2015年9月6日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

使徒言行録 第2章37節~39節

 

 37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 

「 神に帰るバプテスマ ~ 教会とは何か ⑤ 」

                              

 今日も、皆さんとご一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝致しております。本日も、皆さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めます。ペトロの手紙 一 第1章2節の言葉です。「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」

 

 「教会とは何か」をテーマにした説教を続けています。毎回いろいろな角度から、教会とは何なのかを、ご一緒に明らかにしてまいりたいと思っています。

    ある人は言います。「教会は赦しの場である」。教会は罪赦される所であるということです。またある人は、教会に生きる信仰生活は、「罪の赦しに始まり、罪の赦しを通り、罪の赦しに至る」と言います。救い主、主イエス・キリストの父なる神を信じて生きるということは、いつもそのように赦しの中にあるのです。それが、教会に生きるということです。

    では、今ご紹介しました言葉の最初、「罪の赦しに始まる」とはどういうことでしょうか。どのように始めるのでしょうか。言い換えれば、罪の赦しの出発点はどこにあるのでしょうか。

 

    父なる神を信じて生き始めるということ、信仰に生き始めるということは、教会に生き始めるということです。教会に生きるということは、主の日の礼拝をお捧げして生きることから始まり、教会のメンバーになること、教会員になることです。その具体的なしるしが、信仰告白をして、バプテスマを受けることです。バプテスマを受け、キリスト者となり、教会員となることが、「罪の赦しに始まる」信仰生活を始めることです。

 

    まだ、信仰告白なさっていない方、バプテスマを受けておられない方もこの中にはいらっしゃいます。私ども教会員は、ぜひ、その方々も主イエスをわたしの救い主と信じますと信仰告白していただき、バプテスマを受け、私どもと共に、罪の赦しの恵みの中に生きていただきたいと願っています。週報の真ん中に、いつも祈祷題として、「バプテスマ志願者が与えられますように」とか、「新しい信徒が与えられますように」と掲げているのは、それがいつも私どもの祈りであり、願いだからです。

    

    さて、キリスト教会のバプテスマには、「浸礼(しんれい)」と「灌水(かんすい)礼(れい)」と「滴(てき)礼(れい)」という三種類があります。浸礼とは、私どもの教会が行っているようなバプテスマ式のことを言います。バプテスマを受ける者は、水槽の中に全身を水に浸(ひた)すのです。そもそもは、川で行われていました。イタリアの歴史のある教会に行きますと、バプテスマ式を行うための専用の建物、洗礼堂もあります。そして次は、「灌水(かんすい)礼(れい)」と呼ばれるもので、滴「灌水」の「灌」とは、さんずいに、草冠を書く、「灌(そそ)ぐ」という漢字です。バプテスマを受ける人の頭に水を灌(そそ)ぐのです。ポットのような器から水を頭に灌(そそ)ぐのです。現在、欧米の教会で広く行われているそうですが、日本のプロテスタント教会では少ないようです。そして、三つ目が「滴礼」です。「滴礼」の「滴」とは、一滴、二滴と言う時の「滴」と言う漢字です。バプテスマを授ける者が指先を水の中に入れ、指先についた水を、バプテスマを受ける人の頭につけるのです。滴礼の場合、水がつくのは頭の一部ですが、それは、浸礼と同じように、全身が水に浸ることを意味するそうです。

 

 これらのバプテスマはキリスト教会が始めたものではありません。古今東西、これに似た儀式は多くあります。そして、キリスト教会が行っているバプテスマはユダヤ教のそれに由来します。ユダヤ人ではない異邦人が、ユダヤ教に改宗する際には、まず、バプテスマを受けなければなりませんでした。それを、主イエスと同時代に伝道していたバプテスマのヨハネが、ユダヤ人も、異邦人と同じように、悔い改めてバプテスマを受けるように求め、多くの人がそれに従ったのです。主イエスは神の御子ですが、このバプテスマのヨハネから、バプテスマを受けられました。

 

