2015年8月9日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝 (本日の音声はありません)

 

ヨハネによる福音書 第13章36節~38節

 

 36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」38 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

「キリストはお一人で十字架を負わなければならなかった。」

 

 本日も、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。テトスへの手紙 第3章15節です。「恵みがあなたがた一同と共にあるように。」

 

 本日8月9日は、長崎原爆の日です。70年前、長崎に原子爆弾が投下されました。原子爆弾のもたらした被害は悲惨で、甚大でした。8月6日の広島原爆の日と共に、人類が残した負の遺産として、二度と繰り返してはならないこととして、私どもの記憶に留めておかなければならないと思います。

 

 私どもはヨハネによる福音書の言葉をご一緒に聞き続けています。前回ご一緒に聞いた箇所の中に、主イエスのこういう言葉がありました。本日の聖書箇所の直前、第13章33節です。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」この中の、「あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』と、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」との言葉に、ペトロは引っかかってしまいました。ペトロはたぶんこう思ったのでしょう。主イエスに弟子として召されてからずっと主イエスのお側で仕えて来た。主イエスがどこかへ行かれる時も、いつも一番近くにいてついて来た。それなのに、主イエスは今、「あなたがたはわたしを捜すだろう。わたしが行く所にあなたたちは来ることができない。」とおっしゃる。一体、主イエスはどこへ行かれるというのか。私たちがついて行くことが出来ない所とは一体どこなんだろう。ペトロはそう思ったのでしょう。そこで、本日の聖書箇所の冒頭の言葉となるのです。「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』」ペトロは不安だったのでしょう。ここまでずっと主イエスについて来たのに、主イエスがわたしから離れて行かれる。わたしは一体どうしたらよいのか。そのような不安を抱きながら、主イエスに尋ねたのです。主イエスがその問いに答えられます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後(あと)でついて来ることになる。」不思議な言葉です。今はついて来ることが出来ない。でも、後(あと)でついて来ることになる。これは、一体どういうことなのでしょう。

 

 すると、ペトロは主イエスのこの言葉に反論します。ペトロは、主イエスに、あなたは後でついて来ることになると言われたことに腹を立てているのです。ペトロは「あとで」と言われても、待っていられないのです。せっかちなのです。血気盛んなのです。こう言うのです。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」決死の覚悟で、たとえ死ぬことになっても、主イエスについて行きます」と言い切るのです。しかし、主イエスはこう答えられます。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」そう、おっしゃるのです。

 

 ペトロは「あなたのためなら命を捨てます。」と言ったばかりです。ペトロは本気でそう言ったでしょう。嘘(うそ)はなかったでしょう。しかし、主イエスは、ペトロが主イエスのことを三度も知らないと言うだろうとおっしゃるのです。そして、実際そうなるのです。

 

 本日はまず、なぜ、誰も主イエスについて行くことが出来なかったのか、を探ってみましょう。ユダヤ人だけでなく、弟子たちも、いつも弟子たちの代表のようであったペトロでさえもついて行くことが出来ないのです。このあと、主イエスは捕えられ、不当な裁判にかけられ、十字架で処刑されます。ですから、主イエスはこの時まさに十字架に向かわれているのです。そこから、誰もついていくことが出来ないのは、主イエスの十字架のことだと分かります。

 

 では、主イエスの十字架には、どういう意味があるのでしょうか。一面から見れば、主イエスは、祭司長や律法学者やファリサイ派の人々、主イエスを憎(にく)んでいた人々の悪巧みによって、捕えられ、不当な裁判にかけられ、不当な判決が下され、十字架刑に処せられたのです。表面的に見ればそうです。そして、同時に、主イエスの十字架は、神の私どものための救いでもあったのです。私どもが主なる神に対して犯した罪を、神の御子主イエスがお一人で償ってくださるというものでした。本来、自分が神に対して犯した罪のために、私どもは罰せられなければなりませんでした。自分の罪は自分で償わなければなりませんでした。しかし、私どもの神に対する罪は大きく重く、それを償うということは、私どもが滅んでしまうということでした。そこで、憐れみ深い父なる神と御子主イエスは、私どもを滅びから救う計画を立ててくださったのです。それが、御子主イエスが人として生まれ、人となり、私どもに代わって、すべての罪を償うということ、十字架にかかるということでした。それは、誰か他の人が出来るものではありませんでした。なぜなら、父なる神と主イエス以外の者は皆、自分では償い切れない罪を抱えているからでした。ですから、私どもが主イエスに代わって、誰かの罪を償おうとしても、自分の罪を償うだけで精一杯、いや、自分で自分の罪を全部償うこともままならないのです。それほどまでに、わたくしどもの罪は大きく重いのです。

