2015年12月13日 日本バプテスト厚木教会 アドベント第三主日礼拝

 

ルカによる福音書 第1章26~38節

 

39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 46 そこで、マリアは言った。

47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。

 今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、

49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

50 その憐(あわ)れみは代々に限りなく、/主を畏(おそ)れる者に及びます。

51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、

52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、

53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。

54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐(あわ)れみをお忘れになりません、

55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

 56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 

 

「神は憐(あわ)れみをお忘れになりません」

 

本日も、皆さんと一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝しています。今日も聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めます。コリントの信徒への手紙 一 第1章3節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

 

 アドベント第三主日を迎え、アドベントの蝋燭(ろうそく)三本に火が灯(とも)りました。いよいよ、来週はクリスマス礼拝です。

今年のアドベントは、ご一緒にルカによる福音書の言葉に耳を傾けています。本日与えられました聖書箇所では、マリアがエリサベトを訪問しています。そして、神を賛美しています。

 

本日の聖書箇所はこう始まっています。「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」。ここで気になるのが、「急いで」という言葉です。マリアはなぜ急いで行ったのでしょう。それは、早くエリサベトに会いたかったからでしょう。では、どうして、早くエリサベトに会いたかったのでしょうか。天使がマリアに、主イエスを聖霊によって身ごもったと告げた時に、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている(第1章36節)」と天使が言っていたことを、確かめたかった。本当に今までずっと不妊だった女性が妊娠したという不思議を確かめるためであったのだと、多くの人が言います。そうかもしれません。ただし、先週聞きましたように、天使のお告げに「お言葉どおり、この身に成りますように(第1章38節)」と答えたマリアです。神には何でも出来ると信じていたはずです。そのマリアがエリサベトの妊娠を疑っているわけではありません。そこから、自分も信じている天使の言葉を確かめたかった。さらには、マリアが信仰を持って受け入れた、神の子を宿すという神の恵みと同じような恵みを頂いているエリサベトに早く会いたかった。同様の恵みを神から授かった者同士で、恵みを数えたかった。一緒に祈りを捧げたかった。一緒に賛美したかった、とも考えられます。フランスのある教会に、このマリアとエリサベトを石に刻んだ像があるそうです。喜び溢れた表情の二人が、抱き合っている物だそうです。マリアはそのように、エリサベトと抱き合い、喜びを分かち合いたかったのかもしれません。そのために、急いで、ナザレというガリラヤの町から、山里に向かい、ユダの町まで行ったのです。

 

私どもも、喜びを分かち合いたい時があります。一人で喜んでいるだけでなく、一緒に喜んで欲しい、一緒に喜んでくれる人が欲しいという時があります。また、悲しい時、その悲しい気持ちを他の人にも分かってもらいたいと思います。今はどうしようなく辛い。この辛い思いを少しでも分かって欲しい。そのような場合、同じような境遇、立場にいる人ですと、そうでない人以上に共感できるところがあるようです。ある方がとても辛い体験をなさいました。できれば、こんな体験はしたくなかった。そう思ったそうです。確かにそうです。でも、あとで、同じような苦しみを負っている人に対して、少しでも、力になってあげたいと思うようになった。今、自分に出来ることは、そういうことだと思うようになった、とおっしゃっていました。苦しみを受けたことで、同じような苦しみを受けた人の気持ちが以前より分かるようになり、苦しんでいる人の側に寄り添うことが出来るようになったと言うのです。

 

主イエスは、ご自身が捕らえられた後、ペトロが主イエスを知らないと言うであろうと予告されたあとで、こうおっしゃいました。 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカによる福音書 第22章31、32節)」。そう主イエスはペトロにおっしゃいました。ペトロは主イエスが予告された通りに、主イエスのことを知らないと三度も言ってしまいます。その時、主イエスの言葉を思い出し、泣き崩れるのです。ただし、主イエスはさらに先も見据(みす)えて、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」ともおっしゃってくださっていたのです。大変な挫折を体験したペトロだからこそ、そこから悔い改め、立ち直った時は、弱っている信仰の兄弟たち、励ましが必要な信仰の兄弟たちを力づけることができたのでしょう。また、聖書は、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい(ローマの信徒への手紙 第12章15節)」と勧めています。これは決して容易(たやす)いことではありません。しかし、キリストがそのようにして、私どもと共に歩んでくださっていますので、私どもも私どもの隣人(となりびと)にそのようにさせていただきましょう。

 

マリアは喜びに満たされ、賛美を捧げています。しかし、それは、自分が救い主を生むという誇りによる賛美ではありません。マリアは、この喜びは自分だけの喜びでないことをよく知っているのです。ですから、エリサベトと喜びを分かち合いました。そして、マリアの賛歌の言葉は、詩篇から取られた言葉が、多く盛り込まれています。マリアは、詩編の詩人と一緒に主を賛美したのです。マリアにとって、この喜びは、自分だけでなく、皆の喜びであることを良く知っていたのです。救い主キリストは、皆の救いのたにお生まれくださったのです。主イエスは、私どもの救いのために、お生まれくださったのです。ですから、クリスマスは主イエスの救いをいただいた私どもみんなの喜びなのです。

