2015年10月4日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

マタイによる福音書 第28章16節~20節

 

 16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

「伝道・真の救いを宣(の)べ伝える~神の業・教会の業―教会とは何か⑥」

                              

 今日も、皆さんとご一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝致しております。本日も、皆さんに聖書の中の祝福を祈る言葉をお贈りして、説教を始めます。ヨハネの手紙 三 3節の言葉です。「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」

 

 「教会とは何か」をテーマにした説教を続けています。毎回いろいろな角度から、教会とは何なのかを、ご一緒に明らかにしています。

本日与えられました聖書箇所を先ほど朗読致しました。マタイによる福音書の最後の部分です。主イエスは捕えられ、不当な裁判にかけられ、十字架刑に処せられたのです。しかし、三日目に復活されたのです。そして、主イエスと弟子たちが多くの時間を過ごされたガリラヤで、復活された主イエスは11人の弟子たちがお会いになったのです。十二弟子の一人、主イエスを引き渡したイスカリオテが自ら命を絶ってしまったためにこの時、弟子たちは11人になっていたのです。おそらくこの時が、弟子たちの目に見えるお姿でいてくださった最後の時であったと思われます。この時、主イエスは目に見えるお姿において、地上に住む者たちに別れをお告げになったのです。しかし、主イエスと弟子たちは、涙を流しながら別れを惜しんだのはありません。

 

 主イエスはおっしゃいました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」。ここで主イエスは宣言をなさっているのです。ご自分の権威を宣言されているのです。天、そして地、すべての世界、すべての場所、すべての時において、主イエスは父なる神から支配者としての地位と力と権威を授かったと宣言されたのです。ここで言う支配とは、権威をふるって威張っているということではありません。この権能とは、天においても地においても、神の御心を行う権能、力のことです。しかも、神の御心とは、私どもを憐れみ、私どもが救われることを求める御心です。すなわち、父なる神の権能を授かっているとは、地上に生きる私どもの救いのために、全知全能の神の力をもって臨んでくださるということです。

 

 その権能を授かった主イエスが、弟子たちに、そして、この弟子たちから信仰を受け継ぐキリスト者、すなわち、私どもすべてのキリストの弟子たちに、こう命令を出されるのです。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」すべての人をキリストの弟子にしなさい。彼らにバプテスマを授けなさい。要するに伝道しなさいとおっしゃるのです。

 

 ここで主イエスは、「あなたがたは行って」とおっしゃっています。このあなたがたとは、11人の弟子たちです。もうすぐ、もう一人加えられて、12人になり、パウロも加わって、「使徒」と呼ばれるようになる人たちです。使徒は、初代教会の指導者たちです。ですから、「あなたがたは」という部分は、「教会は」と言い換えられるのです。教会を代表する使徒たちは全世界に出て行ったのです。キリストの恵みの支配を行うためです。

 

 他のものには出来ないこと、教会でなければ出来ないことが、ここで言われているのです。主イエスが権能をもって、地上で果たそうとされている神の御心による業、つまり救いの御業を、教会が行うということです。教会は、神の業を行うのです。

 

 神が、その救いの業を、主イエス・キリストの力をもって行おうとする時、どうしても、教会のはたらきを必要となさったのです。教会にそのはたらきをするようにとお命じになったのです。

 

 ここで言われている教会の業は、具体的に言われています。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」主イエスはそうお命じになっているのです。弟子とは、師匠、先生に学んで生きる者のことです。そして、主イエスの弟子になる上で重要なことは、主イエスを自分の救い主と告白して、バプテスマを受けることです。ですから、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け」と言われているのです。

 

 キリスト者となることは、ここで言われているように、主イエスの弟子となることです。主イエスに倣い、主イエスから学んで生きるのです。同時に、主イエスのもとで、お仕えするのです。主イエスがお命じになったことを行うのです。その主イエスの弟子である私どもに、ここで、主イエスは「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授けなさい。」との「伝道の大命令」を出されているのです。

 