 

 一方、主イエス・キリストは神の御子、罪のかけらもない方なのです。その方が十字架にかかってくださることによって、初めて、他の人の罪を償うことが出来たのです。そのようにして、主イエスは私どもみんなの罪を、お一人で償って下さったのです。ですから、主イエスがお一人で負ってくださった私どもすべての罪は非常に重く、それを償うということは、完全に神から見捨てられることを意味したのです。そのため、主イエスは十字架上で息を引き取られる直前、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです(マルコによる福音書 第15章34節)。そのように、いつも側にいてくださった父なる神から、主イエスは見捨てられたのです。しかし、そうしてでも、私どもの罪を償ってあげたいと主イエスは思われ、それを実行してくださったのです。

 

 しかも、ヨハネによる福音書 第14章1節以下で、こう言われています。主イエスご自身の言葉です。「1 心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

 

2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」この言葉は葬儀の時によく読まれる言葉です。ここで主イエスは、父なる神の家、すなわち永遠の命のふるさとに、あなたがた一人一人を迎えるための場所を用意するために父のもとに行くのだと約束してくださっています。これも、主イエス以外の誰かかが代わって出来ることではありません。

 

 このような訳で、主イエス・キリストはお一人で十字架を負わなければ、死ななければならなかったのです。

 

 では、主イエスが、ペトロに「後でついて来ることになる。」とおっしゃったということは、どういうことなのでしょうか。このあと、ペトロは主イエスが予告されたように、主イエスのことを三度も知らないと言ってしまいます。主イエスのために命を捨てますと言ったものの、実際その場になったら、怖かったのでしょう。自分も主イエスのように捕えられ、酷い目に遭うのが怖かったのでしょう。それは、私どもも同じです。私どもも、主から信仰を頂いていると言いつつも、信仰故に迫害を受けることを恐れています。試練に遭った際に、信仰を捨てることなくいけるのか。その場に遭遇してみなければ分かりません。私どもは貴い信仰を頂きつつも、そのような弱さを持ち続けて生きているのです。ペトロも、私どもそういう弱さを持っているのです。

 

 そして、ペトロが主イエスのおっしゃったように、「後でついて来ることになる。」ということは、第21章の、主イエスが復活された後の記事で明らかにされます。この時、ペトロは復活の主イエスにお会いしていながら、ガリラヤに帰ってしまっていました。主イエスの弟子として歩むことを止め、元の漁師に戻っていたのです。そこに主イエスいらっしゃって、奇跡を行われ、思いがけない大漁をもたらしてくださいました。そして、主イエスと弟子たちの岸辺での食事が始まるのです。

 

そして、食事が終わると、主イエスはシモン・ペトロにこう聞かれました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」そう言われたのです。これまででのペトロでしたら、「もちろんですとも、わたしは誰よりもあなたを愛しています」と答えたでしょう。しかし、ペトロは、主イエスのことを知らないと三度も言ってしまいました。そこで、こんな答え方をしたのです。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ペトロは主イエスを愛していることには変わりないのですが、三度も知らないと言ってしまった手前、このように間接的にしか答えられなかったのです。すると、主イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われたのです。それは、主イエスの弟子に復帰して、主イエスを慕う人たちのためのお世話をしなさいということでした。主イエスはそのように、ペトロが弟子として、再び主イエスにお仕えるように促されたのです。そして、二度目に主イエスは言われます。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」するとペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、主イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。これも先ほどと同じ意味で、弟子として復帰し、主イエスに従う人たちを導き、世話をするようにというご命令です。そして、三度目に主イエスは言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが三度主イエスのことを知らないと言ったのを、消し去るように、主イエスは三度続けて尋ねられたのです。ペトロは、主イエスが三度も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなり、そしてもう一度言いました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」そして、主イエスはもう一度「わたしの羊を飼いなさい。」と言われました。