 

クリスマス。今申しましたように、それは、私どもに救い主が与えられたことを喜ぶ時です。ですから、マリアの賛歌はマリアだけの賛歌、マリアだけの喜びではないのです。私どもも、マリアと一緒に賛美できるのです。いや、マリアと共に賛美すべきなのです。私どもの救いが与えられることを、感謝し、主をほめたたえましょう。

さて、ルカによる福音書にあります、既にご一緒に聞きましたバプテスマのヨハネの父ザカリアの賛歌は、ラテン語では、「ほむべきかな」という言葉で始まります。「ベネディクトゥス」という言葉です。そこから、ザカリアの賛歌は「ベネディクトゥス」呼ばれます。そして、本日の聖書箇所にありますマリアの賛歌は、ラテン語で、「(相手を)大きくする」という言葉で始まるために、「マグニフィカート」と呼ばれています。ここで、大きくするのは、もちろん神です。そこでは、私どもは小さくなるのです。

しばしば、私どもは自分を大きくしてしまいます。何かしら自分のことを誇りたいのです。優れているという優越感を持ちたいのです。その誘惑に簡単に負けてしまいます。他の人より、自分の方が立派だと尊大な気持ちになってしまいやすいのです。子どもから大人まで皆そうです。そして、いつの間にか神よりも偉くなったつもりになっているのです。それがまさに罪です。私どもは、神の大きさの中に、身を委ね、自分を小さくして、神をさらに大きくすべきなのです。それが、マリアがここで教えてくれている真(まこと)の信仰者の姿なのです。

 

48節の前半で、マリアは「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」と歌います。これは、マリアの謙遜(けんそん)ではない、と言われます。マリアは、自分は小さく、取るに足らないことを知っていたのです。自分自身をしっかりと、客観的に見ることが出来たのです。マリアはここで率直に自分のことを申し上げたのです。私どもも、正しい目で自分を見、その目で神を見上げ、神をほめたたえたいと思います。

 

戻りますが、47節でマリアは、「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と賛美しています。「神を喜びたたえる」という言い方を私どもは、あまりしないかもしれません。しかし、考えてみますと、神を喜ぶことなくして、神をたたえることはできません。私どもの礼拝もそうです。その意味で、教会は喜びの家であり、礼拝は喜びの時なのです。私どもを愛して止まない主なる神の求めておられる礼拝を捧げているのです。神の恵みに感謝しているのです。神の恵みを数えていけば、その多さに、大きさに驚きます。感謝が湧きます。喜びに満たされてきます。マリアこそ、そうだったでしょう。私どもは、マリアの賛歌から、私どもの喜びがどこにあるのかを教えてもらい、私どもが目指す礼拝を教えてもらいたいと思います。 

 

 さて、54節で、「その僕イスラエルを受け入れて、/憐(あわ)れみをお忘れになりません」とマリアは歌います。「憐(あわ)れみ」という言葉は、50節の「その憐(あわ)れみは代々に限りなく、/主を畏(おそ)れる者に及びます」というところでも出てきます。ある神学者は、このマリアの賛美、マリアの賛歌は「神の憐(あわ)れみ」を主題として歌っていると言います。神が自分を憐れんでくださったこと、そして、主が神の民イスラエルを憐れんでいてくださることを、心から感謝しているのです。また、この「憐(あわ)れみ」と訳されている新約聖書の元の言葉であるギリシャ語、そのギリシャ語にあたるヘブル語は、旧約聖書で「真実」「誠実」とも訳される言葉だそうです。「憐(あわ)れみをお忘れにならない」と訳されているところは、「忘れない真実」とも訳せるそうです。それは、ひと時の憐(あわ)れみではなく、常に、相手を心に留める真実です。そうなりますと54節後半の「(主なる神は)憐(あわ)れみをお忘れになりません」という部分は、主なる神は、私どもを憐(あわ)れむことを決して忘れないでいてくださるという意味でもあり、また、神は決して私どもを忘れない真実を、誠実をもって、お恵みくださる方であるという意味でもあるのです。神は私どもをいつも覚えてくださっている、忘れることは決してない。これは、真に素晴らしいことです。

 