 教会でバプテスマ式を行う時、この主イエスの「伝道の大命令」が読まれることがあります。それは、教会が勝手にバプテスマを授けているのではなく、父なる神からの権能を授かった主イエスがお命じになった故に、それに従って、バプテスマを授け、新しい主イエスの弟子を生み出すからです。

そして、主イエスはこうもおっしゃいました。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」バプテスマを授けた人には、大切なこと伝え、それをすべて守るように教えなければならないのです。伝授しなければならないのです。ある意味、教育しなければならないのです。どの道でもそうです。弟子となったら、一人前になるために、修行しなければなりません。教育を受けなければならないのです。下積みが必要です。キリストの弟子もキリストが信仰の先輩たちに教えられたことをすべて守れるように訓練してもらうのです。

 

 主イエスは最後にこうおっしゃいました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」あなたがたの目には見えなくなるが、いつも、「あなたと」ではなく、「あなたがたと」、すなわち、教会と共にいるとお約束してくださったのです。世の終わりまで、キリストは権能に基づく御業を地上で、私どもと、教会と共にしてくださるのです。

本日教会学校では、エレミヤ書 第1章7、8節の言葉を頂き、伊藤栄一兄が説教してくれました。エレミヤが預言者として、神に召し出される記事の中の言葉です。こうです。「7 しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。8 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す』と主は言われた。」 ここでも、主なる神は、エレミヤと共にいると約束してくださいました。エレミヤにとって、この言葉は、どんなに心強かったことでしょう。そして、本日の記事の中で、主イエスが共にいると言ってくださったことに、弟子たちも大いに励まされたことと思います。

 

 主イエスは私どもと共にいて、私どもの伝道の業をも導いてくださるのです。私どもも、主イエスのこの言葉に大いなる励ましと勇気をいただけるのです。どんな時も、私どもは一人ではないのです。主イエスが共にいてくださるのです。

 

 ところで、復活された主イエスが天に昇られた時から、再臨の時、再び目に見えるかたちで主イエスが再び地上に来られると時までを、「教会の時」と言うことがあります。教会が主イエスの大伝道命令に従って、伝道を続ける時です。ですから、「教会の時」は「伝道の時」とも言えるのです。

 

 本日の説教題を、「伝道・真の救いを宣(の)べ伝える」と致しました。伝道は、単に教会員を増やすために行うのではありません。もちろん、新しい教会員が与えられ、教会の信仰を受け継いでくれる方を育てていくことは大切なことです。それが出来ないと、教会の存続が危うくなってしまいます。そうだからと言って、教会員数、数ばかり気にしていると、教会がしっかり伝えなければならないことを疎(おろそ)かにしてしまいます。キリストの弟子になるということは、真の救いを頂くことでもあります。主イエス・キリストが十字架で自分の罪を償って下さった確信して、罪赦され、真の救いに与ることです。それがキリストの弟子になるということの一つの大切な意味です。それによって、新しい命に生き始めるのです。

 

 また、数という結果は大切ですが、伝道において、数ばかり気にしてはならないのは、数に一喜一憂してはならないのは、伝道はキリストの弟子一人一人が担うべき業である以前に、そして、各個教会の担うべき業である以前に、伝道は神の業であるからです。キリストの体なる教会の業だからです。神の業、キリストの体なる教会の業であるということは、業の主体は、父なる神であり、主イエス・キリストだからです。ですから、誤解を恐れず申せば、私どもがその伝道の結果に責任を負うというのは、おこがましいことなのです。伝道は私どもが主体になってやっていることではないからです。

 

 また、私どもが物事を見る時、どうしても、短い時間でしか見られません。しかも、せっかちに結果を出そうとします。私どもにとって、長い時間も、神にとっては短い時間なのです。そのような短い時間で物事を判断してはならないのです。その意味で、キリスト教会2000年の歴史から学ぶことは大切だと思います。2000年を振り返って見ると、神は私どもの思いや考えを越えて大いなる業を行ってくださっているからです。大伝道命令は、この2000年の間に確かに実行されてきているのです。