 

そのあとで、ペトロが主イエスの後(あと)をついて来ることになることを具体的におっしゃるのです。主イエスの言葉です。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ヨハネによる福音書はここで丁寧に以下のように説明しています。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」ここで主イエスはペトロが捕えられ、殉教することを預言されたのです。その言葉通り、ペトロはローマで殉教したと伝えられています。

 

そのことを、ポーランドのノーベル賞作家、シェンケヴィッチが「クォ・バディス」という長編小説に書きました。「クォ・バディス」とは、本日の聖書箇所の「主よ、どこに行かれるのですか」のラテン語訳、「クォ・バディス・ドミネ」からとられています。その中に、こんな場面があります。ローマで放火事件があり、その犯人はキリスト者たちだとするネロの迫害が渦巻いていました。その最中(さなか)、ローマの教会の人たちはペトロのことを心配し、ペトロがローマから逃れ、生き延びて、もっと働いてくれるように勧めるのです。ペトロはそれをありがたこととして、アッピア街道を歩いて、ローマを離れるのです。すると、そこで、復活された主イエスに出会うのです。その時、ペトロは本日の聖書箇所のように、「主よ、どこに行かれるのですか」とお聞きするのです。すると、主イエスはこうお答えになるのです。「あなたが捨てて逃れようとしているローマの都にわたしは行く。十字架に再びつけられるために。」それ聞いたペトロは驚いて、それはとんでもないことだとローマに引き返し、パウロと共に殉教の死を遂げるのです。

 

ペトロはローマで逆さ十字架につけられ、処刑されたと伝えられています。このようにして、主イエスのおっしゃった「後でついて来ることになる。」いう言葉が成就したのです。

 

さて、このペトロのように、殉教することだけが、教えに殉じて死ぬことだけが、主イエスのあとについて行くことでしょうか。いいえ、違います。主イエスの言葉一つ一つを大切にして、主イエスのあとについて行くことが、ペトロのように「後でついて来ることになる」ことなのです。主イエスの十字架を私どもは負うことは出来ません。しかし、それぞれに与えられた務め、役目を担って行くこと、主イエスの言葉一つ一つを大切にして従って行くことが私どもに求められているのです。それが、いつまでも、主イエスから離れることなく、主イエスと共にいることでもあるのです。そのように歩んでまいりましょう。お祈りを捧げます。

 

私どものために、十字架にかかり、復活してくださった主なるイエス・キリスト。その父なる神よ。私どもの救いである主イエスの十字架を感謝致します。そして、その救い主なる、主イエスに私どもも従っていけますように。私どももペトロのように躓(つまず)いてしまいます。しかし、主がそれでも私どもを招いてくださっていますから、感謝致します。どうぞ、いつまでも主に従っていけますよう、日々私どもをお導き下さい。主の御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

2015年8月16日  主日礼拝 

(本日は、並木牧師の説教ではないため、テキストおよび音声はありません)

 

 

 

2015年8月23日 主日礼拝 (退修会)

 

【詩編 第22章23、24節】

 

 23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え

集会の中であなたを賛美します。

 24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。

ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。

イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。

 

【マタイによる福音書 第22章15~22節】

 

 15 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠(わな)にかけようかと相談した。16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか、適(かな)っていないでしょうか。」18 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。19 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、20 イエスは、「これは、だれの肖像と銘(めい)か」と言われた。21 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」22 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

 

「主に栄光を帰そう」

 

 本日も、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、皆さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めます。ピレモンへの手紙 3節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

 