 皆さんは、神の憐れみを、どこで知りますか。どこで感じますか。それは人それぞれだと思います。私が神の憐れみを感じる一つは、聖書の言葉を聞いている時です。旧約聖書は、神がイスラエルの民を導いてくださった歴史と見ることが出来ます。一方で、イスラエルの、そして、私どもの人間すべての罪の歴史とも言えるでしょう。神が何度も人々を赦されたのに、人々は神の御心を思わず、罪を繰り返すのです。聖書は、旧約新約共に、神の素晴らしさを教えています。しかし、同時に、人間のどうしようもなさをまさにリアルに教えているのです。私は、聖書ほど、人間の本質、罪にまみれたどうしようもない姿を、最も的確に教えてくれているものはないと思います。神のことを知りたければ、聖書の言葉を聞くべきでしょう。そして、人間の本質を知りたいと思えば、この場合も聖書の言葉をしっかり聞くべきだと思います。

 人類はいろいろな社会制度を作ってきました。とても素晴らしい社会制度をいくつも作って来たと思います。しかし、その社会制度を運用するのは人間、私どもです。神から見れば、罪人の人間です。そのために、私どもはその社会制度を悪用してきました。そのように、人間はどうしようもない存在だと思います。また、先日は安全保障法案が審議されている中で、憲法の立憲主義が話題になりました。立憲主義とは、簡単に言えば、国民が政府を監視するということです。これについて、聖学院大学の阿久戸先生、牧師もある阿久戸先生はこう言います。人間はどうしても罪を犯してしまう。だから常に監視していなければならない。立憲主義はそういう考え方に基づいているのだということです。人間はどうしようもない罪人だ。だからそれをちゃんとチェックしなければいけないということです。

 

しかし、そのどうしようもない私どもを神はお見捨てにならないのです。私どもが神の立場であったなら、とっくに、私ども人間を見捨てているでしょう。しかも、そんな私どもを救うために、私どもの罪を償うために、大切な御独り子を十字架に架けて殺されたのです。まことにもったいないことをしてくださった。主なる神は何と憐れみ深い方でしょう。私どものために、そこまでしなくてもよかったのにとさえ思います。しかし、そうして下さらなければ、私どもは皆自分の罪の故にとっくに滅んでいたことでしょう。54節の言葉、「その僕イスラエルを受け入れて、/憐(あわ)れみをお忘れになりません」。まさに、神へどんな時も、私どもへの憐れみをお忘れにならず、私どもをひたすら救おうとしてくださるのです。真に感謝、感謝です。

 

そして、55節ではこう歌っています。「わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに」。今申しましたように、前の54節で神の「真実」「誠実」がほめたたえられ、この55節では、神が「おっしゃったとおり」にしてくださること、約束を守ってくださることを歌っています。「アブラハムとその子孫に対してとこしえに」とは、イスラエルの民に永遠にともとれますが、それだけではありません。私どもキリスト者は、神との新しい契約において、新約聖書の新約、新しい約束によって、新しい神の民とされたのです。そおれゆえ、教会の民、私どもキリスト者は、新しい「アブラハムの子孫」なのです。そのように、神は、主イエス・キリストによって与えてくださった救いを、救いの約束を、私ども、キリストの弟子であるキリスト者に、新しい神の民に、与えてくださるのです。それは永遠の約束です。

 

 旧約聖書の旧約とは、古い約束、契約です。それに対して、新約とは、新しい約束、契約です。残念ながら、旧約、古い約束はそれだけでは、実現しませんでした。それは、私ども人間が神に背き続けたからです。しかし、主なる神は、新しい約束、契約である主イエスを私どもにくださったのです。それは、主イエスの十字架と復活によって実現したのです。これによって、旧約だけでは実現なかった救いが実現したのです。その新しい約束、契約である主イエスが、本日のこの賛歌を歌っているマリアから生まれたのです。

 

 主イエスの降誕は、新しい契約、約束の始まりであり、確かな救いの始まりです。そこに、神の「真実」「誠実」そして、「憐(あわ)れみ」を私どもは見出すことができます。神は、真実な方です。私どもも真心(まごころ)をもって、御子のご降誕をお祝いいたしましょう。祈ります。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。憐れみ深い父なる神よ。あなたは、私どもに数え切れない恵みを与えてくださいます。心より感謝申し上げます。マリアとエリサベトも、一緒にあなたを賛美し、あなたの恵みを数え、数え切れなかったことでしょう。マリアがあなたを喜んだように、あなたをほめたたえたように、私どもマリアにならって、あなたを喜び、あなたをほめたたえます。どうぞ、御独り子が与えてくださる救いに、私ども皆が与ることができますように、私ども一人一人を憐(あわ)れんでください。そして、いつもあなたの憐れみを喜び、感謝する者とさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

12月13日 説教 - Unknown Artist
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2015年12月20日 日本バプテスト厚木教会 クリスマス礼拝

 

ルカによる福音書 第2章1~7節

1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

マタイによる福音書 第25章31~46節

31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

 

 

「救い主をお迎えしよう」

 【説教 音声】

 

 

クリスマス、おめでとうございます。アドベントの蝋燭(ろうそく)四本に火が灯(とも)りました。今日は待ちに待ったクリスマス、イエスさまのお誕生日のお祝いをしています。そして、普段は別々に礼拝しています、大人の方々と教会学校の子どもたちと一緒に、礼拝をお捧げしています。

