2015年11月1日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

使徒言行録 第4章10節~12節

 

 10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 

「救いへの唯一の道~教会とは何か⑦」

                           

 今日も、皆さんとご一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝致しております。本日、皆さんに聖書の中の賛美の祈り言葉をお贈りして、説教を始めます。ユダの手紙 24節、25節の言葉です。「24 あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、25 わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。」

 

 「教会とは何か」をテーマにした説教を続けています。毎回いろいろな角度から、教会とは何なのかを、ご一緒に明らかにしています。

 私どもの教会はキリスト教会です。言い換えると「キリストの教会」です。それは、キリスト教の教会と言うよりも、キリストの教会、キリストを礼拝する教会、キリストの体である教会です。では、このキリストの教会とはどういう意味でしょうか。

 

本日与えられました聖書箇所を先ほど朗読致しました。その最後の12節では、こう言われていました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。わたしたちが救われるべき名、名前は一つだと言うのです。他に、誰の名、名前によっても救いは頂けないと言うのです。一体、誰の名のことを言っているか、もうお分かりでしょう。ナザレ人、イエスの名です。主イエス・キリストの名です。昔から、偉大な人の名には力があると信じられてきました。偉大な王が認めたということで、その王の名を示せば、誰も逆らえないように、偉大な方の名には、その名自体に力があると信じられてきました。そして、私どもにとって最も大事な救いにおいても、その偉大な名が必要なのです。その名が、ナザレのイエス、主イエス・キリストだったのです。そのことを使徒ペトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」とはっきり言っているのです。

ある人は、この言葉をいつも思い出すと言います。なぜなら、私どもの救いにとって、大切なみ言葉であるからだと言います。教会のどこかにこのみ言葉を書いて掲げておくぐらいすべきだとも言います。私どもの教会の年度の聖句のように、常にこの言葉を掲げておくべきだというのです。そのように、いつでも、誰にも見えるようにすると良いというのです。もし、それが無理なら、私どもの心にしっかりと刻んでおくみ言葉だと言うのです。

 

先ほど10節から朗読しました。その前から、ペトロの言葉は始まっています。そもそもの始まりは、エルサレムの神殿の門の側にいた足の不自由な男を癒したことから、始まっています。キリスト教会への最初の迫害が始まったのです。ペトロたちは、議員、長老たちに尋問を受けます。それに応えペトロが言っているのです。この足を癒された人は、主イエス・キリストの名によって、癒されたのだと告げているのです。あなたがたが、十字架で殺した、主イエス・キリストの名によって癒されたのだと言うのです。あなたがたに殺されたが、墓から復活された主イエス・キリストの名によって癒されたのだと言うのです。

 

そして、12節、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」とペトロは言い切るのです。宣言するのです。

これは、他の宗教を否定している言葉ではありません。それは、こういうことです。他の宗教、信仰が与えるもの、悟りとか、功徳とかはあるでしょう。それらは、その信仰に生きる人にとって大切なものでしょう。キリスト教会はそれを否定しません。

 

では、キリスト教会が教えていることは何でしょうか。聖書が教える救い、私どもが神に対して犯し続けている罪からの救い、この救いを頂くためには、主イエス・キリストの名によるしかないということです。お釈迦様がどんなに偉大でも、聖書が告げる罪、人は皆、罪人であるという現実、そこからの救いを与えることは出来ないということです。主イエス・キリストの名による以外に救われる道はないということです。「わたしは、道であり、真理であり、命である(ヨハネによる福音書 第14章6節)」と主イエスがおっしゃったことは、その意味でまさに真理なのです。

 

なぜなら、主イエス・キリストが私どものすべての罪をお一人で償ってくださったからです。十字架で死んで、私どもの罪の生贄(いけにえ)となってくださったからです。主イエスが唯一の罪の贖い主、唯一の罪からの救い主だからです。

その時の主イエスの苦しみを、先ほど交読文で読みましたイザヤ書 第53章が預言していました。主イエスは苦しめられ、辱められ、十字架にお架かり下さったのです。それは一重に、私どもを罪から救うため、私どもの罪を償うためでした。

 

私ども人間はどんな殺され方をしても、自分の罪さえ十分に償うことは出来ません。それほどまでに、私どもが造り主なる神に犯した罪は大きいのです。しかし、神の御子であり、まったく罪のない主イエス・キリストが十字架につけられることで、私どもに代わって、私どものすべての罪を償ってくださったのです。それはあまりにも過酷で、御子が、愛する父なる神に捨てられるという出来事でした。しかし、主イエスはそれをやり遂げてくださったのです。それによって、私どもの罪は完全に償われたのです。しかも、主イエスは復活されることで、罪だけでなく、死に対しても勝利されて、私どもの救いの道を開き、完成してくださったのです。それゆえ、ペトロが言うように、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。

 

 しかも、10節後半で、ペトロはこう言っています。「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」。私どもの救い主を、あなたがたが十字架につけて殺してしまった。ここで、ペトロは、あなたがたが殺してしまった方こそ、私どもの救い主だったと言うのです。この方の名によらなければ、誰も救われないというのです。ペトロは議員や、長老たちだけを、主イエスを殺したと批判しているようにも聞こえます。しかし、事実は違うでしょう。ペトロは片時も忘れないでしょう。主イエスが捕えられた時、自分が主イエスを三度も知らないと言ったことを。ペトロは自分も、直接、主イエスを十字架につけた議員や長老たちと変わらないことを深く承知していたでしょう。そうです。民衆も含めた皆が寄ってたかって、主イエスを十字架につけて殺してしまったのです。

 

 しかし、そこに神の深いご計画があったのです。そのようにして、罪のない神の御子主イエスが十字架で死んでくださったことによって、私どもすべての罪をお一人で償ってくださったのです。

 

 旧約聖書を読みますと、イスラエルの2015年11月1日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝 使徒言行録 第4章10節~12節 10 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 「救いへの唯一の道~教会とは何か⑦」 今日も、皆さんとご一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝致しております。

 

本日、皆さんに聖書の中の賛美の祈り言葉をお贈りして、説教を始めます。ユダの手紙 24節、25節の言葉です。「24 あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、25 わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。」 「教会とは何か」をテーマにした説教を続けています。毎回いろいろな角度から、教会とは何なのかを、ご一緒に明らかにしています。 私どもの教会はキリスト教会です。言い換えると「キリストの教会」です。それは、キリスト教の教会と言うよりも、キリストの教会、キリストを礼拝する教会、キリストの体である教会です。では、このキリストの教会とはどういう意味でしょうか。本日与えられました聖書箇所を先ほど朗読致しました。その最後の12節では、こう言われていました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。わたしたちが救われるべき名、名前は一つだと言うのです。他に、誰の名、名前によっても救いは頂けないと言うのです。一体、誰の名のことを言っているか、もうお分かりでしょう。ナザレ人、イエスの名です。主イエス・キリストの名です。昔から、偉大な人の名には力があると信じられてきました。偉大な王が認めたということで、その王の名を示せば、誰も逆らえないように、偉大な方の名には、その名自体に力があると信じられてきました。そして、私どもにとって最も大事な救いにおいても、その偉大な名が必要なのです。その名が、ナザレのイエス、主イエス・キリストだったのです。そのことを使徒ペトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」とはっきり言っているのです。

 

ある人は、この言葉をいつも思い出すと言います。なぜなら、私どもの救いにとって、大切なみ言葉であるからだと言います。教会のどこかにこのみ言葉を書いて掲げておくぐらいすべきだとも言います。私どもの教会の年度の聖句のように、常にこの言葉を掲げておくべきだというのです。そのように、いつでも、誰にも見えるようにすると良いというのです。もし、それが無理なら、私どもの心にしっかりと刻んでおくみ言葉だと言うのです。

 

先ほど10節から朗読しました。その前から、ペトロの言葉は始まっています。そもそもの始まりは、エルサレムの神殿の門の側にいた足の不自由な男を癒したことから、始まっています。キリスト教会への最初の迫害が始まったのです。ペトロたちは、議員、長老たちに尋問を受けます。それに応えペトロが言っているのです。この足を癒された人は、主イエス・キリストの名によって、癒されたのだと告げているのです。あなたがたが、十字架で殺した、主イエス・キリストの名によって癒されたのだと言うのです。あなたがたに殺されたが、墓から復活された主イエス・キリストの名によって癒されたのだと言うのです。そして、12節、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」とペトロは言い切るのです。宣言するのです。これは、他の宗教を否定している言葉ではありません。それは、こういうことです。他の宗教、信仰が与えるもの、悟りとか、功徳とかはあるでしょう。それらは、その信仰に生きる人にとって大切なものでしょう。キリスト教会はそれを否定しません。

 

では、キリスト教会が教えていることは何でしょうか。聖書が教える救い、私どもが神に対して犯し続けている罪からの救い、この救いを頂くためには、主イエス・キリストの名によるしかないということです。お釈迦様がどんなに偉大でも、聖書が告げる罪、人は皆、罪人であるという現実、そこからの救いを与えることは出来ないということです。主イエス・キリストの名による以外に救われる道はないということです。「わたしは、道であり、真理であり、命である(ヨハネによる福音書 第14章6節)」と主イエスがおっしゃったことは、その意味でまさに真理なのです。なぜなら、主イエス・キリストが私どものすべての罪をお一人で償ってくださったからです。十字架で死んで、私どもの罪の生贄(いけにえ)となってくださったからです。主イエスが唯一の罪の贖い主、唯一の罪からの救い主だからです。その時の主イエスの苦しみを、先ほど交読文で読みましたイザヤ書 第53章が預言していました。主イエスは苦しめられ、辱められ、十字架にお架かり下さったのです。それは一重に、私どもを罪から救うため、私どもの罪を償うためでした。私ども人間はどんな殺され方をしても、自分の罪さえ十分に償うことは出来ません。それほどまでに、私どもが造り主なる神に犯した罪は大きいのです。しかし、神の御子であり、まったく罪のない主イエス・キリストが十字架につけられることで、私どもに代わって、私どものすべての罪を償ってくださったのです。それはあまりにも過酷で、御子が、愛する父なる神に捨てられるという出来事でした。しかし、主イエスはそれをやり遂げてくださったのです。それによって、私どもの罪は完全に償われたのです。しかも、主イエスは復活されることで、罪だけでなく、死に対しても勝利されて、私どもの救いの道を開き、完成してくださったのです。