本日は第35回退修会です。この礼拝から退修会は始まっています。今年の退修会のテーマも例年のように年度の主題標語です。今年度の標語、そして退修会のテーマは、「主に栄光を帰そう」です。自分の栄光や栄誉を追い求めるのではなく、栄光や栄誉は主なる神にお捧げしようということです。その根拠として、先ほど朗読しました詩編 第22編のみ言葉を与えられました。詩編の詩人が私どもに呼びかけています。「ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ」。ヤコブの子孫とは誰のことでしょうか。ヤコブは、別の名を神から頂いています。その名はイスラエルです。そして、ヤコブの12人の息子がイスラエル12部族それぞれの祖となるのです。そこから、ヤコブの子孫とは、第一義的には、イスラエルの民のことでしょう。しかし、それだけではありません。ヤコブの子孫、イスラエルの民とは、神の民のことです。古くは神の民とは、このイスラエルの民のことでした。しかし、キリスト教会が始まった時から、キリストを救い主と信じるキリスト者たちは、自分たちこそ新しい神の民であると信じるようになったのです。そこから、今ここにいる私どもも皆、ここで言われている「ヤコブの子孫」なのです。その私どもは皆、主なる神に栄光を帰すように、栄光を横取りするのではなく、主なる神にお返ししなさい。そう詩編の詩人は呼びかけているのです。

 

旧約聖書の冒頭には、天地創造の記事があります。そこには、神が六日間で天地万物を創造されたと言われています。それによりますと、そもそも私どもは主なる神によって造られた者です。神がお造りくださらなければ、私どもは影も形もなかったのです。そこから、栄光を自分に留めようとしないこと、すなわち、主なる神に栄光を帰すこと、造り主なる神に栄光をお返しすることは、むしろ当然のことと言えるでしょう。ここにも、「主に栄光を帰す」根拠があります。

 

詩編の詩人のこの呼びかけに応えよう、私どもも共に主に栄光を帰して行こう、というのが今年度の標語であり、本日の退修会のテーマです。

 

ところで、詩編 第22編24節では、「ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。」とだけでなく、その前では、「主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。」と、詩人は勧めています。主なる神をほめたたえよ、主なる神に賛美を捧げよ、と呼びかけているのです。ということは、今、私どもはまさに詩人の呼びかけに応えているということでしょう。主なる神に礼拝をお捧げし、共に主を賛美しているのですから。

 

そして、詩人は、「主に栄光を帰せよ」と、勧めた後で、「イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。」と言っています。ここでは、主を恐れるよう呼びかけられています。こちらは、昨年度の標語であり、昨年度の退修会のテーマであった「主なる神に恐れおののくことを忘れない。」と同じです。これも、信仰において大切なこととして覚えました。

 

このように見てみると、詩編 第22編で、詩人が私どもに呼びかけている、主を賛美すること、主を恐れる(畏れる)ことは、信仰の基本姿勢であることに気付きます。主なる神を信じ従う上で大切なこととして、主を賛美すること、主に畏敬の念を持つことが勧められています。その呼びかけに挟(はさ)まれるように、主に栄光を帰すようにと呼びかけられているのです。そこから、主に栄光を帰すことも、信仰の基本姿勢として、大切なことであるという事が分かります。

 

 それは、自分の栄光を追い求め、主なる神に栄光をお返しすることを忘れてしまったら、いくら自分は信仰熱心だと言ったと言っても、それは違うということです。主なる神に賛美を捧げない信仰者はいないように、主を恐れること、畏敬の念を抱くことのない者は、真の信仰者とは言えません。それと同じように、自分の栄光を追い求め、主なる神に栄光をお返しすることを忘れてしまったら、その人も真の信仰者とは言えないでしょう。

 

 ところで、旧約聖書、歴代誌 上 第29章11、12節では、こう言われています。旧約聖書669ページです。

 

偉大さ、力、光輝(こうき)、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。

 

ここでは、すべてのものは主なる神のものであると言われています。そもそも、万物は主なる神が造られたからです。その中でも、「偉大さ、力、光輝(こうき)、威光、栄光」は、特に主なる神のものであるとはっきり言われています。しかも、「富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。」と、富と栄光は、万物の支配者である主の前にあると言われています。ここでは、栄光は誰か他の者のものではなく、まさしく主のものであると言われています。これは、私どもの信仰において、そして、聖書において、栄光を考える上で、とても重要なこと、決定的なことです。

 