では、いつものように、説教の初めに、皆さんに聖書の祝福の言葉をお送りします。

 

ヘブライ人への手紙 第13章20、21節の言葉です。

   永遠(えいえん)の契約(けいやく)の血(ち)による羊の大牧者(だいぼくしゃ)、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心(みこころ)に適(かな)うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心(みこころ)を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光(えいこう)が世々(よよ)限りなくキリストにありますように、アーメン。

 

 先ほど、初めに、ルカによる福音書の言葉を読んでもらいました。それによると、イエスさまがお生まれになったのは、皇帝アウグストゥスが住民登録の勅令を出した時であったというのです。ここにローマ帝国の最初の王様、アウグストゥスが出てきます。この王様は、当時、世界で最も力のある王様の一人でした。そして、朗読していただいた中に、もう一人の王様のことも言われていました。それはイエスさまです。イエスさまは神さま子です。そして、私どもの王さまでもあります。

さて、もう一人の王さまであるアウグストゥスは、この時、その絶大な権力を背景に、全領土に住民登録をするよう命令を出したのです。誰一人、アウグストゥスというこの王さまの命令に逆らうことは出来なかったのです。地上での、イエスさまのお父さんとなったヨセフさんもそうでした。このヨセフさん、ダビデ王家の末裔(まつえい)です。先祖のダビデはユダヤの歴史の中で一番の王さまでした。ですから、ユダ王国が滅ぼされていなければ、ヨセフさんだって、王さまであったかもしれません。しかし、北のイスラエル王国も、南のユダ王国も、アッシリアやバビロンに滅ぼされてしまった。そして、今、ユダヤはローマ帝国という巨大な国に支配されていたのです。そのため、ダビデ王家の血筋であっても、ヨセフさんはアウグストゥスに逆らえませんでした。住民登録に行かなければなりませんでした。しかも、お腹にイエスさまがいる、いいなずけのマリアさんを連れて行かなければなりませんでした。医学が進んだ現代でも、もうすぐ赤ちゃんが生まれるお母さんには、旅行などは控えるように勧めています。しかし、ヨセフさんもマリアさんも、絶大な権力を誇っていた、アウグストゥスに逆らうことは出来なかったのです。

 

 このように、二人の王さま、神の子、イエス様と皇帝アウグストゥスと、真(まこと)に対照的でした。それだけではなく、この時、ベツレヘムにいた人たちも、この聖家族、イエスさまとヨセフさんとマリアさんのことは、全く気にも留めなかったのです。そのため、先ほど朗読して頂いた聖書箇所で、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と言われていました。誰一人、ヨセフさんとマリアさんにそして生まれてくるイエスさまに宿屋の部屋にお泊りくださいと申し上げる人はいなかったのです。

 

 さて、後に教会改革を行うマルティン・ルターという人は、このことについて、こう言っています。「皆さんの中には、心密(こころひそ)かにこう考える人がたくさんいるでしょう。『ああ、わたしがその場に居合わせたらなあ!喜んでイエスさまやヨセフさんマリアさんのためにして差し上げただろうに!洗濯もしただろう、イエスさまの子守りもして差し上げただろうに。そして、羊飼いと一緒に、大喜びで飼い葉桶の中のイエスさまにお目にかかっただろうに』と。そうでしょうとも!しかし、あなたが今そう言うのは、イエスさまがどんなに偉い方であるかを知っているからです。もしもその時、ベツレヘムのその場に居合わせたなら、あなたがたのしたことは、ベツレヘムの人々と何ら違いないでしょう。それなら、なぜ今すぐそうしないのですか?イエスさまはあなたの隣人(となりびと)の内にいまし給(たま)うのです。あなたは隣人(となりびと)に仕えなくてはなりません。なぜなら、苦しみの中にある隣人(となりびと)にすることは、イエスさま御自身にすることなのです」。

 

マルティン・ルターがこう言うのは、先ほど二番目に朗読して頂きました聖書の言葉に、心を留めていたからでしょう。この聖書の言葉はすべてイエスさまがおっしゃった言葉です。イエスさまはこうおっしゃったのです。「終わりの時、わたしは栄光に輝いて天使たちを皆従えて来ます。そして王さまとして栄光の座に着きます。すると、すべての国の人がわたしの前に集められます。羊飼いが羊と山羊を分けるように、すべての人は分けられ、羊を右に、山羊を左に置くように、二つのグループに分けられます。 そこで、王さまであるイエスさまは右側にいる人たちにこう言います。『さあ、神さまに祝福され、褒(ほ)められた人たち、神さまの国を受け継ぎなさい。あなたたちは、わたしが飢えて、お腹を空かしていた時に食べさせてくれた。わたしののどが渇いていた時に水を飲ませくれた。わたしが旅をしていた時に泊まる宿を貸してくれた。わたしが裸の時に着る物をくれた。わたしが病気の時にお見舞いに来てくれた。わたしが牢屋にいた時に訪ねて来てくれたからだよ。』