 さて、本日の聖書箇所は、聖霊降臨日に聖霊が降ったのち、ペトロが人々を前に説教し終えた時のことが述べられています。人々はペトロの説教を聞いて大いに心を打たれたのです。そこで、人々はペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねたのです。主なる神のどうお応えしたら良いかと聞いたのです。すると、ペトロが人々にこう答えたのです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。

 

 ここで言われていますように、罪の赦しに生きる上で、まず大事なことは、「悔い改める」ことです。自分が父なる神の前に罪を犯したことを明確に認めるのです。その上で、神にお詫(わ)びするのです。それは、同時に、神に向き直ることです。神に立ち帰ることです。本来あるべき所に帰って行くのです。そうして、次に、主イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けるのです。バプテスマを受けることで、神のもとに帰って来たことが、神ご自身が認めてくださるのです。それによって罪赦されるのです。これが主イエスの拓(ひら)いてくださった救いの道です。そうすれば、神の霊、聖霊を受けるのです。

 

 これが、罪の赦しの約束、救いの約束です。しかも、この約束は、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも与えられているものなのです。この救いに誰も除外されていないのです。感謝です。

 

 このように、バプテスマを受けることは、教会に与えられている罪の赦しの約束、救いの約束に与(あずか)ることです。その分け前を頂くことです。それゆえ、バプテスマを受けるということは、その人だけの出来事ではなく、教会の出来事なのです。そして、教会は信仰の仲間、同労者を得るのです。それは、神の家族のメンバーが一人増えることで、教会にとって、何よりの喜びです。実際、バプテスマ式を行う時、教会は大きな喜びに包まれます。教会に与えられている、罪の赦しの約束、救いの約束を分かち合う仲間が新たに与えられるのですから、本人はもちろん、教会にとってもこの上ない喜びなのです。譬(たと)えれば、結婚によって、家族が増えるような、赤ちゃんが生まれて、家族が増えるような喜びです。神の家族がまた一人増えるのですから。

 

 「教会の外に救いはない」という言葉があります。これは、神は教会の外でははたらかれないということではありません。神のおはたらきを制限する言葉ではありません。既に申していますように、罪の赦しの約束、救いの約束が教会に与えられているということです。そのしるしとして、信仰告白した方に、バプテスマを授ける権威を教会は委ねられているのです。「教会の外に救いはない」とは、そういう意味なのです。

 

 さて、コロサイの信徒への手紙 第2章12節では、こう言われています。「洗礼(バプテスマ)によって、キリストと共に葬(ほうむ)られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」そうなのです。キリストは十字架で死んでくださいました。そして、葬られました。バプテスマを受けるということは、そのキリストと一緒に、罪の自分も死ぬのです。そして、キリストと一緒に葬られるのです。ただし、それで終わりではありません。キリストが復活されたように、バプテスマによって一度死んだ私どもは、そのバプテスマによって、新しく生まれ変わるのです。それゆえ、バプテスマ記念日のことを、新しく生まれる、新生日とも言います。

 

 そのように、バプテスマは水によって清められるだけでなく、水に沈んで、罪の自分が死んで、新しく罪赦された自分として生まれ変わるという意味もあるのです。浸礼のバプテスマ式はそのことも象徴的に表しているのです。

 

 さらに、バプテスマを受けることによって、私どもはキリストの弟子になり、キリストのものとなります。キリストのものとなることは、キリストに自由を奪われると思われる方があるかもしれません。しかし、それは違います。しばしば、引用しますように、ハイデルベルク信仰問答の第一の問いはこうです。「生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」そういう問いです。その答えは、長いのですが、要約しますと、私ども自身は、自分のものではなく、主イエス・キリストのものであるということです。私どもが主イエス・キリストのものであることが、どんな時も、生きる時も、死ぬ時も、唯一の確かな慰めだと言うのです。申すまでもなく、誰でも自分のものを大切にします。ある実験によりますと、同じものでも、一度自分のものになってしまうとそうでない時よりも、その人にとって、そのものは価値が高まるそうです。そのために、なかなか自分の持ち物の整理が出来ないのですが、・・・・。主イエスにおいては、さらにそれが強いのです。バプテスマを受け、神の下(もと)に帰って来た人、主イエスの弟子となり、主イエスのものとなった人を、父なる神と御子主イエスはとても大事にしてくださるのです。もう神から失われることはないのです。主イエスの譬えにありますように、99匹を置いてでも探しに行って下さるほどに、大切な、貴い存在として頂けるのです。信仰において、これにまさる確かな慰めはありません。この慰めは、誰でも頂けるのです。信仰告白して、バプテスマを受け、キリストのものとなった者に漏(も)れなく与えられる慰めであり、恵みなのです。