そこで、先ほど二番目に朗読しました新約聖書、マタイによる福音書 第22章の言葉を思い出して頂きたいのです。初めにこう言われていました。「ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠(わな)にかけようかと相談した。」ですから、ここでファリサイ派の人々がしようとしたことは、主イエスを罠(わな)にかけて、主イエスを訴えることだったのです。そこで、こう質問しています。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか、適(かな)っていないでしょうか」。もし、ここで、皇帝に税金を納めることは律法に適(かな)っていない、と主イエスが答えられたら、どうするつもりだったのでしょう。ローマから送られて来ている総督ピラトに、主イエスは皇帝への税金を納めなくてよいと言って、ローマ帝国に反抗していると訴えるでしょう。ファリサイ派の人々は、律法を厳格に守っていこうとしている人たちです。ですから、異邦人であるローマ人がユダヤを支配していることを快く思っていません。しかし、主イエスを罠(わな)にはめるためでしたら、ローマの権威も利用しようというのです。

 

それでは、皇帝に税金を納めることは律法に適(かな)っていると主イエスがお答えしたら、どうなるでしょうか。当時のユダヤ人たちは、いやいやながら、異教徒で、異邦人の国であるローマに税金を納めていたのです。ローマ帝国に抗(あらが)うすべなく、仕方なく税金を納めていたのです。ですから、皇帝に税金を納めることは律法に適(かな)っていると主イエスが答えたら、今度はユダヤ人の反発を買ってしまいます。主イエスの人気は減り、ファリサイ派の人々の願った通りになります。この時点で主イエスは、ファリサイ派の人々の罠(わな)にはまってしまったように思えます。

 

では主イエスは何てお答えになったのでしょう。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」そう主イエスはおっしゃったのです。そこで、彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、主イエスはこう聞かれました。「これは、だれの肖像と銘(めい)か」。当時のローマの貨幣には皇帝の肖像と銘(めい)が刻まれていたのです。ですから、彼らは、「皇帝のものです」と言ったのです。その答えを受けて、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と主イエスはおっしゃいました。このようにして、ファリサイ派の人々の悪巧みを逃れるだけでなく、大切な戒めの一つである「神のものは神に返しなさい」というみ言葉を教えてくださったのです。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」どんなものであっても、持ち主に、所有者に返すべきだ、ということです。ここで私どもが肝に銘(めい)じるべきことは、神のものは神にお返しするということです。神のものをあたかも自分のもののようにしてはならないということです。神のものはきちんと神にお返ししなさいということです。そこで、先ほど引用しました、歴代誌 上 第29章11、12節から、栄光は主のものと言われていることを合わせて考えてみましょう。そこから、栄光は神のものだから、神にお返ししなければならないという事になります。ここにも、「主に栄光を帰す」ことの根拠があります。栄光は父なる神のものだから、それを横取りしてはならない、ちゃんと父な神にお返ししなければならないということです。

 

では、私どもは主に栄光を帰しているでしょうか。そうお聞きすると、そもそも、自分が栄光を受けることなんて無いと、おっしゃる方があるかもしれません。確かに、誰からも称賛されるような、栄光、栄誉を受けることはなかなか無いでしょう。ただ、勤続何年の表彰を受けるとか、地域のために貢献したということで、県や市または町内会から表彰さるということだったら、身近にあると思います。そのような際にも、高慢にならず、自分がしたことを自慢したりしないこと、謙遜でいることが、主に栄光を帰すことの第一歩だと思います。しかし、今申しました例も、人生の中でしばしばあるわけではありません。そうなると、主に栄光を帰す機会はめったになく、それは、私どもの日常生活とはかけ離れたことなのでしょうか。

 

ルカによる福音書 第17章11節以下、新共同訳 新約聖書142ページに、こういう記事があります。

 

11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12 ある村に入ると、重い皮膚病(ひふびょう)を患(わずら)っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14 イエスは重い皮膚病(ひふびょう)を患(わずら)っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