 

すると、わたしにそう言われた正しい人たちが王であるイエスさまに答えます。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えて、お腹を空かしておられるのを見て食べ物を差し上げ、あなたののどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、あなたが旅をしておられるのを見て泊まるための宿をお貸して、あなたが裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、あなたが病気をなさったり、あなたが牢屋におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王であるイエスさまは答えます。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人、すなわち、お腹を空かしている人、のどが渇いている人、旅をしている人、裸でいる人、病気の人、牢屋にいる人にしたのは、王であるわたしにしてくれたことなのです。』

 

それから、王であるイエスさまは左側にいる人たちにも言います。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、王であるわたしが飢えてお腹を空かしていた時に食べものをくれなかった。わたしののどが渇いていた時に水を飲ませてくれなかった。わたしが旅をしていた時に宿を貸してくれなかった。わたしが裸の時に着る物をくれなかった。わたしが病気の時に見舞ってくれなかった。わたしが牢屋にいた時に訪ねて来てくれなかったからだ。』すると、そう言われたら人たちも答えます。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えてお腹を空かしているのを見たでしょうか。いつあなたがのどを渇かせておられるのを見たでしょうか。いつあなたが旅をしておられるのを見たでしょうか。いつあなたが裸であるのを見たでしょうか。いつあなたが病気であるのを見たでしょうか。いつあなたが牢屋におられたりするのを見て、私どもがお世話をしなかったでしょうか。』そこで、王であるイエスさまは答えます。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人、すなわち、お腹を空かしている人、のどの渇いている人、旅をしている人、裸でいる人、病気の人、牢屋にいる人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのです。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」。そうなのです。イエスさまの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、イエスさまにしたことなのです。イエスさまの兄弟であるこの最も小さい者の一人、旅をして困っている人に宿を貸すことは、出産間近のお腹の大きなマリアさんに宿を貸すことと同じなのです。あなたの側(そば)で困っている人に手を差し伸べること、少しでも助けてあげることは、イエスさまにして差し上げることと同じなのです。

 

この「イエスさまの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは、あなたにとって誰のことか、という呼びかけに応えるために、ロシアの文豪、レフ・トルストイは、「くつやのマルチン」という呼び名でも知られる「愛あるところに神あり」という物語を書いています。

 

その物語を、本日は、紙芝居で御見せします。

 

 (紙芝居を読む。)

 

 くつやのマルチン」の紙芝居をご覧いただきました。

このように、イエスさまのおっしゃる「イエスさまの兄弟であるこの最も小さい者の一人」は、マルチンの身近にいたのです。しかも、マルチンがしたことは、決して大きなことではありませんでした。そして、元になっているイエスさまのお話し、マタイによる福音書 第25章で求めておられることも、食べ物を分けてあげるとか、水を飲ませて上げるとか、宿を貸してあげるとか、着る物を上げるとか、病気見舞いに行くとか、牢屋を訪ねて行くとかです。決して大きなことではありません。小さなことです。一大決心をして、福祉活動を始めたということではありません。誰でも、しようと思えばすぐに出来ることです。

 

最初のクリスマスの晩、赤ちゃんのイエスさまとヨセフさんとマリアさんは、まさに「最も小さい者の一人」でした。宿を貸してくれる人はいませんでした。その時のイエスさまは何も出来なかった赤ちゃんでした。しかし、イエスさまは私どものために、自ら十字架に架かって私どもを救うために、来てくださったのです。それなのに、私どもは、そのイエスさまを迎えに出ることもせず、宿にもお泊めせず、家畜も一緒にいる小屋をあてがっただけでした。私どもは、神さまの御子、イエスさまご自身を、そして、イエスさまの兄弟である最も小さい者の一人を軽んじたのです。しかも、マタイによる福音書 第25章が教えてくれているように、そのようにしていると、終わりの日、私どもはイエスさまの祝福をいただくことが出来なくなってしまうのです。それは、粗末な家畜もいるような小屋でお生まれくださり、私どもを罪から救うためにお一人で十字架に架かり、死んでくださったイエスさまの深い深い愛に全くお応えしていないことなのです。私どもが最も小さい者の一人にして差し上げないで、イエスさまの祝福を受けられないことは、イエスさまがこれほどまでに私どもを愛し、私どもを救おうとしてくださったことに、何らお応えしていないことになります。言い換えれば、こうです。クリスマスの喜びは、私どもを愛して、救ってくださるイエスさまをお迎え出来たことです。でも、もし、最も小さい者の一人に何もして差し上げないとしたら、私どもが救われる喜び、すなわちクリスマスの喜びも、儚(はかな)く消え去ってしまうのです。そのようなことにならないように、イエスさまの兄弟である最も小さい者の一人に何かして差し上げて、クリスマスの喜びを、救われた喜びを、確かな喜びとしてまいりましょう。

