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2015年7月26日 日本バプテスト厚木教会 主日礼拝

 

【説教】

ヨハネによる福音書 第13章31節~35節

 

31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 

「主イエスがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 

 本日も、このように皆さんと共に主の日の礼拝をお捧げ出来ますお恵みを感謝しています。本日も、聖書の祝福の言葉を皆さんにお贈りして、説教を始めます。テモテへの手紙 二 第4章22節です。「主があなたの霊と共にいてくださるように。恵みがあなたがたと共にあるように」。

 

 ヨハネによる福音書の言葉をご一緒に聞き続けています。第13章の言葉を聞き続けています。第13章はこういう言葉で始まっていました。「1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」そういう言葉で始まっていました。ヨハネによる福音書によると、ここで言われている過越祭の日に、過越祭の羊が屠(ほふ)られるその時刻に、神の子羊、主イエスは十字架刑に処せられるのです。その時が近づいていたのです。それは、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、・・・」との言葉でも言われていました。そして、そのことを悟られた主イエスはどうされたのでしょう。世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたのです。ご自分が父なる神のもとへ帰る時が迫っていることを悟られて、この世に残していく弟子たち、まだまだ主イエスのことを悟れない弟子たちを愛し、この上なく愛し抜かれたのです。そのように、この13章では、そして、このあとの主イエスは、今まで以上に弟子たちへの愛を貫いておられます。その主イエスの愛は、弟子たち個人はもちろん、この弟子たちが中心になって形成される教会、信仰共同体に連なる私ども一人一人に向けられていました。すなわち、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」のは、この時に始まって、キリストの弟子である私ども及んでいるのです。私どもも、十二弟子のように主イエスにこの上なく愛し抜かれているのです。このように、今、主の日の礼拝に私ども一人一人が招かれ、出席さえて頂いていることこそ何よりの証拠です。何という感謝でしょう。

 

 第13章では、主イエスが弟子たち十二人の足を洗って下さいます。そして、それは互いに仕えあうお手本であったことが告げられます。そして、前回の箇所では、イスカリオテのユダの裏切りが予告され、サタンがユダの中に入って行きました。そして、ユダは裏切りを実行するために、一人そこから出て行くのです。夜の闇の中に出て行くのです。

 

 本日の箇所はこう始まっています。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。』」ユダが出て行くということは、主イエスを捕える手はずが進んでいったということです。それは、主イエスの十字架の準備が着々と進められているということです。主イエスの十字架がまさに現実となろうとしているのです。そのような時に主イエスは「今や、人の子は栄光を受けた。」とおっしゃいました。この言葉は、「今や、人の子は栄光を受ける」とも訳すことの出来る言葉です。「人の子」とは、主イエスがご自分のことをおっしゃる言葉です。ここでの栄光とは、十字架のことを指しています。十字架は、これから起こることです。ですから、「人の子はこれから十字架という栄光を受ける」という意味で、「今や、人の子は栄光を受ける。」とおっしゃったのです。しかもそれは、確実、百パーセント確実に実現することとして、既に起こった出来事のように、過去形で、すなわち、「今や、人の子は栄光を受けた。」と新共同訳のように訳されることもあるのです。

 

それにしても、主イエスが栄光をお受けになることが、十字架につけられること、十字架につけられ、苦しみ悶(もだ)え、死ぬことであるというのは、驚きであり、私どもの常識では受け入れ難いことです。しかし、ヨハネによる福音書で、主イエスはそのようにおっしゃっていて、福音書記者もそのように伝えているのです。

 

私どもの常識で言えば、十字架は死そのもの、滅びそのものです。栄光とは真逆にあるように思われます。世の中で栄誉ある賞を頂くとかいう場合、それは、最も晴れがましいことです。それに対して、十字架は、ユダヤ人にとっては呪(のろ)いであり、誰にとっても、最も忌(い)むべきものです。その十字架にかけられることが、主イエスにとって栄光をお受けになることだと言うのです。

 

主イエスの十字架は、神から完全に見捨てられるという、誰も経験したことのない苦しみです。なぜ、それほどまでに主イエスお一人が苦しまなければならなかったのか。それは、主イエスが私どもの罪を私どもに代わって償うためでした。神と御子はそのようになさって、真実の愛を貫いてくださったのです。「神は愛である(ヨハネの手紙 一 第4章8、16節)」と聖書は言います。その愛が十字架によって表されたのです。その神が真のお姿を表してくださったのが十字架なのです。一方、神に最もふさわしいことは、栄光をお受けになることです。天地創造の神、そして、全知全能の神がお受けになるのに最もふさわしいのは栄光です。このように、愛の神に最もふさわしいのは、十字架であり、栄光なのです。このように、私どもにとって、十字架と栄光はかけ離れたことのように思えますが、主なる神において、十字架と栄光は一体なのです。

