2016年1月3日 日本バプテスト厚木教会 新年礼拝

 

詩編 第22章23、24節

 23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え

集会の中であなたを賛美します。

 24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。

ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。

イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。

 

コリントの信徒への手紙 二 第4章1~15節

1 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。2 かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。3 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。

 

4 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

 

 

「主に栄光を帰そう Ⅲ」

 

 新しい年、2016年を迎えました。このように皆さんと共に一年最初の主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、皆さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めます。ヘブライ人への手紙 第13章20、21節の言葉です。「20 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、21 御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」

 

今年度2015年度は、詩編 第22編24節から、「ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。」との聖句を頂き、「主に栄光を帰そう」との標語を掲げてまいりました。それに合わせて、昨年4月の教会総会の日と8月の退修会の日に、このテーマで説教致しました。そして、本日で三回目です。さらに、主に栄光を帰す歩みを進めて行こうということです。

 そこで、前回も確認しましたが、私どもが「神に栄光を帰す」べきであるという根拠はどこにあるかを、もう一度確認しておきましょう。旧約聖書、歴代誌 上 第29章11、12節では、こう言われています。旧約聖書669ページです。

偉大さ、力、光輝(こうき)、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。

 

ここでは、すべてのものは主なる神のものであると言われています。そもそも、万物は主なる神が造られたからです。その中でも、「偉大さ、力、光輝(こうき)、威光、栄光」は、特に主なる神のものであるとはっきり言われています。しかも、「富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。」と、富と栄光は、万物の支配者である主の前にあると言われています。ここでは、栄光は誰か他の者のものではなく、まさしく主のものであると言われています。これは、私どもの信仰において、栄光を考える上でとても重要な言葉だと思います。そして、栄光は神に帰すべきできあると、はっきりとした根拠を与えてくれる言葉の一つと言えるでしょう。

 栄光が神のものであるならば、私ども人間がそれを横取りしてはならないのです。栄光を自分のものにすることは、神のものを横取りにすることなのです。マタイによる福音書第22章21節の主イエスの言葉、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」を引用するまでもなく、神のものは神にお返ししなければならないのです。

 ですから、神に栄光をお返ししないでいると、どんなに恐ろしい審(さば)きが降(くだ)るかを使徒言行録 第12章21から23節の記事から、4月の教会総会の日の説教の中で確認しました。そこではこう言われています。

 

21 定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、22 集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。23 するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆(うじ)に食い荒らされて息絶えた。」

このようになりたくはないものです。

 

 ところで、福音書の言葉を聞いていますと、しばしば、「律法学者たちとファリサイ派の人々」が登場します。解説によりますと、律法学者は、神の律法を研究し、教えていた人たちですが、彼らの多くが、ファリサイ派に属してしたために、「律法学者たちとファリサイ派の人々」と、しばしば聖書では言われているそうです。このファリサイ派の人々は素直な良い時もあるのですが、しばしば主イエスをやり込めようとしたり、罠(わな)に陥(おとしい)れようとしたりして、質問してきたり、主イエスと弟子たちを批判していました。そのためでしょう。主イエスはファリサイ派の人々に対して、厳しいことをおっしゃっています。それらは事実で、偽りはないでしょう。では、これらの記事が福音書に多いのは、どう理解すべきでしょうか。キリスト教会からのユダヤ教に対する批判と見ることもできるでしょう。しかし、私はそうではなく、キリスト教会の中にも、キリスト者の中にも、ファリサイ派が現れる危険性があるからだと思います。いや、既に初代教会の中で、ファリサイ派と同じような過ちを犯している人たちがいたので、彼らへの警告として、また、そのようにならないようにと、福音書の中にファリサイ派のことが繰り返し書かれているのではないではないかと、私は思います。

 

 ファリサイ派は、福音書の中では多くの場合、主イエスに敵対しています。そのためにファリサイ派の人々は悪い人たちだと簡単に断定してしまいがちです。しかし、彼らは、神の律法を守ることに熱心で、全生活をかけて掟に忠実に従おうとしていたようです。その勤勉さ、忠実さは、なかなか他の人たちは真似が出来ないほどであったとも言われます。その点では立派なのです。見習うべきなのです。しかし、彼らは自分たちこそは神に褒(ほ)められる特別な存在であるとして、他の人たちを見下すきらいがありました。そこに傲慢な思いが起こり、他の人との違いを強調するあまり、主イエスから偽善者との批判も受けていました。その意味で、ファリサイ派の人々は、神の栄光よりも、自分たちの誉れの方を求めたのだと、私は思います。

 

 多くのキリスト者は、毎週、忠実に礼拝を捧げ、献金をお捧げしています。さらには、自分の出来る範囲で教会への奉仕をしています。そのようなキリスト者たちによって、個々のキリスト教会は成り立っていると言えるでしょう。しかし、そのような真面目に信仰生活をしていると、そうでない人たちを少々見下してしまいがちになります。自分だけは特別と思ってしまいやすいのです。そのような時、ファリサイ派になってしまう危険が大きいのではないでしょうか。自分の義、正しさを求める余り、神に栄光を帰すことはそっちに置いていたために、ファリサイ派の人々は、主イエスが神の御子であることにも気づかなかったのです。これは、決して、不真面目な方が良いということではありません。私どももファリサイ派にならないように気をつけて、自分の義を誇ることなく、常に栄光は神にお返してまいりたいと思います。

 

 本日、コリントの信徒への手紙 二 の言葉を朗読致しました。最後の15節は、こういう言葉で終わっていました。「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです」。ここで、「これらのこと」と言われていることは何であるかを確認したいと思いますが、それらは、「あなたがたのため」であるだけでなく、「多くの人々が恵みを受けるため」、さらには、「多くの人々が神に栄光を帰すようになるため」であると言われているのです。神にとっても、人にとっても、いいこと尽くしだと言うのです。では、「これらのこと」とは何でしょうか。すべてを挙げることは出来ませんが、まずは、2節の「かえって、卑劣(ひれつ)な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」でしょう。さらには、5節の「わたしたちは、自分自身を宣(の)べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣(の)べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕(しもべ)なのです。」ということでしょう。そして、もう一つ、10節の「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」でしょう。これは、私どもは、常にキリストの死と復活に与(あずか)っているということ。言い換えれば、私どもはキリストの復活の命、いつまでも神と共にいることの出来る永遠の命を受けるということでしょう。これらが、私どもにとって、良い事であり、これによって、私どもが恵みを受け、感謝の思いにされ、神に栄光を帰すようになると言われているのです。ここから、何かに限定するのではなく、神に従っていくことすべてが、私どもにとって、良いことで、私どもが一杯の恵みを受けることが、自然と神に栄光を帰していくようにさせてくれるのだということです。ですから、私どもが自然に神に栄光を帰すためには、まず神の恵みを受けることが良いのだということになるでしょう。ですから、そのためにも、神の恵みをこれからも一杯いただいてまいりましょう。

 

 ところで、マルコによる福音書 第12章28節以下では、こう言われています。

   28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

 

 ここで言われている第一の掟は、精一杯、神である主を愛するということです。ところで、人を愛することは、分かり易(やす)いのですが、神を愛するということは、何をしたら、よいのでしょうか。その一つは、今、私どもがしていますように、礼拝を捧げることでしょう。神をほめたたえ、崇(あが)め、礼拝をお捧げすることでしょう。そして、他にもあるでしょうが、私は神に栄光を帰すことも、神を愛することの一つだと私は思います。先ほども確認しまたように、栄光は神のものなのです。ですから、栄光を神にお返しすること、栄光を横取りしないこと、それが神を愛することの第一歩だと私は思います。

 