 

イエスさまとヨセフさんとマリアさんをお出迎えし、宿をお貸しすることと同じように、イエスさまの兄弟である最も小さい者に何かして差し上げることをイエスさまは求めておられるのです。それをイエスさまはご自分にしてくれたことと喜んでくださり、私どもを祝福して、いつまでも神さま、イエスさまと一緒にいられる永遠の命をくださるのです。

クリスマス、イエスさまをくださった神さまに感謝を捧げましょう。そして、家畜小屋のような場所でしか、イエスさまを迎えできなかったことを、私どもはお詫びしましょう。そして、もう、そのようなことのないように、私どもは、「イエスさまの兄弟であるこの最も小さい者の一人」、すなわち、身近で困っている人を愛することに心を向けたいと思います。そのようにして、心から、神の御子イエスさまのご降誕を祝いましょう。お祈りを致します。

 

 私どもに、大切な御独り子、主イエス・キリストをくださった父なる神さま。あなたの愛に感謝を捧げます。私どもは自分のことばかりに夢中で、御子を宿にもお泊めしませんでした。今も、同じです。しかし、今、私どもの小さな愛に、小さな親切に、神さまが大きな報いをくださっていることを知りました。どうぞ、自分の身近に、私どもの助けを必要としているイエスさまの兄弟姉妹がおられることに気付かせてください。イエスさまが愛に生きられたように、どうぞ、私どもも愛に生きさせてください。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

 

クリスマス礼拝 説教 -
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2015年12月27日 日本バプテスト厚木教会 歳晩礼拝

 

ルカによる福音書 第2章8~20節

 8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 

 

「さあ、救い主を礼拝しよう」

 

 今日もこのように主の日の礼拝をお捧げ出来ますことを感謝致しております。初めに、聖書の祝福の言葉を皆さんにお送りして、説教を始めます。コリントの信徒への手紙 一 第16章23、24節の言葉です。「主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。 わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」。

 先週はクリスマス礼拝をお捧げしました。そして、先週の木曜日には、クリスマス・イブ礼拝をお捧げしました。今年も、主のお導きとお恵みをいただいて、御子、主イエスのご降誕を、多くの方々と共にお祝い出来ましたことを感謝しています。

 

 主イエスがベツレヘムでお生まれになった時、最初に、主イエスの所に来たのは羊飼いたちでした。本日は、この羊飼いたちの礼拝者として姿に目を向けたいと思います。さらに、羊飼いたちの宣教者、伝道者としての姿にも目を向けたいと思います。

 

先ほどお読みしました聖書箇所は、こういう言葉で始まっていました。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」。農耕民族ではなく、遊牧民族であった古代ヘブライ人にとって、羊飼いは、最も古くからある、最も重要な職業の一つであると言われます。旧約聖書、そして、新約聖書にも、羊や羊飼いに関連した言葉が多く記されています。族長と呼ばれたアブラハム、イサク、ヤコブ、そして、エジプト脱出時の指導者モーセ、そして、偉大な王とされるダビデ、彼らは皆、生涯の一時期、羊飼いをしています。また、信仰の歌が綴(つづ)られた旧約聖書の詩編、その中で最も知られている詩編の一つである第23編、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と始まる詩編 第23編は、羊飼いと羊に譬(たと)えて、主なる神と私どものことを言い表した、美しい詩です。また、主イエスご自身が「わたしは良い羊飼いである(ヨハネによる福音書 第10章11節)」とおっしゃいました。私どもが今います礼拝堂正面左側に掛かっています絵、その絵の元になっている聖句の一つが、この「わたしは良い羊飼いである」という言葉であると思われます。このように、古代ヘブライ人にとって、そして、聖書において、羊飼いは、最も古くからある、最も身近な職業なのです。

 

さて、ベツレヘムの近くに、ベイトゥ・サフルという牧童たちの村があるそうで、ここに登場する羊飼いたちも、恐らく、そこに住んでいたと思われます。そして、「羊飼いの原」と今でも呼ばれる、ベツレヘムのすぐ東の広い斜面で、羊の群れの番をしていたのではなかと想像されています。