 

 そして、信仰告白して、バプテスマを受けた者は、「聖徒の交わり」に入れられるのです。教会の交わりに入れられるのです。罪赦された者、救いに与った者の交わりです。信仰に生きることは、時として厳しいことがあります。しかし、それを上回って、信仰の仲間に祈っていてもらえる、励ましてもらえるのです。キリスト者は決して孤独ではありません。父なる神と御子主イエスがお守りくださり、そして、信仰の兄弟姉妹、神の家族がいるからです。今申しましたように、神の家族の皆から祈っていてもらえるのです。キリスト者の大切な務めは祈ることです。神のみ栄えのために、そして、神の家族をはじめ、他の方々のために祈ることです。ということは、バプテスマを受け、キリスト者となることは、同じキリスト者の方たちから、まず祈ってもらえるということでもあります。それが、「聖徒の交わり」に入れていただけることの大きな特権です。私どもも、皆、その特権をいただけるのです。

 まだ、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰を告白なさっておられない方、バプテスマを受けておられない方も、ぜひ、罪の赦しと、救いのバプテスマを受けて、ご一緒に主イエスのものとしていただきましょう。そして、共に「聖徒の交わり」に入れていただきましょう。お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。私どもに罪の赦しのバプテスマを、救いのバプテスマを与えて下さり、ありがとうございます。どうぞ、あなたの前に悔い改め、あなたに立ち帰って、バプテスマの恵みに与る者とさせてください。そして、既にその恵みに与っている者は、罪の赦しの恵みと救いの恵みを、さらに強く感じさせていただき、救いの完成に向かわせていただくことが出来ますようお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

2015年9月20日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第14章1節~14節

 

 1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

「主イエスは道であり、真理であり、命である。Ⅱ」

 

 本日も、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。ヨハネの手紙 一 第5章14節の言葉です。「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」。

 

 ご一緒にヨハネによる福音書の言葉を聴いています。前回より、第14章に入りました。本日の朗読も前回同様14節まで朗読して頂きました。途中で区切ることが出来ないからです。

 

前の第13章では、主イエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれたことが、まず告げられていました。その主イエスは弟子たちの足を洗われ、互いに仕え合うように勧められるのです。そして、弟子たちの中に主イエスを裏切る者がいることを予告され、ペトロが三度も主イエスのことを知らないと言うだろうとも予告されるのでした。さらには、主イエスと弟子たちの別れが近い事も述べられるのです。そのような事から、弟子たちは、不安を隠せないでいました。

 

 そのような弟子たちに主イエスはおっしゃいました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。さらには、こうおっしゃったのです。2、3節です。「2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。前回はここまでのみ言葉を味わいました。

 

 そこで、本日は、それに続く主イエスの言葉、それに対するトマスの言葉、さらにそれに応える主イエスの言葉を聞いてまいります。すなわち、4節から6節までの言葉です。こういう言葉です。「(主イエスがおっしゃいます。) 4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。

 

 前回ご一緒に聞きました3節までの言葉に加えて、主イエスは、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」とおっしゃったのです。しかし、トマスはこの主イエスの言葉に戸惑います。私たちの師であり、メシア・救い主である主イエスがこれからどこへ行かれるか、私たちは知っていると主イエスご自身がおっしゃった。今、主である父のところに行かれるとおっしゃったが、そんなこと初耳だ。驚いた。だから、主イエスがどこに行かれるか、その道をあなたがたは知っているなどと言われても、私たちには何も分からない。主イエスはもうすぐどこかへ行かれてしまうようだけれど、それも突然のことで、何がなんだか分からない。ましてや、主イエスが行かれるところや、その道なんて言ったら、私たちの思いも及ばない。そのように思ったのではないでしょうか。