 さて、私どもはまいりませんが、正月となると、日本人の多くが老若男女問わず初詣(はつもうで)に行きます。その人出の多さに驚きます。ある牧師は、それくらいキリスト教会に来てくれれば嬉しいのにと言います。確かにそうです。また、ある牧師は、日本人のそのような律義さは大切なことだと言います。私もそうだと思います。一年の初めに神社などに詣(もう)でる。お願いすることは、自分のこと、家族のことであっても、それらを祈願するために、一年の最初に詣(もう)でることは意義あることと思います。そのような思いは、神に栄光を帰すことに通じると思います。もちろん、自分で頑張るけれども、自分を越えた存在を認め、神仏に願う。神仏の前に跪(ひざまず)く、手を合わせる。私どもも、何か行う時、まず、主なる神に祈ってことを始めます。本日最初に歴代誌 上 の言葉を引用しましたように、すべての物事を支配しておられるのは、神であることを承知しているからです。そのように、祈りから始めることも、神に栄光を帰することの第一歩であり、信仰生活の上で大切にすべきことの一つだと私は思っています。

 

 この年も、私どもは、新年最初の主の日の礼拝をこのようにお捧げしています。このように、まず、主なる神のことを優先しています。ですから、一年を通して、このようにしてまいりたいと思います。自分の満足を満たすことは二番目にして、最初に神を崇(あが)め、礼拝を捧げてまいりましょう。そのようにして、自分の喜びよりも神の御心を優先し、自分の誉れや栄光でなく、神の誉れ、栄光を求めてまいりましょう。自分は一歩引くように心掛け、神より先に自分が出るこのないように気をつけ、何よりも神に栄光を帰してまいりましょう。祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。この年の最初の主の日の礼拝をこのように礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝致します。私どもは、普段、自分のことばかり考えてしまい、あなたのことを思うこと少ない者です。どうぞ、そのような私どもをお赦しください。そして、あなたに栄光をお返しする者とさせてください。まず、あなたのことを思い、礼拝を捧げ、あなたの恵みを一杯頂き、感謝と賛美を捧げる者、あなたに栄光を帰す者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

1月3日 新年礼拝説教 - Unknown Artist
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2016年1月10日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第15章1~10節

 

 1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっていながら、実(み)を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実(み)を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実(み)を結ぶように手入れをなさる。3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実(み)を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実(み)を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実(み)を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8 あなたがたが豊かに実(み)を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 

「豊かに実(み)を結ぼう」

 

 本日もこのように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来(でき)ますお恵みを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。コリントの信徒への手紙 二 第1章2節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

 昨年の11月末から、クリスマスを待つアドベントに合わせてルカによる福音書の降誕記事を説教してきました。そのために、ヨハネによる福音書の説教を一時中断していました。でも、本日より再開致します。本日から第15章に入ります。

 

 ところで、今は冬です。冬は寒くて「いやだ」とおっしゃる方があるでしょう。確かにそうです。早く春になってくれないかなと思う事も多いでしょう。しかし、冬はただただ我慢して過ぎるのを待つだけではないとも思います。そこで、皆さんにとって冬の楽しみとは何でしょうか。スキーやスケートをなさる方は、それが楽しみでしょう。また、先日のクリスマスや正月を楽しく過ごされた方も多いと思います。これは楽しみとはちょっと違うかもしれませんが、冬の物で私が好きなものは、湯たんぽです。冬の夜、冷たくなった布団に入るくらい嫌(いや)なことはありません。しかし、そこに湯たんぽが入っていると、私にとって、そこは別世界です。心地よい温かさで、体だけでなく心も温かくなるようです。とても気持ちよく眠れます。皆さんの冬の楽しみ、冬使う物で好きな物は何でしょうか。いつかお聞きしたいと思います。

 

 季節は変わって、もう過ぎてしまった秋はどうでしょうか。皆さんにとっての秋の楽しみは何でしょうか。読書の秋とも言われますし、食欲の秋とも言われます。山の紅葉も綺麗(きれい)です。また私事(わたくしごと)ですが、私の秋の楽しみは果物です。教会学校では、毎年11月にみかん狩りに行きます。同じみかん園に行きますが、特に昨年は甘くて、皆喜んで食べていました。晩秋(ばんしゅう)から正月の時期、どうしてもみかんが食べたくなります。また梨(なし)、林檎(りんご)などは、種類によって味が異なり、それも楽しみです。そして、本日の聖書箇所の主イエスのお話しにも登場する葡萄(ぶどう)も、私の好きな果物の一つです。こちらも色々と種類があり、楽しみです。

 旧約聖書には、「ぶどう」という言葉が395ヶ所出てきます。ちなみに、最初は箱舟を造ってそこに乗り込んだことで良く知られるノアが大洪水のあと葡萄(ぶどう)畑を作り、葡萄(ぶどう)酒を作ったという記事です。そして、新約聖書にも本日の記事を含めて75ヵ所出てきます。ここから、ユダヤでは、葡萄(ぶどう)がよく栽培されていたこと、そして、葡萄(ぶどう)は葡萄(ぶどう)酒(しゅ)の原材料ともなり、人々にとって重要な収穫物であったことが想像出来(でき)ます。そのためでしょう。旧約聖書では、イスラエルの民が葡萄(ぶどう)に譬(たと)えられています。イザヤ書 第5章7節です。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。」そのように言われています。

 

 このように葡萄(ぶどう)はユダヤの人々にとって身近な存在だったのです。主イエスの譬(たと)え話はしばしば身近な題材を用いてなされます。羊飼いや羊、主人と僕(しもべ)、そのように、ここでも、主イエスはユダヤの人々にとって、身近な存在であった葡萄(ぶどう)の木、枝、そして実(み)が譬(たと)えとして用いられているのです。たぶん、聞いていた弟子たちはとても身近なこととして、主イエスの言葉を聞いたことと思われます。

 

 ところで、本日、聖書の朗読を聞いていて、また聖書の文字を目で追って読んでいて、あれ!と思われた方があると思います。本日の箇所の中心的な部分、本日の箇所の要約ともなっている箇所、5節、6節では、こう言われています。「5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実(み)を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」。そう言われています。ここでは、主イエスと私どもが、葡萄(ぶどう)の木と枝のように「つながっている」ことが肝心なのだと言われています。つながっていれば豊かに実(み)を結ぶことが出来(でき)ると言われています。しかし、2節で言われていることは、それとは違います。「わたしにつながっていながら、実(み)を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実(み)を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実(み)を結ぶように手入れをなさる」。ここでは、主イエスにつながっていながら、実(み)を結ばないこともあると言うのです。このように5節、6節と2節では矛盾(むじゅん)しています。これはどう理解したらよいのでしょうか。一つの理解として言えることは、こうでしょう。5節、6節で言われているように、主イエスにつながっていれば、確かに豊かに実(み)を結ぶことが出来(でき)る。そうなると、逆に考え、実(み)を結ばないのは主イエスにつながっていないからに他(ほか)ならず、2節で言われている「わたしにつながっていながら、実(み)を結ばない枝」とは、主イエスにつながっているように見えながら、実(じつ)はつながっていないのだ、ということでしょう。自分自身では主イエスにしっかりとながっているように思っていても、実際(じっさい)はそうでない。それは、実(み)を見れば分かるということでもあるでしょうか。主イエスは別のところで、「木は、それぞれ、その結ぶ実(み)によって分かる(ルカによる福音書 第6章44節)。」とおっしゃっています。5節、6節と2節の矛盾(むじゅん)はこのように理解出来(でき)るのではないでしょうか。

 

 さて、今見ましたように、この聖書箇所のキーワードは、「つながる」と「実(み)を結ぶ」でしょう。4節では、「つながる」という言葉が4回、「実(み)を結ぶ」という言葉が2回出てきます。5節では「つながる」が2回、「実(み)を結ぶ」が1回出てきます。そして、4節から10節まででは、「つながる」が8回、「実(み)を結ぶ」が4回です。そして、「豊かに実(み)を結ぶ(5節、8節)」ためには、「つながっている」ことが大切であることが述べられています。