 

さて、32節で主イエスはこうおっしゃいます。「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」そう主イエスはおっしゃるのです。主イエスは十字架によって栄光をお受けになり、それによって、父なる神も栄光をお受けになるのです。父なる神も、御子が十字架におつきになることで、痛み苦しまれたことでしょう。

 

教会のある姉が、子どもが病気やけがで苦しんでいる時、出来るなら自分が代わってあげたいと何度思ったかしれないとおっしゃっています。母親の深い愛を思います。そこから思うに、主なる神こそ愛の神です。父なる神は御子の十字架の苦しみを御子以上に苦しまれたに違いありません。主なる神はそのようにして栄光をお受けになったのです。何と有難いことでしょう。

 

さらに、「神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」のです。主なる神は、私どものためにお一人で十字架を負ってくださる人の子、御子主イエスに、最もふさわしい栄光を授けられるのです。それは、将来のことではなく、すぐにです。まさに、主イエスの十字架それこそが栄光なのです。そして、主イエスを救い主と信じ、救われた者、新しく生まれた者は、すなわち、私どもは、その主イエスの栄光の下に置かれるのです。そこは、地上の栄光とは違って、天の栄光に満ちていますから、そして、愛の神の栄光に満ちていますから、憐れみ満ち、慰めに満ちているのです。

 

続く33節で、主イエスは、地上の私どもと別れなければならないことを告げられます。そして、主イエスはお一人で十字架への道を進んで行かれることを告げられるのです。誰も、主イエスについていくことは出来ないのです。こうおっしゃっています。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」ここで、ユダヤ人たちに言ったようにとは、既に読みましたヨハネによる福音書 第7章33節以下のことをおっしゃっています。

 

そうです。弟子たちは主イエスにずっとついて来ましたが、すべての人の罪を償う十字架の道は、主イエスお一人だけしか行けないのです。しかも、救い主の使命を果たすため、愛する神から見捨てられ、お独りで、まさに孤独になって、苦しまなければならなかったのです。私どもが主なる神に背いた罪を償い、ただただ、私どもを救うためでした。

 

そして、本日の聖書箇所の最後の34節35節で、主イエスは弟子たちに、私どもに大切な掟を与えてくださるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」新しい掟とおっしゃっているけれども、一瞬、どこが新しいのだとうかと思ってしまいます。どこも新しくないと思ってしまいます。しかし、そんなことはありません。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とおっしゃるのです。本日最初に確認しましたように、この第13章は、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」という言葉で始まっていました。主イエスの溢れるほどの愛、尽きることのない愛をいただいて、極め付けの愛をいただいて、それに基づいて、主イエスは「あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃっているのです。しかも、このあとすぐに、主イエスの究極の愛による十字架の出来事があるのです。あなたがたは、溢れるほどの愛を頂くのだから、互いに愛し合いなさいとおっしゃるのです。まさに、今までなかったことです。主イエスの愛の中にどっぷり浸(ひた)って、あなたがたも、互いの愛の中に浸(ひた)りなさいとおっしゃるのです。

 

しかも、ここで言われている愛は、敵を愛しなさいという究極の愛ではなく、互いに愛し合うことです。それは、決して小さな愛でではなく、教会を、信仰共同体を造り上げる愛なのです。互いに愛し合うことによって、教会を建て上げなさいということです。その意味で、新しいのです。新しい掟なのです。しかも、これは、私どもが幸いを頂くためのなくてはならない掟、大切な掟なのです。

 

しかも、35節で、主イエスはこうおっしゃいます。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」この言葉は、互いに愛し合うならば、それによってあなたがたはわたしの弟子すなわちキリスト者であることを、皆に知ってもらえるとも言い換えられます。私どもキリスト者の日頃の証しは、まず、主の日の礼拝を大切にすることです。それに合わせて、ここでは、キリスト者の証しは、互いに愛し合うことだとおっしゃるのです。そうです。私どもの主であり、先生である主イエスに倣うこと、すなわち、互いに愛し合うことが、何よりもの信仰者の証しとなるとおっしゃってくださるのです。

 