 

そして、トマスは主イエスにお聞きするのです。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」トマスの率直な言葉です。ただ、しばしば、このトマスの問いは愚かな問いだと言われます。トマスは主イエスのおっしゃることが、少しも分かっていない。だから、こんな愚かな質問をしたのだ。そのように、しばしば言われます。皆さんもそうお思いでしょうか。確かに、そのようにも聞こえないことはありません。福音書を読むと、弟子たちが主イエスのことをあまりにも分かっていなかったことが、率直に語られていることに気付きます。どうして、弟子たちはこんなにも物分かりが悪かったのだろうか。そう思ってしまいます。では、本当にそうなのでしょうか。

私どもが福音書の言葉を聞く時、多くの場合、既に、主イエスの十字架のこと、復活のことを知って、福音書を読んでいます。その意味での主イエスはメシア、救い主と知って読んでいます。キリスト教会が伝えてきた大切な教えてを知った上で聖書の言葉を聞いています。それは間違っていません。正しいことです。聖書はともすると、間違った読み方をしてしまうことがあるからです。ただし、それは、推理小説で、先に犯人を知って読むようなものです。その意味で、弟子たちは誰が犯人かを探りながら、読み進んでいる読者のようなものです。犯人を知っている人からすれば、何で気付かないのかなと思ってしまいます。

 

ですから、トマスの質問を私どもは決して愚かな質問などとは言えないのです。もし、私どもがトマスの立場だったら、トマスと同じように思っていたでしょう。そう考えると私どもは、はっきり主イエスに「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と聞いてくれたトマスに感謝したいと思います。なぜなら、私どもはしばしば分かっていないことを恥ずかしいからと、聞こうとしないことがあるからです。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」と言われていることを知っていても、勇気がなくて、聞きそびれてしまうことがあるからです。その意味で、率直に主イエスに聞いてくれたトマスに感謝したいと思います。それによって、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。との本日私どもが聞いている言葉をいただくことが出来たのですから。

 

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。この言葉でまず注目したいことは、「わたしは、何々である。」という言い方です。出エジプト記の第3章13、14節で、こう言われています。このあとイスラエルの民をエジプトから導き出す指導者となるモーセに主なる神が現れてくださった時のことです。

   

 13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 

 モーセが主なる神のお名前をお聞きしたのです。すると、神は、「わたしはある。あたしはあるという者だ」とお応えになったのです。そして、イスラエルの人たちに「わたしはある」という方から、あなたは遣わされたと言いなさいとおっしゃったのです。この言葉が、今、私どもが聞いています。「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言う言葉の基礎にあるのです。すなわち、主イエスはこのように、「わたしは何々である」とおっしゃることで、ご自分が神の御子であることを、神と等しい方であることを表してくださっているのです。このことをまず知っておくことが、本日の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」との言葉を聞く上で、大切なことです。

 

 私どもの信仰において、神と人をはっきり区別することは大切なことです。人はどんなに優れていても、神の足元にも及ばないのです。そもそも、人は神に造られたものです。造られたものが、造った方の上になることは決してないのです。そして、神は私どもの思いを越えて、御業を行われる方です。私どもはそれに逆らうことは出来ないのです。そのように、神と人との違いをはっきりと弁(わきま)えること、それは信仰の基礎の基礎です。ここでも、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とおっしゃった主イエスが神の御子、神と等しい方であること、私どもとは別格の方であることを弁えておかなければなりません。

 

 では、主イエスが道であるとはどういうことでしょうか。「道」という言葉を聞いて皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る」という言葉を思い浮かべる方があると思います。誰かの真似をするのではなく、誰かが開いてくれた道を歩くのでもなく、自分で道を開いて行くこと。未知のこと、まだ体験したことのないことに、果敢に向かっていくようにと、背中を押してくれる言葉です。パイオニア精神の溢れた素晴らしい言葉だと思います。ただし、信仰においては、既に主イエスという道があるのです。ですから、自分勝手に道を作ってはならないのです。

 