私どもは、神の業、教会の業に参与させていただいているのです。私ども一人一人が出来ることは小さいですが、私どもは伝道、真の救いを宣(の)べ伝える業の一部に加えていただいているのです。これはとても名誉なことであり、私どもの生きがいともなっています。チームで戦うスポーツには、皆と心を合わせ、一致しなければならないという難しさがあります。しかし、良い結果を出した時には、個人スポーツでは得られない喜びがあると聞きます。また楽器の演奏も、オーケストラなどのように、一緒に演奏することで得られる喜びは、個人の演奏とは違ったものがあると聞きます。伝道もそうなのです。父なる神と主イエスのリーダーシップに従って、皆で力を合わせて伝道するのです。私どもは担うのは一部ですが、それはとても大切な部分なのです。そして、神の大きな御業が実現していくのです。神の業である伝道に私どもが参与させていただく喜びはそこにあります。

また、幼い頃、皆さんは親や大人のしていることのお手伝いをさせてもらったことがあると思います。幼い子に出来ることは、簡単なこと小さなことです。しかし、ちょっとしたとでもさせてもらうことは、幼い子にとってとても嬉しいことです。自分でも少しは手伝いができたという喜びを味わうことが出来ます。ましてや、親や大人がそのことを褒(ほ)めてくれたら、その喜びは益々大きくなります。父なる神は、そして、主イエスは、私どもの小さな伝道のはたらきを心から喜んでくださいます。そして、良くやったと褒(ほ)めてくださるのです。

 

主イエスは私ども一人一人に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とおっしぇってくださっています。この主イエスのご命令に共に従ってまいりましょう。

 

祈ります。

 

私ども救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、私どもの罪を赦し、あなたの伝道という御業に加えてくださいます。私どもは、小さい、弱い者ですが、あなたが、共にいて、私どもをお用い下さいます。感謝致します。どうぞ、あなたの御栄のために、自分の出来ることを精一杯なしていくことが出来ますように、私ども一人一人をこれからも、導き、お守り下さい。主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

2015年10月11日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第14章15節~17節

 

 15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 

「あなたは神の霊に守られている」

 

 本日も、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。ヨハネの手紙 三 15節の言葉です。「あなたに平和があるように。」

 

 ご一緒にヨハネによる福音書の言葉を聴いています。本日は第14章15節から17節まで朗読して頂きました。いよいよ、主イエスと弟子たちの別れの時が近づいています。主イエスは、ずっと弟子たちにお語りになっています。そして、15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」とおっしゃいました。重い言葉です。ここで、主イエスはわたしの掟を守りなさいとおっしゃっているのではありません。掟を守るように促しているのでも、勧めているのでもないのです。あなたがたはわたしの掟を守る、とはっきりおっしゃっているのです。断定しているのです。あなたがたがわたしを愛しているならば、という条件付きですが、はっきりおっしゃるのです。主イエスがここで、「あなたがたがは、わたしを愛しているならば・・・」とおっしゃっているのは弟子たちです。主イエスの弟子、主イエスを師、先生として尊敬しています。しかも、それだけではありあません。主イエスをメシア、救い主と信じているのです。そして、彼らは旅から旅を続け、神の国の宣(の)べ伝え、人々を癒(いや)しておられる主イエスにずっと従って来ているのです。そのような弟子たちですから、彼らが主イエスを愛しているのは当然のことでしょう。そうなると、これも当然のごとく、「あなたがた、弟子たちはわたし、主イエスの掟を守る」ことになるのです。では、ここで主イエスがおっしゃっている掟とは、どのような掟でしょうか。まず思い浮かぶのは、第14章の前の第13章、その34節で、主イエスはこうおっしゃっていました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」そうです。ここで、主イエスは弟子たちに、あなたがたは、当然、わたしのことを愛しているでしょう。だから、当然、あなたがたは、わたしの新しい掟、互いに愛し合いなさいとの掟も守る。そのように言い切っておられると、聞くことが出来ます。

 