伝道することには私どものキリスト教会の使命、そして、キリスト者の使命です。貴い任務です。それは、ちらしを配ること、誰かを誘うことももちろん、ここで言われているように、私どもが互いに愛し合い、キリストの弟子であることを証しし、することです。それは自(おの)ずと、人々に知られるようになるのです。それこそが、良き伝道となるのです。人々を教会のお招きするのに最もふさわしい仕方の一つです。

 

さて、ここで、主イエスが勧めておられる「互いに愛し合う」とは、どういうことでしょうか。まずは、主イエスが弟子の足を洗われたことに倣い、互いに仕えあうことでしょう。互いに相手のために、仕えるのです。キリスト者であれば、互いのためにまず祈ることでしょう。そして、どちらかが、上に立つのではなく、主イエスに倣って、互いのために自分の出来ることをするのです。決して、無理することはありません。長続きしないからです。互いに愛し合うのは、地上に命のある限りです。夢中でやることではありません。それには、自分の思いを優先させることなく、立ち止まって、相手の気持ちを想像することが必要でしょう。泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶこと(ローマの信徒への手紙 第12章15節)です。

 

また、互いに愛し合うことは、第13章の主イエスに倣い、誰も排除しないことでしょう。主イエスを裏切るイスカリオテにさえ、主イエスは足を洗われました。ユダを除外するということを主イエスはなさいませんでした。

 

団体の中で、しばしば、貴ばれる人とそうでない人が出来てしまいます。社会的に地位のある人が貴ばれることばあります。そうでない人は、貴ばれないことがあります。貴ばれる人は、それなりに理由があって、よく気が利くとか、気配りが出来るということもあるかもしれません。また、疎(うと)んじられる人は、なかなか、他の人に合わせられないというこがあるかもしれません。しかし、そうだからと言って、貴ばれる人とそうでない人を区別することは、ふさわしいことではありません。そんなことが残念ながら、教会の中でも起こってしまうことがあります。

 

しかし、それは、主イエスのおっしゃる「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とのみ言葉にふさわしくありません。分け隔てすることなく、互いに愛し合うように、主イエスに倣ってそのようにするように、私どもは求められているのです。溢れる主イエスの愛をたっぷり受けて、私どもも、主イエスにそっくりとはいかないまでも、主イエスに似る者とさせていただきましょう。それが、相手にとってだけでなく、主なる神にとっても、御子主イエスにとっても、そして、私ども自身にとっても、この上ない幸いとなるのです。祈りを捧げます。

 

 私どもを愛して止まない救い主、イエス・キリストの父なる神よ。あなたの愛に、そして、あなたに遣わされ、私どもを愛し抜いてくださった主イエスの愛に、どっぷりと浸(ひた)らせてください。そこに留まらせてください。そして、私どもも、あなたに、そして御子に似て、愛に生きる者とさせてください。互いに愛し合い、教会を造りあげ、愛の証しを立てさせてください。どうぞ、常に私どもがキリストの香りを放つことができますように導いてください。どうぞ、サタンの誘惑に負けることのないように、いつもあなたの愛の中に私どもを引き戻してください。主の御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

2015年7月19日 日本バプテスト厚木教会 主日礼

 

【説教】

マタイによる福音書 第16章13節~19節

 

 13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。

19 わたしはあなたに天の国の鍵(かぎ)を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解(と)くことは、天上でも解(と)かれる。」

 

マタイによる福音書 第18章15節~20節

 

 15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解(と)くことは、天上でも解(と)かれる。19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

 

「 罪と戦う教会 ~ 教会とは何か ④ 」

                              

 本日も、皆さんとご一緒に主の日の礼拝をお捧げ出来ます事を感謝致しております。本日も、皆さんに聖書の祝福の言葉をお贈りして、説教を始めさせていただきます。テモテへの手紙 二 第1章2節の言葉です。「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。」

 

 「教会とは何か」をテーマにした説教を続けています。毎回いろいろな角度から、教会とは何なのかを、ご一緒に明らかにしてまいりたいと思っています。

 既に、マタイによる福音書 第16章の言葉は、繰り返し聞いてまいりました。これまで学びました18節に続く、19節に、こういう言葉があります。「わたしはあなたに天の国の鍵(かぎ)を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解(と)くことは、天上でも解(と)かれる。」

 