 

それゆえ、ペトロが言うように、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。 しかも、10節後半で、ペトロはこう言っています。「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」。私どもの救い主を、あなたがたが十字架につけて殺してしまった。ここで、ペトロは、あなたがたが殺してしまった方こそ、私どもの救い主だったと言うのです。この方の名によらなければ、誰も救われないというのです。ペトロは議員や、長老たちだけを、主イエスを殺したと批判しているようにも聞こえます。しかし、事実は違うでしょう。ペトロは片時も忘れないでしょう。主イエスが捕えられた時、自分が主イエスを三度も知らないと言ったことを。ペトロは自分も、直接、主イエスを十字架につけた議員や長老たちと変わらないことを深く承知していたでしょう。そうです。民衆も含めた皆が寄ってたかって、主イエスを十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、そこに神の深いご計画があったのです。そのようにして、罪のない神の御子主イエスが十字架で死んでくださったことによって、私どもすべての罪をお一人で償ってくださったのです。

 

旧約聖書を読みますと、イスラエルの歴史が分かります。それは、神に導かれた歴史と言えます。同時に、神に逆らい続けた歴史です。それは、まさに人間の歴史なのです。その罪を償うために、神殿では、常に生贄(いけにえ)が捧げられました。しかし、今申しましたように、人は神に逆らい続け、背き続けたのです。ですから、いつまでたっても、罪は償い続けなければなりませんでした。終わりはないのです。それでは、いつまも、追いかけごっこをしているようなものです。完全な罪の償いはないのです。完全な罪からの救いもないのです。そこで、父なる神は、御子主イエスを私どもの救い主、私ども罪の贖い主として、地上にお送り下さったのです。何という恵みでしょう。私どもは父なる神に、もうダメだと、諦められて、捨てられてもしょうがないのです。しかし、憐れみ深い神は、御子を救い主として、私どもに与え、私どもの罪の犠牲の捧げ物としてくださったのです。それゆえ、私どもは、もう神殿で罪の償いの犠牲を捧げなくてもよいのです。主イエスを救い主と信じさえすれば良いのです。そのことが、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」との言葉に凝縮されているのです。

 

 キリスト信仰は、この一点にかかっています。ここをしっかり押さえたなら、キリスト信仰をいただいたことになります。主イエスが十字架で死んで下さらなければならなかったということを、主イエスとこの自分の事と告白できたなら、それで、キリスト信仰の中核はしっかり捕えたことになります。キリストにしっかりと捕えていただいたことになるのです。逆に、このことを外してしまったら、他のどんな恵みについて証ししても、それは、キリスト告白とはならず、信仰告白とはならないのです。求道者の方に、私はその点を自分の言葉で告白していただくようにお願いしています。そこが信仰の急所だからです。

 

 私どもはそのような素晴らしい救いを頂いているほどに、父なる神に、御子主イエスに愛されているのです。それは、先日の伝道礼拝で渡邊さゆり先生が説いてくださったヨハネによる福音書 第3章16節で言われている通りです。ヨハネによる福音書 第3章16節ではこう言われています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。その通りです。

 

 本日、聖餐の終わりで、新聖歌343番を歌います。そこでは、主イエスによる救いの恵みを賛美してします。

 ああ恵み、計り知れぬ恵み

 ああ恵み、われにさえ及べり

 3節では、こう歌います。

  「誰ぞわれの罪を ことごとく洗うは」

  「見よ血潮は汝を 雪よりもしろくせん」

 そうです。主イエスこそが、私どもの罪を洗い流し、償うことが出来るのです。主イエスの十字架の血潮で、私どもの真っ黒い罪を赦され、雪よりも白くしていただくのです。まことに感謝です。まさに譬えようもない恵みです。この救いの恵みをしっかりといただき、この恵みに生きてまいりましょう。

 

 祈りを捧げます。

 

私ども救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたと御子は、私どもの大きな大きな罪を償い、赦してくださいました。私どもの救いはこれしかありません。私ども罪人がこの赦しと、救いをいただけますことを感謝致します。どうぞ、この救いに生きる者とさせてください。どうぞ、ここに集いました一人一人をお救い下さい。そして、一人一人の信仰の道をお守りお導き下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

歩みをさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

2015年11月8日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第14章18節~24節

 

 18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

 

「神の御子主イエスを愛する者を父なる神は愛してくださる」

 

 本日も、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。ヨハネの黙示録 第22章21節の言葉です。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」

 ご一緒にヨハネによる福音書の言葉を聴いています。主イエスと弟子たちの別れの時が近づいています。本日の箇所を含むこれらの主イエスの言葉は、訣別説教とも言われます。弟子たちとの別れの前の説教です。

 

 さきほど、18節から24節までを朗読していただきました。前回は、この初めの部分、18節、19節の言葉をご一緒に聞きました。そこで、本日は20節以下の言葉を聞いてまいりましょう。20節です。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」。そのように言われています。とても入り組んだ関係です。しかし、父なる神と御子と私どもの深い結びつきのことを言っていることは分かると思います。こうです。今はあなたがたに分からないだろう。しかし、かの日には、あなたがたにも分かるだろうと言うのです。何が分かるのでしょうか。それは、御子主イエスが父なる神の内におること。さらには、主イエスの弟子であるあなたがたが、主イエスの内におること。同時に、主イエスも弟子たちの内にいること。それらのことがことごとく分かるだろう。主イエスはそうおっしゃるのです。

 

 最初の「わたしが父の内におり」の一つの意味は、主イエスが父なる神の外にはいないことでしょう。すなわち、主イエスは父なる神の御心から外(はず)れるにことはないこと、忠実に父なる神に従っているということでしょう。主イエスは父なる神と常に一致しておられたのです。

 

 先日、信徒部で、夏の「退修会」の感想をまとめてくださいました。今回も豊かな退修会になったことを感謝しています。その退修会の根拠となる聖句が、マルコによる福音書 第1章35節の「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」との言葉です。主イエスは安息日が明ける日の入りから、夜通し、押しかけて来る人々を癒されたのです。徹夜されたのです。酷く疲れていらっしゃったでしょう。その時、主イエスはお体を休ませるより先に、祈られたのです。人々がいる所から退き、一人祈られたのです。私どもも、主イエスに倣い、一人神に向かって、祈り、聖書の言葉を黙想し、父なる神との一対一の交わりの時を持つのです。それが、私どもの退修会の中心テーマです。

 

 元に戻りまして、主イエスなぜそのようにされたのでしょうか。それは、父なる神に祈り、父なる神との交わる時を確保することで、常に神との一致を確保されていたからでしょう。「わたしが父の内におり」との状態を常の保つためにそうなさっていたのでしょう。私どももそれに倣っていこうとしているのです。

主イエスはそれと同様に、「あなたがたがわたしの内におり」、すなわち、弟子たちが主イエスの内にいるともおっしゃっています。その一つの意味は、弟子たちは主イエスの御心から外(はず)れることはないこと、主イエスに忠実に従うように導かれるということでしょう。主イエスが父なる神の内におられることに倣って、私どもも、主イエスの内に常にいるようにさせていただきましょう。

 

 では、それに続く「わたしもあなたがたの内にいる」、すなわち、主イエスが弟子たちの内にいてくださる、そして、私どもの内にもいてくださるとは、どういうことでしょうか。それは、弟子たちの存在の内側に、私どもキリスト者の存在の内側に、ぐさりと深く食い込むように、主イエスはご自身を表してくださるということでしょう。その一つ表れが、ヨハネによる福音書 第20章28節です。「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った」。トマスは、使徒たちの中で一人だけ、復活された主イエスにお会いしていませんでした。そのために、主イエスの復活を信じられず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない(第20章25節)。」と言っていたのです。しかし、主イエスが再び使徒たちの前に現れて下さった時、トマスも復活の主にお会いし、「わたしの主、わたしの神よ」と呼ばないわけにはいかなくなったのです。この時、トマスの存在の内側に、ぐさりと深く食い込むように、主イエスはご自身を表してくださったのです。そして、この貴い信仰告白の言葉をトマスに言わせたのです。「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」との事実が、主イエスとトマスの間に起こったのです。

 

 私どもも、トマスのように、真の信仰に入れられた時、主イエスと私どもの関係は「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」となるのです。

信仰に生きるということは、何か他のことは差し置いてでも、主イエスに従うことです。その第一はいつも申していますように、今私どもはしているように、主の日の礼拝を捧げることです。父なる神と御子主イエスのお招きにお応えし、一週間の初めの日に、信仰の兄弟姉妹と共に、主の日の礼拝を捧げることです。そのようにして、一週間の歩みを始めることです。イスラエルの民は、農作物の最初に収穫した初物は、まず、主なる神にお捧げしました。家畜の最初の子も主にお捧げしました。そのように、私どもも、一週間の初めの時間をまず神にお捧げするのです。そうすることが、私どもが、父なる神の内に、そして、主イエスの内にいることとなるのです。そして、そのような私どのもの内に主イエスは食い込むように、入り込んでくださり、私どもの内にご自身を表してくださるのです。私どももトマスと同じように、「わが主よ、わが神よ」と呼ばずにはいられなくなるのです。それが、「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」ということです。そして、その歩みを続けることで、20節で言われるように、そのことが「かの日には、・・・あなたがたに分かる」と主イエスは弟子たちと私どもにお約束してくださっているのです。

 