 私どもは、このように毎週礼拝を捧げ、また、週日の集会にも出席して、信仰生活を送っています。そして、普段の生活の中でも、祈り、聖書の言葉を聴き、あなたを賛美しています。そのように、神から頂いた信仰を大切にし、日々過ごしています。信仰を生きています。その信仰については、いろいろな表現ができます。その一つ、キリスト信仰とは、何かと問われれば、こう言えるでしょう。キリスト信仰の中核にはキリストを愛することがある。私どもキリスト者には、キリストを愛するという志があると言えるでしょう。

 

 私どもキリスト者は、本日の聖書箇所で主イエスの言葉をお聴きしている弟子たちの信仰の子孫です。私どもは弟子たちの信仰を受け継いでいる者です。すなわち、私どもも、キリストの弟子なのです。ですから、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」も、私どもに向けて語られた言葉でもあります。あなたがたはわたしを愛しているならば、あなたがたはわたしを愛している弟子ならば、キリスト者ならば、あなたがたはわたしの掟を守る。互いに愛し合いなさいとのわたしの掟を守る。それは、当然のことだ。そのようにおっしゃっているのです。

 

 初めに、この言葉は重い、と申しました。そして、主イエスはこれを当然のこととして語っておられると申しました。ということは、信仰者であれば、いいえ、わたしはそうではありません、などとは言えないのです。信仰者であれば、キリストを愛しているはずで、いやいや、わたしはまだまだあなたを愛していませんなどとは、言えないのです。キリスト者となるために、私どもは信仰告白をし、バプテスマを受けます。信仰告白は、ある意味、主イエスへの愛の告白です。そして、皆の前で主イエスの弟子となることを誓うことです。

ところで、キリスト教の結婚式では、夫婦の誓約をします。その際、私は結婚するお二人にこう訊(き)きます。「何々さん、あなたは今、何々さんと結婚し、何々さんを夫、または、妻としようとしています。あなたはこの結婚が神のみ旨によるものであると確信しますか。」すると、新郎や新婦は、「はい、確信します。」と答えてもらいます。そこで、続けてこう訊きます。「あなたは神の教えに従って、夫、または妻の分を果たし、常に夫、または妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しい時も、いのちの日の限りあなたの夫、または妻に対して堅く節操を守ることを約束しますか。」すると、二人にはこう答えてもらいます。「はい、神と人との前で約束致します。」このようにして、誓約をしてもらいます。

キリスト者となる信仰告白も、これと同じと言えます。キリストへの愛を告白し、誓約を立てるのです。ですから、キリスト者がキリスト愛しているのは当然のことなのです。そして、そうであるなら、あなたがたは互いに愛し合うのも当然だ、と主イエスはおっしゃるのです。ここでは、言い訳は出来ないのです。自分はちょっと愛することが少ない、などとも言えないのです。どうも、主イエスの話は強引だ、と思われるかもしれません。しかし、結婚の誓いが大切にされるように、キリスト者の信仰告白における誓いもとても大切なものですから、ここで、主イエスがおっしゃっていることは繰り返し申しますように当然のことなのです。また、このようにして、主イエスは私どもを主イエスへの愛に招き、互いに助け合うこと、互いに労(いたわ)り、愛し合うことへと招いておられるとも言えるでしょう。主イエスからの愛の招きを、お断りする手はありません。そんなことをしたら、もったいないです。喜んで、お受けしましょう。

 

そして、主イエスはおっしゃいます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」主イエスはここで、聖霊を弟子たちに送ってくださるように、お願いしようとおっしゃってくださるのです。わたしを愛し、互いに愛し合うあなたがたに、聖霊を送って頂こうと、主イエスはおっしゃるのです。主イエスはもうすぐ捕えられてしまいます。十字架に架けられてしまいます。そののち、墓からご復活なさいます。しかし、しばらくすると、父なる神のもとへ帰られてしまうのです。弟子たちのいつまでも主イエスと一緒にいたいという気持ちとは違い、主イエスはいつまでも弟子たちの所にいられないのです。そこで、主イエスは主イエスに代わる別の弁護者である、御霊を、真理の霊である聖霊を、弟子たちに送ってくださるようにお願いしてくださるのです。こここでも、先ほども申しましたように、この主イエスの言葉は、側にいた弟子たちだけでなく、私どもキリストの弟子であるキリスト者一人一人にも向けられているのです。