 

ぶどうの枝がぶどうの木に「つながって」いれば、「豊かな実(み)を結べる」ように、あなたがたもわたし、主イエスに「つながって」いれば、「豊かな実(み)を結べる」と、おっしゃっているのです。それだけではありません。5節の最後に、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と言われています。主イエスとつながっていないで離れてしまったら、あなたがたは何も出来(でき)ない、と言われているのです。さらに、6節では、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と言われています。主イエスにつながっていなければ、折れた枝のように捨てられ、枯れてしまう、焼かれてしまう、と言うのです。主イエスにつながっていなければ、実(み)を結べず、何の成果も上げられず、最後は滅びてしまうと言うのです。そんなことになったら、大変です。

 

このように、5節で、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と言われているように、私どもは主イエスから離れては何も出来(でき)ず、主イエスから離れると、私ども自身の存在も危(あや)うくなってしまうのです。なぜなら、救い主でいらっしゃる主イエスに救っていただかなければ、助けていただかなければ、私どもは、悪に罪に負けてしまうからです。私どもは、いつも神に背(そむ)くという罪の誘惑にさらされています。罪は巧(たくみ)に私どもを貶(おとし)めようと狙(ねら)っています。隙(すき)さえあれば、私どもを罪の深い淵(ふち)に引きずり込もうとしているのです。そのような私どもを救うことができる方、さらには、私どもに代わって私どもが神にしてきた罪を償(つぐな)ってくださる方は、主イエスだけなのです。ですから、主イエスから離れることは、罪に対して無防備になることで、私どもの罪を償なってくださる方を失うことになるのです。それゆえ、私どもの存在そのものが危(あや)うくなってしまうのです。

 

また、この箇所では、「つながる」ことが、少しずつ言い換えられています。7節「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、・・・」。ここから、主イエスにつながっているとは、主イエスの言葉がその人の内にいつもあるということだと分かります。

 

 実(じつ)は、この「つながる」と訳されている言葉は、新約聖書の原典であるギリシア語聖書では、「とどまる」という意味を持つ言葉が使われています。確かに、ぶどうの木と枝の関係は、「つながる」なので、そう訳されているのです。ただ、この「つながる」という翻訳の言葉に捉(とら)われると、体の一部がつながっているだけ、また、心の一部だけがつながっていると理解してしまいがちです。しかし、「とどまる」とも訳せる元の言葉は、一部がつながっているにとどまらず、相手の中にいるのです。相手の中に留(とど)まっている、住み続けているという意味です。私どもの全存在が主イエスの中にいる。そして、同時に主イエスが私どもの存在の中に入って来たということです。このことを念頭に置いて9節、10節の言葉を聞くと、よりよく分かると思います。9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。10節「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」。ここから、主イエスと「つながる」ことは、主イエスの中に、主イエスの愛の中に「とどまる」ことであり、そのためには、主イエスの掟を守ることが必要なことが分かります。主イエスの掟を守るとは、主イエスの言葉に従うことです。このように、主イエスの言葉に従い、主イエスの愛に留(とど)まることが、私どもを滅びから救い、豊かな実(み)を結ばせていただくことになるのです。

 

 私どもが毎週主の日の礼拝で頂いている聖書の言葉、また、それぞれが聖書から与えられる言葉、それらの言葉に親しみ、それらの言葉に従って歩むこと、自分の思いよりも、まず主イエスと父なる神の言葉に従っていくこと、それが主イエスとつながることになり、主イエスに「とどまる」ことになるのです。私どもキリスト者の生き方はまさにそれです。それによって、神から豊かな実りを頂くことが出来(でき)るのです。

 

 また、3節ではこう言われています。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」。信仰において、聖(きよ)められること、汚れから、罪から離れていることは、重要なことです。聖(きよ)められなければ、救われないからです。最終的には滅びてしまうからです。では、どうしたら、聖(きよ)められるのか。そもそも、自分で聖(きよ)くなることは私どもには出来(でき)ません。主イエスに罪を償って頂き、父なる神に罪を赦していただかなければ、何をしても、私どもが神に対して犯した罪は拭(ぬぐ)えません。ここで、主イエスは弟子たちに、「あなたがたは既に清くなっている」とおっしゃっています。あなたがたは、もう汚れから、罪から離れているとおっしゃっているのです。何によってか。それが、「わたしが話した言葉によって」だと主イエスはおっしゃるのです。そうです。弟子たちを、そして、私どもを聖(きよ)めることが出来(でき)るのは、主イエスのみ言葉、聖書のみ言葉なのです。唯一私どもを聖(きよ)めることが出来(でき)るのが、主イエスのみ言葉、聖書のみ言葉なのです。主イエスのみ言葉、聖書のみ言葉を受け入れ、主イエスのみ言葉、聖書のみ言葉に従って生きることによって、私どもは聖(きよ)められるのです。信仰告白をし、バプテスマを受けるということは、自分が神に対して犯してきた罪を自ら認め、主イエスをこの自分のための救い主と告白し、主イエスのみ言葉、聖書のみ言葉に従って生きると宣言することです。それによって、私どもは既に聖(きよ)めていただいているのです。ですから、キリスト者はそれにふさわしい歩みをしなければなりません。求道者の皆さんも、ぜひ、自分が神に対して犯してきた罪を自ら認め、主イエスをこの自分のための救い主と告白し、主イエスのみ言葉、聖書のみ言葉に従って生きると宣言してください。主イエスがおっしゃるように、その時、私どもは既に清いのです。

 

 さて、この聖書箇所は、しばしば、信仰告白をしてバプテスマを受ける人に贈る言葉として、また教会を移って、転入会する人に贈られる言葉として使われます。それは、「キリストの体」なる教会に、これからずっと「つながって」いけますように、「とどまって」いけますようにとの思いを込めてでしょう。このように、これらの言葉は、教会から離れず、主イエスを礼拝し続けることの大切さを教える言葉としても読まれてきました。また、厚木幼稚園の3月の聖句は、私の記憶ではずっと5節の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」です。年度の終わりにあたり、特に卒園していく子どもたちに、いつまでも主イエスとつながっていて欲しいという思いを込めて、園長先生がこの聖句を選ばれているのだと、私は思っています。幼稚園を卒園しても、神さまイエスさまのことを忘れずにいて欲しい、お祈りすることを忘れないでいて欲しい、そして、教会学校に来て、神さまを礼拝し続けて欲しいという思いを込めて、この聖句が選ばれていることと思います。どうぞ、皆さん方も、教会員となられて日の浅い方や、幼稚園を卒園する子どもたちが主イエスとしっかりつながって、主イエスに留まることが出来(でき)るように、お祈り下さい。そして、まだバプテスマを受けておられない求道者の方々が、葡萄(ぶどう)の木である主イエスにしっかりつながってくれるよう、お祈り下さい。

 

 ところで、5節や8節で言われている「豊かに実(み)を結ぶ」とはどういうことでしょうか。一般には、何か素晴らしい成果をあげることでしょう。しかし、8節では、こう言われています。「あなたがたが豊かに実(み)を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」。あなたが豊かな実(み)を結ぶことは、何よりも神が栄光を受けるためになる、と言われているのです。これは、今年度の聖句「ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。」と今年度の標語、「主に栄光を帰そう」にもつながることです。本日この聖書箇所が与えられたのも主のお導きのように思えます。そのように考えますと、ここで言われている「豊かな実(み)を結ぶ」とは、私どもが何か得をするとか、私どもの名誉になることとは、どうも違うようです。

 