 続く21節で、主イエスはこうおっしゃっています。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」ここで言われている「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」は、既に聞きました第14章15節の言葉、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」を言い換えた言葉とも言えるでしょう。このように言い換えられているということは、とても大切なことだ、ということでしょう。そして、主イエスを愛することと主イエスの掟に従うということが一つのことであるという真理の大切さをここで教えてくれているのだと思います。

 

 では、主イエスの掟とは何でしょうか。既に主イエスがおっしゃってきたこと全てとも言えるでしょう。主イエスの言葉は、どの言葉も、私どもにとっては貴いものです。主イエスのみ言葉の貴重さは、宝石の貴重さに遥かに優るものです。なぜなら、主イエスのみ言葉に従う者には、神の救いが用意されているからです。主イエスのみ言葉に従う者には、いつまでも、父なる神と御子主イエスと共にいることが出来き、復活の命に与れる永遠の命が備えられているからです。これらは、どんなにお金を積んでも、どんなに宝石を差し出しでも、手に入れることの出来ないものだからです。

 

 さらに、ここで、主イエスの掟とは、互いに愛し合うことだとも言えるでしょう。主イエスがここでずっとお話しなさっている言葉を遡りますと、第13章34節の言葉に行き着きます。主イエスはそこでこうおっしゃっています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。では、新しい掟である、互いに愛し合うとはどういうことでしょうか。主イエスはこの直前に弟子たちの足を洗われて、こうおっしゃいました。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである(ヨハネによる福音書 第13章14、15節)」。そうです。互いに足を洗うように、互いに愛し合うように主イエスは教えてくださったのです。それが、新しい掟でした。そして、本日の箇所では、その主イエスの掟を守ることが主イエスを愛することであると主イエスご自身がおっしゃっているのです。主イエスに従うこということは、主イエスを愛することです。そして、主イエスを愛するとは、私どもが互いに愛し合うことなのです。

 

 私どもはどうしても自分中心に物事を考え、それを行動に移してしまいます。相手の気持ちを考えることが苦手です。そのような私どもに主イエスは互いに愛し合いなさい、互いに仕え合いなさいとおっしゃるのです。そう思うと、相手の気持ちを考えることが苦手だと言い訳をして、主イエスの掟から逃げてはならないのだと教えられます。自分の気持ちを落ち着けて、静まることが、私どもには必要なのでしょう。いつも主観的に物事を見、考えているのを一休みさせ、自分を見つめ直すことが求められているのでしょう。そうは言っても、なかなか自分が見えないのが私どもです。その際、役に立つのが反面教師ではないでしょうか。私どもは、他の人のしていることは実によく見えます。その人の本音、本質まで見抜けます。しかし、それをその人への批判に留めていたのではもったいないのです。それは、自分を映している鏡であるとして、自分を見つめるのです。それを続けることで、自分が見えて来て、自分の嫌(いや)な面を少しずる見つめる勇気を養ってもらいたいと思います。そこから、主イエスの掟に従えるように、自分自身を変えていただきましょう。今申しているのは一つの方法です。方法はどれでもよいでしょう。とにかく、主イエスの掟、互いに愛し合いなさいとの言葉を実行に移せるように、求めてまいりましょう。そのように主イエスの掟を守って、主イエスを愛するようになりたいと思います。

 

 21節後半で、主イエスは大いなる約束をしてくださっています。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」神の御子主イエスを愛する人を、父なる神が愛してくだると約束してくださっているのです。あなたも神の大いなる愛を頂けるという、まさに大きな大きな約束です。これは、私どもの究極の目標でもあります。主イエスの掟を守ることで、主イエスを愛することで、私どもは、誰よりも憐れみ深い、慈しみ深い、大いなる神の大きな愛を、深い愛をいただくことが出来るのです。何という幸いでしょう。

 

 「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」ともおっしゃってくださいました。主イエスも父なる神と共に、私どもを愛してくださるのです。そして、ご自身をその人に現してくださるともおっしゃるのです。逆を言えば、主イエスを愛さない者に、主イエスはご自身を現してくださらないということなるとも聞こえます。しかし、そうでしょうか。私は思います。主イエスはご自身をすべての人に現そうとしてくださっている。しかし、主イエスを愛さない者は、そのような主イエスさえも見ようとしない。それは、まるで、主イエスがその人にご自身を現してくださらないように、見えるということではないでしょうか。

 

 続く22節ではこう言われています。「イスカリオテでない方のユダが、『主よ、わたしたちには御自分を現そうと2015年11月8日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝 ヨハネによる福音書 第14章18節~24節 18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。 「神の御子主イエスを愛する者を父なる神は愛してくださる」 本日も、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。ヨハネの黙示録 第22章21節の言葉です。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」 ご一緒にヨハネによる福音書の言葉を聴いています。主イエスと弟子たちの別れの時が近づいています。本日の箇所を含むこれらの主イエスの言葉は、訣別説教とも言われます。弟子たちとの別れの前の説教です。 さきほど、18節から24節までを朗読していただきました。前回は、この初めの部分、18節、19節の言葉をご一緒に聞きました。そこで、本日は20節以下の言葉を聞いてまいりましょう。20節です。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」。そのように言われています。とても入り組んだ関係です。

 

しかし、父なる神と御子と私どもの深い結びつきのことを言っていることは分かると思います。こうです。今はあなたがたに分からないだろう。しかし、かの日には、あなたがたにも分かるだろうと言うのです。何が分かるのでしょうか。それは、御子主イエスが父なる神の内におること。さらには、主イエスの弟子であるあなたがたが、主イエスの内におること。同時に、主イエスも弟子たちの内にいること。それらのことがことごとく分かるだろう。主イエスはそうおっしゃるのです。 最初の「わたしが父の内におり」の一つの意味は、主イエスが父なる神の外にはいないことでしょう。すなわち、主イエスは父なる神の御心から外(はず)れるにことはないこと、忠実に父なる神に従っているということでしょう。主イエスは父なる神と常に一致しておられたのです。

 

先日、信徒部で、夏の「退修会」の感想をまとめてくださいました。今回も豊かな退修会になったことを感謝しています。その退修会の根拠となる聖句が、マルコによる福音書 第1章35節の「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」との言葉です。主イエスは安息日が明ける日の入りから、夜通し、押しかけて来る人々を癒されたのです。徹夜されたのです。酷く疲れていらっしゃったでしょう。その時、主イエスはお体を休ませるより先に、祈られたのです。人々がいる所から退き、一人祈られたのです。私どもも、主イエスに倣い、一人神に向かって、祈り、聖書の言葉を黙想し、父なる神との一対一の交わりの時を持つのです。

 

それが、私どもの退修会の中心テーマです。 元に戻りまして、主イエスなぜそのようにされたのでしょうか。それは、父なる神に祈り、父なる神との交わる時を確保することで、常に神との一致を確保されていたからでしょう。「わたしが父の内におり」との状態を常の保つためにそうなさっていたのでしょう。私どももそれに倣っていこうとしているのです。主イエスはそれと同様に、「あなたがたがわたしの内におり」、すなわち、弟子たちが主イエスの内にいるともおっしゃっています。その一つの意味は、弟子たちは主イエスの御心から外(はず)れることはないこと、主イエスに忠実に従うように導かれるということでしょう。主イエスが父なる神の内におられることに倣って、私どもも、主イエスの内に常にいるようにさせていただきましょう。 では、それに続く「わたしもあなたがたの内にいる」、すなわち、主イエスが弟子たちの内にいてくださる、そして、私どもの内にもいてくださるとは、どういうことでしょうか。それは、弟子たちの存在の内側に、私どもキリスト者の存在の内側に、ぐさりと深く食い込むように、主イエスはご自身を表してくださるということでしょう。

 

その一つ表れが、ヨハネによる福音書 第20章28節です。「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った」。トマスは、使徒たちの中で一人だけ、復活された主イエスにお会いしていませんでした。そのために、主イエスの復活を信じられず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない(第20章25節)。」と言っていたのです。しかし、主イエスが再び使徒たちの前に現れて下さった時、トマスも復活の主にお会いし、「わたしの主、わたしの神よ」と呼ばないわけにはいかなくなったのです。この時、トマスの存在の内側に、ぐさりと深く食い込むように、主イエスはご自身を表してくださったのです。そして、この貴い信仰告白の言葉をトマスに言わせたのです。「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」との事実が、主イエスとトマスの間に起こったのです。 私どもも、トマスのように、真の信仰に入れられた時、主イエスと私どもの関係は「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」となるのです。信仰に生きるということは、何か他のことは差し置いてでも、主イエスに従うことです。その第一はいつも申していますように、今私どもはしているように、主の日の礼拝を捧げることです。

 

父なる神と御子主イエスのお招きにお応えし、一週間の初めの日に、信仰の兄弟姉妹と共に、主の日の礼拝を捧げることです。そのようにして、一週間の歩みを始めることです。イスラエルの民は、農作物の最初に収穫した初物は、まず、主なる神にお捧げしました。家畜の最初の子も主にお捧げしました。そのように、私どもも、一週間の初めの時間をまず神にお捧げするのです。そうすることが、私どもが、父なる神の内に、そして、主イエスの内にいることとなるのです。そして、そのような私どのもの内に主イエスは食い込むように、入り込んでくださり、私どもの内にご自身を表してくださるのです。私どももトマスと同じように、「わが主よ、わが神よ」と呼ばずにはいられなくなるのです。それが、「あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」ということです。そして、その歩みを続けることで、20節で言われるように、そのことが「かの日には、・・・あなたがたに分かる」と主イエスは弟子たちと私どもにお約束してくださっているのです。

 