 

主イエスの弟子たちは、漁師とか徴税人とかでした。漁師も徴税人も当時決して社会的地位は高くなかったでしょう。特に徴税人はユダヤの人々から嫌われていました。仲間を裏切って、ユダヤを支配していたローマの手先になっているということで、嫌われていました。徴税人はお金の計算や、お金の管理は上手だったでしょう。また、漁師は魚や船の扱いは得意だったでしょう。しかし、一庶民に違いありませんでした。その彼らが、仕事と、家族を置いて、主イエスに従ったのです。主イエスのお招きに素直にお応えし、従ったのです。この人は他の人とは違う、この人に従って行けば必ず良い事があると思ったでしょう。しかし、主イエスに従うために払った犠牲は決して小さくなかったことと思います。それまでの仕事や、家族を置いて、従ったのですから。彼らの中には、人生を主イエスに懸けるほどの思いをもって従った者も少なくなかったと思います。

 

そんな彼らにとって、主イエスとの別れが近づいているということは、大変なことでした。主イエスが自分たちを置いてどこかへ行ってしまう。とんでもないことだ、と思った者もいたでしょう。大きな犠牲を払って、あなたについて来たのに。人生を懸けて従って来たのに、どうしてくれるんだ、そう思った者もいたでしょう。

主イエスと一緒にいる時、彼らは、心強かったことと思います。湖の上で、風を叱って鎮められたかと思えば、悪霊に命じて人から追い出してしまわれる。ファリサイ派が、言いがかりをつけてきても、彼らの問題点を鋭く指摘し、彼らを退かせてしまう。弟子たちにとって、主イエスと一緒にいれば大丈夫という思いが強かったことと思います。しかし、その主イエスが自分たちを置いて、どこかへ行かれてしまう。それを聞いただけで、弟子たちの不安は募ったことと思います。

 

主イエスはそのような弟子たちに「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」とおっしゃってくださったのです。ここで主イエスは「別の弁護者」とおっしゃっています。ということは、元々の弁護者がいるのです。誰だか、もうお分かりだと思います。そう、主イエスです。主イエスは弟子たちの弁護者として、ここまで弟子たちを守って来てくれたのです。ファリサイ派の人々は、主イエスだけでなく、弟子たちのこともいろいろ非難しました。でも、主イエスはいつでも、弟子たちの弁護者として、弟子たちを守ってくださっていたのです。そのように、主イエスは弟子たちを常に守っていてくださったのです。

ここで、弁護者と訳されている言葉は、聖書によって、いろいろ訳されています。助け主、慰むる者などなどです。そして、元のギリシャ語のそもそもの意味は、「呼ばれて傍(かたわ)らにいる者」です。助けて欲しいから呼ぶのです。すると、傍(かたわ)らに来てくれるのです。そうして、助け、慰めてくれる人です。

 

残念ながら、別の弁護者である聖霊は、目に見えません。しかし、どうでしょう。私どもは、目に見えない神を信じています。それだけでなく、父なる神が私どもを愛し、お守りくださっていることを信じています。私どもにとって、父なる神は目には見えませんが、その神からいただいた信仰によって、父なる神を信じています。信頼しています。それによって、私どもは、大きな慰めと平安を頂いています。主イエスはここで、その父なる神の霊である聖霊を、主イエスに代わる弁護者、助け主である聖霊を送ってくださるように、父なる神に直々にお願いしてくださるとおっしゃっているのです。

 主イエスは、さらにこうおっしゃいます。「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」。今日注目したい言葉は、終わりの部分です。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」。聖霊が私どもと共にいてくださるということです。

 

 先週も申しましたように、聖書では、父なる神が共にいてくださるということが繰り返し言われています。主なる神は、モーセにも、モーセの後継者のヨシュアにも、そして、先週も申しましたように、預言者エレミヤにも、一緒にいると言ってくださり、一人一人を慰め励ましてくださいました。そして、主イエスも、マタイによる福音書の終わりで、あなたがたと共にいると約束してくださっています。そして、今日与えられた聖書の中で、主イエスに代わって来て下さる弁護者である聖霊も私どもと一緒にいてくださると約束してくださっているのです。