 かつて、こんな事があったそうです。第二次世界大戦中ドイツで、ある牧師がナチスに抵抗したため軍隊に入れられ、東部戦線に送られたそうです。ナチスはしばしばその手を使って教会を迫害しました。その牧師は、その後ソ連の捕虜になってしまいます。彼は、捕虜収容所に入れられます。するとすぐに、志願者を募って牧師を養成する神学校を収容所の中に作ってしまったそうです。勿論、充分な施設はなかったでしょう。それでも、彼の熱意に主は応えてくださり、彼の熱意に動かされ、捕虜収容所にいながら神学の学びをする人がいたのです。彼は満足し、得意になったそうです。戦後、そのことを監督(かんとく)と呼ばれる教会の指導者に、得意になって報告しました。すると監督(かんとく)はこう言ったのです。「若い兄弟よ、キリスト者に成功はありません。キリスト者は実(み)を結ばせていただくだけです」。そう言われて、彼は大切なことに気付かされました。彼はのちに、このことを正直に書き残しました。謙虚(けんきょ)に自分の間違えを認めることが出来(でき)たことは素晴らしいと思います。また、厳しい収容所生活の中で熱心に牧師養成に努めた人に対して、少しも遠慮(えんりょ)することなく、正しい事をはっきり言えた監督(かんとく)も素晴(すば)らしいと思います。私どもは、「豊かに実(み)を結ぶ」と言うよりも、豊かな実(み)を結ばせていただくのです。私ども手柄にしてはならないのです。私どもが豊かに実(み)を結ばせていただいたら、それによって、天の父なる神は栄光をお受けになるのです。

 

 ここで、主イエスは、主イエスを信じて生きる者に、豊かな実(み)りを約束してくれています。主イエスを信じて生きる者の人生には大きな実(み)りが約束されているのです。ご一緒に主イエスに「つながり」、主イエスの愛に「とどまり」ましょう。お祈りを致します。

 

 主なる神よ。私どもがいつまでも主イエスにつながっていけますように、主イエスの愛の中に「とどまらせて」くださいますように、お願い致します。新しい年、私どもに何が待っているか分かりません。しかし、どんなことがあろうとも、あなたと主イエスにつながり、あなたと主イエスの愛の中に留(とど)まらせてくださいますように、お願い致します。そして、あなたに栄光を帰すために、豊かな実を結ばせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

2016年1月17日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝 

 

コリント信徒への手紙 二 第5章17節~21節

 

 17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。19 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。20 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

 

 

 

「 人を神と仲直りさせる務め ~ 教会とは何か ⑨ 」

 

 今日も、皆さんとご一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝致しております。本日も、皆さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めます。コリントの信徒への手紙 二 第13章13節の言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」

 今日1月17日は阪神淡路大震災から21年です。多くの方が亡くなり怪我をされ、家屋がビルが高速道路等々が壊れました。火災も起きました。私は宣教研修所、今の日本バプテスト神学校の卒業を間近に控えていた頃でした。震災から1ケ月ほどした頃、教会から送り出していただいて、二週間ほどボランティアとしてまいりました。先日、松原由恵姉が転籍された西岡本キリスト教会に宿泊させていただき、各教会から来たボランティアの方々と共に、あちこちにボランティアにまいりました。教会自体も被害を受け、教会員のご親族や、教会学校の生徒も亡くなられました。後に、牧師も震災のために持病を悪化させ亡くなられました。大切な方を失ったり、大きな被害を受けると、そこから立ち上がることが如何に厳しいかも知りました。

 

阪神淡路大震災で大切な方を失った方々、傷を負った方々、被災された方々に主の御慰めがあるように、お祈りしたいと思います。また、先週は悲惨なバス事故があり、多くの方が亡くなり、怪我をされました。事故に遭われた方々、そして、大事な方を失った方々に主の御慰めがありますようお祈り致します。

 さて、12月はお休みしましたが、「教会とは何か」をテーマにした説教を続けています。毎回いろいろな角度から、教会とは何なのかを、ご一緒に探っています。本日のテーマは、教会の大切な務めについてです。ということは、本日のテーマは、教会に遣わされている伝道者の大切な務めは何かということでもあります。そこで、今日の説教題を「人を神と仲直りさせる務め~教会とは何か ⑨」と致しました。

 

人を神と仲直りさせるとは、一体、何のことかと思われた方もあるでしょう。人を神と仲直りさせるということは、人は神と喧嘩(けんか)していたということなのか。そう思われるでしょう。そうなのです。では、その喧嘩(けんか)とは具体的にどういうことなのかと思われるでしょう。ところで、私はしばしば礼拝の中で神のお導きを感じるのですが、今日もまさにそうです。

 

今、石山林さんに、如何にして信仰に導かれたかをお話し頂きました。兄(きょうだい)は自分が如何に罪深く、傲慢であったかに気付かされたことを語って下さいました。まさに、信仰に入れられる前の石山兄(きょうだい)は、神と喧嘩(けんか)していたのです。しかし、神はそんな石山兄(きょうだい)を見捨てるのではなく、石山兄(きょうだい)自身に自分の過ちを気付かせるように、導いてくださったのです。おっしゃっているように、後で見れば、天地万物の創造者で、私どもの救済者である神に喧嘩(けんか)を売るなんて、実に馬鹿げたことです。しかし、信仰を授かる前はそれに気付かないのです。兄(きょうだい)のおっしゃるように、私どもは真に愚かです。それでも、大切な気付きを与えられてからは、霧が晴れたように、神の深い愛が分かるのです。神の視点から見た世界が、真実の世界が、ほんの少しですが、見えてくるのです。神と仲直りして、神と和解して、神の御子を救い主と信じる信仰を頂くと、神に愛され、導かれる幸いに気付かされるのです。

 

 本日の説教題を「人を神と仲直りさせる務め~教会とは何か ⑨」と致しました。今申しましたように、人が神と仲直りするとは、私どもが、自分の罪深さ、傲慢さ、愚かさに気付いて、神に背き続けてきたことを、悔い改めることです。神の前に自分の罪を告白して、お詫びして、赦していただくことです。そのようにして、神と和解することです。それによって、神に従う者とされることです。

 

では、「人を神と仲直りさせる務め」とはどういうことでしょうか。まだ神と喧嘩(けんか)している方、まだ神に頼らず、自分だけで生きて行こうとしている人、その方々が石山林兄(きょうだい)のように神の前に白旗を挙げて、降参するように、そして信仰に入れられるように、祈り、必要な導きをして差し上げることです。実は、それこそが教会の大切な務めであり、伝道者、私のような牧師や伝道師の大切な務めなのです。

 

 そのことを先ほど朗読して頂きました聖書の中で、こう言われていました。18節の途中からです。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」。このことを言っているパウロ自身が教会の迫害者でした。先頭に立って、キリスト者たちを捕まえていたのです。しかし、ダマスコへ向かう途中、復活された主イエスの声を聞いたことによって回心させられ、神との和解に導かれ、今度は、「和解のために奉仕する任務」を授けられたのです。今度は、他の人が悔い改めて、神と和解するように導く務めを頂いたのです。そのために、パウロはキリスト教会初期の代表的な伝道者となりました。新共同訳聖書の付録の地図には、パウロが伝道旅行した土地がどこかを示す地図が載っていますし、新約聖書の福音書と使徒言行録のあとには、パウロが各教会に送った手紙の数々が収録されています。まさに、パウロ自身が、まさに、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」ことに従って、歩んだのです。

 

ところで、神との和解が教会にとって、如何に大切なことであるかは、20世紀を代表する神学者が書き残した「教会教義学」という書物からも分かります。「教会教義学」は、キリスト教会の基礎となる教義を聖書に基づいて綿密に論じた書物で、全4巻12分冊に及ぶ大著で、日本語の翻訳では36冊になっています。その内訳は「神の言葉」と題するものが6冊、「神論」と題するものが6冊、「創造論」と題するものが11冊、「和解論」と題するものが13冊で、最後の一冊は未完成でした。そのあとで、「聖霊論」を著す予定でいたとも伝えられています。このように、著された中の三分の一にあたる部分が、神が私どもと和解してくださったことを丁寧(ていねい)に論じた「和解論」だったのです。このことからも、神と私どもの和解が、如何に大切なことであること、そして、教会において、伝道者にとって、この和解の任務がどれほど大切な務めであるかが分かると思います。