続く21節で、主イエスはこうおっしゃっています。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」ここで言われている「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」は、既に聞きました第14章15節の言葉、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」を言い換えた言葉とも言えるでしょう。このように言い換えられているということは、とても大切なことだ、ということでしょう。そして、主イエスを愛することと主イエスの掟に従うということが一つのことであるという真理の大切さをここで教えてくれているのだと思います。 では、主イエスの掟とは何でしょうか。既に主イエスがおっしゃってきたこと全てとも言えるでしょう。主イエスの言葉は、どの言葉も、私どもにとっては貴いものです。主イエスのみ言葉の貴重さは、宝石の貴重さに遥かに優るものです。なぜなら、主イエスのみ言葉に従う者には、神の救いが用意されているからです。主イエスのみ言葉に従う者には、いつまでも、父なる神と御子主イエスと共にいることが出来き、復活の命に与れる永遠の命が備えられているからです。これらは、どんなにお金を積んでも、どんなに宝石を差し出しでも、手に入れることの出来ないものだからです。

 

さらに、ここで、主イエスの掟とは、互いに愛し合うことだとも言えるでしょう。主イエスがここでずっとお話しなさっている言葉を遡りますと、第13章34節の言葉に行き着きます。主イエスはそこでこうおっしゃっています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。では、新しい掟である、互いに愛し合うとはどういうことでしょうか。主イエスはこの直前に弟子たちの足を洗われて、こうおっしゃいました。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである(ヨハネによる福音書 第13章14、15節)」。そうです。互いに足を洗うように、互いに愛し合うように主イエスは教えてくださったのです。それが、新しい掟でした。そして、本日の箇所では、その主イエスの掟を守ることが主イエスを愛することであると主イエスご自身がおっしゃっているのです。主イエスに従うこということは、主イエスを愛することです。そして、主イエスを愛するとは、私どもが互いに愛し合うことなのです。 私どもはどうしても自分中心に物事を考え、それを行動に移してしまいます。相手の気持ちを考えることが苦手です。そのような私どもに主イエスは互いに愛し合いなさい、互いに仕え合いなさいとおっしゃるのです。そう思うと、相手の気持ちを考えることが苦手だと言い訳をして、主イエスの掟から逃げてはならないのだと教えられます。自分の気持ちを落ち着けて、静まることが、私どもには必要なのでしょう。いつも主観的に物事を見、考えているのを一休みさせ、自分を見つめ直すことが求められているのでしょう。

 

そうは言っても、なかなか自分が見えないのが私どもです。その際、役に立つのが反面教師ではないでしょうか。私どもは、他の人のしていることは実によく見えます。その人の本音、本質まで見抜けます。しかし、それをその人への批判に留めていたのではもったいないのです。それは、自分を映している鏡であるとして、自分を見つめるのです。それを続けることで、自分が見えて来て、自分の嫌(いや)な面を少しずる見つめる勇気を養ってもらいたいと思います。そこから、主イエスの掟に従えるように、自分自身を変えていただきましょう。今申しているのは一つの方法です。方法はどれでもよいでしょう。とにかく、主イエスの掟、互いに愛し合いなさいとの言葉を実行に移せるように、求めてまいりましょう。そのように主イエスの掟を守って、主イエスを愛するようになりたいと思います。

 

21節後半で、主イエスは大いなる約束をしてくださっています。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」神の御子主イエスを愛する人を、父なる神が愛してくだると約束してくださっているのです。あなたも神の大いなる愛を頂けるという、まさに大きな大きな約束です。これは、私どもの究極の目標でもあります。主イエスの掟を守ることで、主イエスを愛することで、私どもは、誰よりも憐れみ深い、慈しみ深い、大いなる神の大きな愛を、深い愛をいただくことが出来るのです。何という幸いでしょう。 「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」ともおっしゃってくださいました。主イエスも父なる神と共に、私どもを愛してくださるのです。そして、ご自身をその人に現してくださるともおっしゃるのです。

 

逆を言えば、主イエスを愛さない者に、主イエスはご自身を現してくださらないということなるとも聞こえます。しかし、そうでしょうか。私は思います。主イエスはご自身をすべての人に現そうとしてくださっている。しかし、主イエスを愛さない者は、そのような主イエスさえも見ようとしない。それは、まるで、主イエスがその人にご自身を現してくださらないように、見えるということではないでしょうか。 続く22節ではこう言われています。「イスカリオテでない方のユダが、『主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか』と言った。」ここには、世に、すべての人に、主イエスがご自身を現してくだされば、伝道宣教活動がもっとうまく進むのに、もっと、皆が信仰に導きられるのにという思いがあるでしょう。確かに私どももそういう思いがあります。それに対して、主イエスはこう答えられます。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」今申しましたように、主イエスを愛さない者には、主イエスが見えないのです。ですから、どんなに主イエスが側にいても見えないのです。信仰者とそうでない人との違いはそこにあると思います。同じ恵みを頂いても、それを恵みと思うか、主イエスからの恵みと思うか、それとも思わないか。その意味で、私どもは信仰をいただいて、主イエスからの恵みを、確かに主イエスからの恵みであると分かる目を与えられているのです。これこそが、信仰を頂いていることの真に大きな恵みだと思います。

 

信仰を頂いている者は、神に愛されていることを知っています。そして、神のお姿を、見、神の御心を知ることが出来るのです。この恵みに感謝し、主をほめたたえてまいりましょう。そして、この恵みを伝えてまいりましょう。 祈りを捧げます。 私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御子主イエスが私どもに大いなる約束をしてくださいました。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」。この大いなる約束と恵みを感謝致します。どうぞ、主イエスのこのお約束を心に刻み、あなたと御子が与えて下さる希望に常に生きる者とさせてください。どうぞ、いつも、あなたを、御子をほめたたえ、従う者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。なさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか』と言った。」ここには、世に、すべての人に、主イエスがご自身を現してくだされば、伝道宣教活動がもっとうまく進むのに、もっと、皆が信仰に導きられるのにという思いがあるでしょう。確かに私どももそういう思いがあります。

 

それに対して、主イエスはこう答えられます。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」今申しましたように、主イエスを愛さない者には、主イエスが見えないのです。ですから、どんなに主イエスが側にいても見えないのです。信仰者とそうでない人との違いはそこにあると思います。同じ恵みを頂いても、それを恵みと思うか、主イエスからの恵みと思うか、それとも思わないか。その意味で、私どもは信仰をいただいて、主イエスからの恵みを、確かに主イエスからの恵みであると分かる目を与えられているのです。これこそが、信仰を頂いていることの真に大きな恵みだと思います。

 

信仰を頂いている者は、神に愛されていることを知っています。そして、神のお姿を、見、神の御心を知ることが出来るのです。この恵みに感謝し、主をほめたたえてまいりましょう。そして、この恵みを伝えてまいりましょう。

 

 祈りを捧げます。

 

私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御子主イエスが私どもに大いなる約束をしてくださいました。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」。この大いなる約束と恵みを感謝致します。どうぞ、主イエスのこのお約束を心に刻み、あなたと御子が与えて下さる希望に常に生きる者とさせてください。どうぞ、いつも、あなたを、御子をほめたたえ、従う者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

2015年11月15日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

エフェソ信徒への手紙 第2章19節~22節

 

19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 

 

 「あなたがたはキリストを要石(かなめいし)とし使徒たちを土台とする神の住いとなる~教会とは何か⑧」

                           

 今日も、皆さんとご一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝致しております。本日も、皆さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めます。創世記 第12章3節の言葉です。「あなたを祝福する人をわたしは祝福する」。

 

 「教会とは何か」をテーマにした説教を続けています。毎回いろいろな角度から、教会とは何なのかを、ご一緒に探っています。

 先程、大塚専三兄に立証していただきました。ご存知のように大塚兄は大工さんです。本日の聖書箇所には、土台、要石(かなめいし)、建物、聖なる神殿、神の住いという言葉が出てきます。大塚兄にお証しに合わせた訳ではありませんが、不思議なお導きで、このよううな箇所を与えられました。ご一緒に聖書のみ言葉を聴いてまいりましょう。

 

 先月、横浜市(よこはまし)都筑区(つづきく)の大型マンションに傾斜が見つかったことから、杭打ち工事を請け負った旭化成建材が杭打ちデータの改ざんしていたことが明らかになりました。その後、同様の杭打ちデータの改ざんが多数見つかり、連日のように関連ニュースが報道されています。

 私が申すまでもなく、建物の杭は建物を支える基礎の基礎です。そこがしっかりしていなければ、その杭の上にどんな立派なものを建てても、どんな素晴らしいものを建てても、無駄になるだけです。

 

 主イエスも信仰において土台が如何に大切であるかを、譬え話を使って分かり易く教えてくださっています。マタイによる福音書 第7章24節以下です。

    24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

 

 主イエスはそのようにおっしゃって、主イエスの言葉を聞いて行うことこそが、岩の上に家を建てた人、すなわち、しっかりした土台の上に家を建てた人に似ているとおっしゃるのです。ひたすら、主イエスの言葉を聞き、ひたすら、それを実行しようと努めることが、信仰の土台をより頑丈(がんじょう)なものとするのです。

 では、本日与えられたエフェソの信徒への手紙の一節では、何が信仰の土台であると言っているでしょうか。「あなたがたは・・・ 使徒や預言者という土台の上に建てられています。」と言っています。ここで言われている使徒とは、イスカリオテのユダに代わり選ばれたマティア(使徒言行録 第1章26節)を加えた主イエスの十二弟子、そこにもう一人、パウロを加えた十三人を指します。この使徒職はのちの時代に継承されることはありませんでした。なぜなら、使徒とは、主イエスにお会いした生き証人ということであったからです。パウロは、復活前の主イエスにはお会いしていないようですが、ダマスコに向かう途中、復活の主イエスにお会いしているのです。また、ここでの預言者とは、旧約聖書に登場する預言者とは違い、各地の教会にいた説教者のことを指しています。そこで、この言葉は、こうも言い換えられると私は思います。「あなた方の信仰は・・・使徒たちの信仰という土台の上に建てられています。」そう言ってもよろしいでしょう。

 

 