 当時、重い皮膚病(ひふびょう)の患者は、病気が移るかもしれないということで、人々から離れた所で生活しなければなりませんでした。そして、外出する際は、他の人と接触しないために、自分が重い皮膚病(ひふびょう)であることを大声で言いながら歩かなければなりませんでした。病気に苦しみ、差別に苦しみ、とても辛かったと思います。その重い皮膚病(ひふびょう)の患者10人がその病気を主イエスに癒(いや)して頂いたのです。ただし、戻って来て、主イエスに感謝し、神を賛美した者は、異邦人と言われているサマリア人一人しかいなかったのです。他の9人は戻って来なかったのです。たぶん、嬉しさのあまり、主イエスに感謝すること、神を賛美することを忘れてしまったのです。さてこの戻ってきた一人は、少し見方を変えれば、主に栄光をお返ししたということになるでしょう。主イエスが癒してくださったことを感謝し、神を賛美するために主イエスの所に戻って来たことは、主に栄光を帰すことだと私は思います。

 

 私どもはどうでしょうか。喜ばしい出来事を主に感謝しているでしょうか。嬉しさのあまり、ここに登場する9人のように、感謝すること、神を賛美することを忘れていないでしょうか。そして、それは何か特別なことが起きた時だけに限らないと思います。私どもは、日頃から、主に感謝し、主を賛美しているでしょうか。そのようにして、主に栄光を帰しているでしょうか。具体的言えば、日頃から感謝の祈りを捧げ、主を賛美しているかということです。そして、主の日の礼拝をお捧げして、主に感謝をお捧げしているか、主を賛美しているか、ということです。

 

 そう考えてまいりますと、今私どもがお捧げしている主日礼拝を、毎週捧げ続けることこそ、主に栄光をお返しすること、主に栄光を帰すことなのです。礼拝をお捧げすることの意味はいくつもあります。そこから頂く恵みもいろいろあります。本日は、その中で、このように礼拝をお捧げすることこそ、主に栄光を帰すことであることを心に刻みたいと思います。そして、これからも、共に礼拝をお捧げしてまいりましょう。

 

祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。本日もこのように礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝致します。私どもは、普段、自分のことばかり考えてしまい、あなたのことを思うこと少ない者です。どうぞ、そのような私どもをお赦しください。そして、あなたに栄光をお返しする者とさせてください。礼拝を捧げ続け、感謝と賛美を捧げ続ける者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

歩んで行けますよう、お導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 2015年8月23日(日) 第35回 退修会 黙想の手引き

 

 私どもの日本バプテスト厚木教会の「退修会」という呼び名は、マルコによる福音書 第1章35節の「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」との言葉に由来しています。主イエスが人々から離れ、お一人になり、父なる神に祈られたのです。そこからすれば、この黙想の時間、ひたすら祈り続けるというのも一つの方法だと思います。主イエスのように、父なる神との良き交わりの時を持てたら幸いです。同様に、ひたすら賛美するというのも良いでしょう。しかし、教会で行う退修会では、人里離れた所へ行くことは出来ませんし、声を出せば、他の人の黙想を妨げることになりますので、声を出しての賛美はご遠慮ください。ただし、心の中で讃美歌を歌ったり、詩編の言葉をもって賛美することなら良いでしょう。これも父なる神との交わりの時となると思います。 

 

 しかし、しばしば、私どもが祈る時に勧められることは、まず、聖書の言葉をじっくり聴くことです。祈りは神との交信することであって、一方的に、神に訴えることではありません。もし、そうしてしまうと、独り言になったり、単なる呟(つぶや)きになってしまう危険性があります。そのために、まずは、聖書の言葉をじっくり聴くのです。単に読んで終わり、聴いて終わりにしないのです。それが黙想です。

 

黙想では、ゆっくり聖書を読み、聖書の言葉をじっくり聴きます。一度読めば分かったつもりになりますが、3回、4回と何度か読んでいくうちに、それまで気にかけなかった聖書の言葉の一部が、心にひっかかるようになることもあります。そうなったらしめたものです。そこで、立ち止まって、聖書は何を言っているのか、思いを巡らしてみましょう。聖書の前後の言葉も参照し、時には自分の体験も織り混ぜながら、思いを巡らして行くと、さらっと読んだ時には気付かなかった発見があります。もしかしたら、なぜこう言っているのかという問いが湧いてくることもあるでしょう。その問いの答えを求めて、さらに思いを巡らすのも楽しいと思います。その際、問いの答えを求めて、他の人に聞いてみるのもよいでしょうが、自分の中で温めておいて、時々そのことを思い出して、何日とか何年もかけて思いを巡らしていくのも有意義なことだと思います。