 

では、本日与えられましたコリントの信徒への手紙 二 の言葉をもう一度聞いてまいりましょう。17節です。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。キリストと結ばれるとは、キリストをこの私の救い主と信じることです。それは、新しく生まれ変わったように、新しく神に創造されたことなのです。信仰をいただくことは、自分自身が新しくされることなのです。それゆえ、罪に染まった古いものは過ぎ去り、新しいものが生ずるのです。私どもはバプテスマを授けられた記念日を、新しく生まれると書いて「新生日」とも言います。バプテスト教会はこの「新生」という言葉を大切にしていまして、しばしば、教会の名前にも入れています。バプテスト同盟の中にも、私の出身の東京の大島新生教会、川崎にあります大師新生教会、大阪新生教会などがあります。

 

 そして18節です。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」。このように、私どもが新しく生き始めることは、自分の力とか、自分の意思で始められることではなく、神から出たことであり、神の御心によって始まったことなのです。そして、私どもの罪の赦しのために十字架に架かり、私どもの救い主となってくださったキリストによって、神はご自身と私どもを和解させてくださったのです。そして、それだけでなく、パウロのように伝道者としてはたらく者たちを召して、まだ神に逆らい、背いている者たちに自分の過ちに気付かせ、神と和解するように導くために奉仕する任務を授けられたのです。

 

続く19節です。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。神は御子キリストによって、すなわり、御子の十字架の犠牲によって、私どもをご自分と和解させてくださったのです。それは、私どもが父なる神に逆らってきた罪の責任を問うことなくという大恩赦をつけてでした。そうです。キリストの十字架の苦しみは、私どもが神に背いた罪を身代りになって償ってくださったものだったのです。それゆえ、私どもは罪の責任を問われ責められることなく、赦して頂いたのです。しかも、今度は、神が私どもを赦してくださった「和解の言葉」を私どもに委ね、私どもが神の和解の言葉を多くの人たちに伝える務めを授けてくださったのです。まさに、身に余る光栄です。

そして、20節です。「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。そう言われています。罪赦され、和解の言葉を委ねられた者は、キリストの使者、キリストに遣わされた者でもあるのです。言い換えれば、神との和解のための全権大使として、神があなたのもとに私を遣わしてくださったとパウロは言うのです。パウロは今その務めを果たすために、必死になっているのです。それゆえ、今度は、神との和解をもたらしてくださったキリストに代わって、この私パウロから皆さんにお願いします。一刻も早く、罪を悔い改めて、神と和解させて頂きなさい。

 

そして、本日の箇所最後の21節です。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。そう勧めるのは、父なる神が、私どもの罪を赦すために、私どもと和解するために、全く罪を犯したことのない罪と何のかかわりもない御独り子、主イエス・キリストに、私どものすべての罪を押し付けて十字架の上に挙げられたのです。それによって、私どもは自分の罪を悔い改めて、この御子を救い主と信じることによって、罪赦され、神の前に正しい者、義なる者としていただけるのです。ですから、ぜひ、神と和解させていただきなさい。パウロはそのように勧めるのです。

 

今申しましたように、この和解の言葉、言い換えれば福音を伝えることが、キリスト教会の主要な務めです。教会の務めはこれに尽きるのです。教会のすべての業は、このために行われていると言うことが出来るでしょう。そして、私のような伝道者の務めも、この和解の言葉を伝えることに尽きるのです。牧師としてなさなければならないことは色々ありますが、それらもすべて和解の言葉を伝えるためなのです。

 

それゆえ、教会に集う皆さんは、神と和解させていただけることを何よりも感謝し、神との和解を喜んで受け入れて下さい。そして、神との和解の中に置かれている幸いをいつも感謝して頂きたいと思います。さらには、教会の務めの一つを担っている皆さんも、直接的に、間接的に、教会の務めである和解の言葉を伝えるために、奉仕していただきたいと思います。今申しましたように、教会の務めはこれに尽きるのです。ですから、福音の言葉を直接伝えるだけでなく、教会のためになす全ての業は、教会のための奉仕は、間接的に和解の言葉を伝えることのための業であり、奉仕なのです。そして、どうぞ、専ら和解の言葉を伝える務めにあたる伝道者のために、この私のために、そして、新たにその務めにために召され、本格的な準備に入る篠遠順花姉のために、お祈り下さい。

今日も、この礼拝で、改めて和解の言葉を頂けたことを、教会の和解の務めを再確認させていただけたことを感謝したいと思います。祈りを捧げます。

 

 私どもを神と和解させるために十字架についてくださった神の御子、主イエス・キリストとその父なる神よ。あなたに背き続け、逆らい続けた罪人である私どもを、あなたは憐れんでくださいました。それでも、私どもは、あなたの憐れみと深い愛に気付かずに多くの日々を過ごしました。この傲慢さを、愚かさを、鈍さをお赦しください。それでも、あなたは諦めることなく、罪の暗闇を彷徨(さまよ)う私ども探し求めてくださいました。そして、私どもを引き戻し、あなたと和解させてくださいました。心より感謝致します。昔も今も、キリストの体なる教会はこの和解の言葉を伝えることを大切な務めとしています。どうぞ、和解の言葉をいつも発してくださっているあなたに仕え、和解の言葉を伝え続けている教会に仕え、あなたのみ栄(さか)えのために仕える者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

1月17日 説教音声 - 並木裕忠牧師
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2016年1月24日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第15章11~17節

 

 11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

「私たちはキリストの友」

 

 本日もこのように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。ガラテヤの信徒への手紙 第1章3節の言葉です。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

 皆さんには、親友と呼べる方はいらっしゃいますか。友だちはいても、親友と呼べる人はそれほど多くないと思います。新約聖書の信仰が生まれた時代、当時、地中海世界はギリシア語が広く話され、新約聖書を構成している福音書も、教会への手紙も、ギリシア語で書かれました。人々はヘレニズムと呼ばれるギリシア人の文化に生きていました。その頃の人々の理想は「友情」であったと、しばしば語られます。哲学者のピタゴラスは、友情は徳の一つというのではなく、すべての徳目の中核となる鍵であると言ったそうです。他の哲学者も同様のことを言っていたということです。

 

 また、英語で友を表す言葉はフレンドという言葉ですが、このフレンドという言葉は、同じく英語で自由を表すフリーに通じると言う人がいます。人間には様々な繋(つな)がりがあります。例えば、親子の繋(つな)がり、兄弟姉妹の繋(つな)がり、これら血族の繋(つな)がりは自由な繋(つな)がりではありません。自分で選ぶことが出来ない関係です。また、上下関係の繋(つな)がり、例えば上司と部下、先生と生徒という関係も、自由な繋(つな)がりでは言えないでしょう。一方、職場や学校において、同僚や同級生の関係から、友情が生まれることがあります。友情は自由な繋(つな)がりに基づくものです。このような互いに好意を抱いている、愛しているという関係だけで結ばれている関係を、当時のヘレニズム世界では愛の理想と考えたそうです。それは、当時のヘレニズム世界は、自由を最も崇高な理想としていたからです。

 一方、私どもは、特に十代の頃でしょうか、友情に憧れ、熱中し、友情が壊れた際には、憤慨したり、絶望したりします。友は貴重な存在ですが、そのために、天にも上るような気持ちになったかと思うと、突然、絶望の淵に投げ込まれます。

 

 ヘレニズム世界に戻りまして、愛の理想とされる「友」を表すギリシア語が、本日の聖書箇所の中に使われています。14節「あなたがたはわたしの友である」。15節「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。主イエスがあなたがたは私の友であるとおっしゃってくださり、そのようにあなたがたを「友」と呼ぶともおっしゃってくださっているのです。