 

キリスト教会の大切な教義に三位一体があります。父なる神も、御子主イエスも、御霊、聖霊も、同じ一人の神であるという教義です。私どもの常識では理解できませんが、大切な、キリスト教会の信仰の根幹をなす教義です。そこから言えば、主イエスに代わって来てくださる聖霊は、主イエスご自身と何ら変わりないのです。別の弁護者である聖霊が一緒にいて下さるという事は、主イエスご自身が一緒にいてくださることと、何ら変わりないのです。このようにして、父なる神も、御子イエスも、聖霊も、いつまでも、私どもと一緒にいて、私どもを慰め、守っていてくださるのです。何と感謝なことでしょう。これからも、共に父子聖霊なる神に従ってまいりましょう。お祈りをいたします。

 

私どもの父子聖霊なる神よ。あなたの御子主イエスが私どもに大いなる約束をしてくださいました。御子に代わる弁護者であり、真理の霊である聖霊をお送りくださいますことを感謝いたします。あなたが、御子が、そして、御霊がいつもわたくしどもと共にいて、私どもを弁護し、助け、慰めて下さいますことを感謝致します。どうぞ、いつも、あなたを、御子を、御霊をほめたたえ、従う者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

2015年10月25日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

ヨハネによる福音書 第14章18節~24節

 

 18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

 

「いつまでも共にいてくださる父なる神と御子主イエス」

 

 本日も、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。ユダの手紙 2節の言葉です。「憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」

 ご一緒にヨハネによる福音書の言葉を聴いています。主イエスと弟子たちの別れの時が近づいています。本日の箇所を含むこれらの主イエスの言葉は、訣別説教とも言われます。弟子たちとの別れの前の説教ということです。

 

 本日の箇所で、主イエスはこうおっしゃいます。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。みなしご、孤児です。親のいない子どもです。もちろん、ここでは、比喩、譬えとして「みなしご」と言われています。主イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたをみなしごにはしておかない。」とおしゃっているのです。この時、弟子たちは主イエスの言葉から、主イエスとの別れが近いことを察しています。そして、不安になっています。主イエスに置いていかれる。ここまで、一所懸命ついて来た主イエス。その主イエスに、突然、置いていかれるということで、不安になっていたのです。まさに、親のいないみなしごのように、自分たちはなってしまうと、心細く感じていたのです。主イエスはそのような弟子たちに、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」と言ってくださったのです。そして、「あなたがたのところに戻って来る」。そうおっしゃったのです。主イエスはもうすぐ捕えられ、十字架につけられ、殺されてしまいます。弟子たちは、絶望の中に投げ込まれてしまいます。他のものは捨て、一所懸命主イエスを慕ってついて来た。唯一の頼みの綱、希望である主イエスが殺されてしまう。これ以上の悲劇はないとも言えるでしょう。まさに、みなしごです。いつも側にいてくれて、頼りにしてきた親のような先生が、主が突然いなくなるのです。その後、初代教会の指導者となる弟子たちですが、ここで「みなしご」に譬えられるように、まだまだ幼かったのです。主イエスがいない世界など考えられなかったのです。しかし、主イエスは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」と、不安に震える弟子たちに約束してくださったのです。わたしが殺され、一時的には、みなしごのようになるだろう、しかし、決してそのままになしておかないよとおっしゃってくださるのです。復活して、「あなたがたのところに戻って来る」と約束してくださっているのです。事実、主イエスは復活されて、弟子たちの前に現れてくださいました。

 