では、使徒たちの信仰とはどんな信仰でしょう。それは、使徒たちの時代に表され記され、後の時代に伝えられた新約聖書の信仰です。新約聖書は、四つの福音書、パウロのそれぞれの教会に宛てた書簡、その他の人たちの書簡、そして、ヨハネの黙示録から構成されています。使徒たちの信仰とは、その新約聖書を貫く信仰です。

それが凝縮されているのが、使徒信条です。使徒信条がまとまったのは三世紀頃と言われますが、使徒信条の名前に表されているように、それは、使徒たちの信仰を簡潔に言い表したものです。これは、私どもキリスト者共通の信仰告白でもあります。皆さんお持ちの讃美歌の566番に書かれています。お読みします。

 

    われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちより甦(よみがえ)り、天に昇り、全能に父なる神の右に座し給(たま)えり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦(よみがえ)り、永遠(とこしえ)の命を信ず。アーメン。

 

 この使徒信条こそ、使徒たち、預言者たちの信仰を言い表したもので、キリスト者の土台をなす信仰、キリスト教会の土台をなす信仰です。この使徒信条は、バプテスマを受けて、キリスト者となる人に告白してもらう信仰告白としてまとめられたという経緯もあり、私は信仰告白なさろうという方と一緒に学んでいます。

 また、以前、使徒信条を共に学び、一つ一つの言葉に秘められた恵みを共に味わうということで、最初の言葉から、終わりの言葉まで、何回にも分けて説教させて頂いたこともありました。繰り返し申しますが、大切な使徒たちの信仰の言葉、教会の土台をなす信仰の言葉ですから、いつかまた、丁寧に説教したいと思っています。

 

 では、使徒たちの信仰、使徒信条に表されている信仰とは何を信じる信仰でしょう。あえて、短く申せば、それは、十字架と復活の信仰です。主イエスが十字架で死んでくださった。そして、三日目に、復活なさったことを信じる信仰です。使徒言行録 第2章36節ではこう言われています。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。皆が寄(よ)って集(たか)って十字架につけて殺したナザレのイエス、しかし、三日目に墓から復活したナザレのイエスは、実はメシア、救い主だったのだ、ということです。それこそが、使徒たちの信仰の核心部分です。使徒信条で告白している信仰は大枠では、父子御霊なる神を信じるという三位一体の信仰ですが、その核心部分もこれと同じです。十字架と復活を信じる信仰です。

 このように、私どもの信仰、そして、キリスト教会の信仰は、本日の聖書箇所の20節で言われていますように、「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身である」のです。私どもの他でもない要石(かなめいし)はキリスト・イエスなのです。それは、言い換えれば、キリストの十字架と復活こそ、私どもの信仰の核心部分なのです。

 

 キリストが救い主として、私どもの罪すべてを十字架で償ってくださった。しかし、私どもの救い主、主イエスは死んだままではなかった。三日目に墓から甦られた。それが、使徒たちがまず宣(の)べ伝えたことです。初代教会は、何よりもこのことを宣(の)べ伝えたのです。

 そして、本日の聖書箇所、21節ではこう言うのです。「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」。キリスト者である私どもは、使徒たちと預言者たちを土台として、彼らの信仰を土台として、信仰者として、建て上げられるのです。それは、キリスト教会も使徒たちの信仰を土台として建て上げられているのと同じです。しかも、要石(かなめいし)、建物を支える重要な石にあたる私どもの要石(かなめいし)、であり、教会の要石(かなめいし)は、主イエス・キリストなのです。キリストの十字架と復活を信じる信仰が、私どもを、教会を建て上げる要(かなめ)となるのです。

 

 それにしても、本日の聖書箇所で、「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、・・・主における聖なる神殿となります。」と言われていることは、何と光栄なことでしょう。神に背いて、罪を重ねていた私どもが、御子主イエスの十字架によって、一切の罪が赦されるのです。それだけでなく、御子主イエスの兄弟とされ、私どもも神の子とされ、神の家族とされるのです。しかも、使徒と預言者たちを土台とし、キリストを要石(かなめいし)とする聖なる神殿とされるのです。それは、畏れ多いことです。しかし、罪赦された者は、神に聖なる者とされ、神を礼拝する神殿、神に捧げ物をする神殿、神の住いとしての役目を担うのです。罪人であった私どもにとって、真に有難いこと、実にもったいないことです。

 

 繰り返しますが、そこで、肝心(かんじん)なのが、何を土台とするかであり、何を要石(かなめいし)とするかです。そこを間違えてはいけませんし、しっかりと要石(かなめいし)を据えていただき、しっかりと土台の上に建て上げなければ、ならないのです。

 

 ところで、私の好きなテレビ番組の一つに、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」があります。皆さんの中にもお好きでご覧になっておられる方があると思います。先月その番組の放送10周年スペシャルが放映されました。過去に登場した291人の中から、お笑い芸人の岡村隆史さんが選んだ3人のプロフェッショナルを訪ね、対談するというものでした。その3人の一人が歌舞伎役者の坂東玉三郎さんでした。岡村さんが感銘を受けた坂東玉三郎の仕事の流儀の一つ目は、「遠くを見ない、明日だけを見る」でした。場坂東さんはこのように言っています。「若い時は明日のことよりも、将来のことが気になるのは当然、将来が気になるってことは、不安だからでしょ。でも、今日、明日をしっかりやる。これを重ねていけば、必ずたどり着くと思います。」そう答えていました。坂東さんは、そのような確固たる信念を持って、物事にあたっているのです。そして、最後に、「明日頑張るために言葉をください」との依頼に、坂東さんはこう答えています。「“気楽”にいけばいいじゃない?」。真に含蓄のある答えだと思います。「遠くを見ない、明日だけを見る」で、余計な心配をせず、目の前のことに集中する。しかし、そこで行き詰まったらどうするか。「“気楽”にいけばいいじゃない?」ということでしょう。焦ることなく、肩の力を抜いて、やっていきましょうというのです。(主イエスも同様のことをおっしゃっています。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である(マタイによる福音書 第6章34節)。」)道を究め、さらなる高みに向かおうとしている方ならではの流儀というか、信念を見た思いがしました。生き方、物事への向き合い方に、そのような信念を貫いて来たからこそ、今の彼があるのだと思いました。

 

 本日、信仰の土台がしっかりしていることが如何に大切かをご一緒に覚えました。そして、今、坂東玉三郎さんの仕事の流儀、貫いている信念、言い換えれば、生き方の土台に何を置いているかを、ご一緒に覚えました。何事においても土台、基礎が大切なのです。本日、最初に、マンションの杭のデータ改ざん問題に触れました。土台がしっかりしていなければ、その上にどんなに素晴らしいもの、立派なものを建てても、意味がないのです。私どもは、今日(きょう)、教会の信仰の土台が何であるかを確認しました。そして、私どもの信仰の土台も同じであることを覚えました。この土台の上に、信仰共同体である教会を建て上げ、神の住いとしてくださる私ども自身を建て上げてまいりましょう。

 

 祈りを捧げます。

 

 私どもの要石(かなめいし)となってくださいます主イエス・キリストとその御子キリストを私どもに与えてくださった父なる神よ。あなたが、私どもを神の家族としてくださり、キリストを要石(かなめいし)とし、使徒たちの信仰という土台の上に、私どもを建て上げて下さいますことを感謝致します。どうぞ、あなたから与えられた正しい信仰の上に、しっかりとした土台の上に、私どもを、私どもの信仰を建て上げてください。そのために、正しい信仰を、十字架と復活の信仰を正しく受け入れ、さらには伝えるようにと、キリストの体なる教会に、私どもを連ならせてくださっていますことを、感謝致します。どうぞ、私どもの信仰が揺らぐことのないように、いつもしっかりと土台の上に立っていくことが出来ますように、私どもを守り、お導き下さい。私どもの救い主、主イエス・キリストのお名前によって、祈ります。アーメン。

大塚専三兄弟 あかし(音声)

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2015年11月22日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第14章25節~31節

 

 25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

 

「わたしたちに勇気を与えてくださる主イエス」

 

 本日も、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。ヨシュア記 第1章5節の言葉です。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」。

 

 今、申しました言葉のように、聖書は旧約、新約を通じて、神が私ども共にいてくださることを告げています。先ほどの交読文の詩編 第23編も、そうです。主なる神が羊を守り導く羊飼いのように、いつも私どもを守り導いてくださると詩人は歌い出すのです。これは真(まこと)に私どもにとって心強い事です。しかし、私どもはつい主イエスが地上にいてくださった時、特に、その時お側(そば)にいた弟子たちを羨(うらや)みます。あの時は、主イエスのお姿をこの目で見て、お声を直接聞くことも出来た。そして、主イエスに触(ふ)れることも出来た。触(さわ)れば、この手で主イエスの温(ぬく)もりを感じることも出来た。弟子たちが羨(うらや)ましい。そのような思いは、昔から信仰の先輩たちが抱き続けてきた思いでしょう。そのような思いに応えるような言葉を、本日の聖書箇所で主イエスはおっしゃっています。

 

 ご一緒にヨハネによる福音書の言葉を聴き続けています。主イエスの言葉が本日の箇所でも続いています。この時、主イエスと弟子たちの別れの時が近づいています。そのことは、本日の冒頭の25節の言葉からも分かります。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」。主イエスと弟子たちが今はもう一緒にいないことを前提にしているような言葉です。ここで、「あなたがたといたとき」と言われています。不思議な言い方です。「今、わたしはあなたがたと共にいない。しかし、あなたがたと一緒にいた時に、既にこれらのことを話しておいた」と聞こえる言葉です。主イエスがこの場面でお話しされた言葉と言うよりも、十字架に架けられ、復活されたのち、天に昇られ、神の右の座におられる主イエスがおっしゃっている言葉のような響きがあります。なぜ、このような言葉が語られたのでしょうか。これについての解釈の一つに以下のようなものがあります。ヨハネ福音書の福音書記者は、この時の主イエスと弟子たちの対話を、後の世の教会と主イエスとの対話、教会に対する主イエスの語りかけと理解して記録したのである。そのような解釈があります。そこから、ヨハネによる福音書の福音書記者は、ここでの主イエスのお言葉を、弟子たちに向けられた言葉として聞きつつ、同時に、主イエスが今の自分たちの教会に向かって語られた言葉として聞いていたと想像出来ます。そのようにして聞いていたということは、今の私どもが聖書の言葉を聞くのに近いものがあります。