 

 本日与えられました聖書箇所では、今申しましたように、主イエスが私どもを友と認めて下さり、私どもを友と呼んでくださることが、大きなテーマとなっています。聖書において、友情、そして友のことが言われている箇所はそんなに多くありません。本日はそこに焦点を当てて、ここで、主イエスがおっしゃっている言葉に耳を傾けてまいりましょう。

 

前回の箇所の第15章5節には、このような言葉がありました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。また、10節で、主イエスはこうおっしゃっていました。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」。このように、ぶどうの木と枝のように、主イエスにしっかりとつながっていること、さらには、主イエスの愛にとどまることが、信仰に生きていく上で重要であることを主イエスご自身がおっしゃっていました。主イエスはそのようにおっしゃったのちに、本日の箇所へと言葉を続けられるのです。

 

 11節です。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。ここで言われている主イエスが話された「これらのこと」とは、今申しましたように、主イエスとつながっていること、主イエスの愛にとどまることです。そのことをお話しくださったのは、主イエスの喜びが私どもの内にあって、私どもの喜びが満たされるためだとおっしゃるのです。ここでは、主イエスの喜びが私どもの内にあって満ち溢れるとはおっしゃっていません。満ち溢れるのはあなたがたの喜び、すなわち、私どもの喜びだとおっしゃるのです。喜びそのものでいらっしゃる主イエスという存在が私どもの中に入って来てくださって、私どもの喜びとなるのです。私どもの願っていた喜びが成就するのです。

 

 信仰に生きるとは、苦しくとも希望を失わず、耐え忍んで生きることでしょうか。確かにそのような時もあるでしょう。しかし、信仰に生きるとは、それよりも喜びに生きることです。どんな状況下にあっても、私どもの内にある主イエスという存在を喜ぶのです。主イエスとつながっているのは、主イエスの愛にとどまるのは、主イエスという喜びが私どもの中深く入り込んで来るためだったのです。

 

 今、信仰に生きるとは喜びに生きることと申しました。その喜びとは如何なる喜びでしょうか。それは、父なる神から、御子主イエスから、無条件に愛されているということです。幼子が無条件に回りの人たちに愛されるように、私どもは父なる神と御子、主なる親子から絶大な愛を注がれているのです。信仰を授かるということは、何よりもそのことを知ることです。愛されていること、それは私どもの究極の喜びです。しかも天地を造られ、今この時も絶対的支配者――残念ながら多くの人が不信仰の故にそう思っていませんが、それでも間違いなく絶対的支配者――である父なる神と御子主イエスに私どもは愛されて止まないのです。これに優る喜びがあるでしょうか。そうです。信仰に生きるとは、自分が愛されて止まない存在であることを確信して生きること、究極の喜びに生きることなのです。主イエスは私どもがそのように喜びに生きることを何よりの喜びとしてくださっています。そのためには、主イエスとしっかりとつながって、主イエスの愛にとどまることが不可欠なのです。ですから、その大切なことを、前回の箇所で主イエスはお話しくださいました。主イエスの喜びが私どもの内にあり、私どもの喜びが満たされるために、お話しくださったのです。

 

 主イエスはそれに続けて、12節でこうおっしゃます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。既におっしゃっている大切な掟、教えを、主イエスはここで再びおっしゃいます。ここで「掟」と訳されている言葉、以前は「戒め」と訳されていました。掟、戒めというと、厄介なもの、私どもを縛るもの、不自由にするものと思われることもあるでしょう。しかし、私どもが神との関係において生きていくためには、人と人との間で生きていくためには、なくてはならないものです。ですから、信仰に生きることも、掟、戒めに従って生きることと言えるでしょう。

 

 ところで、14節では「わたしの命じることを行うならば・・。」と言われ、17節では「これがわたしの命令である。」と言われています。ここで命じると言われている言葉は、12節で「掟」と訳されている言葉と同じ言葉なのです。しかも、この言葉には、使命を委ねる、任せるという意味にも使われるのです。

 皆さんも経験があるでしょうか。社会人として働くようになると、最初は小さなことですが仕事を任されます。大きな仕事ではありませんが、仕事を任されると、とても嬉しくなります。そして、それを仕上げる。小さなことでも、やり遂げたという充実感を味わいます。私も就職して、最初にやった仕事を、上司の係長に、「初仕事ご苦労さん」と言ってもらって嬉しかったことが忘れられません。主イエスは14節で、「わたしの命じることを行うならば、わたしが任せたことを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」とおっしゃってくださるのです。主イエスは、私どもを主イエスと一緒にはたらく同労者としてくださり、友としてくださるのです。畏れ多いこと、もったいないことです。だからと言って、これを拒んではなりません。この言葉を感謝をもって受ける。これも信仰において大切なことです。

 

 さて、13節では、友の大きな愛が語られます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。友である私どものために、ご自分の命を捨てる。まさに、主イエスがこれからなさろうとしている十字架のことです。私どもの救いのために、私ども罪の償いのために、主イエスは進んでご自分の命を差し出されるのです。これほど貴いことはないのです。主イエスはそのように最大の愛をもって、私どもの友となってくださったのです。

 

 信仰者として、キリスト者として生きることは、キリストに倣って生きることです。キリストに倣うことを拒否したのでは、キリストの弟子ではないということで、信仰者でも、キリスト者でもありません。それゆえ、私どものためにご自分の命を捨ててくださった主イエスに倣って、自分をお捧げする献身をもって、私どもの友である主イエスにお仕えするのです。それが信仰者として生きることです。

 

 先程、交読文でご一緒に読みましたコリントの信徒への手紙 一 第13章では、愛について繰り返し述べられていました。そこでの愛は神の愛を表すアガペーの愛でした。しかし、今ご一緒に読んでいますヨハネによる福音書の終わり近く、第21章15節に記されていますペトロの言葉、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と申し上げた「愛している」は、神の愛のアガペーではなく、友情の愛を表すフィリアという言葉です。ペトロは復活された主イエスを友として愛すると答えたのです。そもそも、その場面で主イエスは最初、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか(第21章15節)」と言われたとおっしゃった際、神の愛、アガペーで愛するかと問われたのです。そして、ペトロは「はい」と答えたものの、自分は友としてあなたを愛していることをあなたはご存じですと答えたのです。それに対して、主イエスはそれではいけないとはおっしゃらずに、三度目に私を愛するかとペトロ問われた際には、友として愛するかと問うておられるのです。この神との愛と友の愛の違いは新約聖書が書かれているギリシア語に基づくもので、実際に主イエスとペトロがお話しになったとされるアラム語ではどうであったかという詳しい議論が必要なところですが、ここでは省略させて頂きます。

 

 今申しましたように、ペトロは復活の主イエスに愛を問われた際、本日の箇所で言われている友としての愛で愛するとお答えしています。しかし、それは決して劣る愛、一段低い愛として言われているのではないことは、主イエスの言葉から分かります。主イエスは「わたしの羊を飼いなさい(17節)。」とおっしゃって、教会の信徒たちをペトロに委ね、心配りしなさいと大切な役目を委託されているのです。それどころか、「『しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである(18節、19節)。」と言われているのです。ペトロの殉教を預言されているのです。このように、主イエスはご自分の十字架を告げる意味でも「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とおっしゃった言葉を、十字架に架かることで実際に行われたのち、主イエスの掟に生きる友の筆頭としてのペトロに主イエスと同じように、命を捨てて主イエスに従うことを告げられるのです。主イエスの友として生きることは、主イエスの掟を守ることであり、友のために命を捨ててくださった主イエスに倣い、自分の身も捧げて、すなわち献身をもって主イエスに従うことなのです。

 