 

 このように、黙想はそれぞれの方が自由に神の言葉を聴き、神と交わることの出来る時です。ただ、今回の退修会もテーマが与えられていますので、それに沿って、黙想して頂くことを提案致します。

 

 そこで、いくつか、聖書箇所を紹介いたします。まずは、サムエル記 上 第6章5節です。こう言われています。

 

   はれ物の模型と大地を荒らすねずみの模型を造って、イスラエルの神に栄光を帰すならば、恐らくイスラエルの神は、あなたたち、あなたたちの神々、そしてあなたたちの土地の上にのしかかっているその手を軽くされるだろう。

 

 ここで言われていることを理解するために、サムエル記 上 第5章(旧約聖書 435ページ)から、第6章5節までを朗読していただきましょう。その前に、ここでの状況を少しご説明します。イスラエル軍はペリシテ軍と戦っていました。しかし、イスラエルは打ち負かされていたのです。そこで、十戒が刻まれた石を納めてある神の箱を戦場に運んで来るのです。そうすれば、神が自分たちを敵の手から救ってくださると信じたからでした。しかし、その目論見(もくろみ)は外れます。イスラエル軍はさらに敗れ、神の箱はペリシテ軍に奪われてしまうのです。

 

 では、朗読していただきましょう。

 

他にも黙想のための聖書箇所をご紹介します。先ほどの礼拝では、詩編 第22編23、24節を朗読しましたが、詩編 第22編全体の言葉をじっくり聴いてみるのも良いかと思います。

 

 また、今年4月、定期総会を行った日に、同じテーマで説教致しました。その際、ヨハネによる福音書 第15章1節から8節までの言葉を聴きました。終わりの8節では、こう言われています。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」。ということで、この箇所を黙想してみてもよいでしょう。

 

また、その4月の説教の中で、主に栄光を帰さなかった悪い例として使徒言行録 第12章20節から23節の言葉を聴きました。終わりの23節ではこう言われていました。「するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆(うじ)に食い荒らされて息絶えた」。この箇所をもう一度聴いてみるのもよいでしょう。

 

 それから、ヨシュア記 第7章19節に、こういう言葉があります。「ヨシュアがアカンに、『わたしの子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主をほめたたえ、あなたが何をしたのか包み隠さずわたしに告げなさい』と言うと、・・・」。これは、ヨシュア記 第7章を通してお読み頂けば、状況は分かるでしょう。ただし、ここで神の命じられたことを破り罪を犯したアカンはこの19節のヨシュアの言葉に従って、罪を告白するのですが、アカンの家族全員は、アカンの犯した罪の償いとして、全員撃ち殺されるのです。ここでは、犯した罪を隠さず、告白することが、主に栄光を帰すことなのですが、それによって罪を軽くして頂くことは出来なかったのです。主を栄光を帰すことの意味を考えさせられる箇所の一つです。

最後に、コリントの信徒への手紙 二 第4章15節を紹介します。こう言われています。「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです」。ここで、「あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです」と言われている「これらのこと」とは何でしょうか。まずそれを探ることから、この箇所の黙想を始めてみましょう。

第3章、新約聖書327ページから朗読して頂きます。

 

コリントの信徒への手紙 二 第3章

 

1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

   4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

 

   7 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、8 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。9 人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。10 そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。11 なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。

 

   12 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、13 モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆(おお)いを掛けたようなことはしません。14 しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆(おお)いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。15 このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆(おお)いが掛かっています。16 しかし、主の方に向き直れば、覆(おお)いは取り去られます。17 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。18 わたしたちは皆、顔の覆(おお)いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 

 第4章

    1 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。2 かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。3 わたしたちの福音に覆(おお)いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆(おお)われているのです。4 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 

   7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

 

   以上紹介いたしました聖書箇所で黙想なさってください。他にも関連ある箇所をご自分で探してみるのも楽しいと思います。

 

 

 