 また、道という言葉から、柔道、剣道、という武術の道を思われる方もあるかもしれません。そもそも、柔術、剣術と言っていたものが単なる武術を越えて道を究めるものとして、柔道、剣道という言葉になった、と言う人もいます。それと同じように、ヨハネによる福音書に影響を与えた、信仰集団であるクムラン共同体では、自分たちのことを「道」と呼び、共同体に入る者は、「道を選んだ者」、信仰を捨てた背教者は、「道をはずれた者」と呼んだそうです。

 

  「わたしは道である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」主イエスはそうおっしゃって、父なる神のもとに行きたければ、わたしという道をと通らなければならとおっしゃいました。主イエスが神のもとへ行く唯一の道だということです。他に道はないのです。

 

 では、神のもとに行くことはどういうことでしょうか。それは、永遠に神のもとに置かれるということ、これからはもう神から離れることのないということです。キリスト者にとって、これに優る祝福があるでしょうか。真剣に神を求めている人は、このことを求めているのです。それはまた、救いを頂けるということでもあります。神に背き、逆らってきた罪をことごとく償っていただき、赦していただき、救いに与ることです。そこに至る道、唯一の道が主イエスだということです。

 

 私は他の信仰、他の教えを決して否定しません。他の信仰をお持ちの方も熱心に信じ、従っています。その姿には敬服します。しかし、他の信仰の求めているものは違います。他の信仰によって得られるものは、キリスト教会が与えるものとは違います。それに対して、私どもが求めているのは、そして、キリスト教会が与えてくれるものは、主イエスの父なる神のもとへ行くことです。そのために、罪の赦しをいただいて、救われることです。そして、そのための道、唯一の道が、主イエスご自身だと、主イエスはここで教えてくださっているのです。

 

 道そのものである主イエスを受け入れるということは、主イエスの言葉だけでなく、御業、すべてを受け入れることです。主イエスのみ言葉に従い、御業によって頂く恵みを拒むことなく、心より感謝して受けることです。その意味で、聖書の言葉を聞くこと、賛美をすること、献金をお捧げすること、奉仕をすることは、神に至る道である主イエスから外れないため、離れないためでもあります。主イエスという道をしっかりと歩いていくためでもあるのです。

 

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」この言葉を胸に刻み、ご一緒に父なる神のもとにまいりましょう。

 

ところで、主イエスが真理であるとはどういうことでしょうか。一つには嘘がないということです。20世紀の独裁者たちや日本の軍部は、人々を熱狂させました。言葉巧みに、人々を破滅に導きました。不都合な事実はひた隠しにし、真実、真理は伝えないようにしました。それによって、益々破滅に突き進んで行きました。また、営利ばかり求める企業は、粉飾決算をひた隠しにしました。事実、真理は隠ぺいしました。そのために、嘘に嘘を重ね、どうしようもなくなってしまいました。私ども自身も、そうです。自分のあるがままを受け入れられず、事実、真理に向き合うことを恐れていると、嘘や弁解の山を築いてしまいます。

 

 それに対して、主イエスは、そして、父なる神は嘘がないのです。真理そのものなのです。神の言葉、聖書の言葉は鋭い真理を突いています。そして、必ず成就する言葉です。

 

 そして、主イエスはご自分が真理であるとおっしゃったことには、さらなる深い意味があります。ところで、神は愛である(ヨハネの手紙 一 第4章8、16節)と言われます。愛にこそ、神の真のお姿があるからです。そこから、神の真理とは、そして神の真理のお姿とは、愛と言えるでしょう。そして、その神の愛を最もはっきり表しているのが主イエスです。なぜなら、御自ら十字架にかかって、私どもの罪を一身にになって、償ってくださったからです。それは、主イエスが父なる神と共に、私どもを愛し抜いて下さっているからに他なりません。その意味で、主イエスは神の真理そのものなのです。主イエスこそ神の真理であり、私どもにとって最も大切な真理なのです。

 

 さらに、主イエスは、「わたしは、命である。」とおっしゃいました。命、それは私どもにとって最も大切なものの一つです。昨日のニュースの中に、政界で活躍した政治家が亡くなったこと、そして、三十代前半の女性アナウンサーが癌で亡くなったことが報道されていました。いつかは尽きる命です。それだけに、誰にとっても、大切な命です。