 本日の主イエスの言葉に戻ります。14節、15節で主イエスはおっしゃいます。「14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」ここで言われているように、奴隷の主人は、ただただ命令すればよいのです。何のためにさせているのか、奴隷に知らせなくても構わないのです。それゆえ、奴隷はご主人が何をしているか知らないのです。しかし、主イエスは弟子たちに、私どもに、御心を詳しくお知らせくださいました。それは、主イエスと私どもが主と弟子との関係を越えたということです。主イエスはそれゆえ、私どもを友と呼んでくださるのです。

 

 しかも、どのようにして私どもがキリストの友とされたかのか、16節でおっしゃるのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、・・・。」そうです。私どもは自分が父なる神を、御子主イエスを選んだように思っています。他の信仰ではなく、この信仰は自分が自由に選んだとのだと思い込んでいるところがあります。しかし、そうではないのです。主なる神の選びがあったのです。ところで、もし自分で選んでいたら、選んだ責任は自分にあるでしょうし、信仰を捨てるのも自由でしょう。しかし、真の信仰はそうではありません。神がご自分の責任において、私どもを選んでくださったのです。それ故、友情という自由な関係に反するようですが、私どもは信仰を捨てる自由はないのです。そして、神が全責任を負って、私どもを守り導いてくださるのです。ここで注意したいことは、私どもが選ばれているからと言って、私どものどこかが優れていて、こいつは見込みがあるからと選ばれたわけではないということです。ここでの選ばれるとは、この世の関係、柵(しがらみ)の中から、父なる神が私どもを引き抜かれたということです。他の者たちより先に引き抜かれたのです。他の者たちの救いのために、主イエスと共にはたらくために引き抜かれたということです。それが、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、・・・。」ということです。私どもが実を結ぶのは、父なる神に選ばれ、その使命を果たすことに他ならないのです。前回の箇所、第15章8節で言われていましたように、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」のです。

 

 さらに16節で主イエスはこうおっしゃいます。「また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。その良い証拠に私どもの友となってくださった御子主イエスが願ったことで、父なる神が叶えてくださらなかったことはありませんでした。いや違う、この礼拝堂正面右側に架けられた絵のように、ゲッセマネで、主イエスは「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください(マルコによる福音書14章36節)。」と祈られたが、主イエスは十字架につけられたではないかとおっしゃる方があるでしょう。確かにそうです。そこまでの時点では、父なる神は御子主イエスの祈りをすべてお聞き入れくださったとは言えないでしょう。しかし、主イエスはさらにこう祈られています。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコによる福音書14章36節)。」そうです。主イエスは父なる神の御心が行われることを何よりも願い、望まれたのです。そして、その祈りは叶えられたのです。それゆえ主イエスの祈りで父なる神に聞き入れられなかった祈りはないのです。それと同様に、主イエスがおっしゃるように「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」とおっしゃるのです。主イエスが命を捧げて下さって、友としていただいた私どもは、主イエスに倣い、主イエスを慕ってあとについて行くのです。もはや、私どもが主イエスの名によって父なる神に願うことは、父なる神の御心から外(はず)れることはないのです。キリストの友となることはそういうことなのです。

 

 本日の箇所最後の17節で主イエスは大切なことを繰り返しおっしゃいます。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」主イエスは別の箇所でこうおっしゃっています。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイによる福音書 第25章40節)。」そうなのです。主イエスの友とされ、主イエスを愛することは、私どもが互いに愛し合うことによって、果たされるのです。では、主イエスの「互いに愛し合いなさい」との命令に私どもはどれほどお応えしているでしょうか。ともすると、私どもは友となるべき相手を見下し、虚しい自分の優越感を満足させようとしていないでしょうか。友を作るのではなく、人と自分を常に上下関係の中に置き、優越感と劣等感の中を揺れ動いていないでしょうか。自分の欲望、目先の損得という誘惑に負け、互いに愛することを置き去りにしていないでしょうか。そこから早く抜け出しましょう。主イエスが遜(へりくだ)って、私どもの友となってくださったことを喜び、感謝いたしましょう。そして、そこに少しでも近づけるよう、祈ってまいりましょう。

祈りを捧げます。

 

 私どもを友と呼んでくださる御子主イエスの父なる神よ。あなたの御子は、私ども罪人のために、貴い命を捧げてくださいました。さらに、私どもを友と呼んでくださっています。この溢れる恵みに感謝致します。しかし、私どもは未だにこの恵みに気付かず、再び罪人の歩みに引き込まれそうになっています。どうぞ、あなたの愛に応え、御子主イエスの愛に応え、互いに愛し合うことができますよう、私どもの信仰の歩みをお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

2016年1月31日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第15章18~25節

 

 18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。20 『僕(しもべ)は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

 

 

「人の罪が見えるところ」

 

 本日もこのように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。ガラテヤの信徒への手紙 第6章18節の言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。」

 キリスト教会2000年の歴史の初め、地中海世界においてほぼ300年、キリスト教会は迫害に次ぐ迫害の中にありました。そのことを予知していたような言葉が、本日の聖書箇所の冒頭です。18節、19節です。「18 世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。主イエスは今別れを告げている弟子たちに向かって、あなたがたはやがて世の憎しみの中に身を曝(さら)されなければならないことを、そのような避けられない定めにあることを、ここで告げられています。そして、このヨハネによる福音書の編集記者は、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人たちから村八分にされたと考えられています。

 

 19節で言われているように、信仰を授かって生き始めると、世の中はその人を身内ではないと見なすようです。そのようなことは、日本でもありました。ある地方の教会で高校生がバプテスマを受けようとしました。その子は長男でした。それを父親が猛反対しました。牧師は親の理解を得たいと思ったそうですが、どうしても無理であったため、父親の同意を得ないままバプテスマを授けることにしたそうです。止むを得ないことと思ったそうです。すると、バプテスマを執り行おうとしたところ、父親から電報が届いた。そこには、バプテスマを強行するならば勘当するとありました。そこで、その高校生にもう一度、意志を確認すると、「受けます」と答えたそうです。そこで牧師は「もし、お父さんが家に入れてくれなかったら、当分はわたしの家で暮らそう」と言って、バプテスマ式を行ったそうです。その後、父親はさすがに、家に入れないということはなかったそうです。この父親は息子が信仰に入ったら、もう身内ではないと思ったようです。ヨハネによる福音書が語り伝えられた当時の教会では、そういう体験が日常のこととしてあったようです。

 

 ヨハネによる福音書が生まれたのは、紀元100年に近い頃だと言われています。その頃、キリスト者が当時の社会で評判が悪くなる事件がありました。紀元60年代半ばに乱暴は政策をおこなった総督に対し、すなわち、ローマ帝国相手にパレスチナのユダヤ人たちが蜂起(ほうき)します。そして、エルサレムに立てこもり、紀元70年エルサレムが陥落し、そこにありました神殿が崩壊しました。その後、ユダヤ人たちは、切り立った崖の上に造られたマサダの要塞に立てこもりました。そこには兵士だけなく、女性や子どももいました。戦いは2年に及びます。紀元73年、ローマ軍部隊はようやく完成した侵入路を通り城内に突入します。しかし全く抵抗はありませんでした。全員が集団自決していたのです。さて、ユダヤ人の中でキリスト者となった人たちはこのような抵抗運動に参加しませんでした。そのことため、ユダヤ人たちはキリスト者たちを裏切り者として、激昂(げきこう)しました。それだけではありません。抵抗運動では敵であったローマ人の中にも、キリスト者は弱虫で卑怯者(ひきょうもの)だということで、キリスト者たちを軽蔑し、罵(ののし)る人もあったそうです。そのようにして、キリスト者はユダヤ人間でも、ローマ人の間でも、評判が悪くなっていたそうです。そして、おかしなことに、キリスト者は神を信じない野蛮な人たちだと非難され、川が氾濫(はんらん)しては、飢饉(ききん)が起きては、疫病(えきびょう)が流行(はや)っては、「キリスト者をライオンに食わせよ」と人々は叫んだそうです。実際、コロシアムでキリスト者たちは、飢えたライオンの餌食(えじき)にされたそうです。人々はキリスト者を根絶やしにすれば、平和が訪れると言ったということです。そのような迫害がローマ帝国の中でほぼ300年続くのです。しかし、そのような憎しみのさなかにあって、信仰の言葉、福音の言葉はじわじわとローマ帝国の中に広がっていったのです。至る所に教会を生み、今日の社会事業の芽生えとも言える愛の業が行われ、キリスト者たちは着実に増えていったのです。