 ここでの、「わたし」とは、主イエスのことです。そして、「あなた」とは、ここで教会を代表しているペトロのことです。ここで、主イエスは、ペトロに、すなわち、教会に、天の国の鍵(かぎ)を授けられた、託(たく)されたのです。天の国の鍵(かぎ)とは、天の国の扉の鍵(かぎ)ということでしょう。そこで、私どもが鍵(かぎ)を誰かに託(たく)す場合のことを考えてみましょう。鍵(かぎ)は誰にでも託(たく)せるものではありません。たぶん最も信頼している人に託(たく)すでしょう。主イエスは教会を信頼してくださり、教会に鍵(かぎ)を与え、その鍵(かぎ)を用いて大切な仕事をするよう命じられたのです。ヨーロッパの伝統的な古い教会に行くと、鍵(かぎ)の絵、または鍵(かぎ)の彫刻を簡単に見つけることが出来るそうです。または、主イエスがペトロに鍵(かぎ)を渡している場面が描かれているそうです。

では、この鍵(かぎ)とは何を意味するのでしょう。この鍵(かぎ)の意味は、教会とは何かを考える上で、忘れてはならないことだと言われます。鍵(かぎ)には権能があるのです。権威と力があるのです。ですから、教会が主イエスから与えられた鍵(かぎ)を持っているとは、教会には特別な権能が与えられ、それによって果たすべき使命があるということです。その使命とは何でしょうか。

鍵(かぎ)の意味、そして、鍵(かぎ)の権能によって果たすべき役割、それらについて知るには、本日二番目に朗読して頂きました言葉も聞かなければなりません。特に18節の言葉です。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解(と)くことは、天上でも解(と)かれる。」ここには、「天の国の鍵(かぎ)」という言葉は出てきませんが、天の国鍵(かぎ)を用いるとはどういうことか、が言われています。

 

本日二番目の聖書箇所は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、」という言葉で始まっています。信仰の仲間が罪を犯す。その時、どうしたら良いのでしょうか。その時、皆のいる所で罪を糾弾するようなことはしないのです。そのようなことをして、自分の正義感を満足させるようなことは、およそ教会ではしてはならないことです。ですから、まず、二人だけで話すのです。相手を丁寧(ていねい)に諭(さと)すのです。「あなたのしたことは間違っている。早くその間違いを認めて、改めて欲しい。」と悔い改めを促し、求めるのです。もし、その言葉を受け入れてくれたら、失われかけていた信仰の兄弟を得たことになるのです。信仰の仲間が戻って来るのです。しかし、もし、聞き入れてくれなかったら、今度は二人か、三人、仲間を呼んで来て、その人を諭(さと)すのです。それは、一対一の場に、一人の証人を加え、客観性を増し、説得する者が独断や偏見によって諭(さと)そうとしているのではなく、福音の真理に基づいて忠告していることを示すのです。しかし、それでもうまくいかなかったら、「教会に申し出なさい」と主イエスはおっしゃるのです。それは、今日(こんにち)の教会で言えば、責任役員会に訴え出て、そこで決めなさいということになるかもしれません。ここで初めて教会と呼ばれる仲間全体の問題にしなさい、とおっしゃるのです。

 

 ただ、今日(きょう)私どもが考えたいのは、手続きのことではありません。私どもが今問題にしているのは、第18章18節で、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解(と)くことは、天上でも解(と)かれる。」と言われている中の、「つなぐ」とか、「解(と)く」と言われている鍵(かぎ)の意味です。教会には天の国の扉を開け閉めすることの出来る鍵(かぎ)が与えられているのです。それは、一人の人を天にしっかりと繋(つな)ぎ止めること、神にしっかりと繋(つな)ぎ止めることを意味する一方、一人の人を天から、神から、切り離してしまうことも出来ることを意味するのです。一人の人が神に繋(つな)ぎ止められるか、切り離されてしまうか、その決定は教会に与えられている、それを決定する権限は教会に与えられているということです。一人の人が救われるという素晴らしい出来事を宣言するのも、それとは反対に、一人の人が神から失われ、神から離れてしまったという重い判断をするのも、教会だということです。そう考えると、天の国の鍵(かぎ)を授けられているということは、とても素晴らしいことであると同時に、とても重いことであることが分かります。

 