 私どもも、この時の弟子たちのように、不安になり、どうしようもなくなります。そして、主イエスが十字架につけられるように、何よりも頼りにしてきた人を、心の支えにしてきた人を失い、立ち上がれないほどの悲しみに襲われます。私どもの人生において、厳しい試練は突然やって来て、私どもを激しく打ちのめします。そして、多くの場合、そこで失ったものは二度と戻って来ないでしょう。しかし、主イエスはそのような私どものもとに来てくださるのです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。私どもの慰め主である主イエスは、悲しみに打ちひしがれる私どもの側に戻ってきてくださり、そこにいつまでも居て下さるのです。大きな悲しみは決して癒えることはないでしょう。しかし、主イエスはこの時の弟子たちを憐れんで、みなしごにしないと約束してくださったように、私どもの傍らにいつまでも一緒にいてくださるのです。

 

 繰り返し申します。ハイデルベルク信仰問答の最初の質問は、「生きる時も、死ぬ時も、あなたの唯一の慰めは何ですか。」というものです。そして、答えの要点は、「生きる時も、死ぬ時も、わたしの唯一の慰めは、わたしが主イエスのものであること」です。私どものすべての罪を十字架で償ってくださった主イエスは、罪赦され、自由になった私どもをご自分のもの、ご自分の大切な存在としてくださるのです。それは、生きている時も、死ぬ時も変わることのない真理なのです。それこそが、私どもの唯一の慰めです。この世のものはすべて変わっていきます。自分の命も、愛して止まない大切な人の地上の命も、限りある命です。変わらないものはなく、失われないものはありません。その中にあって、いつまでも変わることのない真理、いつまでも変わることのない唯一の慰め、それは、このわたしが主イエスのものであるということです。主イエスはご自身のものである私どもを、決して「をみなしごにはしておかない」のです。私どものところに戻って来てくださるのです。

 

 先週は伝道礼拝でした。渡邊さゆり先生がヨハネによる福音書 第3章16節を説教してくださいました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。事前に、先生は求道者の方向けに、まだバプテスマを受けていない方のために、その方々が決心してバプテスマに導かれるように、説教してくださるとおっしゃっていました。まさに、おっしゃった主旨にふさわしい説教をしてくださいました。ただし、感銘を受けたのは、求道者の方たちだけではありませんでした。既に信仰告白をし、バプテスマを受けた私どもも、先生の説教から、神の愛の大きさを再認識させられました。神が約束してくださっている永遠の命の素晴らしさ、そこにある大きな希望を見出すことが出来ました。感謝でした。

 

そして、今日、私どもは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」との主イエスのみ言葉を頂いています。そこから、今日のみ言葉は、先週のみ言葉に裏打ちされているように思えます。すなわち、ヨハネによる福音書 第3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とのみ言葉を信じ、受け入れるなら、そこで神の大きな大きな愛を知ったなら、本日の主イエスのお言葉、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」とのみ言葉に流れている神の御子主イエスの大きな愛も分かる。そして、そうおっしゃる主イエスに心から信頼をおいて、このお言葉を信じることが出来ると思います。

 

最近、皆さんの中には、佐藤久美子姉のお子さんの友信くん、八か月になった友信くんに会えることが、主日礼拝に出席する楽しみの一つだという方が多いのではないでしょうか。友信くんはみんなに笑顔を振りまいてくれて、会うたびに成長していく姿を見せてくれています。友信くんを見ていると、思わず顔が緩んで、こちらまで笑顔になってしまいます。久美子姉が抱かせてくださるので、毎週、何人もの方が友信くんを抱かせてもらっています。友信くんは、みんなから可愛がられ、愛されています。

 

わたしも幼い頃の写真を見ますと、両親は勿論、近所の方、親戚の方に抱いてもらっている写真が何枚もあります。幼い時の写真なので、全く記憶にありません。でも、写真を見るたびに、自分も周りの方々に可愛がってもらって、愛されて、育ってきたのだなと思います。主イエスの弟子たちも、同じです。彼らは最初から教会の指導者だったわけではありません。まるで幼児のように、育てもらわなければならない、か弱い存在でした。そのような弟子たちに主イエスは、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」とおっしゃってくださったのです。弟子たちも、主イエスの大きな愛と慰めが必要だったのです。そして、常に主イエスの大きな愛に包んで頂いていたのです。そして、今、主イエスは私どもにも、同じように「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」とおっしゃって下さり、私どもの傍らにいてくださるのです。