 

 では、主イエスが命、私どもの命とはそういうことでしょうか。私どもは、信仰を持たなくても、主イエスを救い主と信じなくても、地上の命を生きていくことは出来ます。しかし、いつまでも、父なる神と共にいることが出来るとの約束をいただける永遠の命は、主イエスを救い主と信じて信仰に生きることによってしか得ることの出来ない命です。

さて、私どもにとって、未来は夢に満ちているでしょうか。確かにそう思っている方も多いでしょう。しかし、脅(おど)すわけではありませんが、実は、未来は、将来は、そして、一瞬先は分からなことばかりです。ただ確かなことは、真の命である主イエスに従って、永遠の命に生きることだけです。父なる神と御子主イエスがいつまでも共にいてくださることを信じて、永遠の命に生きることだけが、私どもをどんな時でも、慰め、力づけてくれるのです。それが命である主イエスを受け入れること、私どもの命である主イエスに従うことです。主イエスこそ、私どもの真の命なのです。この命を感謝し、この命を精一杯生きてまいりましょう。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。このみ言葉を心に刻み、ご一緒に主イエスに従ってまいりましょう。

 

私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御子が私どもの道であり、私どもの真理であり、私どもに命であることを感謝致します。主イエスという道を通って、あなたの元へ行かせてください。そして、わたしどもを救ってください。いつまでも、道である主イエスから逸(そ)れることなく、信仰の道を歩ませてください。そして、あなたの真理に生き、あなたの命に生きさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

2015年9月27日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第14章1節~14節

 

 1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

 

 

「神を知る恵み」

 

 本日も、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。ヨハネの手紙 二 3節の言葉です。「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります」。

 ご一緒にヨハネによる福音書の言葉を聴いています。前々回より、第14章に入りました。本日の朗読も前回、前々回同様、1節から14節まで朗読しました。途中で区切ることが出来ないと思ったからです。

 

 前回は、6節の主イエスの言葉に集中して聞いてまいりました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とのみ言葉を聞きました。ただし、主イエスの言葉はそこで終わっていませんでした。主イエスはその言葉に続けて、こうおっしゃったのです。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。そうおっしゃったのです。父なる神への道であり、真理であり、命である主イエスを知ることによって、今から、あなたがたは父なる神を知る。いや、わたしを知ることによって、既にあなたがたは父なる神を見ているのだ。主イエスはそうおっしゃったのです。

 

 しかし、この主イエスの言葉に弟子たちは納得しなかったのです。「既に父を見ている」すなわち、「あなたがたは既に神を見ている」と言われても、弟子たちにはその実感がまだなかったのです。そこで、十二弟子の一人、フィリポが訊(き)きます。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」。率直なお願いです。しかし、このフィリポの言葉に、先のトマスの言葉同様、「愚かな願いだ」と言う人がいます。確かに、主イエスは「既に父を見ている」と言われているのですから、そのことにすぐに納得しないまでも、その言葉をしっかりと受け止めるべきだったとも言えるでしょう。ですから、いきなり「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」と主イエスに申し上げることは、愚かなことと思われます。しかし、それは、後の世を生きる私どもだから、そう思うのではないでしょうか。キリスト教会が、はっきり主イエス・キリストは神の御子、救い主であると伝えているのを聞いている私どもだから、そう思うのではないでしょうか。主イエスがこのあとおっしゃるように十二弟子たちは長い間主イエスと一緒にいたのです。しかし、神の御子がこの世に来てくださったというのは、人間の歴史始まって以来の出来事であり、弟子たちはまだまだそのことを充分に理解していなかったのです。歴史的な出来事は後の世から見れば、当然、そうなったのだと言えます。しかし、歴史の出来事の渦中(かちゅう)にある人たちには、これからどうなるのか全く分からないというのが実感だったと思います。それと同じように、主イエスが地上にいらっしゃった時、主イエスのことを、そして、主イエスがおっしゃったことを、完全に理解することは、かなり難しかったのではないでしょうか。