 

 そもそも、主イエスの言葉が語り伝えられ、書き記された理由の一つはこうです。主イエスは弟子たちや当時の人々に語られた。しかし、それだけではない、時空を超えて、御霊のはたらきによって、今ここに生きている私どもに向かっても主イエスは語っておられる。だから、主イエスが地上で語られたお言葉と、なされたことを伝えることは、過去の記録というよりも、むしろ、今の私どもへの貴重なメッセージである。そう言えるのではないでしょうか。

 

 そのような思いで、本日の聖書箇所の主イエスの言葉も聞いてまいりましょう。26節です。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。ここで、主イエスは聖霊のおはたらきについておっしゃっています。聖霊のおはたらきの中でも、「教える」ことが重要であるとおっしゃっています。主イエスはこうおっしゃっていると理解出来るでしょう。「わたしがあなたがたに必要なことはすべて教えた。しかし、あなたがたはすべてを理解した訳ではない。しかし、聖霊がわたしの教えたことを思い起こさせ、それを理解させてくださる」。そうです。主イエスが復活され、天に昇られる時にも、弟子たちは主イエスのことをまだ充分に分かっていませんでした。使徒言行録 第1章6節では、こう言われています。「使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた」。使徒と呼ばれるようになる十二弟子たちでも、聖霊降臨までは、聖霊が来てくださり、教えてくださるまでは、主イエスが如何なるメシア、救い主であるかを分かっていなかったのです。そのような中で聖霊降臨が起こったのです。主イエスがここでおっしゃったように、聖霊が主イエスのお言葉を思い起こさせ、弟子たち初め皆に、主イエスのおっしゃったことと、なさったことの意味を悟らせてくださったのです。コリントの信徒への手紙 一 第12章3節ではこう言われています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。このように、聖霊のおはたらきなしには、私どもは、主イエスのお言葉を思い起こせず、悟れず、主イエスこそ私の救い主と信仰告白出来ないのです。私どもは日頃、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」のおはたらきに気付かず、分かりません。しかし、ここでの主イエスのお言葉から、ナザレのイエスと呼ばれた方こそ、私どもの救い主であることを聖霊が教えてくださることが分かります。

 

 そして、主イエスはこうおっしゃいます。27節です。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。ここで主イエスは「平和」「平安」についておっしゃっています。そこで思うのですが、日本語で、「平和」と訳するのと、「平安」と訳すのでは大きく意味合いが違ってきます。

 

 そこで、前後のつながりが悪くなりますが、まず、「平和」と訳した場合で理解してみましょう。去る11月13日(金)、日本時間では14日早朝、フランスのパリで同時多発テロが過激派によって起こされ、120人以上の方が犠牲になりました。世界を震撼(しんかん)させました。そして、その前に起きたロシア機墜落事故も、過激派の仕業であることが分かりました。さらには、西アフリカ・マリの首都バマコで20日朝、過激派の武装集団が高級ホテルを襲撃し、宿泊客ら約170人を人質に立てこもり、マリ軍の特殊部隊が救出作戦行いましたが、27人の遺体が見つかったと伝えられました。犠牲者はもっといるとも言われています。そして、21日、ベルギーのミシェル首相は、緊急の記者会見を開き、「極めて具体的なテロ情報があった」として、首都ブリュッセルのすべての地下鉄駅を閉鎖し、テロ警戒レベルを4段階の最高である4に引き上げたと発表しました。これらの事件で犠牲になった方々と家族、親しい方々に主のお慰めがあるように祈りたいと思います。

そのような中、パリの同時多発テロで妻を失ったフランス人ジャーナリスト、アントワーヌ・レスリさんがフェイスブックに書いた「決して君たちに憎しみという贈り物はあげない」とのテロリストに向けてメッセージが多くの人の共感を呼んでいます。フェイスブック上で20万回も共有され、「あなたの言葉は武器よりも強い」などとのメッセージも寄せられているということです。

 

 一方、フランス政府は、テロの報復として、過激派への空爆を続けると発言し、実際に行いました。ある評論家は、このような場合、妻を失ったフランス人ジャーナリスト、アントワーヌ・レスリさんの「決して君たちに憎しみという贈り物はあげない」とのテロリストに向けてメッセージを政府が発することは難しいだろう、と言います。そのようなことをしたら、多くの国民の反発を呼んでしまうだろうと言います。事実、2001年のニューヨークの同時多発テロのあとで、アメリカ大統領は報復を約束したところ、それまでの低かった大統領支持率が90パーセント近くまで上がったということもありました。それは昔も同じで、主イエスの時代、ローマの平和と呼ばれた地中海地域の安定は、ローマ帝国の絶大な軍事力によるものでした。そのように、主イエスのおっしゃる「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」との言葉のように、世が、そして私どもが作ろうとする平和は、武力、軍事力によって、相手を叩(たた)きのめすことによって、もたらされる安定のよる平和です。それは、主イエスが与えてくださるような平和ではなく、主イエスが与えてくださるように与えられる平和でもありません。主イエスの与えてくださる平和は、十字架によって、神と人との間に和解をもたらし、人々の間に和解をもたらしてくださる平和です。武力でもたらされる平和安定ではなく、赦しによってもたらしてくださる平和です。それを体現しているのが、今、紹介しました、妻を失ったフランス人ジャーナリスト、アントワーヌ・レスリさんの「決して君たちに憎しみという贈り物はあげない」とのテロリストに向けてメッセージではないでしょうか。一人の力はとても小さいです。しかし、大勢の人が力を合わせれば、政府を、そして、世界を動かしてきた事実もあります。主イエスが与えてくださる平和を求めてまいりたいと思います。

 

 さて、この27節の「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」との言葉の平和を「平安」と訳した方が、前後関係のつながりがよくなるようです。今、弟子たちは不安なのです。主イエスがもうすぐいなくなってしまうという不安に襲われているのです。心が騒(さわ)いでいるのです。そのような弟子たちに主イエスは平安を、安らぎを与えてくださるのです。それも、世が与えるように与えるのではなく、です。その根拠が続く28節で告げられます。こうです。「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである」。 主イエスは去って行かれます。しかし、戻って来てくださるのです。それによって、弟子たちは平安に与ることが出来るのです。ここで主イエスは戻って来られるとは、再臨の時と言うよりは聖霊降臨の時であろうと言われます。既に聞いました第14章16節で主イエスは、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」とおっしゃいまいました。別の弁護者である聖霊が来てくださることによって、主イエスは私どもと一緒にいてくださるとおっしゃっているのです。そうです。天に昇られた主イエスは目に見えません。しかし、三位一体の主である御霊が来てくださることは、主イエスご自身が一緒にいてくださるに等しいことだと、主イエスご自身が教えてくださっているのです。主イエスへの信仰と信頼によって、聖霊への信仰と信頼によって、そのことを私どもも分からせていただきましょう。それゆえ、弟子たちは主イエスが27節でお約束してくださる平安をいただくことが出来るのです。このように、主イエスは聖霊をお遣わしくださることによって、「わたしは、平和(平安)をあなたがたに残し、わたしの平和(平安)を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」とおっしゃるのです。聖霊が、そして、主イエスご自身が一緒にいてくださるゆえに、心騒がすことなく、おびえることもなく、歩むことが出来るのです。

 

 さて、28節後半では、「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」と言われています。既に聞きました第14章2節以下で、主イエスはこうおっしゃいました。「2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。そうです。主イエスは私どもを迎えるために、父のもとに行かれるのです。また、主イエスは私どもが罪に定められないように、執り成してくださるために、父なる神のもとに行かれるのです。ローマの信徒への手紙 第8章4節で言われている通りです。こう言われています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。このように、主イエスが父なる神のもとに行かれるのは、すべて私どものためなのです。このすべてが私どものためであるということが、主イエスの「父はわたしよりも偉大な方だからである。」との言葉に要約されていると私は思います。父なる神は、御子主イエスよりも偉大な方であり、御子主イエスよりも大きな愛で私どもを包んでくださるのです。ですから、御子が父なる神のもとに行かれることは、良い事であり、そのことを知ったなら、私どもは、主イエスが側(そば)にいてくださらなくて寂しく悲しい思いをするだろうが、結果的にとても良い事を素晴らしいことをもたらしてくださるので、そのことを知ったなら喜びに溢れるのです。このような訳で、「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。」と主イエスはおっしゃるのです。主イエスを愛するとは、主イエスを信頼することでもあります。主イエスのお言葉を信じてまいりましょう。

 

 主イエスは、さらに29節でこうおっしゃいます。「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」。主イエスは、ご自分が十字架の苦しみをお受けになること、しかし、三日目に墓から復活されること、そして、聖霊を送ってくださることを予告してくださいました。預言してくださいました。これらは、偶然に起こったことではなく、神のご計画であることが分かり、そのように信じるように、主イエスはここでおっしゃるように、その事の起こる前に話しておいてくださるのです。それは、弟子たちが平安でいられるためでもあったでしょう。主イエスはそのように、弟子たちを守り導いてくださっているのです。それは、主イエスが今の私どもにしてくださっていることと同じです。主イエスは私どもが心騒がさないように、おびえないように、常に私どもを守り、導いてくださっているのです。主イエスを信頼し、従ってまいりましょう。

 