 

 主イエスは本日の箇所で、世に憎まれたら、憎しみ返したらよいなどとおっしゃったのではありませんでした。20節の中ほどから、主イエスはこうおっしゃいました。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう」。この言葉は、暗黙の内に、憎しみにさらされながら、キリストの弟子たちがキリストの言葉を宣(の)べ伝えている姿を伝えているとも言われます。また、24節ではこう言われています。「だれも行(おこな)ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる」。主イエスは神の御業を行い、世から憎みを買っているのです。それは、父なる神を憎むことになるのです。そして、弟子たちが主イエスの御業を受け継ぐのです。弟子たちは世に憎まれることを承知しながらも、キリストに倣う生き方を貫くのです。

 

 この憎しみが主イエス・キリストを十字架につけるのです。神の御子を憎み、殺す。人の罪がここに極まるのです。しかし、そこにこそ、神の愛も極まったのです。同じヨハネによる福音書 第3章16節、17節で、こう言われている通りです。「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。人が神の御子を憎んで、憎んで、その行く末が、神の御子を十字架で殺すということでした。しかし、驚いたことに、それこそが、父なる神が御子によって、世を救う御業の実行だったのです。そこには、人の罪が極まっていましたが、同時に、神の愛も極まったのです。

 

 本日の箇所の最後、25節ではこう言われています。「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」この言葉は、詩編 第69編5節の引用だと言われます。そこでは前半でこう言われています。「理由もなくわたしを憎む者は/この頭の髪よりも数多く」。文字通りではありませんが、引用したのはこの言葉でしょう。多くの者が、父なる神を、御子主イエスを、そして、キリスト者たちを、憎んだのです。そこに人の罪がはっきりと現れたのです。

 

 ただし、ここで注意しなければならないことがあります。世の中に憎まれることが、キリスト者として正しい生き方であるということではないことです。主イエス・キリストは憎まれることを望んでおられたわけではないのです。真理に立つ。そのことで憎しみを招くのであれば、それに甘んじて受けなければならないということです。世に擦り寄って、世の身内になり、世の評判を得ようとするのはなく、主イエスが教えてくださった真理に、主イエスに倣って立つのです。その際、主イエスのように憎まれることを厭(いと)わない。それが主イエスに従った弟子たちの生き方だったのです。

 ところで、主イエスは20節の初めに、「『僕(しもべ)は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。」とおっしゃいました。なぜ、ここで思い出しなさいとおっしゃったのでしょうか。それは、弟子たちが、そして私どもがしばしば忘れるからです。

 前回の箇所で、主イエスは私どもを友と呼んでくださいました。しかし、それは私どもの主人である主イエスを私どもが凌駕(りょうが)することにはならないのです。そのことをしっかりと弁(わきま)えなければならないのです。その意味で、「僕(しもべ)は主人にまさりはしない」との言葉は、真理を表す言葉であると同時に、私どもにとって、極めて大切な戒めなのです。

 ある牧師が言います。自分が牧師として最も大きな危機となったのは、「僕(しもべ)は主人にまさりはしない」との言葉を忘れた時だと言うのです。最も大きな危機は、自分が評判の悪い牧師ではないかと疑う時でも、自分が人々に受け入れらえないのでは悩む時でもない。「僕(しもべ)は主人にまさりはしない」とのみ言葉を忘れる時だと言うのです。

 

 また、自分が家族や教会の中で、どんな存在か。良い夫か妻か。良い父親か母親か。良い息子か娘か。良い兄弟か姉妹か。良い教会員か。良い教会学校の教師か。良い教会学校の生徒か。それを問う際にも、「僕(しもべ)は主人にまさりはしない」とのみ言葉を思い出すべきだと言う人がいます。なぜなら、僕(しもべ)である自分は主人である主イエスにまさることはないからです。それによって、僕(しもべ)にまさる主人である主イエスがこの私を通して、その人たちに御業を行ってくださるからです。また、こうも言えるでしょう。「僕(しもべ)は主人にまさりはしない」とは、キリスト者は100パーセントは無理だけれども、常にキリストに倣うことに向かって行かなければならない。100パーセントを目指して、絶えずキリストに倣って行かなければならない。しかし、100パーセントや101パーセント出来たと思ったら、「僕(しもべ)は主人にまさりはしない」との言葉に反し、その傲慢の故に、罪の中に真っ逆さまに落ちて行く。

 

 ところで、子どもたちの間の「いじめ」による自殺のニュースがなくなりません。なんとかして、いじめをなくさなければならないと、多くの人が様々なはたらきをしています。それでも、悲しいニュースがなくなりません。短期の対処療法も必要でしょう。長期的な根本的な対策も必要でしょう。そこで、しばしば言われることは、大人が子どもたちに少しもお手本を示せないでいること、また、示そうとしないことです。会社でも、地域でも、小さなグループでもそうです。そして、残念ながら、教会の中でもそうであると聞きます。

 

 先程、良い何々であるかを問う時、「僕(しもべ)は主人にまさりはしない」とのみ言葉を思い出すべきだと言った人のことを紹介しました。その理由として、「僕(しもべ)である自分は主人である主イエスにまさることはないからです。それによって、僕(しもべ)にまさる主人であり主イエスがこの私を通して、その人たちに御業を行ってくださるからです。」と申しました。また、「キリスト者は100パーセントは無理だけれども、常にキリストに倣うことに向かって行かなければならない。100パーセントを目指して、絶えずキリストに倣って行かなければならない。」と申しました。私どもは、主イエスのことを忘れた途端に、自分が主イエスの僕であることを忘れた途端に、罪を犯すのです。神を、主イエスを憎むのです。人を軽蔑するのです。いじめをするのです。

 

 しばしば、悪気はなかったということが、弁護の言葉となり、弁解の言葉となります。しかし、マタイによる福音書 第25章31節以下の主イエスの言葉に注意を向けなければなりません。40節でこう言われています。「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」その前に、38節、39節で、40節の言葉を言われた人たちは、こう言っているのです。「38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」また、45節でこう言われています。「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』そして、そう言われた人たちはその前の44節でこう言っているのです。「すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』」。そうです。どちらの人も、自分のしたことを覚えていない。良いことをしたという意識も、悪いことをしたという意識もないのです。ここから、ここで言われている最後の審判において、悪気はなかったは言い訳にならないことが分かります。厳しいことです。こう申し上げている私もこの厳しさに自分が耐えられないのではないかと恐れを抱いています。

 

 先程紹介しました牧師のように、私どもは「僕は主人にまさりはしない」とのみ言葉をもっともっと真剣に受け止めなければならないと思います。

 私どもは、自分の罪には触れないでいたい。目を反らしていたのです。しかし、自分の救いを真剣に求めるのなら、それが一番の間違えであることを、心に刻んでおきましょう。祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主である、主イエス・キリスト、その父なる神よ。どうぞ、私どもの中から、あなたを、御子を憎む心を取り除いて下さい。そして、「僕は主人にまさりはしない」とのみ言葉を心に刻ませてください。私どもが罪を犯す種を取り除いて下さい。御子に倣い、御子に従う者とさせて下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

1月31日 説教 - Unknown Artist
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