羊飼いの仕事と言えば、まずは、この時彼らがしていたように、羊の番です。「夜通し羊の群れの番をしていた」と言われていますように、それは長時間に及びます。しかも、野獣、今はいませんが、当時のパレスチナにはライオンもいたようです。そのような野獣や泥棒から羊を守らなければなりませんでした。杖や、こん棒、石投げ器を巧みに使って、野獣や泥棒と戦ったようです。文字通り、命がけで戦い、羊を守らなければなりませんでした。羊飼いが野獣と闘って、命を落とすことも珍しくなかったそうです。さらに羊飼いは、羊の世話をいろいろとしなければなりません、羊の毛を刈ったり、お産を助けたり、食べ物の草や水が充分に行き渡っているか気を配っていなければなりませんでした。このように、羊飼いの労働条件は、当時そのような考え方はなかったでしょうが、過酷な労働条件だったようです。その上、年中、羊と共にいるために、シナゴーグ、会堂での礼拝も休みがちになったようです。「安息日を聖とせよ」というような律法の規定、安息日に働いてはならない等(など)の戒めも充分に守ることができなかったのです。そのため、厳格な律法学者たちの怒りをかっていたとも言われます。このように羊飼いは、ヘブライ人にとって、身近な人たちでしたが、彼らの労働は厳しく、身分は低く、律法の点では決して褒(ほ)められた人たちではなかったようです。

 

しかし、この羊飼いたちの礼拝者としての姿は、注目に値すると思われます。本日与えられました聖書箇所の前半では、暗闇に突然、天使が現れ、救い主の誕生を知らせます。そして、高らかに賛美を捧げています。そして、その直後の15節ではこのように言われています。「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った」。たぶん、天使がいる間、羊飼いたちは、驚きのあまり、声も出なかったのではないでしょうか。そして、天使が去り、再び暗闇が支配し、静寂(せいじゃく)に包まれた時、羊飼いたちは、ようやく声を発したのです。そして、最初に言ったことが、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」という言葉でした。その後、その言葉通り、急いで行って、救い主がお生まれになった所を探したのです。

 

この時、連れていた羊はどうしたでしょうか。小羊の一匹や二匹くらいでしたら、抱(かか)えていくことも出来たでしょう。しかし、真夜中、羊の群れを移動させることはできず、そこに置いていくしかなかったでしょう。それでも、羊飼いたちは、自分たちに与えられた救い主を一目見るために、礼拝するために、出かけて行ったのです。もしかして、一人か二人は羊を見守るために残ったかもしれません。しかし、そうだとしても、一人や二人では、野獣の群れや羊泥棒たちに、太刀打ち出来なかったでしょう。野獣に襲われたら、羊たちは、ひとたまりもありません。羊たちは、まさに野獣の餌食(えじき)になってしまいます。また、羊泥棒が、群れごと連れ去れることも有り得ます。ということは、夜、羊の群れを置いて、救い主を礼拝しに行くこと、それは余りに無謀(むぼう)なことでした。ですから、この夜、羊飼いたちがしたように羊たちを置いたまま、出かけることは、羊飼いの世界では、全くの常識はずれです。それだけで羊飼い失格でしょう。しかし、羊飼いたちは、天使のお告げを聞き、もう自分たちの救い主にお会いしたいという衝動を抑えることができなかったのでしょう。まさに、その思いこそ、礼拝者に求められる姿ではないでしょうか。私どもは大切な人と会う時や恋人とのデートに出かける時、ウキウキして、期待に胸弾ませて行くに違いありません。相手に会えることを心待ちにして出かけます。この時の羊飼いたちも、そうだったでしょう。たぶん、この時、羊飼いはベツレヘム中を探し回らなければならい事を承知の上で、救い主にお会いするために出かけたのです。ベツレヘムにお生まれになったことは分かっても、ベツレヘムのどこへ行ったら良いかは分からなかったのです。赤ちゃんの主イエスを見つけ出すまで、何時間もかかったかもしれません。そのことは出発前に容易に想像できたはずです。しかし、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、一致して出かけて行くのです。そのようにして、主イエスにお会いし、礼拝をお捧げするのです。

 

 私どもに与えられています毎週の礼拝、まさに今、お捧げしているこの礼拝において、私どもは主にお会いするのです。私どもが心を合わせ、礼拝を捧げる時、父なる神と御子主イエスと御霊はここにご臨在くださるのです。マタイによる福音書 第18章20節で、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と言われているようにです。礼拝で主なる神に、御子主イエスにお会いするために、私どもは他のことを後まわしにしているのです。礼拝第一に生きているのです。なぜなら、私どもを、この私を、救ってくださった主に、礼拝でお会いできるからです。

 

 ご高齢の信徒の方で、心から礼拝を楽しみにしている方がおられます。礼拝に来るだけで、帰りにどこかに寄る訳でもないのです。一週間ぶりに教会の皆と会い、共に礼拝を捧げること、そのことを何よりも大切に生きていらっしゃるのです。そのため、月曜日から土曜日は、日曜日の礼拝出席のために、体調を整えておられる。一週間の生活を何よりも礼拝出席のために考えておられる。疲れが残ると、礼拝に行けなくなるので、お出かけはめったにしないとのことです。まさに、礼拝第一の歩みを続けられているのです。貴いことだと思います。

 