 さらに主イエスはこうおっしゃいます。30節です。「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」。

 ここでの「世の支配者」はサタンを指すそうです。そこから、この場合の「世の支配者」とは、主イエスを裏切り、主イエスを捕える手引きをするイスカリオテのユダのことだと言う方がいます。イスカリオテのユダがもうじき人々を引き連れて主イエスを捕えるためにやって来るのです。それゆえ、もう時間はなく、多くは語れないのでしょう。しかし、「だが、彼はわたしをどうすることもできない」と主イエスはおっしゃいます。イスカリオテのユダに導かれて来る人たちは、主イエスに手をかけます。主イエスを捕えます。不当な裁判をさせます。主イエスを十字架につけます。しかし、結局、主イエスを支配することは出来ないのです。主イエスは復活なさるからです。一見、イスカリオテのユダも、彼に導かれて来る人たちも、自分たちの悪巧(わるだく)みが成功したように見るでしょう。しかし、実は、それも神のご計画だったのです。神が私どものすべてを罪を赦し、そこから救い上げる救済計画の中の出来事だったのです。そして、それを成し遂げた御子主イエスは、死にも勝利なさるのです。結果的に、主イエスのおっしゃるように、「だが、彼はわたしをどうすることもできない」のです。

 

私ども人間はしばしば悪巧(わるだく)みを行います。誰にも知られずに悪巧(わるだく)みは成功したように思えます。しかし、すべての悪は、白昼のもとに引き出されるのです。主イエスに対する悪巧(わるだく)みがそうであり、最近起こっている、国家の中や、一流企業の中での組織的な悪巧(わるだく)み、組織的なドーピングや組織的な不正なデータで検査を通ろうとすることもそうでしょう。義なる神に対して、御子主イエスに対して、私どもはどうすることも出来ないのです。むしろ、義なる神に立ち帰らなければならないことが、益々明らかになるのです。

 

 本日の箇所の最後に主イエスはこうおっしゃいます。31節です。「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう」。主イエスは父なる神を愛し、父なる神の御心に必死に従っておられるのです。それは、十字架の死をも意味するのです。それこそが最善の道であると、父なる神に全幅の信頼をもって、主イエスは従われているのです。この主イエスの従順な服従があったからこそ、私どもに救いの道が開かれたのです。そのことを私どもは知らなければならないのです。

 

ところで、キリスト者は主イエスに救われた者です。そして、その主イエスの救いにお応えするために、主イエスに倣って生きる者です。ですから、私どもも、ここで言われている主イエスに倣って、父なる神がお命じなっている通りに歩んでまいりましょう。私どもを愛してやまない、父なる神の御心に従って、進んでまいりましょう。

 本日の箇所の最後の言葉、「さあ、立て。ここから出かけよう。」については、解釈が分かれます。このあとの第15章でも主イエスの言葉が続くからです。しかし、ここまででの主イエスの言葉は、ここでクライマックスを迎えるのです。実際に主イエスが弟子たちと出て行かれるのは、もう少し、語られてからです。しかし、主イエスの思いは、もうこの時点で、十字架に向かって出て行かれるのです。そして、主イエスがいなくなるという不安におびえていた弟子たちは、主イエスから、ここで慰めと励ましを受け、そして、勇気を受け、主イエスと一緒に出て行くのです。

 

 本日の箇所は、主イエスは、一節、一節、別のことを話されているよにも聞こえます。しかし、一貫して、弟子たちに真理を告げ、励ましてしている言葉なのです。そして、それは初めに申しましたように、弟子たちだけでなく、その後の教会に集う人々を、キリスト者たちを慰め、勇気づける言葉となるのです。私どもも聖霊のお導きによって、父なる神と御子主イエスの真理を教えていただきましょう。そして、この時に弟子たちが抱いたような不安に心騒がすことなく、主イエスの大いなるお守りとお導きを知って、主イエスに従っていく勇気をいただきましょう。「さあ、立て。ここから出かけよう。」との主イエスの言葉に従って、主イエスについてまいりましょう。

 

 祈りを捧げます。

 

私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御子主イエスは私どもに大いなる約束をしてくださいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。どうぞ、私ども主イエスに従った弟子たちのように、あなたのくださる平和、平安をしっかりといただいて、私どもが心騒がせることなく、おびえることのないように、私どもをお守り、お導き下さい。さらに主イエスは「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。」と、おっしゃってくださいました。いつの時も主イエスが私どもと共にいてくださることを信じ、従う者とさせて下さい。この大いなる約束とお恵みを感謝致します。どうぞ、私どもも、信仰による勇気に生きる者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

【司式者の祈り】

 主イエス・キリストの父なる神よ。この朝も、あなたは私どもの名を呼んで、主の日の礼拝にお招きくださいました。そして、今、礼拝をお捧げしています。このお恵みを心より感謝申し上げます。

 今月は私どもの教会ではリバイバル月間です。そして、日本バプテスト同盟では、「教会・伝道所・集会所を覚える月間」です。また、本日は「教会・伝道所・集会所 支援の日」です。あなたが今日(こんにち)まで、日本バプテスト同盟の諸教会・伝道所・集会所の伝道のはたらきをお導きお恵みくださいましたことを感謝致します。しかし、今、各教会の教勢は衰えています。伝道不振が続いています。どうぞ、このような時こそ、私どもが悔い改めるべきことはっきりと知ることが出来ますように、私どもをお導き下さい。そして、私どものあなたへの信仰をリバイバルさせてください。奮い立たせてください。ひたすらあなたへの信頼を深め、あなたの御業が行われることを願い求める者とさせてください。

 今日も、み言葉を下さい。私どもの魂の糧であるみ言葉をください。そのみ言葉によって生かされ、あなたに仕える者とさせてください。そして、自分の栄光でなく、あなたの栄光を求める者とさせてください。あなたに栄光を帰す生き方を貫かせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

2015年11月29日 日本バプテスト厚木教会 アドベント 第一主日礼拝

 

ルカによる福音書 第1章5~25節

 5 ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。11 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。12 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。13 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」18 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」19 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。20 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」21 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。22 ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。23 やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。24 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。25 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。

 

ルカによる福音書 第1章57~80節

 57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。

  68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、

  69 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。

  70 昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。

  71 それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。

  72 主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。

  73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、

  74 敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、

  75 生涯、主の御前に清く正しく。

  76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、

  77 主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。

  78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、

  79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」

  80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

 

 

「救い主をお迎えしよう」

 

本日も、このように主の日の礼拝、本日はアドベント第一主日の礼拝を、皆さんと共にお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。皆さんに、聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めます。ローマの信徒への手紙 第1章7節の言葉です。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

 

本日から、教会の暦では、クリスマスを待つアドベントに入りました。既に、駅前などは、クリスマスのイルミネーションが綺麗に輝いています。お家(うち)でもクリスマスの飾り付けをなさった方もあるのではないでしょうか。我が家では、先週、妻と子どもたちが家の中のクリスマスの飾りつけをしてくれました。もう、気分はクリスマスという方も多いと思います。この近くの厚木中央図書館の3階では、この時期になりますと、クリスマスの音楽のCDをまとめて置いてくれています。讃美歌やバッハのクリスマスの曲から、ポピュラーなクリスマス・ソングまで、いろいろ並べてくれています。毎年、その中の2、3枚を借りて、私もクリスマス気分を味わっています。

 

 教会の暦は、本日のアドベント第一主日から始まります。ですから、教会の暦では、本日が一年の始まり、元日にあたります。このように、クリスマスを待つ、御子のご降誕の祝いの備えをすることから、教会の暦の一年は始まるのです。また、この時期は、単にクリスマスを待つだけでなく、再臨、主イエスが再びこの地上に来られるのを待つことに心を向ける時期とされています。墓から復活された主イエスは天に昇られ、神の右の座につかれました。そこで、父なる神と共に、世界を支配し、同時に、私どもの罪の執り成し、私どもの罪を赦していただけるように父なる神にお願いしてくださっているのです。その主イエスが、終わりの時に再び地上に来てくださるのです。それは、私どもの救いの完成であり、同時に、最後の審判の時でもあります。主イエスは、その日は突然来るとおっしゃいました。ですから、その日のために、私どもはいつ主イエスの前に呼ばれても良いようにしていなければならないのです。うつつを抜かしてはいられないのです。そのように、クリスマスを待つと同時に、再臨の主イエスを待つのが、アドベントです。静まって、良き備えをして、クリスマスを、主の再臨を、待ちたいと思います。

 

 本日与えられました聖書箇所は、少々長いものです。洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネと呼ばれる人の誕生の予告と誕生にまつわる出来事が記されています。このバプテスマのヨハネは、のちに救い主がいらっしゃることを預言し、人々に悔い改めを迫った人です。その様子は、このヨハネが誕生したのち、父ザカリアが賛美した通りです。すなわち、先程朗読しました76節、77節です。こうです。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、/主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである」です。

 

 そして、ヨハネは誕生においても、主イエスに先立ちましたので、ルカによる福音書では、主イエスのご降誕を書き記す前に、ヨハネの誕生を記しています。

 

 本日の箇所はこう始まっています。「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった」。ヘロデ大王の時代です。主イエスは三十歳位で、公生涯に入られ、救い主としてのはたらきを本格的になさるようになります。その時も、ヘロデ王が出てきます。本日の箇所に出てくるヘロデ、ヘロデ大王は、その父親です。その時代、バプテスマのヨハネの父ザカリアは祭司の一人で、二十四ある祭司の組の八番目にあたるアビヤ組に属していました。妻のエリサベトも、アロンの家の娘であったということですから、祭司の家系でした。当時、祭司は一万八千人から二万人いたと言われます。ですから、8節、9節で言われていますように、「ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった」というのは、頻繁(ひんぱん)にあるわけではありませんでした。今、申しましたように、祭司は二万人ほどいましたので、この時のザカリアのように、たった一人で、神殿の聖所に入り、礼拝をし、祭司としてのお務めを果たすのは、一生の内、一度あるかないかであったと考えられています。

 