2015年8月23日(日) 第35回 退修会 閉会礼拝

 

ヨハネによる福音書 第13章31、32節

 

 31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。

 

 旧約聖書は主にヘブル語で、そして、新約聖書はギリシア語で書かれています。そこで、栄光と訳されるヘブル語を見てみると、本来の意味は「重さ」という意味の言葉です。また、栄光と訳されるギリシア語は、本来、「名声」とか、「輝き」という意味の言葉です。そして、聖書辞典によると、栄光は人や事物の意義を明らかにするものと言われています。

 

 私どもが栄光という言葉から受けるイメージはどうでしょうか。栄光と訳されるギリシア語の本来の意味が名声とか、輝きという意味であるのと近いのではないでしょうか。その意味で言えば、共観福音書、すなわち、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書において、栄光は、主イエスが再び地上に来られる再臨と関連づけて言われています。栄光に輝いた再臨の主イエスが地上に来られるのです。

 

 しかし、今、朗読致しましたように、ヨハネによる福音書における主イエスの栄光とは、十字架と復活における栄光であり、天への帰還、昇天までを含めたものです。その意味で、イスカリオテの裏切りは、決定的に、主イエスの栄光の時の到来を指し示すものです。

 

 ここで、私どもは首をかしげます。主イエスの復活と昇天、天への帰還はまさに主イエスの栄光の時と言えるでしょう。ですから、十字架を含めず、復活と昇天だけだったら、主イエスは栄光をお受けになったとの表現に頷(うなず)けます。しかし、そこに十字架を含めるとなると違和感を覚えます。

ヨハネによる福音書においても、十字架刑は残虐な死刑に変わりありません。そして、第19章2、3節ではこう言われています。「2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、3 そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った。」のです。ヨハネによる福音書においても、十字架は侮辱の対象であり、主イエスは辱(はずかし)めを受けられたのです。

 

その十字架がなぜ栄光なのか。確かに、主イエスの十字架の死がなければ、復活はなく、昇天、天への帰還もないでしょう。その意味で、十字架抜きでは、復活も昇天もあり得ないのです。しかし、私どもは、主イエスの十字架の死を、主の栄光に入れることには大きな抵抗があります。

 

そこで、先ほど申しましたように、聖書辞典が述べている、栄光は、聖書において、人や事物の意義を明らかにするものということから、考えてみましょう。主イエスの十字架の死は、何と言っても、私どもの罪の償いです。父なる神と御子主イエスは私どもを愛するがゆえに、主イエスが身代りになって、私どもが犯した罪を、すべて償ってくださいました。ここにこそ、神の御子、救い主の意義があります。聖書において、栄光は、人や事物の意義を明らかにするとの言葉は、主イエスにおいて、まさに十字架において、最も意味を持つのです。それゆえ、主イエスにとっての栄光は、復活や昇天、天への帰還だけでなく、主イエスが十字架にかけられるというところにもあるのです。

私どもが簡単に栄光と言うと、それは、誇れるものであったり、自慢できる対象であったりします。しかし、主イエスの場合、栄光とは、名声とか輝き以上に、主イエスの救い主としての存在意義であり、深い深い愛に満ちたお姿、私どものためには死をも厭(いと)わないお姿なのです。それが、まさに、主イエスのお受けになった栄光なのです。

 

その意味で、主イエスが栄光をお受けになるのは、ひたすら、私どもが救われるためであったのです。これからも、共に主の栄光をほめたたえてまいりましょう。そして、主の深い愛と、十字架、そこに表された栄光に感謝を捧げてまいりましょう。お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。主イエスは私どもを救うために、私どもの罪を償うために、十字架にかかり、栄光を表してくださいました。まことに感謝です。どうぞ、それほどまでに愛してくださっている主イエスにお応えすることができますように、そして、これからも主の栄光をほめたたえていくことが出来ますように、私どもをお導き下さい。本日の退修会をこのように終えられますことを感謝致します。主のみ名によって祈ります。アーメン。

© 2023 by Uniting Church Arizona. Proudly created with Wix.com

  • facebook-square
  • Twitter Square
  • Google Square
This site was designed with the
.com
website builder. Create your website today.
Start Now