」と書いてあります。主イエスを裏切ってもまだ主イエスの弟子であるように書くのです。それは、どんなに他の人たちが、もうイスカリオテのユダは裏切り者だから主イエスの弟子ではないと言ったとしても、主イエスご自身は依然とイスカリオテのユダを弟子の一人としてお招きになっておられるからでしょう。その証拠に、この時の過越の食事の席にイスカリオテのユダも同席しているのです。主イエスは決してイスカリオテのユダを排除なさらなかったのです。

 ところで、24節ではこう言われています。主イエスの言葉です。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」そう主イエスはおっしゃっています。「生まれなかった方が、その者のためによかった。」この言葉、とても厳しい言葉のようにも聞こえます。しかし、ある説教者は、この言葉は主イエスがイスカリオテのユダを深く憐れみ、同情されておっしゃった言葉であると言います。生まれてこなければ、このようなことはしなくて済んだろうに。主イエスはそのように、とても憐れみ深い方なのです。それは私どもに対しても同じです。ですから、主イエスに、父なる神に、どんなことでも祈って、聞いて頂き、慰めて頂き、従ってまいりたいと思います。

 24節に続く、25節でこう言われます。「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ。』」そう言われています。私どもはしばしば神さえも、主イエスさえも誤魔化(ごまか)せるかのように思い、嘘をつきます。この時のイスカリオテのユダのようにです。その意味でも、イスカリオテのユダは決して私どもから遠い存在ではないのです。むしろ、私どもが目を背けている自分自身の姿をイスカリオテのユダの中に見ることが出来るのではないでしょうか。

 なぜ、イスカリオテのユダが主イエスを裏切ったのか。今まで、多くの人が考え、論じてきました。ユダは政治的革命を期待していたのに、主イエスは一向にそのようなことはなさらない。その主イエスに愛想をつかして、裏切ったとも言われます。そうだったのかもしれません。その他いろいろ考えられると思います。そして、それらに共通していることは、イスカリオテのユダが、主イエスよりも自分の方が正しいと思っていただろうということです。義憤という言葉があります。自分は正しいのに、それが認められない。自分の正しさが踏みにじられる。そのような時、人は激怒し、義憤に駆られて強気な発言や行動に出ます。決して自分は間違っていないと思うので、躊躇(ためら)いはないのです。イスカリオテのユダは、あとで自分の間違い、愚かさに気付きます。しかし、この時は、主イエスよりも自分が正しいと思い、主イエスに対する義憤に駆られて、主イエスを裏切ったのではないでしょうか。ここから、私どもも、自分を省みなければならないと思います。決して自分は間違っていないと思う時こそ、一歩も、二歩も立ち止まって、冷静に自分を振り返ってみなければなりません。その際、本日の箇所のイスカリオテのユダのことも思い出したいと思います。

 さて、本日の箇所の後半は、本日私どもが与る聖餐の初めとなった主の晩餐のことを伝える記事です。

 27節以下では、こう言われています。「27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」。そう言われています。ここで言われるように、聖餐の杯は、主イエスの十字架で流される血を示しています。そして、それは私どもの罪の赦しを約束してくださる契約の血なのです。そうです。聖餐は何よりも主イエスの十字架の救いを指示(さししめ)しているのです。本日、聖餐に与れることを感謝したいと思います。主イエスが与えてくださる十字架の救いの有難さを噛みしめ、聖餐に与りたいと思います。

 そして、29節で主イエスはこうおっしゃいます。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」そうおっしゃるのです。これも大いなる約束です。しばしば、この時のことを最後の晩餐と言います。しかし、主イエスのこのお言葉から、この晩餐、主の晩餐は決して、最後ではないのです。いつかまた、父なる神の国で、主イエスは私どもと一緒に杯から飲んでくださるのです。私どもの救いが完成し、再び、主の晩餐を囲むことが出来るのです。その時は、この私どもも同席出来るのです。何という幸いでしょう。もう一度申します。主イエスはここで大いなる幸いを約束して下さっているのです。私どももその席に与れるよう、主イエスにしっかり従ってまいりましょう。

さて、イスカリオテのユダ以外の弟子たちが、イスカリオテのユダとは違う意味ですが、主イエスを裏切り、見捨てて逃げてしまうことを主イエスは予告なさいます。その際、31節で主イエスが引用された言葉、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう。」は、ゼカリア書 第13章7節からの引用です。ゼカリア書 第13章7節では、こう言われています。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。」そのようにいわれています。事実弟子たちは主イエスを見捨てて逃げて行くのです。ここにも、弟子たちに代表される私どもの弱さが現れています。私どもは信仰を頂いていますが、それで私どもが人間的に強くなったということではないのです。そこを勘違いしてはいけません。私どもは、自分の弱さは持ったまま、弱さを引きずったまま主イエスに従っているのです。

33節以下では、こう言われています。「33 するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』と言った。34 イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』 35 ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った。」そう言われています。ここに、強がっている弟子たちの弱さが現れています。そして、これもまさしく私どもの姿なのです。強がることは止め、自分の弱さを認め、主に頼って、寄りすがって、従ってまいりましょう。その時、私どもは本当の意味で強くなれるのです。主の強さに従うからです。自分の力に頼るのではなく、主の御力に頼って、本当の強さを頂いて、信仰の道を歩んでまいりましょう。

本日、最後に覚えたい言葉は、32節の主イエスのお言葉です。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」そう言われています。弟子たちは主イエスを見捨てて、逃げて行くのです。そして、故郷のガリラヤに帰ってしまうのです。しかし、復活された主イエスはこのお言葉通り、弟子たちより先にガリラヤに行かれて、弟子たちを迎えてくださるのです。そこで弟子たちは復活の主イエスにお会いするのです。ここにこそ主イエスの慈愛に満ちたお姿が現れています。主イエスは誰よりも私どもの弱さを知ってくださり、そのような私どもを憐れんでくださり、決して私どもをお見捨てにならないのです。そして、いつも私どもに先立てくださり、私どもを導いてくださるのです。まさに、主イエス・キリストこそ私どもの救い主です。私どもの救いのために十字架に進んでくださった主イエスに、共に従ってまいりましょう。

ご一緒に祈ります。

 

私どもの救い主なる主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御子主イエスは、大切にした弟子に裏切られ、また見捨てられても、私どもの救いのために、十字架に進んでくださいました。私どもを深く深く愛してくださっているからです。私どもに十字架の救いが何よりも必要であることをご存じだからです。この救い主に従って行けますよう、私どもを守りお導き下さい。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

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