 そうだとすると、ザカリアはどのような思いで、主の聖所に入り、香をたいていたでしょうか。めったにやることではないですから、もしかしたら、これが初めてであったかもしれません。たぶん、手順を間違えないように、とても緊張して、祭司の務めをしていたことと思います。そして、その時のことを聖書はこう伝えています。10節以下です。「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」。大勢の民衆が祈っているのです。たぶん、ザカリアのお務めが無事終わりますようにとも祈られていたでしょう。その時、聖所で香をたいていたザカリアの前に、主の天使が突然現れたのです。礼拝は昔も今も、神のご臨在を求めてなされます。主よ、あなたをほめたたえます。どうぞ、ここに降(くだ)って来て、私どもの礼拝を、賛美をお受けください。そのように礼拝を捧げています。ですから、主の天使が現れてくださったことを、ザカリアはむしろ喜ぶべきでした。しかし、実際はそうではなく、「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」というのです。

 

 これは、神の突然の介入です。神はこのように私どもの生活に突然介入なさるのです。私ども信仰者は、神のお恵みとお導きをいつも求めていますので、神がなしてくださることを喜んで受けるはずです。しかし、実際はどうでしょうか。しばしば、私どもは、自分の目論(もくろ)み、予定が狂ってしまったとして、喜ばないのではないでしょうか。

 二十世紀を代表する神学者の一人、カール・バルトはこう言いました。「われわれ人間の自然の営みが、神に妨害されない限り、それは癒(いや)されることはない」。これは、神に妨害された時に、我々人間の本当の生活が始まるということです。彼は繰り返し、そう言い続けたのです。

 

 さて、ここで、誕生が預言されたバプテスマのヨハネも、そして、彼が預言することになる主イエスも、のちに殺されてしまいます。ヨハネはヘロデ大王の息子のヘロデに、そして、主イエスはエルサレムの祭司長たちを中心とする当時の指導者たちに、殺されるのです。この二人は神に遣わされたのです。その意味で、バプテスマのヨハネのはたらきも、主イエスの御業も、人間の歴史に神が介入された出来事でした。人間の歴史が水平に進んでいると考えると、特に、神の御子キリストのご降誕は、人間の水平方向の営みに、神が垂直に介入なさったようなもの、垂直に楔(くさび)を撃ち込まれた出来事であったと言われます。そのことを喜び、神に従った人々もいましたが、ヨハネも主イエスも、結局は邪魔者として抹殺されてしまったのです。

 

ところで、そのように、ヨハネを殺し、主イエスを十字架につけたのは、当時の人たちだから、そうしたのでしょうか。今の私どもだったら、そのようなことはしなかったでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。むしろ、今の私どもの方が、欲が深く自分勝手で、そのような過ちを犯しやすいのではないでしょうか。そうです。主イエスをそしてヨハネを殺してしまった当時の人たちだけが悪いわけではないのです。その後の歴史を見ても、私ども人間は、神に向かって、そして、隣人に向かって、罪を重ねてきました。そして、今も、それが続いています。そのような中で、特に神に遣わされた人の出現や、今申しました神の突然の介入を、私どもは大いに嫌ってきたのです。

 

 自分は自分のしたいように生きる。自分の事は、自分が決める。誰か他の人が困る訳ではないのだから、自分のこと、自分たちだけのことなんだから、どうしたって構わないじゃないか、という考えを持っている方が多いように思えます。自分の人生、どう生きようと、俺(おれ)の勝手さ、という考え方です。確かに、自由は大切です。他の人によって、自由を奪われるようなことがあってはなりません。しかし、その大切な自由を取り違えてしまうと、大変なことになります。それぞれが、勝手に生きていたら、社会の基盤が崩れてしまうでしょう。これは人ごとではありません。それは、私ども自身が、神に対して、私の勝手でいいではないか。神といえども、私の生活に、人生に介入して来ないで欲しい。そのような神へ不平と不満となる危険はないでしょうか。

 

 さて、ザカリアは天使から、「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」との喜びの知らせを頂いたにもかかわらず、天使に向かってこう言うのです。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。それを聞いた天使は答えました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。このように、神の介入を喜ばず、天使の言葉、神の言葉を信じなかったザカリアは、口がきけなくなってしまいました。沈黙を強いられたのです。静まることを強制させられたのです。

 静まること、静まって神の言葉を聞くこと、そして、神の言葉を受け入れ、神の介入を受け入れること、それが、私ども信仰者には求められるのです。次回、来週の聖書箇所は、母マリアの受胎(じゅたい)告知(こくち)の場面です。マリアにとっても、神の介入は突然のことで、驚くばかりでした。しかし、マリアは驚きながらも、天使の言葉を聞いたのです。真摯(しんし)に、真剣に聞いたのです。しかし、本日の箇所のザカリアはそれができなかった。そのため、沈黙を与えられるのです。しかし、これはザカリアにとっても、妻のエリサベトにとっても、良いことだったでしょう。生ける神が、自分たちにはたらいてくださったことを、そののちの数ヶ月、ザカリアとエリサベツは静まって考え、心に刻むことができたと思います。

 

 私どもも静まることが求められています。自分の考えばかり神に申し上げるのではなく、静まって、神に聞くのです。へりくだって、神に聞く者を神はお恵みくださるに違いありません。

 

 私事になりますが、私も神の突然の介入を経験致しました。それは、私が、宣教研修所、今の日本バプテスト神学校に入るように、神から示されたと感じた時でした。前にもお話ししたことがあると思いますが、もう一度お話しさせて頂きます。それは1991年の夏の大島新生教会の主の日の礼拝のあとの報告の時です。そこで、役員さんの一人が、日本バプテスト同盟総会の報告をしている中で、当時の日本バプテスト同盟の神学校、宣教研修所のことを話している時です。突然、私にそこで学んで伝道者になるように示されたと感じたのです。真(まこと)に不思議な体験でした。自分の思いではなく、自分の外から声をかけられたと感じたのです。そして、私の背中を押すような感覚もしたのです。それからというもの、私はそれを神からの召し、召命と強く感じるようになりました。先の見通しはまったくありませんでしたが、これが、神からのお召しであるならば、これに従わなかったら、一生悔いが残ると思いました。そして、キリスト者である母にそのことを話すと、お前がそう思うのなら、全面的に協力すると言ってくれました。とても嬉しかったです。そして、教会の牧師と皆さんにも祈っていただき、応援していただきました。仕事を辞め、翌年、1992年の春、宣教研修所に入学させていただきました。

 

 神は、このように突然、私どもの歩みを変えられることがあります。もしかしたら、それは、事故、病気だったり、私どもの望まないことである場合もあるでしょう。何で自分だけ、このような重荷を負わなければならないのかと、神に訴えたくなることもあるでしょう。しかし、決して、神は私どもをお見捨てになりません。神の突然の介入で、自分のしたかったことが中断されたり、断念しなければならないこともあるでしょう。悔しい思いが募ることもあるでしょう。しかし、私ども人間の歴史に、御子主イエスという楔(くさび)を撃ち込んでくださった父なる神は、そのようにして、私どもに救いの道を開いてくださった主なる神は、決して、私どもを孤児(みなしご)のようにはなさらないのです。私ども捨て置くようなことはなさらないのです。私どもを支え、守り、お導き下さるのです。いつの時も、主なる神を信頼し、従ってまいりましょう。

 

 本日の聖書箇所の終わりは、ザカリアの賛美です。口がきけるようになったザカリアの口からは賛美が溢れ出たのです。ある人は言います。ザカリアは口がきけない間、自分の中で、この賛美を繰り返していたのだろう。そして、口がきけるようになると、溢れる賛美を抑えることができなかったのだろう。

 

 この時、誕生したバプテスマのヨハネが大人になって、神の御用を始めた時のことを、ルカによる福音書 第3章2節以下で、こう伝えています。「2・・・神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣(の)べ伝えた」。多くの人がヨハネのもとに来て、悔い改めのバプテスマを受けたのです。ヨハネには何人もの弟子がいたようですし、彼の言葉に従う人も多くいたようです。ヨハネ教団とも言えるほど、多くの人が彼に従ったようです。しかし、ヨハネは、そこで私に従って来なさいと言うのではなく、ひたすら救い主、主イエスを指し示したのです。こう伝えたのです。第3章18節です。「わたしはあなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物(はきもの)のひもを解く値打ちもない」。ヨハネは、私どもの今年度の聖句、標語のように、自分の栄光を求めるのではなく、主に栄光を帰し、ひたすら主イエス・キリストを救い主と指し示したのです。救い主をお迎えするということは、そういうことです。自分の栄光を求めるのではなく、父なる神の栄光を求め、御子主イエスの栄光を求めるのです。そのようにして、心から御子のご降誕を喜び、祝うのです。私どもの罪を償うために、十字架に架けられるために、ただただ、私どもの罪が赦され、私どもが救われるために、主イエスは私どものところに来てくださったのです。この方をご一緒にお迎えしましょう。

 

 そして、私どもも、神の御業を待ち望み、神の介入を拒むのでなく、期待をもって待ちましょう。たぶん、神が御業を行い、私どもの生活に、人生に介入して来られた時、私どもはうろたえるでしょう。しかし、そこで、ひたすら神に祈り従うのです。神を信頼して、ついて行くのです。その中で、信仰者としての歩みを教えられることでしょう。また、ザカリアのように、静まる時をいただきましょう。おしゃべりをやめ、沈黙してみましょう。そして、主の言葉をひたすら聞くのです。

 

 待降節のこの時、ザカリアに起こった出来事に静かに心に巡らし、信仰をいただいて歩むことの意義を吟味したいと思います。その上で、主をほめたたえつつ、主イエスの降誕の祝いと主の再臨を待ちましょう。そこに、大きな主の祝福があることを信じています。お祈りを致します。

 

 私どもの救い主、神の御子主イエス・キリストの父なる神よ。アドベントのこの時、どうぞ、私どもを主をお迎えするにふさわしく整えてください。どうぞ、私どもをご降誕の喜びに満たしてください。そして、この喜びを一人でも多くの人にお伝えできますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

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