 以前、教会のある兄弟が一週間の内、主の日の礼拝に要する時間を計算してくれました。一週間全体に比べたら、ほんのわずかな時間であることが分かりました。改めて私も計算してみます。一週間は、168時間です。礼拝に要する時間、行く準備や行き帰りの時間を含めて、長くとっても、6時間暗いでしょうか。それでも、一週間の時間の中の約3.6パーセントです。そう考えてみると、礼拝第一に生活するということは、決して厳しいことでも、過酷なことでもないのです。

 

さて、礼拝第一に生きることは、神第一、主イエス第一に生きることでもあります。そのように、何に優先順位をつけるかで、私どもの生き方がはっきり見えてきます。その典型的な例は、主イエスの弟子たちの中に見ることができます。十二弟子の中の二人である、シモンとシモンの兄弟アンデレは、主イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」との呼びかけに対し、「すぐに」網を捨てて従ったのです。「すぐに」です。主イエスのお言葉を第一にして、従ったのです(マルコによる福音書 第1章16~18節)。

 

 しかし、それができなかった人もいます。主イエスがその人に向かって、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われると、その人は、主イエスのこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去るのです。なぜなら、たくさんの財産を持っていたからです(マルコによる福音書 第10章17~22節)。彼は、主イエス直々に、「わたしに従いなさい」と言われたにもかかわらず、主イエスを第一とすることはできなかったのです。

 

 また、主イエスの弟子の一人が言います。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」。すると、主イエスは、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とおっしゃったのです。主イエスのこの言葉には、父を失った弟子に対して、全くの同情もなく、余りにも冷たいように思えます。しかし、主イエスを第一とすることは、そのような厳しさを伴うことを、主イエスはここで教えてくださったのではないでしょうか。

 そう思いますと、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」との羊飼いたちの言葉は、まさに、神第一とする礼拝者の生き方、信仰者の生き方が現されているように思えます。その生き方こそ、何か他のものに縛られない生き方こそ、私どもに真に幸せを与えてくれるのです。私どもも、羊飼いのように、礼拝を第一に、神を、主イエスを第一に生きる幸いをいただきたいと思います。

 ちなみに、先ほど問題にした、置いていかれた羊の群れはどうなったでしょうか。私の想像するに、羊たちは皆無事にそこにいたことと思います。神がしっかり羊たちを守ってくださったに違いありません。

 

 さて、羊飼いたちの宣教者、伝道者としての姿にも注目したいと思っています。本日の箇所の中に、こういう言葉がありました。17節と20節です。「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。この場面は、聖書の中でも特に私の好きな場面の一つでもあります。そして、ここで言われていますように、羊飼いは、その夜の出来事を人々に伝えずにはいられなかったのです。それと同時に、与えられた大きな喜びが心に溢れ、自然と賛美の歌を歌っていたのです。ですから、ここで羊飼いたちは、宣教者、伝道者というだけでなく、賛美者ともなっているのです。

 

 聖書には、専門的に宣教、伝道した人のことが書かれています。しかし、宣教の業、伝道の業は、専門家が独占するものではありません。主イエスに病を癒されたり、不自由な体を癒された人が、主イエスの黙っているようにとの命令に背(そむ)いて、主イエスの奇跡を人々に知らせてしまったという出来事が、福音書にはいくつも出てきます。もちろん、主イエスのお言葉に従って、その人は沈黙するべきだったのです。しかし、喜びのあまり、黙ってはいられなかったのでしょう。そこに、私は、宣教者、伝道者の大切な心があると思います。伝道者は、その務めが神から託された大切な役目であるから、伝道するという面も大切だと思います。しかし、それ以上に、主イエスからいただいたこの福音、喜びの知らせを、自分だけの中にしまっておくことはできない。この喜びを伝えずにはいられないという衝動にかられて宣教する、伝道するということこそ、伝道者の大切な所だと思います。ですから、そういう思いに駆(か)られたなら、誰でも、宣教者、伝道者となれるのです。それは、賛美する人も同じでしょう。この喜びを表さずにはいられない、そして、賛美せずにはいられないとなった時こそ、賛美が溢れてくるのではなでしょうか。その意味で、この時の羊飼いたちはまさに、宣教者、伝道者、賛美者であったのです。

 

 まだバプテスマを受けておられない、求道者の方が、新しい方を礼拝に誘って、一緒に来て下さることがあります。これもまさしく伝道者の姿です。誰でも、その気になれば、羊飼いたちのように、宣教者、伝道者になれるのです。

 私どもも、羊飼いのような、礼拝者、そして、伝道者になって、神の御子のご降誕をお祝いし、父なる神に、御子主イエスに従ってまいりましょう。お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。神の御子のご降誕の時、普通の羊飼いが、良き礼拝者とされ、良き伝道者とされた様子を本日見てまいりました。どうぞ。私どもも、羊飼いに倣って、良き礼拝者、良き伝道者となれますよう、お導き下さい。私どもの信仰者としての歩みをこれからも、お守り下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

12月27日 説教 - Unknown Artist
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