 罪の問題というのは、そのように、最も恐ろしいこととなると、神から失われ、離れてしまうことなのです。

先日、聖書を読み祈る会で読みました主イエスの譬え話があります。百匹の羊の内、一匹が迷い出てしまい、九十九匹を残してでも一匹を見つけに行かなければならいとして、一所懸命捜し、連れ戻す譬え話です。それは、まさに、このマタイによる福音書 第18章で主イエスがおっしゃっている、罪を犯した信仰の仲間に対する対応を教えてくれている譬え話なのです。神から離れ、失われてしまいそうな、仲間に対して、教会はどうしたら良いのか、教会に連なる信仰の兄弟姉妹である私どもはどうしたら良いのかを、教えてくれているのです。信仰の仲間が、失われないように、取り戻されるようにと、教会は天の国の鍵(かぎ)を授けられていて、信仰の仲間が失われないためには、取り戻すためには、ひたすら祈り、その人に気付きを与えるために、労を惜しまないのです。

裁くことが教会の任務ではありません。罪に対しては毅然(きぜん)としながら、そこで妥協することなく、罪を犯した一人の人のために心を用い、その人が悔い改めて、神に立ち帰れるようにすることです。

 

既に、教会は死、死ぬことと戦う力を持つことを私どもは確認しました。教会の頭である主イエスが、墓から甦(よみがえ)ってくださり、死に勝利してくださったことにより、キリストの体なる教会は、死と戦う力を授かっているのです。そして、その死と切り離すことが出来ないのが、罪の問題です。教会はその罪とも戦うのです。罪の力が信仰の仲間の一人を奪い取って、連れ去ろうとする時、「待て!」と、その罪の手を押えて、もう一度信仰の仲間をもぎ取って来る戦いを教会はするのです。マタイによる福音書 第18章の本日与えられた箇所で、主イエスはそうするように、教会に、教会に連なる私どもに命じておられるのです。そのようにして、一人の人を天の国の扉の中に入れるのです。そのように、教会に授けられている天の国の鍵(かぎ)は、人を締め出すためではなく、何とかして、すべての人を天の国に招き入れるためにあるのです。そのために、主イエスは大切な鍵(かぎ)を教会に託(たく)されたのです。名誉なことであると共に、教会の責任、教会に連なる私どもの責任は重いのです。

 

 さらに主イエスは第18章19節20節で大切なことをおっしゃっています。こうです。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

 ここで、主イエスは大いなる約束をしてくださっています。二人で祈り求めるなら、その祈りを叶(かな)えてくださる。さらに、二人または三人が主イエスの名によって集まれば、その中に主イエスはいてくださるというのです。二人または三人でよいのです。何十人何百人いなくてはいけないとおっしゃってはいないのです。少なくてもよい、主イエスの名によって集まればよい、そうおっしゃるのです。主イエスが共にいてくださるのです。そこに教会があるのです。何と大いなる約束でしょう。

 

ここで、私どもに祈ることが出来ることを再確認させてくれます。私どもは、力なく弱いものです。しかし、祈ることが出来るのです。何にもまさる祈りという武器を持っているのです。罪に対して、充分に戦える武器である祈りを与えられているのです。教会はまさに祈りの力を結集する所です。深い力ある祈りが出来る教会を、神は、二人はたは三人が祈るところに与えてくださっているのです。

 

信仰の兄弟姉妹のために、執り成しの祈りをしてまいりましょう。一人の救いのために祈る姿こそ、教会の姿です。罪と戦う教会、罪に対して勝利を確信する教会がそこにあるのです。これは、主イエスから託(たく)された貴い務めです。天の国の鍵(かぎ)を授けられた教会で、信仰の兄弟姉妹のために、求道者の方のために、まだ、主イエスを知らない人のために、祈ってまいりましょう。すべての人が救いに与(あずか)れるよう、祈ってまいりましょう。

祈りを捧げます。

 

 私どもの救い主であり、教会の頭(かしら)である主イエス、その父なる神よ。私どもは、罪の誘惑に弱く、すぐに、あなたから離れてしまいそうになります。しかし、主イエスがそのような私どもを慈しみ、憐れんでいてくださいますことを感謝致します。そして、主イエスから天の国の鍵(かぎ)を授けられた教会が、私どもを罪から救い出すために戦ってくださいます。感謝致します。どうぞ、あなたから失われそうになる私どもを、あなたのもとに引き戻してください。そして、教会に連なる私どもも、信仰の仲間のために、執り成しの祈りを捧げ、仲間の救いのために、教会の罪との戦いを支える者とさせてください。どうか、罪に負けそうに思えても、救い主、主イエスを信じて、キリストを頭(かしら)とする教会を信じて、救いの希望を捨てることのないように、私どもをお導きお守りください。主の御名によって祈ります。アーメン。

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