 

 主イエスはさらにおっしゃいます。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」。世は、主イエスを救い主と信じない世の多くの人たちは、主イエスを見なくなるのです。そうすると、益々、主イエスの真実の姿が見えなくなってしまいます。しかし、あなたがたは主イエスを見失うことはない、弟子たち代表される私どもは、主イエスを救い主として受け入れ、従っているので、主イエスを見失うことはないのです。

 

 ところで、私どもが今捧げている礼拝は、第一には礼拝される神のためのものです。神がほめたたえられることが、礼拝の第一の目的です。そこを、第一としなくなったら、礼拝は礼拝でなくなってしまいます。しかし、礼拝の目的はそれだけではありません。礼拝が与えてくれる実り、果実はそれだけではありません。言い換えると、礼拝がもたらしてくれる効用、薬の効用に似た、礼拝の効用も大事だということです。それは、礼拝を捧げ続けることによって、私どもが主イエスを見失ってしまう危険から救われるということです。共に聖書のみ言葉を聴き、共に賛美を捧げ、共に祈ることによって、礼拝をお捧げすることによって、父なる神を、主イエスを見続けることが出来るのです。心を他のものに向けてしまうと、主イエスを見ようとしないと、もうそれだけで、私どもは主イエスが見えなくなってしまいます。主イエスを見失ってしまいます。しかし、このように、週の初めの時間をお捧げして、皆と共に、心を合わせて礼拝をお捧げすることで、肉体の目では見えないけれども、私どもは心の真ん中で主イエスを見続けることが出来るのです。それが、真の礼拝であり、父なる神も御子主イエスも、私どもにそのような礼拝を求めておられるのです。「世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」。まさに、その通りです。

 

 それに合わせて、主イエスはこうおっしゃいます。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。主イエスは、もうすぐ十字架につけられ、殺されます。一時(いっとき)、陰府(よみ)に行かれますが、三日目に復活されます。復活してくださいます。そして、主イエスは今、神の右の座におられます。そのように、主イエスは天地創造の初めから、今この時も生きておられるのです。そして、主イエスが生きておられることは、主イエスだけに留まることではないと、ここでおっしゃっているのです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。主イエスが生きておられることによって、その恩恵で、私どもも生きることになるのだとおっしゃっています。主イエスが生きておられることは、私どもが生きることにもつながっているのです。ただし、ここで私どもが生きると言われているのは、地上の命だけでなく、永遠の命も含めてのことです。永遠の命、いつまでも父なるかみが一緒にいてくださると約束してくださっているところの永遠の命です。決して神から失われることがなく、かの日には、主イエスのように復活の体を頂ける命です。あなたはその命に生きているのだと主イエスはおっしゃっているのです。それが、ここで言われている「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」ということです。

 

 教会改革者ルターは、この言葉を携えていって、愛する人の死を悲しんでいる人たちや、死に臨んでいる人たち、そのような中にあった、悲しんでいる多くの人たちを慰めたそうです。目の前の現実は厳しい人たちばかりです。しかし、この言葉を携えて訪問してくれたルターに、多くの人が慰められ、永遠の命の希望に生かされ、最後には静かに地上の死を迎えることが出来たそうです。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。私どもも、主イエスと共に、永遠の命を生きてまいりましょう。主イエスと父なる神は、いつまでも、私どもと共にいて、私どもを愛し、慰め、いたわってくださいます。

 

 祈りを捧げます。

 

私どもの救い主、主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの御子主イエスが私どもに大いなる約束をしてくださいました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。あなたは、私どもを罪からお救い下さいました。そして、私どもを救い上げてくださいました。しかも、不安と恐れの中にあるわたくしどもの側にいつもいてくださり、慰めと励ましを与えてくださいます。感謝致します。どうぞ、主イエスのこのお約束を心に刻み、あなたと御子が与えて下さる希望に常に生きる者とさせてください。どうぞ、いつも、あなたを、御子をほめたたえ、従う者とさせてください。主のみ名によって祈ります。アーメン。

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