「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」と主イエスがおっしゃっています。もし、私どもも十二弟子たちと一緒にいたら、同じように主イエスから言われていたかもしれません。しかし、主イエスはそんな弟子たちや私どもに呆(あき)れ果て、「もうお前たちはかまっていられない。」などとは、おっしゃいませんでした。

 

 主イエスはおっしゃいます。10節の言葉です。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」

 

 主イエスが父なる神の内におられる。しかも、父なる神が主イエスの内におられると、主イエスはおっしゃるのです。これは、主イエスと父なる神がいつも一致されているということです。それゆえ、主イエスがおっしゃることは、父なる神が主イエスにそのよう言わせているのであり、主イエス行っていることも、神がそのようにさせているのだということです。父なる神と御子主イエスは一心同体なのです。それゆえ、父なる神を知りたいのなら、主イエスを知ればよいのです。父なる神を見たければ、主イエスを見ればよいのです。

主イエスはさらにおっしゃいます。11節です。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」。そうおっしゃいました。わたしが言うことを信じなさいと、主イエスを神の御子、救い主と信じる信仰に招いてくださっているのです。しかし、それが無理なら、主イエスが行われる業そのものによって信じなさいとおっしゃるのです。

 

主イエスの行われる業とは、主イエスのなさること全てでしょう。主イエスが行われる奇跡、癒し、弱い人たちを愛し励まされること、そして、時には厳しく教えられること、それらから、主イエスが誰よりも父なる神を表していることを知るように、主イエスの中に父なる神を見るようにとおっしゃっているのです。

ここで、主イエスがおっしゃっていること、主イエスによってこそ神をしることが出来るということは、「わたしは道である」とおっしゃって、主イエスこそが、神に至る唯一の道であることと一致しています。そして、前にも申しましたように、キリスト教会という呼び名はまさに私どもの信仰の在(あ)り様(よう)を的確に表しています。私どもは、主イエス・キリストを受け入れることによって、神を信じているのです。主イエスこそ、神を求める者の進むべき唯一の道だからです。主イエスを見ること、主イエスを知ることによって、初めて、父なる神を見、父なる神を知ることが出来るからです。キリスト教会の受け継いできた神への信仰は、まさに、この主イエス。キリストに集中することによって、頂くことが出来るのです。

本日、説教の題を「神を知る恵み」と致しました。私どもは毎週捧げている主の日の礼拝によって、神を知る恵みを頂いています。聖書の言葉、そして、聖書を説く説教の言葉によって、神を知ります。それによって、神を畏れ、神をほめたたえます。神に賛美と祈りをお捧げています。また、神を知ることによって、神に慰められ、神に励ましをいただいています。礼拝はまさにその神と出会う時であり、神を知る時、神を見る時です。

礼拝は、第一義的には、私どもの造り主である神をほめたたえることです。私どもの救い主である主イエスをほめたたえることです。その意味で、主役は神であり、御子主イエスです。ですから、礼拝は、私どもが満ち足りることよりも先に、神に満ち足りていただくためのものであるべきです。私どもは、そこで一歩退かなければなりません。しかし、父なる神は素晴らしいことに、神ご自身が満ち足りるのと同じように、いや、それ以上に私どもが満ち足りるようにと、神は礼拝を備えてくださっているのです。そうです。私どもは、憐れみと慰めに満ちた父なる神を知るという恵みを、礼拝ごとにいただいているのです。私ども一人一人は惨めな存在です。その姿を直視すれば、いつまでも利己的で、目先のことばかり求め、神のことなど、隣人のことなど、これっぽっちも思わない、勝手な奴です。まさに罪深い者どもです。しかし、神はそのような私どもを、罪に汚れた私どもを、主の日の礼拝にお招きくださり、「神を知る恵み」を与えてくださっているのです。そして、私どもがどんなに心を込めて礼拝を捧げたとしても、その時、神はご自分が受けるものよりも、遥かに大きな、遥かに多くの恵みを私どもに与えてくださっているのです。

本日の箇所で、主イエスはこの「神を知る恵み」は、主イエスご自身を知ること、主イエスご自身を信じることによって頂けるのだと教えてくださっているのです。まさに、「神を知る恵み」に至る道は、主イエスご自身なのです。

このことは、神ご自身のことを的確に表しています。なぜなら、主イエスこそ、十字架におかかりくださり、私どもの罪の一切を償ってくださった主イエスこそ、そして復活してくださったその主イエスこそ、父なる神の真理だからです。十字架の主イエスこそ、そして、甦りの主イエスこそ、神の深い愛と神の権威を表しています。それゆえ、主イエスを知ること、主イエスを見ることが、何よりも、愛の神を知ること、見ることになるのです。そして、死にさえも勝利される権威をお持ちの神を知ること、見ることになるのです。

先ほども申しましたように、キリストに集中することで、私どもの心をひたすら主イエスに向けることで、私どもは「神を知る恵み」を存分に頂くことが出来るのです。

そして、主イエスはさらにおっしゃいます。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」。主イエスを救い主と信じ、主イエスに従う者は、主イエスが行ってくださった愛の業、平和を作り出す業を受け継ぐのです。そして、主イエスを信じる者は、主イエスが地上で行われた愛と平和の業よりも大きな業を行うようになると、主イエスはおっしゃるのです。本当にそうなのでしょうか。信じ難い思いがします。しかし、そうなのです。主イエスは、「わたしが父のもとへ行くからである」とおっしゃいました。それは、主イエスが神の右の座について、神の業を行ってくださるということです。それゆえ、主イエスを信じる者たちは、「もっと大きな業を行うようになる」のです。私どもの肉眼の目には見えなくても、私ども主イエスを信じる者たちの業を、神の右の座から、主イエスが導き、推し進めてくださるからです。

さらに主イエスは13節、14節で、こうおっしゃいます。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」驚くべきことを主イエスはここでおっしゃいました。ただし、私は、この言葉をこの文脈から取り出して聞くべきではないと思います。この直前で、主イエスは主イエスを信じる者の業についてお話しされています。そこから、ここでの言葉は、「主イエスを信じる者が、わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とおっしゃったのだと私が思います。主イエスを信じる者とは、何よりも、父なる神と御子主イエスのことを思い、愛し、従う者です。自分勝手なことを願う者であってはなりません。ですから、あなたが、主イエスを信じ、神の御心に沿って願うことは、何でも叶えてあげようとおっしゃったのでしょう。そして、主イエスがそれを実現して下さることによって、父なるご自身が栄光を受けられるのです。すべては、神の御心の実現と、神の栄光が表されるためなのです。そして、それが結果的に私どもの幸福につながるのです。栄光をお受けになる神はいつも私どもと共にいて下さる神だからです。

私どもは、礼拝によって、神を知る恵みを頂いています。もし、私どもが神を知らなければ、それは、暗闇を手探りで歩くようなものです。私どもは神を知ることによって、真理を照らす光を頂きます。この世界を神の御心から見る手がかりを頂けます。それはこの世界における私どもの規準を頂くことでもあります。もし、神を知らなければ、何が正しく何が間違っているかを、自分の貧しい知恵と知識に頼らざるを得なかったでしょう。しかし、私どもは、父なる神を知ることによって、確かな規準を頂いたのです。これによって、私どもは、どのように生き、どのように進んで行ったらよいかを知ることが出来るのです。そして、既に申しましたように、私どもは、神を知ることによって、愛と憐れみに満ちた神が、いつも私どものそばにいてくださり、私どもを慰め、励ましてくださることを知るのです。その神を知る恵みは、何よりも主イエスを知ることによって頂けます。主イエスこそ、神に至る唯一の道だからです。

これからも、私どもの心を、目を、ひたすら主イエスに向けてまいりましょう。これからも、共に礼拝をお捧げすることによって、主イエスから頂く神の恵みをご一緒に享受してまいりましょう。祈りを捧げます。

 

私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御子が私どもの道であることを感謝致します。主イエスという道を通って、あなたのもとへ行かせてください。そして、もっと主イエスのことを教えてください。それによって、憐れみと愛に満ちたあなたのこともっと知り、あなたのことをほめたたえていくことが出来ますよう、私どもをお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

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